縫い代

 先陣を切った蝉たちが声を降らせる森に、青草を踏み分ける足音が二つ。新旧継ぎ接ぎの町から離れた澄美と志乃が、湖を囲う山並みの一角へ分け入っていた。手を繋いだままとはいかなかったため、澄美が先導し、志乃が続く進み方に戻って。

 古くは山城やとりでなどが点在し、松枝湖まつえだこを囲う天然の要塞として機能していた峰々だが、今は痕跡が草木の影から窺えるばかり。澄美は既に見知っているため言うこともないが、志乃は最初から興味がないのか、残骸を見つけても無言のままだった。


「……桔梗ききょうの花が見えました。目的地が近づいてきましたよ、志乃」


 上にも下にも群れる青草葉に木の幹、木漏れ日と古城の瓦礫がれきで描かれた景色に、明るい夜の忘れた物めいた青紫が凛と咲いている。進むごとに花は増え、夜について行き損ねた星めいた白い桔梗ともすれ違う。

 木々の隙間から桔梗が咲き零れる道を抜け、開けた辺り一面を桔梗が染める野原へ出た頃には、蝉の声が遠ざかっていた。遮るものがなくなって空を見渡せ、きらきらと目を奪う池も見える。ここだけ、現世から切り離された別世界のようだ。

 澄美は早々に池のほとりまで歩き立ち尽くしたが、志乃はのんびりと向かってきていた。夜の入り口、あるいは出口の色合いを纏う花の群れは、夜から抜け出たような妖雛によく似合う。


「野生でこれほど咲き誇っていると、壮観ですねぇ」

「はい。人の手が入らずしてこれまでとは、と……晴成様も、感嘆していらっしゃいました」


 花のない隙間を縫って隣へ来た志乃に、澄美は呟くように告げる。単なる事実だから言うのも当然なのに、力が抜けていく心地がした。何故か緊張していたらしい。


「晴成様が、この一帯にある城跡を見て回っていた際に、ここを見つけたのです。その時に供をしていたのは澄美だけでしたので、志乃や芳親にも見せたいとおっしゃっておいででした」

「そうですか」


 愛想で飾り立てられた相槌が、手本のように親しみある笑顔から流れ落ちる。分かりやすいのは一対一でよく見えるからだろうか、澄美が若鶴わかづるで暗殺を謀った際、狙い定めた志乃の背が抜け殻のようだったと憶えているからだろうか。


 水上を通った微風や涼やかな色に満ちた視界のお陰で、夏の熱気はずいぶん和らいでいる。会話はすっかり途切れていたが、二人とも気にしていなかった。池に立つ細波や風の音、夜が盛大に零した残滓から生まれたかのような花々。風雅を愛でる趣味こそないが、静かにたたずむだけで、見えるものも聞こえるものも数多ある。


 いつの間にか、澄美の視線は足元の影に入っていた。周囲は大人しく、大人びた色ばかりで、見るのも二回目なのに、自分の影が一番落ち着く気がする。


「……どうしました、澄美。具合が悪くなりましたか?」

 ――どうした、澄美。どこか悪いのか。


 似たような言葉を全く違う声色で打ち出されて。違うはずなのに、響きの波間が混ぜた色に覚えがあって。澄美はすぐに反応を返せなかった。


「いえ」


 何故か恐る恐る顔を上げて振り返れば、きょとんとした志乃がいる。人と全く変わりなく見える上、晴成のような見目の個性もないのに、どこか不釣り合いな印象を拭い切れない少女が。


「もしかして、目が疲れてしまいましたか。夏は日差しが強いですから、昼間はどこもかしこもまぶしく見えてしまいますよね」

「……はい。志乃も、眩しいと?」

「夜に慣れた身ですからねぇ、俺は。あんまり晴れて日差しも強いと、驚くほど目が痛くなります」


 困ったように笑う顔もまた愛想の部類だが、嘘でないことは不思議と分かる。そもそも、嘘をついて得するような情報ではない。気にし過ぎなのかもしれないと、澄美は疲れを取るついでに眉間を揉んだ。


「戻りましょうか。そろそろ夕方も近づいてきた頃合いですし」

「ええ。ですが体調にはお気遣いなく。大丈夫ですので」

「茉白の前でも言えます?」

「なぜ茉白様が……ああ、お医者様だからですか。はい、茉白様の手もわずらわせないかと」

「それなら良いのですが。もし不調が出てきたら、隠さず正直に言った方が賢明です。茉白に怒られますから。俺はまだ完璧に怒らせたことこそありませんが、茉白は本当に怒ると恐ろしいですよ、絶対。俺には分かります。圧のある笑顔ができる方は押し並べてそうです」


