第一章 小田原城に迫る桐の旗

摺上原の後

 天正十七(1589)年七月。



 会津の地にて、ある男は笑っていた。


「この調子であれば奥羽統一もさほど手間はかかるまい」


 ずいぶんと浮かれ上がった事を口にするその男であったが、彼にはそれを可能にするだけの力があった。


 家督を継いでからわずか五年で、御家の石高を三倍近くにした彼の働きぶりに味方のみならず、敵さえも感嘆せざるを得ないほどだった。




 ——————————独眼竜、伊達政宗の存在には。




「とは言えまだ会津は伊達の支配になじんでおりませぬ。また常陸の佐竹家も此度の戦についてまたすぐ攻撃してくる可能性もありましょう」

「小十郎、なればこそわし自らこうして出て来ておる。もはや東北には我が伊達以上の戦力はなく、気を付けるとすれば最上のみ。佐竹とて深入りすれば自分が危うき事を察さぬ訳もあるまい」

 

 先月の摺上原での戦いにて、政宗は東北の大戦力であった芦名家を事実上滅ぼした。その芦名家の当主として摺上原に出ていたのが、佐竹家の前当主義重の息子で現当主義宣の弟である芦名義広だった。

「義広め、ひどく驚いた顔をしておったらしいのう、まさに見物と言う奴だ。大人しく小次郎を受け入れておればこんな事にはならなんだと言うに……」

 元々芦名家は盛氏の段階で十六代続く名家であったが、その後は政宗の叔母が嫁いだ盛氏の跡目の盛興が夭折、その後養子にした盛隆も痴情のもつれとも言われる事件により二十代で亡くなり、あげく政など取れっこない盛隆の嫡子までも三歳で死亡と踏んだり蹴ったりであり、その芦名家の当主として政宗の弟の小次郎政道にするか義広にするかで揉め事が起き、義広がなった結果がこれだった。


「問題はそんな単純でもございません」


 そんな有頂天な政宗に対し、小十郎こと片倉景綱はあくまでも冷静だった。

 確かに奥羽では敵なしに等しい伊達政宗だったが、いざ奥羽を出るとなると話は別である。もちろん佐竹家や関東の北条家の事もあるが、それ以上に問題なのは西だった。


「上杉景勝か」

「ええ。未だ伊達に服属せぬ者たちが上杉と手を組み我々に反抗しております。そしてその上杉の後ろにはおそらく」

「秀吉だと言うのか。なあ小十郎、上杉はどこまでこの伊達に向かって来る」

「上杉の家風などあの不識庵(謙信)公の時から変わっておりますまい。甥とは言え景勝は血族ですから」

「まったく面倒だな、秀吉とは到底合いそうにないのに」

「不識庵公が何をやって来たかを思えば、ああ申し訳ございません」

 上杉謙信については、政宗は知識と言うか伝聞でしか知らない。

 川中島で武田信玄と五度も戦ったとか、北条氏康らに領国を追われた上杉憲政とやらのために長尾を捨てて上杉となり、さらに既に風前の灯火だった室町幕府将軍に謁見して名前を受け取ったとか、どうにも浮世離れした話ばかり飛び込んで来る。そしてその謙信が身罷った時政宗はまだ十二歳であり、疱瘡により光を失った右目をまだ抱えている状態であった。なおその翌年、家臣団の手により右目は切除され、現在では眼帯を付けている。




 そして、豊臣秀吉。その名前ぐらいはもちろん政宗は知っている。




 いつの間にか関白となり、天下人を気取っている男。


 だが何せ、あまりにも年齢が足りな過ぎた。


 政宗がまだ生存中であった父輝宗から家督を相続した際にはまだ政宗が十八歳であったどころか輝宗さえも四十一歳であり、秀吉より七つも若い。さらに言えば、政宗が当主になった二年も前にかの本能寺の変が発生し、織田信長が明智光秀によって討ち果たされている。そんな中で東北と言う尾張ならまだともかく京からはさらに遠い場所の住人からしてみれば、誰それでしかなかった。

 さらに言えば、その家柄もある。

「源氏とか平氏とか声高に言う気もないが、話によれば尾張の農民上がり。それが関白とか正直噴飯ものだがな」

 伊達は藤原北家の始祖房前の五男魚名の末裔とされ、それこそ由緒正しき藤原家である。さらに北陸奥に位置する南部氏も紛れもない源氏の末裔であり、西の果ての島津家もまた九世紀にその名字を賜った惟宗氏の末裔と言う事になっている。政宗自身そんな物を振りかざす気もないが、それでも秀吉が関白になったのには納得が行かなかった。

 —————ましてや、その秀吉の命令など聞く気もない。


(惣無事令?やかましい、こっちはその直前まで戦をしていたと言うのに!)


