裂傷
布晒し
夏染めの空に、極彩色の布が群れを成して棚引いている。水底からも見えそうな布たちは、閉じた橋の代わりを担い張り巡らされた糸や、旗竿に掴まって泳いでいる。
陣を作った幕も、風が吹くたび白く波打っていた。湿気と匂いを含んだ温い風は、深く吸い込めば死臭も潜んでいる。時に命を
直武が幾度となく嗅いできたものより薄いが、慣れた鼻は微量でも腐臭を嗅ぎ取った。元より、海はそういう臭いがする。海の底には死者の国があり、最後には崩れた残骸が
「直武様」
控えめな声が、直武を陸へ呼び戻す。揺らめく旗の影を受けて、紀定が立ち尽くしていた。
「間もなく始まります。お席へ」
「ああ、ありがとう」
張られた幕の内側には、既に大勢が集っている。空と違って色は乏しく、故に目立つ色合いの持ち主は一目で居場所が知れた。その筆頭だろう美々弧は、周りより見えづらい背丈にも関わらず、探そうと思えばすぐに見つけられるほどだ。
色護衆の面々は着物も袴も変わらないため、東側ではあまり目立たない色を纏う兼久たちも目立つ。と言っても、慰霊祭に参列するのは中枢十三家に関わる三人のみで、喜千代を含む他兵士は警備に当たっていた。
直武一行も同じく、参列は直武と紀定のみ。志乃はそもそも結界が弱点のため論外、芳親はそんな志乃と仲良く手を繋いで警備へ回っている。晴成も同じく警備に出ていることが気がかりながら、芳親が志乃から離れることは考えにくく、なるべく二人きりを回避させる暗黙の了解が
時間が迫ったとの呼び声を受けて、まだ立っていた者たちが次々に座り、談笑の声も潜められた。直武と紀定は最前列、中枢十三家に数えられるうち、十家の関係者が並ぶ壮観を生む席に正座している。祭壇や中央に開けられた通路近くは、例年通り
朗々とした開式の辞が、色鮮やかな布の流れる空へ上っていく。水気と熱を含む空気の中、慰霊祭が始まった。
純白の
当然ながら、神官と僧侶は同一の役目だけでなく、それぞれの役割も担っている。神官は水神や海神への
独特な声音と調子で紡がれる祝詞あるいは読経、降り転がる鈴の音、淡々と落ちる木魚の音。代わる代わる織り成されていく祭式の中、直武の胸裏には
――水は繋がっている。呼び声が聞こえてもおかしくはない。
体に巡らされた呪詛までなぞりそうになったが、その前に
神は他の信仰が入ることをあまり歓迎しないが、この点は事前に神官たちが別の祭式を行い、他の宗教と共に行う弔慰や
間隔を空けながら、二拍がぱらぱらと鳴り響くのを聞きつつ、直武は祭式を執り行う白黒の従事者たちをざっと眺め見た。空や海に泳ぐ布とは真逆ながらも、静かに映える無色の二極。極致であるからこそ揺るぎなく、生死に向き合える色。たとえ曇天だったとしても、凛然と佇むのだろう色は、直武の中では薄れ混じり合い失われた色だ。
――生者の世界も、死者の世界も、極彩色に溢れているのに。
奉奠した際、鼻腔を撫でた榊の香りも薄れる頃。祭壇前に集う従事者が神官から僧侶へ交代、置かれていた台も交代し、読経と焼香が開始される。再び早々に番が回ってきた直武は、年若い仲間たちと共に、細々と上がる煙を浴びた。
青葉を付けていた榊の瑞々しい香りと違い、
ここは死に場所ではないのに、直武の意識は絶えず水底へ引き寄せられていた。弱々しくも確実に。刻まれた呪詛がそう仕向けているのか、直武自身が既に老体だからなのか。どちらにせよ、まだ気が早い。やるべきことが残っている。
焼香が終わった後も、妖怪や物の怪からの襲撃はなく、慰霊祭は例年通り完了した。彼岸の様子を窺うことは叶わないが、白い船のようにも見える祭場に集った参列者たちは此岸へ、日常へと戻っていく。
色護衆が日常へ戻るのは、神官や僧侶たちと同じく最後。祭壇を残しつつ、他を撤収する順序の確認に移っていく。
「紀定。芳親と志乃君を呼んできてくれるかな」
「はい」
警備へ回っていた人員を呼ぶ役が動き出したのに合わせ、直武も紀定を動かした。並行して、撤収が終わってからのことを考え始める。次は若人たちをどこへ連れて行き、何に触れさせるべきか。
見上げれば、眩しい日輪が
――胸の内に、晴れない曇天を抱える身でも。外界に溢れる美しい光を浴びることはできるのだ、と。
***
慰霊祭に合わせてか、新旧継ぎ接ぎの街は静まっていた。と言っても、全く人がいないわけではない。少ないながらも外に出た人々は湖畔に集い、閉橋に
がらんとした街を行くのは、隠れ潜む方が馴染む紀定には落ち着かない。けれど表に出すことはせず、街の見回りへ向かった旅の仲間を探し歩く。
探し人は程なくして見つかった。志乃と芳親がいたのは船着場。大きな
年齢には見合わないほど幼く見えても、二人は人妖兵。仕事を放り出しているわけではない。紀定の気配には気づいているだろうし、街中に何らかの邪気が発生すれば、即座に感知して駆けつける……と、分かってはいるが。紀定が背後にまで近づいても振り返らないところは、油断していると言われても擁護できない。
