下弦と青星
蝉の声は山中の森全てを満たしている。日が当たって瑞々しい青葉を茂らせる森にも、枝葉が重なり蒼黒く翳った森にも。
青と緑が大部分を構成する夏の森へ、帯刀に加え弓を背負った碓伊美々弧が軽やかに分け入っていく。どちらの得物も美々弧の体躯では不釣り合いに見えるが、不自由さはまるで無く、動きに支障もきたしていない。
鬱蒼程度では曇らない端麗な女は、獣道もない中を、襲ってきた黒い蛇たちの残滓を辿りながら歩いていく。木漏れ日を弾いて金のきらめきを見せる髪が揺れ、染められた毛先も相まって
危険が無いと分かり切った故の歩みは、前方から歩いてきた人影とかち合って止まる。青黒とは対極な美々弧と異なり、暁闇の浅瀬から
「ありがとう、晴成くん。蛇たちは完全に消え去ったわ」
「左様で。しかし、こちらへ逃げた蛇を仕留めたのは、拙者ではなく志乃にて」
向かい合わされた笑みは形よく出来ているが、どこか白々しい。双方とも足を止めていたため、距離も会話ができる最低限まで開いていた。
「あら。それじゃあ、あちらも逃げる蛇を追ったのでしょうね」
「おそらく。……ところで、無礼を承知で一つ、申し上げてもよろしいか、碓伊殿」
「自分で分かっているのなら構わないわ。何かしら」
「貴殿と鎌井殿は、わざと蛇を逃がしたのではござらんか」
にこやかな顔のまま、晴成が遠慮のない一矢を放つ。美々弧の口元には笑みが残っていたが、細まっていた目は戻り、飴と混ぜ合わせた蜂蜜色の瞳を覗かせた。
「本当に無礼で驚いた。いっそ清々しくて好ましいから、理由を聞ける余地は残ったけれど。それで、どうしてそう思ったの?」
「貴殿らの妙術があれば、蛇など一網打尽だったはず。わざわざ手間をかける必要はござらん。特に、狙ったものを逃がす気のない貴殿ならば、他に目的でもなければ逃がすなどと思えず」
夜の海を通したような藍色の瞳も覗く。日が当たらず冷たさすら帯びた青葉の香りを、吹き抜けた風が舞い上げていった。
「貴殿は、蛇との遭遇が二度目と申された。小さくなって散り散りに逃げる、という性質も承知のはず。だが、逃げた蛇の追跡および討伐は拙者に頼まれた。いかに小さな蛇であろうと、貴殿であれば容易く撃ち抜けるというのに。いや、小石を投げるだけで良いのだったか。貴殿は見回りの際、弓矢を用いなかったと聞き及んでござる」
澄美と志乃が会った時も、美々弧は帯刀こそしていたが、弓矢は持っていなかった。晴成自身、美々弧が夜中にも山を見回っていたことも、最大の得物である弓矢を携えていなかったことも知っている。
「鎌井殿が志乃を追跡役に当てただろうことも踏まえれば、妙術など持ち合わせぬ拙者より、貴殿が追う方が早く事を済ませられたはず。そして自然でもあったはずではござらんか」
「まるで自分には才がないと言わんばかりね。わたしはきみを見込んで、こうして相棒に抜擢して、追跡も頼んだつもりだったのだけれど」
「もちろんその自負はあり申す。しかし貴殿であれば、より効率の良い方法を取ったのではと考えてしまったのも事実。加えて……貴殿は拙者と志乃が接触した場合、どうなるかも見ておきたかったのではありますまいか」
先に晴成の笑みが消える。美々弧の口元は未だ笑みを湛えている。ぱきり、前触れなく枝を離れた緑葉が、どこかへ姿をくらませていた。かさりと着地の音を立てたきり、森は身じろぎもしなくなる。
「先に確認しておきましょうか。きみは怒っている?」
「否。貴殿が何か意図を持ち、動いておられるなら知り申したい。今あるのはその一点にて」
「良かった。ここで感情を出されたら、きみの評価をし直さないといけないところだったわ」
口元に片手を近づけて、くすり。優雅に微笑んで見せる美々弧は、親しげなのに油断ならない。けれどそれも抜け落ちて、威厳を醸し出す面持ちが現れた。
「きみと志乃ちゃんの関係性は、非常に不安定で危険なもの。決して軽視できるものではないわ。志乃ちゃんがきみに害をなす、またはきみが押し負けるようなことがあった途端、志乃ちゃんは人妖兵として扱われなくなる。たとえ、彼女が何を背負っていようとも」
