裂け目に覗く

 内に生じた名状しがたい激情を追い払うように、芳親は大股で、乱暴に歩いていく。しかし気持ちは一向に晴れなかった。分厚く重なった黒雲から、土砂降りの雨が幕を垂らしているかのように、嵐の様相を濃くしていく。

 整わない気持ちのまま、それでも器用に兼久の気配を探り当てて、芳親は一室の前に来た。兼久に貸し出された部屋ではなく、少し広めで、人を集めて会議もできる部屋。兼久は仕事をこちらで片付けてもいたため、まさに今も仕事中なのかもしれない。


 荒天の中、他愛ない事実は涼しい顔でたたずんでいる。雨水と泥でぐちゃぐちゃになった芳親を、屋内から気のない顔で眺めている。それは境田兼久のもの。芳親がこんなに苦しいと思っているのに、兼久は芳親を視界にすら入れていない。

 混乱が生み出した想像に、また胸裏を掻き乱されながら、芳親は障子戸を開けた。静かな部屋の中には、文机ふづくえに向かう人影が一つ。


「びっくりしたぁ。どうしたの、芳親」


 驚いて目を見開きながらも、親しい知人を見たために緩んで笑みを作る顔。見るからにお人好しそうで、何となく気弱な感じも窺える兼久の目に捉えられた瞬間、芳親の喉奥に空気の塊が座り込んだ。あれだけ振り払おうとしても散らなかった黒雲が、パッと消え失せた。


「えっ、どっ、どうしたの、嫌なことでもあった?」


 おもむろに立ち上がった兼久が、戸惑いながらも素早く歩み寄ってくる。芳親は室内へ足を踏み入れると、後ろ手に戸を閉めた。真っすぐ向けられた兼久の視線は、受け止められない。


「……義兄あにうえ。……」

「ゆっくりでいいよ」


 うつむいた芳親の上から、いつも通りに優しい兼久の声が降りてくる。嵐が去ってしまった後、芳親の中に残されているのは、弱々しく地面に転がった疑心だけだった。晴成が嘘を言っているとは思えないし、兼久が友人たちを追い詰めるように差し向けたとも思えない。どこにも行けなくなって、絶えず混乱の渦を生んでいる残響が、身体の内を少しずつ削いでいく。


「義兄、上……」

「うん」

「……、晴、成に……志乃、の、こと、探すよう、言った、って……」

「ああ、そうだね。晴成君にはちょっとしたお使いを頼んで、外に出てもらっていたから、そのまま捜索に協力してもらおうと思って」

「……晴、成が……志乃、の、こと……放って、おけない、って……思わ、なかった?」

「だからこそ、探してもらおうと思ったんだよ」


 途方に暮れてふらつく芳親に、何か掴まれるものを差し出すように、兼久の返答は淀みなく提示される。だが、何か掴まれるようなものは、兼久自身の手ではない。不安定にならないよう、固定されたものでもない。

 その場しのぎだ、と。出所の分からない声が、芳親の中で反響する。余波が耳鳴りになって、兼久の声を妨害する。胸の奥にある芯が、握り潰されるような心地がして。芳親はなおのこと、顔を上げられなくなった。


 ――僕は、信じられないんだ、義兄上を。


 重石のような自覚が、兼久の顔を見たくないと嫌がっている。

 重石のような自覚が、逃げ出したいだろうと急き立てる。


 兼久を信じられなかったことなんてなかった。疑うなどと呼べないくらいささやかな、たわむれの疑いしか抱いたことがなかった。嘘をつくような人ではないから。偽るような人ではないから。その人物像が今、大きく揺らいでいる。兼久に否定してもらいたいと願ってやまないのに、その否定は誤魔化しかもしれないと、すかさず横やりが入ってしまう。


