第7話 悪魔の申し子

 姉が今どうして、記憶喪失なのか、つかさは考えていた。今までの姉から考えると、思い浮かばない。別に記憶を隠す必要などない。兄かに不安がっていたりとか。気になることがあったりなどという話も聞いた覚えはない。

 少なくとも姉はつかさに対して、いろいろ隠し事をするようなことはなかった。一番仲のよい姉妹であり。人が羨むようなこの関係は、決して他の誰もマネのできないものだと、つかさは自負していた。

――これは、私が思い込んでいただけなんだろうか?

 と感じていた。

 姉が一体どのようにして記憶を失ってしまったのか。そういえば、姉を殴ったという人は自首してきたということだが、どうも姉との利害関係者ではないということだった。警察に聞いた話しでは、

「お姉さんは巻き込まれたか、あるいは、不特定多数の中で運悪く選ばれてしまったかのどちらかだとは思います」

 と言っていた。

 どちらにしても、溜まったものではない、少なくともそんな事件がなければ、姉は記憶喪失にはならなかったのだから。

「だが、待って? 本当にそうなのかしら? ひょっとすると姉は殴られたというのは偶然で、本当は殴られる前から記憶を失っていたのかも知れない」

 と感じた。

 姉は、記憶を失っていたか、意識が朦朧としているところに、犯人を見てしまったことで、証拠隠滅のために殴られたのかも知れない。そうであれば、

「巻き込まれた」

 という言葉も信憑性が生まれてくる。

 姉は最近疲れていた。

「リラクゼーションにでも行ってこようかしら?」

 と冗談っぽく言っていたが、本気だったのかも知れない。

 つかさもそれを訊いて、

「じゃあ、今度一緒に行こうか?」

 と言ったことで、姉が本当に疲れだけでそんなことを言ったとつかさが思っていると感じたのかも知れない。

 その時点で実際に記憶を失っていたとは思えない。

「そういえば、記憶って、いきなり失うものなのかしら?」

 基本的には、外的なショックが肉体的に、そして精神的に襲ってきて、衝撃を受けたことで記憶が喪失してしまうものであると考えると、記憶が徐々に消えていくという発想は生まれてこない。

 私が記憶を失ったとした時、どんな感じになるのかを、姉を見ていて想像してみた。まわりにいる人が誰なのか分からないのは間違いないだろう。そして、精神的に正常でないことも想像がつく。なぜなら、正常な状態で、これだけまわりのことが分からなければ、これほどぼーーとしているとはいえ、平気でいられるわけはない。

「私、誰なの? どうしてここにいるの?」

 とパニックになってしまって、自分が誰であるか分からないことへの恐怖が襲ってくるのが、正常な状態であろう。だから、記憶喪失は精神が正常であれば、病気の一種であり、正常でなければ、病気ではないという発想になるのかも知れない。

 記憶喪失というものはつかさにとって、未知の病気であった。自分もまわりに、しかも一番近しい関係にある姉に記憶喪失が忍び寄ってくるなど、想像もしていなかったので、ショックというよりも、唖然としていると言った方がいいだろう。

 実際に姉は恐怖を感じているわけでもなく、寂しそうにしているわけでもない。そういう意味では精神に異常をきたしているのだろうから、心配しなければいけないだろう。

 しかし、つかさは心配ではあるが、本心は。

――このままでいてほしい――

 という気持ちがあった。

 姉と自分との関係は、今までにはなかった関係で、ずっと上しか見ていなかった姉の存在を、今度は自分が介護することで逆の立場になっているのが嬉しかった。

 本当はこんなことを感じてはいけないのだろうが、

「姉はきっとよくなる」

 という思いを込めることで、姉を下にみようというのは、実に都合のいい考え方なのではないだろうか。

 さらに記憶喪失となったら、姉は自分を慕ってくれている。ずっとそう思っていたが、最近では少し違っているような気がする。最初記憶喪失として家に帰ってきた時は確かに、不安からか自分を慕ってくれているような気がしたが、一度爆発して再入院してからは、あまり妹を慕っている様子はない。前述のように、不安という感じが見受けれなかったのだ。

