ヘーゼルとチョコレイト

七川セキ


「『―恋は罪悪ですか。と私がその時突然に聞いた』」

 残暑の熱のこもったような空気の中に、美月の声が響いている。

「『罪悪です。たしかに。と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった』」

 水曜五限目の現国はいつも転寝に丁度よくて、耳をそばだてるといくつかの寝息が耳につく。その中で瀬央は意識を一点に絞って、ただ、美月の声を聞いている。出席番号と今日の日にちが同じと言う理由であてられて、弱い風に揺れるカーテンの隣に立ち、滔々と感情なく、ただ教科書を読み上げる声を聞いている。

「『私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった』」

 快晴の日がカーテンの間をすり抜けて、美月の顔の一部を照らしている。

 チョコレートの色をしたまっすぐな前髪。黒縁の眼鏡。米神を滑った汗が、眼鏡の縁に隠れた右の泣黒子のあたりを伝い落ちて行く。短い襟足の下で露わになった首筋が、汗のせいでほのかに光って見えた。あの席は首筋ばかり焼けると、確かにそこだけ赤みを帯びたうなじを摩って、美月がぼやいていた気がする。

「『それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います』」

 読み上げに淀みはなく、起伏もない。読んでいる方も聞いている方もつまらなさそうで、隣の席ではまだ寝落ちしていないクラスメイトも、はふりと欠伸を零している。誰があてられてもきっと同じだったはずだ。誰が読み上げてもきっと、皆、眠気や暑さと戦ったり負けたりしていた。今日が一日ではなく二日なら、瀬央もぼんやりと、この淀んだ空気に思考を止めていただろうか。

 だが今日は一日だったから。だから今この瞬間、瀬央はクラス唯一の例外として、机上に開いた教科書ではなく、黒板前でじっと朗読を聞く教師にでもなく、読み上げられるその物語にでもなく、ただ、その声に懸命に耳を傾けている。それが美月だからと言うだけで。

 美月の声を聞くのが好きだった。

「『先生、罪悪という意味をもっとはっきり言って聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで』」

 美月のずっと斜め後ろの席で、瀬央は額の汗を拭った。冷蔵のない室内の温度は外の気温と室温は等しく、じわりと浮かんでは落ちる汗が、ぱたりと罫線の上に染みになる。

 右手には下敷きで顔を扇ぐ者がいて、左手には眠気と熱さに耐えきれず落ち着きなく身じろぐ者がいて、その中で美月は涼し気にすら見えて、目を細める。いつも美月の表情は静かで、物腰は泰然としていて。いつまでだって、見ていられた。

 あぁ、顔が見たい。斜め前で教科書しか向いていないその顔を、髪と同じ色の目を。今この瞬間に、まっすぐに見られないのが惜しかった。

「『私には先生の話がますます解らなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった』―」

「はい、ありがとう。次―」

 この教室で、瀬央の次くらいに真面目に朗読を聞いていた教師が久しぶりに声をあげれば、あっさりと美月は黙って、椅子を引く音もさせずに腰を下ろす。手の甲で掬い上げるように眼鏡の位置を直していた。瞼のあたりを指で拭ったのは、あの長い睫毛に汗が絡みでもしたのかもしれない。授業が終わったら美月のところまで行って、なに?と尋ねてくるその顔の、あの睫毛に触って、なんだよ、と怒られでもしてみようか。

 そんな三十分後の未来を脳裏に描いた途端、名を呼ばれた。気抜けてただろう?と苦笑気味の教師に茶化されて、いえ、と答えた。そんなはずがない。理由は告げずに立ち上がった。美月が読み上げていた、その次のセンテンスを口を目線で追って確認する。

 口を開き声を産む刹那。ちらと教科書から一瞬外した視線の先で、美月が頬杖をついて、窺うようにこちらを見ている事に気付く。ただそれだけ。ほんの数瞬絡んだ視線に舞い上がるような心地になる。ねてた?と、その薄い唇が声もなく動いて目が細まったから、なおのこと。

(早く授業、終わんねぇかな)

 この泥のように空気も時も停滞した教室の中、同じことを願っているクラスメイトは何人もいて、その中でもきっと自分が一番切実だろうなと、目に入る文章を読み上げながら瀬央は思った。ねていない。そう返事を返すまで、美月はこちらを見ているだろうか。そうだったら嬉しい。美月を見る瀬央と同じなら、嬉しい。

 美月が、好きだった。


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