裏の綻び

 とりあえず晴成を安静にしておくという名目で、兼久隊の面々が転送陣で洛都に戻るのは、翌日の巳の刻に変更された。それに伴い、直武一行の旅程も少しずれて、旅の再開が遅くなっている。

 志乃捜索騒動の後、誰も彼も当たり障りなく平常通りに過ごし、あっという間に夜を迎えた。中でも晴成は早々に部屋へ引っ込み、自らの考えや既に入手した情報などを紙に書き出して整理した後、周りより早めに就寝していた。


 重くはなくとも負傷は負傷、傷の直りを早めようと思っての早寝だったが、藍色の目は真夜中に覚めてしまう。


 時刻は四ツ半を過ぎ、とうに消灯した室内はしんと静まり返っている。数刻前には書き物をして、考え事を整理していたが、いま頼りにできるのは自分の頭だけ。見聞きして感じたものの、鮮やかさは失われた記憶だけ。

 一番気がかりなのは志乃の状態だが、芳親のことも気にかかる。兼久に確認をしてきた後、少し様子がおかしいように思えたから。それは茉白も感じていたことで、だから些細でも、頭の片隅に引っかかっていた。


 怒るかと思っていたら、そうはならなかったと。しょんぼりして、ほのかに笑いながら言う芳親の姿が思い出される。あれはきっと、「かなしい」と称せるのだろうが、それを言葉にして伝えるのは野暮かと言わないでおいた。おそらく、芳親自身が解釈して、自らの言葉で称さなければ意味がない。

 けれど、芳親の中に生じていたのは、「かなしい」だけではなかったような気がする。牡丹の瞳に掛かった影は、前髪の簾だけではなかったような気がする。


「晴成」


 ふと、呼び声に思考が途切れた。聞き馴染んだ女性の声は、夜中でも仕事か何かで訪ねてきそうな相手――茉白でも、喜千代でもない。


「晴成。起きていますか」


 何か問題が起こったら、お役目だからと呼びに来そうな澄美でもない。そもそも、小さくても聞き間違えるはずがなかった。現時点で最も部屋を訪ねてきそうにない人物だったので。


「志乃、か。どうした?」


 ふすまに人影は透けず、訪問者の痕跡は声だけ。昼間ならさほど疑うことなく入れただろうが、夜ならそうはいかなかった。嫁入り前の娘が、夜分に男の部屋を訪ねるなど只事ではないし、訪問者が志乃を装った別の何かである可能性もある。人ではない何かだったとして、館内の面々が気付かない可能性は皆無に近いが、完全に捨てられるわけでもなかった。


「少し話がしたくて。こんな夜更けに申し訳ないのですが、部屋に入れていただけませんか」

「入れんぞ。話なら外の庭で、散歩でもしながらしよう。歩けば眠くもなるだろう」


 入室は即座に断り、時間稼ぎの代案もして、晴成は志乃を一旦追い返した。抑えていても暢気のんきな声、聞き分けの良さはいつも通りだったあたり、やって来たのは志乃本人らしい。

 今日あったこと――お互いに杭を打ち合ったかのような所業を思えば、少し話をする程度で、志乃が部屋を訪ねてくるとは思えない。止める人も皆、寝静まってしまったような真夜中に。別の方向へ考えれば、少しというのは謙遜で、あまり人に聞かれたくない話をしたいと捉えられなくもない。醜態を晒した相手だからこそ話せる、という場合もある。


 考えを巡らせながら身支度を終えれば、すっかり目も冴えた。晴成はそっと部屋を出ると、足音を殺して庭へ向かう。

 満ちてはいないが月は明るく、歩行に苦はない。月見もいいかもしれないと、場違いに浮かれそうな気分をなだめながら、藍色を宿した影は夜の庭へ辿り着いた。しんと静まった庭には、ほんのわずかな居心地の悪さを溶いた陰が、あちこちで息を潜めている。地面から、昼間に受け続けた日光の熱が吐き出され、もわりとした温い空気が立ち昇っている。


 流水と飛沫のささやきを聞きながら、宿した色から同化していくかのように、晴成は見えていた人影へと歩み寄った。髪を結い上げ、身なりを整えた影の持ち主は、間違いなく志乃。晴成が月光に作られた野原の色と同化するなら、志乃は月光の当たらない夜陰と同化しそうな色を宿している。


