炬星に眩む
「何を、している?」
ほんのわずかな時の滞りは、晴成の声から伝わった揺らぎで動き出した。
問いかけが意味をなさないほど、答えは瞭然。踏み入るや否や晴成はすぐに駆け寄り、志乃の手首と肩をそれぞれ掴んだ。
「何をしている! まさか、怪我というのは」
ほんの少し口が緩んだところで、腕が外される。そのまま晴成は志乃の袖を
「っ……、早く茉白に見せよう。立てるか?」
言いながら、晴成は二の腕の包帯を結び直し、自分の袖も破って包帯代わりにする。新たに穿たれた腕の傷に、布切れ包帯が素早く巻かれていくのを、志乃は呆然と眺めていた。けれどまた、ふわりと良い匂いが香る。逃れようのない、甘美と刻まれた血の匂いが。
――そんな風に駆け寄ってしまうから、貴方は。
手を引く動作をすれば、晴成は容易く手を離す。志乃が自力で歩いて行けると思ったのだろう、先に立ち上がって歩き出しもする。
――そんな風に背を向けて、こちらを信じるから、
志乃はそれよりも早く動いていた。低い姿勢を保ったまま、飛び出すように襖へ触れると、ぴしゃりと閉ざす。
「なっ――」
舞い上がった埃が、独特の匂いと共に密室を満たす。晴成が零した声一粒も、たちまち埋もれていった。
だが、どちらも志乃には届いていない。そのまま振り返って、下から飛び掛かるように、晴成の肩を掴んでいる。完全に不意を突かれた晴成の姿勢が、崩れていく。
持ち直すのも許さないまま、手にかけた着物をずらして、志乃は躊躇なく噛み付いていた。あらわにした晴成の右肩に。
「っぐ……!」
潰れた
全身で抑えつけた獲物を、志乃は何度も噛んでいた。右肩だけでなく左肩も、女より凹凸が際立つ首も。深く浅く何度も牙を立てて、滲み出す血を吸い舐め取って。あれだけ惑い藻掻いた意味が無へ帰していくのと引き換えに、空白の一部が少しずつ満たされていく。
固めると言っていいほど抑え付けていたからか、獲物は抵抗しなくなっていた。同じく肩へ食い込ませていた手を緩めても、動く気配はない。散々噛み付いた肩に顔を埋めると、志乃は片手を空けて、布越しに血の源へ触れた。
どくり、どくり。心臓が動いている。動いているから、
濃くなった血の香りは陶酔をくれる。陶酔は静穏をくれる。押し殺していた衝動は見る影もなくなって、ぬくい
微睡みすら覚えられるような中、荒波に沈められていたものが浮かんできた。理性を介した感覚が、だんだん鮮明になってきた。自分が
「……落ち着いたか?」
耳のすぐ傍で、声がした。体温が乗って温かいはずの息は、しかし志乃の
「ぁ……」
血の匂いが、する。
夢心地から引き戻されても、奥底から湧く食欲は消えることなく、ずるずると胸裏に溜まっていく。
――俺は、晴成を喰い殺そうとした。
否応なく分かってしまう事実が、志乃から何かを削ぎ落していった。
我慢しようと努めていた今までが、張りぼてのように呆気なく倒れていく。軽さと脆さを思い知らせてくる。そもそも、我慢しようと心掛けなければいけない時点で、気付いておかなければならなかった。忘れてはいけなかった。自分はそうやって律されなければならない、化け物なのだと。
晴成の肩から剥がした途端、小刻みな震えに支配された手を床に突き、上体を起こす。汚濁が藍色へ移らない内に離れたいのに、離れなければならないのに、力が抜けた体は言うことを聞かない。
「……嫌って、ください」
動けない体の代わりに、懇願が落ちた。
「お願い、します、晴成。俺を、嫌ってください。拒絶して、ください。……貴方を、害したく、ない。傷つけたくも、ない」
もう傷つけておいて、今更、何を言っているのだろう。それでも言わずにはいられなかった。さっさと自分のことなど突き飛ばして、見損なった失望したと吐き捨てて――いや、罵倒を投げてもらう資格さえないか――立ち去ってもらいたかった。
志乃の視線は晴成の顔に落ちないまま、絶えず視界の端を彩る藍色から逸れている。さらに意識を引き剥がすように、自責の雑音が頭を満たしていく。急き立てられるような心地が、志乃の首を少しずつ締め上げる。
「無理だな、それは」
