第2話 サナトリウムでの姉

 この研究所の存在は、病院内部では知られているが、他の人はほとんど知らないはずであった。

 もちろん、記憶喪失や自己喪失になって、精神を病んでしまった人がある意味隔離されている場所としてここが用意されているわけだから、家族は知ることになるだろう。したがって、記憶喪失になってしまった姉を見舞う妹が知っているのは当然のことであり、

「最近は家族の誰も見舞いに来なくなったのはどうしてなのかしら?」

 と感じているつかさは、ここのことを、

「少し異様な雰囲気のところだ」

 とは思っているが、嫌いではないとも思っていた。

 姉の弥生が記憶を失ってしまったのは、今から一年前のことだった。会社からの帰り道、暗い夜道があるのだが、人通りも少ないことで、急に後ろから自転車で走ってきた男に後頭部を殴られた。防犯カメラにも映っていたが、フードにマスクと、まったく誰か分からない様子だったので、犯人の特定には至らなかった。

 姉がそのまま救急車で運ばれ、一命はとりとめたが、数日間、意識が戻らなかった。目が覚めたのは、事件から五日目くらいのことだっただろうか。ふいに朝、付き添っていた母が、途中で眠ってしまったのか、ふと気が付いて目を開けると、そこには身体を起こした姉が、母尾を見下ろすようにして、無表情で呆然としていたという。

 母親はそんな状態を変だと思うこともなく、ただ目を覚ましたことを素直に喜んでいた。まるで盆と正月が一緒に来たというのはこのことのようだったという。

 急いで医者が呼ばれて、診察を受けたが、表で三十分ほど待たされたが、医者は目を覚ましたというのに、浮かぬ顔をしていた。そこで初めて不安に感じた母が、

「どうでしたか?」

 と、恐る恐る医者に聞くと、

「お嬢さんは、どうやら記憶を失っているようですね。それに少し言動も変なところがあります。一度精密検査をしてみた方がいいかも知れませんね」

 ということだった。

 精密検査は三日ほど続き、その結果が出るまでにさらに二週間くらいかかった。

 先生に呼ばれた母とつかさは、そこで衝撃的な言葉を耳にすることになるのだが、

「お嬢さんは、殴られた時に少し頭が陥没しているようで、命には別条がありませんが、少し精神的に疾患が出てくる可能性があります。記憶喪失はその一つなんですがね」

 という話だった。

 あまりにも漠然とした話なので、つかさにはどう答えていいのか分からなかったが、

「じゃあ、私たちはどう解釈すればいいんですか?」

 と言われて。

「今後はどんな症状が出るかも分かりませんし、正直その時、どのように対処していいのかも今の段階では何とも言えません。つまりは症状が起こってみないと何とも言えないということです。しかも症状に事例がなければ、さらにどうしていいのか分からなくなります。言えることはそこまでですね」

 と医者が言うと、

「じゃあ、退院はどうなるんですか?」

 と言われて、

「怪我が治れば普通に退院してもいいと思います。何といっても、先が見えないので、ずっと入院しているというわけにもいかないでしょう。退院して家で記憶が戻るのを待つということでしょうか。ただ、定期的な通院は必要だと思います。経過観察という意味ですけどね」

 と医者は言ったが、聞いている母もつかさも、

――何て冷酷な言い方なんだ――

 と感じていた。

 記憶が戻らない。そして、これから何が起こるか分からないという不安しかない相手にこの言い方は、冷酷としか言いようがない。だが、少し冷静になって考えれば、ここで何を言っても気休めにもならないのだ。それであれな、下手に余計なことはいわない方がいいに決まっている。

 そんなことは分かっているつもりであったが、誰に文句を言えばいいのか、その相手が見つからない以上。目の前にいる先生をターゲットにするしかないではないか。そう思っていたが、母は、文句を言いたいが言えないというギリギリのラインで我慢しているように思えてならなかったのだ。

 そんな母を見ていると、つかさも痛々しかった。少なくとも前に回り込んで母の顔を見たいとは思わない。後ろからついていくだけで、転びそうになったら、支えてあげるくらいしかできないと思うと、今度は、

