第8話 死んだ人の行く世界
カルト教団というのがどれほどいい加減なのかというのは、里穂や山口であれば、すぐに分かるというものだ。
彼らの世界では、
「人が死んだらどこに行くか?」
ということを知っているのだ。
ただ、これは彼らの世界でもトップシークレットであり、他の世界の人に教えることはタブーだった。もし見つかれば、極刑に処せられるだけの大罪である。せめて、無期懲役であれば、いいくらいのことだった。
だが、
「死んだらどうなるか?」
ということは、どの世界でも研究されていることであるが、どのみち、研究だけにしかとどまらないことは誰もが分かっていた。
何しろ裏付けがないからだ。
死ななければいけない世界なので、死ぬということは、二度とこの世界に戻ってこれないということを意味している。つまりは、
「誰にも証明することのできないことだ」
と言えるだろう。
証明したとしても、信憑性がないので、それを証明とは言えないというまるで、禅問答のような話だった。
「ヘビが自分の尻尾から、自分を食べていけば、どうなるか?」
というようなものであり、
「タマゴが先か、ニワトリが先か」
という言葉もあったのを思い出させる。
ここで、死後の世界について、まりえは一つの考えを持っていた。
「死後の世界は、別の世界にあるんだと思う」
と、里穂と話している時に行っていた。
「どういうことなの?」
と里穂がいうと、
「だって、死んだら天国とか地獄に行くって考えるのがこの世界なんだけど、輪廻という考えもあるの。それは、天国にも地獄にもいかずに、生まれ変わるという考えね。それは何も人間に限ったことではなく、何に生まれ変わるか分からない。それを私たちの世界では前世と呼んでいるんだけど、その前世はあなたのいう別の世界だとすれば、理屈が通じる気がするの。だって、向こうにはもう一人の自分がいるんでしょう? その人は同じ時代に存在しているかも知れないけど、世界が変わるんだから、時空だって超えられる。そう思うと、私はこの世界以外を知っているように思うことがあるの。時々感じるんだけど、
『この景色はどこかで見たことがある』と思うんだけど、思い出せないことね。それをここではデジャブと呼ぶんだけど、それが前世と結びつけて考える人もいるの。私はそれをなまじ迷信だとは思えないの。的を得ているんじゃないかって思うのね」
とまりえがいうと。
「じゃあ、他の世界のあなたとは会えないということ?」
「ええ、それこそ、前世であったりするその人が、同じ世界に存在するというのは、いわゆるパラドックス違反になるのではないかしら?」
とまりえは言った。
「パラドックスというのは私たちの世界でも存在するけど、なるほど、面白い意見ね。じゃあ、死というものに対しての考え方も、それぞれの世界によって、違うものだと考えられるということなの?」
と里穂がいうと、
「私はそういう風に思うのよ」
tまりえがいった。
「私は答えを知っているんだけど、いうわけにはいかないの。これは世界を超越する時の大きな問題で、絶対的なタブーなのよ」
と、里穂は言った、
「じゃあ、私も聞かないけど、私はこういうことを考えている別世界のあなただということを思っていてほしいのね」
とまりえがいうと、
「あなたは、私の想っていたような人だわ」
と、里穂は感心してニコニコしていた。
私は以前、里穂から相談を受けていた。
「私は、今度もう一人の自分であるまりえさんに会いに行こうと思うんだけど、どう思われますか?」
というではないか。
私は神であるが、この世界では、神と人間が対等に会話することができる。
この世界において、確かに私は神であるが、里穂や山口のような人間を超越した存在だとは思わない。その理由は、
「同じ世界の人間だから」
という意味である。
厳密にいえば、確かに能力的には人間たちに比べれば我々神の方が万能ではあるし、いろいろなことが生まれながらに知識として入っている。だからこそ、その選択肢は人間よりも正確で、間違いはないだろう、
だが、我々神も人間を尊敬している。人間には神にない可能性があるのだ。
神はもうほとんど完成されているので、可能性という意味ではほとんどが皆無だ。だが、人間はこれからの成長によって、我々神をしのぐかも知れない。
我々神はそれでもいいのだ。
人間には、神のような能力はないが、考える力は神よりもある。知識による選択は人間も我々には適わないだろうが、かと言って、努力による選択は我々にはできない。そんな人間との共栄は我々神の望むところである。
