第6話 姉の記憶
結局その時、好きなはずの彼の告白に対して、返事ができないまま、つかさの淡い恋は終わってしまった。
「どうして、あの時」
という思いが過去にあったとすれば、最初に思い浮かぶ記憶はこの時であろう。
それは好きな人に告白するというだけではなく、他のことにおいても同じなのだが、そこまで何も後悔のない人生を歩んできたなどと自分で思うことはない。
人生において、後悔がない人などいないだろうが、この時までに、後悔の念を抱いていた感覚がないというのは喜ぶべきことなのだろうか?
「知らぬが仏」
という言葉があるが、ただ単に気づいていないだけなのかも知れない。
気付いていないということは、いつも一人でいることが多いつかさにとって、気付かせてくれるきっかけになる材料を与えてくれる人がいないということであろうか。
確かにいつも一人でいるという自覚はあるが、それを悪いことだとは思わない。学校でも通学路でも、今までの感覚で、人とつるんでいるのを見るのは、どこか醜いものを見ているような感覚があり、そのためか、スマホをあまり活用していない。
「どうしてあんな危ないのに、スマホばかり見て、前を見ないんだ?」
というところから始まった。
相手が避けてくれるとでも思っているのか?
そんなバカなことはない。自分がスマホに夢中になっているのだから、相手だって同じように夢中にならないとは限らない。お互いに前を気にしなければ、ぶつかるのは当然だ。
だが、中には、
「皆が危ないと思って気を配るようになると、前を見ていなくても、感覚で人が歩いてくるのが分かるかも知れない」
という思いがあるのではないかと思った。
だが、それは、すぐにつかさの中で打ち消された。何と言っても前を意識せずにスマホばかりを見ている姿は、これほど醜いものはないだろうと感じたからだ。
スマホを見ながら下ばかり見ている姿を見るのがこれほど情けないものだとは思わなかった。以前は、まだガラケーだった頃も同じだったが、最初は皆そんな光景を、違和感を持って感じていたはずなのに、いつの間に、皆右に倣えになってしまったのだろう。
まっすぐに前を見ていると、目の前から来たスマホばかりを見ている人が、急にドキッとして立ち止まったりしていたものだ。
しかし、今は避けることは避けるが、ビックリしている人はほとんどいない。人が歩いてくることが分かっているので、驚くだけ体力の無駄だと思ったのか、それとも、驚くという感覚を失ってしまったことに気づいていないのかである。
「それって、記憶喪失の一種なのでは?」
とつかさは感じた。
教授の話では、
「記憶喪失のほとんどは、潜在意識が無意識に自分の記憶を格納しようと思っているからではないか」
と言っていた。
だが、この前を見ていて誰も驚かなくなった感覚は、少しニュアンスが違っている。
「驚くという感覚がマヒしてしまったのではないか」
というもので、記憶喪失のように、潜在意識のなせる業とは少し違っている。
潜在意識としては。
「スマホを見ながらでも歩けるようになれればいい」
と感じるものであろう。
だが、実際にはそういう感覚ではない。
「前を見なくてもぶつからなければいい」
という一歩先に進んだ感覚だけが独立しているように感じる。
その思いはあくまでも、都合のいい考えで。目の前に迫ってくる人間を無意識にでも意識できればいいというような、本当に自分本位の都合のいい考え方である。
「目の前から来る人に気を遣って、自分が先に気づいてあげなければいけない」
などとは、これっぽっちも思っていないだろう。
簡単にいれば、
「自分さえよければそれでいい」
という単純な自己中心的な考えだということになるのだろう。
さらに気になるのは、
「歩道の自転車走行」
である。
最近は、世相を反映してか。〇〇イーツなる、お弁当屋出前のようなものが流行っている。その配達員が自転車での配達になるのだ。
もちろん、すべての配達員が悪いなどと言っているわけではない。そもそも、自転車に乗っている連中のマナーの悪さは今に始まったことではない。特に外人どものマナーの悪さは群を抜いていた。
坂道をブレーキも踏まずに歩道を人をすり抜けるように、猛スピードで駆け抜けていく。歩行者は後ろに目があるわけではないので、少しでも自転車を運転している人の想定外の行動があった場合どうするというのか、例えば道に避けなければいけないものがあれば、歩道は基本的に歩行者専用なので、普通は走行してはいけないはずである。
法律もそうなっていて、基本的に走行可能という標識がない場合、自転車が歩道を走るのは道路交通法違反である。
「通行区分違反」
ということで、罰則として、
「三か月以下の懲役、または、五万円以下の罰金」(2021年月現在)
ということになっている。
