第3話 浮気相手

 サブカルチャーと一言で言ってもたくさんある。安いところでは、市役所などの行政が行っている、カルチャー教室などもあるが、せっかくのセレブの奥様が通う教室としては。行政が行うサークルなどではなく、民間の会社がやっているサブカル教室もいろいろとあるので、そちらを見るようにした。

 金銭的には本当にピンからキリまであり、ピンであれば、プロと思しき先生が指導してくれるところもあるようだ、

 しかし、紗友里の本当の目的は、

「浮気相手の物色」

 だった。

 少し歪で、不純な動機であったが、実際に入ってみると、他の女性も口では、

「絵が上手くなりたい」

 という教科書的な面白くもない回答が返ってくるのだが、その本音は紗友里とほとんど大差のないものであった。

――なんだ、私だけじゃないんだ――

 と思ったが、他の奥さんのように、オブラートに包んだような行動にはどこか否定的なものを感じていた。

 そういう意味で、他の奥さんとつるむことだけはしないようにしようと思った。下手をすると泥仕合になりかねないからだった。

 せっかくセレブな自分が、泥仕合を見せるなんて、ありえないと思っているのも確かだが、そうなってしまうと、元々の目的を失ってしまい、ここにいること自体。まるで本末転倒になってしまうであろうと感じたからだ。

 カルチャー教室には、昼の部と夜の部が存在した。

 昼の部は基本的に主婦が多く、夜の部は、サラリーマンが仕事終わりに趣味として嗜むことを目的にくるものであった。

 昼の部、夜の部、その人の都合で、どちらに参加してもいいようになっていたのだ。だから、紗友里は昼の部だけではなく、夜の部にも万遍なく参加するようにした。

 家の方には、

「私、最近サブカルチャーとして、絵画教室に通うようになったのよ」

 というと、

「そうかい。それはいいことかも知れないね。君もいつも家にばかりいると、息苦しさもあるだろうから、そうやって気分転換できるのはいいことだと思うよ。私も応援したいくらいだ」

 と旦那は言っていた。

 ひょっとすると、奥さんがサブカル教室に通うことで、自分の浮気の時間が取れることを喜んでいるのかも知れないが、その時の紗友里には、そんなことはほとんど関係のないことであった。

「君がうまくなって、描いた作品をこの家に飾れるくらいになると嬉しいね」

 と言っていた。

 もし、紗友里に興味が薄れていれば、そんな言葉が出てくるはずはないということに、すでにその時の紗友里は気付かないまでになっていた。つまり、この言葉は夫としての本音であり、妻への純粋な優しさだったのだ。

 紗友里は別に裏切られていたわけではなく、勝手な思い込みだった。それは、夫が会話が少なくなってきた自分を見限っているという思いから生じたことであり、旦那にはそんな思いは毛頭なく、むしろ奥さんを信じてのことだということに、気付きもしなかったのである。

 紗友里が教室に通うと言い出した時、

「お金のことは心配いらないよ」

 と言ってくれたのも、紗友里には少しカチンときたことであった。

――お金のことを言い出すなんて――

 と、少し旦那の言動に敏感になっているところに金銭を口にされてしまうと、やはり自分のことよりも、金銭感覚を優先して見てしまうのだろうと感じ。少しショックを隠せない紗友里だった。

 だが、サブカルチャーのパンフレットを見ているだけでも楽しい気分になっていることに、紗友里は満足していた。今までに感じたことのないドキドキがあるのと、見ているだけで楽しくなっているというシチュエーション自体に、まるで子供に戻ったかのような感覚があることに自分でも驚いていたのだ。

 紗友里にとってのサブカルチャーの一番の目的は気分転換である。もちろん、浮気相手を見つけたいというのは欲望であり、妄想である。それを第一の目標にしてしまうことを、紗友里は拒んだ。

 そんなところが、先代が彼女を気に入ったところなのだろうが、本人はそこまでは気付いていないようだ。

 どこか、真面目なところがあるというのも、可愛げがある証拠ではないかと思っていた先代だったのは、他のホステスに感じたあざとさと、彼女のあどけなさに、決定的な違いを感じたからだった。

