経験則

 ちょうど、集中の切れ間を鹿威ししおどしが打った。


 渡辺わたなべ基綱もとつなは紙の海原から視線を上げる。旅館の中でも最上級の部屋を書斎代わりに使う若者は、童顔以外、不思議と室内に溶け込んでいる。けれど彼は、先ほど長い会談を終えた相手の方が、自分より部屋の空気をものにしていたなと口の端を上げた。


「にやにやしちゃって。上機嫌っスねぇ、基綱様」


 からかいの声が聞こえても笑みを消さず、基綱は入室の足音に振り返った。自分と同じ、鉄色の小袖に煤竹色の袴を着た、しなやかな体躯の女。凝った編み込みで纏められた、紫がかって上品な赤毛の整美が、彼女の強みを代弁している。


「まあ、気分アガるのも分かりみっスよ。イイ男でしたもんねー、晴成氏。弟があれで話も言ってた通りなら、兄貴もイイ男間違いなしっスよ」

「見てもいないのに、と言いたいところですが。提出された資料を見るに、手腕は確かなもののようです。橙路府とうじふの旧武家群が独自に発展させていた外交は、思っていた以上に発展している。星永家は前代から貿易事業に携わり、靖成殿はそれを引き継いでいますが、実績は低下することなく、新規開拓も成功。提携を考えるに値するだけの順風満帆さです」


 瞬いた基綱の眼裏に、藍色の面影が蘇る。相対したのは一人だけだが、見たことのない面影も含めて、二人分。

 対談も情報提供も、まだこれが最初。それで全てが一色に染まってしまうわけではない。だが、そう簡単に忘れられるような藍色ではなかった。文机ふづくえ越しに赤紫の面影をした女が座っても、気配が上書きされそうにない。


旨味うまみしかなくて将来有望なのも同意っスが、術師の視点からすると、星に関わる人間なことだけが気になるっスねぇ」

「種類によっては凶兆になることもありますからね、星というものは」

「そうそう。と言っても、自然現象が人間にとって有害か無害かなんて、星じゃなくたって分かんないですし、天授てんじゅの家系相手に今さらっスけど」

「でも、あなたの意見もきっと正しいですよ、千帆ちほ。晴成さんは、茉白さんとは違います」


 からから笑う女に行儀のいい微笑を返しつつ、基綱は静かな熱を持った視線を思い出す。その源、藍色の双眸に潜んでいた火影は、空の彼方で燃える星のようだった。吉凶を判じるより先に、凄まじい力があると察せられるような。

 晴成の目がそうなら、兄である靖成の目にも、星の炎が宿っているのだろう。受け継がれる血の背後に居続ける、超常の何かを感じずにはいられない影が。


「そりゃあ違うっスよ、色々と。共通点は天授の家系関係者なことと、いま話題の〈特使〉くんちゃんに深く関わってるってことくらいっス。まあ、茉白氏と芳親氏の関係に比べたら、いつ落っこちてもおかしくない綱渡りな関係性みたいっスけど」

「本当に。まだ志乃さんにはお会いできていませんから、あれこれと勝手に話せませんが」


 かこん、と。再び鹿威しと調子が揃い、空気が話題の変え時と色を変えた。切り替えると決まれば、基綱の頭は藍色の影に蓋をして、千帆の目を見つめる。溌溂はつらつさが窺える丸い目は、色もはぜの実で染めたように明るい。


「そういえば、千帆。あなたは何の用で来たのですか」

「そろそろご飯できるってお伝えに。ちょっとは時間潰しのお話し相手も」

「もうそんな時間なのですか。おかしいですね、おれのお腹は鳴っていないのですが……」

「基綱様の腹時計並みに信用ならないものってなかなかねぇっスよ。ちゃんと食べないと、あたしと深夜に仲良く夜食キメる羽目になるんですから、しっかりしてください」

「そんな。安恒やすつねにバレたら、揃って怒られてくれないなんて」

「怒られるのは別にいいっスけど、基綱様は体壊したらダメじゃないっスか。あたし好きな人が病床で寝てんのかなり心にキちゃう繊細さんなんで、勘弁してください。あと、基綱様はもちろん、安恒氏の堪忍袋の緒が切れすぎて、血管まで切れて倒れちゃうのも嫌っス」


 説明不要なほど嫌そうな顔をしながら、こめかみのあたりを指先でつつく千帆に、基綱は口に手を当てながらくすくす笑う。成年までほんの少し足りない基綱よりずっと年上なのに、子どものような人だ。これでも四大術家が一角、川浦かわうら家の当主を既に務めているのだから、人は見た目に寄らない。


