第4話 ある男の死
一人の男が殺された。場所はK大学サナトリウムからほど近い、銀杏並木の入り口になっているところである。バス停から少し行って、その角を曲がると小さいながらも長さとしては結構長い銀杏並木が続いていた。その銀杏が生えそろっている奥には臓器伊林があり、そこには、昔から誰も立ち入らない場所があったのだ。
そんな場所で犬の散歩をさせる老人も結構いて、その日はそのうちの一人がイヌの異常な鳴き声に気が付き雑木林に近づいてみると、そこには一人の男性が首を絞められて放置されていた。
老人は一瞬腰を抜かしそうになったが、すぐに気を取り戻して、警察に連絡した。時間的には朝の散歩の時間なので、まだ七時前くらいで、人通りもほとんどなかった。
少しして警察がやってきて、騒々しくも現場検証が行われた。現状はどう見ても他殺であり、首には凶器と思える手ぬぐいのようなものが巻きつけられている。取り調べの刑事が鑑識官と話をしていたが、
「死亡推定時刻はどれくらいですか?」
と訊かれて、
「昨夜遅くだと思います。日付が変わるか変わらないかくらいですかね?」
「殺害現場はここなんでしょうか?」
と聞かれた鑑識官は、
「何とも言えないですね。争った跡も表ですから、なかなか残っていても判別しにくいですからね。これが刺殺であれば、血液の量とかで判断もできるんですが、この状態で争った跡を判別するのは、ほとんど無理だと言っていいでしょうね」
と、答えた。
――なるほど、その通りだろうな――
と、刑事は思ったが、どちらにしても、深夜のこのあたりで、目撃者を探すなど、ほぼ無理だと思われた。
「このあたりには、防犯カメラなんかもないでしょうね」
と訊かれて、
「そうですね。少し見てみましたが、向こうのバス停の近くにはありそうですが、銀杏並木に曲がる道にはそのようなものはないようですね」
ということだった。
「ところで、この向こうにあるのは、病院か何かですか?」
と、刑事はサナトリウムの存在を知らないようだった。
「ええ、あそこは、昔は細菌研究所と、隔離病棟などのサナトリウムがあったんですが、今は精神科の研究を行っているところで、病室も精神科関係の患者がいるようですね」
という話だった。
刑事は、その場所に病院があるというのは分かっていたが、何か怪しげな建物だと感じていたので、以前から気にはしていたが、話題に触れることがなかったので、知らなかっただけだった。
「なるほど、建物が若干古い感じがしていたので、普通の外来病院ではないと思っていましたが、そういうことですか」
と、納得したようだった。
被害者は、見た目、まだ二十代後半くらいの男で、首を絞められた苦しさから、その顔には断末魔の表情が浮かんでいるが、目を瞑らせて、安らかにさせると、その原型となっている顔が、イケメン風に感じられたのだ。
被害者がイケメンというと、
「女との情事などによる恋愛関係の縺れか?」
と思わせた。
旦那のある女性との不倫の末であろうか。もしそうだとすれば、そこに、金銭が絡んでくるような気がした。相手が金を持っている奥さんというイメージが湧いてきたからである。
今までにもそのような男女関係の縺れというのは、山ほど見てきた。女性が奥さんである場合の不倫の清算として殺害まであるとすれば、そこに金銭の授受が絡んでいるというのは、十分に考えられることであり、捜査員とすれば、そこまで頭に入れておかなければいけないだけの案件であった。
そして気になるのは、銀杏並木の奥にある精神科の病院であった。まさかとは思うが、夜中に徘徊するような患者がいないとも言えない。夢遊病とまではいかないかも知れないが、少なくとも精神に疾患のある人が一人でもいれば、何が起こっても不思議はないと考えるのは、かなり乱暴ではあるが、無理もないことではないだろうか。
刑事はどうしても、そのことが気になり、まず聞き込みの最初になるであろう病院を徐々に気にし始めていたのだった。
その病院は、表から見ても他の病院とはかなり違っているのは一目で分かった。建物は古く、まるで戦争中の秘密研究所を思わせる外観で、入院施設も質素なものだった。よく見ると場所によっては、刑務所のような鉄格子が張られているものもあり、逃げ出せないようになっていた。