弧を描く口を隠してしまえば、水に沈めた
「それを避けたいのは、いま志乃ちゃんを保護している直武さんだけでなく、色護衆の総意よ。でも、見守るだけに徹していては、何か起こってしまった時の動きが鈍る。だから、きみが推測した通り、確かめておきたかったの。志乃ちゃんはきみを前にして耐えられるのか。きみは志乃ちゃんを焚き付けるような真似をしないか」
「焚き付ける、と申しますと」
「きみ自身が一番分かっているとは思うけど、絶対に無いとは言えないでしょう? 志乃ちゃんがしてほしいと願えば、何でもしてしまいかねない。きみは苦しんでいる人を見捨てられない好青年な上に、志乃ちゃんに恋をしている。恋や愛が絡んだら、人は何でもやるわ」
「可能性が低いというだけで、きみは志乃ちゃんを魔へ傾けるきっかけになりうる。そうなった場合、我々は彼女のことも、きみのことも敵と見做さなければならない」
美々弧の声に情は乗らない。凪いだ水鏡の月が歪まないように、ただ事実を述べていく。蒼い陰翳と共に映し出された晴成は、ゆっくりと目を閉じて、口の端を緩やかに上げた。
「それはご免被る。拙者は、志乃をこちらに留めておきたい。考えは芳親と同じにて」
「碓伊殿の申された通り、恋情や愛情は人を狂わす。しかしそのような情は、相手を守るべく働くこともまた事実。拙者は志乃がどこへ飛び立とうと構いませぬが、地に落ちて
「あら。命を懸けるとは言わないのね」
「言えませぬ。我が使命は未だ果たされず、いつか故郷へ帰還したあかつきには、家族を助ける使命も担ぎ申す。こちらでも、いたずらに命を扱えば、友が怒り悲しむでござろう。それに、拙者は死して志乃の心に残りたくはなし。これからも共に、楽しき時を過ごすべく手を取りたき所存にて」
ゆるり、晴成は微笑を浮かべる。嘘や含みなど潜ませようのない笑みは、相手の笑みを誘ってしまえるほど純真。美々弧も口元だけでなく、眉まで困った八の字にして笑った。
「憎たらしいくらい優男ね。いつか刺されるんじゃない?」
「
「きみならただの里でも色づかせそうだもの。下心なく善意で。そういう男が一番厄介で妬ましいのよね」
明らかな私怨が、一瞬ながら恐ろしい冷気を放つ。さすがの晴成も背筋に寒気が走り、冷や汗が出そうになった。「さて」と美々弧自身がすぐ切り替えたため、涼しい顔を貫けたが。
「嫉妬なんて見苦しい真似はこれくらいにして、真面目な話に戻りましょうか。さっきも言ったけれど、色護衆は志乃ちゃんと晴成くんを警戒しているわ。特に、わたしたちが所属する
渡碓山の守遣兵が派遣されるのは
加えて、渡辺家とそこに仕える二家は、中枢十三家でも祓魔に特化している。人の一部を口にし、いつ魔に傾くとも限らない妖雛を所属させるにも最適。直武や兼久からも既に聞かされたことだった。
「芳くんにも言えることだけれど。志乃ちゃんと一緒にいたいなら、わたしたちが見咎めるようなことはしないようお願いね。きみたちのことは気に入っているから、敵にはなりたくないわ」
「ご忠告、痛み入る。肝に銘じてござる」
一礼と共に答えたのち、ようやく晴成は美々弧の方へ踏み出した。踵を返して先頭役に戻った美々弧の髪が、背負った弓矢を覗かせながら緩やかに波打つのを見ながら、しかし背は青黒い陰を手放せずにいる。
緑陰は明るさを増し、蝉の声が息を吹き返す。夜からはぐれた
――幽世で、棚盤山の麓で、左腕を奪われた時と同じように。
温度を失ったそこを、なぞりたい衝動を抑え込む。美々弧でなくとも、悟られたいものではなかった。
だからどうしたいという欲はない。美々弧に告げた言葉に偽りもない。志乃が心から笑い、憩い、自由に飛べるようになるのなら、それ以上に望むことなどない。そもそも、首を挟むなど邪魔でしかない。
広く日が当たって、晴成は思わず目を閉じる。渦を巻く思考も中断された。止めなかった歩みに落枝を踏んだ音が混じり、それを皮切りに、白昼へ引き戻された感覚がした。
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