後ろ手を組む

 どうして、志乃の様子がおかしいことに気付けなかったのだろう。

 どうして、志乃がいなくなったことに気付けなかったのだろう。


 自問を繰り返しながら、芳親は澄美の背を追い、旅館の廊下を急いでいた。宿泊者たちがいつでも発てるよう支度を済ませているため、閑散を覗かせる屋内には注意の声も響かない。


 どうして、志乃は――。


「茉白様、芳親をお連れしました」

「ありがとう、入って」


 繰り返される自問が、手短な女性二人の声に遮られる。いつもより張り詰めて低い声。茉白の方にはほんのりと疲労の影も差している。

 飛び込みたい気持ちを押さえて、芳親はゆっくり部屋へ入った。室内には、宿した色が馴染まないまま座る人影が二つ。手前には茉白が、その隣には、上着を直したばかりの晴成が。首から肩にかけて巻かれ、今は首元に覗くだけの包帯が、非常事態を示している。


「すまない、芳親。居場所を伝えて、お前と共に対応するべきだったな」


 困ったように、申し訳なさそうに笑う晴成に、芳親は唇を噛んでうつむいた。晴成を責める気になど、到底なれない。助けたくて、何かせずにはいられなくて、動いたに違いないのだから。


「……僕、すぐに……気付け、なかった。……僕、こそ……ごめん。駆け、つけられ、なくて」


 どうして、志乃は言ってくれなかったのだろう。苦しいと言ってくれれば、いくらでも力になったのに。自分の力が及ばないなら、他の誰かを頼ってでも助けたのに。

 晴成と一緒に戻ってきた志乃は、直武の元へ戻っていた。捜索に協力していた紀定も、既に戻っているだろう。けれど、芳親はそちらを確認するより先に、晴成の様子を見に来た。志乃を繋ぎ止める約束を交わした、大切な友人の無事を。


 ひとまず座った芳親だったが、膝の上で拳を握り締めている。男性としては華奢なその拳に、より華奢な白魚が滑り込んだ。芳親の手をゆっくりほどいて、ふんわりと握って。それだけで、ぎちぎちに締め上げられた胸中の芯も解放されてゆく。


「過ぎた爪痕を、さらに深める必要はないよ、芳親」


 穏やかな声に顔を上げれば、牡丹の瞳と南天の瞳が視線を結ぶ。屋内でも馴染まない白に、赤い双眸が点を打つ茉白の姿は明瞭で、揺るぎなかった。今まで芳親が見てきた姿と同じように。


「今回のことは、芳親の落ち度じゃない。大丈夫。起きてしまったことを悔いるより、これからの対応を考えなきゃ」

「……う、ん。……茉白、抱きしめ」

「ごめんそれは後にして」


 にべもなく断られると、途端に芳親は頬を膨らませた。茉白も茉白で、じとりと咎めるような視線を寄越す。たちまち、芳親はひそめていた眉を困った八の字にして、頬も肩もしぼませてしまった。目も下方を向いて泳ぎに泳いでいる。


「はい、後ろや下を見るのはおしまい。前を見て、芳親」

「う、うん」

「よろしい。じゃ、晴成、説明」

「任された」


 手早く取り分けるような指示を受け、語り手も交代する。茉白は手も引いていたが、芳親が片手を離さなかったため、片方だけ繋いだままになっていた。


「見ての通り、志乃の状態を分かっていながら接触して、この有り様……包帯の下は志乃の噛み痕だらけという有り様だ。加えて、志乃以外に殺されないという約束まで交わしてしまった始末。志乃の状態がさらに悪化しそうな気配がしていたのと、この上ない役得と思った私欲とで、芳親にとって好ましくない結果を引き寄せてしまった」

「……役得……私欲……?」

「好いた相手が求めるものを差し出せるのはおのれのみ、という状況など、役得以外の何物でもないだろう」


 左右にそれぞれ首を傾げる芳親に、晴成はにやりと笑いかける。首を戻した芳親はいぶかしそうに宙を見ていたが、理解できたのかこくこくと頷いた。


「……でも、晴成、は……そういうの、関係なく……志乃の、こと、助けてた」

「自信に満ちた断言だな。何か根拠でも掴んでいるのか?」

「僕が、晴成の、そういう、ところ……大好き、だから」


 ふふん、と自慢げに胸を張る芳親だが、それを根拠と呼ぶのは苦しい。茉白も呆れ顔を向けるほどだったが、晴成は素で笑ってしまう。


「ああ。おれも、お前のそういうところを好ましく思うぞ、芳親」

「……!」

「おっと、悪いが抱擁は後にしてくれ」


 笑いながらも晴成が制止すると、輝いていた牡丹の瞳が急速に暗くなる。いじけたように俯いてそっぽを向くと、「志乃なら、やって、くれる……」と不満げな声も落ちた。


「……それに、抱擁などしては、これから伝えることがより辛くなる」


 表情が暗くなったのは、晴成も同じ。芳親もすぐに気づいて、どういうことかと茉白を見てみたが、茉白の表情も同じく影が差していた。ずっと戸口で控えていた澄美の方も見てみるが、そちらはあまり変わらないようでいて、しかしやはり浮かない表情をしている。