 それも、既成を挙げて暴れそうになった時に、何かが音を立てて切れたかのように感じたのは、気のせいではなかったのかも知れない。

「記憶を失うということを経験したことがないから」

 というのは、確かに言い訳だ。

 しかし、姉はその思いを何か巧みに利用しようとしているように思えてならなかった。

 妹の方から歩み寄っているつもりでも、どうして上から目線になることで、ある程度より先は足を踏み入れないという領域を、妹の方で無意識に持っていると思っているのかも知れない。妹は妹で、姉は姉でお互いの気持ちを探り合っているかのようだった。

 姉が病院に戻ってきてからは、看護婦さんをまるで自分の代わりのように慕っているかのように思えた。

 姉がどうしてつかさを避けるようになったのか、どうやらそれを知っているのは、安藤のようだった。

 看護婦は別に何も知らない。

「私は、お姉さんの看護を仕事としてしているだけなので」

 と後になって事件が解決してから、彼女はそう言っていたが、その通りであろう。

 姉に看護婦を慕うように指示したのは、安藤だったようだ。

 このことは、つかさが安藤に直接聞いて、安藤が答えたことだった。

「お姉ちゃんが、最近私にあまり頼ってこないんだけど、安藤さんは何か知っている?」

 と聞くと、

「ああ、それはね、僕が指示したんだよ。妹さんはいつも来れるわけではないので、ここにいる間は看護婦がいるので、彼女を慕うようにねってね。依頼心が芽生えてしまうと、それを払拭するのは結構大変ですからね。相手が誰であっても同じなんですよ。肉親に対しての依頼心よりも、ここにいる間だけの依頼心であれば、これほど気が楽なものはありませんからね」

 と、安藤は言った。

「そうだったんですね。確かにそうかも知れない。もし姉の記憶が戻ったとして、姉は前の性格に戻るんでしょうか?」

 と聞くと、

「それは何とも言えないですね。その答えとしては、お姉さんが記憶を取り戻した時、記憶のなかった時期のことをどのように対処するかですね。自分でまた封印してしまうか、それとも。どちらも自分の記憶として残しておこうとするか、それも記憶という意識が戻ってきた時に、どっちの自分を感じるかです。ある意味二重人格のようですが。どちらかは、必ず裏に回るんですからね」

 と言った。

「元々姉に二つの性格があったわけではないんですか?」

「元々の二重人格者は、そこから三重人格になるということはありません。しかし、裏表のなかった人は記憶喪失になったことで、もう一つの性格が生まれてきます。それが元からあったものかどうかは、分かりませんけどね」

 と安藤はいう。

「これも私の勝手な考えですが、先生にも話したことはありません。いずれは理論立てて話し手みようとは思っていますが、だから、こんな話をするのは、つかささんが初めてですね」

 と、安藤は続けた。

「そんな大事な意見を私なんかに話していいんですか?」

 と聞くと、

「ええ、僕は誰かに聞いてもらいたかったんです。同じ学者であれば、その人の研究にヒントを与えるようなものですからね。私には敵に塩を送れるだけの技量は持ち合わせていませんからね」

 と、安藤は気を付けた話し方になっていた。

「そのお気持ちは分かる気がしますね。私も、時々どうしても人に話したくなることがあるんですよ。他愛もないことなんですが、それだけに人は忘れないんじゃないだろうかという勝手な思い込みなんですけどね」

 とつかさは言った。

「人に聞いてもらいたいと思うことって、どうしても避けられない気持ちなんでしょうね。私はあまりそういうことは考えないのですが、たまにどうしても聞いてもらいたいことが出てくるんです」

 と安藤は頭を掻きながら言った。

「僕は、これでも結構、いろいろ記憶喪失や催眠術について、個人的に勉強したり、研究もしているんですよ。でも、教授の方では、まだ時期尚早を理由に、なかなかそちらの方の研究に携わらせてもらうえないんですよ」

 と安藤がいうと、

「それは、ある意味しょうがないのではないですか? 例えば、職人さんなんかのように、本当の伝統芸能や昔からその店などに伝わる秘伝というのは、なかなか弟子には教えてくれないものじゃないですか、料理人なんかは、採取の何年かは、包丁も握らせてくれないなどといいますよね?」

 とつかさは言った。

「確かにそうかも知れません、私の実家もそういう職人関係のところなので、そんな話をよく聞かされます。僕は長男ではなかったので、実家の家業を継ぐなどという、そんなことはなくて助かったのですが、大学の研究室ではそこまではないと思っていましたが、少し甘かったですね」

