第5話 小説とシナリオ
あれは父の状態を見に行った帰りのことだった。
その時は父の見舞いに行ったというよりも、様子を見に行ったと言っていいのは、心お中で、
「早くよくなってほしい」
などという思いがなかったからである。
もし、そう思ったとしても、それは、こんな面倒なことを続けていたくないという思いから来るもので、面倒なことはこれっきりにしてもらいたいという考えからだった。
本当は、死ぬなら早く死んでくれというほどに思っていた相手であり、下手に治療が長引いたりなどしたらたまらない。尊厳死であっても、殺人罪にされかねないこの日本という国なので、自ら手を下すわけにもいかない。まさか呪い殺すわけにもいかない。呪いが通じたとしても、絶対に死ぬとは限らない。下手をすれば寝たきりになったりして、それが一番恐ろしいことであった。
「何て、恐ろしいことを考えるんだ」
という思いもあったが、考えたところで、その通りになるわけでもなく、罪に問われるわけでもない。ただのストレス解消だと言ってしまえばそれまでだが、もし他の人に知られでもしたら、
「何てひどい息子なんだ」
と思われることだろう。
そこには相手の都合などまったくない状態で、その考えだけを切り取ると、
「どんなにひどい息子なんだ」
と思われるだろう。
しかし、これがもし他の家庭であれば、病人が生きているだけで、借金が膨れ上がるような家庭の状態であれば、そんな無責任なことが言えるだろうか。いくら殺せば罪になるとはいえ、同情から、
「早く楽にさせてやりたい」
と思うだろう。
そのおかげで、家族がもろとも助かるのだ。それでも、尊厳死という考えに、家族の苦労は含まれていない。あくまでも論争は、本人に対しての痛み苦しみに関してのことだったのだ。
そんな思いを法律はまったく考慮してくれない。安楽死として規定する中で、法廷論争として挙げられた四項目があるが、その中にあるのは、そのすべてが患者に関してのことであった。
患者の状況、意志、そして病状。それらを考慮に入れているだけで、患者が生きていることで家族がどんなに借金しようとも、どんなに不幸になろうとも、それでも、本人の命、本人の意志の方が大切なのだ。そんなことってあるだろうか?
確かに、それを認めてしまうと、歯止めが利かなくなるという考えもあるかも知れない。その状態をいいことに、助かるかも知れない命であっても、自分たちのたくわえが減ることと、生き返ることのない状態におけるこれから被る損とを比較して、
「死んでもらうなら早い方がいい」
ということで、安易に安楽死を認めてしまうというのも、問題はややこしくなるばかりだとも言えるだろう。
だが、家族がそんな状態になってまで、本人は延命を望むだろうか?
中には、
「家族が私のせいで苦労すると分かっている場合は、私は延命を望まない」
という意思があるにも関わらず、家族がどんな状態なのかも分からずに、いたずらに延命されているとすれば、それは、実際に悲劇だと言えないだろうか。
この場合は、医者の立場。家族の立場、本人の立場を考えてみる必要があるのではないだろうか。さらに家族の立場でも、家族が多ければ、その立場も微妙に変わってくるのではないだろうか。奥さんだったり、子供だったり、親だったりする場合の近親者。それ以外の兄弟、親戚、などである。
ここで血の繋がりが、どれほどの感情の距離を持っているか分からないが、ここまで来ている場合の家族というと、まわりが見るよりも、かなり距離があるのではないかと思うのだ。
本当の近親者であれば、家族としての意識からなのか、借金してでも、本人を見捨てるわけにはいかないと思うのではないか。
以前、テレビドラマで、植物人間になった子供をずっと世話をしている母親がいて、十年以上も看病を続けていたが、その間に家族はバラバラ。旦那とは離婚、子供は中学卒業後に家出同然に出て行ってしまった。
そして、何もかも失くした母親は、どういう思いで看病をしたのか、それから数年度に、何と意識が戻ったという話だった、
本当はそこで終わっていればハッピーエンドなのだろうが、物語はそこから始まるのであって、一つの目標が達成されれば、そこから先は、新たな世界が広がるのだ。そして、すでに何もかも失ってしまった親にとっては、新しく開けた世界では、かなりのマイナスからのスタートになる。さらに、子供も意識は子供のままである。普通に考えてうまくいくはずはない。