「待たせた、志乃。とりあえず、少し歩こうか」

「そうですね。でも――ここは狭い。どうせなら山の方にでも行こう」


 志乃の声が低く変わる。晴成の方へ向いた目は、冬ざれの孤月を閉じ込めたような青白に変わる。向けられた視線から冷たさが伝うより先に、晴成はふっと全身を包んだ不安定な感覚に意識を持っていかれた。

 確かな硬さがあるのは、胴を支える志乃の片腕だけ。棚盤山たなざらやまふもとで芳親に担がれた記憶が蘇り、そのまま現状に重なった。晴成は志乃に抱えられ、屋根伝いに跳躍していく旅の供にされている。


 空中では手も足も出ないと即座に切り替え、反論や抵抗もせず大人しく連れて行かれた先は、先ほど言っていた通りの山中。晴成も知っている場所だった。というか、晴成が見つけた場所だった。

 開けた野原には、夜天から遣わされてきたような桔梗ききょうの花が集っている。池には天蓋の様相が映し出され、時おり、風が淑やかに水面を撫でていた。昼間はさやかに美しかった池と花畑は、夜の帳内とばりうちでは秘密を抱えたような佇まいをしている。


「記憶の景色と同じだ。星永晴成、お前がここを見つけて、護堂澄美と一緒に来たのだろう」

「ああ、そうだが……ずいぶんと様子が違うな、志乃」


 花が密集していない空き場所に降ろされるなり、晴成は志乃の双眸を見据えて問いかけた。

 ここへ来る途中に姿を変えたのか、志乃の額からは二本の角が伸び、装いも戦装束めいたものへ変わっている。常に弧を描いている口元は、噛み合う牙をあしらった物々しい面頬に覆われて見えなくなっていたが、目元や声色から笑っていると知れた。


「様子は違って当然だ。鬼は鬼なのだから。志乃ではあるが、志乃ではない。ずっと志乃と一緒にいて、雷雅のところではたまに入れ替わったり、重なったりして自由に動けたが、現世に来てからは出るなと言われた。それ以来、出られたのは呼ばれた二回だけだ」


 笑いを含みながらも低い声で、少し拙く武骨な口調を用いる姿は、いつもの志乃とは全く違う。志乃ではあるが志乃ではなく、鬼。言われたことをそのまま受け取るなら、志乃の中にある鬼の部位が、自意識を持って出現しているということか。

 何を考えているのか分からないが、敵意は無いように見える。加えてよく喋るところに目をつけ、晴成はそのまま情報を引き出してみることにした。


「……呼ばれたとは、誰に」

「辻川忠彦と境田芳親に。呪文を唱えられ、力を注がれないと、鬼は志乃と交代するどころか重なりもできない。芳親に呼ばれたのは最近のことだ。夜蝶街の近くに物の怪が出て、志乃が獲物の首を落とせなかった時、芳親は鬼を呼んだ。そして遊んだ。志乃も鬼も楽しんだ」

「お前と志乃の感情は、同じように発生し、受け入れられるのか」

「殺傷や戦いに際しての高揚は、志乃も鬼も同じように感じ取れる。お前が美味しいことも感じ取っているが、鬼は志乃ほど弱り切っていない。ああ、交代できたのは志乃が弱り切っているからだ。お前がいじめてくれたからだ、晴成」

「いじめたなど、人聞きの悪い」

「志乃はお前をきらいだと言った。お前は志乃の空っぽをぐちゃぐちゃにした。こうして易々と鬼が出て来られるくらい、志乃を弱らせたのはお前だろう」


 淡々と続いていたやり取りに、笑いの震えが混じる。苦笑した晴成はもちろん、笑みを張り付けただけの鬼も、声に笑いを伝わせていた。

 笑みを浮かべながらも低い調子と音色で話し続ける鬼は、常日頃から志乃に漂い、拭い切れない不気味を前面に押し出したよう。じっと見つめ続けていると、じわじわと不安が浸食してくるかのよう。夜に妖怪と出会えば感じるだろう不穏が、ひたひたと晴成へ忍び寄ってきている。