 腕を組みつつ真剣な顔をして、志乃は重々しい頷きを繰り返す。志乃の態度は謎だったものの、澄美も同意見だった。神秘的で儚げ、可憐な雰囲気をしているが、茉白の芯は凄まじく強い。少し一緒に過ごせば察せるくらいに。


 茉白に不調を隠すべきではないという話題から始まった会話は、ころころ変わりながら二人の帰路に付き添った。兼久隊の人々は優しいだとか、林濱はやしはまは山海の品々が入り乱れて興味深いだとか、高台まで芳親が尾行してきたが抵抗の声を上げて離れていっただとか。難なく山道を抜けて、端に夕の気配を滲ませる空の下、澄美と志乃は街中へと戻っていく。

 行きの時に比べ、滞在する旅館の近くまで歩いた頃には、二人ともいくらか気が楽になっていた。敬語ゆえに硬い口調は仕方ないが、声色は何となく柔らかくなったのではと、互いに感じ取れるほどに。


「宿に戻ってきましたねぇ。そういえば、澄美の部屋はどちらに?」

「同じ階の……志乃の部屋から出て左側の奥に。何か、他にもご用があるのですか」

「いえ。あ、ええと、違いますね。ご用ができるのはこれからなので。特にすることがなくて暇になったら、澄美の部屋を訪ねてもいいですか」

「構いませんが、特に何もありませんよ」

「澄美がいるじゃないですかぁ。話題に困ったら茉白や喜千代さんを訪ねればいいのです。それくらいは大目に見てもらえるかと」

「――あるいは、わたしを訪ねてもらっても構わないよ」


 滑らかになってきた会話に、するり、三人目の声が合流した。同じ女性ながら、澄美や志乃よりもずっと深い声が。

 夕に向けてざわめきが復活してきた街中であること、すっかり談話に集中していたことが重なって、澄美も志乃も第三者の接近に気付けなかった。けれど、声の主がすぐ分かった澄美からすれば、それも致し方なしと思えてしまう。


「……こんにちは、碓伊うすい様」


 若干の緊張を走らせた声で、澄美は声の主に向き直った。同時に目線は下へ落ちる。旅館の群体へ続く坂を背に、子どもかと見まがうほど小柄な女性が立っていたので。

 色護衆しきごしゅうの紋が染め抜かれた、鉄色てついろの小袖に煤竹色すすたけいろの袴。麗部うらべ家と境田家が頭領である麗境山れいきょうさんではなく、渡辺家と碓伊家が頭領の渡碓山とたいさん所属を示す組み合わせ。淡い蜂蜜色に染められ緩く波打つ長髪は、中腹から毛先までが、若葉浮かぶ青磁せいじの水瓶を覗いたような色に染められている。


「こんにちは、澄美ちゃん。張り詰めた顔も愛らしいね。そんなに警戒しなくても、無理やり傘下に収めようなんて思っていないよ。晴成くんとはできるだけ仲良くしておきたいし、兼久たちにまた怒られかねないから」


 ただ体の間合いを詰められただけで、鼻先にまで顔を近づけられたような感覚がする。あまり人を見る目を養えていない自覚がある澄美でも、距離を置きたいと思わせられる女性だった。初めて会った時は晴成が間に入ってくれたが、今は、碓伊の名を持つ女を知らない志乃しかいない。

 細くも鋭い目が、澄美を通り越して後ろへと向けられる。「ところで」と、柔らかな布で包むような声が、小刀を隠したような音に変わった。


「そちらは? 初めて見る子だ。もしかして、麗部のご隠居様がお連れになられているという」

「初めまして。麗部の旦那の供をしております。人妖兵じんようへいの花居志乃と申します」


 見なくても分かる愛想笑いが、刃を抜かす間もなく声を受け止める。志乃は澄美の隣に並び立って、小柄な女性に一礼した。


「これは丁寧に、ありがとう。わたしは碓伊美々弧みみこ。四大武家が一角、碓伊家の当主だ。気軽に下の名前で呼んでくれて構わないよ。女の子に名を呼ばれるのは大好きだから」