望んだ拒絶とは別の拒絶を包んだ声が、やわい響きで
背後から無数に迫る絞首の手も、体内を埋め尽くすような雑音も、見事に拭い去られていく。考えてみれば、それもそうだった。星永晴成という人間は、遥かな高みで輝く星なのだから。
「
体に力が入っていない志乃ごと、晴成が身を起こす。支えるように添えられた手に、拘束めいた力は感じないのに、どうしてか逃げられない予感が伝う。顔が向き合ってしまえば、藍色の双眸に見留められてしまえば、予感はさらに強まっていく。
先ほど苦痛を与えられたことが嘘のように、赤く滲む傷の痛みなど知らないとばかりに、晴成は微笑んでいた。自身の苦痛ではなく、誰かへの憂慮や悲哀で歪む笑みは、嫌になるほど美しい。
「己が言えたことではないが。お前に辛そうな顔をされると、何より
「……すみません。いつもの顔にする、ので、少し時間を」
「違う、するなと言っているわけではない。己は人の、そういう顔を見ていられないだけだ。どうしてもお節介になる。お前に対しては特にそうだから、困ったと、それだけだ」
聞こえも中身も高潔な言葉が、戻ろうとした志乃の笑みを阻害する。手の届きようがない高低と断絶を、知らしめる。
「先も言ったが、お前を嫌うことは無理だ、志乃。お前が己を振り返らないだとか、他の誰かと結ばれるのは構わん。幸せになってくれるのなら、それが一番嬉しい。だからこそ、自由なお前を愛しく、かけがえなく思う心を捨てることだけは無理だ。どうしても」
だというのに星は、変わらずこちらへ手を差し伸べるので。どんな温情を向けられても壊してしまう鬼は、恐ろしくて仕方がない。汚れも傷も恐れないその手が、されるがまま傷ついて、無惨になってしまうなど見たくない。見たくないのだから、早く離れないといけないのに。
「お前の心を守るためなら、いくらでも拒絶してくれ。己の好意がお前を傷つけるのなら、封じ込めるのも苦ではない。だが、こちらで捨てることはできない。無かったことに、したくはないのだ。触れられぬと分かっていても、手を伸ばさずにはいられなかった、あの衝動を」
晴成は志乃を拒絶しない。志乃でなくても、誰かを拒絶することなどない。憧れるほどの高潔が、志乃にはどうしようもなくて、どうすればいいのかも分からなくて。どうもできない自分が、ただただ不甲斐ない。
「……嫌って、ください」
振り払っては傷がつく。汚れが移る。
「嫌って、もらわないと。俺はいつか、貴方を殺します。駄目と分かっていても、殺してしまいます。今も、今すぐにでも、何かの拍子で、喰い殺したく、なって……」
喰い殺したい。
望みを口にした瞬間、頭に声が溢れ出した。喰い殺したい、喰い殺したい、喰い殺したい。だって、あんなに美味しかった。自分以外の誰かに喰われるなど、殺されるなど耐えられない。奪われかねないなら早くこの牙で殺しておきたい……そんな欲があまりにも
「お願い、します。……俺のことなど、嫌ってください。見ないでください。……忘れて、ください」
害したくない。殺したくない。欲したくない。――あいしたく、ない。
殺意も、食欲も、愛ではない。人に伝う愛など抱けない志乃では、間違ったものを愛と呼びかねない志乃では、晴成に応えられない。星の光は他の誰かへ、暗闇で迷う人へ向いてほしい。例えば、澄美のような、日向へ行って温められるべき人に。
志乃は凍える真夜中でも平気だ。冷え切った夜の底でも平気。だって灯りは見つけたのだ、いつか、最果てで殺してくれる
それなのに。
「残念だが、叶えてやれん。己は、どうしてもお前が好きだ。何度でも繰り返してしまえるくらいに」
それなのに、星は動かないまま、動けず顔も上げられない化け物を見つめている。ただ、ここにいるからとだけ
「……喰い殺そうと、したのに?」
「それは文字通り痛感したが、もたらすのがお前なら、それで良い。己はおかしいのでな。正直なところ、拒絶される方が正しいのは己の方だとさえ思う。己がお前に向ける思慕は、我ながら広大すぎるからな。冷静に考えれば気味が悪いだろうし、堪ったものでもないだろう」
