第4話 尊厳死と黒歴史


 その時のバスの中での話にはまだ続きがあった。

「あの西洋屋敷の中には、昔、不治の病に侵された人が住んでいたということなんだよ。それはどうやら、ご令嬢のようで、主人が目の中に入れても痛くないというほどに可愛がっていたということだったんだよ。その病がどのようなものかは定かではないが、日に日に衰弱していって、可憐な容姿がどんどん憔悴していくのを、一番気にしていたのは本人だったらしい」

「それはそうだろう。特に本当に綺麗な人で、他の人とあまりかかわりのない人であれば、身近な人は皆家族以上の関係に思える人たちばかりだと、見られたくないという思いでいっぱいなんだろうね」

 というのを訊いて。

「それはそうだと思うぞ。だから、衰えていく中で、元気な時にいつも一緒だった人を決して自分の部屋には入れないようにして、自分が死ぬまで、あの人たちに私の醜くなっていく姿を見せたくないと言ったみたいなの。それは自分の父親である、屋敷主に対してもね」

「それでどうなったんだい?」

「結局、その娘はしばらくしてから死ぬことになるんだけど、そこに悲劇が隠されているんだよ」

「どういうことだい?」

「旦那さんは、どうしても娘のそばにいたくて仕方がない。容姿がどうであればかんけいないんだ。だけど、娘はどうしても容姿にこだわるので、中に入れたくない。ジレンマに陥ったのは、召使たちで、旦那からは、中に入れないと処刑するぞ、と言われ、娘も絶対に開けないでという。でも、さすがにその娘さんは死に対しても怖くないというくらいに覚悟を決めていたんでしょうね。かなり冷静だったんだと思う」

 と言って、少し言葉を切った。

 その間に、聞き手は目を凝らして言葉の続くのを待っていたが、話し手はしっかりとその場の効果をうまく狙ったかのように話し出した。

「結局ね。娘の方が召し使いにいったんだよ。私を殺してくれってね。そうじゃないと、お前たちが処刑される。それも嫌だし、自分のこんな顔を父に見られるのも、もっと嫌なの。だったら私が死ぬしかないでしょう? 楽にさせてほしいということなのよというのんだよね。だから、いろいろ話をした結果、召し使いは娘の気持ちを察して、殺すことにしたの。それは一種の尊厳死ということになるんだろうね」

 と言った。

「それで召し使いはどうなったの?」

「旦那のショックは計り知れないものだったけど、決して手を下した召し使いを罰するようなことはなかった。それどころか、尊厳死を考えた勇気に敬意を表したというんだよ。だって、その召し使いは下手をすれば、旦那の怒りに触れて、そのまま処刑されることは十分に考えられた。それを敢えて行ったのだから、相当な覚悟があったのと、娘に対しての忠義新なのか、同情なのか、そんな思いが強かったのかということだろうね。でも、そのどっちもなければ、出来る行動ではない。それを許した旦那も、さすがというべきなんだろうね」

「じゃあ、これは美談だね?」

「そうだな。美談として、どこかの本に載っていたと思うんだが、そこには、この場所の伝説がヒントになって研究したフィクションに近いノンフィクションと書かれていた。そこまでが本当のことか分からないけど、普通に考えられる部分は真実ではないだろうか。それと事実関係描写は、想像するにはあまりにも過激すぎると思うので、それだけにこの話は、かなりの信憑性があると思う」

「人が死ぬということを、なかなかここまで美しい話にできるわけでもないだろうから、そういう意味でも美という世界を、見直してみたい気がするのは、俺だけなのだろうか?」

 と話していた。

「君はどう思う? この場合の召し使いのやり方は」

 と聞かれた一人は少し考えてから、

「俺だったらできないけど、やはり勇気のいることは確かなんだろうな」

「それはそうさ。どちらの立場を優先しても、ハッピーエンドは見えないんだからね。もし、旦那の意見を聞いて部屋を開けたとしようか? そうすれば、きっと娘は尊厳死を望むくらいなので、その場で自殺をするくらいはあるんじゃないかい? もしそうなると、召し使いは、娘を止められなかったと言って、断罪されるかも知れない。それだけ目の前で娘が自殺するというのを見るのは、精神的に耐えられることではないだろうからね。もし、娘がそこまで考えていたとすれば、すごいけどね」

