第7話 カルト教団の罠
里穂がまりえの世界にやってきた、本当の目的を山口がどこまで分かっているかは分からないが、全貌が分かっている人がいれば、
「山口が里穂のオンリーワンになりさえすれば、そこですべては解決なんだ」
と言えることであろう。
里穂とすれば、誰かをオンリーワンにしたいと思っているのだし、山口は自分が里穂のオンリーワンになりたいと思っているのだ。
状況としては実に単純に思え、うまくいけば、
「時間が解決してくれる」
というだけの問題なのではないだろうか。
しかし、そうは、問屋が卸さない。お互いに気持ちが分かっていないだけに、うまく進んだとしても、どこかで壁にぶち当たり、障害をもったまま先に進んでしまうと、うまくいっていたことも、逆行してしまうことだってあるだろう。しかし、すべてが順風満帆に行った場合は、苦悩を知らずに来ただけで、うまくいったと思った後から、えてして問題が噴出してくることもあったりして、そのあたりの問題も大きいのではないか。
結婚にしても、お互いに付き合った相手が初めてということで、新鮮な二人と思われていたとしても、お互いに人を好きになった経験が浅かったりすると、相手が何を求めているのかが分からないなどの問題が出てきたりして、気持ちがすれ違ったりもするものである。
ただ、それはすべての人がというわけではなく、あくまでも可能性と確率の問題である。それを思うと、
「実際にはやってみないと分からない」
ということであろうか。
ただ、何かを決める際には、それが大切なことであればあるほど、考えられるパターンは頭に入れておく婦がいいに違いない。何かがあった時に対処方法が頭に入っているかいないかでかなり違ってくる。それは、気付くのが遅れて、
「もう手遅れだ」
ということにならないとも限らないからだ。
里穂が、まりえの世界で気になっているのは、もちろん、豊だった。自分は豊の前に現れることはできない。豊の前に現れることができるのは、山口だけだ。だから、里穂はまりえと豊の二人のカップルを黙って見守っているしかなかった。
里穂にはまりえの気持ちは少しは分かる気がした。何しろもう一人の自分なのだし、実際に夢の中で話もしてきた。しかし、豊に関してはまったくの初心者同然だった。しかも、話をすることもできない。だが、それでも彼のもう一人の自分が自分のせいで誰に当たるかということは分かっていた。つまり、自分の世界で山口を見ていれば、豊のことも想像がつくのではないかということである。
あくまでも、別世界の人間なので、まったく同じ性格ということはない、それでも、豊の行動パターンを見ていて、何を考えているかということを図る材料にはなるだろう、
そう感じることで、自分の世界での山口を観察し始めた。たくさんいるセックスの相手の中でも特別の意識を持って見ることになった。
ただこの感覚は、まりえの世界では、
「恋する乙女」
と言われるような態度であった。
里穂の世界では、実に珍しいことで、山口はもちろん、里穂本人にも分からないことだった。里穂とすれば、
「ただ、注目して見ているだけ」
というだけに過ぎなかっただけなのだ。
里穂は、まりえを見ていて、豊に対してどのような付き合い方をしているかを見ながら、自分では山口を見ていた。すると見ているうちに、やはり、山口は豊ではないという当たり前のことを、いまさらながら思い知ることになってきたのを自覚しているようだった。すると、自分の世界での山口を見る目が少し変わってくる。
「この人でいいのだろうか?」
という思いである。
その他大勢の中の一人ということであれば、別に何んらの問題が存在するわけではない。その時、共有する時間を楽しめればいいという考えだからである。
だが、山口の方では違っていた。自分も里穂のことを好きになってしまい、里穂の世界ではあまり考える人のいない考え方をするという意味で、そんな雰囲気を表に醸し出すことで、次第に山口の立場は、微妙なものになっていた、
だが、この感情は、実は二人だけの問題ではなかった。里穂の世界の朱儁期は、まりえの世界の思春期のように、不安定で壊れやすく、多感でデリケートな時期であった。
多感な時期を過ごす中で、
「恋愛感情というものを持つことはいけないことなのだろうか?」
という感情は、誰もが通る道だったのだ。
それを自分の中だけで抱え込んでしまっているので、そんな考えに至ってしまった自分に対して、
――こんなことを考えてはいけないんだ――
と、感じるようになっていた。
つまり、いい悪いの問題よりも、考えてしまった時点で、まるで自分が悪いことをしたというような感覚に陥ることが問題だったのだ。
