麗色に泥む
夏を迎えた山は、どこもかしこも緑が繁茂している。志乃も、隣で密やかな雰囲気を漂わせている澄美も、緑豊かな山を行くのは経験済み。二人をまとめる役を担う男もまた、山野には慣れていると微笑んだばかり。
「それじゃあ、最初は中腹まで順路通りに行こうか。ぼくが道を開くから、二人は気配の捜索に集中してほしい。お願いできるかな」
持つ色素が薄めゆえに鉄色と煤竹色の衣服が不釣り合いな男、
あまり感じたことのない独特な雰囲気だったが、志乃はすぐ要因を探り当てられた。おそらくだが、享秀は欲や執着の一部が欠如しているのだろう。がっしりと根を張る樹木ではなく、風に揺れ水に流れる木の葉めいた佇まいは、俗世と離れた僧侶に似ている。
観察の傍ら、志乃はのんびりと返事をして、享秀の後に続いた。澄美も観察していたのか、志乃に遅れつつも返事をして歩き出していた。
鎌井と名にある通り、享秀は身の丈ほどの大鎌を得物にしているのだが、道を開く草刈りにも躊躇なく使っている。無作為に振るわれるのではなく、元から使われている山道にまで伸びてきた草や
三人分の足音と、時たま入る草刈りの音で織り成される行進曲に、人の声は入ってこない。三人とも無言が苦ではない上に、仕事に集中しきっている。そのせいもあってか、最初の目的地となった山の中腹まで到着するのが早くなった。不審な影がないのは何よりだが、拍子抜けとも言える。
「昼間なのと、
「悪い気配は感じませんでした」
「俺も同じくです。ただ、これから結界やら何やらの影響を受けて、狂暴化してしまうモノが現れないとは言い切れませんねぇ」
蝉の合唱も煩わしすぎない山道の途中、緑陰で日差しを
「そうだね。よし、この調子で引き続き探していこう。二人とも頑張り屋さんだから、ぼくも気合が入るよ。ありがとうね」
「えへへ、それほどでも。俺たちも享秀さんのお陰で、草木に気を取られることなく歩けましたし」
「はい。ありがとうございます」
会話は難なくできるものの、必要以上に喋らない三人のやり取りは、お礼の応酬も淡白。けれど肩肘を張らない心地よさがあった。志乃や享秀はもちろん、普段はじっと一人で控えている澄美も。
「だけど、もし具合が悪くなったら言ってね。護堂さんも、花居さんも」
「俺は言いますし、澄美も言うと思いますから、ご心配なく。体調が優れないまま任務に取り組んでも、他の方に迷惑が掛かるおそれがありますからねぇ」
「はい。今回は戦闘が発生する可能性もありますから、不調が出れば申告いたします」
途端に事務的な冷色へ染まったことで、それまで澄美の声には柔らかみがあったと証される。戦闘の心得がある者には珍しくない変化だ。志乃たちにとっては見慣れたものだが、只人からすれば恐ろしいものなのだろう。畏怖の視線を向けられた記憶も、志乃の脳裏に転げ出てきた。
だが、澄美の変化には、目を引くような何かがある気もする。それを美しさと呼ぶのかもしれないが、美醜にあまり頓着のない志乃には判別しづらい。簡単に答えが出ない点は、今はありがたくもあったが。
「さて。休憩はこれくらいにしようか。この後は下山して、また別の道からここまで見回ろう」
享秀の声に、志乃の意識も仕事寄りへ組み変わる。集中の時間は、できるだけ長くしたかった。今はすぐに意識が逸れてしまうし、逸れる原因に考えを傾けたくない。
「上の方は美々さんと星永さんが見回ってくれてるから安心だけど、それで気を緩めないように行こうね」
何気なく出されただけで、胸裏に引っかき傷が増えていくような、その名前に。
いつも通り、愛想笑いができているだろうか。澄美と同時に「はい」と返事をしながら、志乃は以前まで感じもしなかった不安を追い払った。