それをハッピーエンドのドランにしようとするのだから、実にドラマというのは、フィクションとはいえ、実に都合よくできるものである。
テレビを見ていて、
「あの時助けたりしなければ、さらなる悲劇を生まなかったんだ」
という思いや、
「本人のためというよりも、すべてを失って自暴自棄の状態から、引くに引けなくなった結果がこれだ」
という意見があるようだった。
だが、ほとんどの人は、植物人間が意識を取り戻した時、
「諸全ドラマで、都合よくできている」
と思ったにもかかわらず、意識を取り戻した子供と、苦労が報われた母親に感動の涙を流したはずなのだ。それなのに、そのあとをドラマにしてしまったことで、一度受けた感情がぶち壊されて、
「こんな状態から、どういう結末を見せようというんだ?」
あるいは、
「これでハッピーエンドにできるなら見せてもらいたい」
という挑戦的な思いでドラマにのめり込むことだろう。
もっとも、それが制作側の狙いで、ラストがどうであれ、視聴者の目をくぎ付けにして離さないこの状況で視聴率が上がるのだから、それでいいと思っていることであろう。ラストで、
「騙された」
と思ったとしても、ドラマとしては最後まで視聴者を釘付けにしたのだから、成功なのである。
「ドラマなんてこんなものだ」
と思えば、また次のドラマも見てくれるだろうし、本当に騙されたと思う人は、ドラマを見なくなるかも知れないが、そこまでの人は少ないのではないだろうか。
ドラマというのは、しょせん、人に感動を与えたとしても、それはその瞬間だけで、また新たなドラマが始まると、そっちに意識が行ってしまうものだ。
どんなにドラマが好きな人でも、ドラマの弱点を知っている。だから、それを踏まえたうえで見ることができるので、その人がドラマ離れすることはないのではないだろうか。
実際のドラマチックな話とドラマとではリアリティが違うのかも知れない。何しろ演じるのは役者であり、人気俳優であればあるほど、いろいろな役をやったりするので、似たようなテーマでも、作品が違えば、まったく逆のシチュエーションだったりする。
分かりやすいのは刑事もののようなドラマで、前の作品では刑事役の主人公が、次の作品では、犯人役、前の作品では犯人役が今度の作品では、刑事役として熱演することになる。
ただ、これはプロデゥーサーの作戦かも知れない。人気俳優を逆の立場にした演出をわざとすることで、ドラマを引き立てというものかも知れない。だが、その本当の主旨は、その人気俳優をいかにドラマで売らせるかということである。その俳優が本職ではなく、本職としては歌手であったり、アイドルだったりする場合には、人気を得るためということで、そんな露骨な演出が施されていることも多いだろう。
よく、
「小説とシナリオは違う」
と言われるが、まさしくその通りだ。
誠也は、大学の頃、小説を書いてみたいと思い、文芸サークルに入った。そのサークルでは小説家を目指す人、そして脚本を勉強し、シナリオライターを目指す人、そして文芸の歴史を勉強し、評論家や、大学教授を目指そうとする人などが在籍していた。
最初は大学のサークルというだけに、飲み会や合コンなどを主目的にした、ありがちのサークルの一つではないかと思っていたが、そこはどうして、結構真面目なサークルだった。
実際に作品を書き上げて、文学新人賞に応募したり、シナリオの方でもコンクールに応募したり、中には撮影現場でのADのようなアルバイトにも参加する人もいたりして、かなり本格的な活動をしていたが、誠也は、小説を書くのもシナリオを書くのも、両方をしていた。
基本的に悪いことではなかったが、やはり両方を突き詰めようというのは難しいことで、実際にやってみると、その違いに改めて思い知らされた気がしたのだった。
その違いというのは、想像以上に溝は深かった。
小説とシナリオではそもそもの目的が違うのだ。そのために、まわりの環境から違っていて、取り組む姿勢も変わってくるのだ。
小説というのは、自分独自にオリジナリティを出しながら制作していくものである。まあ、一般的にクリエイターと呼ばれる人はそういうものだと思われているだろう。