「芳親。何故、己がお前より先に志乃を見つけられたと思う」

「え、あ、そういえば……」


 すっかり自問や自責に追いやられていたが、それは芳親が最初に抱いた疑念でもあった。どうして、志乃の居場所を気配で探れる自分より先に、晴成が志乃を見つけられたのか。ひとまず、偶然ではないかと結論付けていたのだが。


「いかに偶然が起きようと、芳親のことも避けてまで逃げようとしていた志乃に、己が遭遇できるはずなどない。そもそも、あの時の志乃が最も会いたくなかったのは己だ。いくら錯乱していたとはいえ、避けることを失念するとは思えん。まあ、己は事が起こったとき旅館にいなかったから、最初から考慮していなかった可能性もあるにはあるが……それは置いて、だ。そんな状態の志乃に、己が一人きりで遭遇することは、本来ありえなかったはず」

「……仕組まれて、た……って、言いたい、の?」


 志乃を追い詰めるようなことを、晴成が傷を負うようなことを、誰が。片方だけ、茉白と繋ぎっぱなしだった手をぎゅっと握る芳親に、改めて晴成の目が向けられる。迷いの色を垣間見せる、翳った藍色の眼差しが。


「己は少し頼まれて、旅館を離れていた。内容は単なる届け物で、早々に達成して帰るところだった。そこへ、頼みごとをしてきた相手から志乃がいなくなった、探してくれと直に頼まれ、結果としてこうなった。己が人を呼ぶより、目の前の志乃を放っておけないと分かっていたのだろうな、兼久殿は」

「……え?」


 流れるまま告げられた名前に、周囲から音が消え去っていく。芳親は目を見開いて、凍り付いたように動けなくなった。けれどそれは一瞬で、カッと沸き起こった衝動のままに立ち上がる。


義兄上あにうえが、義兄上が、そんな、こと……ッ」

「芳親」


 傍らで立ち上がった茉白が、離れた芳親の片手を両手で包む。好ましくて小さな安堵が、今は手枷のように思えて、芳親はらしくもなく振り払った。そんなことをしてしまう自分が分からなかったし、兼久が志乃と晴成を追い詰めるようなことをした理由も、それが本当なのか嘘なのかも分からない。様々な戸惑いが、芳親の息を狭めていく。


「っ、……、……聞いて、くる。義兄上に」


 動揺に震えた顔のまま、誰かに縋りたくてたまらず苦しい顔のまま、芳親は足早に部屋を出て行った。追おうとした茉白を晴成が制し、目配せを受けた澄美が代わりに追う。どたどた、とたとたと足音が消えていき、室内は静かになった。


「分かっていたことではあるが、やはり動揺させてしまったな」

「今の芳親じゃ、兼久さんとまともに話せるわけがないわ……私がついて行ったところで、たいして変わらないと思うけど」


 軋むような声色で言いながら、振り払われた両手を握り締める茉白の渋面は、芳親よりもずっと静かで苦い。感情を押し戻すようにゆっくり座り直すと、赤い双眸が晴成を映した。


「……芳親が来る前にしていた話、続けたいのでしょう。貴方は貴方で、志乃を繋ぎ止める手筈てはずを用意する。私がそれに協力する。それで?」

「ほう、協力してくれるのか」

「私にとっても、志乃は大切な友人です。志乃を傷つけず人間側へ繋ぎ止めるために、私に何かできるというのなら、協力しないわけはありません」


 姿勢を整え、毅然と言い切る茉白の姿は、雪原に凛と咲き誇る花の如し。可憐な容姿でありながら、ぎっしり固まった雪のような中身をした少女は、歴史を重ねた家の頂点に坐している。晴成もよく知っている、当主という席に座った者の姿は、威厳に満ちながらもどこか孤独だ。


「己が考えていることは、まだ空想の域を出ていない。そもそも、実現できるかどうかも分からない。だが、かの天藤家に伝わる天授の力を降ろした貴殿の協力があれば、実現できるかもしれん」