 と安藤がいうと、

「でも、教授がおっしゃるのも無理もないことだと思いますよ、何といっても扱っているのが人間の心という生ものですし、デリケートなものですから、間違ってしまうと、すみませんでは済まなくなりますからね」

 と、つかさは言った。

 それを訊くと安藤は、一瞬ドキッとしていたが、それ以上言い返すことができないようだった。

「そうですね」

 と、短く答えると、つかさは続けた。

「姉がどうして記憶を失くしてしまったのか分からないですが、私は何か、そこに他人の手が介在しているような気がしてならないんですよ。姉というのは、優しい人だから、もし、そこに他人が介在するとすれば、よほどの関係がある人、普通に考えれば、家族や恋人、そして、自分にとって、家族や恋人に近いくらいの大切な人ですね」

 とつかさがいうと、

「家族や恋人に近いくらいの大切な人というのは?」

 と安藤がいうと、

「ハッキリとは分かりませんが、命の恩人のような人であったり、何か大切なことを教えてくれた人であったり、要するに誰にでもいるとは思うんですが、自分にとっての人生を見つけてくれたり、人生の中での恩人と言えるような人ですね」

 とつかさが言った。

「それは、尊敬できる人という意味ですか?」

「ええ、それもあります。人によって感じ方はまちまちですね。安藤さんにとっては、尊敬できる人が、今私が言った話の相手となるわけですね?」

 というと、

「頭にパッと浮かんだ人がどの人でしたからね。恩人とでもいう感じでしょうか?」

 と安藤が言った。

「じゃあ、安藤さんは、その人のためであれば、自分が記憶を失っても、その人を助けたいと思いますか?」

 と訊かれて、

「究極の選択になりますね。私なら、そうですね。そこまでは考えないと思います」

 と、安藤は答えた。

「それが普通だと思うんですよ。いくら自分に影響を与えてくれた人であっても、いざとなると、なかなか自分を犠牲にまではできませんからね。でも姉ならできる気がする。その人のことをある意味で愛しているならばですね」

「ある意味というのは?」

「恋人としてという意味です。つまり、恋愛感情が存在すれば、相手は恋人になる。もちろん、片想いであれば、恋人と言えないでしょうが、片想いであったら、普通なら、そこまではできないでしょうね。でも、姉の場合ならできてしまう気がするんですよ。それが姉の怖いところだと思うんです」

 とつかさは言った。

 少し沈黙があって、さらにつかさは続けた。

「だから、私はもし、姉にそこまでさせておいて、その相手はなちゃんと現れるか姉を救ってくれることがなければ、私はその人を恨みます。いずれ見つけ出して。それなりの制裁を受けてもらいたいと思うでしょうね」

 と言った。

「でも、今の話は想像なんでしょう?」

「ええ、そうです。でも、私の中で、今限りなく真実に近いことだと思うようになっているんですよね」

 とつかさは言った。

 安藤は何かに覚えているような気がする。

 実はつかさには、何か思惑があって、こんなことをいったのだ。姉が記憶喪失になったのは、

「私がまったく知らない人間か、あるいは、あまりにも身近過ぎて、見えない存在の人ではないか?」

 と思っているからだった。

 人間には、

「路傍の石」

 という意識があるのだとつかさは思っていた。

 路傍の石というのは、

「いつも見ているのに、その存在が当たり前過ぎて、目の前にいても、見えているのに、意識がない」

 というものである。

 目の前に石ころが落ちていても、それをいちいち意識するだろうか? そこにある石が昨日と少しずれていたとしても、気付く人など誰もいないだろう。

 もし誰かから、

「あそこの石のことなんだけど」

 と聞かれたとすれば、

「えっ、あんなところに石なんてあったかしら?」

 という程度の意識しかないことだろう。

 見えていて、網膜に刻み込まれたはずなのに、意識していないので、当然記憶に残るわけもない。

 だが、逆に人間には、意識していないことでも記憶として残っていることがある。まるでデジャブ現象のようだが、デジャブという現象を科学的に解明されているわけではないので、その発想から繋がっているという説があっても、別におかしくはない。

 普通であれば、

「何か意識していることと、自分の記憶がうまくかみ合わない時、見てもいなかったものを見たという感覚に陥ることで、意識の辻褄を合わせようとすることがデジャブ現象を引き起こすのではないか?」