他の世界にも神というものが存在しているところはある。しかし、人間が創造する神とは違っている。他の世界の人間は、神というものを創造することはできるが、それは、
「神などいない」
という思いがあるからできるのだ。
「神をも恐れぬ」
という言葉があるがまさにその通りで、前述のように、神という存在を勝手に自分たちの詐欺行為に使ってみたり、洗脳するために利用するというくらいの浅はかなことしかできないのだ。
そんなことをするから、他の世界の神は表に出てくることができない。神が人間を見捨てた世界と言ってもいいだろう。
「神がいれば、戦争も諍いもない世界になるものを」
とも思うが、権力を持った一部の人間の間では、戦争や諍いすら金を生み出すものとして、人の命を何とも思わず、自分たちの私利私欲のために利用する。そんな恐ろしい連中も、人間なのである。
神が出てこないから人間も勝手に神を名乗る。そんな連中が一番神を信じていないのだろう。
それこそ、市民を先導するために、
「我こそが神だ」
とまで言い切るだけの恐ろしさ。
一体誰にそんな傍若無人な状態を止めてくれるというのだろう。言い方を変えれば、
「傲岸不遜」
とでもいうのだろうか、つまり、
「おごり高ぶって人を見下したり、思いあがって謙虚さがない」
そんな状態になるのだ。
そうでもなければ、人がどうなろうとも自分の利益のためだけに走るなどという悪魔という言葉を使うことで悪魔に対して悪いと思うほどの人間が、どのようにすれば出来上がるというのか、知っている者がいれば教えてほしいものである。
紙である私が知らないのだから、相当なことなのかも知れない。
「いや、逆に人間社会に蔓延っている悪魔のような人間は、やはり人間にしか分からないことだろう」
と思う。
そんな人間は分からないのだから、神も分かるわけはないとも思える。
この間、里穂と話した時、そんな話をしていた。
「あのような悪魔に対して失礼なくらいの悪魔的な行動ができる人間も、生まれ変わるんだろうか?」
と言っていた。
他の世界の人間にはいってはいけないことだが、一部だけを明かすと、人間は生き返ることができる。別の世界でのことなのだが、そう、この間まりえが言っていた話は、ほとんど的を得ていたと言ってもいい。ただ、正解というわけではないのだが、そこも微妙なところであった。
私はまりえには言わないという約束で(約束しなくても言ってはいけないのだが)里穂の質問に答えた。
「いや、生まれ変わることはできないよ。里穂も知っているように、そういう人間は地獄に落ちるのさ。地獄に落ちた人間は、二度と這い上がってくることはできない。つまり、天国に行った人しか、生まれ変われないんだよ」
と言われた。
「でも、生まれ変わった時って、前の意識も記憶もまったくないわけでしょう? ということは、前世ではいい人だったかも知れないけど、生まれ変わってからの人生は、極悪人だということもあるわよね?」
「ああ、もちろんそうだよ。そういう人間は、死んだら地獄に行って、二度と生まれ変わることはないんだ」
と私は言った。
「じゃあ、死後の世界を含めない世の中というのは、どんどん人が減り続けるということ? それに地獄だって、生まれ変わるわけではないのであれば、地獄はどんどん人が増えていくことになるよね? それが理屈だと思うんだけど」
と里穂が言った。
「うんうん、里穂の意見はもっともだよ。だから、地獄にもこの世にも、生まれ変わりにもそれなりの制約があるのさ。特に地獄というところは、一定期間地獄で、いわゆる「地獄の苦しみ」を味わったあと、跡形もなく消えてしまうんだ。その人は生前の世界でも、その存在を皆の記憶から消されてしまう。だから、本当の極悪人の記憶は、歴史の中にしか出てこないのさ。でも、教訓のために、それなりに記憶としては残さなければいけない。それが歴史という学問なんだ。そして、この話が漏れてしまうと、人生の死後の世界や人生の何たるかということが大っぴらになると、人間は生きることに対しておかしな感情を持つことになるだろうね。それが怖いので、死後の世界のこと、この世界以外ではタブーとされているんだよ」
と説明した。
「なるほど、そういうことだったんだね。よく分かった」
と言って、里穂は納得してくれた。
「ところで里穂は、まりえの世界で、一体何をしようとしているんだい?
