山科あんりの日記
青天の霹靂ってほんとにあるんだな。
私の務めている会社には小規模だけど保育所があって、社員の子どもを預かっている。私はただの総務だし独身だし関係ないと思っていたら、今朝出社したところ、とんでもない辞令が下されていた。
『
上司に理由を聞いたら、病欠のせいで保育士が足りないからって言われた。急遽だったため、保育士資格を持っている社員に声をかけているとのこと。横暴とはこのことである。
確かに私は保育士資格は持ってるけど、実務経験はほぼ無いし、直近で子どもと接したのも、この夏お盆の帰省で姪っ子に会ったくらいなんですけど。
そんなブランクのある中で、いきなり保育所に行って補助をしろといわれても、承服できるわけがない。だから、盛大に駄々をこねることにした。
「嫌です。電話番と少しの事務処理と施設管理と言われても、絶対にどこかで子ども見ててとかトイレに付き添ってとか言われるに違いないので、断固、拒否します」
「そんな闇の深いこと言わないで。大丈夫だから。他の部署からも資格持ってる人が行くし、それに入社の時に自分で保育士が足りない時は手伝いますって同意書にサインしたんでしょ?」
「忘れました」
「じゃ、それについては過去の自分を責めるということで。一週間頑張ってきてね」
割とフランクな関係を築けている課長に無責任に送り出され、私は初めて自社内にある保育所に足を踏み入れることになった。
私の他に招集されたのは、経理から来た妙齢の女性だけだった。
私ともう一人の上川さんはぐるっと施設内を案内されて、ざっくりと施設概要と一日の流れを説明された。とにかくいまは人が足りない状態で、掃除も物品補充もままならないので、備品の確認とか出欠状況の入力とか掃除とか細々したことを頼まれるらしい。あとは、電話や業者や保護者の取り次ぎ。園長も現場に駆り出されている状況なので、このくらいならなんとか許容範囲かもしれない、と思いつつ。既に園内には早朝利用している園児が数名いて、これは思ったより忙しくなるかもしれない、と覚悟した。隣の上川さんも気合いの入った顔をしている。
いままで顔も名前も知らなかったけど、ここからは戦友じゃん。
私たちは顔を見合わせて、深く頷いた。
保育室に入っている園長に時々指示をもらいながら、私たちは園内の備品を確認しつつ、子どもがまだ少ない内に使わないところから掃除を開始する。
私たちはあくまで裏方、サポート役なので保育士の先生たちの邪魔にならないよう、なるべく今日で段取りを覚えて、明日以降はスムーズな保育に繋がるような導線を考えておかないと。でもその段取りのすりあわせは、園児が少なくなってきた夕方以降じゃないと難しい。今日の反省は今日のうちにしておきたいけど、その前に勤務時間が終わりそう。これで残業代出なかったら暴れちゃうかもしれない。
それにしても、久しぶりに浴びる子どものエネルギーはやっぱりすごいな。浴びてる時は元気が出る気がするけど、離れるとどっと疲れる。こちとらもう若くないんですよ。太陽を間近で浴び続けたら熱中症で倒れるのと同じ原理です。
一日目を乗り切った感想はそんな感じ。
三日目にはもうだいたいやることも整理されて、イレギュラーな雑務にも対応できるようになっていた。三日目にもなればだいぶ馴染んだから、多少余裕みたいなのも出てきて、トイレの見守りくらいなら快く引き受けるようになってしまった。
それがきっかけ。
保育所の中には、少し気になる子がいた。特定の音が気になったり、場所にこだわって泣いてしまったり、生活の中で大きな支障は無いけれど、集団の中において少し大変さを感じやすい子。
そして三日目の今日、その中の一人(個人情報保護のため、Yくんとする)はトイレで他の子と口論になったらしく、トイレの中で号泣していた。狭いトイレの中、響き渡る泣き声。周りの子は割と慣れているのか、スルーしてさっさと部屋に戻っていく。たまたま見守りを命じられていた私は仲介に入ろうとするが、Yくんは会話をする隙すら与えてくれない。先生方からは少ししたら落ち着くから、その時に声をかけたらいいと聞いているけど、そのタイミングが分からない。何せ相手は息をつかせぬほど盛大に泣いている。しかも少し声をかけようとするとそれに被せるように更に声を上げるのだから気持ちが削がれる。助けを求めてとっさにトイレの外に目を向けるが、他の子はもうとっくに奥の部屋に行っていて、先生もクラスで泣いている子の対応に忙しい。
私は二十分程その子と格闘し、なんとか落ち着かせて部屋に戻すことができた。正直言って対応が分からない。特性のある子に対しての授業ってやった気がするけど、ほとんど自分で使えないじゃん。ほんと最悪。
ちなみにその後も何度か同じような場面に遭遇して、結果はすべて惨敗だった。なだめてみても、怒ったような言い方をしても、気を逸らそうとしても、他の子がいなくなった後に彼の望みを叶えてみてもダメ。もはやこのタイミングで話しかけることすら不正解って感じ。
私の存在が君にとっての間違いか? やっぱり私は保育士向いてないな~。
分かっちゃいたけどそこそこへこむ。実習していた頃の落ち込みを思い出させるな。
「山科さん、ごめんね。こっちも手が回らなくて。泣いてても教室まで連れてきてくれればあとはこっちでなんとかするから」
園長や保育士の先生には明るくそう言われるが、それにもまた地味にへこんでしまう。実習時代の悪夢から早く目を覚ましたい。
「でも現場のことちょっとでも知っててくれるからありがたいよ。助かってる」
「ほんとですか? 私的には全然ダメダメって感じですけど」
ロッカールームで、ダメだと分かりつつ園長と上川さんに愚痴ってしまう。すると、園長が冗談めかして信じられないことを言った。
「Yくんの対応についてなら、一回占ってもらう?」
「占いぃ? でもそれって個人情報漏洩になるんじゃ……」
「大丈夫。園内でできる占いだから」
いきなり何を言い出すのか。混乱する私の手を引っ張って、園長は事務室に入る。そこには事務員の都島という男の人がいて、ちょうど帰り支度をしているところだった。
「悪いけど、今日ちょっと時間ある?」
長机と椅子だけの簡素な相談室。そこに向かい合って座ると、妙な緊張感があった。都島さんは、男性にしては髪が長めで、彫りの深い顔立ちをしている。それと占いという単語は妙にマッチしているのだけど、この人ただの事務員ですよね?