 あざとさというのは、必要以上な身体への密着と、昭和でいわれるところの、

「ぶりっこ」

 なる態度である。

 先代なら、ぶりっ子と言っても分かるだろうが、今の人に分かるはずもない。今のあざとさとは次元が違っているのだろうが、

「あざとさってどういうことだい?」

 と聞かれたとして、どちらも知っている人は、ぶりっ子と答える人も少なくはないだろう。要するに、

「計算つくされた態度」

 という意味では、あざとさの方が全般的なのだろう。

「ぶりっ子」

 というと、どうしても、可愛さだけを前面に出しているようで、そういう意味で、あざとさは、可愛さよりも、妖艶さの方を強く感じるのかも知れない。

 ぶりっ子は分かりやすいが、あざとさの分かりやすさとは違って、

「許せる許せない」

 という境界であるのに対して、あざとさは、

「騙されてみようか、騙されたふりだけにしようか?」

 というような感覚で、許容したうえで、自分の態度をそうするか考えようとするのではないかと思う。

 つまりは、相手のあざとさを分かったうえで、こちらも行動するところまで含めて、女性のあざとさは有効なのではないかと思う。そう感じたのは、紗友里であり、男性であれば、また別の考えもあるだろうし、自分以外の女性も同じ考えだとは、紗友里には思えなかった。

 そういう意味で、紗友里はあざとい態度が嫌いであり、何よりも、

「私にはできない」

 と思っていたのだ。

 紗友里の真面目さというのは、普通にいう真面目さとは違い、

「自分にできることを制限する」

 という考え方であった。

 いわゆる真面目さというのは、何か正しいことを自分の中での正義とし、その通りに動くことを真面目というのではないかと思っていた。

 だから、紗友里は自分の行動にいつも制限を掛けていて、本当が知っていることも、悪いことであれば、知らないふりをわざとしてしまうというところがあった。

 制限というのは、基本的に、

「欲望を抑える」

 という考え方であり、抑えられた欲望は、自分の中で、

「悪いことだから、押さえつけた」

 という理屈で理解され、記憶の中に封印されることであろう。

 理解された感覚の一部は意識へと向かい、潜在意識として確立されることで、勧善懲悪に近い形の考えに近づいていくのであった。

 紗友里は、サブカルチャーをパンフレットだけを読んでいても埒があかないと思い。実際に見学させてもらいに行くことにした。

 紗友里の中では、

「見学にいって、外から見た時点で、これは真面目過ぎると感じるようなところは、自分には合わないと思った。どちらかというと気軽にできるところでなければ、自分の真面目さが目立たないのではないかという考えがあるからで、これこし、いわゆる、

「あざとさ」

 というものではないかと思えた。

 真面目過ぎるくらいの紗友里が、他の人とうまくできるとすれば、似たような人ばかりではないところの方が却っていいと思ったのだ。

「きっと、似たような人ばかりだと、お互いに見たくないものを見せつけられるような気がする」

 という思いからであった。

 絵画教室というのは、思っていたよりも結構あった。確かに多いと言えば、カラオケなどの和気あいあいとした合唱グループのようなサークルであったり、スポーツ系のサークル。さらにはパソコン教師と言ったものが王道ではないだろうか。英会話などの爆発的に多い教室は、もはやサブカルチャーと呼ぶことのできない、いわゆる「メインカルチャー」と言ってもいいだろう。

 生活や仕事に直結することは、メインカルチャーと言ってもいいということであれば、パソコン教室もメインに入れてもいいかも知れない。運動系でも、ゴルフなどは、メインに入るのではないだろうか。

 サブカルチャーというのはあくまでも、趣味の世界であり、実用的なものとは違うという認識でいいと思うのであった。

 紗友里の場合は、最初から絵画教室という目的をもって探していたので、他の教室の案内は、あまりハッキリとは読んでいなかったが、それでも興味を感じた趣味もいくつかあり、

「絵が慣れてくれば、そっちにも食指を伸ばしてみたいな」

 と感じた。

 だが、せっかくサブカルチャーを目指すのであれば、趣味の世界でも真面目に取り組み、その道を究められるくらいになればいいと思った。

 それはプロになりたいという意味ではない。プロになると、自分の好きなようにはできないという思いがあるからだ、何と言っても、これは気分転換である。好きなことを思うようにできないジレンマなど、味わう価値もないと思うのだった。

 サブカルチャーに費やす時間は、別に紗友里が満足するのであれば、いくらでもいいということであったが、さすがに、帰りが日を跨ぐなどというのは、飲み会でもなければ許さないということであった。それまでであれば、仲間内で、

「ちょっと帰りにコーヒーでも」

 ということもあるかも知れないので、それくらいは許容範囲だということであった。

 実に寛容な設定であったが、逆にいえば、その条件を少しでも破れば、容赦はしないということの表れではないかとも思えた。

 何事も最悪なことから考えてしまう、いわゆる、

「ネガティブ思考」

 であったり、

「マイナス思考」

 と言われる方にばかり考えてしまうくせがある紗友里は、いい意味では用心深い、

「石橋を叩いて渡る」

 という性格なのだろうが、そのせいで、せっかくの好機を逃がしてしまうという反面も持っていた。

 そういう意味で、

「紗友里は、決して出世できないタイプだから、真面目な性格をそのまま維持していた方がいいわよ」

 と学生時代の同級生から、よく言われていた。

 そういえば、今までの人生の中で、確かにおいしい思いをしたことはなかった。そもそも、何が美味しい思いなのかということが分かっていない、その立場になれば、分かることだと思っていたが、今のところそんな立場に立ったことがないということなのだろう。