「自分がしっかりしないといけない」

 と感じ、母には悪いが、冷酷な態度を取るかも知れないとも思った。

 くじけそうになっている人を励ます時、結構きつめの言い方をする場合がドラマなのではあるが、

「あれはドラマだからだおね」

 と思っていたが、自分が同じような立場に立つと初めて、

「この心境が、あのドラマのあの場面だったんだ」

 と感じるようになっていた。

 そんな姉は最初の頃は何に対しても無関心で、無表情だった。それを見ると、普通であれば、そんな姉を恐ろしく思うのだろうが、つかさは逆だった。

「ホッとしている」

 という心境だったと言ってもいいだろう、

 医者から、

「これから精神的な微妙な変化で、どんな行動をとるか分からない」

 と言われていたのだから、その思いはひとしおだった

 しかし、考えてみればこれほど情けないこともない。

 なぜと言って、表情に変化があれば、本当であれば、彼女が回復しているのだろうから喜ぶべきものを、変化のないことにホッとしているようでは、確かに悪くはならないが、よくなるという進展もないということだ。

 要するに、

「よくなるということを捨ててまで、悪くならない方を選んだ」

 ということであり、どちらにしても、まったく身動きできない状態に変わりはなかった。

 たまに夢の中で、目の前には断崖絶壁の崖があり、そこに行くためには、同じく断崖絶壁の谷になっているところの上にある吊り橋を渡らなければいけない。

 なぜ自分が、断崖絶壁の崖を目指しているのかすら分かっていないのに、これから差し掛かる谷に掛かっている吊り橋をいかにして渡ろうかと思っているのか不思議であった。

 だが、吸い寄せられるように渡り始めると、最初は無意識に分かっていたのに、急に途中から風が強くなり、そこでふと我に返るのである。

「何、ここ。私はどうしてこんなところにいるの?」

 夢の中だと分かっているのか、夢の中で夢を見ていたようなおかしな感覚に陥っていた。

 それでも。もう半分近くまできている。このまま進むにも戻るにも命がけだ。少なくともここにとどまるわけにはいかないということだけは分かっていた。

 ここのとどまっていても、そのうちに疲れて、そのまま谷底に真っ逆さまという末路だけは見えていたからだ。

 断崖絶壁のちょうど中間にいるという意識があった。前を見ても後ろを見てもまったく同じ光景にしか見えないからだが、気持ちの中では、

「戻りたい」

 という思いが強かった。

 しかし、意識は違っていた。

「前に行かなければいけない」

 という、使命感があったのだ。

 この使命感がどこからくるのかまでは分からないが、今まで意識と気持ちは同じだと思っていたはずなのに、こうも明確に違うこともあるのか、自分でも不思議だった。

「夢の中だからこそ、そうなのかも知れない」

 と思った。

 夢の中では、夢に出ている主人公の自分と、夢を見ているという観客のような自分とが存在している。意識している自分は、きっと主人公を演じている自分で、気持ちを持っているのは、観客としての自分ではないかと思っていた。

 だが、この時の夢は逆なのではないかと思うのだ。あくまでも表から見ている観客の自分は他人事であるので、意識している方ではないか。そして主人公の自分は演技をしているだけなので、気持ちが入っているのではないかと思えたのだ。

 だが、これもその瞬間瞬間で考えると、実は違っているのではないかと思えた。さすがに瞬間瞬間で考え続けることは無理なので、そこまではできないが、ふと思った時に考えると、どちらが出てくるのか、その時の心境でないと分からない気がした。

「何か、聞いたことのあるような曖昧な表現だ」

 と思ったが、それが姉のことを先生にいわれたあの時ではないか。

 今の姉はその時の自分のように、夢の中にいて、もう一人の自分を意識していながら、どっちがどっちなのかで迷っていることで、表に何を出せばいいのか迷っている。それは姉おうれば、至極当然なことであるにも関わらず、おかしな状況に見えるのは、ひょっとすると、我々の世界の考え方の方が、おかしいのではないかという思いに至っていた。

 もちろん、そんな考えは夢の中だから分かることであって、目が覚めるにしたがって、夢の内容をすっかり忘れてしまうのだが、忘れてしまうことで、自分がいかに今の現実を怪しいものだと感じているかということを感じさせる一つの指標のようなものだと考えられるのであった。

 そんな夢を見た次の日の目覚めは、意外と悪くはなかった。夢の内容もある程度までは記憶していて、一度覚えていることを忘れないうちにと思って、目が覚めてすぐに、メモ程度に纏めておいたことがあった。

 身体を起こして動き始めると、頭の中には他のことが入ってくる。そうするとさっきまで見た夢をほとんど忘れてしまっている、ところどころの印象派あるのだが、それだけに奇抜過ぎる夢の内容は繋げることを許さないのだった。