晴成と直接顔を合わせないまま今日この時まで来たが、思い出したように挙げられる名前は、耳にこびりつき離れなくなっていく。近くにいるのだと探りそうになる。そういう反応を出したら、じっと観察されそうな予感も、享秀から感じ取れる。
警戒と呼ぶほどではないにしても、注視や注意は絶えずされていた。
不調とまではいかない気がかりを隠したいわけではないし、隠さない方が良いに決まっている。ただ、人間の傍にいるために、危険と分かっている部分は自分で封じておきたい。……封じられるのなら。
「あははぁ。俺は大抵このような態度ではありますが、頑張りますねぇ」
「花居さんがふざけていないことは、ぼくもしっかり分かっているつもりだよ。気負わせてしまったかな?」
「いえいえ、そんなことは全く。お気になさらず」
美々弧が向けてきた
が、後ろ足は着地せず、ぎりぎり宙に留まった。
愛想の仮面を忘れ、志乃はハッと山頂付近を見上げる。しなった黒髪が元の位置へ収まる前に、享秀と澄美も警戒の色を目に宿し、同じ方向へ視線を上げた。明らかに敵性の気配が発生したのだ。それも複数、十を優に超えて。
「美々さんの気配を嗅ぎつけて、仕返しに来たのかな。まあ、動機はいい。ぼくたちはこちらへ下ってくる奴らを迎撃しよう。今からおびき寄せる」
透明な雰囲気はそのまま、享秀が大鎌の刃を下に構えて進み出た。ゆるり、今までと何ら変わりない動作で放たれた斬撃は、しかし不可視の風を起こして斜面を登っていく。
四大補佐家が一角、鎌井家に受け継がれる妙術は
ごうと唸った風に木々が揺れ、雨の如き蝉の声も止む。ところが、斬撃に晒されたはずの木は倒れない。綺麗に草だけが刈り取られて宙を舞っている。すべて刈ってしまうのではなく、一部を器用に攫っているのだ。青空の下に躍り出てきた草たちは、後方で臨戦態勢を整えていた志乃と澄美を覆い、上から見えにくくもしている。
山頂まで上り詰めてしまいそうな斬撃の風は、察知された複数の気配に当たって
『――シューッ!』
威嚇の鋭い声と共に、黒く細長い影が滑り出てくる。鎌首をもたげたそれらは、太く長い胴を持った蛇。草を舞い上げた視覚および嗅覚の撹乱によって、蛇たちは跳躍の選択を失い、三人と対峙していた。
人の身の丈と同等の高さにまで頭を持ち上げた蛇たちに、怯む者はいない。青い草の香りで満ちる空気を割いて、先陣を切ったのは志乃だった。
瞬く間に距離を詰めると、とっくに抜いて左下段に構えていた刀を振り上げ、先頭集団にいた一匹を斬り捨てる。速攻を受け、蛇たちの頭が同じ向きに揃ったところを、志乃に遅れつつ距離を詰めた澄美が背後から襲撃した。
先手を取られ、一気に劣勢となった蛇たちだが、そう簡単に消え去りはしない。大きさを変えてしぶとく動き回っている。上からもかすかに戦闘の音が聞こえてくる中、蛇たちの行き場は無い。故に、目の前の敵へ挑みかかるしかない。
「っ、鎌井様、後方へ数匹逃げています!」
主な攻撃を担う志乃と享秀に紛れ、零れた蛇たちを仕留めていた澄美が、森の方へ撤退していく蛇の姿を捉える。既に小さくなってしまった蛇は、見失うと厄介。追跡すべきなのは、誰の目にも明白だった。
「俺が行きます、よろしいですか」
「ああ、頼んだよ!」
広範囲を一気に刈り取れる享秀と、取りこぼしを仕留められる澄美を残すべき。細やかな気配も素早く察知できる志乃が行くべき。二つの答えもまた明白。はじき出した答え合わせも迅速に済ませ、志乃は森へと飛び込んだ。
小さくなった分、数も増やした蛇たちは、動きが速い上に隠れ場所も多い。逃げ込まれる前に、青白く走る雷に追尾させ、撃破していく。不慣れだった雷の操作は、
獣道もない森の中、確認できた蛇たちを撃ち終えると、志乃は一度立ち止まった。他に逃げた気配、あるいはどこかへ隠れおおせた気配は、感じ取れない。しかし間もなく、追っていたのとは別の気配が、志乃の肌に伝わってくる。