「紗友里は、どうしてそんなに真面目なのかしらね?」

 と学生時代の友達から言われたことがあった。

 真面目という言葉を言われて、素直にそれをいいことだと思えるような性格であればそれに越したことはないのだろうが、どうも疑心暗鬼那ところがある。そのくせ、真面目という言葉が褒め言葉であってほしいという思いが強いことで、ジレンマに陥っているのも事実だった。

 それほど、今までに紗友里がまわりから言われたことで、一切の褒め言葉がなかったという証拠でもあるのだろう。

 もっとも、言葉というのは、言われたその人がどのように感じるかによって、まったく違った形の結論が出てしまうことがあることから、どこまで信じていいものなのか分からないという思いも実際にはあった。

 紗友里がホステスとしてアルバイトをしていたのは、そんな自分を発見したいという思いもあったからだ。

 確かに就職がまともにできず。ホステスになったという経緯はあったが、別にホステスを嫌だったわけではない。中にはどうしても受け入れられないようなひどい客もいるが、概ねいい人ばかりである。

 そんな人たちとの会話が楽しくて、たまにであるが、

「ホステスやっていて、よかった」

 と感じることもあった。

 何しろ、相手は一緒にいるだけで喜んでくれるのである。普通の社会であれば、何の能力もなければ、排除されるだけであるが、一緒にいるだけで喜んでもらえれば、それこそ存在価値を見出せるというものだ。

 会社で仕事ができたとしても、それは、

「できて当たり前」

 という条件の下だからである、

 できても褒められない世界がいいのか、一緒にいるだけで、相手の存在感の中にいることができることを感じられることで、紗友里は満足できるものだと感じていたのだった。

 そんな紗友里の本質を見抜いたのが先代だった。先代は、何度かこの店に通ってきてくれたが、紗友里が嫁に来てくれてから半年くらい経ってから言っていたのは、

「今だからいうんだけど、あのお店に通っていたのは、最初から紗友里ちゃんが目当てだったからなんだよ。初めて見た時、実は私は息子と一緒にいるところを想像してみたんだ。そうすると、想像ができなかった。まるで違う世界に住んでいるかのように見えたからね。他のホステスとであれば、想像がつくんだ。確かに仲睦まじい光景が見えるんだけど、それはホステスとしての彼女と息子とを見比べるからなんだ。つまり、ホステスと違う顔の本性は、きっとまったく違ったものであるはずなので、ホステスの女性を見て、息子との仲睦まじさを感じるとすれば、それはもはや願望であり、見失ってしまってはいけない感情を露骨に感じることになると思うんだ」

 と先代は言った。

「じゃあ、私は違ったということね?」

 と紗友里がきくと、

「ああ、普通であれば、想像は簡単にできると思うんだけど、紗友里ちゃんの場合は、目の前にいる紗友里ちゃんとの想像はできたんだ。だけど、真面目だと思っている紗友里ちゃんと息子を並べると、同じ次元に押し込めようとしている自分の感覚が、それは間違っていると言わんばかりに、違った想像に誘っているようで、結局、妄想の中の同じ次元では存在しえないということが分かった。だから、余計に二人を引き合わせたいという思いに駆られたんだよ」

 と言っていた。

「だから、何回か来てくれた後で、息子さんをお店に連れてきたのね?」

「ああ、気分転換だと言ってね。だから、息子は私が紗友里ちゃんを気に入っているということを知る由もない。もし知っていたとすれば、それはまさか自分の嫁探しだとは思わずに、私の後添いを探しているのだと思うじゃないだろうか? 私の家内は、すでに亡くなっていたので、息子がそう感じるのも無理もないことなのだが、実は正直にいうと、私自身、君のことを私の嫁にと考えたこともあったんだ。これは息子の嫁にと考えた最初の頃だったかな? 年甲斐もなく、息子に嫉妬したのかも知れない。それほど君は素敵な女性なのだということなんだよ」

 と、先代は紗友里をべた褒めしていた。

「そうだったんですね……」

 と、その時は素直に先代の言葉が嬉しかった。

 だが、今から考えると、先代のその言葉があったから、今の自分が旦那に対して肉体的だけではない、精神的なものまで心が離れて行っているのではないかと思うようになったのではないだろうか。

