第5話 コーヒーへの思い

 刑事はそのまま、ほとんど情報らしいものを得られることはなく帰って行った。袴田教授も別に意識することなく、普通に研究を続けている。変に意識しているのは、安藤だけだった。

 教授がまったく気にしていないにも関わらず、助手の安藤がどうしてそこまで気にするのか、分からなかったが、安藤はどうしても弥生とつかさの姉妹が気になって仕方がないのだ。

「あの二人には何か懐かしい思いがある」

 と思うと、安藤は急に頭痛に見舞われるのを感じた。

 どうしてなのか、過去のことを思い出そうとすると、急に頭痛がしてくるのである。

 それを教授にいうと、

「疲れているんだよ。君は私の研究でも記憶喪失に関しては関わらない方がいい、鬱病関係の方を君に任せたいくらいなんだ」

 と言われたことがあった。

 安藤は、

「教授は僕のことを思って、そう言ってくれているんだ」

 ということを信じて疑わなかった。

 一度、

「どうして、僕はこんなによく頭痛を起こすんでしょうね。一度脳の検査をしてもらった方がいいんでしょうか?」

 と聞くと、

「そうだね、君がそれで納得するのであれば、してもらえばいいと思うよ」

 と、突き放すような言い方をされて、さらに何とも言えない寂しそうな表情をされてしまっては、何も言えなくなってしまう自分がいるのに気が付いた。

「教授がそこまでいうのでは」

 と思うと、気にすること自体が悪いことのように思うのだった。

 安藤は鬱病に関して、結構勉強していた。勉強しながら、自分独自の考え方を持つようになったのだが、それは記憶に関しては思い出せないことが多いが、鬱状態に陥った自分を思い出すことができるからだった。

 ただ、それは鬱状態だけではなく、躁状態も伴う、

「躁鬱症」

 というものであることを自覚していた。

 鬱が先なのか躁状態が先なのかは、

「ニワトリが先かタマゴが先か」

 という理論と同じで、深く考えてもそこは結論が出ないのは分かっていた。

 要するに、何事かを考える時というのは、結論を求めるのではなく、考えて自分の中で結論ができなくても、納得できるのであれば、結論が決まらなくてもいいのではないかと思うようになった。

 ただ、躁鬱症を考える時、最初に考えるのは、まず躁状態から鬱に陥る時のイメージが浮かぶのであった。なぜなら、

「鬱に入るという漠然とした予感があるが、具体的にいつ入るかという意識はないが、逆に鬱状態から躁状態に移行する時は、漠然とした予感がない分、今から鬱を抜けるという感覚がある」

 と考えるのであった。

 鬱状態から躁状態に抜ける時は、まるでトンネルの中の暗黒から抜ける感覚である。つまり、表の明かりが漏れてくると、その瞬間、

「鬱から向ける」

 という意識が生まれるのであった。

 トンネルは、黄色いハロゲンランプに見られるような、光景の中、モノクロームな映像が不気味さを醸し出し、それだけに印象が深く残ってしまう。そういう意味で、躁状態に抜けたことで、トンネル内の記憶が少しだけ薄れたような気がするという程度に抑えられているのかも知れない。

 鬱状態では、モノクロームなはずなのに、なぜか信号だけは色を感じるようだ。それも原色に近く感じるのであって、信号の青は、緑ではなく、真っ青に見える、赤は眩しいわけではないのに、真っ赤な色が眩しい時と変わらないくらいにハッキリと見えているのである。

 それを、

「まるで血の色のようだ」

 と思い、鉄分を含んだ臭いを感じさせるのは、なぜなのであろう?

