滲み出す色

 慰霊祭が行われた翌日。後始末も完了した色護衆は、着々と出立の準備を整えていた。

 毎年、慰霊祭へ参加するのは渡辺家と碓伊家、そこに付き添う計四家を含めた少数。しかし今回は兼久隊がそのまま参加したため、洛都らくとへの転送陣も二回に分け、日数も空けて起動される。今日の昼過ぎには、例年より人数の少ない渡辺家と碓伊家の一行が帰還する予定となっていた。


 本来、渡辺家と碓伊家一行、兼久隊をまとめて転送できるだけの力は双方にある。だが、大きな力が動くことは、影響や余波が強まることも意味している。物の怪の被害が消えきらない林濱では、その反動が災害へと繋がりかねない可能性もあった。

 他にも、呪詛持ちである直武の影響や、中枢十三家に留まらず人妖兵までが二人いること、つまり直武一行の存在もどう作用するか分からない。渡辺基綱が呼び出しを受けているため、直武一行が先に林濱を発つことはない。


 兼久隊が洛都への転送陣を起動させるのは二日後だが、先に帰還する家々の関係者と同様、少ない荷物をまとめ終えている。変わらず兼久たちに同行する、晴成と澄美も同じくだった。

 澄美は元から散らかせるほどの荷物を持っておらず、いつも使う物だけを出しているため、借りている部屋が勿体ないほどの殺風景を生み出していた。先ほど刀の手入れもし終わって道具を片付けたため、より整然としすぎて見える。


 することが何も無くなってしまったため、澄美は旅館の中をうろついたのち、屋外の庭へと出ていた。皆、眺めるだけにしているのか、それとも部屋で暇を潰しているのか。ともかく人影は見当たらない。

 飛び石の道を進み、池の狭まった所に架けられた小橋を渡っていく。ぱしゃん、と、どこかで鯉が身を捩ったのだろう水音がした。その音に打たれてか、庭は静まり返る。澄美が歩くのをやめると、静謐は一気に空気を染め上げた。


 かつて澄美がいた地下牢も静かな場所だったが、綿を詰め込んだように緩くも確かな圧迫感はなく、金臭さが混じる土の匂いも四方八方から香らない。何より、こんなに明るくなどないし、薫風に体を撫でられることもない。

 当然ながら、地上は地下より五感を打つものが豊かすぎる。空っぽの体に響きすぎて、立ち眩みを起こしてしまいそうだった。世界というものは広すぎて、眩しすぎて、落ち着けない。陰の中に逃げ込みたくなる。


「――澄美! っ、と」


 いつの間にか後退していた足から体が崩れるのと、鋭い呼び声と共に、何かが背に触れたのは同時。引っ張り戻されても、澄美はそのまま体勢を崩してしまい、日陰の冷たい土に手を付いた。胸の中では心臓が大きく跳ね回り、肺も膨らんでは萎んでを繰り返す。


「聞こえますか、澄美、大丈夫ですか」


 やけに手慣れた安否を問う声と、名前を呼ぶ声。背中をさする手は冷たいが、日陰に逃げ込みたかった澄美には、逆に冷静を取り戻すきっかけとして働いた。

 呼吸を整え、ゆっくりと顔を上げる。眼前の庭景色と見つめ合ってから、今も澄美に手を添えてくれている相手へ目を向けた。昼日中の日陰にいても浮いてしまうほど、真夜中の深い色を宿している女へ。


「志、乃……」

「はぁい、俺です。気分は大丈夫でしょうか」

「大丈夫です。ただの立ち眩みかと」


 手のひらや膝から下に付いた土を払いながら、澄美はゆっくり立ち上がった。素振りを察した志乃は、早々に添えていた手を離したが、自然な流れをなぞるかのように澄美の手を握る。


「無理はよろしくないかと。一旦、あそこの長椅子に座りましょう」


 志乃が指し示したのは、澄美が通り過ぎたばかりの道。白い花びらの奥に赤を含んだ木槿むくげが、石の長椅子を囲んで密やかな場を作っている。返事をするより先に、志乃は澄美を囲いへ導き座らせてしまった。

