義姫の諫言

 天正十八年二月十四日。




 甘い菓子も持たずに、二人の女性が北から下野にやって来た。


 もちろん場所は、あの内乱後伊達家の手により適当に修繕させた唐沢山城である。


「母上も愛も、この伊達政宗がそんなに信じられませぬか」

「信じられぬ」

「私は信じておりますが義母上様がどうしてもと」


 その城の主としてもう半年近くそこにいる男は、十人が見れば十通りの感想が出て来そうな顔で母と妻を出迎えた。

「下野の人間はずいぶんとたやすいな」

「どうやら北条が何もかも諦めたようでございまして」

「都合のいい敵もいるものだな」

「ええ、あまりにも都合が良すぎるのです。なればこそ大した雪もないのにかまけて徹底的に調べました」

 都合の良すぎる敵。都合の良すぎる環境。都合の良すぎる城。


「そして、瑕疵一つなかったと申すのか」

「ええ。まったくどうしても来て欲しくて来て欲しくてしようがないようでしてね。それにこちらをご覧ください」

 義姫に対し、政宗は二十二度半ほど頭を下げながら書状を渡す。


 署名には相模守の肩書があり、紛れもなく北条氏政のそれだった。




「下野の内乱を治めてくれて厚く御礼申し上げる、我が弟の無念を晴らしてくれて感謝している。今はお互い大敵を抱えており、手に手を取り合って大敵と戦うことが最重要事項である。また一部では佐野左衛門佐(氏忠)の横死に際して貴公が謀っていたと言う世迷言を漏らす者もあるが、我としてはその犯行は我々北条と伊達の仲たがいを目論む豊臣やその手先である上杉及び真田辺りの犯行であると見ている。よって出兵及び逗留についてはまったくもってとがめる要素はなきと判断し、互いの領国を守るに力を惜しまぬことを共に約す」




 ……で、書状の中身がこんなである。


 責任は完全に豊臣家に押し付け、伊達の侵略同然の行為を責める言葉は一つもない。何なら豊臣家を追い返したら下野を返せとも、佐野家はどうするんだとかも書いていない。適当に伊達家から誰か突っ込んで氏忠よろしく当主に仕立て上げても勝手だと言わんばかりの言い草であり、お人好しにもほどがある。


「これは偽書ではないのですか」

「七度改めました」

「どうせ今争えば共倒れゆえ、泣き寝入りしただけに過ぎませぬ。この大戦が終わりし後には、伊達の旗が下野に翻る事はなきと思いなさい」

「母上はずいぶんと柔弱ですな」

 政宗の挑発にも義姫は動じない。主君の母を饗応していた小十郎が目を丸くする中、義姫は真顔のまま政宗をにらみ返す。


「仮に下野を保持出来たまま豊臣家を追い返し、かつ北条からも下野の所有を完全に認められたとします。その後どうするのです?まさか佐竹を呑むとか申さぬでしょうね」

「その時はもう満足します。ただし下野はともかく会津など絶対にやらぬと言う約定を取り付けさせましてね」

「それができるのであれば誰も苦労はせぬ」

「できないでしょうね。この身をどうしても使いたくて使いたくてしょうがない者がいる限りは」

 息子が本気である事を感づけるほどには、母親は冷静だった。

 だがそれでもどうしても耳を貸せと言わんばかりに膝を進める。



「あなた様、義母上様、私にはわかりません」

「愛」

「ですがその何者かが旦那様を動かしている以上、私たちは無力だと思います」

「親や妻よりも、何より強大な権力者よりもか」

「ええ。もしその存在に会えれば目一杯問い詰めたいですけどね。できないでしょうけど」


 その義姫に割り込める程度には、愛姫も強い女だった。


「まあ今のところは嫌いですけど、好きになるかもしれません」


 —————何者かが政宗を引きずり込もうとしている。

 その何者かが本当に何者かわからない以上、今はただ単純に嫌悪する。だがわかってしまえばわからない。


「無節操だと思わぬか」

「侍の無節操は今に始まった事ではないでしょう。伊達はともかく上杉とて武田を仇敵としておきながら信玄が死ぬや手を結び、その少し前には北条と結び、今では目の仇にしていたらしい織田信長の後継の豊臣秀吉の部下となっております。無論個人的に貞節を捨てる気などございませぬが、もし伊達が雲散霧消したとしても私は秀吉に囲われるかもしれませぬ」

「もはや生娘でもあるまいに」

「義母上は何も知らぬのですか。徳川家康と言う男の趣味を」

「石部金吉だと聞いているが」

「既に五児の父なのにですか、人妻と言うか未亡人好きなのに」


 義姫は目をしばたたかせる。百姓上がりの成り上がりでその分だけその方向の欲望が強いはずの秀吉よりも大名の子どもであるはずの家康がそんなだと言うのは意外な一撃だった。

「それでわらわと戦っているつもりか」

「一応はそうです。しかし私はあくまでも旦那様のために物を述べているつもりです」

「政宗のためか……独眼竜とか言われておきながらとんでもない暴れ馬を乗りこなすなど至難の業よ。それこそあの北政所とか言う女傑でなければとても無理であろう」

「女傑にも善悪があります。家康の妻は悪の女傑です」

「それは家康にとって悪と言うだけであろう」

「いいえ、徳川全体にとって悪でした。亡くなる間際既に衰運の中にあった武田に徳川を売り渡そうとしたのです、そのための行動力はすさまじかったとか」


 愛姫とて正確にはわかっていないが、家康の正妻である築山殿がとんでもない悪女だったと言う事は伝わっている。いくら遠江から陸奥でも、十年も経てば話は伝わるし余計に増幅もされている。義姫自身気を配らなかった訳ではないが、眼前の悪童と目の前の敵対する家の方が大事だった。



「わかりました。二人ともこの城に留まられ、いざとなればこの身を討てばよろしい。この身を謀叛人として差し出せば伊達家の家名ぐらいは保たれましょう」


 結論を出すべき時を感じた政宗が口を開く。ゆっくりと、重々しいその声は大国の主のそれであり、決して浮ついた所はない。

 

「好きな事を」

「わかりました。ではさっそく今晩抱いて下さい」

「わかった」

 

 

 そしてその先の言葉により、愛姫と政宗は母親に勝利した。


 あまりにもまっすぐな愛の告白、まったくためらいのない返事。



「……小次郎だけでは不安だからな。好きにせい」

「ありがたきお言葉でございます。ささ、母上をしかるべき部屋へと…」



 義姫が半ば呆れたように敗北宣言すると、愛姫はようやく顔を赤らめた。



「申し訳ございません、つい」

「気にするな。これよりわしは死地に向かう。無論すぐ前となれば問題も多いが、この時期ならば問題は少なかろう」

 出陣に当たって女に触れるのは不幸の種とか上流階級は抜かしているが、庶民からしてみれば明日をも知れぬ戦いの前にお互い激しく触れ合うことはそんなに珍しくもない。政宗も愛姫も根っからの武家だがその点にはさほど鋭敏ではなく、単純にお互いを愛し合っていた。


「無論、日が落ちてからだからな」

「それはもちろん!」




 この夫婦の会話を片倉小十郎が聞いていなかったのが良いのか悪いのか、そのような事は誰にも分らないし分かる必要もない。

 



 なぜならその夜、二人はこれまで数ヶ月の空白を埋めるように激しく睦み合ったのだから。

 まだ子どものいない政宗のために、普段それなりに強くそれ以上にしとやかなはずの姫が、その夜は文字通りの竜殺しになっていた。そんな空間に立ち入れるような野暮を極めた存在など、ここにはいなかった。

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