 鬱状態というのは、決して躁状態の逆ではないということは、同じ青が緑と真っ青の違い程度のものではないかと思うのであった。

 鬱状態に陥った時には、まるで黄砂が吹いた時のような、全体的に黄色い空気に見えることがある、黄色い空気を見ると、臭いもともなっているようで、色が黄色というと、異臭がひどい者であることは想像がつくようだった。

 黄色い塵が散っている感覚は、身体がだるい時の夕方の感覚があった。それも夏の時のだるさであり、睡魔が襲ってくる感覚があることから、鬱状態に陥っている時は、眠りにつく前が一番幸せだった。その分、目が覚めた時が一番つらい感覚で、夢を覚えておらず、現実に引き戻されたことで、辛さを感じるのだから、それだけ夢が楽しいものだったという意識を持つのではないだろうか。

 しかも鬱状態の時は、何をやっていても、少しも楽しくはなく、今が悪い方にいるにも関わらず、さらに悪い方に考えてしまっている自分を不思議に思うのであった。

 ただ、鬱状態の時は、いつも眠たいと思っているような気がする。しかし、眠いと思っていても眠れるかどうかというのは別のものであり、眠れないことを苛立ちに感じているはずなのに、苛立たないというのは、それだけ、感覚がマヒしているのではないかと思うのだった。

 鬱状態というのは、毎日毎日は果てしなく長い気がして、一日が終わらない感覚にある。それは夕方がずっと続いているような気がするからで、夜になると、時間があっという間に過ぎてしまうとすれば、時間の辻褄が合うのかも知れないが、日が暮れると、

「ここから先が本番だ」

 と思うのかも知れない。

 どうして夜になると、本番だと思うのかというと、信号機の青がさらに真っ青に感じられ、赤が真っ赤に感じるという状態が、さらに進化するからである。普段でも、夜は昼に比べて、原色に違づく習性にあるからだった。

 その習性は鬱状態での方が大きく、鬱状態から脱する時に、一度、真っ赤と真っ青を感じることで、見えてくるのが、躁状態への出口のような気がする。

 黄色い色が、身体のだるさを誘発し、鬱状態に陥った時、モノクロームになるので、色を感じるようになることが、鬱状態の出口なのだろう。

 そして実際に躁状態に入ると、今度はあ、色が曖昧に感じられる、

 信号の青が緑に見えて、真っ赤ではなく、朱色という感じで、朱肉の色というと一番分かりやすいような気がする。

 躁状態になると、今度は一日があっという間ではあるが、週単位、月単位になると、結構時間が掛かっているような気がするのだが、そう思っていると、躁状態から鬱状態に入り込む漠然とした感覚に陥ると、それまでの時間が長かったはずなのに、鬱状態から抜けた時のことを、まるで昨日のことのように思い出すのだった。

 その感覚は安藤だけが感じているものであったが、他の人には誰も感じることではないと思っていた。

 自分だけだと思うことは結構あって、それ以外の人は何を考えているのかが分からない気がしていた。

 時間の感覚に関しては区切った感覚によって、まったく違うのは、鬱であっても躁状態であっても同じであったが、よく考えれば正反対なのだった。ただ、それは安藤だけが感じているものなので他の人がどうなのか分からなかった。

 安藤は、研究する時に、袴田教授にいちいち意見を聞いていたが、

「うんうん、なかなかいい発想をしているよ」

 と言って褒めてくれているが、ここまで褒められると、それは教授の童貞内のことなのであろうと思えてならなかった。

 いい意味でも悪い意味でも教授の想定外であれば、きっと教授は自分の中で危機感を感じるからなのからか、嫉妬心からなのか、噛みつかれそうな感覚に陥るのであった。

 安藤氏にとって、教授の反応は、絶えず気に掛けなければいけないことだった。それは助手としてというよりも、今後の研究員のタマゴという意識があるからなのかも知れない。

 安藤は、今気になっているのは、記憶喪失の弥生だったのだが、弥生は記憶喪失なので、躁鬱を研究している安藤とは違うものだった。

 だが、弥生に付き添っている妹のつかさを見た時、

―ーこの子の方が、躁鬱を感じさせる――

 と思ったのだ。

 記憶喪失の人に、躁鬱がないとは言い切れないが、それは過去の忘れてしまった記憶なだけで、記憶と違ったところで、感情としての躁鬱は存在しているだろうから、記憶のない人にも躁鬱症は存在するのではないかと思えたのだ。

 躁鬱と記憶喪失、一見まったく関係のないもののように思えたが、教授はそうは思っていないようだ・

「関連性はないが、関係がないわけではない」

 という思いが、教授の中にはあった。

 教授にとって、研究はいろいろな発想が結び付いているものであった。

 記憶喪失は患っていると言っていいものかどうか、ハッキリとしない。無意識の中で意識的に忘れようとしている場合、それを病気の一種とするのだとすれば、別の要因の病気だと言えるだろう。

 記憶を失うということは、自分にとってどういうことを示しているのだろうか?