 視点が変わっても、庭の眺めに隙はない。むしろ新たな表情を出してくる。けれど、澄美も志乃もあまり変わらない表情で面を覆い、緑陰に浸かって休んでいた。木槿の花に周囲を飾られ、互いの片手を重ねたまま座る二人の女の姿は、絵や歌の題材として取り上げがいがある。


 群生した桔梗を見に行った時と同じだ、と。澄美の奥底から浮かび上がった記憶が、ぱちんと弾けて色を成した。外界から切り離された別世界にいるかのようで、奇妙なまでに落ち着けて。このまま、透明になって溶け込めそうな気さえしてくる。元より澄美はそういう者だった。また透明に戻っても、何らおかしなことではないはずだ。


『……貴殿の気配は透き通って希薄。仮に死んだとしても、誰にも気づかれないほどに』


 肯定の声も過去から湧いてくる。……否、あれは肯定ではなかった。


『それが今までの在り方なのだろうが、これからは違う。貴殿は新たに名前を得るのだから』


 星永靖成やすなりの指示を受け、澄美を引き取った男、護堂宏実ひろざね。厳しい顔で捕まえたばかりの暗殺者に、一転して穏やかに接してくれた人。


『貴殿はいつか、貴殿だけの色をその身に宿すのだろう。その色もまた、透き通って美しいものになる。なりそうな気配を、貴殿は持っている。だから、そう……澄美、という名はどうだろうか』


 透き通って、澄み渡って、美しい。

 新しい自分の名前など、名無しだった少女はどうでもよかった。どうでもよかったのに、今はこの名が、きれいなものを表すのだと少しは理解できて、自分には不釣り合いだと思考が巡る。拠り所のない陽炎かげろうめいた透明は、名を得た少女には残っていない。


「また何か、悩み事がありそうなご様子ですねぇ」


 のんびりとした志乃の声に、澄美は顔を上げた。陽炎の向こうへ先行く人に、振り返られたようだった。


「……悩みなどと、言っていいのか分かりませんが」

「えー、そういう顔をしていらっしゃいますよぉ。すぐにどなたかが飛んできて、大丈夫かと聞いてきそうなお顔です」


 確かに、と。澄美の頭に、思い当たる顔が次々浮かび上がる。宏実、晴成、兼久、喜千代、茉白、いま目の前にいる志乃。

 そして――名無しだった頃、何かと話をした覚えがある男も。


 常に頭巾を被っていた男は、澄美が地下牢にいた頃からの付き合いだった。誰かに指示をされながら、澄美に食べ物や刀を与えたり、張り巡らされているらしい地下通路を連れ回したり、その中に作られた広場で暗殺の手法を教えたり。名前を貰う前の澄美を作ったと言っても過言ではない。

 男とは、いざ志乃の暗殺が目前に迫った時を最後に、話をしたきりになっていた。迷いなく素早く事を済ませるのに、いつもより躊躇ためらうような素振りが多くて、不可解だったことも憶えている。「お前には、他の道もあるかもしれない」なんて、よく分からないことを言ってもいた。


 どうして、男はあんなことを言ったのだろう。自らが技を教え、鍛えた澄美には利用価値がある、そう判断されると分かっていたからだろうか。分かっていたことを言うだけに、あんなに、言葉を選ぶような沈黙を挟むだろうか。


「どうして、澄美は……ここに、いるのでしょうか」


 ぽつり。零した言葉は、独り言として緑陰に消えた……と思いきや、「不思議なものですよねぇ」と拾い上げられた。澄美の言動はいつの間にか、見聞きされて当たり前になっている。


「俺たちには武力だとか、技術だとか、他の方にとっての利用価値が確かにあると思います。ところが、俺たちを拾い上げてくれる方々は、そのために拾い上げたのではないとおっしゃられる。利用価値を示すのではなく、自らのやりたいことを見つけて励むようにとおっしゃられる。それが人間なのだと」