冒頭の庭はそれなりに広さを持っていたが、その広さは、表から見ているよりも、実際に中にいた方が広く感じるのではないかと思うほどであった。
庭から表は別に厳重な仕切りがあるわけではない。監獄のように高いコンクリ――との塀が張り巡らされていないところが、プリズンとの決定的な違いだった。
庭と表とでは普通に垣根が植えられているだけだった。それはさながら、昭和三十年代くらいまで見られたという舗装されていない道路を思わせた。
「あっ」
そう思って歩いてきたと足元を見ると、そこは舗装されていないところだった。
「今毒、こんなところが存在するんだ」
という思いが頭をよぎったが、それよりも、舗装されていない道路を歩いてきたのに、そこに違和感を抱かなかった自分を不思議に感じたのだ。
「それほど、この場所は舗装していない道路が普通に感じられるほど、レトロな光景を醸し出しているということであろうか?」
と感じたのである。
その感覚を完璧なものにしたのが、垣根だったのであろう。今はまったく見ることのできなくなった垣根というものを、こんなところで見ることになろうとは思ってもみなかった。ここから数百メートも行けば、現在の住宅街があり、普通にマンションも立ち並んでいる場所であり、不思議な違和感があった。
この違和感が何なのかを考えていたが、最初は分からなかった。だが、このタイムスリップでもしたかのような光景を見ていると、見たことがないはずの昔のイメージが頭によみがえってくるからなのか、この光景を見ながら、さっきまでいた住宅街を思い返してみた。
――何かが違うんだ――
と感じたが、
「そりゃあ、時代の字がった光景を頭に浮かべているのと実際に見ているのを比較すること自体、どこかナンセンスな気がするが、そういうナンセンスさではないのだ」
と感じた。
自分の中で目に飛び込んできた光景を、間違いや誤解のない感覚だと思うことで、現実の世界を思い起こしていることが薄く感じられるのだろうと思っていたのに、どちらも同じくらいの感覚が頭にあった。そう思うと、違和感がどこにあるのか、徐々に分かってきたのだ。
「明るさだ」
という直感があった。
明るさというのは、さっきまでいた場所で感じた明るさと、今見ているタイムスリップしたかのような光景である。さっきまでいた場所は、かなり暗かったのに比べて、今、目の前に広がっている光景は、雲一つない場所に、これでもかとばかりに降り注ぐ日の光を感じさせた。
確かに、今は朝の時間で時間の経過とともに、太陽が昇ってくるので、明かりの調度が違うのは当たり前のことだが、そういうことではないのだ。
さっきまでは薄雲が目立っていて、しかもマンションの乱立している中にいたという意識からか、窮屈なイメージがあったのだろう。こちらに来て、解放された気分になったとしてもそれは仕方のないことではあるが、だからと言って、こちらがまわりには見渡す限りの平原というわけではない。確かに雑木林の中から抜けてきて、少し広さのあるところであるのは間違いないが、両側からも、真正面からも雑木林が迫ってきている。その光景を見ると、圧迫感も否めないのだった。
それなのに、明るさが限りないというのは、雲一つないという理由と、目の前に広がっている光景を、想像や写真ではあるが、実際に見るのは初めてなのに、どこか懐かしさを感じ、その感じた思いが、明るさに結び付いているのだった。
この明るさは、自分の想像を正当化するという意味でも必要なものであり、これを否定することは目の前も否定するかのような感覚で、乱暴ではあるが、明るさを認めないわけにはいかないのだった。
刑事がまず雑木林から出てきて見えたのは、サナトリウムの方だった。サナトリウムで普通なら度肝を抜かれるのだろうが、彼はそんなことはなかった。さらに歩いていくうちに、研究所の姿が見えてきた。その姿も懐かしさがあり、ただ、自分の意識としては、その建物の中に人がいるというイメージのないものだった。
中に入れば廃墟なのに、表は人がいるのと変わりがない。それが、研究室へのイメージだった。
現在のマンションなどは、老朽化などを理由に取り壊しが決まれば、住民が全員退去してからすぐに解体を始めるので、人がいなくなってから放置される光景を見ることはなかった。更地にすれば、そこからは、新たな建物になったり、駐車場になったりと、その再利用は様々なのだろうが、空いた土地をそう簡単に放置しておくほど、実際の世の中はゆっくりと動いていないのだった。