「……信じられない? 僕のこと」


 さみしげな声色の問いかけに、芳親は動けない。首を横に振ることも、そんなことないと言葉を発することもできない。こういう時の沈黙が、肯定を示すと分かっていても。

 正直でいることは、何も間違っていないことのはずなのに。どうしてこんなにも、息が詰まるように苦しいのだろう。誰かに、何かにすがりたいと思ってしまうのだろう。


「そっか。……うん。それは正しいよ、芳親」


 そこへ、苦しみを終わらせるかのように差し出された手は、真実を携えていた。芳親にとって、信じたくない真実を。


「僕は、晴成君は志乃ちゃんを見捨てないって、絶対の確信を持っていた。誰か人を呼ぶより先に、自分で志乃ちゃんを助けたいって思うはずだと」


 差し出された手の先を、見張られた牡丹の瞳が見上げた。兼久の笑みは消えかかり、障子を通してぼんやりとした外光が入り込む瞳には、深い影が沈んでいる。


「志乃ちゃんと晴成君の、ただでさえ危うい関係……一歩間違えれば諸共に死ぬような関係を、瀬戸際まで追い詰めたんだよ。他でもない、この僕が」


 最後に残っていた笑みも消えて、暗さを増した花曇りの双眸が、牡丹の双眸を見下ろす。既に嵐が過ぎ去って、泥だらけな芳親の心側うらがわに、雨を予感させるような冷風が吹いた。


「……なん、で?」

「なんでだろうねぇ」

「答えて」


 すぐさま放たれた声に、芳親自身が驚いた。雷雅に向けたのと同じように冷え切った声を、信じてやまなかった人に向けるなんて。何かの間違いだと思いたいけれど、もう可能性さえ無いと、無情にも胸裏が凍り付いていく。


「二人とも、都……色護衆にとっては、ちょっと不利益が多すぎるから。せめて大多数を巻き込まない程度に、上手くいくなら二人の内だけで被害を留められるように。危険なものは危険なもの同士でくっついてもらいたいなぁと思ってさ。そしたら、こっちに迷惑は掛からないでしょ?」


 口調を変えないまま、突き放したものを睥睨へいげいするような言葉が、空気を冷え冷えとさせていく。体の距離は近いのに、透明な壁を挟んだような、触れられないほど遠いような錯覚を起こさせる。

 そんなことを言う人ではないと思っていた、と――ふっと浮かんだ言葉を最後に、芳親の芯は揺れから解放された。


「……よく、分かり、ました」


 かしこまった言葉なんて、僕には使わなくていいんだよ、と。いつかの声が蘇る。


「これ、で……失礼、します」


 たくさん頼ってね、何でも力になるからね、と。いつかの声が弾けて消える。


 牡丹の視線が曇天から逸らされ、障子戸に隔たれていた外側へ向かった。部屋を出て戸を閉める時も、牡丹は空を向かなかった。

 花曇りの瞳から注がれた雲が、芳親の中に雨を降らせている。まるで温かくない、冷え冷えとした雨。振り払う気力も失った芳親は、ただ温度を奪われるまま。一歩、また一歩と進むたび、水たまりが薄氷で覆われていく。


 こうして廊下を踏み締め歩いているのに、別の場所を漂っているかのような心地がした。信じられなかったとささやく声が、自分だけに降る雨音に混じって掻き消える。信じられなかった。信じられなかった。湧いては消えて、湧いては消えて。


 いつしか、芳親は草履を履いて庭へ出ていた。


 雲一つない夏空の下、生き生きと緑の茂る庭は、草と土と水の生気に満ちている。鼻から息を吸い込むと、泥濘でいねいの気分が少しは晴れた気がした。影が落ちている場所から香る、ひんやりとした土の匂いには、逆戻りさせられるような気がしたけれど。


「芳、親」


 不器用さが抜けきらない呼び声がして、弾かれたように振り返ると、木陰に澄美が立っていた。ついて来てくれていたのか、呼び捨てにしてくれるのか。単純に反応してしまったところから、気分が曇天を離れていく。


「澄美」

「はい、澄美にございます」

「知ってる」


 短いながら妙なやり取りをして、芳親が遠慮なく歩み寄る。澄美は人間に追い詰められた野良猫よろしく視線をさ迷わせていたものの、逃げはしなかった。


「……ずっと、いた、よね?」

「はい。茉白様の部屋を飛び出された時から、後を追って。……お話も、ある程度は」


 少し気まずさを滲ませつつも、澄美の声に震えはない。視線も、一度合わせれば逸らさなかった。木陰の下でひんやりとした茶色の瞳は、冴えてはいても鋭くはない。


「……義兄上は、ね。あんな、こと、言う人、じゃ、ない。……じゃ、ない、けど……分かん、なく……なっちゃっ、た」


 ぽつり、ぽつり。途切れながらも落ちていく芳親の言葉に続いて、「はい」と密やかな澄美の相槌も落ちる。軒からしたたったしずくを、小さな器が受け止めてくれているように。その時に鳴る些細な音が、澄美の声音に似ていた。