法律はどんどん厳しくなっているので、これ以上の罰則になることはあっても、これ以下になることはない。
つまり、自転車が通行してはいけない歩道を走るということは、自動二輪車が、歩道を我が物顔で走っているのと同じことである。読者諸君は、そんな光景を見たことがあるだろうか? バイクが走っているとすれば、それは当然、誰もが反論するはずである。
ただ、自転車であっても、走行可能標識がなくても走れる場合がある。
一つは、児童である場合、そして老人である場合、そして身障者(身障者の場合は、その度合いも考慮が必要であろうが)、または、本来通行するはずの自転車が、客観的に見て走行が困難な場合、それだけに限られるのだ。
今の。
「客観的」
という言葉であるが、これは、自分での判断ではいけないということだ。
「誰の目から見ても、走行困難でなければいけない」
という意味での、
「客観的」
という言葉である。
果たして、今我が物顔で走っている連中に、それらの条件を満たしている人がどれだけいるだろう? いや、誰もいないと言ってもいいだろう。満たしているのであれば、そもそも車道を走ることが危ないということで補導走行が許されているのだから、爆走などするはずがないからである。
身障者や子供にそんな爆走は危険でしかない。これは危険走行とみなされても仕方のない案件であろう。
また、道路交通法では、
「いかに自転車が歩道を走っていいという場合であっても、あくまでも歩道は歩行者優先である。つまり、歩行者が広がって歩いていても、それを自転車に乗車している人間が、歩行者に対して、クラクションのようなものを鳴らすことは許されない」
ということである。
どうしても、先に行きたいのであれば、自転車から降りてしまうと、同じ歩行者なので、
「どいてください」
ということもできるだろう。
そう、違反走行をする連中には、そもそもそんな簡単なことを理解するという頭もないのだ。まだ悪いと思う気持ちがあるのであれば、まだしも、まずそんな人はいないだろう。悪いと思っていれば、歩道を走るなどという暴挙はないはずだからである。
自転車がやむ負えず歩道を走らなければいけない状況になった時は、自転車は決して歩行者の侵攻の邪魔をしてはいけない。そして。危険を感知するのは自転車の方であって、接触なりの事故があった場合は明らかに、自転車が悪いのだ。
横断歩道で、赤信号を無視した歩行者を車がはねたとしても、悪いのは車だということは、運転していない人でも誰にでも分かることだ。歩道においてであろうがなかろうが、一番弱いのは人間であって、自転車であっても接触などの人的トラブルがあれば、圧倒的に立場上不利なのは自転車ということになる。我が物顔で走っている連中には、そんなことはこれっぽっちも感じていないことであろう。
最近では、自転車に対しての罰則もいろいろあるようで、世相に照らした罰色もある。
昔であれば、手放し走行であったりなどであろうが、細菌では、手放し走行に付随する形になるが、スマホを見ながらお走行であったり、電話を掛けながらの走行などもそうである。もちろん、昔から言われている、二人乗りやヘルメットの未着用など、当然罰則となるものである。
さらに、自転車が加害者となる歩行者に対しての事故ともなると厄介である。
もし相手がけがをしたり、ひどい場合には死んでしまうことだってある。けがをさせてしまうと、当然警察に届ける必要がある。これも道路交通法では自転車は軽車両となるので、損害賠償が生じてくるだろう。
しかし、なかなか自転車の事故まで予見して、自転車保険に入っていない人もほとんどではないか。そうなると、賠償のすべてを負わなければいけなくなり、相手との話がこじれると、自分で弁護士でも雇って、中に立ってもらわなければいけなくなる。そうなると、さらにお金もかかるし、時間もかかる。相手が後遺症が残ったり、死んでしまったりすると、その人の人生は終わったも同線だと言えるだろう。
「もし、あの時」
と思っても、すでに後の祭りである。
「ごめんで済んだら、警察はいらない」
という言葉もあるが、後から謝ってもどうにもならないのだ。
そんな状態を警察というものが助けてくれるはずもなく、
「かわいそうだ」
と思ってくれる人もいない。
何といっても、被害者ではなく加害者なのだから。
徒歩の人だって、同じことが言える。走行中、スマホを見ながら歩いていて、誰かに接触してその人がバランスを崩して歩道から車道にはみ出した時、運悪くそこに車が来ていればどうだろう? 基本的にスマホを見ていたことが事故を引き起こしたと言えるかどうかがカギなのだが、この場合は言い訳は一切できない。今はいろいろなところに防犯カメラが設置されているので、言い訳は一切きかない。
「スマホなんか見ていませんでした」