と訊いてみた。
実は私には里穂の考えていることくらいは分かった。これでも神として君臨しているのだから、里穂の心の中を覗くくらいは、朝めし前のことだった。
「私、この世界でたくさんの人と身体を重ねてきて、その時々で得られる快感と満足感に酔ってきたの。でも、まりえというもう一人の自分に興味を持って、いろいろ話をしてみると、まりえは、一人をずっと思い続けているというじゃない。何といっても、まりえの世界ではそれが一番正しいことなのだから、それを当然のごとくだと思うんだけど、今の自分を顧みて、それでいいのかって思ったのよね。本当はそれでいいんだろうけど、まりえのような気持ちに一度なってみないと、自分の気持ちが分からないってこともあることに私は気付いたの。だから、今はまりえのそばにいて、まりえになってみる気持ちになりたいと思っているのよね」
というではないか?
「まりえが付き合っている男性を知っているのかい?」
「ええ、知っているわ。でも、私たちでも、別世界の他の人と会ったり話したりはできないので、まりえと豊の二人を見つけるしかないの。心の中までは読むことができないので、その行動パターンを見て、豊のもう一人の自分である、こっちの世界の山口さんを意識してみようと思っているのよ」
と里穂はいった。
「その気持ち、たぶん、山口君に伝わっているよ」
と私は言った。
「えっ、そうなんですか?」
と里穂は言ったが、
「山口君は里穂の気持ちを少し感じているようなのよ。彼はたぶん何も言わないだろうし、里穂から言ってしまうと、その思いは萎んでしまうかも知れない。ここは難しいところなんだけど、まずは、里穂から山口君にアプローチしないことだね」
私はこれが言いたかったのだ。
今は里穂は気付いていないが、山口の気持ちに気づいて里穂から声をかけると、すべてがおじゃんになってしまう。それは避けたかった。なぜなら、
「この状況の結末を、私自身が見たい」
と思っているからだった。
山口は、まだ必死になって豊に話を訊いていた。それも私には分かっていた。ただ、ここで山口がまるで遠回りをしているように見えるこの行動も、実はちゃんとわかってのことだったのだ。
山口は話を訊きながら、自分が山口になったつもりで、自分はよく知らないまりえを見ていたのだ。
里穂が豊に接近できないのと同じで、まりえのことを山口は分からない。それでも、山口が豊を通して知ろうとしているのだ。
それは、里穂にはない感覚だった。
里穂の考えとしては、まりえにこの世界の話をして、普段とは違った考えや幅広い発想を持たせることで、自分が普段気付いていない豊に対しての気持ちを知ろうと思ったのかも知れない。
それはそれで悪いことではないのだが、やり方としては、シンプルではあるが、山口のやり方の方が正統派であり、スマートであった。
それこそが、男と女の違いと言えるのではないだろうか。
前述の男女平等の話ではないが、確かに、我々の世界では、男女の差別的なことは最初からないと思っている。しかし、最初からないだけに、この問題を考える機会もないのだ。
そもそも、男と女では、生まれてからの身体の構造が違っている。それを分かっての太古からの決められた差別であったはずではないか。確かに女性の中には迫害を受けていると思う人もいるだろうし、それを理由に迫害しているやつだっているだろう。
そんな一部の連中だけを排除すればいいだけなのに、他の世界では、男女平等を建前にしてしまう。それがどれほど危険なことなのか、分かっていないのだ。
身体の構造が違うがゆえの心配りなのに、できもしないことをできるかのように虚勢を張っても、しょせんは無理なことであることに変わりはないのだ。
里穂はそのことを分かっているつもりで分かっていない。まりえもこの世界にいるのだから、まわりの意見をもっともだと思うのか、それとも自分も女性なので、平等という言葉にどうしても反応するのか、そのことを分かるはずもない。それが私には危惧する部分だったのだ。
しかし、山口はすべてを分かっている。この世界の男は、そういう感性を持ったうえで生まれてきているのだ。生まれつきに何が男女平等なのかが分かっている。
「できることを無理せずにできる方がすればいいだけではないか」
というのは、平等なのではないか。
そもそも構造が違うものが同じことをやって、何が平等だというのか、それは理屈を通すために強引に無理をしているだけではないか。
だから、里穂が、まりえの世界に行って、まりえのような恋愛をしてみたいと思うのも無理のないことだとは思うのだが、それはどこか無理をしていて、ごこちないことではないかと思えるのだ。
だから、私は山口を使って、里穂に無理なことをさせたくないと思った。山口もそのことを分かってくれたようだ。直接言葉にして山口に話したわけではないが、山口には私と同じ匂いがある。山口が里穂に惹かれたのも、里穂が山口を気にするのも、本当は惹かれ合っているからではないか。
