唐沢山城事件、佐野氏忠憤死
天正十七年九月十○日。
下野の国の中核と言うべき佐野氏の居城、唐沢山城は荒れていた。
「何がどうなっている!」
佐野氏忠が騒ぐが、答える声は少ない。
氏忠には佐野家の譜代の家臣だけでなく北条家から連れて来た家臣もいたが、どっちもその大半がこの城から離れていた。
「正直わかりませぬ!」
「何でもいいからわかっている事を全部言え!」
「ええそれが、北では農民が租税に不満を訴え」
「東では佐竹の軍勢が動き出し」
「西では山賊が村長の娘をかどわかしていると!」
氏忠がせかすが、誰もまともな答えなど言えない。実際、本当に誰も何もわかっていないからだ。
「ああもう、どうしてそんな情報が来ないのだ!職務怠慢だぞ!」
氏忠のずいぶんな言い草にも、家臣たちは平身低頭するしかない。だがいくら平身低頭した所で、条件が改善するわけでもない。
「とにかくだ、一刻も早く正確な情報を持って来い!あと川越にも救援の使者をやれ!」
「いいのですか」
「いいも悪いもあるか!とっととやれ!書状ならわしが書く!」
氏忠が紙を取り出し川越城の北条氏照に救護を求める書状をしたためる間にも、唐沢山城の広間は次々と人口密度が低下する。
「まったく、どこの誰だ!こんな事をしたのは!」
「それがその……」
「わかっている、必ず捕まえて吐かせてやる!とりあえず茶でも持って来い!」
とうとう二人だけになった中で氏忠は寵臣に答えを求めるが、もちろんまともな返答など返って来ない。ただ二人だけになっただけでなく、侍女や小者などもほとんどがいなくなってしまっている。茶どころか水さえもまともに来なさそうで、人を待つのすらもどかしかった。
とにかくしばらく部屋中を歩き回った氏忠の下に、一杯の水がやって来た。だがその水には、のどの潤いを満たす力も気持ちを鎮める力もなかった。
「なんだこれは」
「水でございます」
それが何かと言わんばかりの突っ込みを入れる老いた侍女の言葉通り、器の中に入っているのは確かに水だった。
だが、その器はあまりにも柄が貧相で、ひび割れも目立ち、それ以上に土の質も良くなかった。
端的に言えば、とてもお殿様が使うそれではなかった。
「ふざけるな!」
ただでさえ頭に血が上っていた所にそんなのを出された物だから、氏忠の頭は完全に沸騰した。
「殿…」
「わかっている!だがな、わしはこの城の城主なのだぞ!もう少しましな器はないのか!」
「それがございませぬ…いつものように取りに行こうとしたのですがきれいさっぱり消えておりまして……」
「人が水や酒を飲む器だけが消えていたと言うのか!他に何かなくなっておらんのか!」
「それはその…」
「もういい!わしが確かめて来る!」
侍女を足蹴にするのを必死にこらえながら台所へと入るが、侍女や小者などのための器はなくなっていない。
「おいどうした!わしや重臣たちの使っていた器はどこだ!」
「いえ、その、どこにも……」
城主があまりにも怖い顔をしながら入る物だから侍女たちもひるみ道を開けるが、もちろん期待に応える結果など出せない。
「すると何か、その手の器だけなくなったとでも申すのか!」
「いや、えっと、まあ、はい……」
「もういい!わしは武器庫を見て来る!」
付き従う人間などいないまま、氏忠は城内を歩き回る。
馬にも乗らず腰に得物も差さないまま、少しでも機嫌を損ねる者がいれば殴り倒しそう一寸の深さの足跡が付きそうなほどの勢いで。そんな主を止めるどころか助けようとする人間さえもいない。
—————一体何が不満だと言うのか。どうしてこんな事になるのか。
確かに先代までの佐野家の統治はそれなりにうまく行っており自分はよそ者どころかある種の征服者だ。かつての佐野家の人間が含む所があるのは全くしょうがない話である。とは言えどうしてこうもいっぺんに反抗されなければならないのか。
佐竹か。
伊達か。
佐野了伯とか言う本家の佐野を抱えた真田か、その後援に当たる上杉か。
そして、その上杉の大本である豊臣か。
頭を掻きむしりながら犯人を考えるが、すぐわざと自分たちの茶碗だけ盗むような馬鹿な真似をやらかす訳はないだろう—————で消えてしまう。
あまりにも都合の良すぎる反乱の連続、そして城内の混乱と言うより椿事。
一体どこの誰がこんなふざけた真似をやるのか。
そんな自説を補強するかのように、兵たちが持ち出したのかは知らないがかなり隙間の空いた武器庫の中に、ありえない「武器」が置いてあった。
石や木の棒ではない。むしろそれならばかなりましだった。
—————女の着物。しかもかなりみすぼらしい、まるで百姓の着るそれ。
いざとなったらこれでも着てどさくさ紛れに逃げろと言う事か!