と証言したとしても、簡単に分かるウソである。
防犯カメラだけでなく、まわりの目だってあるのだ。
そんな見え透いた嘘をつくやつは、情状酌量も次第に薄れていく。
「被告には反省の色がなく、極めて悪質」
などと裁判官が判断すれば、下手をすれば殺人罪にもなりかねない。
真面目な話、その人の人生はそこで終わってしまうことになるだろう。
そういう意味での事故が発生した場合、歩行者や自転車は、そもそも被害者にしかならないという安直な考え方をしていることから、取り返しのつかないことに発展するのである。
発展すると言っても、結局はちょっとしたことから派生しただけのことで、冷静に考えてみれば、
「そんなこと、ちょっと考えれば分かる。当たり前のことだ」
と言えるのではないだろうか。
これを訊いて、まるで他人事のように考えている人も多いだろうが、これらのことは、誰にでも起こることだと考えておかないと、
「あの内容は自分への警鐘だったのだ」
と思ってみたところで、もうどうしようもない。
「誰も助けてはくれない」
ということを、普段から感じておかなければ、いざ事件が起こってからではどうしようもない。
世間というものは、ネットでいくらでも言いたいことが言える。相手を目の前にしていれば、気を遣って言えないことでも、罵詈雑言、いくらでもいえるのだ。
それだけ日頃のうっぷんを持っている人であれば、言葉も辛辣になるというものだ。
いわゆるSNS、ソーシャルネットワーキングサービスということらしいが、社会的ネットワークの構築ということである。
つまりは、今の時代、人を誹謗中傷しても、社会的に許される世界が広がっているということでもあるのだ。それがどれほど危険なものなのかということである。テレビドラマなどでも、SNSに対して、皮肉を込めた内容の作品が作られているのも、一つの社会現象であろう。
そういう意味では、姉のように記憶を失ってしまったというのは、世の中の嫌な部分を見なくていいという意味ではいいことなのかも知れないが、そもそも姉の方でそこまで分かっていて、記憶を格納しようとしていたのだとすれば、根拠のある記憶喪失なだけに、記憶を取り戻させるのが本当にいいことなのかという思いも働いて、自己嫌悪の引き金になってしまうのではないかと考える。
つかさがどうしてこれほど自転車を憎んでいるのはどうしてなのか? そういえば、どうしてなのか、自分でも不思議だった。
自転車に乗るのが今でも怖い。実際に練習をしていたという記憶はあるのだが、自転車をいかに運転していいのか、感覚がまったく分からない。
姉も自分も自転車に乗らない。
「そういえば、安藤さんも車には乗るけど、自転車には載らないと言っていたっけ」
というのを思い出した。
自転車に乗らないというだけで。これほど自転車に対して怒りを感じるものだろうか。まるで自分が歩道を歩いていて、ぶち当てられたみたいな怒りではないか。
「自転車に轢かれそうにでもなったのかな?」
と思って思い出そうとするが、そんな感覚はなかった。
自転車の練習をしていたのは、確か小学二年生の頃、姉が小学三年生の頃に自転車の練習をしていたが、急に途中で練習するのをやめていた。何でもできるまでやっていた姉にしては珍しかった。
「自転車なんて、誰でも乗れるようになるんだけどね」
と母が言っていたが、やはり姉はそれ以降も練習したが乗れるようにはならなかった。
つかさは、
「自分だけでも乗れるように」
と思っていた。
今までは姉の方が自分よりも優れていて、友達からも、
「お姉ちゃんは何でもできる」
と言われて羨ましがられたが、できるのは姉であって、自分ではない。
その思いが強いことで、つかさは、それが姉に対しての妬みであることを自覚していた。
「お姉ちゃんのようになりたい」
とは思っていた。
しかし、お姉ちゃんのようにというとことで線を引いてしまうと、姉以上にはなれないということを、小学生低学年の頃には理解していなかった。
いや、理解していなかったというよりも、まずが姉に追いつくことが先決で、それ以上になろうと思うと、努力するしかないということは分かっていたが、どうしても、姉を意識してしまうと、姉以上になれない気がして仕方がなかった。
自転車に乗っている人を見ていても、決して羨ましいとは思わなかった。中学生になると、友達が、
「サイクリングにいかない?」
と誘ってくれたが、つかさが苦虫を噛み潰したような顔をしていると、違う友達が、誘いかけた友達に耳打ちをすると、誘ってくれた友達は、申し訳なさそうに、
「ああ、ごめんなさい。もう誘わないわ」
と言って、申し訳なさそうに去って行った。
つかさが自転車に乗れないことを気の毒に思ったのだろう。つかさとすれば、そんなことはどうでもよかった。それよりも、変な気を遣われてしまったという方が少し気になってしまうことであり、
