第2話 威厳の減速

 常識という言葉、さらに、社会人という言葉、大学を卒業してから、一番嫌いな言葉だった。しかも、

「社会人としての常識」

 と嫌な言葉を一緒にして使うことが多いことで、余計にこの二つの言葉が嫌で嫌で仕方がなかった。

 山際一家は、子供の頃からずっと同じ場所に住んでいるわけではなく、誠也が中学三年生になって、家族が引っ越しをした。父親が転勤になったのも一つだが、通えない距離ではなかった。それでも、引っ越しをしたのは、今まで住んでいた家が会社の社宅で、転勤を機会に、マンションに引っ越そうというのが、大きな目的だった。

 今のところ、会社では出世が遅れている父親が引っ越せるマンションと言えば、さすがに分譲マンションは無理で賃貸だった。

 一か月単位でいえば、ローンを組んだ方が安いのかお知れないが、またいつ転勤と言われるか分からない。今までは、あまり転勤ということのなかった会社だったが、社長が変わって、転属が頻繁に行われるようになると、父も例外ではなくなっていた。

「今後の転勤ということを考えると、分譲マンションは無理だからな」

 と、ハッキリと言っている父だった。

 相変わらず、しがないサラリーマン生活を続けている父だったが、そんな父を支えているのは、

「社会人としての常識を供えた大人」

 というイメージであろう。

 自分も会社では十分ベテランの域に達してきて、後輩を見ていると、常識の欠片もないような連中が多いことから、

「あんな連中を見ると、先を憂いたくなる」

 と思っているのだが、本当の父の本音は。

「先を憂いている自分が他の人と違って、社会人としての常識を持っている唯一の人間だ」

 というくらいにまで想像力を膨らませているのかも知れない。

 そんな会社にいても中途半端で、家に帰れば、息子も成長し、父親の威厳などもう残っているはずもない状態で、母親と静かに暮らしていた。

 息子が小学生や中学生の頃のような威厳はすっかり影を潜め、まわりの人と絡まないというところでは変わっていないが、どうにもコソコソした生活をしているように思えてならない。

 それは昔を知っているだけに、そのギャップは恐怖を煽るレベルだと言えるのではないだろうか。

 その頃の父親は。母親に対しても何も言わなくなり、極端に会話も減った。家にいても家族が皆バラバラで、ある意味、誠也にとっては、その方がありがたいくらいだった。

 家族が一緒にいるというのは一番いいことなのだろうが、そればかりを追求してもしょせんは、

「絵に描いた餅」

 でしかない。

 一緒にいるだけで、中身は空っぽ。虚空に満ちた家族というのは、一体何なのかということを考えると、考えるだけ無駄でバカバカしいと思っているはずなのに、気が付けば考えていることが多かったりするのだ。

 すっかりしおれてしまった父は、すでに定年くらいの年齢になっていた。すでに髪の毛は禿げ上がっていて、かつての勢いはまったくなかった。

「どっちが本当の父親なんだろう?」

 と思うほどだったのだ。

 最近では父親もだいぶ丸くなってきていた。人に対しても柔軟に話ができるようになったようだし。母親に怒りをぶつけることはない。その様子を見ていると、今までの父親のどこが悪かったのか分かってきた気がした。

 それは、

「自分の意見をまわりに押し付けようという意思が強いくせに、自分が人とは違うという矛盾した考えを持っているからではないか?」

 と思うようになったことだった。

 ただし、昔から父親の言っていることに間違いがあったわけではない、極端ではあったが、正論だったのだ。それだけに、こちらも逆らうことができない、それが苛立たしかったのだ。

 父親は、相手のことがよく分かっていたのだろう。どういえば相手が腹を立てるのかが分かっていて、わざと挑発させていたのかも知れないと感じたが、その心はどこから来るものなのか、ハッキリとは分からなかった。

 相手のことが分かるだけに、被害妄想的なところがある父親は、すぐに予防線を張ってしまい、その向こうでバリアに囲まれた状態で、相手を見ていた。その表情はさぞやニンマリとしていたに違いないが、明らかにこっちには分からないことを知った上での確信犯であった。

 この場合の確信犯を知っているのは、たぶん息子の誠也だけだろうと自分で思っていた。母親が含まれないのは、やはり血の繋がりがないからで、母親よりも血の繋がりという意味で近しい自分にしか分からないことだろうと思うのだった。