 という説につかさは、惹かれていた。

 今まで数えきれないほどの石ころを見てきたが、石ころの方がこちらを意識したと思えるようなことがあったような気がする、

 ふっと思わず、その石を見つめてしまったことで、目の前に転がっている石だけが何を感じさせるというのか。石のまわりに何があったのか、石を引き立てる何か存在があったことで、石に意識が向いたような気がした。

 つまり、自分から石というものは自己表現できないのだが、まわりのものによってその存在を証明させるかのような、

「衛星のようなもの」

 と言えるのではないだろうか。

 月のように、太陽の光を浴びるか、太陽の光を浴びた地球の影となってその存在をあらわ閉めるかというものである、

 しかし、地球にとって月というのは、その存在は、地球の存続に大いなる力をもたらしている、

 有名なところでは、

「潮の満ち引き」

 などというのも、月の引力の関係だというではないか。

 そもそも地球は元々海だったのだ。潮の満ち引きによって、生命が生まれたということは考えられないだろうか。

 ということになれば、月のような衛星は、地球のような惑星の、

「命の源」

 ということができるのではないだろうか。

 それを感じさせるのが、月に対しての昔からの人の尊敬の念である。

 何と言っても、昔は月の周期を暦としていたわけなので、それだけ、人類の生存、発展に不可欠なものであるか、ということである。

 普通の人は。なかなか空を見上げることをしない。今は宣伝しなければ、中秋の名月といっても、空を見上げてお月見などということはしないだろう。

 それこそ、月というのは、

「空に浮かんだ『路傍の石』だ」

 と言っても過言ではない。

 では、今回における、

「路傍の石」

 というのは何だろう?

 見えているようでみえていないもおが目の前にあって、その障害が今回の事件を形成しているのかも知れない、

 一つ気になっているのは、今回、安藤という男が催眠療法に興味を示しているということだった。

「安藤さんは、催眠梁上に関してはどう考えてるんですか?」

 と聞いてみた。

「催眠療法というのは記憶喪失になった人に聞くのかどうか、少し気になっているところがあります。それよりも、ちょっと気になっているのが、催眠術で記憶喪失を治すということよりも、記憶喪失になった原因が催眠術によるものもあったのではないかと思うことなんです。催眠術によって記憶喪失になったのであれば、催眠療法って、本当に聞くのだろうか? って思うんですよ」

 と安藤は答えた。

「どういうことですか?」

「催眠を掛けるというのは、まず相手を催眠が掛かりやすいように、暗示に書けるためのキーワードを覚えさせるという、一種の催眠のようなものが必要なんです。だから、その影響でなってしまった記憶喪失を解く場合には、まずそのキーワードを解く必要がある。そのための催眠でないと、催眠療法も効果がないんですよ。だから、催眠術で記憶喪失を解くというのは、私は難しいと思っているんです」

 と安藤がいうので、

「でも、それは記憶喪失の原因が催眠術による場合の時のことでしょう?」

 とつかさが聞くので、

「ええ、確かにそうですが、記憶喪失というのは皆催眠なんです、他人が掛けた催眠でなければ、本人が掛けた催眠によって、記憶喪失になる、私はそう思っています」

 と、安藤はいうのだった。

 つかさは、その話を訊いて、一種の違和感を抱いた。確かに記憶喪失というのは、元々は外的なもの、つまり殴られたりすることから起こる場合がほとんどなのに、その一瞬で、記憶を失うというスイッチが入ってしまうののだろうかということである。

 もし、そんなスイッチが入ってしまうのであれば、最初からそのスイッチを入れるリーチのような状態になっていると考えるのが妥当ではないか。姉に果たしてそんなものがあったのかどうか、一緒にいる限りでは考えにくかったのである。

 何かを言いたいけど黙っているという雰囲気も、何かを意識させるための、催眠も感じられなかった。それを思うと、果たして本当に姉の中に記憶喪失に関するスイッチが存在したのかどうか分からない。

 そのスイッチにしても疑問であった。

 記憶喪失になるためのスイッチなるものは、最初から誰にでも存在しているものなのか、何か催眠によって、架空のスイッチが創造され、何かのきっかけによって、そのスイッチが押されてしまうことがあるのではないかということである。

 そしてそのスイッチのようなものをその人の中に感じることができる人がいるのかどうか。どんなに意識しようとも感じることができず、最終的にスイッチを押した人間は本人ではないにしても、押されたスイッチが、起爆することによって、めでたく(?)記憶喪失になることができたのであれば、それが本人にとっていいことだったのだろうか?