しかし、それは小説を書く人に言えることで、シナリオを書く人にはそれは言えないのだ。
シナリオというのは、一つの映像作品を動かす上での一つの駒でしかない。小説というものは一冊の本で読者に訴えかけることが可能だが、シナリオはそういうわけにはいかない。
一つの映像作品を作り上げるには、まず大きなテーマとテレビ局側の意向、さらに、一番大きな問題として、スポンサーが協賛してくれなければ、ドラマが成立しないということだ。
そこには当然最初から制約が付きまとう。
スポンサーの不利益になるようなドラマを作るわけにはいかない。例えば、分かりやすい例として、結婚式場のスポンサーがついているのに、離婚調停を主に活躍する弁護士のドラマだったり、薬品会社がスポンサードラマで、薬害の問題をテーマにするような話はできるわけはないだろう。
そういう意味の制約もあれば、ドラマには時間という尺の問題がある。三十分番組、一時間番組とあるわけなので、ちゃんと、その尺に収めながら、ちょうどその週の終わりには、翌週、
「また続きが見たい」
と、視聴者に感じさせるようにその週を終わらせる必要がある。
さらに、脚本を書いた人間が監督を務める場合もあるが、基本は違っている。したがって脚本家の意向を監督が汲んでくれるとは限らないのだ。
監督はその場にいる役者を見て映像を作り上げようとするので、脚本とキャスティングに隔たりがあれば、いいドラマができるとも限らない。
つまりは、ドラマの表に出てくるのは、監督の采配と、それによって生かされる俳優陣なのである。
視聴者は、ドラマの登場人物の顔は皆分かるが、脚本家が誰なんか、まったく気にすることなく見ている。そこが作家と違い、自分の意見や意志は、ある意味二の次だと言っても過言ではない。
そんなシナリオライターは自分には向かないとも思った。
シナリオライターでやってみて、実際に感じたそれまでの思いとの違いは、
「オリジナルな作品か、原作があるものをシナリオに書きなおす場合の考え方」
であった。
「原作があるものは、それを元に作れるから楽じゃないか?」
と、素人目線で思っていたが、実際にはそうもいかない。
下手に元があることで、例えば尺に収めなければならない時、どうしても一つのドラマに何か所か、どうしようもない馬援があることだろう。
実際に当て嵌めるとすれば、原作の場面をいくつかカットする必要があったり、微妙にシーンを引き延ばしたりしなければいけなかったりする。
そこが実に難しく。削ってはいけない場面であったり、余計な個所を付け加えることで、原作を微妙に変えてしまうことも考えられる。
作家とすれば、
「この大事な場面をカットするなんてありえない」
というかも知れない。
そんな場面に限って普通は一番感じられることとすれば、
「その場面はラストシーンに効果を出させるための必要な部分だ」
ということだってあるだろう、
下手をすれば、尺のために、登場人物でも、本来ならカギになるはずの人物を存在すらなかったことにするかのような大胆なシナリオになってしまったりして、原作を読んだ人から、最大級の批判を受けることになるというのも、ありではないか。
「こんなメチャクチャなドラマになってしまうなんて」
と、言われ、さらに放送されれば、視聴率は最悪なんてことも日常茶飯事なのかも知れない。
「映像作品と原作では、どう逆立ちしたって、原作が映像作品に勝るものを作り上げるのは、まず無理でしょうね」
と言われるのだ。
原作は何と言っても、想像力を元に作り上げる読者の世界。しかし、シナリオというのは、読者としてシナリオライターが読み取った内容を、今度は自分で映像作品に作り替えようとするのだ。そこにワンクッション入ることで、シナリオ化された時点で、マトリョシカ人間でいえば、二つを開けられたことになる。
さらに、その後、演出家や監督、俳優の手によって、さらに、マトリョシカは開けられていく。
最初は大きかった人形が、最後は親指サイズくらいになっているかも知れない。
それがシナリオと小説の違いなのではないだろうか。
こういった話で比較に用いる場合の対象物として、マトリョシカ人形というのは、結構役に立つものだと言えるのではないだろうか。
そういう意味で、
「ドラマは都合よくできている」
というのは、自分が一番分かっていたのではないか?