そんな里穂は、まりえになるべく、
「あなたが、好きな人に対してどんな感覚でいるのかということが知りたいわ」
と言って聞き出そうとしていた。
しかし、まりえの考え方があくまでも、まりえの世界におけるまりえの常識としての話になるので、里穂には理解できない部分もあった。
だが、本当はそれをすべてひっくるめて理解しようとしないと、中途半端にその部分だけを切り取って考えようとしても、理解できるわけはない。それはまりえの世界の人間であっても同じことである。まりえの世界の人間にはその理屈が分かるので、そのつもりで話を訊くのだが、結局、他人なので、その人の考えていることの神髄が分かるわけはないのだ。
そのあたり、つまりは、自分がもう一人の自分であるが、住む世界が違うということと、まりえの世界の人は、他人ではあるが、同じ世界に住んでいるということを考えると、お互いに、
「帯に短したすきに長し」
というところではないのだろうか。
このことわざはまりえの世界の言葉であるが、里穂の世界にも似たような言葉が存在している。それを思うと、
「遠いように見えるけど、肝心な部分は似ているところが多い世界なのかも知れないわね」
と、里穂は感じていた。
実はその思い、里穂よりも先に、まりえの方が感じていた。
まりえは、自分からあまり余計なことをいったわけではなく、里穂の方から自分の世界の話をしてくれた。
まりえは里穂の話を訊きながら、自分に置き換えて、
「自分の世界での自分と、自分の世界に里穂が存在していたら?」
という考えであったり、里穂の世界をどのようなものか、里穂という人間の性格を分析するうえで、その後ろに控えている世界を勝手に想像してみたりしていた。
それは、話を訊いて、耳から入ってきた情報を頭の中で?み砕いて介錯しようとするからだった。
話を一方的にしている里穂にはその感覚はなく、まず理解してもらったうえで、自分の期待しているような答えを求めるという思いであったのだ。
里穂にとって、まりえというもう一人の自分は、最初考えていたよりも、
――本当にもう一人の自分なんだろうか?
と考えてしまうほど、根本的なところで違っているように思えたことで、戸惑いのようなものがあった。
だが、それは里穂の勘違いであった。
まりえは里穂が思っていた通り、肝心なところではやはり似ているのだ。それを認識できなかったというのは、里穂がまだまだ未熟だったというわけではなく、里穂のいる世界の常識と、こちらの世界の常識が根本から違っていることが原因だということであった。
元々、根本的なところで違っていなければ、別の世界が出来上がるなど、考えられないだろう。別の世界を作るというのは、よほどの大きな力が働いていなければならないはずで、その力の一つが、
「考え方の根本的な違い」
ということになるのではないだろうか。
里穂がまりえを見ているのと同じように、山口も豊を見ていた。しかし、山口の豊に近づいた理由は、里穂の思惑と非常に似ているが、それはニアミスというもので、もし、すれ違ってしまえば、その後決して交わることのないものであろう。
それを思うと、二人がそれぞれにすれ違いを見せるのではないかと思うのは当たり前のことで、これから二人がどうなるか、
「神のみぞ知る」
というべきではないか・
実は、ここで他人事のようにこの記録をしている人間は、里穂の世界で信じられている「神様」
の一人であった。
私は、まだまだ未熟な神であり、我が世界における信仰の対象となっているのは、私の先生とでもいえばいいのか、すでに神として君臨している人たちだった。
里穂の世界の人たちが進行深くなったのは、実は最近のことである。
まりえの世界のように、神も仏もいない世界においては、信仰というものは、太古から存在していた。
「神も仏も存在しない」
というと、かなり乱暴な言い方だが、実際には自分たちの心の中に存在しているのであって、そのことは、皆感じているのであった。しかし、一部の人たちはそれを神物化することによって、人を洗脳したり、自分たちに都合よく事態を導くために利用する人も少なからずいた、
そんなことが原因となり、宗教間でのいざこざが起こることで、世の中が乱れるというのも珍しいことではないだろう。
実際にまりえの世界では、過去に起こった戦争のほとんどは、宗教関係が絡んできている。そもそも、宗教というのは、人を平和にそして幸せに導くものなのではないかと思われるが、実際には、
「死後の世界において、G苦楽浄土に行くための教え」
というものが、多いのも事実である。
ということは、宗教を信仰している連中は、この世に絶望しているということであろうか?