砕けることになろうとも、その光が良いことばかりをもたらさないとしても、星はこちらを照らし続ける。砕ける犠牲を拒みながら、仄明るい光に一欠片でも安息を感じ取って、志乃の
楽に縋ろうとする弱さも、晴成の自虐も振り払うように、志乃は首を横に振った。今ここで向き合っているものは、首を横に振るようなことばかりだ。
「貴方は……俺にどうされようが、構わないのですか」
意味をなさないと分かりきった笑みを、慣れのせいで貼り付けっぱなしな顔を上げて、志乃は震え声で問いかける。どんな顔でいればいいのかも分からないのに、晴成の顔には
星の笑みは、鬼と違って仮面ですらないのだ。
「構わない。嫌われても、傷つけられても、お前への勝手な懸想を黙殺されても。己自身の意志を消す以外なら、己はお前から何をされたっていいんだよ、志乃。お前に、すべて差し出してしまったのだから」
藍色の双眸は、ずっと逸らされない。どんなに隔てようと、拒もうと星はただそこにあって、こちらに光を注ぐだけ。それは当たり前で、何でもないことで――どうしようも、ない。
どうして、差し伸べてもらえるのが俺なのですか。どうして、到底そんな資格のない俺なのですか。
喉の奥で、言葉が潰れ消えていく。だが、志乃も志乃だ。離れなければならないと分かっていたのだから、早急にそうするべきだったのに、ずっと動けないままでいる。背を向けることはできても歩き出せはしない自分の惰弱が、本当に愚かで、
「人の側にいたいと望んでいるのなら、その衝動に耐えることこそ、お前の成すべきことなのだろう。ゆえに己も
そんな醜い汚濁にも、星は変わらず柔らかい調べを奏で注ぐ。
支えるように添えた手に、捕まえる役目を持たせないまま、晴成は志乃を見ていた。たとえ志乃が逸らしても、夜闇に隠れても、まっすぐ見つめ続けるのだろう目で。
「どうか、己以外は食べてくれるな、志乃。お前の自由を望むと語りながら、お前の唯一になれる座を設けて、結局お前を縛ろうとする嘘つきを、ゆるすな」
ああ、ほら――志乃の内側に、嘲笑ういつかの声が響く。
お前がぐずぐずしているせいで、星の行く末が台無しになった。
「……ゆるさない、です」
壊れた笑みのまま、志乃は繰り返すように答えた。ゆるさない、ゆるさない。傷つけることしかしなかった自分のことを。見過ごしていた弱さに負けた、どうしようもない自分のことを。
「ゆるさない、です。……だいきらい、です」
言われた通り、晴成のこともゆるさない。どこまでも自分勝手が止まらないまま、志乃は藍色の星を睨みつける。
傷つけたくないのに傷つけさせて、砕きたくないのに砕かせる。向けるべきではない光をくれて、人に混じれない化け物の姿を明らかにする。遥かに遠い高嶺を捨てて、底なしの
「あなたのこと、なんて……だいっ、きらい、です」
そんな、ひどく美しい星なんて、一生ゆるしてやらない。
「きらいです、きらい。晴成なんてきらい。なんで俺のことなんか好きになっちゃったんですか。見返りもないし、報われることもない。俺が貴方を、人がやるように愛することなんてできない。貴方が手にできるものなんて一つもないのに、貴方に俺が渡せるものなんて、何も無いのに、ばかじゃないですか。ばかですよ、ばか、そういう人のことばかっていうんですよ俺知ってます」
動けず動かないまま、志乃は抱えきれなくなった水を溢れさせる。妖雛の性質上、涙を流すことはできないので、言葉を土砂降りの雨束にして。
不慣れで不器用な罵倒を受けても、晴成は穏やかな視線を向けるだけだった。藍色の火影を抱く星は、雨に
「救いようのない
何てことなさそうに耐え抜いて、聞く者の息を詰めるほど穏やかな声で、志乃の芯を容易く揺すぶる。
壊れきったこの身では、星に触れるなどできなかったけれど。容易く落ちてきた星に触れてしまって、仄かな光と熱にどうしようもなく焦がれて、思ってしまった。星を握り絞め砕き壊して、冷えて消えゆくまで全てを、手のひらに感じていたいと。
どんなに報いたいと藻掻いても、自分は晴成を傷つけて、いつか殺してしまう。そういうモノだと認めたのだから。認めた以上は、それらしく振る舞ってみせる。