「こんなことで血の繋がりを感じたくない。どうせなら、あなたとお父さんの血は繋がっていないといわれたい」

 と思っているが、頭の中ではほぼ血の繋がりがあることで確定している。

「血は繋がっていない」

 と言われた方がどれほど気が楽か。繋がっているつもりで接していき、何かあった時の最後の手段に取っておくということの方が、やり方としては、柔軟な気がする。

 父親は丸くなってきたというよりも、臆病になってきたのであって、臆病なくせに虚勢を張っているのか、表情に変わりはない。却って貫禄がついたくらいだ。

 そんな父親が息子を見る態度は、半分頼りなく見える。それは怖いことだった。

「自分は意識していないつもりでも、父親に近づいてきたのではないか?」

 と感じることだった。

 年齢的にも二十歳を過ぎて、一人前の男としてまわりからは見られる。今までのように子供というわけにはいかない。そうなった時、

「子供の頃にはバックに父親がいてくれることが、安心に繋がっていたのではないか?」

 と思うようになってきた。

 次第に人間が丸くなってきた父親を見るのはいいことなのかも知れないが、そのために、自分が後ろ盾を失うようで、怖い気もしたのだ。

 それまであった後ろの防御壁が、気が付けばなくなっているのだ。鉄壁だと思っていただけに、まさか、絶対に信頼していたその防御癖の正体が父親だったなんて、思ってもみなかった。

 自分の後ろ盾というと、あるのは分かっていたが、その正体について考えたこともなかった。ただ、中学生の頃、一度だけ、

「まさか父親ではないだろうな?」

 と考えたことがあった。

 ただ、その思いがあまりにも自分の中で信憑性があったので、怖くてその思いを打ち消したのだと後になって感じた。

 だが、その存在がなくなってきた時になってやっとその存在の信憑性と、父親だったという感覚とが確信に変わったということは、実に皮肉なことであると言えるであろう。

 誠也は、二十歳になってから、

「自分が大人の仲間入りをした」

 という感覚はなかった。

 実際に同年代の仲間を見ていると、すでに大人びた人も少なくはなく、いつも誰かに頼られている人を見ると、

「これが大人というものなんだな」

 と感じるようになった。

 逆にまだ高校時代くらいまでの気持ちが抜けていない人を見ると、自分よりもかなり幼い感覚になり、そんな連中に思わず、説教論をしていたくなるのを感じた。

――そうか、父親が自分に対して常識を必死に説いていたのは、相手がまだ未熟だと思うのは、常識がないということと同意語だと思っているからではないだろうか?

 と感じていた。

 ということは、、どこまでも父親は自分のことを下に見ていたのだろう。

 それが、親子関係による無意識のものなのか、

「息子というものは、いつまで経っても親に追いつくことのできないものだ」

 という勝手な思い込みなのか、さらに、

「息子にだけは追い越されたくないという。父親の威厳があってのしかるべき感情なのか?」

 の、どれかではないかと、誠也は思うのだった。

 もし、息子に対して嫉妬心があるとすれば、そこに血の繋がりがあるのだろうか? と思うのだった。

 いや、血の繋がりがあるからこそ、息子の考え方や行動パターンが分かる。ひょっとすると、中学の時に皆が泊ると言った時に、凶行に反対したのは、息子が、

「皆が泊ると言えば、親は逆らえない」

 という考えを見透かしていて、そこを問題視したのではないだろうか?

 もし、自分に息子ができたとして、息子がまったく同じことをすれば、たぶん、あの時に自分が思ったことを思い出し、自分と照らし合わせて考えることだろう。

 そうなると、たぶん、自分も子供が泊ってくると言っても、許さないだろう。少しは許してあげようという気持ちがあっても、

「親なら、子供がいうことに賛成してくれるはず」

 というまるで当たり前だという意識が感じ取れてしまうと、もう後には引けない気分になって。断固として反対することだろう。

 それを思うと、やはり自分と父親は血の繋がりがあるものであり、立場が変われば考え方も変わるということを思い知ったような気がした。

 あの頃の誠也は、

「親にだって、自分と同じ中学時代があったはずで、その時代を思い起こせば、こんな屈辱的な感情を息子にさせるはずはない」

 と思ったものだった。

 しかし、自分が大人になってみると、今度は逆に感じるのだ。

「嫌になったから、あの時の父親の気持ちが分かる気がする。常識というのをあれだけ毛嫌いしていて、トラウマになっていたので、普段は絶対に口にしないはずだったのに、息子に対して懸命に説教をしている時は、知らぬ間に、口から常識という言葉が溢れてきているではないか? これは一体どういうことなのだろう?」

 と思うのだった。

 ただ、今はまだ息子がいるわけではない。そもそも彼女だっていない状況だ。

 いずれは子供ができることになるのだろうが、今感じたことは自分が親になったから分かったわけではなく、大人になり、あの時の親の自分に対して見ている感覚を考えただけであり、それは自分が子供から大人になったということの証明ではないかと思うのだった。