 都合の悪いことを忘れてしまいたいとは思わないだろうが、ショックなことであったり、辛い思い出は忘れてしまおうとするだろう。そういうショックなこと辛い思い出が、都合の悪いことと結びついていれば、

「ショックなことは忘れているとしても、都合の悪いことは覚えているという中途半端なことになる。都合が悪くなった理由が、そのショックなことであるとすれば、この記憶は中途半端になっていることだる。

「どうして、都合が悪いことが発生したのか?」

 ということが分かっていないのに、別のことで記憶がないのである。

 つまり、

「記憶のない部分は、この都合の悪い理由に原因が隠されているのではないかと、記憶を失った理由の検討がつくというものだが、都合の悪いことも一緒に忘れてしまっていれば、思い出すきっかけもないことになる」

 という考えである。

 教授とすれば、記憶喪失を戻すきっかけとしてはそういう本人の中でどこか理由も分からずに疑問の思っていることがないかどうかを引き出すことに、記憶を呼び起こすカギがあるのではないかと思っていた。

 そのことをまだ安藤は分かっていない。だから、教授に記憶喪失に関しての研究を任せることはできないと思われているのであろう。

 ただ、この考え方は教授独自のものであって、他の人はまた違った研究をしているかも知れない。

 記憶を取り戻すきっかけというのは一つではない。基本的には記憶を失うために陥った地盤沈下のようなものをいかにして見つけるかということが記憶喪失を解決するカギである。

 ただ、記憶喪失になっている人の記憶を取り戻させることが、本当に本人のためなのか、あるいは、家族やまわりのためなのか、それがハッキリしていない以上は、下手に動くことはできない。何しろ、

「思い出したくないから。記憶喪失になったわけで、そういうトラウマを刺激することによって、本人に、思い出さなければよかったと思わせることだって、十分に感じられることではないだろうか?」

 と考えられるのだ。

 教授のように、都合の悪いことと、ショックな記憶との意識のギャップがあるのであれば、それを見つけることで、幾分かの思い出していいものかどうかという意識は繋がるというものである。

 弥生の場合の記憶喪失にも、二段階はありそうだった。ショックなことがあるのは分かっているが、もう一つは都合の悪いことのように、記憶として残っていることであればいいのだが、今のところそこまで分かっているわけではなかった。

 そういう意味で、まだ催眠療法に踏み込むにはリスクが高すぎる。催眠療法は、差別なく相手の心に切り込むことなので、こちらの催眠が中途半端になってしまうと、相手に考える余地を与えてしまい、せっかく浮いている部分が意識的に相手に分からないようにしようという本人の意識が働いてしまうと、せっかく見えていたものまで見えなくなってしまうのではないだろうか。

 それを感じると。催眠い対して。本人がどの意識を持つかが問題になってくる。

 これは本人にしか分からないことであろうが、催眠術を掛けている時、相手は催眠術にかかっているという意識があるのではないかと思うのだ。

 その意識がどこで形成されるのかというと、

「消えてしまった記憶を格納している部分」

 があるではないか。

 もっとも見落としがちなまだほとんど何も入っていない状態の場所。そこを使うことで、最近術にかかっている人には催眠術にかかっていることを意識させるのかも知れない。

 しかし、人によっては、どんなに記憶をうしなったとしても、記憶領域を自由自在に伸縮できるという人がいれば、情報量は少なくとも、受け入れる器が最初から小さくなっているのであれば、

「私は催眠術にかかっている」

 などという発想はなく、夢にも思わないことだろう。

 それだけ催眠療法というのは、相手にうまく悟られてしまうと、却って欺かれることがある、最近術に掛けているつもりで、トラップに引っかかっているとすれば、それはそれで厄介なことではないだろうか。