「……貴方が、俺のものだと、言うのなら。……願いを一つ、聞いていただけますか」
「ふむ。それなら、何が何でも叶えなければな。内容によっては、叶えるにしても工夫しなければならないが」
どんな無茶な願いをぶつけても、きっと叶えてしまう星。叶えようと、総力を懸けてくれるのだろう星。深い藍色の瞳には、無様な笑みを貼り付けた鬼が映り込んでいる。
「いつか、俺は貴方を殺します。貴方の死は、俺以外に許さない。死ぬ時は、理由も原因も俺にしてください。俺のためだけに死んでください、晴成」
志乃が紡いだ声に、震えはなかった。どこをどう切り取ろうがろくでもない願い。しかし、晴成の顔に嫌がるような色は一つも浮かばない。分かり切ったその顔が、どうしようもなく嫌で。嫌なくせに、その顔を引き出した自分も嫌で。
「ああ、喜んで」
抑えるような震えもなく、答える声の
ゆっくりと顔を下げて、閉じた眼裏で
返された抱擁で閉じられた腕の中は、皮膚の下に通う熱と血の芳香で満ちている。引き裂いたらきっと、この上なく綺麗に咲いてくれる、灯火を抱く
芳親と鋼の縁を結び直した時のように、志乃にも晴成にも、治らない傷が刻まれてしまった。壊れ消える結末に向かう自分と違って、壊れることも失われることも望まれない星に、砕けて消える末路が開いてしまった。
「……晴成。お願いに、少し、付け加えます。俺が貴方を殺す時を、できるだけ、先延ばしできるように、協力してください。……死なないでください。生きていてください。そうでなければ、俺も、他の人たちも、くるしくなります」
「それはまた、恵まれたものだな。ならば応じなければなるまい」
手を握るにしても抱きしめるにしても、決して込められなかった力が志乃を包む。志乃が振り払おうとすれば容易い、逃げ道のような隙を残して。
「一緒に生きよう、志乃」
芳親には言わせられなかった言葉が、耳のすぐ傍でなぞられる。やさしく温かい星の声が、無駄花の夢を生き返らせる。
距離を保ち続けていた藍色の瞳が、宿した星の火影まで見えるほど近くにあった。明星を抱く朝まだきの青藍は、しかし夜闇に凝る漆黒へ落ちてしまえば、見えなくなる。
どうして、と。何度目かも分からない自問が繰り返された。叶わないことが見え透いた夢なんて、二度と蘇らないよう殺しておくべきなのに。何もかも振り払って、何もかも無かったことにしてしまえたら、傷痕なんて残らなかったのに。
夜灯に引き寄せられた羽蟲が、離れられず緩やかに落ちていく様が、志乃の脳裏に浮かび上がった。編めないままの
「……俺が、ただ崩れていくだけの、人間から離れていくばかりの化け物でも、一緒に生きてくれるのですか」
ばかみたいな問いかけをしてしまった。あんまりにも苦しいから、足掻いてしまったのかもしれなかった。
「お前を独りにしたくないからな」
打てば響くように答える声は、柔らかかった。苦しさなど微塵もなく、穏やかだった。
「俺は……芳親に殺してもらったら、きっと地獄に行きますよ」
「お前がいるなら、己にとってはどこでも楽土だ」
無駄に至るほど美しい夢の色彩と、絶えず漂う血の匂いが、志乃の方向感覚を狂わせる。流し雛である己の役目を、見失わせようとする。
「貴方を……きらい、で。ゆるさなくて。喰い殺すことしか頭になくて。……人のように、あいすることが、できなくても?」
望みなどない。抱けばその瞬間に絶たれてしまう。それでも。
「己がお前を愛している。それをお前が知っているなら、充分だ」
藍色の星は輝いている。朝が来るまで、夢が枯れ終わる最後まで。
自ら拒絶することも、拒絶されることも叶わなかった鬼は、罅割れた笑顔の面を貼り付け続けることしかできなかった。どんなに不格好でも、星の前では道化の所業でしかなくとも。
また一歩、踏み出して、また一歩、戻れなくなった。涙など流せない道化の鬼は、あまりに雑多の無駄花に呑まれて、なんにも分からず笑うだけ。濡れない瞳で見て知れたのは、すぐそばに落ちてきた明星がひどくきれいで、あたたかいこと。それだけだった。
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