 大人の都合と、子供の都合、その時の誠也にはどちらが強かったのだろう。まだ、子供がいるわけではないので、子供を見る目ではないのは確かだ。ただ、子供、この場合は、父親の息子が成長したという意味での子供なのだが、その子は大人の感覚を持っているので、大人としての目線で見ることができるのだ。

 ということは、子供のいない大人ということで、一般的な客観的に見た大人だと言えるのではないか。これをよく考えてみると、この発想が父親のよく言っていた、

「常識」

 という言葉に繋がってくるのではないかと思うのだ。

 常識というのは、大人と子供ではその目線の違いから、同じものであっても、まったく見え方が違っているのではないかと思った。

 子供は見上げることでかなり遠くにあるが、いずれは届くと思うのだろうが、大人になってしまって、分かると思っていた常識が、実は曖昧なものであることを悟ると、それが本当の常識なのかという発想になり、気が付けば、答えのない無限ループに突入しているかのように思えた。

 父親があれだけ威厳を持っていたのは。その常識がおぼろげでハッキリとしないことなので、それをハッキリさせるために、威厳という力を借りて。力によるカモフラージュで、常識を真実に存在するものだと思い込ませ、自分でも思い込もうとしたのだろう。

 そうでなければ、威厳を保つことができない。結局、ここもどれか一つでもバランスが崩れると、うまくループしてくれず、すべてが、奈落の底に落ちてしまいそうな感覚になるのだった。

 ループというのは悪いことばかりではない。

 自然に浮いているものは見えないループによって、三すくみのような縛られた状態で、回転しながら、堕ちることなく支え合っているかのように思えたのだ。

 自分にとっての父親を 、だからと言ってそう簡単に許すことのできない思いではあった。

 確かに自分が大人になったことで、あの時の父の気持ちに少し近づけた気はしたが、子供の純粋な気持ちをぶち壊してまで、子供にトラウマを背負わせる必要があるだろうか。しかも、自分は強かったかも知れないが、いくら息子だとはいえ、自分と同じだけの精神力を持っているかといえば、おっとそうは問屋が卸さない。昔であれば、一度身についた流れは、基本的に昔方続いているものであるが、今の考えは昔を踏襲しているというよりも、今の時代に沿ったものでなければいけないという考えがあるからなのか、昔の考えをむしろ、

「古臭い、カビの生えたもの」

 という感覚になっているようだ。

 何しろ今の時代は、昔の交通手段と比例しているのか、大八車に乗せていたものが、今では新幹線くらいのスピードの貨物列車で移動できるのであるから、世界も広がったと言えるし、そのスピードで時代も動いているとも言えるだろう。

 だが、、こんな時に誠也はおかしなことを考えた。

「相対性理論だったら、反対ではないか?」

 というものである。

 相対性理論というのは、スピードが光速つまり、光のスピードを超えると、同じ世界であっても、時間が進むスピードが遅くなるという考えだ。

 つまり、ロケットに乗って宇宙に飛び出し、二年間ほど光速を飛び越えてロケットの中で過ごせば、普通のづぴーどで生活をしている人の、数百年分にあたるというのだ。

 自分の知っている人たちがすべて死滅していて。自分だけがまったく知らない世界に降り立つことになる。

 おとぎ話にある浦島太郎のお話の原点ではないかと言われていることである。

 そんな話を今から数百年も前に、誰が書いたというのか、当てずっぽうにしても、恐ろしい発想の一致だと言えるのではないだろうか。

 しかも、浦島太郎の話では、七百五十年後の世界だったという。それも相対性理論の発想からすれば、かなりの近似値だというではないか。最初のこの話を見た時、それを読んだ人はどんな気持ちになったんだろう。

「そんなバカな」

 と思ったか、ただの夢だと思ったか。その通りであれば、すごいことだと思った人もいたかも知れない。

 父親がそんなことを考えるほど知的であったとは思えないが。自分の親であれば、十分にありえることだと思った。

 子供の頃の友達の中には、

「週末になると、いつも親が百貨店に出かけるんだけd、子供も皆強制的に連れて行かれるんだ」

 と言って嘆いたつもりだったが、それを訊いた友達は、

「いいよな。俺なんか、お父さん休みの日も仕事だったり接待だったりで、ほとんど家にいないので、どこも連れて行ってくれないんだ」

 というのを訊いて、

「お母さんは?」

 と聞くと、

「お母さんは、どこにも連れて行ってくれないよ。一度連れていってくれたことがあったんだけど、迷子騒動になっちゃって大変だったんだ。それからは、母親だけで子供を引率してはいけないということになcっちゃったんだよな」