 二年前の年末、秀吉は惣無事令を発布した。平たく言えば戦争をやめろと言う命令だが、政宗は形だけの返事をして翌年も戦を続けた。形勢そのものはあまり思わしくはなかったが、それでもこうして摺上原にて圧勝したのだから戦の甲斐はあったと言わざるを得ない物であった。さらに言えば三年前の人取橋の戦いにて伊達軍は半ば孤立状態に陥っていた所からここまで来たわけでもあり、それを投げ出す理由など正直なかった。


 


「だがこちらはその関白の命令を無視した存在です。その気になればそれこそ全力で来るでしょう」

「全力だと」


 だが、奥州まで遠征に来るなど馬鹿げている。そう片付ける事はできない。


 既に二年前の段階で、秀吉は九州をも制覇した。九州にて勢力を拡大していた島津家は豊臣家の大軍を相手にして奮闘して見せたものの、それでも圧倒的な戦力差の前に抗いがたく薩摩大隅二か国の安堵を条件に事実上服属した。その前には四国の覇者長宗我部元親も土佐一国安堵で生き延びるだけとなっており、もはや秀吉の敵は伊達と北条だけだった。


「豊臣以外では毛利、徳川、上杉、島津、長曾我部、さらに立花や鍋島と言った九州勢力もおりましょう。それから関白の盟友である前田や親類となった宇喜多と言った勢力もかなり強大です。もちろん佐竹も関わって来ましょう」

「となると数は」

「十万は下りますまい。いや十五万とも」


 十万、いや十五万。まったく途方もない数字だ。

 だが実際毛利と徳川は百二十万石ほどあり、前田と宇喜多も五十万石はある。その四家だけで単純計算で三百二十万石、一万石につき二百五十人と言う平常の徴兵をもってしても八万人。それに豊臣本体や諸勢力が加われば、十五万と言う数はまったく不自然でも何でもない。

 伊達の石高は膨れ上がった分を加味したとしても三万あるかないかであり、ましてや周辺大名が伊達に応じる可能性は皆無に近い。


「北条はどうだ」

「私が秀吉ならばまず真っ先に北条を潰します。何せ陸の奥と書いて陸奥なのですから」

「北条の動員兵力は」

「まあ我が伊達と同等でしょうな」


 三万+三万となれば六万だが、伊達と北条はそれほど親密でもない。一応同盟を結んではいるが正直佐竹と言う敵ありきのそれでしかなく、佐竹が潰れればすぐにでもまた交戦関係になるような存在だった。今更豊臣秀吉とか言う大敵のためだけに関係を結んだ所ではいそうですかと仲良くできる見込みは薄いし、実際現在進行形で佐竹と上杉から妨害を受けそうな以上、そんな事をやっている暇はない。


「雪はいつ降るだろうな」

「今は初秋ですぞ」

「わかっておる、ほんの戯れよ」




 政宗が何を考えているかなど、小十郎にはすぐわかった。


(もし数年早ければ……)


 伊達政宗の才覚は、身びいきを取っ払っても一流を越えたそれだった。もしあと数年あれば本当に奥羽統一を成し遂げ、あるいはこの領国をもって越後から中央に乗り出していたかもしれない。だが今や天下は伊達と北条と豊臣だけになってしまい、勢力を広げる隙間はほぼない。あるとすれば北東北だが、それを攻める時間などもう残っていない。島津のように力を見せて、豊臣政権下である程度の地位を確保するが関の山か。


 —————龍が天に上るには、あまりにも遅すぎた。そう結論付けられる事を承知しているかもしれない主が、小十郎には何とも辛かった。

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