「あー、聞き及んでおります」


 いまいち締まりのない声を聞くなり破顔した美々弧が、ぬっと足を志乃の方へ突き出たかと思えば、小柄な体躯が瞬く間に距離を詰める。一歩下がりかけた澄美と違い、志乃は綺麗な姿勢も、いつも通りな笑みの仮面も崩さない。


「聞き及んでいるとなると、わたしがよく勧誘をすることも知っているのかな」

「ええ、はい。女性ながら女好き、能力ある女性には片端から声を掛ける方だと」

「そう。わたしは女の子が大好きなの。女の子って原石だから。宝になると分かっているものは、いち早く手元に置いておきたくなるでしょう?」

「はて。申し訳ありませんが、俺には分かりかねますねぇ」


 背筋に寒気を走らせるような笑みを浮かべる女と、涼しい笑みを纏う妖雛。傍目に見ればにこやかだろうが、間近で冷気と涼気のぶつかり合いを体感している澄美からすれば堪ったものではない。


「残念。澄美ちゃんも志乃ちゃんもまだ原石のようだから、ぜひ手元に来てほしかったのだけど。ああ、でも。美しい宝石になりたいと思ったら、わたしがいつでも手助けをしてあげる。どこで誰の師事を受けていても、ね」

「生憎ですが、つい最近その手の言葉を妖怪から掛けられておりましてぇ……麗部の旦那の元から離れない意思が固まってしまいました。えへへへ」

「あら、わたしとしたことが。不快にさせてしまったらごめんなさいね、志乃ちゃん。きみの笑顔はとても魅力的だから、なるべく曇ってほしくないな」

「俺の顔はいつでもこうですよぉ。そちらこそ、俺の魅力的な笑顔が見たくなりましたら、いつでもどうぞ。芳親と一緒にお会いいたします」

「ふふふ、素敵。芳くんのことも結構気に入っているんだよね、わたし。用があるからそろそろ失礼しないとだけど、機会があればぜひ遊びに来てね。一人でも、みんなと一緒でも、心から歓迎します」


 優雅な一礼をきっちり二人分見せてから、美々弧は軽やかに立ち去った。春が去りゆくような色合いをしていながら、残した風は冬の置き土産のように鋭い。相変わらず志乃はにこにこと美々弧を見送っていたが、澄美は大きく息を吐いて、ようやく緊張から抜け出せていた。


「大丈夫ですか、澄美。あまり得意ではなさそうだったので、代わりにお話ししたつもりだったのですが」

「いえ。すみません、見知っているのは私の方でしたから、先に対応すべきところでしたのに」

「お構いなく。俺は割と、こういう話し合いには慣れていますから。それに、碓伊家の方に関しては、先も言った通り麗部の旦那や紀定のりさださんから注意されましたよぉ。勧誘を掛けられたら即座に断れ、触れられようものなら動きを封じて縛り上げろ、と」


 緩さの窺える口調ながら、志乃が述べた言葉の背後には鉄壁がある。その鉄壁は今の自分が欲しているものだと、確信が澄美の胸裏に滲み出してきていた。

 晴成の供という役目が終わった後、何をすればいいのか。まだ見ぬ先のために準備は進めているつもりだが、何よりあるべき芯はまるで定まっていない。


「……澄美?」

「っ、すみません、何でもありません」

「何でもある人の言動ですねぇ。澄美は案外、分かりやすい人なのですね」


 へらりのらり、志乃に笑みを傾けられ、澄美の頬は正直に熱を持った。今まで、頭部へ血が集まるようなことはなかったのに。ここ最近はそういうことが容易く身に起こる。


「まあ、俺は悩み相談に向かないタチですので追及はしません。旅館に戻ってから、しかるべき方に相談することをお勧めします。茉白とか……、あるいは麗部の旦那にも、必要ならば話を通しておきますよぉ」

「ありがとうございます」


 澄美もまた、途切れた箇所には追及せず返した。

 相談相手を挙げる時、茉白の次に言おうとしたのは、晴成だったのだろう。逡巡は短いながらも、見逃すには長すぎた。間接的にさえ触れられなかったのか、澄美に言うなら当たり前すぎて違うと考えたのかまでは分からない。

 のんびりとした会話を、どちらともなく取り戻して、二人は坂を上り始めた。人通りが少なかったため、何となく横並びになって。双方の背中には西日が当たり、顔には濃さを増した影が、徐々に浸透してきていた。

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