「……私の力は、肉体や精神の治療や治癒に関わるものだけど、万能じゃない。最初から過剰な期待を寄せられるのは困ります」

「無論、承知している。それに、頼りにしているのは、貴殿が持つ天授の力だけではない。天藤家にある資料や、天藤家の権限で閲覧できる資料。そういったものからも情報を集めたい。と言っても、己は北から上洛する身だ。天授の家系であっても、都に近く歴史も古い天藤家を嗅ぎ回れば、色護衆しきごしゅうを含めた勢力に目を付けられることもあるだろう」


 晴成の出身地である橙路とうじ府には〈征北せいほく〉の歴史、都と戦った歴史がある。関係性の構築や情報収集は、都に近づけば近づくほど慎重と考慮を要するだろう。その前に、晴成は繋げる場所を繋げていた。自分のために、星永家のために。加えてもう一つ、大切な友人たちのために。


「己のすることには、そういった危険も付き纏う。それでも、貴殿は協力してくれるか」

「二言はありません」


 茉白の返答は簡潔で、冴え冴えと鋭利に澄んでいた。血を透かしたような瞳は、火を入れたばかりのような眼光を宿している。傍に座るだけで心が沸き立ち、熱くなるような眼差しは、肩を並べて戦場へ向かう仲間が放つものと同じ。


「感謝する、茉白」

「どうということはありません。どうやら私たちは似た者同士ですし、協力するのも自然なことでしょう」


 頭を下げる晴成に、茉白は淡々と応じる。天授の家系に関わる者同士であり、人界の端にいる者同士。歪んだ定めを背負わされながらも、灯火を見つけようと足掻く妖雛の手を取った者同士。その妖雛たちほど気安くはないが、こちらもこちらで手を組んだ。


「それで。貴方はどれほど突飛な方法で、志乃を人の側に繋ぎ止めるつもり?」

「ああ、己が考えているのは――」


 探る目線を伴った問いかけに、晴成は至って簡単に答え、いくつか補足も付ける。何の引っかかりもなく出された答えも突飛だったが、茉白からすると付け足された事柄の方が並大抵ではなかった。茉白でなくとも、術に長ずるものならできなくはないことを、極めて難しい条件で成そうとしている。そのため、並大抵ではなくなっている。


「確かに、実現できるかどうかの瀬戸際にあるような策ね。大きな括りで見れば、秘匿されているとはいえ、方法を探り当てることができると思うけれど……貴方が最もやりたいことを成す方法は、全く新しい方法で編み出す必要さえあるかもしれない」

「やはり。ところで、己をとがめないのだな、茉白。驚きもせず考慮してくれるか、驚いて止めるかは半々と見ていたが」

「考えたことはあるから。そういうの」


 さらり、茉白も引っかかりのない答えを寄越す。晴成に驚いた様子はなく、どこか納得を感じさせる顔で茉白を見ていた。

 妖雛二人が鋼の縁を結んだ際に感じたような狂喜は、天授色を持つ二人には発生していない。「ああ、同類か」と一瞥で確かめ、無言のまま同じ方向へ歩き出す、静かで緩やかな流れが横たわっているだけ。


「さっき、私たちは似た者同士らしいと言ったけど。どうやら思っていた以上に似ているみたいだね、晴成」

「そのようだな」


 欠点と感じていることを、説明しなくても分かり合えるような同類。そんなお互いへ向ける微笑は、薄暗い中に置かれた鏡を見ているようだった。

 隠したいことを手渡す必要もなく、互いに背後の荷物を掌握し合い、何事も無かったかのように進む。何もかもを正直に打ち明け、手を繋いで帰ってきた志乃と芳親とは大違いだったが、二人の素直ほど貴重でもなかった。後ろ手に何かを隠しながら澄まし顔を取り繕っているのは、茉白と晴成だけではない。


「己たちがいるのは人界の端。ここに志乃と芳親の足を付けさせ、人の側へ引っ張っていく。そして守りながら慣らしていく。それが己たちの役割というわけだ」

「まさしく。さて、お互いの目的が合致していることも確認できたし、そろそろ芳親を迎えに行ってあげましょうか。今の澄美では対応に困ってしまうでしょう」

「ああ。引き止めてすまなかった。これからよろしく頼む、茉白」

「こちらこそ」


 手短にやり取りを締め括り、天授色に彩られた二人も部屋を出た。一人でも目立つ色彩の持ち主が二つも揃えば、非現実めいた風景に拍車がかかるも、抱く目的は友人の傍へ行くという平凡なもの。止める者もいなければ、止められるいわれも全くない。

 隣り合った紅白と藍色の面影が、牡丹色の持ち主と、先に追従した透明な影に追いつくまで、そう時間はかからない。ぐらりと傾く体につられ、投げ出された手を掴む瞬間もまた、そう遠くなかった。

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