この世で、自分が死後の世界、極楽に行けるようにするための行動をとればいいだけなので、全体の平和など、どうでもいいのである。だから、宗教団体というのは閉鎖的で、運営しなければいけないという理由で世間と関わるが、それ以外は世間と隔絶している。
「宗教団体なんて、しょせん何を考えているか分からない」
と思われるのはそのせいではないだろうか。
実際に一部の団体は過去にテロ集団ともいうべき、恐ろしい集団となって、大きな社会問題を引き起こした例はいくつもあるではないか、
それはやはりいるかどうか分からない神を信じ込ませるということが、証拠としてないために、信者を繋ぎとめるという意味もあって、過激な行動に出るとも考えられないだろうか。
里穂の世界で神がいるということは、その世界の人間の誰もが分かっていることで、神である自分たちも、時々人間の前に姿を現すこともあるので、これ以上確定的な証拠はないというものだ。
私のような神は、人間一人に一人という形で存在しているわけではない、もっと言えば、人間に対してついているわけではなく、その存在意義は人間に対しては絶対秘密であった。それを口にすると、口にした神は神ではいられなくなる。どうなってしまうのかは、まだ未熟な神である私には分からない。先輩の神様であれば分かるのだろうというくらいにしか思えないのだった。
私と同じような未熟な神はたくさん存在している。今は神としての勉強をしているところで、人間世界でいえば、
「義務教育」
とでもいうべきであろうか。
神も最初から神だったわけではないように、人間も最初から人間ではないのだ。そのことを分かっていないのが、神と人間の違いと言ってもいいのか、神も人間も、勉強が大切だということに変わりはない。
では神にとっての勉強とはなんであろうか?
それは、人間の勉強である。神にとっての使命は、人間を神の世界に最終的に導くというもので、人間が死を迎えたところで、その人の生前の行いによって、どのような死後を迎えるかが決まってくるのだ。
それは、まりえの世界の宗教という世界観に似ている。そういう意味で、まりえの世界の宗教もまんざら間違いではないのだが、いかんせん、それを祀る神がいないのだ。
里穂の世界では、立派に神は存在するが、人間社会で最近蔓延っている新興宗教というものがいかにひどいものなのかということは、人間たちにも分かってはいるのかも知れないが、どうしても不安が先に立つのか、そこを見透かした宗教団体というのは、実に小ずるいと言ってもいいのではないだろうか。
最近の里穂はそのことに気づき始めているようだった。
新興宗教の中でも、カルトと呼ばれるのがどれほど恐ろしいかというと、別の世界では、詐欺が横行したり、他の世界では、暗殺集団と化していたり、さらには、まるで自分たちを神とでも言いたいのか、浄化を行おうとして、大量殺人を目論む団体もいる。
そんな連中はきっ、その世界における、自分たちの世界の
「創世記」
なるものを詠んでいるに違いない。
その本には、別の世界であるにも関わらず、なぜか似たような発想を描いた書物が残っていたりする。
つまり基本は、
「この世界の創造主は、神である。そして、その神によって作られた人間は、時には自分たちが神に逆らったことで、言葉を通じなくされたり、浄化と称して、世の中を何度も滅ぼされ、新たな人類が生まれてきたり、または、神のわがままや、嫉妬によって、神の都合で国家が、国民もろとも滅ぼされたりという世界の黎明期」
が描かれている。
つまり今の人類は、神によって、何度も作り直された人類であり、神に逆らうと、何があるか分からないという発想である。
そして、今の世の中がまたそんな浄化に値するような乱れた世の中であり、自分たちが神の意志を止めることは不可能なので、いかにして浄化される中で生き残れるか、あるいは、教祖自信が神であり、浄化の際に、自分への信者だけが助かるというように洗脳して、クーデターやテロを起こそうとしているのだった。
だが、世の中の人間は、不安であったり、実際の世の中が教祖の言う通りであり、憤りを感じて居たりすると、どうしても救世主を求めるのが人情である。そういう心境にほだされて、宗教はどんどん信者を増やしていくのだ。
そういえば、笑い話にしてはいけないのだろうが、宗教の種類を問わず、
「世界最終論議」
というものがある。
宗教によって、人類がいつ滅びるということが書かれたもので、たとえば、今から三年前であったり、世紀末であったりがその内容だったりするのだが、それを真面目に信じている信者がたくさんいて、そんな信者に対して、宗教はこういうのだ。
「人類は、やがて死滅する。助かる人は一人としていないだろう。その時に、死後の世界に救われるのは、我々の信じている神が助けてくれる人だけである。そのためには、今の覚悟が必要だ。この世ですべてを失っても、新しい世の中ではリセットされるので、この世に何も残す必要はない。だから、全財産をみかじめとして納めるのだ」
