担降り希望(第四回課題)

 職場を燃やそう。

 自分の仕事が疑われ、濡れ衣を着せられたとあっては、もうそうするしか自分を守る手段は思いつかなかった。

 視野の狭まった鈴木早紀子すずきさきこの思考はもはやそれだけで埋め尽くされていて、焦燥と疲労が彼女を行動へと駆り立てた。

 そうして、十二月二日深夜二時。ポリタンクに灯油を入れ、マッチ箱と清めの塩を手に、早紀子は職場へと忍び込んだ。


「祝、炎上!」「破滅して」

 形だけの防犯装置を解除し、鍵を開けて職場へと忍び込んだ早紀子を待ち構えていたのは、そんな文字が書かれた二枚のうちわだった。正しくは、それを構えるぽっちゃり体型の、六歳くらいの女の子。

 彼女はやや興奮した様子でうちわを胸の前で構え、職員用玄関から廊下に入った早紀子を出迎えた。

 予想外の出迎えに、早紀子は思わず目頭を押さえる。

「え、何? 迷子?」

「え?」

「え?」

 わー! と叫び、少女はうちわを持ったまま廊下の奥へと走り去っていく。少し経った後に戻ってきた彼女は、早紀子の問いに「厄病神です」と答えた。

 深夜二時にこんなところにいる六歳児がまともな人間なわけがない。

 早紀子は妙に納得した気持ちになりつつ、改めて「何してるの?」と少女に尋ねた。

「早紀子さんの追っかけもとい、推し活です! 今日はとうとう早紀子さんが職場を燃やす決意をしたということで、影ながら応援に来ました!」

「元気がいいね」

「早紀子さんは元気がないですね」

「元気なわけねーだろ」

 こちとら神経尖らせて職場燃やそうと決意して来てんだよ。その出鼻を訳の分からない子どもにくじかれて元気でいられるか。

 厄病神と名乗る少女はにこにこしている。肌つやも良く、見るからに健康そうだ。厄病神ってこんな感じだっけ? なんとなく、もっと不健康そうなイメージがあったけど、意外とそうでもないってこと?

 持ってきたポリタンクに座りながら、早紀子の気持ちもほぼ現実から遠ざかり始めている。

「さぁさぁさぁ、早紀子さん。早速灯油をまいて保育園を燃やしましょう! その後のことだってすっごく考えてたじゃないですか。きっとうまくいきますよ!」

「厄病神に応援されるってすっごく不吉な感じがするんだけど。もしかして失敗フラグ?」

「そんなことないです。もっとうまくいくイメージを強く持ってください。それでも捕まる時は捕まりますし、悪いことは露見するのが世の常というだけです」

「フラグじゃねぇか! だったら不法侵入だけで済ませたいわ!」

「え~、そんな~」

 口を尖らせながら破滅うちわを振るな!

 ぷくぷくとした頬は丸みを帯びていて、早紀子はその健康そうな厄病神の体型が気になった。

「もしかしてあんた、私に取り憑いて不幸にすることで健康になってる?」

「あはは~。それが仕事ですから許してください」

「仕事? 人に取り憑いて不幸にするのが?」

 きつい口調で問い詰めた早紀子に、厄病神は「そんな力はないですぅ」と甘えるように答えた。

「これはもはや時代のおかげでもありますから、早紀子さん一人のおかげというわけでもないんです。ほら、いまって日本全体が暗くてどんよりしてて底辺争いが活発でしょう? そういうネガティブな情勢のおかげで、私たち厄病神界隈が好景気なんですよぉ」

「じゃあなんで私に取り憑いてるわけ?」

「んー、厄病神の中にもランクがありまして、不幸にした人の数だけ昇進できるシステムがあるんですね。ただ、義務的に人に取り憑くのも退屈なので、私はこの人が不幸になるところが見たいなーっていう気持ちで早紀子さんを選び、人生転落から最期までを見届けたい所存であります」