 というと、

「だったら、自殺なんかしなければいいんだ。召し使いのことを考えるなら、醜い顔であっても。父親に顔を見せるくらいのことができるんじゃないか?」

 と言われたその人は、直接その問いに答えることはなく、

「例えば、動物が臨終の際に、自分のまわりにいる仲間から離れて、一人で死ぬという本能を持っているということを知っているかい?」

 と聞いた。

「ああ、聞いたことがあるけど、それとどういう関係があるんだい? この話の中に」

 と言われて、

「動物って本能で動くじゃないか。人間のように打算的でないだけに、人間も動物の一種なんだから、本能というのは、かなり大きな影響のあるものだろう? その本能が、一人で死んでいくことを選ぶんだから、娘が自分の醜い姿を見られたくないという気持ちってその本能なんじゃないのかな? そう思うと何をおいても。親に見られたくないという気持ちは何にも増して強いんじゃないかな?」

 と言われて、相手は絶句していた。

 その言葉の説得力にビックリしたようだったが、まさにその通りだと感じたのであろう。

「なっ、そうだろう? 動物は基本的に死ぬ間際になると自分が死んでいく姿や苦しむ姿を人に見せたくないと思う者じゃないのかな? 話の規模は違うが、俺なんか、たまに足が攣る時、もし。近くに誰かがいたら、気付かれたくないと思うもんな。それと同じなんじゃないかな?」

 といった、

「それは俺も思うんだ。そのことを考えると、女性が出産するのってすごいと思うことがあるんだ。だって、陣痛が始まって、いよいよ分娩室に入ったところをよくドラマなどで見るけど、あれだけ苦しんでいる妊婦をまわりが励ましているだろう? もしあれが自分だったらと思うと、ゾッとするんだよ。まわりからあんなに見られて励ましを受けたりしたら、却って苦しさが増してくるんじゃないかと思ってね」

 というと、

「俺もその意見には賛成だな。でも出産の時は特別なんじゃないか? その時はまわりの来rがあまり聞こえないとかね」

「それに、あれだけ苦しんで、もう二度とこんな経験はしたくないと思っている人もたくさんいるだろうに、そんな人に限って、二人目も産むんだよね。まるであの時の痛みを、痛みが消えた瞬間に忘れてしまうかのようだよね」

 と話している。

 それをきいて、

「もっともだ」

 と思った。

 確かに人から見られるのは嫌なものだ。少し話が飛躍しすぎの感じもあったが、その後の二人の話を訊いて、それももっともだと感じたのだ。

 そんな話を訊いていると、じっさいにその場面の当事者になってみると、娘の気持ちが何も言わなくても分かるのではないかとも思えた。

「俺は、その娘の気持ちも分かるし、娘を殺めることになる召し使いの気持ちも分かる気がする。そして結果的に召し使いをおとがめなしにした旦那の気持ちも分かる気がするし、だとしたら、何が問題だというのか? 皆が納得していれば、そこに問題はないと思われるのだが、倫理的な発想では許されないからなのかな?」

「そうなのかも知れないな。特に人を殺めてはならないという戒律を定めた宗教などでは、許されることではないよね。でも、自殺させるくらいならと思ってのも勇気のいることだよな。やっぱり俺だったらそんなことできるわけはない」

 と、考えながら、きっぱりと否定していた。

「でも、この場合の一番尊重された気持ちは何だったんだろう?」

「娘の気持ちだったんじゃないか?」

「果たしてそうだろうか? 娘は本当はその時に死にたくはなかったんじゃないのかな? 美談になってしまったが、本当は美談なんかではなく、誰かの心には傷が残ったのかも知れない」

