豊臣秀吉の意図

「今日も何も来ずか……今更期待などしとらんが……」



 大坂城。



 かつて織田信長をてこずらせた石山本願寺の跡地に建てられた、城砦としても中核としても十二分過ぎる機能を持ったこの城の天守閣にて、この国の最高権力者はため息を吐いていた。


「それはどういう事ですか」

「ああいかんいかん、あと二つの家の内どちらかから何かないかと思ってな」

「たまにはおくつろぎくださいませ、ほらほら」


 五十四歳の天下人に対し、年端もいかぬ赤子を見せびらかす女性。

 その名は茶々、通称として淀殿。

「おう棄丸、父は元気だぞ。じゃがもう少し戦わねばならぬ」

 その年にしてようやく授かった男子、棄丸の前ではいい父親であろうとはしているが、それでもまだ心底から安堵しきる事はできない。


「何をそんなに気を張っておいでなのです」

「単純な話だ。わしは全国の諸侯に戦をするなと命じた。じゃが北条も伊達もその命令を未だに聞いておらぬ。それではわしの言葉はまったく意味のない物となる」

「なればこそ不機嫌なのですか」

「ああそうじゃ。仮にも関白豊臣秀吉の命だと言うのにな」


 豊臣秀吉。農民から関白にまで成り上がった男の命令。

 それが無視されているという現実は重たい。


「このまま放置していては関白の威はなくなってしまう。なればこそわし自ら伊達と北条を何とかせねばならぬと思っておる」

「総大将がわざわざ出て行く必要があるのでしょうか、それこそもう一歩だと言うのに」

「もう一歩ではない、もう二歩じゃ」

「まさかとは思いますが、命を落とさぬようにお願い申し上げます」


 茶々は秀吉を食い止めようとした。

 茶々の実父である浅井長政も、義父である柴田勝家も、母であるお市の方も既にいない。三人とも自害ではあるが実質戦死同然である以上、置き残される経験にはつとに敏感であった。そしてその三人を実質的に死に追いやった秀吉に真摯に尽くす程度には健気でもあった。




「あなた、その程度の覚悟なのですか」



 だがそこに入り込む女性の言葉は、茶々の健気な努力をたやすく踏み潰せる力があった。


「まさかそんな事はない、最後まで責任を取るのが男の責務と言う物!」

「あなたは心配しておりませぬ。私の夫様ですから」


 茶々よりやや皺は多い物のそれでも艶やかな肌をし、黒髪を輝かせる女性。


 彼女こそ今この国で最大級の権力を持つ女性である事は、すぐに跪いた茶々の態度からしても明白だった。

「おいおい、急にどうしたのだ。言ってくれれば良いではないか」

「私は妻です。妻が夫に会うことに何か不具合でもあるのですか。まあ一名ほどダメと言えるお方もおりますがね」

 そしてその北政所ことおねの後ろから侍女と共にやって来たのが、腰は曲がったもののそれでもかくしゃくとした足取りの、どうにもきらびやかな着物の似合わない老女だった。

「おっか、いや母上!」

「まったく、あんたって子は本当にものすごいよ、すごすぎて何も言えないよ」


 秀吉から母上と呼ばれたその老女の名前はなか、世間的には大政所と呼ばれている存在である。


 二人は両親とも武家の子であった茶々とは、そもそもからして違った。

 片や文字通りの農婦、片や武士ではあるが足軽の子。その出自相応かそれ以上のたくましさを持った二人こそ、今この国で豊臣秀吉に上から物が言えるたった二人の存在だった。


「大政所様、北政所様……」

「まったく、そう言われるのも慣れちまってさ。こちとらただの百姓の婆さんだってのに。お貴族様から見れば本当変なばばあだってのに。ま、こんな百姓の婆さんの方がお貴族様より金持ってるってのがまずビックリだけどね」