 メモっておいた内容を、今回目が覚めてから取り出して見てみた。

「なるほど、同じ考えで見ていたようだわ」

 と感じたが、見た時の日付を書いていて、しかも夢の中で少しでも前と違ったことがあれば書いておこうと思ったのに、何も書かれていなかった。

 日付はというと、二週間に一度、つまりは、半月に一度のペースくらいで夢を見ているようだった。

 意識の中では、もっと前だったような気がしたのだが、メモを見ると、

「今書いたとしても、同じことを書くだろうな」

 という思いであることに間違いはなく、その感覚はまるで昨日のことのような錯覚に陥るくらいであった。

 こんなことをしても意味はないのかも知れないが、同じ夢を見たという意識で書いているものであった。

 基本的に夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものであり、覚えている夢というのは、怖い夢であったり、気持ち悪い夢が多かったのだが。こうやってメモに残していると、覚えている夢というのは、

「いつ思い出しても、同じ感覚でいられるような夢だ」

 と言えるのではないかと思えた。

 今回の谷底に掛かる橋の夢は、今までにも何度か見たという意識はあった。しかし、今回は少し違った。それはどこを目指しているために、つり橋を渡ろうとしたのかが分かったことだ。

 前の夢では、そこまで意識していなかったのか、それとも忘れてしまっただえなのかが分からない。ただ、

「断崖絶壁の崖の上などという意識の想定外の場所であると感じるのであれば、忘れてしまったというのは、少し違う気がする」

 と思った。

 断崖絶壁な途中から、すすむこともできず、戻ることもできない。それでも前に進むということは、今回に限って強く感じることだった。

 断崖絶壁に何かがあって、それを目指して進んでいた。今まではその先が分からなかっただけに、却って、前に進もうと思うのだったが、今回は断崖絶壁という目標が分かっている。何があるかが分かっていなければ、そんな中途半端な状態であれば、進もうとは思わないはずだった。

 では、一体何があるというのだろう?

 これは夢であるということが分かっているのだとすれば、夢であっても、自分が生まれ変わりたいという意識に基づくものではないか。だが、今まで自分が生きてきて、生まれ変わりたいであるとか、人生をやり直したいなどという思いを感じたことはなかった。今までの人生で、何か大きな失敗をそやなどというものは、そこまではなかった。

 進学も失敗することもなく。第一志望の学校に進むことができた。就活ではうまくいかなかったが、それでも学生時代からの流れで、パートとして勤めることができた。その間に就活も進めている。

 確かに、今が一番の挫折という意識もあるのは事実だが、だからと言ってやり直したいとは思わない。

 なぜなら、自分だけの問題でのやり直しであるなら、その時点からやり直せばいいのだが、就活のように、社会全体が就職難なのだから、いくら、自分がどこかまで戻ってやり直したとしても、そんなに今と変わらない人生を送るに違いない。

 では、もういch度すべてをリセットしてやり直すことを望むだろうか?

 それこそナンセンスな考えだ。

 今までの人生に不満もなく歩んでこれた人生が、やり直したからと言って歩んでこれるかどうかどこに保証があるというのだ。

「これ以上悪くはならないかも知れないが、決して良くなることはない」

 と感じた。

 そんな人生をやり直してどうなるというのだ。

 たぶん、自分の人生がやり直したいとこでいっぱいだったとして、実際にやり直したと考えても、そこで生まれる人生は、変わることはないだろう。自分が変わらない限り同じなのだ。

 一つ一つのターニングポイントでは、結局同じ選択をするに決まっているのだし、そうなると生まれてくる結果も同じではないだろうか。

 そもそもやり直しをしようと思っても、

「やり直すことなんかできっこないんだ」

 という思いを頭に描いているだけに、うまくいくはずもない。

 それは、夢を見ていて。

「今夢を見ているんだ」

 と感じることと同じである。

 どこか、夢の中に逃げ出したいという意識があることで、夢を見ていると自覚できるからである。普通は夢を見ているとは思っても、本当の夢ならそこで目が覚めてしまうはずだ。それを見続けるということは、きっとその後にはロクな結果になるわけはない。なぜなら、

「目が覚めるにしたがって覚えている夢というのは、怖い夢などの、自分にとって結果が悪い夢ばかりなんだ」

 という意識があるからだった。

 そんな夢をよく見るようになったのは、姉のことがあってからのことだった。

 姉が狙われたのは偶然のことだった。

 最初は警察も怨恨と、通り魔の二つで捜査を行っていた。確かに当時、似たような事件が近所で数件起こっているという話は聞いていた。ただ、姉の場合は一番被害が大きく、しかも、何かを撮られたというわけではないので、強盗傷害というわけでもなかった。

 捜査は傷害事件として捜査を行ったが。実際に犯人が捕まるまでにそんなに時間が掛からなかった。

 犯人は味をしめたのか、姉の事件から頻繁に女性を襲うようになった。防犯カメラと捜査員を増やしての見張りから、犯人を現行犯で逮捕できた。そして、犯人の犯行自供から、姉の事件と結びついたのだった。