「……ですが、安恒は兄上と一緒に洛都らくとで仕事をしていることですし、ちょっとくらい夜食を食べてもバレないのでは?」

「安恒氏の目が誤魔化せるとでもー? どうせまた見張り役がいるっスよ。みんな基綱様の夜食は悪癖だと思ってるんですから」

「なるほど。では千帆もそう思っていると」

「もちろん。ま、人のことは言えないっスけど」


 片目をつむり、べ、と舌を出す千帆の態度は、仕えている人間に対するものとは思えない。だが、渡辺家の人間であっても当主でなく、業務時間外の暇を潰しているだけの少年は気にしない。


「でも、今日はダメっス。夜食はたまにキメるからこそウマい。毎晩キメてたら、いつか美味しさが薄れちゃうっスよ」

「経験則というやつですね、それは」

「ですです。お菓子だって、人が隠してるものが一番ウマいじゃないっスか。ほら、つまみ食いと夜食の話はこれくらいにして。さっさと晩メシ食べに行くっスよ」

「早く席に着くのも、圧を掛けるようで迷惑が掛かりません?」

「出来立ての時に応じれない方が迷惑っス。ほらほら、お片付け手伝いますから」


 気安い雰囲気をすぐさま引っ込め、千帆は書類を手早くまとめ終えてしまう。基綱も諦めて腰を上げ、墨やすずり、筆を片付けた。庭に面した障子戸も閉めたため、鹿威しの音もくぐもる。

 時刻が酉三とりみつになっても、廊下から見える空では暮色が残っている。吊り灯籠にも石灯籠にも火が入れられ、明るすぎるほどだが、落ちる陰影は夜の幽闇ゆうあんを覗かせていた。


 ***


 時を同じくして、兼久隊と直武一行が滞在している旅館でも、夕餉の用意がされていた。


 大半が宴会場へ向かう中、志乃は早々に自室で食事を終え、風呂まで済ませている。浴衣ゆかた姿ですっかり旅館の風情に馴染んだ後は、中庭に面した縁側へ出て、夜風に当たっていた。

 夜闇に沈んだ景観は、鼻や耳に頼った方が楽しめた。小さな滝や身をよじるこいが立てる水音、密やかな虫の声、涼しい夜風に掻き立てられる翠緑すいりょくの香り。人の気配や声もするが、隣接した別世界を見聞きするかのような距離がある。


 澄美と桔梗ききょうを見に行ってから、微妙にずれた場所を歩いている感覚が、頭の片隅に居座っている気がしていた。桔梗の花畑は現世と幽世の境界にあって、自分だけ、その隙間から抜け出せないまま帰ってきたのではなかろうか、とも。もしかするとそれより前、常世から戻り損ねているのかもしれない。


 だって、人間として生きる目標を掲げていた志乃は、常世で終わってしまったのだから。


 今ここにいるのは、人間の傍にいるだけを選んだ志乃。芳親に殺してもらうことを選び、殺傷が自分を満たすと認めた志乃。平和が望まれる現世と相容れなくて当然だった。いつでも離れられるように、現世からは一歩、引いていなければならない。


「あ、志乃ちゃん。ここにいたんだ」


 湯気と共に浴びたひのきの香りさえ忘れかけた矢先、軽やかな女性の声が、志乃の意識を引き止めた。振り返れば、浴衣姿の喜千代がにっこりと笑いかけている。


「結構ここに座ってたんじゃない? いくら夏場でも、湯冷めすると風邪引きかねないよ。庭の池も近いから涼しいし」

「ありがとうございます。ですが、ご心配には及びま……っくし」

「言わんこっちゃない」


 笑みに呆れの色をにじませつつ、喜千代もまた、志乃の隣へ腰かけた。湯と檜の香りをほのかに伴う気配は温かく、しっとりとしている。すっきりした短髪にも、湿り気が残っていた。


「本当に大丈夫ですよぉ。喜千代さんのお話し相手も務められますし」

「お話ししてくれる気だったんだ、嬉しい。それとも、私が君と話したがってるの、バレてたかな?」

「そうですねぇ、うっすらと、でしたが。喜千代さん、『ここにいたんだ』と仰いましたから、俺のことを探していらしたのかなぁと」

「当たり。話をしたかったのはもちろん、姿がずっと見えなかったし。誰かしらに伝言して行動してくれたから、そんなに心配要らなくて助かったけど。芳親くんにも見習ってほしいわぁ。あの子の言動、良くも悪くも思い立ったら一直線なところあるから」