山口が、豊のもう一人の自分だからという理由ではない、それに、どうして里穂が、まりえのことを気にするようになったのか、里穂にはそのことを疑問にすら感じていない。
それは私がそのように気持ちをコントロールしたからだ。
私は神である。それくらいのことはできて当然だと言ってもいいだろう。
まりえにしても、里穂にしても、本当によく似ている二人だと思う。会話をしていると、似ている感覚はお互いに持っていないかも知れないが、根本的なところで似ているのだ。何といっても、もう一人の自分なのだからである。
里穂は知らないが、里穂の住んでいるこの世界でも、本当は神が自分の姿を人間に見せてみたり、この世界がどのように形成されているか、まりえに話したようなことはいっても構わないが、普通の神は言わないだろう。だから、人間もまりえの世界のように、何も知らないで普通に生活している。そのことを敢えて里穂には言っていない。
もし言ってしまったら、里穂はまわりの人に得意げになって話すかも知れない。敢えて言わない方が、
「皆知っていることなので、わざわざ口にすることではない」
と感じて、里穂の方からまわりに話すことはないだろう。
もっとも、里穂のような同じ人間に言われても、皆は、
「何を夢みたいなこと」
と言って、相手にしないに違いない。
それを思うと、私は、このやり方がベストだと思ったのだ。これでも私は神である。人間の考えていることや行動パターンは分かるつもりである。
山口のり穂を好きな気持ちを利用するというのは、少し気が引けたが、それも私の野望達成のため、とにかく、まずはこの世界における里穂と山口にはくっついてもらわなければ困るのだ。
この世界においても、できることとできないことが存在する。他の世界に比べれば、出来ることの方が圧倒的に多いので、できないことは、あくまでも制限の外という認識であった。
その中の一つに、
「生まれてくる子供を選べない」
というものがある、
まりえの世界であったり、他の世界では、
「子供は親を選べない」
という表現をする。
その場合は、親が何か悪いことをして、子供にその弊害が及ぶ場合に、そのような表現を使われて、子供がいかに可哀そうな立場なのかを表現している。
そう、人間というのは、
「生まれてくる時は、自由に生まれてくるわけにはいかないが、死ぬ時くらいは自由でいたい」
と思っている人がいる。
死を選べないというのは、戦争などで、どうしても避けられない死の場合などをいう。病気などは、さすがに日頃の節制で何とか死に至るような病気をしないで済むこともあるので、病気を避けられない死ということに弊害を持つ人もいるだろう。ただ、
「死というものは、避けられない運命にある」
ということであれば、
「生まれる時も、死ぬ時も選ぶことはできない」
と言えるであろう。
問題になるのは、自殺の場合である。
自殺するには、それなりの事情があり、借金などで首が回らなくなった場合に自殺を考えるであろう、だが、借金というものにもいろいろあり、避けられないものも実際にはあるだろう。
買い物をしすぎたり、欲望に任せて、風俗に入り浸って、借金を膨らませたりした場合には、本人の責任なのだろうが、人の保証人になった場合はどうであろうか?
これも、避けようと思えばできることで、保証人になんかなるから悪いのだと言われれば、言い返すことなどできないだろう。
では、今度は本当に避けることのできないこととして、家族が病気で薬代に困ってしまい、借金した場合。これも、見方によれば、
「そんな時に何とかしてくれる知り合いがいれば違ったのではないか?:
と言われるかも知れないが、結局は誰かに借金をしないとダメである。先ほどの保証人の話にも被るが、他人のために引き受けて、お互いに共倒れになってしまえば、人情論など関係はない。あくまでも、自己責任となってしまう。そうなると、まわりに頼るわけにもいかない。
この時はさすがに、本人に責任をおっかぶせるのは酷だと言えるのではないだろうか。
そう思うと、自殺をしようと考えている人を救うことが果たしていいことなのか微妙である。
自分が何とかしてあげられるのであれば、それでいいのだが、その時に助けても、彼の立場が好転しなければ、また自殺を繰り返すだけだ。そうなると、自殺されてしまった助けた人間は、一生そのトラウマを抱えて生きていかなければいけない。どう考えれば、その時に黙って死なせてやるのが人情ではないか。
「死んで花実が咲くものか」
などという言葉があるが、生きていても、まったく花が咲く見込みのない生きる屍に対して、どう対応すればいいというのか。
非常に難しい究極の選択になるのだろうが、普通に考えれば、死なせてやる方が人情であろう。それをどういう観点からなのか分からないが、
「それでも生きなければいけない」
という人間は、何を根拠にいうのだろう。
その人がいつどのようにして復活するかということが分かって。その根拠を示すことができないのであれば、
「死の自由」
を与えてやるべきではないのか?