「それはお父さんの進言で?」

「うん、そうだね、お父さんの一言で決まったかな?」

「じゃあ、君の家も、お父さんの権力が強いんだね?」

 と誠也がいうと、

「権力? そんなものではないよ。お母さんができもしないくせに子供を引率して出かけたりしなければ、こんなことにはならなかったんだ。それを想うと、誰でも普通に積極来はできると思うよ。すると何かい? 君のところでは、お父さんが絶対的な権力でも持っているというのかい?」

 と言われて、絶句してしまった。

「そうだ」

 というと、父親に対して。根掘り葉掘り聞かれそうだし、

「違う」

 というと、絶対的な権力についての質問が飛んでくるだろう。

 父親のことに対して感じている違いが、そのまま感覚の違いに変わっていることを、友達は分かっていないようだった。

 そんな父親が元気をなくしたのは、誠也が大学二年生の頃で、母が交通事故で亡くなったのだ。

 あまりにも急なことだったので、誠也も父親も、ずっと信じられないかのようだったが、そのショックは父親の方がひどかった。

 一か月経っても、ショックから立ち直ることもできず、しばらきは有休を使って会社を休んでいたが、さすがに首も危なくなってくると、急に我に返った父は、やっと今まで通りに戻ったのだが、その頃から父は、物忘れが激しくなってきた。

 物忘れの激しさは、子供の頃の誠也に似ていた。今から想うと、

「どうしてあんなに簡単に忘れられたのだろう?」

 と思うほど、今ではそんな記憶喪失のような忘れ方をよくできたものだと思うほどだった。

 とにかく、そのまわりのことはある程度覚えているのに、ピンポイントでそのことだけを忘れているのだ。だから、まわりから見ると、宿題を忘れていたことを、

「やってこなかった理由に、忘れていたと言っているだけではないか?」

 と言われていたようだが、本人とすれば、忘れていたということ自体が大きな問題だったのだ。

 確かに嫌なことや都合の悪いことだけすぐに忘れてしまう。それはある意味、潜在意識の賜物なのだろうが、生活する上では、この上もなく厄介なことだった。

 しかも、忘れてしまったことを、夢の中で見たような気がする。目が覚めるにしたがってその夢を忘れているのだから、見たのがいつだったのかも頭の中で混乱していた。

 ひょっとすると、宿題の出たその日、忘れているつもりではなく、夢の中に見てしまったことで、夢から覚めるにしたがって、夢の中の出来事として、記憶の奥に封印されているのではないかと、大人になって感じた。

 つまり忘れたと思ったのは、夢として解釈されてしまったことであり、そのせいで、夢を見たと思う時に、

「夢は目が覚める二したがって忘れていくものだ」

 と感じるようになったのかも知れない。

 しかも、忘れないで覚えている夢というのもあり、その夢は、そのほとんど、いやすべてと言ってもいいくらいに、怖い夢であったり、都合の悪い夢だったりすることが多い。それだけ印象深いことなので、そんな夢を覚えていることに疑問はなかったのだが、なぜ都合がよかったり、楽しい夢がまったくないのか、本当に見ていないのか、見ているが忘れているのかのどちらかを考えた時、

「夢を見たという意識はあるんだ」

 と考えたことで、

「都合のいい夢は忘れてしまうんだ」

 と感じるようになってしまった。

 しかも、その夢も、たまに見るものではなく、

「本当は毎日見ているものだ」

 という考えを持つようになった。

 夢を毎日見ていると思う方がこれも介錯としては都合がいいので、忘れないようにすることや、辻褄を合わせようとすることは、夢に対しての冒涜のような気がして、覚えていないことは、無理に思い出すものではないとも思えてきたのだ。

 その思いに至ったのは、

「夢を見るのは自分であり、忘れようとするのも自分の意志、だったら、無理に思い出そうなどとするのは、自分の意志に逆らっていることであり、そのまま忘れてしまった方が自分のためになるのではないか」

 という考えもあった。

 そのため、

「人間がものを忘れるというのは当たり前のことであり、忘れっぽいのも、ほとんど忘れないというのも、人間が違うのだから当たり前のことである。忘れっぽい人を非難するというのは、違うのではないか?」

 と、誠也は感じるようになっていた。

 だから、年を取ってきて忘れっぽくなってきた父親は、昔の反省でもしているのではないかと思うようになっていた。勝手な想像であるが、意外と忘れっぽい感覚というのは、えてして、そんなにややこしい感情から来るものではないことを誠也は感じるようになっていた。

 少し父親寄りに考え方が変わってきたことを、

「母が死んだからなのかも知れない」

 と、誠也は感じるようになってきた。

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