 犯人はまだ大学一年生で、愉快犯だったようだ。精神的に病んでいたようで、警察監視の下で治療が行われ、起訴された状態で、このまま裁判に入るとのことだった。

 とりあえず犯人は捕まり、当然裁判も気になるところではあるが、姉の状態はそれとは関係のないことだった。

 家に帰ってきてからの姉は、そのほとんどを家で過ごしていた。引きこもりとは若干違っていて、何かに夢中になることもなく、今はそっとしておくしかない様子で、母親も少し気が重くなってきているようだった。ちょっとしたことで夫婦喧嘩になりかかるが、我に返って思いとどまっている。そんなピリピリした状況が今の家の状態だった。

 姉の表情は相変わらず変わりはない。会社の方も親の方が手杯して、休職扱いにしてもらっている。犯罪被害者なので、それくらいは仕方のないことだろうとは思うが、記憶のない状態がどこまで続くかによって、会社の態度も変わってくるだろう。

――自分の部屋であって。自分の部屋ではないという気分はどういうものなのだろう?

 と考えてしまう。

 何を触っても怒られてしまいそうな気がするのではないか。しかもその怒る相手というのも自分なのだ。

 記憶があっても、記憶を失くした状態を想像できないことで、どう対応していいのか分からず。その不安が分からないだけに、無表情さが怖いのだ。

 だが、親に対しては、まったく無表情ではあるが、妹に対しては若干表情が緩んできているように思う。どうしても自分のことなので贔屓目に見てしまうが、年齢が近いというのも、大きいだろう。

 さらにもう一つ感じるのは、自分が妹だからというのもあるかも知れない。自分の方が年下だと、どうしても親に対して馴染めないのに、姉に対しては馴染めるという理由が、自分の中で見つからないからではないか。

 それを思うと、姉が妹のつかさを慕ってくれているようで、妹としても嬉しかった。

 姉には子供の頃から頭が上がらなかった。成績も姉の方が優秀だし、芸術にしても、姉は絵画にて、コンクールに何度も入選するくらいだった。

 それに比べてつかさの方は、何が得意というわけではない。しいて言えばどれをとっても平均的なところというだけの、実につまらない人間だと思っていた。

 それがコンプレックスになっているのだが。姉三対してのコンプレックスが自分にとっての最初のコンプレックスだったのだ。

 その姉が。いくら犯罪事件に巻き込まれたと言っても、今では自分を頼ってくれていると思うと。これほど愉快なことはない。

 愉快と言ってしまうと不謹慎なのだろうが、それだけ今まで鬱積したものがあったことを、今回のことで思い知らされた。

 実は、姉に対しての尊敬の念を抱いているだけで、コンピ宇レックスを感じながらも鬱積したものはないものだと思っていた。

 それなのに、気付いてしまうと、

「自分が姉を助けなければ」

 と思うことが、これほど楽しいとは思ってもいなかった。

 自分が成長して追いついたのであれば、一番いいのだろうが、姉の方で落ちてきたのである。それなのに、払拭できるコンプレックスというのは。どのような種類のものだったのだろう。

 嫉妬などの思いであれば、こんな感覚に至ることはないような気がする。どちらかというと、今の姉に対して抱く感情が本当は自分の中に元々あって、願望が叶ったかのような悦びから、楽しさのようなものが溢れてきているのかも知れない。

 姉は妹がそんな思いを抱いているなど知る由もなく、妹に頼っているようだった。

「姉さん。散歩にでも行こうか?」

 というと、

「うん」

 と言って、嬉しそうについてきてくれる。

 それは、まるでペットのようではないか。飼っている犬に対して。

「散歩行くよ」

 と声をかけると、尻尾を振って、抱き着いてくるようだ。

 その時には、いつも電流が走っているのではないかと思うほど、身体が反応してしまう。

「気持ちと身体が離れていくようだ」

 と感じることがあったが、この時の姉に対しても同じような感情を抱いたのだった。

 姉の嬉しそうな眼は潤んでいるようだ。何を求めているのか分からないが、目に見えない尻尾がぶんぶんと回っているかのように見える。

 姉はつかさの手をぎゅっと握って離そうとしない。離してしまうとどこかに富んで行ってしまうかのようだが、そんな時、つかさの方では、

「そんなに握られたら、そのまま二人揃って、つり橋から落っこちてしまう」

 とばかりに、よく夢で見る吊り橋の途中で立ち往生しているのを思い出してしまう。

 その感覚を思い出すと、その空間から姉は消えている。自分だけが、別の世界に入り込んでしまって、本当は姉のことを心配しなければいけない立場なのに、自分のことだけでどうしようもなくなってしまうのだ。