これは安楽死(ドイツ語で、オイタナジー)の問題とも絡んでくるもので、この場合も、
「早く楽になりたい」
という本人の希望であれば、叶えないわけにもいかないだろう、
安楽死というものには、二つの考え方がある。積極的という意味と、消極的という意味である、積極的というのは、死が目前に迫っている人を、手を下して死なせること。つまり、人工呼吸器の電源を切ったり、点滴を止めたりして、死に至らしめる場合である。そして消極的というのは、最初から延命を行わない場合である、消極的の中には、本人の意志で、
「いよいよの時は苦しまないように、延命処置を施さないでくれ」
というものがあったりした場合が考えられる、
まりえの世界で考えると、積極的な安楽死は、殺人教唆として殺人に値するとされる。ただし、いくつかの条件をすべて満たしていれば阻却されるというものでもあり、例えば、本人の積極的な意思があり、延命してもほとんど効果がない場合。本人が苦痛に苛まれていて堪えがたい場合などが「すべて」必要なのだ。
だが、消極的なものに関しては、基本的には本人の意思があれば、問題はないとされる。しかも、本人が意識不明に陥った場合など、一番本人に近い近親者の申告であれば、本人の申告とみなすというものでもあり、比較的容認される場合が多い。
ただ、この場合の気になる部分があるのを、誰も指摘しないのが私は気になっていた。
「延命処置などは、かなりのお金がかかるはずである。癌や白血病などのような不治の病であれば、保険も適用されるが、では、植物人間となってしまった場合はどうなのか? 何年も生きているだけで反応しない。お金も相当かかるだろうし、下手をすれば、治療費のために、娘が身売りをしたり、借金で首が回らなくなる場合だってあるだろう。そんな状態になっても、安楽死の要件としてはその部分はまったく考慮されないのだ。本人の尊厳は確かに大切であろうが、それを支える家族にどのような災いが起こるかを考えると、安楽死を認めないというのは、真綿で首を絞められるようなものではないか。誰も助けてくれるわけではない。本当に神も仏もないと思い、変なカルト教団に引っかかってしまう可能性だってあるのだ。カルト集団を取り締まるのも確かに大切だが、それ以上に、そんな悲劇を生まないようにするのが先決ではないか。それを思えば、安楽死も『尊厳ある死』という意味で、ありなのではないか」
と私は思うのだった。
もちろん、この問題は同じ世界で、別の国々で賛否両論がある。それだけに一概にその世界だけを切り取って話すわけにはいかないが、里穂の世界、つまり私が神を務める世界では、尊厳死はありであった。
つまり、積極的であっても、消極的であっても、安楽死は認められている。本人の意志に基づく必要もない。逆に問題なのは、尊厳死を認めない場合であった。
家族の中には、
「一縷の望み」
に掛けている人もいる。
本人が、安楽死を望んでいたにも関わらず、家族がそれに応じないというパターンもあるのだ。ただこれは珍しい例であるが、患者にそれまで口では言い洗合わせないほどの迫害や苛めを受けてきて、この時とばかりに、
「どうせ死ぬなら、簡単には殺さない。苦しみぬいて死んで行けないい」
という、私的復讐に駆られる人もいる。
だが、それは表には決して出てこないことなので、表面上は、
「家族が何とか本人のために、延命を望んでいる」
という風にしか見えないだろう。
本人も当然、元気な時の所業を、他の人に話すなどしていないだろう。していたとすれば、その時点で逮捕されるからだ。だから決して苛めを行っていたことが外部にバレることはない。だから、これこそ復讐という意味での完全犯罪であった。
医者の方としても、いくら本人の意思があるとはいえ、家族の意志を無碍にはできない。医者が判断を迷っている間、患者は苦しみぬくことになる。そして結局安楽死になるのか、苦しみぬいての死になるのかは、分からない。死後の観察では分からないからだ。
そういう意味では安楽死を認めるか認めないかという問題も大きな問題であるが、安楽死を認めるということになった場合の弊害として、個人的な復讐に使われる可能性があるということである。
となると、安楽死を認める場合は、その国で家族が絶対に裏表がなく、平和に暮らせる土台が整っているということが最低限の問題となってくる。
もちろん、安楽死を認めない場合も同じことだが、まったく正反対から見た、同じ内容の事例であっても、立場が変われば、違った結果が生まれるということの典型的な例ではないかと思うのだった。
もちろん、これは安楽死に限ったことではないが、果たしてどのように考えればいいのか、私は悩んでいた。神が悩むのだから、人間にその結論をゆだねるのは酷というものだ。それだけこの問題は奥が深いと言っていいだろう。
今は、それだけ、
「生まれてくることも、死ぬことも選ぶことはできない」
ということになる。
すると、人間の尊厳はどこにあるというのだろうか?