「……人格が二つある状態なのか、志乃は」


 水気を内外に感じながら、晴成は再び問いかけた。澪標みおつくしを通り過ぎ、銀波が立つ夜の海原へ、ゆっくりと漕ぎ出していくような心地がしていた。


「二つあるというより、表裏と言った方が正しい。志乃は鬼であり、鬼は志乃である。でも、志乃の全てが鬼ではないし、鬼の全てが志乃ではない。それが何だと言うのだ。人間からすれば、鬼は不都合な存在。いつか志乃から切り離してしまいたいのだろう。鬼がいなくなったら、志乃はもっと空っぽだ。人間が利用しやすい空っぽだ」


 面頬に阻まれた口元へ手を近づけ、くつくつと志乃がしないような笑い方で肩を震わせながら、鬼は氷輪を繊月せんげつへ変えた。あざけりめいた冷色を見せる相手は、押しやられた志乃なのか、笑みを消した晴成なのか。どちらでもあるのかもしれない。


「志乃と鬼はともかく、芳親の中に封じられた箱入りは、今日やったような威嚇の時に少しだけ顔を出す程度らしいから、空っぽにはならないだろう。空っぽにならないまま、人間の側にいられるだろう」

「……芳親も、表裏の面を持っていると?」


 心当たり、前髪だけではない影が混ざったような牡丹の瞳を思い出しつつ、晴成は必要なことだけ問いかけた。「そうだ」と答える鬼の声には、これといった色がない。


「鬼が箱入りと会えたのは、夜蝶街で遊んだ時だけ。芳親と重なって鬼を呼んだくせに、芳親の中で黙っている。念を飛ばせば応じるが。お前を易々と連れて来られたのも、箱入りに芳親を眠らせておいてもらっているからだ。まあ、出てきたら出てきたで、人間に過ぎたモノ。縛り付けて都合がいいよう変えないと、人間とは一緒にいられない」


 ――それにしても、祀られるようなモノと話しているかのようだ。

 聞きに徹しながらも、鬼を名乗る相手を絶えず観察していた晴成は、自分が感じていたものの正体に行き当たる。まつられるモノ、人知の及ばない畏怖を纏った隣人であり賓客まれびと。それらが人間を語る時と同じ寒気が、晴成の肌を粟立たせている。


「お前は……自分や、芳親の中にいる箱入りとやらが、人に変容させられることを嫌っているのか」


 暗碧あんぺきの水面へ櫂を沈めるように、鬼の内海へ舟を進める。進めると言っても、本当にそこへ漕ぎ出せているのかは分からない。


「嫌は違う。嫌いも違う。志乃が残るか、鬼が残るか。人間のところに収まるか、妖怪のところに帰るか。どちらかになるというだけ。芳親と箱入りも同じこと。お前たちは志乃と芳親が良くて、鬼や箱入りは嫌なのだろう。だから、嫌とか嫌いを言うのは鬼ではなくて、お前たちの方だ」


 責めるような色も、怒るような色も無く、鬼の目は凍っていた。当然のことを語るのに動かす必要があるのは、言葉を発する器官だけと表明するかのように。


「お前は特にそうだろう、晴成。お前がすべてをくれてやったのは志乃だ。鬼が残れば、すべてが無駄になる。お前は一番、鬼を無くしたい人間のはずだ」


 それが、再び笑みの様相を含んだ。銀の花がほんのわずかに姿をちらつかせるような、冷たく儚い笑みの欠片は、夜と同じ鉄紺てつこんの影に落ちた星芒せいぼうめいて見えた。

 夏ながら、池のほとりは水気が薄く刷かれて涼しい。月光は霜を世界に刷いて、冴え冴えと仕立て上げている。桔梗が咲く中で対峙する人影も、宿す色は青と黒。寒々しさと幽闇ゆうあんに満ちた中で、鬼が冷たく笑っている。


「――いいや」


 藍色の目が映す光景は、笑う鬼の姿は、雪に似ていた。音もなく降っては消えていく、夏に見られるはずのない幻が、晴成の前に現れたようだった。


「お前がいなくなることを、望んではいない」

「それはおかしい。鬼がいては、人間は志乃を都合よく変えられない」

おれは志乃に、己の都合に合わせて変わってほしいとは思っていない。志乃がそうであるのなら、ありのまま、あるがままを受け入れるまで」


 こてん、と。鬼が首を傾げる。怪訝そうな視線が、頭から爪先までを滑っていったが、自らも流れに乗り始めた晴成は微笑むだけ。対して、今まで笑っていた鬼は、理解しがたいものを見る顔に変わっている。