「いいのよ。気にしていないわ」
と言っていいものかどうか分からなかったので、何も言わなかった。
もし、自転車に乗れたとしても、行かなかったように思う。そもそも、集団でどこかに行くというのはあまり好きではなかった。中学時代まではである。
高校生になってからは、旅行など誘いがあれば、出かけるようになった。それだけに自転車は、本当に載れないという理由で断っていたかのように思われていたのだろう。
中学生時代には嫌だったかも知れないが。高校生になってからはあまり気にしなくなってきた。それだけ、高校に入ってから、まわりから誘いをたくさん受けるようになったということである。
だが、旅行に行く場所も気を付けなければいけない。場所によっては、レンタサイクルでの観光が主流のところもある。自分だけ自転車に乗れないからと言って、まわりの人を巻き込むわけにもいかない。自分からレンタサイクルのない観光地を探してくるようにするために、
「旅行先の候補は私が探して、情報も集めておくわ」
と言って、率先するようになった。
最初の頃は、それでもよかったが、そのうちにつかさの考えに気づいた人が、
「今度は私が探してくるわ」
と言って、探すようになると、つかさの居場所がなくなってしまい、そのうちに旅行はおろか、友達グループにも参加しなくなっていた。
――これはしょうがないわ――
と、つかさも諦めていた。
そして、つかさは友達の間から浮いたような存在になった。そんな時、救いの神だったのが、姉だった。
姉は大学生になっていたが、友達とはそれなりにうまくやっていた。自分から自転車には乗れないことを公表していたが、まわりに気を遣わせないテクニックを身につけていた。
それだけに、仲間も結構いて、旅行に誘われることも多く、そんな姉のことを皆が考慮して、レンタサイクルがありところでも借りないようにしていた。
そんな姉が、
「つかさもたまには旅行にでも行った方がいいわよ」
と言って誘ってくれた。
最初は、家族も、
「女の子二人だと危なくない?」
と言われたが、
「大丈夫、女子大生二人とかだと変な奴に引っかかるかも知れないけど、姉妹だったら、よほど、危ないエリアに入り込まないかぎり大丈夫」
と姉が言った。
それは、半分ハッタリであったが、姉の言葉には説得力があり、
「弥生がそこまで言うならね」
と、心配はしていたが、許してくれた。
それだけ姉は家族から信頼もされていたのだ。そんな姉が記憶を失ったのだから、両親のショックもそれだけ大きかったに違いない。
姉について旅行に行ったのは、何回あっただろう。つかさが大学生になってからも、姉と一緒に旅行していた。ただ、大学時代には友達も結構でき。一緒に旅行する人もいたりした。大学生になれば、別に自転車に乗れないくらい、気にするほどのことではないようだった。
「お姉ちゃんは、いっぱい旅行していると思うんだけど、どこが好きだった?」
と聞いたことがあった。
「うーん、いろいろ好きなところはあるけど、いきなり頭に浮かぶとすれば、萩かな?」
と言っていた。
「萩ってどこになるの?」
とつかさが訊くと、
「山口県よ。長門の国というところでね。江戸時代は長州藩があったところ。だから、維新の元勲と呼ばれる人たちが生まれたところと言えばいいかな? でも、私はそれだけじゃないのよ。萩が気に入っているのは」
という姉に対して、
「どうしてなの?」
「萩というところは、毛利家が関ヶ原の戦いで敗れていわゆる左遷されたところなんだけど、その毛利家の墓があったり、海岸線には、小さな火山があったりね。夏みかんが名物で、何といっても、道路のそばにある溝には、鯉が泳いでいるのよ。そんないろいろな場面を見せてくれる時代を超越した街という感じがお姉ちゃんはするのよね」
と姉は言っていた。
「そうなんだ。もっといろいろありそうね」
というと、
「お殿様がいたので、お城もあったのよね。それにあの街は、萩焼という焼き物の街でもあるの。何でもありという感じかしらね?」
と姉は教えてくれた。
「私も行ってみたいわ」
とつかさがいうと、
「今度、一緒に行ってみようかしらね?」
と言っていたが、何しろ山口県というと結構遠い。しかも、日本海側になるので、新幹線の駅からも結構離れている。移動するだけで一日がかりになってしまうというものだ。
「夏みかんって、何か懐かしさを感じるの。以前、どこかの空き地のようなところで夏みかんを見た気がしたの」
と言ったが、この意識は、まるでデジャブを感じさせた。
なぜなら、姉が入院しているサナトリウムの庭には、夏みかんの気が植わっていたのだ。
まだ食べるには時期尚早だということだったが、なっているのを見ると、行ったことがないはずの萩に行ったかのような気がしてくるのは、なぜなのだろうか?