佐野氏忠はすでに三十四、女装をして面相をごまかせるような年でも顔でもない。
間違いなく、どこかの誰かが氏忠を笑うために置いたのだ。
「どこの誰だか知らんが、諸葛孔明気取りか!」
諸葛孔明が三国時代、司馬仲達を臆病者と謗っておびき出すために女の着物を送りつけた事は氏忠も知っている。その孔明の真似事をわざわざしようなど、単純に言って猿真似でしかないし何よりその策が空振りした事を氏忠は知っていた。
「この野郎!」
氏忠は全てのいら立ちをぶつけるように得物を抜いて女の着物を両断した。そのまま呼吸を荒げながらも少しだけ頭を冷やした氏忠であったが、その頭の温度を上げるような耳障りな音が響く。
「短冊だと!馬鹿馬鹿しい、七夕祭りでもあるまいし!」
無視しようと思えばできたが、どこの誰がやらかしたのかを知るためには見てやらねばならぬとばかりに先ほどより少しだけ小さな足音を鳴らし、へし折らんばかりの力で拾い上げてやった。
青龍も 蜥蜴も鰐も 衆生ゆえ 彼も骨なり 人も骨なり
まったく意味のない短歌、と言うかそれっぽいだけの雑文。
「うぐぐぐ…!」
握った手で本当に短冊をへし折って二枚目を掴むが、中身は同じだった。
その二枚目をまたへし折って次は叩き斬ってやろうと三枚目を掴むと、今度は全然違う字が書いてあった。
伊勢の日の 辰の時にて 北はなく 力差のゆえに 永遠に時は来ず
「ぐ、うぐぐ……!」
そしてその三枚目の短歌をまた握り潰した途端、氏忠は頭がふらついて立てなくなってしまった。
ほとんどたった一人の武器庫の中で必死に立ち上がり、かろうじて抜け出す。重たい体を引きずり、何とかして怒りを鎮めようと欲する。
(愉快犯!とんでもない、これは北条を狙っているのだ!あんな物を仕込むなど……!)
「青龍も 蜥蜴も鰐も 衆生ゆえ 彼も骨なり 人も骨なり」
一つ目のそれに登場する竜と蜥蜴と鰐のそれぞれに共通するのは「鱗」であり、後の十九文字は「「三つの鱗」を持った存在」もやがて滅ぶのだと言う意味。
「伊勢の日の 辰の時にて 北はなく 力差のゆえに 永遠に時は来ず」
そして二つ目の歌は「伊勢」新九郎が興した「北」条家は「五番目」である「辰の刻」にて滅ぶ、力「差の」ゆえに。そして「時は来ず」と言うのは、それこそかつての北条氏の「義時」時代のような繁栄の時代など永遠に来ないぞと言う揶揄—————。
負けてなるか、このようなふざけた奴らに、負けてなるか!
「ああ殿!こちらにおいででしたか!」
「何だ!っておい、これは……!」
力を振り絞ろうとした氏忠の目に入った、火。
この城だけでなく、北条その物を焼き尽くさんと欲するほどの火。
「うっ……」
その火が、北条氏忠と言う人物が見た最後の光景となった。
「殿!……殿!?」
氏忠の頭の血の管は決定的な打撃を受け、氏忠は大の字となり昏倒。そしてそれきり二度と目を覚ます事のないまま、氏康の所へ向かった。
そしてこの事件はあっという間に唐沢山の城中から城下町、下野全土へと広がって行ったのである。
なお氏忠は知らない。
その火が、ほんの二・三分で消し止められる程度の小火でしかなかった事を。
そして各地の謀反などの制圧に走った将たちが、次々と敗北していた事も。
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