我々の世界では神がいることは周知の事実となっているが、他の世界では神は想像上のものとして、確立はされていない。そんな中、これだけ尊厳のない世の中なのだから、それこそ本当に、
「神も仏もない」
という感覚が浸透しかけている。
これは寂しいことに違いはないが、実はある意味ではいいことでもあった。つまり、おかしなカルト教団に引っかからないという意味ではいいことだ。
カルト教団は、
「死後の世界で、幸せになる」
ということであったり、
「この世でも神を信じていれば、幸せになれる」
というものであるが、死ぬことへの尊厳の権利もなく、また生まれてくる時の尖閣スラないのであれば、生まれ変わりに希望が持てないからだ。
ちなみに、他の世界では、死後に生まれ変わるとしても、同じ世界で生まれ変わるという発想だからだ。別の世界という発想はあっても、生まれ変わりを別の世界ということにしてしまうと、宗教としては相手に信じ込ませるには説得力に欠けるからだった。
あくまでも相手を信じ込ませるための方便としての発想、すべてはカルト教団の都合によるものでしかないのだった。
そんな状態において、生まれ変わりの発想も、生まれること、死ぬことへの尊厳も他の世界においては、夢も希望もないが、そのおかげでカルト教団に騙されることもないというのは、実に皮肉なことだと言ってもいいのではないだろうか。
里穂は、そのことをまりえに伝えようか迷ったが、まりえならもうすでに分かっているのではないかと感じていたのだ。
豊には分かっていることだったのを、山口は確認していた。、やはり山口も豊も、しっかりとしている人間であることは確かだった。
他の世界の人間は、死後の世界、生まれ変わりのメカニズムに関してはまったく知らない。根拠のない発想はあるのだが、それはその世界ごとに独特であった。だが、その発想のすべてが、長い間の歴史の中で育まれてきたことは確かだった。だからこそ、世界の違う歴史が繰り広げられてきたことで、発想もすべて変わってくる。これは祖語の世界は生まれ変わりのメカニズムに限ったことではないのではないか。
さて、そんな中で、里穂は山口のことを一体どのように見ているのか、そのことを私は少し危惧していた。
なるほど、まりえに会って、彼女の考えに接することができた。彼女には豊という彼氏がいて、その人だけを大切にしている。だが、それは本心なのか分からない。なぜなら、まりえも、豊だけを愛している自分が、どうしてそういう心境になっているのか、本当の理由を分かっていないからである。
「浮気をしたり、一度に複数の人を好きになるという発想が私の中にはないからなんでしょうね」
とまりえは言ったが、それは暗に、
「二股を掛けたりすれば、まわりからどんな目で見られるか分からない。それが恐ろしい」
と言いたいのではないだろうか。
もし、里穂もまりえの立場になれば、同じことを思うだろう。里穂は自分の世界にいるから、二股であっても、不倫であっても何でもありという世界だからこそできることだった。
実際には里穂の世界であれば、二股や不倫が許される理由とすれば、
「浮気されたことで、憤りを感じるのであれば、それだけ自分に甲斐性がないということを恥じなければいけない」
という発想が主流だった。
つまり、
「浮気をされたのであれば、した人間よりも、された人間の方が悪いのだ」
という発想である。
他の世界の人はそれを訊いたら、どんな気分になるだろう。弱い者苛めのように思えてくるかも知れないが、どうしてそんなに弱い人ばかりを擁護する必要があるのだろうか?