 声はだんだん遠ざかる。ゆっくりと視線を向ければ、志乃は前方の景色に視線を投げていた。どこも見ていない目は、ただ世界を映しているだけで、空にして虚ろだ。

 けれど、志乃の視線は澄美に戻ってきた。日陰の奥底から覗いているかのような瞳は、自然と吸い寄せられる深い夜色をしている。


「澄美は、澄美自身が何をやりたいのか、どう生きていくのかを知っていくべきなのかもしれません。それが、貴女の生きる理由なのかもしれません。俺と芳親がそうだったように。俺に言われるのは不愉快かもしれませんが……貴女は少し、俺に似ています。似ていますから、つい、いただいた言葉をそのまま使ってしまいました」


 初めて、志乃の笑みが通常の愛想ではなくなった。澄美の知らない色をした笑みは、寒々しい繊月せんげつを思わせる。そのまますうっと消えてしまいそうな気配に背筋を震わされ、「不愉快など、思いませんでした」と、澄美は慌てて言葉を放つ。


「澄美は、貴女といると落ち着けるようだと思って。それは、貴女が自分と似ているからなのではと、思っていました」

「んへへ、同じことを考えていたのですねぇ。互いに似ていると思っていたのなら、俺がいただいてきた言葉が、澄美にも役立ってくれるかもしれません」


 音もなく立ち上がって、志乃は澄美の肩に手を置いた。顔には、既にいつもの笑みを被り直してしまっている。


「失礼、もう行かなければ。澄美は念のため、しばらく休んでから動いてください」

「分かりました。後ほど、茉白様のところを訪ねようかと思います」

「そうした方がよろしいですねぇ。では、あまりお力にはなれませんでしたが、俺はこれで」

「いいえ、そんなことは。ありがとうございました、志乃」


 離した手をひらりと振る志乃に、澄美もぎこちなく手を振り返す。軽やかに去りゆく足音が聞こえなくなった頃、ふと、澄美は首を傾げた。志乃は一人で、何をしに庭へ来ていたのだろう。もう行かなければと言ったが、どこへ何をしに向かったのだろう。

 志乃が一人で行動しているくらい、引っかかることでもないだろうに。澄美はまだ鮮やかな記憶をさらい始めていた。やがて、また意識が引っかかる。後ろへよろけた澄美を、志乃が受け止めてくれた一瞬に。


『――澄美! っ、と』


 澄美を受け止めるくらい、志乃には造作もなかったはず。だが、かすかに息を詰めるような、堪えるような一拍があった。

 踏み出した足の置き場が悪かったのかもしれない。支えた澄美をどうするか決めかねたのかもしれない。考えすぎだと訴える声が頭を埋めても、もしもを疑う声は、静かに潜行を続けていく。


 ――志乃は、腕に怪我をしていたのではないか?


 不安なら訊けばいいと、制するような内だけの声が挟まる。思い立った直後、澄美は休んでいたことも忘れて、志乃の後を早足で追った。しかし、後ろ姿には追いつけず、遠目に見つけることさえできなかった。たったそれだけのことが、澄美の疑心を掻き立てる。

 夜から抜け出たような姿を見失う傍ら、別の姿が脳裏に浮かんだ。庭で見た白に赤を滲ませる木槿と、同じ色を持つ面影が。

 先ほどよりも明確な目的地に向かって、澄美はほとんど走るように歩き出した。お陰で時間をかけず辿り着いた部屋の襖を、「失礼いたします」の発声と同時に開ける。障子戸の先で肩と一緒に跳ねた髪の白が目に飛び込み、次いで、振り返った赤い瞳とも視線が繋がった。


「どうしたの、澄美。緊急事態?」

「あっ、いえ、その」


 人が飛び込んで来たのにも関わらず、すぐさま表情を引き締めた茉白に、今度は澄美がたじろいだ。やはり考えすぎだっただろうかと、用意していた言葉が隠れかけたが、かろうじて尻尾を掴み引きずり出す。


「考えすぎかもしれないのですが。志乃が、怪我をしているかもしれなくて。それを隠している可能性も」

「どうしてそう思ったのか、聞かせて」

「先ほど庭で澄美がよろけてしまい、志乃が支えてくれたのですが、その際かすかに堪えるような反応をしていましたので」


 聞く姿勢を示された途端、つっかえていた言葉が淀みなくすべり出る。心側うらがわに広がっていた雲も一緒に流れ出たのか、波が静まっていく感覚がした。


「教えてくれてありがとう、澄美。じゃ、貴女はここで休んで。私は志乃連行係を任命してくる」

「え」


 普段の作業とでも言わんばかりに段取りを済ませてしまったどころか、目の前にいる相手への指示も欠かさない茉白に、落ち着いたばかりの澄美は呆気に取られてしまう。真っ赤な南天の瞳も揺るぎなく、澄美を射止め続けている。