「……上から、ですか」
恐らく、美々弧と晴成の方へ向かった蛇たちも分裂し、一部が逃げようと動いたのだろう。このまま討伐に加勢するかと考えたが、警鐘めいた思考がすぐに意識を引き止める。
間接的にしか聞いていないが、碓伊家に伝わる妙術は必中。その名の通り、必ず的を射抜くものだ。そんな術を扱えるのに加え、悪癖と呼ばれるほど狙った物は逃さない美々弧が、打ち漏らすことなどあるのだろうか。打ち漏らしたとして、加勢が必要になるほどだろうか。
疑心にも似た思考が加速する間に、蛇の気配はどんどん近くへ迫ってくる。もはや無視できなくなった敵を前に、続けて懸念が沸き起こってもいた。逃れられない性質、戦いに昂る身体が、良からぬ事態を招きかねないかと。
既に、胸裏に忍び寄る歓喜の影は感じ取れている。まだ抑えが要るほどではないが、何がきっかけで破裂してしまうか分からない。その時、自分で抑えきれるのかも。
答えが出る前に、蛇たちはとうとう志乃の視界へ到達してしまった。
否応なく地を蹴り、緑陰に紛れる黒い蛇を、的確に雷で撃ち抜いていく。さほど多い数ではない。すぐに終わる。やはり加勢するほどではなかったか。来てしまったから始末したけれど。たちまち、音になりきらなかった独り言が頭を、油断までには至らない安堵が胸裏を満たしていく。
「――志乃?」
満たして、おいたのに。
久しぶりに投げ込まれた声が、志乃の中に波紋を生んだ。
黒蛇の気配はないと分かった途端、今までの敵は意識の外へ追いやられる。顔は声の方を向いていないのに、感覚は声の主の気配を向いている。
やがて、視界がゆっくりと動き出した。瞳も向けてしまえば、
「晴、成」
名前を転がした舌が震える。藍色の双眸と合わさった目の奥からも、震えが伝わってくる。ざわざわと
時が止まったような中で、志乃の内側に広がる感覚が、未知の色を生み出そうとしている。美しいと言えないことだけは、絶対と分かっている色を。
このままは、まずい。このままでは、何か――よくないことが、起きてしまう。
先ほど懸念を生み出した理性が、もっと直接的な警鐘を鳴らしていた。未知の暗色へ染まりそうな体を、まだまっさらな意思で動かし、一歩後退する。今度は足裏が地について、それを機に暗色の浸透も止まった。
引き剥がすように顔を逸らして、志乃は来た道を駆け戻る。晴成は志乃を見ていたが、近づくようなことはしなかった。遠ざかった気配へ伸びようとする感覚を断ち切り、打ち漏らしがないかと再度、蛇たちの気配を探す。
幸い、突発の蛇たちは全て消し去れていた。享秀と澄美の元へ戻ってきても、その残滓をわずかに感じ取れるだけだった。二人の姿を捉えるなり、志乃は深呼吸をして、愛想の仮面を被り直して日向に出る。
「ただいま戻りましたぁ。逃げようとした蛇たちは、残らず仕留め切りましたよぉ」
「おかえり、花居さん。任せっきりにしてしまったと思っていたけど、大丈夫だったんだね。本当にありがとう」
「お疲れ様、でした。志乃」
緩やかで手慣れた労いと不器用な労いが、蝉の声を引き連れて志乃を迎える。戻ってきた。戻ってこられた。確認するように、志乃はいつも通りを整えていく。使い古した面の裏で、背に張り付く蒼黒い陰も剝がしながら。
「美々さんからの報せも無いから、見回りを続けるよ。さっきの蛇たちみたいに、結界に影響された奴らが現れたら、即座に対応していこうね」
戻っていく、平常に。穏やかな享秀の呼びかけに返事をして、志乃は澄美の隣に並んだ。しゅわしゅわと蝉の声が降る中へ。色鮮やかな景色の中へ。
いつか離れなければならなくても、今はここにいなければならない。眩むような日差しを受けながら、志乃は再び歩き出した。
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