「……僕、怒るの、かな、って……歩い、てる、時、思って、た。……けど、全然。……雷雅の、時と……全然、違う」

「確かに、怒っては、いないようですね」

「そう。……でも……こう、いう、感じ……なんて、呼ぶ、のかな。……怒って、る、の、とは……真逆? な、感じ、が、する」

「どう、呼ぶのでしょうね」


 ただでさえぎこちなく聞こえる芳親の口調に、さらに不器用な澄美の返事が重なって、なんとも歯痒い会話が成される。それも終わって沈黙が流れ始めると、黙っているのがそこまで苦ではない芳親はともかく、澄美は戸惑いを深め始めた。落ち込んだ人を励ますなど、澄美はやったことがない。


「……、あ」


 澄美から零れた音は聞き逃さず、芳親が瞬時に顔を上げる。その機敏さに気圧されかけた澄美だが、「こちらへ」と何とか言葉を絞り出せた。

 隣り合わず、芳親を導く形で澄美が向かったのは、木槿むくげに囲われた石の長椅子。庭で澄美が立ち眩みを起こした際、志乃が座らせてくれたところ。


「志乃、と。ここで少し、お話をしました。……志乃の様子がおかしいのではと思った時、花の色彩が茉白様に似ていたので、相談すればと思い至って」

「確かに」


 自分でも何を話しているのかと混乱気味の澄美だったが、芳親は大真面目な顔で頷き、まじまじと木槿の花を眺め始めている。白く縁取るようでいて、奥の付け根が赤く色づいている花は、やはり茉白に似ていた。


「……澄美は、志乃のように、上手くお話をすることができません。茉白様のようにも、晴成様のようにも、できません。……申し訳ありません」

「なんで? ……澄美、僕の、気……、えー、っと……まぎら、わせて、くれた。嬉しい」


 嬉しい。言葉を出した後も、芳親は自分の内で繰り返す。嬉しい。澄美が話を聞いてくれたことも、志乃と一緒に来たという場所へ案内してくれたことも、茉白と同じ色をした花を見せてくれたことも、嬉しい。

 盛夏に反して冷え切ってしまった内側は、まだ日が差さず肌寒いけれど、ひとまず雨は止んだ。これ以上、寒くなることはなさそうだった。


「ありがとう、澄美」

「ど、どう、いたしまし、て?」

「うん、合ってる」

「うむ、合っているな」


 第三者の声に、思わず澄美の肩が跳ね上がる。志乃と一緒の帰り道で美々弧みみこに会った時もそうだったが、どうやら対人する時は相手に意識を割きすぎて、注意が疎かになってしまうらしい。


「すまん、驚かせたか」

「い、え。お気遣いなく、晴成様」


 ばくばくと大きくなった鼓動を落ち着けながら自省を済ませ、澄美は藍色の面影に向き直った。芳親は気付いていたため、澄美の挙動を不思議そうに眺めつつ、同じく晴成へ視線を移し……その隣へ進み出た小柄な影に目を輝かせた。


「茉白!」

「そんな大声で呼ばなくても、気付いていたでしょうに」


 呆れ顔を向けられるも、芳親は気にせず茉白の傍へ歩み寄る。その流れのまま、茉白の片手を取って持ち上げた。


「ごめん、なさい。……振り、払っちゃ、って」

「大丈夫、気にしていません。こちらこそ、すぐに追いかけられなくてごめんなさい」

「それについては己からも謝罪を。すまない、芳親。茉白を引き止めたのは己だ。少し話があったのでな」

「僕、も、大丈、夫。……大、丈夫、じゃ、なかった、けど……澄美、が、気、まぎら、わせて、くれた、から、なんと、か、なった」


 芳親が胸を張ると、静かに控えの態勢へ移っていた澄美が、藍色と赤の視線を受けて身じろぐ。何とも言えない生温かい空気が流れたのも束の間、発端たる芳親が「それ、でね」と軌道修正もしていた。