 教授の考え方に、まだ少し追いつけていない安藤だったが、安藤にも記憶喪失に対して、何らかの意識があった。

 それは、記憶を失うという経験を他人ごとだとは思えないことだった。

 だが、その思いがあるからと言って、本当に記憶を失っている人の気持ちが分かるかというとそうではない。どちらかというと、

「分かるであろう気持ちを放棄したかのような感覚だ」

 というものであった。

 最近の安藤は、

「死んだ人というのは、肉体は滅んでも魂は消えないというが、じゃあ、記憶はどうなるのだろうか?」

 という、おかしな妄想に捉われるようになっていた。

 そもそも、死んだ人が魂だけが残るという考えも、宗教的な発想として、別に科学的な根拠も何もあるわけではない。それも分かっているのだが、敢えて、魂は残るものだということを証明したいという発想を逆手に取り、記憶が残るという概念から、魂の存在を証明しようと考えた。

 つまり、輪廻転生の考え方から、前世の記憶を持ったまま、人間が生まれ変わるという感覚でいることだった。

 ここまで来ると、科学的な発想がついていくわけではないが、これが証明されると、そこからは、科学的に証明されるわけではなく、科学によって裏付けられるということになる。科学というのは証明するために存在するわけではなく、裏付けのためにも存在しているのだという分かり切っていることを、再度考え直すにはいい機会ではないかと思うのだった。

 安藤がそんなことを考えているのを、教授は少し恐ろしい考えだと思ったのか、安藤に催眠療法や記憶喪失の研究に携わらせない理由がそこにあるようだった。

 確かに安藤の考えていることは、袴田教授の考えていることに似ている。だが、その考えを踏襲してしまうには、今の安藤では、心細い気がする。これだけの発想を研究しようと思うと、どれだけの研究経験と、さらに情報とが必要であるかということを、袴田教授は分かっているのだ。

 要するに、

「安藤君にはまだ早い」

 という発想である。

 安藤にとって、とりあえず、今は袴田教授の下で研究の経験と、知識を得ることが必要だった。そういう意味で、今回近くで殺害された人があったというのを訊いた時、無表情を装っていたが、袴田教授と安藤助手とで、それぞれの思惑の元、心の中で驚いていたことは間違いない。

 安藤氏は、死体が見つかったということで、今まで抑えられていた自分の発想が表に出るきっかけになるかも知れないと思った。

「死体が見つかったというのは、偶然ではなく、神様が自分に、魂と記憶の関係を研究させようと考えているのかも知れない」

 という、ワクワクした意味での衝撃を与えたと言ってもいいだろう。

 だが、袴田教授の方とすれば、

「安藤君を今まで自分で抑えつけていたため、その感情を抑えきれなくなった彼が、自らに手を下したのかも知れない」

 と思ったのだ。

 安藤氏はあくまでも自分自身だけのことで精いっぱいだったが、教授は、恐れていたことが起こってしまったという意識が感じられたのだ。

 その二人のそれぞれ違った驚きを必死に隠そうとしている様子を、刑事は刑事としての勘として、

「あの二人、何かを隠しているんじゃないだろうか?」

 と感じていたようだ。

 しかし、その思いはあくまでも勝手な発想であり、二人が一つのことを隠そうとして、その立場の違いから、

「違ったアクションになっているのではないか?」

 と思っていたのであった。

 安藤氏と袴田教授、そして捜査にやってきた刑事と、三人が三人、お互いにけん制し合っているかのように見えて、他人が見ると、

「どこか、三すくみのように見える」

 ということで、別の意味で、それぞれに抑制が掛かっていたのかも知れないと感じることだろう。

 だが、実際には三すくみだったわけではなく、あまりにも三人とも発想が違いすぎて、すれ違ったことすら分からないようになっていたようだ。

 つかさはその日も姉の見舞いにやってきていた。いつものように今日も散歩をさせていた。しかし、姉の様子は少しいつもと違っていた。そのことを看護婦も分かっているようで、今日はいつもは二人きりにしてくれる看護婦も、