「どういうことだい?」

「だって、普通死にたいと思う人はいるだろうか?」

「でも、もう助からない命なんだろう? だったら好きにするんじゃないか?」

「だからさ。そんな時に人に気を遣ってどうするっていうんだ? だから、その時に殺させたということを、今さら問題視して、その理由を考えるというのは、ナンセンスではないかと思うんだよ」

 と言っていた。

「確かに、そうかも知れない。でも、人間というのは、他の動物と違って、いろいろ考えることができる。そういう意味では本能に従わないということもあるんじゃないかな? だとすると、その時の選択が正しいかどうかなんて、誰にもいう資格がないと思うんだ」

 というと、二人は黙ってしまった。

 その話を訊いて、誠也はあの二人が何を言いたかったのか、いろいろ考えてみた。確かに話の内容と順序、そして考え方の推移は、理路整然としていて、考えられる中では優秀な部類なのではないかと思った。

「だけど、何かが違和感があるんだよな」

 と感じた。

 その違和感が何であるか、すぐには分からなかったが、一つ考えられることとしては。二人が、

「不治の病で自分を殺させた女の子の気持ちばかりを中心に話している」

 ということだった。

 確かに主役は彼女であり、ドラマであれば、一番ラストのクライマックスシーンになるのであろう。見ている人はまずそのほとんどを主人公になったつもりで見ているかも知れない。

 しかし、そこに落とし穴がある。このストーリーの場合、一番考えてはいけないことが主人公の考えではないかと思った。考えていることと気持ちを一緒にしてしまったところに違和感があるのではないかと思うのだ。

 考えていることというのは、実際に起こるであろう派生部分まで考えることであり、気持ちというのは、どうなってしまったとしても、自分に素直なのはどう思っているかということであり、当たり前のことであるが、本当はその部分を見ている人は知りたいのではないだろうか。

 つまりは、思っている気持ちと、実際に起きてしまうこととのギャップに見ている人は勘当させられるのであって、結末がハッピーエンドでなければいけないというわけではない。

 特に不治の病で死を免れることはできないということが分かっている時点で、ハッピーエンドなどありえないからだ。

 となると、どうストーリーを展開させるかというと、主人公の気持ちを匂わせながら、まわりの人が彼女を支えているというシーンを作り上げ、それでもどうにもならない運命が待ち構えていることから逃れることができず、

「最後に彼女がどうなれば、一番幸せなのか?」

 ということを。まわりも。主人公本人も考える。

 そして、ラストで、同じ気持ちになって結ばれる恋人同士ということもありだろうし、親兄弟などの肉親であれば、娘を失った親が、それ以降いかに娘の分まで生きようと割り切った人生を歩むことができるかなどという、本来の結末とは違うギャップを感じさせ。ことで、