というのである。
冷静な判断力であれば、この世でしか通用しないと言っているくせに、金を要求するというのはおかしいと思うだろう。しかし、最終世界を信じている人にも、もう死後の世界しか見えていないのだ。
「確かに、この世が果ててしまえば、お金なんか必要ない。新たな世界に連れて行ってくれるための覚悟というのであれば、喜んで全財産を捧げよう」
と熱烈な信者であれば、当然考えることだろう。
そして、教団に全財産を収めた人は、この世が終わると言われた日に、どこかの競技場のような大きなところに集まって、必死に祈りを捧げている。
きっと心の中では、
「皆俺たちのことをバカにしていたが、実際に滅んでしまってから後悔したって、遅いんだ。俺たちが新たな世界の最初の人間になるんだ」
と思っていることだろう。
それは、歴史書の中に書かれている洪水神話に書いてあることだった。
まわりの人は、
「陸に船なんか作ったって、どうしようというんだ。とうとう気が狂ったか?」
と言って、まわりから散々笑われたが、自分たちは洪水の荒波の中に船の中で助かることを夢見ながら、嵐が過ぎ去るのを待っていたが、まわりの人たちはひとたまりもない。
あっという間に荒波に飲まれて、そのまま死んでしまうのだ。気の毒だとは思うが、神を信じなかった罰が当たったと思えば、彼らに罪はなく、むしろ新たな世界でのパイオニアになるのだ。その方が感情としては強い。
神様というのは、すべての人に平等ではない。自分を信じるものは救われるが、信じない者に対しては容赦がない。だから、それを正当化させる意味で、洪水伝説であったり、無法地帯と化した街をあっという間に消滅させたりと、神に逆らうとどういうことになるかという
「戒め」
という意味で、歴史署や、宗教における聖典なるものが存在するのだ。
そして、先ほどの世界最終日というのが、結局はウソであった。その日に世界が滅ぶどころか、何もなく最終日が、昨日に変わってしまったのだ。
そうなると、信じて全財産を供出した人はどうなる>? 一文無しで、これから新たなに暮らしていかなければならない。そこは浄化された世界ではなく、まったく昨日と変化のない世界である。
彼らは、神から見捨てられたのだろうか? 今までの彼らであればそう思ったかも知れないが、世界最終日がウソだと分かった瞬間に、夢から覚めたのだ。
「俺は一体何をしていたのだろう?」
と真剣に思った人もいたことだろう。
そう思うと一気に現実に引き戻された自分がどういう立場にあるのかを考える。
「俺たちは、神様を信じて裏切られたのか?」
「いや、そうじゃない。最初から騙されていたんだ。宗教団体は俺たちから金を巻き上げるためだけに存在し、ひょっとすると今はもう団体を解散しているかも知れない」
と言っているが、まさにその通りだった。
団体の理事や幹部は行方不明。団体は解散してから、その存在すら怪しいくらいになっていた。
団体としての登記はしていたが、実際に活動をしていたという証拠は残っていない。
そして、何よりも普通に生活をしている人たちの中の印象は実に薄いものだった。
「そんな団体あったっけ?」
であったり、
「聞いたことはあるが、どんなことをするところなんだ?」
という程度である。
いわゆる、
「常識のある人たち」
にとっては、そんな団体は本当に他人事であり、関わること自体が、百害あって一利なしだったのだ。
そんな状態の中で、
「訴えたって、同じかも知れないが、とりあえず訴えを起こそう」
として訴えを起こした。
世間のワイドショーなどでは、そんな訴えを興味を持って報道したが、その興味も完全に他人事の意識であった。
しかも、報道するマスコミが、報道の隙間を受ける程度での間に合わせ記事なだけに、ただでさえ皆が興味も持っていない記事を見ることもない。
こんな記事があったということすら、すぐに忘れられる程度である。
完全に見捨てられた彼らに同情する人はいない。
「ちょっと考えれば分かることじゃないか」
と言われてそれまでである。
社会的影響としては、
「まだまだ、カルト宗教の詐欺行為は、なかなかなくなる気配を見せていない」
という意味での社会問題だったのだ。
被害者に対して、被害者意識を持つこともない。訴えたということで、彼らはただの原告であり、団体は被告というだけなのだ。
「まだまだ宗教による信者が被害に遭うことはなくなりそうもありません」
というアナウンサーの声も、どこか嘲笑しているように感じられて仕方がなかった。
「宗教なんて、しょせんはそんなものだ」
と、本当はいいたい評論家であろうが、さすがに公共の電波でいうわけにもいかない。本音とすれば、