「お前、もしかして理解できていないのか。志乃が残るか、鬼が残るか、それしかない。表裏一体はいつか終わる。両方が共存することはできない」

「それはいずれ辿り着く終点での話だろう。今は、志乃もお前も共存できているのだから、どちらも受け入れればいい。何より、己がそうしたいと思っているから、そうするまでだ」

「最後には片方しか残らないのに?」

「故にこそ、今あるうちに両方を大切にする。お前は、自分と志乃が完全に違うとは言わなかっただろう。同じところ、重なるところはあっても、全く異なっているわけではない。それなら、己はお前にもすべてをくれてやったということになる」


 ぱちぱち、氷輪の双眸が瞬いた。晴成の言葉が理解しがたいだとか、なぜ晴成が笑みを浮かべているのか分からないとか、様々な難解を受けたように眉が波を描いている。


「……志乃は、お前をばかだと言っていた。それは正しい。お前は莫迦だ。いずれ片方を失うなら、人間がどちらを切り捨てるか分かっているのなら、捨てる方を重んじる必要はない。そんなことをするのは無駄だ」

「己にとっては無駄ではない。言っただろう、己はお前を嫌うこともできなければ、忘れることもできない。いずれ失われるかもしれないなら、鬼のお前もことも忘れられはしないのだ。こうして視線も交わしてしまったことだしな」


 見てしまえば、無関心が成立しなくなる。心を寄せる相手の一側面であれば、なおさら。たとえ裏面に当たる存在であっても、光の当たらない陰であっても、志乃を形作るすべてに心が惹かれてゆく。

 そういう性質の血筋に連なっている前提があっても、やはり自分の一途は狂った領域に入っている。自覚してもなお、容易く広がる慕情に苦笑して、晴成は鬼を見つめた。変わらず怪訝な顔をした鬼は、牙を剥く物々しい面頬が拍子抜けになるほど無害そうに見える。一歩踏み出せば、親しくなれそうと勘違いしてしまえるほどに。


「なあ。鬼では呼びづらいし、紛らわしくもあるから、名を付けてもいいか」

「鬼は鬼だ。……でも、紛らわしいのは確かだから、くれると言うなら呼び名を貰おう」

「では、小夜さよ、と」


 ほとんど考える間もなく、晴成は二つの音を紡ぎ出す。夜を隻影せきえいの形にしたような鬼は、特に反応を示すこともなく、「分かった」とだけ返した。


「……そもそも、小夜はどうして己の前に姿を見せたのだ。己に何か、用があったのか?」

「少し話をして、お前の心を食らってやろうと思っていた。鬼はまず、弱った心を食らう。魂や体はその後、弱らせてからだ。どうせ壊れる志乃にすべてを捧げるなど、無意味な真似をする人間であれば、鬼の姿を見せて落胆させれば容易く食えると思っていた」


 良からぬ魂胆をあっさり白状した小夜だが、氷輪の目は半月に変わっている。不満げな視線が、じりじりと晴成を刺していく。


「だが、お前の心には食う所がない。穴を見つけて、そこから食ってみようと試みる頃には、もう穴が塞がっている。そうして、かじりどころが無くなった心をさらけ出して、好きにしろとのたまう。それでは食えない。弱れ」

「無茶を言う。……ああ、だが、確実に弱りそうな状況は思い当たるな。それこそ、小夜か志乃が消えるとなれば」

「まだそんなことを言うのか。分かっていながら二つとも抱え込んだくせに、いざ消えれば弱るなど、愚の骨頂だ」

「そうだとも。志乃が消えても、小夜が消えても、己は泣くぞ」


 他にも、親しい者に良くないことが起きれば弱るだろうが、という補足はしないでおいた。それで小夜が「ではそいつらを殺そう」などと言い出しては堪らない。

 晴成の胸中を読んでいるのかいないのか、小夜の目は半月のままだった。しばらくしてまた落とされた、「愚かだ、莫迦だ」という直球の罵倒には、再び怪訝の色が混じっている。


「お前は祀り縛る一族に連なっているくせに、不都合なものまでまとめてくくり抱えようとする。望んで自滅する人間など、破綻している」

「そうだな。だが、己は自滅を望んでいるわけではないぞ。望んでいるのは、お前と共に生きることだ。その道を選んだ以上、到着する場所は自滅というだけの話。分かり切った最果ての結末に辿り着くまで、志乃とも小夜とも共にいたい。それだけだよ」