たぶん、一つには民主主義の限界である、
「貧富の差などの差別が発生する」
という意味の、差別はF平等が生まれることを危惧してのことだろう。
だが、実際には、見方によっては傷の舐めあいにしか見えないのではないか。
これではせっかく努力をして勝ち取ったものであっても、そこで他の人の妬みを生んでしまうと、そっちを重要視して、せっかく努力して勝ち取ったものを返納などさせられる可能性も出てくるだろう。
そうなるとどうなるか。
「世の中、どんなに努力しても報われない:
と思うだろう、
しかも、それが自分の力不足での未達成ではないのだ。ちゃんと自分の力で達成したことが、まわりの都合と潰されてしまう。これほど理不尽なことはない。
そうなると、他の世界の人は何と言うだろう。
「皆、努力をして競争したのだから、勝つ人間がいれば負ける人間もいる。だから、勝った人間が称えられるのは当たり前のことだ」
というに違いない。
では、二股や不倫はどうなのだろう。
彼女さえしっかりしいていれば、そんな不倫や二股などはない場合だってあるだろう。相手に不安や不満があるから、保険として他にもう一人と考える人もいれば、今の彼氏では心もとないと、別れてもいいか、今の彼を担保にしている考えも存在するのではないだろうか。
そう思うと、不倫や二股だって、勝ち取ったというそれがたとえ略奪であっても、仕方のないことではないだろうか。
確かに、黙って行うのはアンフェアかも知れない。だったら、公表して、こそこそとしなければいいのではないか、それで彼が屈辱に耐えられないというのであれば、別れればいいのだ。その方がよほどフェアだと思うが違うだろうか。
このあたりのことを、神の私が決めることはできない。あくまでも人間社会の中での秩序であり、しかも、神の力の及ばない別世界のお話なのだからである。
二股や不倫を、本当に悪いことだと、別の世界の人間も思っているかどうか、疑問である。
「まわり皆がそういうのだから、きっとそうなんでしょう」
というくらいに、自分の意見を表に出さずに、流れに任せた意見しか言えない人も多いことだろう。それは実はかなり卑怯なことであり、そう思うのは、自然なことではないだろうか。
何が秘境なのかというと、自分の意見を持っていないというのは、里穂の世界では罪であり、基本、皆自分の意見を表に出して生きることが習慣となっている世界であった。
何も里穂の世界は、他の世界の嫌なところを克服してくれる、
「桃源郷」
ではない。
確かに世界としての理想ではあるが、それはあくまでも、
「世界として」
ということだ。
つまりは、人間一人一人の理想を追い続けて出来上がった世界ではない。もちろん、人間が望んでいることを踏襲したうえで出来上がった世界であるが、すべての人間を網羅したり満足させられるようなものができるなど、ありえることではないからだ。
そうなると、どこかで人間として、自己主張をハッキリとしなければいけないだろう。そうなると、世の中すべての人間が気持ちをオープンにするというだけで、解決することであった、
いまさら他の世界にそれを求めることは不可能だ。だから、どんなに頑張っても里穂の世界のような理想の世界を作ることはできない。だから、憧れの世界を想像するしかないのだが、それを理想の国として人に押し付けるのが、カルト集団というものだった。
他の世界では、そんな悪が蔓延る世の中をどうにかしたいという人もたくさんいる。里穂の世界の人間が積極的にそんな世界のもう一人の自分として助言ができるようになれば、別世界の一つの大きな事件を防ぐことができ、徐々にであるが、自分たちの理想に近づいているということが分かるようになるのではないかと思えるのだ。
里穂がまりえに、
「一人を愛することができるようになるには、どうすればいいのか?」
という話を訊きたいだけだったが、まりえと話をしているうちに、それまで気付かなかったことにたくさん気付いた気がした。
それは、自分の世界とまりえの世界の違いであったり、共通点であったりもそうなのだが、もっとピンポイントに、自分のことが分かってくるようになってきたというのが、本音であった。
里穂は、そんな自分が、今まで生きてきて、一番好きだと思うようになっていたのだった。
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