戦後であったり、昭和の高度成長前では、廃墟などは、なかなか取り壊されることはなかったという。実際に昭和の終わり頃までは、戦時中の防空壕の跡を見ることが普通にできたというし、ある程度の年齢の人がいうには、
「昔は普通に空き地なんかいっぱいあったものだよ。公園のように整備されていないところがね。要するに、人が立ち退いたり、所有者がいない場所は、兵器で放置されていたので、空き地として子供の遊び場になっているところが多かったんだよ」
ということだった。
「確かに今では、空き地という言葉すら死後のようになっていますからね。そういえば、昔からのマンガで今も人気のあるものの中には、空き地が登場したりしますよね。公園のような、滑り台、砂場、ブランコのような遊具はまったくないんだけど、空き地の端の方に、土管が三つくらい重ねられている光景を見ることがあります」
というと、
「そうなんだよ。それが昭和の象徴とも言える光景の一つなんじゃないのかな?
今では土管なんて言葉もなかなか聞かないだろう?」
と言われて、
「ええ、そうですね。昭和のその頃と今とでは、まったく違う世界になっているんでしょうね」
というと、
「それはそうさ。それが時代の流れというものさ。だけどね。時代の流れはあっても、変わってはいけないものもたくさんあるんだよ。それを忘れないようにしてもらいたいものだね」
と言っていた。
それを訊いたのは、確か高校時代くらいのことだったので、今から二十年くらい前のことだろうか。もうその頃はすでに、時代が変わっていて、今とほぼ変わりない社会のような気がする。
もっとも、細かいところでのコンピューター系のものは進化しているだろうが、全体的な光景でそれほどの変化はなような気がしていた。
彼は、そんなことを思いながら、研究所に近づいていた。
やはり研究所は静寂に包まれていて、本当に中に誰かいるのかということが疑問に感じられるほどだった。
中に入ってみると、表が明るかっただけに、玄関を入った瞬間、まったく見えないほどの暗さに飛び込んだ気がした。その分、ひんやりとした冷気を感じ、まだ寒さの残る朝だったのに、描いていた汗が一気に引いていくのを感じた。
「汗なんか掻いていたんだ」
と感じた。
それに引いていく汗が、
「冷たい汗」
だったことを感じると、描いたとすれば、さっき雑木林を抜けてここに来るまでの間だった気がして仕方がなかった。
引いていく汗を感じていると、一気に体温が下がってくる気がして、体温が下がってくると、今度は身体にまとわりつく湿気を感じた。
さっきまであれだけ雲一つない明るさだと思っていたのに、まるで今にも雨が降り出してきそうな湿気を感じるというのはどういうことなのかと感じたのだ。
身体に湿気を感じると、本当に雨でも降り出したのではないかと思いながら、玄関を入ると、視界も戻ってきて、表も見えるようになってきた。
やはりさっきの雲一つないという関学がウソであるかのように、薄暗い感覚があった。今にも雨が降ってきそうな気がすることで、表を見ていたが、いつまでもそこにとどまっているわけにもいかない、さらに、正面を見ながら廊下は土足でいいのか、下駄箱も見つからないし、人の靴もまったくないただ、広いだけの玄関だった。
ただ、その玄関は、昔の公会堂を思わせるような玄関で、もっとも公会堂だと思えばそこまで広くないのは、やはり研究所だというイメージがあるからだろう。
研究所にはどれだけの人がいるのか分からないが、物音一つもない空間を恐ろしく感じた。それと同時に、これだけあけっぴろげな空間であるから、ちょっとした物音でもまわりに反響し、ドキッとさせられるのではないかと感じたのだ。
「薄気味悪いな」
という印象が一番強く、そこから先に進むのを思わず躊躇っている自分に気が付いたが、そのままいると今度は、足に根が生えてしまうような気がして、歩かないわけにはいかない気がしたのだ。
廊下を歩く音は、湿気を帯びた空気とは違い、床を蹴る音が、かなりの高音で、乾いた空気を思わせた。
――一体、どっちが本当なんだろう?