「……らちが明かない」


 ため息をつくと、小夜は氷輪に気だるげな色を滲ませ、冷たい空気を纏い直した。話はもう終わりらしい。


「お前は莫迦で愚かだ。理解できない」

「己はお前を少し理解できた気がするぞ、小夜。お前は人間を案じてくれているし、己にも浅からぬ関心を持っている」


 吐き捨てられた言葉を受け止め、拾い上げたかのように、晴成は返答に得意げな空気を纏わせた。確信を得たとでも書かれていそうな顔に、鬼はただ首を傾げるばかり。


「……何を以ってお前がそう判断したのか、分からない。鬼はお前を食う目的だった。食い物を案じる必要などない」

「自分以外の死を許さないと言ったくせに、ずいぶん冷たい言い様だな。お前は己が自滅すると見て、あれこれ諫言かんげんしてくれただろう。どうでもよければ、こうして言葉さえ交わしもしなければ、志乃と交代して表に出てくることもないはずだ」


 堂々とした晴成の指摘に、小夜は何度目かの怪訝を顔に浮かべる。だが、今までの険しさは鳴りを潜め、戸惑いのような緩みが滲んでもいた。

 おそらく、小夜は小夜で、心というものが分からないのだろう。相手の心も、自分の心も。前者に関しては、弱ったことや付け入る隙を見つけることはできても、全容を理解することまではできないのだろう。凍り付いた月夜に佇んでいては、灯火の温かさも知らないに違いない。


「……渡しておきたいものがある。受け取ってくれるか」


 志乃と全く同じではないけれど、決して違うことはない小夜。香りも音も残さず消えゆく雪のような、閃と走り消えゆく霹靂へきれきのような鬼。

 蝶であっても、雪であっても、晴成が構えた小さな庭に立ち寄って、自由に舞う姿を見せてくれるだけで良かった。手を伸ばせば消えてしまうし、邪魔になってしまうから。ひどい雨をもたらす姿をしていたなら、軽やかに去りゆく背に、道行きの幸いを願うだけだった。


「鬼に渡しても意味は無い。渡すなら志乃に渡せばいい」


 それだけ、だったのに。


「いや、お前にも渡したいのだ、小夜。品は一つ、向き合う体も一つだが、お前たちに贈りたい」


 小夜の返答を待つことなく、晴成は懐から小さな布包みを取り出した。渡し損ねていたからと携えてきて正解だった、そう内心で安堵しながら。

 桔梗の花を踏まないよう、晴成は小夜のすぐ近くにまで歩み寄って包みを解く。現れたものを、小夜はためらいなく手に取った。ぞんざい気味に、片手で。


くしか」


 淡白な声が品の名を紡いだ。持ち上げられた柘植つげの櫛には、桔梗の姿が彫られていたが、ざっと表裏を確かめられただけで視線を外される。これがどうしたとばかりの目に、晴成は曖昧ながら苦い笑みを浮かべながら、「お守りだ」と答えた。


「正直言って嫁入り前の娘に渡す物ではないし、志乃を育てた方々から瀕死に追いやられること必至だが……こうもしないと留めておけなさそうだったからな。己との間にあるものが悪縁なら、他の悪縁ごと抜き落としてくれもするだろう」

「やはり志乃に渡すべき物だ。なぜ鬼に渡した」

「すべてまことだと示すために。すべてを捧げて空になった身であれば、お前から何かが消えるとしても、お前ごと己が抱えると示すために」


 一瞬で笑みを消し、晴成は揺るぎない言葉を放つ。笑い混じりだと伝わらないかもしれなかったので。


 先ほどよりも近くに見える、揺らぎを知らない青白の双眸に、夜陰より鮮やかな藍色が映り込んでいた。跡一つない新雪の地に踏み入ってしまった時のような背徳には、ひとかけらの喜びがついている。たったひとかけらだが、一噛みでもしてしまえば、凝縮されていた色彩が飛び散ってしまう。

 恋や愛が絡めば人は何でもすると、その明暗を知っている美々弧みみこの言葉が蘇った。本当にその通りなのが、晴成にはおぞましくて、それでも仕方がないと着地する。元よりそういう性質が受け継がれているのもあるが、背を見て幸いを願うだけに留めるには、晴成は深入りしすぎていた。そのせいで、四肢の一つが冷たくなったのだから。