「騙されるやつがいるから、騙すやつがいる」
と、騙される方も悪いと思っているのではないだろうか、
口に出せないだけで、全体を他の人よりも分かっているだけに、評論家というのはそう思っていることであろう。
ひょっとすると、自分の書物のようなもので、あからさまではいけないので。言葉を選んで書いていることであろう。
宗教団体というものが、いかに人間に寄り添っているように言っているか、やはり騙された本人たちにしか分からないだろう。分かった時のギャップで、自殺をした人もいたかも知れない。
それは全財産を失って。お先真っ暗という意識もあるだろうが、これから先、何を信じていいのか分からなくなったことが、自殺の直接の原因であろう。
それを思うと、彼らに対してよりも、宗教団体に対しての怒りだけがこみあげてくる。被害者に対しての哀れみの気持ちなど、宗教団体への怒りに変えなければいけないと思うくらいであった。
そんな例は、何も、
「世界最終論議」
だけに限ったことではない。
いろいろな宗教における問題が聞こえてくるが、全財産をはぎ取られたわけではないが、宗教団体に対しての失望と、何を信じればいいか分からなくなったことには変わりはない。やはり騙されたことで自殺する人もいたのだ。
「何も自殺しなくてもいいのに」
と言われていたかも知れないが、本人たちにしか分からないことを、嘲笑するのは、少し違うような気がする。
それでも、こんな事件が日常茶飯事のように起きていて、そのたびに時間だけが過ぎていくことで、皆すぐに忘れていく。それを思うと、世の中の流れさえ、宗教団体は計算に入れているのではないかと思うと、その計算には、恐れ入るものがある。
もちろん、そんな宗教団体は一部の過激なところであったり、宗教団体という名前を隠れ蓑にして、本当は最初から詐欺のために作られた団体だったりする場合が多いだろう。だから、
「カルト教団」
なのである。
カルト教団は宗教団体ではない。ただの詐欺集団なのだ。そのことをここで筆者は強く書き残しておく必要があると思っているのだった。
そんなカルト教団は、ある意味、しっかり勉強している。人を騙すのも、ある程度の歴史や、知識を知っていなければできないことだ。詐欺の基本は、
「相手を信じ込ませること」
だからである。
説得力のない相手に誰が信用などするものか。つまりは、信用しているからこそ、相手を信じるのだ。不安な人間ほど余計に信頼できる相手以外を信じるわけはない。逆にいえば、
「自分が信じられる相手なので、それ以上の相手はいないのだ」
という自己暗示をかけていることであろう。
宗教団体は洗脳しようとする。信者になる人は自己暗示を掛けようとする。その二つが絡み合ってピッタリくれば、信者になったとしても、何ら不思議なことではない。それが宗教という言葉を使うカルト集団の恐ろしいところである。
そんな恐ろしい教団は、どこの世界にも存在していた。
だが、それは前述のように、カルト教団であって、宗教ではない。つまり神も仏も関係ない、自分たちが万能の神であり、神を信じるということは自分たちのいうことを訊くというのと同じなのだと思い込ませることだった。
ただ、人を洗脳するということは、それほど簡単なことではない。その人のまわりにはたくさんの人がいて、まずいところに行こうとしていれば、普通であれば止めてくれるであろう、
だが、もし自分を止めてくれる人から、それ以前に裏切られたことがあればどうだろう?
人というのは、相手に気づかないところで、えてして恨みを持っていたりするものだ。
それだけに、知らないところで恨まれていたりして、下手をすれば犯罪に結びついたりする。
そのあたりをカルト集団はうまくついてくる。
「あなたはまわりを敵だらけのように思っているかも知れないが、我々はあなたのことを一番よく分かっている」
と言って近づくのだ。
分かっているのは当然であろう。その男がまわりを信じられなくなっていく段階からずっと見続ければ、誰よりもその人のことを分かるというものだ。
だが、逆にいえば。
「なぜ、その人がまわりからひどい目に遭うことになるのかということが事前に分かるのだろう?」
という疑問はあるかも知れない。
だが、この世ではそういう人間が想像以上に多いのだ。
少々、人間不信に陥っていると思えるような人物は、たぶん、石を投げれば当たるというくらいの確率でいるのではないだろうか。
それほど、世界というのは、人に対しての不信感や憎悪、そして嫉妬などが渦巻いている世界なのだ。
だから、ちょっと見ただけで感じている人を追いかければ、それでいいだけのことであった。
彼らにとっての詐欺というのは、その程度のものである。
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