姉も、表の夏みかんが気になるようで、いつも、その場所まで行って、手で触ってみている。最近では、鉛筆とスケッチブックで夏みかんの木をデッサンしていた。
「お姉ちゃん、あんなに絵がうまかったかな?」
と思うほどの技で、妹のつかさをビックリさせていた。
「夏みかんの木は、本当に素敵」
と姉は言っていた。
そういえば、姉は一人で萩に行ったことがあり、その時夏みかんの絵を描いたことがあると言っていた。その絵は姉の部屋に飾っているという話だったが、姉がいる間は姉の部屋には入ってはいけないということで、姉が高校生以降から入ったのは、記憶喪失になってから一度退院した時に介添えで部屋に入ったその一度キリだった。
その時は、まわりを気にする余裕はなかったが、第一印象とS手、
「だいぶ子供の頃に比べて部屋のイメージが変わった」
ということであった。
壁には何枚かの絵が飾られていた、それは意識していたが、ゆっくり見る暇があるはずもなく、姉の絵が飾られているのかどうかまで考えることはできなかった。
ただ、今思えば、あれは姉が自分で描いた絵だったのかも知れないと思う。根拠はないが、姉が部屋に自分以外の絵を飾るとは思えなかったからだ。自分も絵を描いているのだから、まずは自分の枝と思う。
いくらプロの絵だと言っても、
「人の絵を飾ってどうする?」
という考えのはずだと思うからだった。
その時に夏みかんもあったような気がするが、思い出せなかった。家に帰ってから見てみようと思う。
姉が絵を描いているシーンを以前に見たような気がした。どこでだったのか覚えていないが、一緒に旅行に出かけた時だったような気がする。
確か滝の絵を描いていたような気がする。
「滝の絵って難しいんじゃないの?」
と聞くと、
「うん、難しいわよ。これほど難しい絵はないわ。でも、それだけに言い訳ができるのよ。下手だとしても、下手鳴りにね」
と言って、笑っていた。
本心というよりも、意識して言っているという感じだった。
絵というと静止画のイメージが強いが、確かに動いている絵を描くのは難しいだろう。ただ実際に動いている絵を描いている人は、ほぼ動いている絵専門ではないかと思うのは、つかさの偏見であろうか。
だから、姉も描いている絵が、最初は静止画だったはずのものが、次第に動いている絵に趣向が変わってきたのではないかと思うようになってきた。
姉が、記憶喪失になる半年くらい前に旅行に行ったことがあった。
確かあの時は栃木県だったように聞いていたが、ひょっとすると、華厳の滝にでも行ったのではないかと思ったのだ。
何も姉の専門が滝だと限定しているわけではないが、今思い返してみると、確か姉の部屋にあった絵の中に、滝の絵もあったような気がした。
だが、先ほど、姉が絵を描いているシーンを見たと言ったが、それは実際に見たわけではなく、絵を描いているシーンを夢に見た記憶があったからだ。
どうして滝を描いているシーンを夢で見たのか考えてみると、それは姉の部屋で見たからではなかっただろうか。
ということであれば、その夢を見たのは、姉の部屋に入った時、つまり、姉の記憶が喪失してから後のことだということになる、
中学時代までは、何度も入っていた姉の部屋。あの頃は、
「広い部屋だな」
と思って羨ましく感じられたが、今になって思うと、錯覚だったのかも知れない。
姉の介添えで入った時、明らかに狭く感じた。元々が広く感じていたので、普通の人さだったとしても、狭く感じるものなのだろうが、圧迫感を感じさせるものだっただけに、余計に狭さが感じられたのだ。
それが絵のせいだったのではないかと思う。しかも滝の絵もあれば、その迫力に押されたと言ってもいいだろう。
圧迫というものがどういうものなのか、つかさの中で何ともいえない感覚が芽生えていた。
