第13話 黒い位牌の告白

「包丁の向きですよ」


 出雲は、道路を駈ける車の音に掻き消されるような小さな声で、そう切り出した。


「鶴子さんの胸に突き刺さった包丁は、柄のくぼみを入口側に向けていました。もしも犯人が寝ている鶴子さんの掛け布団を剥いで、心臓に狙いを定めて振り下ろしたのなら、かならず柄のくぼみは上座のほうに向きます」


「だが、かならずしも正しい持ち方をするとも限らないんじゃないか?」


「いえ、包丁に限って言えば、そうじゃありません」


 出雲は断言する。 


「想像してください。包丁は、特殊な用途の包丁でないかぎり、柄と直角に刀身が突き出ている。刃元、或いはアゴともいいますが、柄のくぼみに反して、にぎったまま刃を突き立てると、その刃元が掌や手首にあたり、負傷してしまう。今回は殺人だ。自分の血痕を現場に残す訳にもいかない。それに肋骨の間を狙わなければならず、一撃で刺し殺さなければ悲鳴をあげられる。そんな状況下に、わざわざ無用な持ち方をする道理もないでしょう」


「では上座から振り下ろしたとしたら」


「それもどうでしょう。左の心臓を狙うのに、わざわざ被害者の右脇に回り込んで、やりにくい体勢でやる理由はない」


「なるほど」


「そしてこの事実はを明確に示唆している」


「とある状況?」


「考えてもみて下さい。犯人が殺意をもって、彼女の庵に足を踏み入れたとき、もしも鶴子氏が寝ていたのなら、そのまま掛け布団をめくり、突き刺すだけで良かった。だが、包丁の突き立て方から、犯人はそれをしていないことは明白だ。となれば理由はひとつです」


 出雲は鈍い眼痛を逃すように、眉間を揉みながら言った。


「犯行当時、。そして悲鳴や抵抗がなかったということは、そのとき、足を踏み入れた人物が警戒に値する人じゃなかった。その時点で、竹本さんを容疑者から外しました」


「だが母は認知症だ。ヘルパーと偽れば」


「たしかに出来ますね。ですが鶴子が認知症だったことを竹本さんは知らなかった筈です」


 と、断言する。


「なぜなら彼女は〈翔太くん殺し〉の真相を鶴子から聴きだそうしていた。認知症を知っていたのなら、無意味な行動です」


「なるほど」


「改めて言いますが、あの現場に、鶴子さんが抵抗する痕跡はなかった。つまり、鶴子さんはやってきた犯人から襲われるという警戒心を、心臓を貫かれる直前まで、まったく関知していなかったことになる。

 すると犯行は、彼女がいつも行われているルーチンのなかで行われ、かつ彼女の死角から、密着する形で行われた筈なんです。そうなると、犯行の仕方はおおよそひとつだ。――犯人は、彼女を背後から抱き起こすようにしながら、包丁で刺したんです」


「だが、それなら妻の疑いは晴れないだろう」


「いえ、晴れるんです。和代さんはですから」


 出雲の脳裡には、和代が荷物にむかって、御幣をふった姿が思い起こされている。

 穢れを祓うと称して紙垂の房をふっていた手は、たしかに左手であった。


「包丁は正しい持ち方で突き刺さなければ、刃元で負傷してしまう。もしも左利きの和代さんが、うしろから被害者を抱きかかえながら突き刺したのなら、やはり柄のくぼみは上座に向かざるを得ない。だが、再三言うように、あの柄のくぼみは入口側、つまり下座を向いていた。そして貴方は右利きだ」


 出雲が視線を落とした先には、珈琲の缶を右手で吊り下げるように持っている昌義の右手がある。


「・・・・・・・・・・・・素晴らしいな」


 昌義は乾いた笑い声をあげた。


 現場を一瞥しただけの青年に、こうも完膚なきまで犯行が露見した自分の迂闊さに、失笑以外の態度を思いつかなかったのだろう。応接室で彼が動機以外判明したと豪語したのは、なにも虚勢ではなく、実見に基づいた推論だったのだ。


 そして動機についても、よく理解していた。


「動機は、自白ですね」


 昌義は改めて微笑んだ。


 苦笑、失笑、それ以外の鬱々とした情けなさが、彼に悲嘆の表現として、歪な笑顔をつくらせた。


「あの日、僕は警察の聴取について、母に伝えに行ったんだ」


 母親を殺した息子は、陰陰とした声で自白する。


「母の認知症はかなり進行していてね。もはや、自分が何故そこにいるか。自分は何歳で、僕や妻のことが誰なのかも判然としない。記憶がモザイク状になって、時間軸が行ったり来たりする。だけどね、数日に一回ほど、昔のような、しゃんと背筋の伸びた、穏やかで厳しかった母に戻るんだ。そして、あのときも、そうだった」


 彼は語る。半日前の犯行を。


 そのとき、彼に殺意など欠片もなかった。

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