 紗友里は自分でいうのもなんであるが、

「自分がもし、男だったら、好きになるタイプなのではないか」

 と思ったほどであった。

 自惚れと言われればそれまでだが、いつもネガティブな発想しかできないような紗友里には、それくらいがちょうどいいのかも知れない。

 絵画教室に通いたいと言った時、旦那は別にそれに対しての反応はなかったが、先代は微妙な態度を示した。

 目がギラりと光ったかと思うと、次の瞬間、戸惑いのようなものを感じた。

 何に戸惑っているのか分からなかったが、先代には先代の思いがあるのだろうという他人事のような考えをすると、さらに先代の目が怪しく光った。

 それは咎めるような目ではないと思ったが、諫めているように思えなくもない。

「思いとどまってほしい」

 という意味に感じられ、別にサブカルチャーくらいに何を感じるというのかというほど、不可思議な態度に感じた。

 そもそも、

「気分転換にはサブカルチャーをするのが一番だよ」

 と言っていたのは先代である。

 先代も実際にサブカルチャーとして俳句の会に入っていた。

「同じような年代の人が多いから、それなりに楽しんでいる」

 という話であった。

 俳句の会というのは、紗友里と違って、地元の行政がやっているもので、市の文化センターの教室を借り切っての、週に二回のサークルだという。奥さんを十年前に亡くされてから、最初は途方に暮れていて、社長業も疎かになった時代があったというが、当時の専務がやり手で、何とかスーパーを盛り立てたが、一歩間違えれば、従業員皆が路頭に迷い、金沢家皆がどうすればいいのか、途方に暮れていたことであろう。

 そんな時、俳句と出会ったのは、実にタイムリーだったと、本人が言っていた。先代の亡くなった奥さんと、旅行などに行った時、よく奥さんが俳句を詠んでいたという。

「今から思えば、辞世の句でも詠んでいるつもりだったのではないかと思うくらいさ」

 と言って笑っていたが、それは今からなら笑えることで、その時の先代の憔悴したイメージを想像もできないので、複雑な思いを抱いたのだ。

 俳句と絵画ではまったく違うカルチャ―であるが、芸術という意味では同じだと思っている。

 紗友里の中で、感じる芸術というのは、

「制限の厳しいものだが、新しい発想を誰にも邪魔することも、悪くいう権利を持っていないことも分かる気持ちからくるものだ」

 と言っていた。

 さらに芸術というものには、それぞれのいい点も悪い点もあるが、共通点もあると思っている。その共通点として最初に思い浮かぶものとしては、

「必要なものと、不要なものに分けることができる」

 というものであった。

 そして、不要なものは、いくらでも削除が可能なのが芸術であり、逆に、不要なものをいかにカットして、作品を作り上げるかというところに、芸術作品の意義があるとでもいうような感覚になっていた。

 絵画を初めて、最初に先生が変なことを言ったのが印象的だったのだが、

「絵というのは、目の前に見えるものを忠実に描き上げるという写生という意識が強いカモ知れないけど、不要だと思うものを省いて描くことで、それを自分オリジナルの芸術作品として仕上げることができるんだよ」

 と言っていた。

 最初は本当に何を言っているのか分からなかったが、実際に絵を描き始めて、描けるようになってくると、確かに不要なものは描かないようになっていた。

 なぜそんな感覚になったのかということを自分なりに考えてみると、

「ああ、あの時に言われたことを、無意識に忠実に実行しているんだな」

 と感じたことで、あの時の先生が言った意味が分かってきた気がしてきたのだ。

 それまで、絵画に対してはどんどん興味を持っていたのだが、そのうちに他の芸術に対しても造詣を深めたくなってくる。その思いにさせてくれたのが、

「芸術というものの共通点」

 だったのである。

 とはいえ、絵画教室にも慣れてくると、本来の、いや、元々の本来というべき目的に対して、少し忘れかけている自分がいるのにも気付いていた。

「ストレスが発散できているので、そっちの方はもういいか?」

 と感じるようになっていたが、そんな時だからであろうが、そんな紗友里に興味を持ってくれる男の子もいたのだ。

 彼は名前を三矢孝弘という。年齢は二十五歳だというからビックリだ。もし、浮気相手ができるとすれば、相手も既婚者で、同じくらいの年齢か、少し上くらいの頼りになる男性を想像していたのである。

 それが、まさか、弟と言っても少し年が離れているくらいで、旦那は自分よりも年上として少し離れているし、彼は下の年齢で離れている。

「ちょうど同い年くらいの男性には、興味を持ってもらえないのか?」

 とも感じたが、それはそれであまり関係がないような気がした。

 孝弘は、紗友里にとっては、

「若いツバメ」

 とでもいう年齢で、立場であったろう。

 まるで、ロマンス小説の主人公にでもなったかのような状況に、少しドキドキしたものを感じていたのだ。

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