「絵というものを描いているとね。たえず、先々が見えてくるというのか、考える暇もないほどに筆が進むの。むしろ、考えてしまうと、思っていたような絵は描けない。だから、絵を描けるかどうかは、真っ白いキャンバスやスケッチブックを目の前にした時点で、すでに決まっている、いや、すべて終わっていると言ってもいいくらいなんじゃないかって思うのよ」
と姉が言っていた。
ここから先は、夢ではなく実際に聞いた話だったんだけど、姉に対して、滝の絵を描いているのかを訊いてみると、
「ええ、描いているわ。動くモノが最近気になるようになってね。でも、今は、大げさな動きのものがきになるわけではなく、微妙な動きだったり、小刻みな動きが気になるようになった毛や海などの波紋だったりね。海は波そのものなんだけど、池などは風によって起きる年輪のような波は、実に気になるものなのよ。そして、細菌気になっているのは、コーヒーを淹れたカップを上から見た時ね。コーヒーの微妙な色が私は好きなの。元々私はミルクは入れないので、本当のコーヒーの色を楽しむの。あの色は実は透き通った色であって、向こう側を見通せるんじゃないかと思うの。アイスコーヒーのようにグラスに入っていれば見えるんだろうけど、アイスコーヒーの豆はアイスコーヒー用で、少し濃いものなので、なかなか向こうが見通せないので残念な気がするんだけどね」
と言っていた。
記憶を失っていても、自分が自分で理解した内容は、そう簡単に忘れるものではないのだろう。
特に姉のように絵を描いているという人は、自分の世界を持っていて。その世界を開発するということは、きっと記憶の中でも忘れたくないものとして意識されているものだったのではないだろうか。
この間、散歩の時、いつもは缶コーヒーなのだが、
「喫茶店でコーヒーを飲みたい」
と姉が言ったので、喫茶店に寄ってみた。
散歩して汗を掻いている状態なので、つかさはアイスコーヒーを注文したが、姉は敢えてホットコーヒーにしていた。
そして、運ばれてきたコーヒーの表面をじっと見ている。まったく触ったというわけでもないのに、最初波紋はなかったが、姉が凝視していると、急に波紋が起こってきた気がした。
コーヒーカップのような小さな世界のものであれば、風の影響はほとんどないだろう。自分でスプーンを使ってかき混ぜたりしない限り、家紋は見えない気がした。
それなのに、何もしておらず、姉がじっと見つめているだけで波紋が広がって見えるのは何かの神通力であろうか。
しかし、じっと見ているのは姉だけではない、他ならぬ自分も一緒になって見ているのだ。一人では無理だが、少々違った意識の二人が診ることで、力は三人にも四人にもなってしまうような気がする。
「本当にすごいんだわ」
と、姉妹の力のすごさなのだろうと、つかさは思っていた。
姉のことを考えていると、喫茶店での時間があっという間だった。ただ、その頃からつかさは、
「一日があっという間に過ぎていく気がする」
と感じるようになっていた。
一日というのは、それまでは、一日のどこかで印象的な時間帯があれば、その時だけは時間の進みが遅いものだと思っていた。
しかし、姉が記憶喪失になった頃からくらいであろうか、一日一日、それぞれの時間に早さ遅さがまったく変わらず、一定のスピードで過ぎていると思うようになった。ただ、今日が普通に二十四時間くらいだと感じていたとして、翌日は二十時間くらいに感じるのか、三十時間くらいに感じるのかは、まったく予想がつかない。つまり一日単位で、感じる時間に差があるということだ。
しかも、一日の中の流れる時間は一定なので、つまりは、最初に感じた時間が、そのまま一日変わらないということになると言ってもいいだろう。
――何か姉が私に暗示を掛けたのではないか?