分かっていて、あの時の植物人間のドラマも見ていたはずだ。
「最後をどのように収めようとするんだろう?」
と勝手に結末を想像していたような気がした。
だが、不思議なことであるが、誠也はドラマを見ている時、自分が以前、小説を書こうとしていたことや、脚本についても、少しだけ足を突っ込んだ経験があるということを忘れていたような気がする。
確かに。内容を勝手に想像はしていたであろうが、それは素人がする発想と変わりないもので、発想というだけなら、ドラマをよく見ている連中の方が鋭いかも知れないと思っていたくらいだった。
大学を卒業してから、
「小説を書くことは続けていきたい」
と思ったが、
「もうシナリオはたくさんだ」
と思うようになっていた。
なぜなら、自分が小説を書き続けたいと思った時、頭の中でネックになったのが、シナリオに対しての中途半端な知識だった。その思いがあるから、小説のオリジナリティの本質に近づけない気がしていた。自分で勝手に思ったことを書けばいいのに、なぜか書ける気がしない。それは、シナリオを書いていた時の、プロデゥーサーや監督、俳優に気を遣っていた自分が、とても小さく感じられたのだが、その自分が自分の中にいて、勝手に自分を操っているかのように感じられたからだった。
小説を書くことで。ドラマがどれほど都合よく書かれているかというのも分かった気がした。
小説には尺もなければ、演じる人もいない。読者の中には自分の好きな俳優をイメージして読む人もいるだろうが、よほど的が外れていない限り、失敗名はない。
なぜなら、これも映像作品と、原作の違いなのだろうが、原作はあくまでも読者の勝手な想像であり、映像作品は、こちらで制作したものを、視聴者に見てもらう。もしくは見せつけるものである。
上から目線になってはいけない。見てもらっているという思いでいなければいけない。そうなると、見せつけられる方にはその時点でがんじがらめになってしまい、原作のような想像は不可能であった。そこが映像作品の一番難しいところである。
以前バスの中で聴いた尊厳死の話であるが、それをいろいろと想像していくうちに、
「これは原作として小説で描いた方がいいのか、それとも、シナリオにして映像化した方がいいものなのか?」
ということ思い知らされたような気がした。
確かに、小説にすると、読者に感動を与えられるものにはなるかも知れないが、そこにはかなりの技量が必要になってくる。
小説というものは、読者の想像を促すものであるだけに、想像力を掻き立てない作品は駄作だと言ってもいいのではないか。
そうなると、自分たちのように素人であれば、相手にリアルな想像をさせるためには、それだけリアルを納得させるものが力としてなければいけないのではないだろうか。そうなると一番必要なのはリアリティであり、それはどこから来るのかというと、
「自分の経験から来るもも」
であるのが一番である。
そうなるとノンフィクションになってしまうが、誠也としては、
「ノンフィクションを書くくらいなら、小説なんか書かない」
というこだわりを持っていた。
正直、かなり偏った考えであるが、
「小説の一番の特徴は、自分の発想であり、実際にあったことを書くのは作文であり、エッセイだ」
と思っている。
そういう意味で、なぜノンフィクションの作品が存在するのかが分からない。エッセイとの違いは。エッセイが自分のことであり、ノンフィクションが自分のことに限らずに、実際にあったことを、物語にして描いているということであろう。
そこには、文章力と、ちょっとした想像力は必要かも知れないが、小説の本質である、作者の言いたいことであったり、フィクションであるがゆえに無限に広がる発想というものがなくなってしまうと思うのだ。
誠也は、それがなければ、
「小説ではなく、学校の授業の作文ではないか」
と言いたいのだろう。
極論ではあるが、想像力の可能性という意味を小説の本質とするならば、ノンフィクションは自分にとってはなしだと思っている。
これはあくまでも、読者に対しての話ではなく、作者としての意見である。これがもしプロの作家だったら、許されない発想かも知れない。プロになった時点で、作家の立場は、自分についてくれた出版社というスポンサーであり、個人契約ではあるが、社員に対してよりも外部なだけに、余計な厳しさがあるのだろう。
だから、
「私はノンフィクションなんて認めないから書かない」
と言っても。出版社の「発注」がノンフィクションであれば、それを描かなければならない。この場合は作家のプライドはあってないようなものである。
プロ野球選手が、監督のサインに従わなかった場合に、厳罰を受けるのと変わらないだろう。昔の外人選手などで、
「俺は元メジャーリーガーで、この俺にバントを命ずるなんて」
と、監督のサインに逆らった外人もいたようだが、今では許されることではない。
「郷に入っては郷に従え」
つまり、一旦入った組織には逆らえないということだ。
小説家もプロになれば誰もがそうである。自分と契約した出版社は、自分を買ってくれたのだ。買主に対して売主が逆らうことは許されない。そのことに、誠也は気付いた。
元々、小説家になりたいとは思ったが。それほど深くは考えなかったのだが、それがなぜなのか、ピンと来ていなかったが、今なら分かる気がする。要するに、
「自分がやりたいことができなくなるのがプロならば、何もプロになる必要はない」
と思ったのだ。
この選択をした時点で、プロとしての覚悟がないということなのだろうが、実際にプロの世界に足を突っ込んだはいいが、覚悟も状況も考えずに才能だけで飛び込んで、結局は自分の理想と、社会の現実の狭間に落ち込んでしまって、脱落していった人がどれほどいるのだろうか。
「才能があった分、そっちの方がいい」
という考えか、
「プロになる前に自覚できてよかった」
というべきか、実際に小説を末永く書き続けるのはどちらなのかを考えると、おのずと答えは見えてくるような気がした。
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