「少しいつもと様子が違うようなので、それが気になるから」

 ということで、一緒についてきてくれることになった。

 確かにどこかいつもと違うようだった。一つ気になったのが、手首から先に力が入らないのか、何かを持とうとすると、腕が痛いのか、手首の部分を抑えて、引きつった顔になっていた

「どうしたんですか? 弥生さん」

 と、看護婦が話しかけても、しかめた顔を戻すことはなかった、

 再入院してから数日が経ち、以前の看護婦が付き添ってくれているので、姉は今では看護婦にだけは従順だった。元ともまわりの人には従順な、

「見た目いい子」

 だった姉の片鱗が見えているようだった。

 そんなお姉さんだったので、看護婦の方も、ちょっとした違いがあれば分かるようで、

「今日は明らかにいつもと違うんですよ」

 と言っているくらいなので、妹のつかさが気にならないわけもなかった。

 だから、散布に看護婦も同行してくれるというのを断るわけもなく、ありがたく承知したのだ。

「何か危ないような雰囲気はあるんですか?」

 と聞くと、

「それはありませんが、どうも手首から先がかなり痛いようで、筋肉痛か何かではないかと思うのですが、その理由が私には見当もつきません」

 というのだった。

「ねえ、弥生さん。まだ手首は痛いですか?」

 と聞くと、姉は手首から先を振り回すと、やはり痛そうな顔になった。

 それが姉の答えだった。

「ああ、いいですよ。もう」

 と、看護婦が答えると、姉もそれ以上のことをやめた。

 この様子を見ている限り、以前の姉の性格や行動パターンの片鱗が見えているようで、つかさは一抹の不安が取れた気がしたが、なぜ手首が痛いのか、自分でも理由が分かっていないだけに、つかさは気になっていた。

 つかさが見舞いに来てからは、少し姉に話しかける形の行動をとった後散歩に出かけるのだが、今日は少し様子が違っているということで、あらたまって話をするよりも、散歩がてら話しかける方がいいと思い、まず散歩に出かけることにした。

 いつもは昼からくらいだったが、この日は昼前である。いつもは眩しくない場所が眩しかったり、普段は食事の後なので、少し眠くなるような心地よさだったりしたが、どうもそのあたりの違いは、姉が一番感じているようで、どう表現していいのか分からないので何も言わないが、その様子を見ていると、何か言いたそうでもどかしさが感じられた。

 そのもどかしさは、つかさや看護婦の側にもあるようで、二人の方とすれば、

「もどかしく感じるくらいであれば、何でもいいから話してほしいんだけどな」

 という思いがあったのだ。

 何かを話してくれれば、気持ちの奥底まで分からなくても、こちらとしては分かろうと努力することで、見えなかったものが見えてくる気がする。どのように接すればいいかもわかってくるはずだから……と、感じているのではないだろうか。

 そう思うと、つかさには、姉に対して、もうすでに初期段階は過ぎているような気がしているので、毎回同じように様子見でいいのか? という疑念があったのだ。それは看護婦側にも当然あることで、ひいては、袴田教授にもあることだろうと思っていた。

 散歩に出かける中で、その日の弥生は普段との違いを最初から感じていたからか、車いすに移動するだけで、少し時間が掛かった。

 自分で動くことはできるが、たまにフラフラすることがあるので、万一を考えて、看護婦が介添えしながら、車いすに乗せていた。

 これも、本来であれば、車いすに乗せる必然性はなかった。前に入院していた時、頭を殴られたことからくる身体への影響はなくなったことで、散歩に出る時、車いすなしで出かけたことがあったが、最初だけが無事だっただけで、途中から座り込んで動けなくなった。