 ひょっとすると、そのスイッチというのは、記憶喪失に阿木らず、その人の精神に疾患を与えるだけのものだったのかも知れない。精神疾患の中で一番表に出てくる現象として記憶喪失が強いのであれば、それが、記憶を失ったことが表に出るということで、他の精神疾患は目立たないだけで、十分に意識を支配しているのだろう。

 だから、記憶喪失だけを見て、それだけを治そうとしても無理があるのだ。本当の精神疾患、つまり記憶喪失になった原因を理解するためにどのようになればいいのかが、問題ではないかと思うのだった。

「姉に催眠を掛けて、記憶喪失を誘発させた人がいるということでしょうか?」

 とつかさが訊くと、

「その考えがないとは言い切れないですね。お姉さんは見ている限り、目立った精神疾患は見られません。でも、何かが潜んでいるのは間違いないです。我々、神経科の医者や研究員というものは、ここだけの話ですが、記憶喪失に掛かっている人のそのほとんどは、見えていない精神疾患を宿していると思っています。だから、まずは記憶喪失に直接かかわるのではなく、精神疾患を見極めるところから始めるのです。ここでいう催眠療法というのは、ある意味そんな精神疾患を見つけるという意味で、潜在意識に語り掛けるという方法を考えています。だから今回も私は、そのつもりでいうんですよ」

 と、安藤は言った。

「それじゃあ、姉に対して何か。記憶喪失に陥る爆弾を投下した人がいるということですね?」

「ええ、そうですね。でも、今の私の段階では何とも言えません、教授からも研究を止められていますからね」

 と安藤がいうので、

「それは、安藤さんに限らず、最初は皆そうあるべきという教授なりの考えがあるんじゃないですか?」

「そうかも知れないし、そうではないのかも知れない。私にはよく分かりません」

 と、最後の方には、何か煮え切らないというよりも、気持ちを押し付けているかのような意識があった。

 ただ、投げやりな態度を見ていると、安藤はいつになく、精神的に普段と違う気がした。

――いや、いつもと違って感じるのは、自分の中で何かに切れているという思いがあるからではないだろうか?

 と考えるようになっていた。

「姉の中にもう一人誰かがいるような気がするんですけど」

 とつかさがいうと、

「私は、誰にでもその人の中に二人はいるような気がしています。あからさまに二重人格性のある人もいますからね。そして、そのもう一人が、普段から落ち着いて見える表に出ている自分を誘発することもあるでしょう。人によっては、自分が他人と同じでは嫌だ。我慢ができないと思っていたり、言葉に出さなければいられないという人がいると思います。その人をいかに、我慢させるかというよりも、誰の被害にもないところで、爆発させてあげられるか。それも一種の催眠療法なのではないかと思うんです」

「なるほど、では自分の中に隠れているもう一人の自分が、『悪魔の申し子』のような恐ろしい人間である可能性もあるということですね?」

 とつかさがいうと、

「そういうこともあるというだけですね」

 と、自分はその意見に賛同してはいけないという意識がそこで生まれてきたかのように感じられた。

「一体、何をどう判断したらいいのでしょう? 私はここまで考えてきて、何か分かったつもりでいるんだけど、結局何も分からないまま、意識が戸惑ってしまっているかのように思えてきたんですよ」

 とつかさは言った。

「お姉さんがすべてを知っているのは間違いないのだけど、つかささんはお姉さんから何かヒントのようなものを訊いていませんか?」

 と安藤に訊かれて、

「ヒントですか? よく分からないですが、今思い出したところによると、姉にはたぶん、彼氏のような人がいたと思っているんです。でも、その人とはどういう人なのかも分からないし、分かっていたとしても、その人が表に出てきてくれないことで、姉の中でその人の意識を、記憶と一緒に封印しているのではないかと思うんです。その人も私たちの前に姿を現すということを一切しようとはしませんからね」

 とつかさは言った。

「じゃあ、そういう不思議な人がいるということは間違いないんですね?」

「ええ、そうだと思います」

 というところで、話がこれ以上膨らむことはなかった。

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