という思いが強く、床を見ると、濡れているのを感じたので、やはり湿気はかなりのものだと思わせたのだ。
これほども靴音が残像を残すかのように響いているにも関わらず、誰も出てくる様子はなかった。あたりをキョロキョロと見渡していると、自分が思ったよりも進んできたのを感じた。
そして、ある場所まで来ると、足元が急に緩くなったかと想うと、
「ギィーっ」
という音がしたかと思うのが早いか、その一つ先の扉が開くのを感じた。
「どなた様ですか?」
と出てきた人は、顔を見ると、まだ若い雰囲気があったが、髪の毛はほとんど真っ白になっていて、背筋も若干曲がっているかのように思え、思わず見下ろしてしまっているのに気付いた。
男は、研究員らしく白衣を着ていて、その下にはネクタイが結ばれていて、思わず、
「博士」
と言ってしまいそうに思うのだった。
「ああ、すみません。お騒がせをしまして、実はこういうものです」
と言って、警察手帳を見せた。
「警察の方が、何かご用かな?」
と、聞かれたので、
「この先で、殺人事件があったので、その聞き込みにやってきました」
と刑事は言った。
この建物の雰囲気と目の前の研究員の雰囲気を見ると、まるで西洋の洋館で秘密の研究をしている博士を思わせた。ドラキュラか、フランケンシュタインでも出てきそうな雰囲気で、そういう意味では研究所というよりも、伯爵クラスの人が住んでいる西洋の城の雰囲気も醸し出されていたのだった。
もちろん、刑事の勝手な想像なのだが、このような世間離れしたような雰囲気の中では、何とか自分が意識できる環境を頭の中で作り上げ、そこに自分の正当性を当て嵌めようとする。この時も同じことをしていたようだ。
「今日は、他の研究員はほとんど朝まで研究していたので、帰った人が多いので、今残っている人は少ないので何とも言えないが、とりあえず私で分かることであれば、お応えすよう。中に入り給え」
と言われて、中に入ることにした。
扉のところに書かれている文字を見ると、
「袴田研究所」
と書かれていた。
ちょうどこの日朝からいるのは、袴田教授だけだったのだろうか?