「歩けない」

 と一言言って、座り込んでしまい、動けなくなってしまった。

 すぐに車いすを持ってきて、姉を座らせると、その後の散歩は、それまでと変わらずのものとなったのだ。

「大丈夫です。車いすがあれば、散歩はできるようです」

 ということで、それからも車いすが必須になったのだが、却って意識として、散歩と車いすは切っても切り離せない包帯になっていた。

「好転してくれば、車いすも自然といらなくなるから、心配する必要はないよ」

 と教授が言っていたので。今のところ、車いすを離すという発想はなったのだ。

 すっかり車いすに慣れた姉は、今ではほしいものがあれば、病院内であれば、一人で行動できるようだった。

 自動販売機でジュースを買ったり、売店に行くくらいのことは問題なかったのだ。

 サナトリウムのような場所で、精神疾患の患者が多い病棟で、音手には鉄格子が張ってあるような病院なのに、施設的には普通の病院と変わりない。精神疾患の患者は、軽症者であっても、重症者であっても、普段は一件普通の人と変わりはない。たまに絹を引き裂くような悲鳴のが聞こえてきて、さながら、

「き〇がい病院」

 と感じさせるようになるのは、しょうがない場所であった。

 医療従事者の方も、それなりの覚悟を持っていないと、自分自身もおかしくなりそうな場所でもあった。精神的に弱い人間には務まらない。患者が患っている病気をそのままもらってしまうかも知れないという危険性もあるのだ。

 サナトリウムというところは、元々そういうところである。結核などの伝染病研究であり、過去であれば、決して治ることのない人を収容しているところであった。今のこの場所は、絶対に治らないというわけではないが、治らない可能性のある人も何人かが入っている場所であり、医者であっても、完全に治すことが不可能な患者も数名いたりする。どれだけ患者の自己治癒が望めるかということである。

 下手をすれば、自己治癒に期待することもできない人もいる。重度の記憶喪失であったり、鬱病であったり、さらには精神分裂症であったり、それらの人は、なかなか自己治癒は難しいであろう。

 そんなことは分かっているので、介護や看護する方にとっても、精神的にかなり強い部分を持っていないと、耐えていけない部分もあることであろう、

 一緒に散歩するという普通の人では、

「ただの気分転換」

 というだけで終わることが、ここの人にとっては、重要な一日の中のルーティーンになっていることであろう。

「お姉さんは、散歩が好きなようなので、私もそのあたりは安心なんですよ」

 と看護婦は言っていた。

「それはよかった。こんな風になる前の姉も散歩は日課だったんですよ。私を誘ってよく散歩したりしたものです。あれは、姉が高校生、私が中学生だった頃、今から思えば懐かしいですわ」

 とつかさは、そういった。

 確かに中学時代は、姉と一緒に散歩するのが好きだった。

 夜遅くなってというのは危ないので、お互いに学校から帰ってきてから、少しして、姉が誘いにくるのだった。

「つかさ、散歩行くわよ」

 と言って、屈託のない笑顔を示す姉に、

「ええ、ちょっと待ってね」

 と、本当はすでに用意はできていたのだが、わざと少し時間を作るようにするのも、つかさのやり方だった。

 と言っても、そこに何かの曰くがあるわけではなく、ちょっと間を置くというのが、姉といつもベッタリの自分にとって、少し距離を置く代わりのワンクッションだと思っていたのだ。その妹の心境を姉は知っていたのかどうか分からないが、結局何も言わないのだった。

「お待たせしました」

 と言って、ラフな格好になると、姉もその姿を一目見て、

「うんうん」

 と頷いて、一緒に表に出た。

 コースは決まっていて、途中、公園に立ち寄るが、その前に自動販売機でジュースを買っていく。姉はコーヒーだが、つかさはオレンジジュースだった。

「コーヒーとかよく飲めるわね」

 と姉に聞くと、

「つかさも、そのうちに飲めるようになるわよ」

 と言っていた。

「そう? 私はそんな気はしないんだけど?」

 というと、

「sおれは今だけのことよ」

 と言って、笑っていた。

 だが、確かに姉の言う通り、大学生になってから飲めるようになった。先輩に喫茶店に誘われ、先輩がコーヒーを注文すると、自分もコーヒーを飲まないわけにもいかない。そのうちに、コーヒーがいつの間にか好きになっていたのだった。

