ドーナツひとつ

叶原ショウタ

第1話

「酒足りねぇーなー」

「追加する?」

「まー、しゃーないなー」

 若者2人が空き缶をノールックで放り投げた。軽快な音を響かせて、2つの缶が異なった動きを見せた。わたしはそれらを目で追うだけで、注意もしなければ、拾いもしなかった。

 そんな心の余裕があるなら、わたしは早々に帰宅している。

 若者たちがいなくなり、わたしは公園が平和になるのを待った。

「さあ、今日は、と」

 誰もいない夜の公園では、つい声がこぼれてしまう。

 子どもが訪れないこの時間の公園は、最低限の灯りがぼんやりと照らすだけで、現実と遮断されたような独特な雰囲気を感じさせた。

 泥だらけの手で触られているだろうこのベンチも、この淡い光の下ではまったく気にならなかった。

 仕事終わりに、ドーナツ屋・公園と寄り道してから、帰宅する。これがわたしの週末ルーティンだった。

 上がった口角を元に戻して、わたしはドーナツが入っている紙袋を覗いた。

「あれ?」

 ここまで疲れているなんて。と、両頬をパチパチ叩いて、何回か瞬きをした。

 甘い匂いが鼻の奥を再び刺激するも、わたしの見ている景色は変わらなかった。

 バッグからレシートを発掘し、確認したが、やはり1つ足りなかった。

「最悪、一番楽しみにしてた期間限定のやつだったのに……」

 おそらく店員が袋に詰め忘れたのだろうが、それを取りに戻る気力はもう残っていなかった。

 欲張って3つも買うからだ、と自分を軽く戒めてから、定番のシュガーコーティングされたドーナツを頬張った。

 噛んだ瞬間の「サクッ」と「ふわっ」のバランスが絶妙なこのドーナツは、わたしの疲れをいとも簡単に異空間に飛ばしてくれる。1つ損をしたけれど、すでにスイッチは切り替わっていた。

「よし、あとは家に帰ってから」

 誰もいない公園で、ひとりごとを交えながらドーナツを貪る。これがわたしのストレス解消法だった。

 立ち上がると、太もものあたりに違和感があった。そこから、ぽろっと期間限定のドーナツがベンチの空いているスペースに転がった。

 不思議とこういうときは映像がスローに流れる。バナナのクリームとトッピングのチョコクランチが回転し、きれいな模様を描いた。そして、クリームの乗った面を下にして着地した。

「やっちゃったー」

 家まで我慢していれば、落としてしまっても3秒ルールが適用されて、無事に胃袋に吸い込まれていくだろう。だが、ここは泥だらけのベンチだ。さすがにこれを食べる勇気はわたしにはなかった。

「ごめんなさい」

 わたしはドーナツに手を合わせて、そのまま帰路に着いた。

 本来ならゴミ箱に入れるか、持ち帰って家で捨てるべきなのだが、なぜかそのまま置いてきてしまった。数十メートル歩いたところで冷静になったが、カラスや野良犬が持っていってくれるだろうと、自分を甘やかした。

 しかし、もう数十メートル進んだところで、どうしても気になり、公園に戻った。

「これじゃあ、あいつらと同じだもんね」

 つい数分前に見た若者たちの背中を頭に浮かべながら、わたしはベンチを確認した。

「え?」

 そこにあったはずの期間限定のドーナツは、その姿を消していた。

 あまりに迅速なカラスの働きに感心しかけたとき、背後から凪を縫うような声が聞こえた。

「ドーナツ落ちてたよ?」

 小さな女の子の声だったと思うが、体が硬直し、振り返ることができなかった。数秒遅れて全身の毛穴が開き、そこから冷や汗が流れ出してきた。

 忘れていた呼吸をやっと再開し、わたしは意を決して振り返った。

 が、そこには誰もいなかった。

 逃げた気配はなかったし、隠れるような場所もなかった。わたしはただ、真っ暗な空間を呆然と眺めることしかできなかった。

 たしかにそこには、誰かがいた。そんな感覚が空気にこびりついていた。

 わたしはもう一度ベンチに目をやった。

 べっとりとついていたはずのクリームすら、きれいさっぱりなくなっていた。とてもカラスの仕業とは思えないし、野良犬が舐めたような跡もなかった。

「そうだよ。店員が、入れ忘れただけ……だよね」

 自分を納得させるためだけの声をこの世に残して、わたしは体の向きを変えた。

 せめてもの償いのような気持ちで、一度無視した2つの空き缶をゴミ箱へ捨てた直後、わたしは早足で公園を後にした。

 家で食べるドーナツのことだけを必死に考えたが、眠りにつくまであの女の子の声が耳から離れることはなかった。

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ドーナツひとつ 叶原ショウタ @kanohara_shota

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