「失礼します」
と言って、中に入ると。そこにもう一人若い研究員がいた。
助手であることはすぐに分かった。その人は紛れもなく安藤氏だったのだ。
「彼は私の助手の安藤君だ。まだ若いが私の助手として、なかなかいい役割をしてくれているよ」
というのだった。
「ところで先生はどんな研究をされているんですか?」
ととっかかりのつもりで聴いてみた。
「私は、神経科関係なのだが、記憶喪失や鬱病関係の治療について研究しているんだ」
と袴田教授は言った。
「記憶喪失や鬱病というと、結構我々の捜査でもかかわりがあることが多いので、実際に治療を施したという医者の方に遭ったりしたこともありましたが、実際にはどういう治療法を用いるのかまでは訊いたことがありませんでしたね」
と刑事がいうと、
「そうでしょうね。私も基本的には、そんなに話すことはないですよ、もちろん、聞かれたことには答えますが」
と言った。
「ちなみに、隣に病棟があるようですが、あそこは昔でいうサナトリウムのようなところなんでしょうか?」
と聞くと、
「ええ、そうですね。よくご存じですね」
と教授は言った。
「ええ、元々は結核病棟などのようなだったんですが、細菌では、精神科の病棟になったんですよ。まだ人が死なない分いいんでしょうけどね」
と言って、笑った。
あまりにも不気味な笑みだったので、刑事は顔をしかめてしまったが。それを見て。教授がまた笑みを浮かべたが、その笑みの性格が違ったものであることに気づかなかった。後で浮かべた笑みというのは。実は計算ずくの笑みであった。相手には気づかないだろうということを計算したかのような雰囲気に、横で見ていた安藤は、
――さすが、教授――
という顔をしていた。
それも刑事は気付くはずもない。刑事は、相手が神経科の医者であるということで、最初から余計なイメージを持っていた。それは、却って相手を違うイメージに誘うだけの力を持っていることに、相手は気付かない。印象操作というべきか、教授が声を掛けた瞬間から、そういうモードになっていたことを知る由もないだろう、
百戦錬磨の教授とすれば、それくらいのことは、挑戦的なのかも知れない。とにかく教授は相手を目の前にした瞬間に、自分をまず覆い隠そうとする。電光石火なので、教授が自分の気持ちを表に出していないことを誰も分かっていないだろう。
しかし、覆い隠した部分に、シールドが張られているようで、実はそのシールドに表から見える性格が貼りついていたのであった。
もちろん、そんなシールドがあるわけではない、そういう表現をすると一番分かりやすいということでのたとえ話ではあったが、教授本人としては、自分が行っている他人との関係を説明するとすれば、やはりシールドを使うかも知れない。
本当の教授とシールド上の顔との大きな違いは、
「シールドの自分は、相手によって態度や考え方を簡単に変えるが、本当の自分は決して相手に合わせることはしない」
ということであった。
相手によって態度や考え方を変えているように見せるのは、神経科で研究を重ねてきたことで身についた知識を、実践できるという意味で、それが教授の教授たるゆえんなのだろうと思うのであった。
そんな教授の正体を知っている人はいるだろうか?
それを安藤は前から考えていた。
安藤はずっと一緒にいることで、やっと細菌になって分かってきたのだが、もし分かる人がいるとすれば、それは、
「つかさだけではないか?」
と思うようになった。
今の自分が教授の考え方が分かるようになったことで、教授のことが分かる人まで気付くようになった。
それだけ教授という人物自体を理解することが、どれほど難しいことなのかということである。
教授を見ていると、たまに自分が教授のような考え方ができるようになるのではないかと思うようになっていた。だが、それも教授の印象操作で、急に、
「これは夢で見たことのような気がする」
と思わせるものであった。
そう思うことで、夢を見ると忘れてしまっていることがもったいなくて仕方がない。
「覚えている夢は、怖い夢ばかりなのに」
と思っていたのに、教授と一緒にいるようになってから、
「怖い夢以外も覚えて居られるような気がするんだけど、どうしても、悪いことしか覚えられない」
と感じたのだが、それは逆に、
「教授と一緒にいるようになってから、怖い夢しか実際に見ていないのかも知れない」
という思いもあったのだ。
怖い夢ばかりしか見ないが、怖くない夢を見たことを覚えて居られる方がいいのか、それとも、怖い夢以外を見ているのに、本当に覚えられないということなのかのどちらかであろうが、、後者は、今までの自分と変わっていないということと同じなので、それは嫌だという思いが強かったのだ。