「Yくんについて、ですね?」
え、これマジの占い?
戸惑う私に構わず、園長と都島さんは話を進めていく。
「Yくんが泣いた時の対応について、何かアドバイスをもらえればと思うのだけど、何か良い案はある?」
良い案? 事務員に? てかこの人、私が対応してるところ見てたよな? あの時普通にスルーしてたけどそれでアドバイスとかされるわけ?
都島さんは神妙な顔で頷き、鞄からカードケースを取り出した。
裏面が黄色の、おそらくタロットカード的なものを手元できって混ぜていく。そして混ざった山札を私に差し出し「知りたいことを念じながら、カードを一枚引いてください」と言った。
ごくり、と喉を鳴らし、私は半分腹をくくってカードをめくった。
「力の正位置ですね。カードの意味としては、勇気、忍耐、理想に向かうという意味があります」
机の上に私が引いたカードを置いて、都島さんは指を組む。
忍耐っていうのはこの状況についてか?
「では、具体的なことをお伝えしましょう。Yくんへの対応ですが、まずトイレでの混乱が続いていることから、トイレに行く時のルールを改めてクラス全体で共有することが必要でしょう。泣いてしまった時に対応する場合、声のトーンを少し落とすこと。子ども用トイレは狭いので、移動できそうなら、静かに場所を変えることを伝え、刺激の少ない部屋の隅などに移動しましょう。そこでいまから話をすることを伝え、Yくんと一緒に状況を整理してください。もちろんトラブルになる前後の見守りは必須です。状況を整理して伝えた後、これから何をするのかを端的に伝え、集団に戻ることを促してみると、うまくいくかもしれません」
「え?」
「以上です」
「え、えええ? え?」
「山科さんは焦ると早口になるので、そこも気をつけた方がいいかもしれません。子どもの様子を見ながら、落ち着いて対応すること。だいたい気持ちが顔に出ています。今後も対応をするなら、子どもに対しても、もう少し平常時に関わって、見ているのだとアピールしても良いかもしれません。実際、子どもたちのことはよく見ていらっしゃるので、場面に合わせてメリハリを強調すると、関わり方も更に良くなると思いますよ」
「はあぁぁぁ?」
占いって言うか天気予報みたいな言い方だな!? タロットカードなんか意味あった!?
淡々としている都島さんに対し、園長はにこにこして静かに拍手をしている。
「帰るところだったのにありがとうね、都島さん。また何かあったら相談するわ」
園長の賛辞に軽く頭を下げ「お先に失礼します」と都島さんは帰ってしまった。
さて、あの占いアドバイスがどうだったかというと、効果テキメンだったことは、記憶に残しておかなければならない。
職場にいる占い師なんて怪しさマックスな存在は絶対に信じるべきではないのだけど、その後園長からもいろいろ補足されたし、うまくいく可能性があるなら、Yくんのためにも試してみるべきだと思った自分が憎い。
結果、Yくんと格闘した初日が嘘みたいだった。まず話のできる状況を作ること、冷静に簡潔に対話することと、子どもに認知されることでこちらの話の通り方がまったく違った。
こうなると、あの人が何者で、なぜ事務員なのかが疑問になってくる。人に言えるってことは、ある程度自分でもやれるのでは?
そう思って事務室にいる都島さんに果敢に話しかけていたが、あれ以降、挨拶以外の会話はしてくれなかった。感じワル。園長から渡しておいて、と言われたお菓子を渡しても無反応だし。
最終日、諦めきれなくて園長にYくんとのことを報告がてら都島さんのことを聞いたら「うちの切り札なのよ」とやんわりはぐらかされて終わった。その後褒められたけど、正直あまり記憶にない。
なんとなく釈然としないし、占いって言ってるのもヤバいし、都島さんの正体は分からなかったが、とにかくこうして私の保育園応援週間は終わりを告げた。
大変だったけど、離れてみれば良い経験になったと振り返られる。自分のことを使えないと思っていた時よりは子どもと関わるのも楽しかったし、こうすればいいんだ、って思えたのは、素直に嬉しかった。
うん。学生時代の夢の供養にはなったんじゃなかろうか。
なんだか清々しい気持ちで、私は思う。
もう二度と、保育所の人手不足が起こりませんように。
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