 大学生になると毎日のように飲み始めるようになったコーヒーだが、中学時代には飲めなかった。

「コーヒーって大人の飲む飲み物」

 ということで、ビールと同じ括りで見ていたのだ。

 確かにビールは年齢制限があるので、明らかに大人の飲み物だが、コーヒーの場合は、子供の頃に親からだったと思うが、大人から、

「コーヒーは子供が飲み物じゃありません」

 と言われたものだった。

 その理由がその頃にも分からなかったし、中学時代にも分からなかった。だが、大学生になって飲めるようになってから分かったことは、

「コーヒーは呑み始めると、毎日でも飲まなければ気が済まなくなってしまうから」

 ということであった。

 だからこそ、大人は子供の頃から飲むものではないということが言いたかったのであろう。もし、自分が大学生になって毎日飲むようになっていると、中学生の自分に対して、

「まだ、コーヒーは早い」

 という言い方をしただろう。

 大人の飲み物という言い方の方が、言い方としては柔らかいのだろうが、つかさとしては理由を知りたいという意味では、少々きつめの、

「あなたにはまだ早い」

 という言い方をされた方がいいと思うのではないだろうか。

 それを思うと、高校時代の姉がどうして、自分にコーヒーを飲むように勧めていたのかということが分からない。

 姉が自分と違った感性を持っているからなのか、それとも、あくまでも妹であっても、別の発想を持っていて、それを認めようとしているのではないか、もっと他にも……、と考えるのであった。

 つかさにとって姉が自分のことをどのように考えていたのかということを思い返してみるのは、きっと今だけのことであるとは思っていた。

 姉がどうして記憶喪失になったのかは分からないが、つかさにとって姉を正面から見てみたいと思える唯一の機会なのではないかと思うようになっていた。

 それは、自分が姉に寄り添っていることの理由として、自分に言い聞かせている理由付けだと思っていたのだ。

「つかささんは、お姉さんを見ていて、どこかが変わったように見える?」

 と看護婦さんに聞かれたが、

「私は一度家に戻ってからの姉も知っているので、ずっと見ているだけに却って分からない部分の方が多いのよ。そういう意味では看護婦さんの方が途中抜けているだけに、どう感じているのかを訊いてみたいわ」

 というと、

「私は、その抜けている間も、ずっと何も変わっていないかのように思えるほどなの。戻ってきた時、まるで昨日までここにいたかのような錯覚を覚えたわ。それが今の質問の答えというところかしら?」

 と看護婦は言った。

 その言葉で、何が言いたいのか分かった気がする。だが、姉が家に帰ってきた時は、少し変わっていた。そのことは自覚していただけに、看護婦さんにそのことを言おうかどうか迷ってしまった。本来であればいうべきなのだろうが、つかさは躊躇した挙句、そのことをいうことをやめたのだった。

 そんなことを思い出しながら散歩していると、姉が、

「喉が渇いたわね」

 と言って、ベンチの近くん座り、缶コーヒーを開けて、飲み始めた。

 実に美味しそうに飲むのを見ていると、つかさも同じように買ってきた缶コーヒーを開けて飲み始めたのだが、何か美味しいという気分ではなかった。

 缶コーヒーは、実際にお店で飲むコーヒーに比べれば劣るのは当然だが、嫌いではなかった。それなのに、その時は実に苦いと思ったのだ。

――こんなに苦かったかしら?

 と思ったが、姉は構わずおいしそうに飲んでいる。

 最初の二口目くらいまではおいしかったと思ったが、それ以降は飲む気がしなかった。顔もまずいというのを隠す気もなく、さぞや苦そうな顔をしていたことだろう。

 姉はそんな妹のことを意識することなく、ぐいぐいと飲んでいた。

 あねがあまりにもおいしそうに飲むので、妹のつかさもつられるように飲んでみた。すると、最初こそ苦くておいしさが分からなかったが、次第に苦さを感じなくなってきた。

 今までであれば苦さを感じなくなると、味に対して感覚がマヒしてきたのだと思い、ただのお湯を飲んでいるというくらいにしか感じなかった。それなのに、今回は苦さだけが取れて、コーヒーの味は残っていた。しかも、まろやかさを含んだ味なので、コーヒーの後味がそのまま最初の味になっている気がした。