「貴族と言っても応仁の乱以降百年以上続く戦乱に巻き込まれ実の石高は一万石すらなかったとも言われております」

「それって長浜城にいる時には既に私や秀吉の方が金持ちだったって事かい、本当、知ってはいたけど驚いたねえ」

 その二人が天下人である今はおろか十五年前には下手な貴族はおろか当時の摂関家である近衛家すら上回る所得を得ていたのもまた事実であり、時代だった。


「とにかく母上、わしは何とかしてこの国から戦乱をなくさねばならぬのです。そのためにはこの身自ら行くのが為政者としての責任と言う奴でして」

「わかってるよ、あんたは昔っから本当落ち着きがないからね。いやそれ以前に何でも自分がやらなきゃ気が済まない性質だからね」

「それは…」

「そうでもありませんよ義母上、都合が悪くなるとすぐ小一郎(秀長)殿に丸投げする程度にはこの人は怠惰ですから」


 秀吉が苦笑いを浮かべる中、茶々は棄丸を抱きかかえる事しかできなかった。

 もちろん茶々とて、秀吉に含む所がないわけでもない。だがそれ以上にこの二人の女性には勝てないと思っていた。

 自分が勝てるとしたら、それこそ棄丸だけ。それを失ったらそれこそ自分はその他大勢の側室であり、すぐ捨てられてもおかしくない。


「申し訳ございません、私とした事がつい甘えてしまいまして」

「いいのです。私も義母上も少しばかり刺激が強すぎるので、殿下が対照的な存在であるあなたを求めるのはごもっともです」

「ま、まあそういう事じゃな、ハハ、ハハ、ハハハハハハ……」

 元から猿顔だったのにさらに年相応に皺が増えた顔を揺らして笑う秀吉の顔は、相変わらず人好きのするそれだった。あるいはこの顔で天下を取ったと言われる程度には強烈な印象を持った顔を前にして、相好を崩さずにいられるのは一種の才能か経験だった。大政所と北政所は言うまでもなく後者だが、前者と呼べる存在もいた。


「北条を討つとなれば先鋒は甲信駿を治める徳川、越後を治める上杉となりましょう」

「すると何だい、あの子が先鋒の先鋒をやるってのかい」

「そのようです。しかし個人的にはいささか不安もございますが」


 そしてその前者こそ、徳川家の重臣の井伊直政だった。

 なかは秀吉と徳川家康の和睦の際にいったん徳川の人質となっていたが、その際にもてなし役を命じられたのが井伊直政だった。直政はさらになかを返還した際にも警護を務め秀吉から高く評価されており、なかからの評価も高かった。

 だがその一方で、おねはあまり直政を高く評価していなかった。

「井伊殿は伯耆守殿を不必要に憎んでおりました。無論裏切りや寝返りをやすやすと肯定する物でもございませんが、いささかばかり執着が激しすぎたように私には感じるのです。義母上様もご存じのはずでしょう、井伊殿が徳川家内で重用されていた事を」

 伯耆守こと石川数正は徳川家の重臣だったが、数年前に秀吉の下へ走った経緯があり今は豊臣家の家臣だった。なかが大坂へ戻ってきた際に秀吉はその数正と直政を和睦の意味を込めて対面させようとしたが、主君に背いた人間と対面したくないと直政が言い切ったせいで流れてしまった。


「確かに主君のために命を惜しまぬ存在と言うのは尊うございます、しかしもしそのやり方がああいう形だけになってしまったらと思うと私は恐ろしゅうございます」

「そうかい。まああんたの方が世間には慣れてるからね。こんな婆さんの好き嫌いなんぞ右から左へ流してくれて構わないよ」

 おねは秀吉が成り上がるに当たっての汚い部分を、なかよりずっと多く見て来たと言う自負もある。それこそ様々な秀吉の策略を飲み込んで来たのは、誰よりも自分だと思っている。



「武士など汚い物です。ただ血を流し合うだけでなく、騙し合いの成果が一番うまい人間が褒められます。例えばここにいるお方様のように」

「騙し合いが下手であれば十万がいても一万に負ける。それが戦と言う物ですじゃ」

 

 最終的には、秀吉も妻に乗っかった。好色家のくせに十個下の妻に頭が上がらない男らしい言葉に、母は苦笑するより他なかった。茶々などもはや完全な蚊帳の外である。

 

「とは言え、すぐさまとは行かないでしょう」

「予定としては来年です。そこまでに伊達や北条が恭順の姿勢を示すようであればその時はきちんと守るつもりです」

「もちろん一昨年に出した決まりを守らせた上でなんだろ」

「さようでございます」


 元から翌年の出兵と言うつもりではあった。


 これが事実上最後の出兵になる以上、負ける可能性を少しでも消すに越した事はない。

(北条だけ倒して伊達は放置なんてことができる訳もないし逆もまたしかり……それこそ最悪どちらも討ち果たさねばならぬやもしれぬ…………)

 それに下手すると伊達と北条、合わせて五万とも六万ともなりかねない将兵を討たねばならない以上、それ相応の備えは必要だった。

 


「棄丸たちのためにも、この辺でおしまいにせねばな」

「無事をお待ちしております」


 秀吉は、ようやく我が子を抱きかかえた。

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