と感じるほどだった。
姉が記憶喪失になってから、つかさは今までの自分とは違ってきていることに気づいていた。それがどういう内容なのか、その時々でいつも新しい発見があるので、意識がついていけていないというのが本音だった。
つかさは、子供の頃から、
「私たちって本当に姉妹なのかしら?」
と感じていた。
姉はいつも冷静で年上というよりも、年下の男の子にモテていたようだった。
それを姉は、
「本当は年上からモテたいのに」
とずっと言っていたのだが、大学生になった頃くらいからだろうか、年下にモテるというのもまんざらでもないという感覚になってきたように感じられた。
それに比べてつかさの方は、年上からモテる女の子で、姉のように落ち着きがあるわけではなく、あざとさによってモテているという感じで、いかにも年上が好きになる女の子の典型という感じだった。
それは、つかさが、
「私には、こういうモテからしかできない」
と感じているからであって、それはつかさに限らず、ほとんどの女の子が感じていることではないかと思っていた。
男の子というのは、女の子のちょっとした甘える姿に萌えを感じるものであり、好きという感情を表しやすいのが、あざとさに対して、感じてしまった男性なのではないかと思っている。実際には違っているのではないかという思いの方が強いが、そう思うことで自分を正当化できるのであれば、それはそれでいいのではないかと思うのだった。
姉はつかさのようなあざとさはまったくない。だから、年上から意識されることはない。
「彼女はクールビューティだから、俺のような普通の男では太刀打ちできない」
と思われがちなのだろう。
一種の。
「高嶺の花」
とでもいうべきか。憧れとは別に、相手に対してコンプレックスを抱かせるタイプなのかも知れない。
しかし、以前つかさが付き合っていた男の子が言っていた。
「お前のお姉ちゃん、近づきがたいところがあるよな」
「というと?」
「だって、俺なんか相手にしてくれない雰囲気を醸し出しているじゃないか。俺だって近づきにくいし」
「私くらいでちょうどいいのよね」
「うん、どうだね。でも、おれが子供の頃だったら、お姉ちゃんのようなタイプ、憧れちゃうんだよな。お姉ちゃんが年下から慕われるというのも分かる気がする。でも、よく見ていると、お姉ちゃんは煩わしく思っているようだね。だったら、好かれない方がいいような気がするんだよ」
というような会話をしたのを覚えている。
男性というのは、子供の頃は背伸びしたいと思うのか、姉のような女性に対して、免疫もないので、怖いという感覚はないのだろう。
ということはあの時彼は、
「お前のお姉ちゃんはちょっと怖い」
とでも言いたかったのかも知れない。
そんなことを感じていると、つかさは自分が好きな男性へのイメージも少し狂っていく気がした。
つかさは、ふと別のことをまたしても頭に描いていた。
「姉は、ひょっとすると、今は自転車に乗れるようになったのかも知れない」
という思いだった。
「記憶喪失になると、いつも何かに怯えている自分を解放させたいという思いが原因であることもあるので、それまで不安に感じていたようなことを感じなくなるのかも知れないね。怖いもの知らずというか、そういうところがあるので、気を付けないといけない」
と教授が言っていた。
「じゃあ、何か危険なことをしてしまうかも知れないと?」
と聞くと、
「そこまではないと思うんですよね。危険を察知したり、自分にとって何が危険なことなのかは本能が覚えているからね。でも、それまで自分の気持ちを解放したくてもできなかった部分を解放させようとする気持ちは大いにあると思うの、だから、それが解放されたことで、本当にお姉さんが考えていたような世界が広がるとは限らない。それを感じた時のお姉さんがどのようなリアクションを起こすか、それが怖い気はするんだよね」
と教授が言った。
「なかなか、難しいわね」
とつかさは言ったが、何を難しいと思ったのだろう?
博士の話自体が難しいと思ったのだろうか? それよりも、不安に感じていることというのは姉に限らず自分にもあり、誰にでもあるものではないかとさえ感じている。解放することで、まわりを巻き込むことを恐れているというのが、一番不安に感じていることなのではないか。この考えは、
「堂々巡りを繰り返しているかのように思う」
という考えが頭の中にあった。
記憶喪失になってからは、正直会話をするのが怖い。相手が何を考えているのか分からないという思いから、余計なことを言って、思い出せるはずの記憶を思い出すことができなくなるのを恐れているからだ。
「姉の方では私のことを恐怖に思っているのだろうか?」
と考えたが、恐怖ということではないようだ。
たまに暗い顔になるが、基本は天津爛漫に笑っている
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