「さいあく。だったらもっと落とし甲斐のある人生歩んでる人とかに取り憑けばいいじゃん。芸能人とか」

「個人的に、そんな高いところの木の実を落とすのって一瞬なので面白くないっていうかぁ。あと、単純に競争率が高いっていうかぁ」

「競争率」

「だったら、誰とも競合しないところで推しを作った方が平和じゃないですかぁ」

「……あーっ、最悪。ほんっとさいあく! ってことは、私が今日職場に放火しようとしたのもあんたのせいってこと?」

「あ、それは早紀子さんの意思なので私は関係ないです」

「ないのかよ!」

 立ち上がった早紀子に、厄病神は落ち着いて答える。

「私は厄病神の中でも地味な方なので、取り憑いた人の思考をちょっとネガティブにして、視野を狭くするだけです。放火しようと決意したのは早紀子さん自身ですよ」

「それだけでも人生どん詰まりにさせるんだけど!?」

「人生どん詰まりにさせるのが目的なんですよ~」

 ここに来て、ラメシールの貼られたうちわが目に痛くなってきた。

 早紀子は唇を噛み、自分より二十歳は若い見た目の厄病神を睨みつけた。

「お前を不幸にしてやりたい」

「それなら簡単ですよ? 毎日明るくハッピーに、ポジティブ思考で生きてたら私の元気が無くなって、取り憑けなくなります」

 にこにこしている厄病神は、早紀子にはそんなことは無理だと確信しているようだった。それがたまらなく悔しい。

「……やったろうじゃないの」

 一つ、冷静になるために深呼吸をして、早紀子は宣言する。

「お前を追い払って、ポジティブ思考を手に入れてやろうじゃない」

「えっ、じゃあ今日のイベントは!?」

「人の放火未遂をイベント扱いするな!」

「だって早紀子さん、自分の虐待疑惑の道連れに、保育園を燃やしてやりたかったんじゃないんですか?」

「それは……」

 厄病神の言う通りだ。早紀子は自分にかけられた虐待疑惑を、この施設の外で検証してもらいたいから放火しようと決意したのだ。だがそれを厄病神に諭されるのは納得できない。

 厄病神から視線を外し、伏し目がちに反論する。

「でもあれは、確かに叩いていると見られても仕方なかったのかもしれないし、ここでの仕事は諦めて、次を探すしか……」

「そんなぁ! あんなえん罪を晴らさないなんてもったいない! 早紀子さんは隣のクラスの先生にはめられたんですよ。諦めないでくださいよぉ」

「えん罪、ね」

 早紀子は厄病神の言葉ににやりと笑った。

「私の追っかけをしてるあんたが言うなら、あれは間違いなくえん罪なのよね。私は自分が正しいことを確信したかっただけだし、確認できたならもういいわ」

「え? あー!」

 自らの失言に気づき、厄病神は大きく声を上げる。それだけでも早紀子の溜飲は下がった。自分でもなく、疑惑を提示した相手でもなく、第三者の意見を聞けること。それが幻覚に近いものだったとしても、早紀子の気持ちを晴らすには十分だった。

 少し清々しい気持ちを感じ、改めて厄病神に目をやると、彼女のふっくらとした頬が少しだけ痩せていた。なるほど、と早紀子は得心がいく。自らの思考や気持ちで多少なりともネガティブが晴れるということは、自分にとって良いことを地道に積み重ねていけばいいのだ。真面目な早紀子にとって、地道な積み重ねは得意なことでもある。大切なことは方向性を見誤らないこと。それも、今後もこの厄病神が視認できるなら問題はなさそうに思えた。

 早紀子は、うちわと共に床に伏せる厄病神の小さな背中を見下ろして、左手に持っていた清めの塩を職員用玄関に撒いた。これでささやかな復讐は終わりだ。

 明日は辞表を出そう。

 満足した表情で、ポリタンクを持ち上げる。

 最後に、もう一度厄病神を一瞥。

 さっさと担降りしてくれ。

 願いを込めて、早紀子は深夜の職場を後にした。

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