「生きることとは」

 という命題を感じさせることも、一つの感動だと言えるのではないか。

 これも、一種のハッピーエンドだと言ってもいいだろう。

 ひょっとすると、死んでいった娘も親のことを気にかけていて、

「あの世から、あの子が見守ってくれている」

 と思われたいと感じながら、死んでいったのかも知れない。

 それを、うまく感じさせるドラマ仕立てになっていれば、そのドラマは勘当を与えるものとなるだろう。

 どう転んでもハッピーエンドでは終わらないドラマというのは、そういう気持ちと現実とのギャップをテーマとすることもありではないか。

 実際に映画の恋愛ものなどには、恋人同士のどちらかが、命が短いというのが多い気がする。

 一番難しいテーマのはずなのに、挑戦する人が多いというのは、どういう現象なのかと考える誠也だった、

 ただ、これが自分の身に起きることであれば、まず映画のようにいくわけはないと誰もが思う。それも映画の映画たるゆえんなのだろう。

 それが昨年、母の墓参りに行った時に聞いた話だった。

 今年は、父が入院しているということもあり、一人で墓参りに来た。

 と言っても、今までもずっと一人で来ていたので、別に父が入院していようがいまいが、関係のないことだった。

 最近は仕事もさほど忙しくはない。昨年から、謎の伝染病が全世界を巡っていることで、仕事にも影響しているのか、毎日が定時で終わり当然、残業もない。かと言って、飲み会などできるわけもなく、皆、そそくさと家路を急句、会社によっては、テレワークなる横文字を使っているが要するに在宅勤務である、だが、そうはいかない人、会社もたくさん存在し、自粛とはいえ、さほど通勤人数が減っているわけではない通勤電車に乗って出社しなければいけないその中に誠也もいたのだ。

 父のように持病を持っている人間も結構いて、父が入院している病院も、外来よりも入院患者の多いところであった。それだけ深刻な病気の人が多く、謎の伝染病で運ばれてくる人は今のところは少ないようだった。

 だが、これ以降、流行が増えるようでは、この病院にもいつ患者が増えてくるか分からない。少なくとも病棟を別にするくらいは考えているだろうが、それが守られ亡くなれば、完全に医療は崩壊していると言ってもいいだろう。

 それにしても腹立たしいのは政府の政策と、マスコミである。

 まったくと言っていいほどの、無策無為な状態に、国民は政府に対して、不安の失望しか抱いていない。

 しかも、マスコミに対しては、流行り出した時、あれだけすべての記事が、その伝染病であり、これでもかとばかりに国民に不安を与えて煽っておきながら、一度、収束すると、もう騒がなくなった。

 こういう伝染病というウイルスによるものは、反復して流行するのは分かり切っていたことだ。

 本当は、政府もそのことを踏まえて、一度流行って収束したのだから、その件に関してしっかりと検証し、第二波、第三波が来た時に、いかに学習したことを生かすかがカギなのに、毎回一緒の、

「皆さん、マスクに手洗い、蜜にならないように気を付けてください」

 を来る返すばかりであった。

 政策とすれば、強制力のない時短営業、行動自粛を、

「お願いする」

 というだけで、何んら厳しい対応はやらない。

 最初だけは、ほとんどの店が営業自粛ということで、昼間も飲食店は、

「お持ち帰りのみ」

 という営業だった。

 しかも、そういう有事においては、かならずと言って発生する誹謗中傷であったりデマが飛び交い、ある一定の業種が謂れもない誹謗愁傷を受け、営業妨害のごとく、マスコミを通して、まるで本当のごとく叩かれまくったこともあった。

 これは、確かにデマや誹謗中傷が蔓延るのを分かっていて、それを止めるどころか、そのまま記事にして社会問題として煽ったマスコミに全責任があると言ってもいいだろう。

 それに今の流行りの原因をマスコミが煽ったからだということに、気付いている人が少ないのは残念である。

 政府が無作為なのは、政治家などという人種は、世論に弱いものだ。

 何しろ自分たちは国民によって選ばれた、国家公務員なのだからである。

 世論を一番気にするのは当然のことで、じゃあ、その世論をいかに動かすかというのは、情報である。

 その情報源となっているのはマスコミしかないではないか。

 そのマスコミが世間を煽れば、世間はマスコミに踊らされて、いろいろな意見をネット三書き込む。それが、

「炎上」

 という形で、政治家に影響を与えることになる。

 政治家にとっての、

「我々の政治犯だ」

 というのは、

「マスコミに陽動された市民の反響によってもたらされた情報操作」

 に踊らされる、政治家という人種が保身のためと、特権階級である自分たちの得られる利益を守るという、政治家という看板に自分たちで泥を塗っているかのような判断や政策しかうてないのだ。