「……お二人とも。お気づきになられておりますでしょう」
「はい」「うん」
振り返らず気の抜けた返事を寄越され、紀定は思わず二つの背を凝視した。志乃も芳親も、話しかけられたのなら相手を
「どうなさったのですか、紀定さん。何かあったのですか」
「仮にあったとしても呆けすぎでしょう。慰霊祭が終わりましたから呼びに来ただけで、何もありません。そちらこそ何かあったのですか。置物のようにぼうっと座り込んで」
紀定の足は妖雛二人が座る段より下に置かれているが、立っていることもあって目線はまだ上にある。きょとんと見上げてくる黒と牡丹の視線にため息をつくと、志乃がいつもの愛想笑いを取り戻した。
「ここから、閉橋に靡いている布の群れを見ていたのですが、見ているうちに思い出したのです。……
こくこく、喋りを完全に志乃へ任せた芳親も頷く。紀定も合点がいって思い出した。狸たちが守る宝山で、呪詛の毒に侵された
たった三か月しか経っていないのに、妙に懐かしく思えた。まる一か月を潜入に費やしたから、季節がすっかり変わったからといった理由は、ほんのわずかな一滴でしかないだろう。そう確信してしまえるほど、妖雛たちの表情が違っていた。
まっさらすぎてどこか馴染まず、浮いていた笑みと無表情には、憂いに似た影が掛かっている。寄せる水の影が反射して、初めて認識できるほど薄い憂色。夏の
「それで、お二人で話をしていたのですか」
「最初は色々と話をしていたのですが、いつの間にか黙ってしまいましたねぇ。あ、喧嘩をしたわけではないですよぉ」
「うん。喧嘩は、してない」
「そんなことは見れば分かります」
隣り合って座っているどころか、繋いだ手を離す素振りもなく何を言っているのか。妙なズレ加減で脱力させられる紀定に、何一つ分かっていない犬のような顔をしているところは変わらない。
「……お二人とも、沢綿島の時とはずいぶん変わりました。あの時の貴方がたは、憂いのある顔などしなかった。あの時と比べれば、人間らしくなったものです」
「そうでしょうか」
「人間としてはお二人より先達ですよ、私は。お二人より妖雛と人妖兵のことも見ています。彼らの変化と今の貴方たちの変化は同じですから、人の側に馴染めているのは間違いないかと」
確信を胸に、紀定は堂々と言ってのける。今の二人を前にして恐怖を感じないという事実が、紀定にとっては何よりの証拠だった。
恐怖心は消し去るものでも、封じるものでもない。理性と同じく傍へ置いて飼い慣らし、冷静を繋ぎ止めておくものだ。それが危険だと訴えないのなら、妖雛たちは、人間の領域へ入って来られているのだろう。
「……紀定……師匠、とか、
ふと、目の輝きを増量したように見える芳親に指摘され、思わず紀定は自分の頬を触った。ちょうど指先に伝わったのは、上がっていた口角の名残が去っていく気配。我ながら珍しいことに、微笑んでいたらしい。
「……してくれる、なら……そういう顔が、いい。紀定、は、あんまり、しない、けど……怒る、前の、顔より、そっちが、いい」
「ああ、こういう顔でしょう」
「それ! それやだ!」
意図して紀定がにっこり笑って見せると、芳親は即座に眉を
「そろそろ切り上げましょう。最初に言いました通り、直武様がお二人をお呼びですから」
ため息混じりに促すと、妖雛たちはのんびりと返事を揃え、手を繋いだまま立ち上がる。そのまま行くつもりかと問う気も失せて、紀定はいつものように先導を開始した。
――だが、こんな気の抜ける引率さえ、何の拍子に失われてしまうか分からない。分からなくなって、しまった。
ぎこちない運びになりかけた足を、悟られないよう無かったことにする。代わりなのか頭が動いて、紀定は視線を後ろへ向けた。まるで所業が露呈していないか確かめるよう……と、奇妙な後ろめたさが胸裏を撫でたものの、気付いた人妖兵たちはきょとんと首を傾げるばかり。
「どうかなさいましたか、紀定さん」
「いえ、失礼しました」
「……! 紀定、も、手、繋ぎ」
「違いますね、巻き込まないでください」
また目の輝きを増やした芳親には、冷水をぶっ掛けるがごとく即答。お陰で紀定は進みを取り戻せたが、ぶすくれた芳親に連れられた志乃は停滞を挟んでしまう。
「元気を出してください芳親、一度断られたくらいで諦める貴方ではないはずです」
「怒りますよ志乃殿」
「諦めましょう芳親、怒られるのは嫌です」
「うん……」
聞き分けがいい。思わず紀定は吹き出しかけたが、これも悟られる前に止められた。焚き付けたことと再燃しかけたことを見逃せるくらい、志乃と芳親の素直さは賞賛に値する。
大人しく二人がついてきている気配を背に感じながらも、紀定は澄まし顔で歩いて行った。祭場までの道中、主に芳親が数多の逸脱をやらかしかけるのを止める事態が待ち受けているのだが、それもまたいつものこと。戻ってきたいつも通りを、紀定もまた、こっそりと噛みしめていた。
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