第二章(七)
途端、辺りを異臭が襲う。
それは無数の黒い手に覆われた顔が焼けた臭いのようだった。いづるはたまらず、口元を手で覆う。対してネオリアはスンと小さな鼻を鳴らし「相変わらずひでぇ臭いだがまぁ、こんなもんか」と言うのだから信じられない。
ゆるりと尻尾を振り、床を叩いたかと思うと、いづるの様子にぎろりとした目を向けてきた。
「あのな、これくらい絶えないとこれからがしんどいぞ」
「んなこと言われても、しょうがないだろっ。つか、あれ、本当に先生は大丈夫なのか? 顔、焼けてないか?!」
「ありゃ、ただの写し。本体は中だって言ったろ。焼けてるのは奴の、写しに使ったカラダの一部だ」
「って言われてもな」
「ああああぁっっ!!!!」
酷い悲鳴を上げて無数の顔が歪む。しかし、手は拘束を緩めることを止めない。
じゅうじゅうと焼けていく顔がやがて、真っ黒に渦巻いたものになり、しゅるりと小さく細く縦長に横長に変化していく。まるで手から逃れようともがいてるように見えた。しかし、それでも手から逃れることはできないようだった。
「……さぁて仕上げ、で終われるんだけどな」
「ネオリア?」
「おい、オリビア! 来たんだろ!」
そうネオリアが空間へ呼びかけると「はいはい、来たよ、ここにいるよ」といいながら、ガラリとすぐそこの教室の扉が開いて、オリビアがひょっこり顔を出す。
何故そこから? といづるが不可思議なもの(もうたくさん見ているのだが)を見たような顔で目を見開いて驚いていると、ぺろりと舌を見せてオリビアがおどけてみせた。
「ちょっとね、君たちを追って歪んだ空間にあとから出たら、ここの教室に偶然にも先に行きついっちゃって」
「君たちが対峙しているの見えたから、隠れて見てたよ」とふふっと何故か自慢げに言ってくるのが意味が分からない。ようするに、だ。
「……え? いたんですか? それも隠れて?」
いづるの瞳が、いい大人が何やってるだと言いたげな、幾分か冷たいものとなるが、オリビアはにっこりほほ笑むだけである。しかし、ネオリアはそんなオリビアの様子を見て呆れた声を放った。
「いや違うぞ。コイツは。おい、オリビア、迷子だろ。ぜってーそう、空間と空間で迷子になって、今来たにケーキワンホールで一票!」
「……さすが、名探偵ネオリア、お見通しだね。ふふっ、その通り! 迷子で今さっき来たところさ!」
「しかたない、あそこで有名なキャロットケーキをご馳走しようかな」「よっしゃー!」ときゃっきゃっと和気藹々としだす二人? に(今のところネオリアは子供の姿である)いづるは半目になる。しかしキャロットケーキ、それはちょっとご相伴にあずかりたいとか思ったりは……していない、いや、ちょっとだけ思ったりしている。
その間も「あぁぁぁあ!!!」とむごい叫びが響いてるのだが、二人は意に介した様子はない。
すると、叫びから切れ切れに、恨みがましい言葉が漏れるのが聞こえた。
「あぁ、あぁ、なぜこんなやつにワタシ、わたしはぁ! まだだ、まだまだまだ!」
顔が一斉に、瞳をぎろりと向けた気がした。しかし、あるのは真っ黒に渦巻く無数の顔だけだ。
「っ、なぁ、ネオリア」
「あぁ。おいオリビア、不死の門を開くから援護しろ、厄介なことになるぞ」
「えぇ、あれを開くつもりかい? まぁ、仕方ないか、確かに厄介になりそうなのもそうだけど、とりあえず‘閉じ込めるだけ’ならそこしかないからね」
‘閉じ込めるだけ’?
いづるが訝しんだ顔をするのに構わず、ネオリアがすっと片手を眼前に掲げる。
「我、夜(よ)を統べし者」
ネオリアが言葉を発した瞬間、辺りに無数の円が顔という顔に浮かび上がる。先程、足元に広がった円とは違う紋様のそれは青紫に輝き顔の前をくるくると回り出す。
と――
オリビアがどこからともなく取り出した杖――鷲だろうか先に木彫りがついた長い黒の杖を器用にくるりと指で回し地面にさせば、黒光りした稲妻があらゆる方向へ走り、円がさらに二重三重となって大きく強く回る。
「誘え――常しえに、誘え――永久に。我は願い給う、彼の者を不死の門へ送り、永遠の夜へ没することを。常しえに願い給う」
再び、ネオリアが朗々と静かに紡ぐ言葉は重く、広く空間に響き渡る。
「アンダイング・オペーク・ドア――開門」
開いた無数の円から鈍くも青黒い光が放たれ、一瞬にして光が辺りを包みこむと、顔が手に縛られたまま吸い込まれていく。
そこら辺まではちゃんと見えていた、はずだ。
ネオリアが振り返ったところまでは。
「とりあえず、よしとするか。もう来てるだろうからな開通屋、いくぞって……おい?」
「あぁ、ってあれ、いづるくん……あぁ、やっちゃたね、ネオリア」
「やべ、生身にあの門の光浴び過ぎたか」
ネオリアたちが何か言ってる声が聞こえるが、いづるは返事ができななかった。
いづるの体が傾くと、ネオリアの慌てた声が微かに聞こえた……気がした。
(あれ、なんだ。からだ、いうこときかない)
そんな、のろっとした疑問しか浮かばない。
全身の力が抜ける。倒れる体はどうすることもできず、いづるの意識はうっすら遠のいでいった。
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