安藤は袴田教授と一緒にいることで、確かに自分が変わったとは思うのだが、変わった部分を分かってきたのは最近になってからのことだった。それが、誰かの影響ではないかと思うようになって、ちょうどその頃に誰と知り合ったのかと考えると、頭に浮かんでくるのは。つかさだったのだ。
――あああの娘か――
と思うのだが、実際にはそこまで印象としては深いものではなかったのだ。
安藤には、少し危惧があった。それは、この場所に一人の刑事が訪ねてきたことだった。その理由が、殺人事件があったということではないか、雑木林のあたりだというが、あのあたりは人の入り込むところではない。そもそも、ここに来る予定のない人はあのあたりにいるはずはない。しかも他の教授は、皆夜を徹しての研究を続けていて、表に出る暇などなかっただろう。
ここの教授陣の中に犯人がいるとすれば、消去法で考えると袴田教授しかいないと思えた。だが、安藤の危惧はそういうものではなかった。教授が手を下す必要はないという考えである。
教授が研究しているのは、催眠療法ではないか。今までこの研究室に来てから催眠療法に関わったことはなかった。そこまで研究が進んでいないということなのだが、あくまでも療法を考えるのは、その治癒しなければいけない症状の正体を知ってからでないといけないというのは、神経科に限らず一般の病気でも同じである。
相手を知らずして、自分本位の研究など、愚の骨頂である。
教授は記憶喪失や鬱病というものの正体をしっかり分かっていなければ、催眠療法についても、うまくいかないのではないかと思っていた。そもそも、記憶喪失や鬱病というものの解明の方が困難なのではないかと思われる。それでも、教授は解明にこだわりを持っている。どうしてどこまでこだわるのか聞いてみたことがあったが、ハッキリとした理由を説明してくれたことはなかった。
特に記憶喪失というのは、つかさに話をしていたように、突入する場合にもその行き着く種類にもいくつかの種類がある、だが、それぞれがうまく結びついた時、記憶喪失は成立するのではないかと思うのだった。
それだけに、それを逆にするというのは、記憶喪失を形成するよりももっと難しいことだろう。記憶喪失には、基本的になりたいと思って陥る人はほとんどいないだろう。それなのに、入り込むのであるから、解き放つ方がかなり難しいというのは分かっていることのような気がする。
実は安藤も自分が軽度の記憶喪失に陥ったことがあった。軽度だったが、ちょうど袴田教授が診てくれたことですぐに記憶を取り戻すことができた。それが印象に深かったので、安藤が助手になったのは、その時の印象が深かったからだ。
その時の自分の症状が軽度だったことを後になって聞いたので、治った時には、教授がまるで神様のように感じられた。
だが、ここに来てから重度な記憶喪失の患者も、何人か記憶を取り戻すことができたので、
「やっぱり袴田教授は偉大な人なんだ」
と感じるようになった。
それでも、
「記憶喪失というものは奥が深い。全貌の解明は難しいだろう」
と言っていたが、安藤には、
「教授なら、なんとかなるに違いない」
と、信じて疑わなかった。
その時、結局刑事は大したことは訊かずに帰って行った。
その後の教授の様子を注意深く見ていたが、別に気にしている様子などない。先ほど教授に対して余計なことを考えてしまった自分をあの時に戻ってぶん殴ってやりたいという気持ちになった。
教授のイメージにほとんど変わりがないのを感じると、今度は安藤の頭の中に浮かんできたのは、弥生だった、他にも袴田教授が抱えている記憶喪失や鬱病の患者はたくさんいるが、記憶喪失から、鬱病を発想しそうな危険な状態を思わせるのは弥生だけだったのだ。
弥生は、見た目はいつも穏やかだった。だが、教授も言っていたが、何かのきっかけで急に何かに切れたかのようになってしまう可能性を一番持っているような気がして仕方がないのだった。
もっと正直にいうと、弥生のお見舞いに来ている妹のつかさの方が気になると言った方がいいかも知れない。
最初は女の子として石いしていたのだが、女の子として意識しているうちに、姉との共通点を気にするようになっていることに気が付いた。
比較しているうちに、
「違いがどこなんだ?」
と感じるほど、共通点ばかりしか見えてこない気がして仕方がなかった。そう思うと、や胃が記憶を取り戻すよりも、つかさも何かのきっかけで記憶を喪失するか、鬱病に姉よりも先に突入するかのどちらかではないかと思うのだった。
そう思っていると、
「弥生とつかさを実際に並べて比較してみたい」
という衝動に駆られるのであった。
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