「澄美、よろけたって言ったでしょう。それに、ここまで急いで来てもいる。貴女はこれまでにも眩暈を起こしがちだったから、また具合が悪くなるかもしれないわ。だからここで休むこと。いい?」


 笑みを伴い問いかけていながら、「はい」以外の返答を許していない声に、澄美はこくこく首肯で応じた。そのまま、置かれていた座布団に腰を下ろせば、茉白は「よろしい」と言い残して去っていく。小柄ながら、その背は勇ましく頼もしかった。

 爽快ですらあった茉白の背を見送ると、開け放たれていた窓から舞い込んできた風が、澄美をふんわり撫でていく。軽やかな風や雲のない空は明るい予感をもたらしてくれるが、日陰の奥へ行けば行くほど馴染んでいきそうな志乃の姿を思い出すと、どうしても楽観しきれない。


 こういう時、どうすればいいのだろう。また一つ、分からないことを考え始める。今度は、自分が出せる答えを見つけるために。それが恐らく、今の自分に求められることだと信じて、澄美は思考を動かし始めた。


 ***


 茉白の部屋がある方へ向かっていく澄美を見送った後、志乃は音もなく茂みの影から立ち上がった。澄美の具合が悪そうと気付き、倒れ込む前に向かった時と同じように。

 本腰を入れて探されてしまうより先に、志乃は緑陰を伝うようにして、澄美とは別の方向へ足早に去った。空いた時間を見つけては観察していた庭は、見つからないよう進むことも容易い。芳親が探そうと動き出せば、追いつかれるのは時間の問題になるが、幸いまだ気づかれてはいない。距離を取るなら今の内だ。


「っ……」


 じくり、左の二の腕に痛みが滲む。澄美を支えた時にも滲んだが、話をするうちに薄れていた。そのまま無くなってくれれば良かったのに、忘れるなと杭を打ってくる。

 日陰からほとんど出ていないのにも関わらず、体内では熱がぐるぐる巡回している。山中ほど虫はやかましくないのに、その声どころか葉擦れの音、水音までもがやけに大きく聞こえる。今の自分は、前もって考えておいた道を進めているのだろうか。分からない、ぐるぐる、分からなくなっていく。

 荒くなっていく呼吸も落ち着けられず、志乃は旅館の敷地内を抜けた。なんだっけ、そう、距離だ。距離を取らないと。離れないと。どんどん鋭さを増して、背を向けた方にすら伸びていく感覚を、引き剥がさないと。


 晴成の気配から、遠ざからないと。


 山中で晴成と遭遇しながらも、戻って来られた時は大丈夫だった。慰霊祭が行われている最中も問題はなく、ほぼずっと一緒だった芳親に訊いてもそうだと答えるだろう。ところが今は一転、酷い焦燥に襲われている。未知の色が己の名前に触れ、正体もまた明らかになりつつある。

 面頬の抑えが効いていないのか、抑えが効いていてさえこうなのか。また茂みに逃げ込み、志乃はやっと呼吸を整え始める。滞在していた旅館ではないこと以外分からないほど、周囲の確認を失念していたが、人にぶつからなかったのは幸い。平静を取り戻す足掛かりとなってくれた。


 それなのに、匂いがした。匂うはずのない血の香りを、嗅ぎ取った。


 心臓が大きな鼓動を鳴らし始める。胴体に響く鈍い音を封じるように、茂みに隠れうずくまる。匂いはどんどん強まり、気配の接近もまた示唆してきた。晴成がこちらに向かっていると。

 茉白か芳親に、捜索に協力するよう頼まれたのか。さすがに芳親でも頼みはしないはず。となると、完全に偶然なのか。どこまで来たのかまだ判然としないせいで、それすら推測できない。さらに、感覚が鋭敏になったせいで考えがまとまらず、集中も千々に乱されていた。