 いかに、自分たちが非難をうけないようにしなければいけないか、つまりは、無策こそが彼らにとっての策であった、

 しかし、彼らは知らない。

「無策というのは、知らずに悪に手を染めてしまうことよりも、もっと悪行なのだ」

 ということをである。

 マスコミの恐ろしさというのは、もっと以前からあった。

 かの戦争、いわゆる、

「大東亜戦争」

 においても言えることであった。

 この中には、支那事変というのがあったが、ここであった、

「某都市大虐殺」

 という事件である。

 これを相手国家が、すでに八十年以上も前の話を持ちだしてきて、さらに被害者の数を持ってきていたりするが、どこまで事実なのか、証拠がないので、立証ができていない。それもそのはず、この話はでっち上げという話もあるのだ。

 戦争だから、民間人を含めた軍人が殺害されるというのも、無理もないことであろうが、この時に殺害された民間人というのは、実は、

「民間人に変装した兵士だ」

 という話があるのだ。

 そういうことであれば、そういう兵の存在を、戦時国際法は認めていない。民間人に化けて、ゲリラ戦を行うためだと解釈されるからだ。そして、そんな兵に対しては、捕虜としての待遇を義務付けるものではない。直接被害を受けるかも知れないからであり、まるでスパイに対しての対応と何ら変わりはないのだ。

 つまり、日本兵はそういう兵死を探し出して、処刑をしたのだ。もし民間人に化けている兵士であれば、処刑は合法であり、非難されるものではない。確かに服装は民間人なのだから、処刑を見た何も知らない市民は、

「虐殺された」

 と思うだろう。

 さらに疑問なのは、その映像が残っているということだ。

 かつての日本軍は、秘密研究所を持っていたが、そこを敗戦が決まった時から、一切の証拠隠滅を図ったという歴史上の言われていることもあるのに、虐殺映像が残っているというのおかしなことである。一番最初に隠滅すべきであろうからだ。

 それを思うと、その映像も、相手国の兵士が、自国民に対しての虐殺を表しているとも言えなくもない。

 何しろ、撤退の時、日本軍からの物資の略奪を恐れて、何と守らなければいけない時刻員を自分たちで虐殺したとも言われている。

「一体何のための戦争で、何のための兵隊なのか」

 ということを考えさせられる。

 まるで国民のためというよりも自分たちだけのためと言えるのではないだろうか。

「国民は国家に命を捧げるのが当たり前だ」

 とでもいうのであろうか。

 逆にいえば、それが戦争というものであり、戦争の本当の姿なのかも知れないと思うのだった。

 そんな時代を考えると、世界大戦など、どこに行っても逃げることはできない。しかも民族性で戦い方も、士気もまったく違っている国家が戦争するのだから、悲劇がいたるところで起こったとしても、仕方のないことなのかも知れない。

 だが、終わってまで、しかも、戦争が終わってすぐには、それほど騒がれていなかったにもかかわらず、かなり時間が掛かって、クルーズアップされたこの事件は、何かの作為があったと思われても仕方がないだろう。

 そこにある新聞社が絡んでいるというから、いかにもの情報操作である。

 戦時中は、情報は政府によって操作されていたが、戦争が終わり、民主化したにもかかわらず、そんな情報操作が行われたなどというのは、これも一種の黒歴史と言ってもいいだろう。

 それを思うと、マスコミというものの、罪と罰は、いまでも受け継がれている悪しき黒歴史と言ってもいいだろう。

こんな歴史がどうすることもできない世界を作り出し、しかも、このウイルスの蔓延も、国家ぐるみの可能性があり、今の話とまんざら無関係でもないというところは皮肉なもので、

「歴史は繰り返す」

 ということなのではないだろうか。

 繰り返された歴史は、たぶん、

「学習するために、繰り返す」

 のではないかという考えもある。

 しかし、それは、

「一度で理解されない」

 という悲しい性によるもので、

「人間というのは、何度も同じ過ちを繰り返す動物なのだ」

 ということであろう。

 しかも、少しでもよくなっているのであればいいのだが、繰り返される歴史は次第に悲惨になっていく。このような状態でいつまで続けられるのかと想うと、どうしようもなく感じられ、何も信じられなくなる人が増えても仕方のないことではないだろうか。

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