――姉のことを考えないようにしようと、わざと、夢の世界を感じさせられるのかも知れない――

 とばかりに、感情が高ぶっていた。

 吊り橋の上は、どうしようもないくらいに揺れている。

 しかし、不思議なことに、一人の時は怖くて進めなかったが姉と一緒にいると、なぜか進んるような気がするのだ。足の震えは変わらないし、姉が動くと自分のバランスを取りづらいのは一人でいるよりもよほどバランスが取れずに怖かったのだ。

 それなのに、

「今なら進める」

 と思うのだ。

 それは、自分が落ちそうになった時、姉が何とかして助けてくれる気がしたからだ。

「ひょっとすると私の危機だと思って、自分が飛び降りてくれるかも知れない」

 というくらいに思った。

 しかし、実際は、

「姉に飛び下ろさせるくらいなら、自分から飛び込む」

 という思いがあった。

 姉が飛び降りてしまうと、自分が何のために姉を散歩に連れてきたのか分からないからだ。むしと、姉の代わりに自分が飛び降りると、この恐ろしい夢から覚めることができるのではないかという、まったく根拠のない思いを抱くからだ。

 ただ、頭の中に抱いた結論として、最終的な妄想は、

「二人とも同時に飛び降りて、奈落の底につく前に、目が覚めるのではないか」

 という思いであった。

 そして、気が付けば、目的地であった、断崖絶壁の崖の上に立っている。下を覗きこんでいる姉の姿を見るのだが、その姿を後ろから見ていると、何と自分が姉の背中を押して、せっかく助かった奈落の底に、姉だけを叩き落そうとしているのだ。

 姉の、叫びごうぇが奈落の底に消えていき、自分が奈落の底を覗き込むと、すでに姉の姿は消えていた。遠くから、水に何かが落ちる音がした。それが姉だったのだろう。

 だが、そう思うとまたしても夢ならではの光景を感じた。下を覗きこんでいる自分の背中を押す誰かがいた。

「お姉ちゃん」

 と叫んだ瞬間、今度は自分が声の糸を引くように、奈落の底に落ちていく。

 落下していく感覚が分かる。加速度をつけて落ちて行っているはずなのに、ある程度までくると、まるで宙に浮いている感覚があった。その時に感じたのは、

「助かった」

 という思いではない、

「ああ、死んでしまったんだ」

 という感覚である。

 人間、自殺をする時、高いビルから飛び降りたりすると、その途中で心臓が止まるという、落下の加速度に耐えることができないのだろう。

 その感覚があるからか、落下してしまうと、その途中で宙に浮くものだと、頭の中でシチュエーションができていたような気がする。

「私は、自殺をするとすれば、飛び降り自殺しか考えたことはなかったのかしら?」

 という思いであった。

 姉が暴漢に襲われ、不慮の事故に遭い、そのせいで記憶を失い、いつどんな発作的な行動にでるか分からないという先生の話であった。

 K大学病院の神経科というと、その優秀さには、全国でも定評があった。それだけに診療を求めて、全国から人が集まってくる。毎日、待合室には他の病院からの紹介状を持った付添人と患者で溢れている。姉が数日ではあったが、救急搬送の状態のまま、療養していたのは、今から思い返しても、ひどい感覚だった。

 普通の病院とは少し違って、板もを感じさせる雰囲気は、薬品の臭いが余計に強かったからなのかも知れない。アンモニアやシンナーなどの鼻が痛くなるような痛烈な臭いは、耐えられるものではなかった。

 さらに、汚物の臭いまでしてくる。それだけ、自分の神経が身体を制御できなくなっている人が多いようだ。

 人間誰でも年を取ると、痴呆症になったりするもので、その分どうしていいのかと誰もが考えているのではないかと思っていたが、実際にはそんなことを考えないようにしているのかも知れない。

 考えるとすれば、夢を見ている時であろうか。せっかく夢の中で見ているのだから、目が覚めれば忘れていてほしいと思うことであっても、決して忘れることができないというのはどういうことであろう。

「夢なんて、天邪鬼な自分の性格を、表しているようだわ」

 と感じさせるだけのものでしかないのかも知れない。

 潜在意識が見せるものだという理屈が、そこだけは妙に納得させるのだった。

 イヌの散歩のつもりで、姉を散歩に連れ出すこと自体、つかさは、何様のつもりなのだろうと自分で思うのだった。

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