 つかさはコーヒーの苦みは嫌いで、後口に残ったまろやかさと、コルクのような香ばしさが好きだったのだ。

 もちろん、コルクが食べられるわけではないが、ワインなどを呑む時、コルクの味が残っているような気がしていて、それがまろやかさを運んでくるようで好きだったのだ。

 昔、コーヒールンバという歌が流行ったと聞いて、歌詞を調べてみたことがあったが。確か不思議なムードで男は若い娘に恋をしたというところがあったような気がした。子供の頃だったが、

「女が若い男に恋をしてはいけないのか?」

 と思ったものだった。

 だが、どうせなら好かれたいと思うのも女心というものだろう。

 いや、そうではなく。男であれば、女性から好かれたいという思いを抱くことは多いだろうが、女性の方とすれば、好かれるよりも自分が好きになる方が大切だと思うのではないかと思った。

 それは女性に限ったことではない。男性でも同じこと。

「好かれるよりも好きになれる相手が目の前に現れてほしいと思う方が強いのかも知れない」

 と感じた。

 そういう意味で、コーヒールンバという曲の歌詞は正解なのかも知れない。そんな風に思っていると、コーヒーが飲みたくなることがあった。大学生の頃までは、自分からコーヒーを飲むということはなかった。誰かに誘われて飲むか、待ち合わせの時間に飲むことはあっても、自分から敢えてコーヒーを飲みたいと思うことはなかった。

 姉と一緒に呑むコーヒーがこんなにおいしいものだったとは思わなかった。学生時代の友達や先輩との間では、気持ちに余裕がある時でないと、飲まないのだろうと思っていただけに、今のように、就職もできず、中途半端で、姉の記憶も戻らないような状態で、精神的に余裕などあるはずもないと思うのだった。

 姉とコーヒーを飲んでいると、なぜかつかさの方の記憶がよみがえってくるのを感じた。それは大学二年生の頃のことで、あれは冬だっただろうか。

「この人いいな」

 と思える人がいて、その人と一緒に大学の近くの喫茶店に入った時のことだった。

 一緒に入った時、店内はコーヒーの香りで充満していた。充満した香りは木造のまるでバンガローのような建築形式の壁に吸い込まれるようで、そのまま湿気がコーヒーの香りを室内に充満させる効果があったのだ。

 その時はコーヒーの香りに酔っていたような気がした。暖かさが充満した中でのコーヒーの香りは、運ばれてきた注文したコーヒーの味をまろやかにするものだった。苦いとは感じないその味に、まるやかさだけが残こることもあるのだと、その時初めて感じたのだった。

 マンションに住んでいる友達のところに行って、コーヒーを淹れてもらった時も、部屋の中に湿気が充満していた。

「この時期になると結露が激しくてね。出窓のところにカーテンをあつらえていたんだけど、すぐにドロドロになっちゃって、本当に困ったものよ」

 と言っていたっけ。

 カーテンを洗濯したのが、出窓のところの木造の部分が水分を吸ってしまったようで、どうしようもなくなっていた。もう、出窓のところに何かを置くということはできなくなってしまったようだ。

 それを思い出してみたが、その喫茶店にも出窓があって、以前マスターに、

「出窓って、湿気た時大変でしょう?」

 と聞くと、

「ええ、だから何も置かないようにしているんです。出窓を作ったのは、正直失敗だったと思っているんだ」

 と言っていた。

 その時、つかさはいいと思っている男性から告白された。本当は嫌なわけではなかったが、なぜか返事を待ってもらった。いきなりだったというのもあるが、

―ーひょっとすると、コーヒーの香りが彼の神経を誘発したのかな?

 と感じた。

 コーヒーというのは、眠気を覚ます効果があるというが、つかさにはその感覚はなかった。確かに気が高ぶっている時にこーひを飲むと眠れなくなる気がするが、コーヒーを飲んだからと言って、睡魔が襲ってこないというわけでもない。

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