 ああ、と打った相槌は、志乃が思っていたより深くなった。思い当たる節は今までにもあったどころか、今日の昼間にもあったばかりだったので。


「って、話したいのは芳親くんのことじゃなかった。志乃ちゃんのことだよ」

「……、お説教、ですか?」

「すっごい目を泳がせながら訊くのね……笑顔も引きつってるし。全然違うから安心して」


 志乃も喜千代も、大きく息を吐いた。前者は安堵、後者は苦笑混じりに。喜千代の表情には雲が掛かりかけていたがすぐに消え、光を弾く双眸が志乃へと向けられる。


「志乃ちゃんと芳親くんに起こったことと選択した答えは、私たちも知ってる。それが、私たちの物差しで測ったら、見当違いになってしまうことも。それでも……そうだからこそ、私たちは君たちの味方として、誠実に向き合います」


 初夏の日差しが似合う喜千代の顔は、月光の似合う凛々しい面を見せていた。眼差しは時さえ止めてしまえそうだったが、ゆっくりと解けて柔らかくなっていく。


「これじゃあ話じゃなくて宣言だよね。でも、憶えておいてほしいの。私たちも君たち二人の味方だって。芳親くんは言わなくてもそう思ってるだろうけど、志乃ちゃんには言っておきたかったんだ」

「今は美々弧みみこさんがいらっしゃるから、ですか?」

「あー、うん、そっちもバレるよね。志乃ちゃんも勧誘された?」

「はい。似たような言葉を雷雅さんから掛けられたばかりでしたので、お断りしやすかったです」


 夜蝶街やちょうがいにいた時も、人間妖怪問わず様々な声掛けを断ってきた志乃としては、とりあえず穏便に済ませられたのが何よりだった。直武のお供という立場上、直武と同格な四大武家当主を相手にいざこざは起こしたくない。あのとき一緒にいた澄美への飛び火も避けたい。それらを踏まえれば上出来な結果だろう。

 だが、美々弧が穏便に引き下がったのは、勧誘を諦めたからではない。隙が空き次第、再び声を掛けてくるのは明白だ。証明するように、喜千代の苦笑も濃くなっている。


「美々弧さん、悪い人じゃないんだけど、碓伊うすい家の人は狙った獲物を逃がさない性分持ちが多いから。こじれて変ないさかいが起きる前に、明瞭にしておくべきところはしておかないとね。あ、これ私の経験則。今も重なってる経験に基づいてるから、かなり信じられるよ」


 自慢するのもどうかと思うけどね、と。喜千代は困った風に体を傾ける。まだ湿りが抜けきらないまま、体に合わせて流れた短髪は、夜にたたずからすの濡れ羽に似ていた。

 過去に喜千代の所属を巡って、兼久たちと美々弧の仲が険悪へと落ち込んだことは、志乃も聞き及んでいる。喜千代にしがらみめいた絡まりがあるのは意外で、彼女自身に打ち破って出ていきそうな気概が見えないのも意外だった。志乃から見た喜千代は、夜蝶街で姉と慕った志鶴や初枝に似て、しなやかに人波や格子を潜り抜けそうな自由を感じさせる女性だったので。


「……外野かつ、心情を理解していない俺が言うのは的外れかもしれませんが。喜千代さん、兼久さんと早々にお付き合いすればよろしいのでは? 四大武家当主の方が大切になさっている方であれば、同格とは言え、美々弧さんも勧誘しづらくなるのではないでしょうか」


 夜蝶街の姉たちと喜千代は違うなど分かり切っているが、志乃が考えつくようなことに、一歩どころか五歩くらい先行して思い至っているのは同じだろう。余計な口出しだったかと、志乃にしては珍しく冷や冷やしながら反応を待ったが、喜千代は苦笑を崩さずため息だけついた。


「残念ながらそうはいかないんだよね……だから悪癖というか。あ、そう流れていきそうな話なら、みんなのところに戻って話さない? さすがにもう体は冷えきってるでしょ、志乃ちゃん」

「はい。風邪は引きそうにないですが、戻りましょう。もし茉白に見つかった時、怒られるのは避けたいです」


 立ち上がりながら言う喜千代に、長らく座り続けていた志乃もようやく腰を上げた。喜千代と話したお陰か、ずれて遠かった現世の気配は、何食わぬ顔で妖雛を包んでいる。喜千代の逃げに便乗してついて行ったら、戻れたという方が正しいか。話したくないことがあると多勢の中に紛れて無に帰すところまで、夜蝶街の姉たちと似ている。

 喜千代に続いて屋内へ入り、障子戸を閉める直前、かすかな鳥の声が滑り込んできた。単に迷い込んだだけなのか、夜で繋がった幽世からついてきたのか――透明な鳥がいるかのような想像に、蓋をする。気を取られて遅れないよう、志乃は喜千代の隣へ歩み寄って、暗くなった縁側を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る