 眩しい外界、視界をじわじわ覆う砂めいた灰色、血の匂い、草の匂い、土の匂い、足音、葉擦れと風音、鼓動、抑え込まれた体の揺れ、耳鳴り、引いていく血の気、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。抑えているからそうなる。解き放てばいい? いいわけがない。苦しい。楽になりたい。どうすれば。どうすれば。


 ――未知の色が、志乃を染め変える。


 その色はいけない。絶対に、染まってはいけない。


 刺すような危機感に急かされ、気付けば志乃は飛び出していた。無我夢中で走り出した体が、「志乃!」と呼んだ声を置き去りにすべく藻掻く。振り返るな、耳を傾けるな、気配を探るな、逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ。ただひたむきに走り続ける。


「うぐっ」


 思いっきり、全身が打たれた。いや、ぶつかった。見れば、目と鼻の先に古びた漆喰の壁がそびえている。行き止まりだ。

 咄嗟に見た左右はそれぞれ廃墟。垣根の残骸が過去は庭と示す荒地と、朽ちて傾いだ空き家。低い垣根を飛び越え庭を駆け抜けるのが最善だろうが、一筋の不安が決断を邪魔する。内側から未知の暗色が滲み出す。頭がくらくらしている。垣根を超えたところで、晴成が諦めなかったら? 充分あり得た。鮮明に想像さえできる。

 後方で晴成が角を曲がり、志乃を視界に収めるまで間もない。たったそれまでの、膨大な時間を凝縮した須臾しゅゆ。どんどん呼吸が荒く早まっていく中、頭の余白も削られていく。


「志乃!」


 行き止まりの壁と相対する、人気のない道の果て。そこへ差し掛かると同時に上がった晴成の声を、足音が迫ってくるのを、志乃は壁と襖越しに聞いた。咄嗟の選択を間違えたと、歯噛みしながら。

 人がいなくなったのは最近なのか、廃墟の内部は埃が目立つものの、損傷は外よりずっと少ない。下手に物音を立てずやり過ごせれば、逃げられる可能性も無ではない。


 ――血の匂いがする。


 けれど。疾走していた鼓動が、どくりと臓腑ぞうふを震わせる。鼻が匂いを拾う。ぐっと口内によだれが溢れ、飲み干しても喉が渇く。


 血の匂いがする。血の匂いがする。


「……そこにいるのか、志乃」


 出来るだけ外に近い場所から離れ、奥へじりじり逃げていた体が、止まってしまった。

 音は出していない。逃げることも諦めていない。だが、晴成は戸を開けてしまうだろう。志乃が晴成の立場でもきっと開ける。本当にいないのか確かめるために。


「志乃。怪我を隠しているかもしれぬと聞いた。己に会うとまずいことも承知だ」


 心配そうに窺う声が、侵食を加速させる。逃げ道を探すべく集めた意識が揺れ動く。


「しかし、もし怪我をしているのなら、出てきてくれぬか」


 見てはいけない聞いてはいけない探ってはいけない。


「心配なのだ。おれだけではない、皆がお前を案じている」


 未知の色が溢れ出してしまう。耐えがたい耐えなくては耐えられない。

 酷い雑音で頭が動かなくなっていく中、手が、袖をまくった。微音すら拾われていやしないかと、冷えた思考は雑音に埋もれ追いつけない。


 まっさらな腕が、薄暗い廃墟にぼんやりと白く浮かび上がる。ゆっくりと持ち上げて、守ってくれそうにないふすまと重ね合わせると、志乃は――自分の腕に、噛み付いた。


 痛みが現実を焼き付ける。自分の血の匂いが、至上の血の匂いを邪魔してくれる。二の腕に巻いた布切れ包帯の下、澄美を支えた際に痛みを訴えたのも、自傷の噛み跡だった。


「……っ、ぅ」


 前のめりに、崩れるようにうずくまって、動けなくなる。血と一緒に滲んで漏れ出したうめきを、止められない。音を立て聞かれたら終わってしまうと、分かっているのに。


「いるんだな、開けるぞ」


 逃れられない宣告が、下ってしまった。脆弱な障子戸はあっさりと、何の引っかかりもなく開かれて、鮮やかな藍色が視界の端に差し込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る