「……義兄、上、に……確認、して、きた。……志乃、と、晴成、の、こと……追い詰め、た、のは、……義兄上、だった」


 口調が途切れ途切れなのはいつも通りだが、尻すぼみになっていくことはなく、きっぱり言い切ってしまった。不思議と口角がわずかに上がり、弱々しい笑みまで浮かんでしまったが、芳親にはどうしてそうなったのか分からない。


「僕……怒る、の、かなって、思った、けど……そんな、こと、なくて。……なんだろ、ね、これ。……ずっ、と……冷え冷え、して、る、みたい、で……」


 おのずと胸に手を翳して、芳親は小さく息を吐いた。つられて目線も下がっていたが、向き合った影が動いたことでまた上がった。動いたのは茉白の方で、何故か両腕を広げている。


「……茉白?」

「抱きしめるのは後で、って言ったでしょう。今していいよ。しつこかったら引き剥がす役もいるし」

「ははは、そうだな。どうせなら己にも抱擁するといい、芳親。己も後でと言ったからな」


 たちまち顔を輝かせながらも、芳親は恐る恐るといった体で茉白を抱きしめた。

 天授の紅白が、芳親の胸にすっぽり収まる。程よい温さが、冷えていた胸裏に心地よく染みていく。常世から現世へ来てしばらくは、芳親と茉白の背丈は変わらずにいたが、今では頭の位置が茉白より高くなった。


「相変わらず体温が高いね、芳親は」

「ぽかぽか……だから。ふふん」

「暑くなってきたから晴成と交代」

「えっ」


 早くも鬱陶しげに言われた途端、自慢そうだった芳親の表情が弱り切ったものへ変わる。ぺしょりと落胆した顔で茉白から離れると、芳親は晴成の方へ腕を伸ばした。苦笑しながら受け入れてくれた藍色の面影は、芳親の頭より少し上にある。


「……そう、いえ、ば。晴成、は……茉白、と……何、話し、てた、の?」

「ああ、志乃をこちらに繋ぎ止めておく方法を探したいから、相談に乗ってもらっていた。己は〈征北せいほく〉の歴史を抱えた土地の出、都にとっては不穏の種候補だからな」


 ――二人とも、都……色護衆にとっては、ちょっと不利益が多すぎるから。


 冷たい声が思い起こされて、芳親は晴成からそっと離れた。見上げた好青年の顔には、不利益なんて言葉も、不穏の種なんて表現も似合わない。そういう言葉を発する姿も似合わない。……似合わないのは、声と共に思い起こした、お人好しめいた好青年も同じように。


 他ならぬ兼久が言ったのだから、本当なのだろうと思う。

 他ならぬ兼久が言ったとしても、信じられないと思う。

 二つの気持ちがあって、どちらも芳親から生じたもの。捨てないまま両方持っていても、誰にも文句は言われないだろう。まだどちらが本当なのか分からないし、どちらも違うかもしれない。


 ――怒るよりも信じる方が、おいらの性に合ってるんです。だから、信じることにしました。


 過ぎた春の港で、たぬきの青年が言った記憶も、不意に蓋を開けて出てきた。あれは志乃へ送られた言葉だったが、何となく良いなと思って、自分の中にもしまい込んでいた。今の今まですっかり忘れていたけれど。


「芳親、どうした」


 晴成の呼びかけで、芳親は我に返った。芳親が言葉を発するのに時間を要することは、この場の誰もが承知しているが、さすがに沈黙が長すぎたらしい。


「あー……ごめん。考え、たり……思い、出し、たり、してた」

「そうか。熟考の邪魔をしてしまったか?」

「全然。……自分、で、片、付け、られた」

「ひと段落着いたなら、話の続きは屋内でしましょう。外で集まっていたら、何事かと注目を集めてしまうでしょうし」


 澄美を手招き隣へ引き寄せながら言う茉白に、異を唱える声や動作は現れなかった。


 仲良く連れ立った四人は、木漏れ日が落ちる石の道を辿って建物へ戻っていく。晴れ渡った夏空を、同じく連れ立った数羽の小鳥が、じゃれ合うようにして飛んでいく。笛を遊ばせるように飛び交う鳴き声が、通り雨よろしく降っては過ぎていった。笑い声にも聞こえるそれは、志乃の声も思い起こさせる。

 束の間、鳥の声に空を見上げた芳親は、牡丹の瞳に光を宿す。前髪のすだれが下ろされた奥で輝きを秘した目は、ただじっと前を見据えていた。

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