「どこへなりとも自由に飛び遊べばいい。だが、かつてはね休めに寄った場所、お前を受け入れる準備を整えた存在がいることを憶えておいてほしい。空なら紛れてしまうが、地上ならば、我が身の色は微塵でも目立つだろう」

「海の上なら分からない色だ」

「舟の上なら分かるだろうさ」


 小さな庭に寄り付く場所を増やして、澪標を通り過ぎて。誰の手も届かない場所へ消えてしまいそうな鬼に、あとを残す。自由を望むと語りながら、唯一になれる座を広げて、結局縛りを増やしてしまう。

 風がまた池に細波さざなみを立て、月光に浸る桔梗を揺らして去っていく。時を泳ぐ風に取り残され、立ち尽くした鉄紺と藍色の影は、打ち込まれた杭のように不動だった。白日では透かせない夜の色が、ほんの一時だけ、ここにだけ現れたかのように。


「お前の用も終わったのなら、戻る。帰りも鬼に任せておけ」

「ああ、世話になる」


 そっけなく突拍子もなく強引に締め括られたが、晴成は素直に頷いておいた。付き合わされたのは晴成の方だが、夜の山道を一人で下るわけにはいかないし、時間を取らせて引き止めた負い目もあったので。

 了承を確認すると、小夜は櫛を懐へずぼっと突っ込み、来た時と同じく晴成を片腕で抱えて跳躍した。


 蝶や雪、霹靂と姿を変える鬼は、やはり地に縫い付けられないらしい。密かに笑う晴成の眼下では、池と桔梗の景色がすぐに暗い山へ変わり、林濱はやしはまの町へと変わっていく。最後には、兼久隊と直武一行が泊まる旅館の中庭へと。

 ほとんど音もなく目的地へ降り立つと、小夜は早々に晴成を解放した。行きと同様に大人しく運ばれていた晴成は、再び小夜と向き合って笑いかける。


「無事に帰してくれて、そして夜景を見せてくれてありがとう、小夜」

「無事に帰すのは当然だ。お前の死は、志乃と鬼が貰うのだから。櫛を貰った記憶は、志乃もしかと憶えているから、二度手間をかけずとも問題ない」


 極めて事務的に晴成の目を見て伝えていた小夜だったが、少し視線を逸らしたのち、「それから」と付け足した。


「鬼と箱入りのことを天藤茉白にも話すのなら、箱入りにも呼び名を付けるよう言ってやれ」

「請け負った」


 余計な詮索はせず、晴成も淡白に返せば、「では」と小夜は踵を返した。先に屋内へ戻っていく姿を見送ってから、晴成も静かに自室へ向かう。


 道中、誰かに見られている気配は感じなかった。小夜が何かしたのか、芳親の中にいるという「箱入り」が何かしたのか。誰にも気付かれていなかったのか、気付かないふりで見逃されていたのか――分からないことは整えていた装いごと脱ぎ捨て、夜着と布団には持ち込まない。

 眠る前に、分かっていることを反芻する。志乃と芳親の中には表裏一体の存在がいて、しかしいつかは片方が消える。灯火を抱く妖雛たちには、何かと片方消えることが定められているらしい。数多を持てないのは人間も変わらないが、腕に限りがあるから持てないのとは違っている。そもそも許されていないのだろう。


 だが、存在を許されていなくても、消えていく様を何もせず見るだけにはいかない。


 間接にも触れる場所を増やしてしまえば、消えゆくことを惜しいと思ってしまえば、慎ましやかだった意思が転げるように崩れていく。願うだけでは足りなくなる。それでも、閉じ込めたいと思えないだけマシな方か。そう思い始めてしまったら、志乃の傍にいられなくなる。すべて抱えると告げた言葉が嘘になってしまう。

 夜陰に迷い込んだ羽蟲が、張り巡らされていた透明な糸に絡めとられる様が、晴成の脳裏に浮かび上がった。藻掻けば藻掻くほど糸が絡まる。それでも飛ぼうと動いていれば、どこかの糸が千切れるか、自分の体がもげてしまう。


 全くもって、難儀なことになってしまった。それでも懲りずに想ってしまうあたり、身体の隅々にまで焼きが回っている。

 どうにもならなさに目を閉じて、ようやく晴成は眠りに就いた。厄介な現状から抜け出したいと思っていない、何よりの火傷に困り笑いを残して、短夜の底へと緩やかに落ちていった。

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