第28話 きみの
一瞬、何が起きたのかわからなかった。紺青の胴体を持つ『厄災』ドゥーマは封印を破られ、大昔から続く長い眠りから目覚めてしまった。そしてかの悪魔を呼び起こしたキッグは、この世を支配する最強の駒を手に入れたはずだった。
しかし従えたはずのドゥーマの腕は主たるキッグ・セアルの腹を貫いている。肉を破り、鋭利な爪を有した指が背中から覗く。胃袋か腎臓か、間違いなく彼の体内を抉り、ぴちゃぴちゃと血を滴った。
動転する俺に唯一わかるのは、明らかな反逆であるということ。
「ぬっ……ああああ!」
キッグは咄嗟にドゥーマの腕を力ずくで引き抜いた。ずりゅ、とペンキで滑ったような音がしたかと思うと、キッグの体からはトンネルよろしく向こう側の景色が血のカーテン越しに見えてしまっている。
「てめぇ……っ! 主に向かって、この世の王に向かって何をしやがるっ」
ドゥーマは黙ったまま、真っ黒な瞳でただ目の前の男を見ていた。キッグは自らの腹の傷を苦しそうに押さえながら、それでも血だらけになった手を熱で染める。
「俺は――キッグ・セアルだぁぁ!」
右手に帯びた超高出力の魔術。素人目で見てもとてつもない威力の爆発が、意匠返しと言わんばかりにドゥーマの腹へと突き刺さる。爆風は後ろに居たはずのこちらまで抜けてきて、四つん這いの姿勢であったことがむしろ幸いだった。
果たして爆風が止んだ頃には、ドゥーマの上半身は跡形もなく消し飛んでいた。辺りにはあの巨体に相応しい肉片と血飛沫が散り、祭壇や棺をグロテスクに装飾している。
「とんだ誤算だったぜ……まさか封印していた最強の駒が、こんな出来損ないだったとは」
腹に穴の空いたキッグは息を絶え絶えにしながらも、近くに倒れる妹へと手を伸ばした。
「マイ、俺を治療しろ。呪術が使えるならそれくらいできるだろうが」
大き過ぎる傷口を抱えたまま、未だに頭を回し喋ることができているキッグに底知れぬ恐怖を覚える。その執念を一身に浴びるマイは、まだ茫然自失とした様子で怯え切ってしまっていた。
「早くしやがれ。さもなくば、あの支援者諸共……」
キッグの言葉は不自然にそこで止まる。視覚を用いずとも、逃げる俺たちを捉えた時のように、彼は後ろに立つ青い巨躯の存在に気づいていた。本来有り得るはずのない現象に、俺は思わずマイが話していたことを呟いてしまう。
「不死の、悪魔……」
地面に倒れていた下半身から、爆ぜた上半身が戻っている。それはあたかも、植物が急成長して新たな枝を生やすように。筋骨隆々の体も赤い頭髪も、何もかもが棺から出てきたままの姿だ。
キッグは咄嗟に魔術を使おうとしたが、抉られた体がそれを許さない。口の中に出来上がった血溜りを吐き捨てようとした頃には、ドゥーマは既に動いていた。
ずぶ、と青い腕がキッグの胸に沈む。そのまま上に体ごと持ち上げて振り払うと、次の瞬間には男の姿は指先になかった。訪れたのは遺跡を揺らす音。キッグは壁に叩きつけられ、新たに赤い壁画を生み出して動かなくなった。
――これがドゥーマの力だって言うのか……⁉
再生する体と純然な暴力。油断していたとは言え、数多の開拓者たちを凌駕したキッグ・セアルをこんなにもあっさりと仕留めてしまうだなんて。
表情一つ変えることのない悪魔は、次にすぐ近くに居たマイに狙いを定める。恐怖で動けない彼女に体を向けて、血塗れた床を踏みつけながら迫ってくる。粘ついた液体が地面から伸びているが、そんなか細い鎖であの巨体が止まるはずもなかった。
「あ……」
「逃げろ、マイっ……」
俺の声は嗄れていて届かない。いや、それ以前に彼女の戦意はとっくに失われてしまっていた。動けないマイに、化け物を殺した魔の手が掴みかかる。
「いや……こないで……」
希望を奪われた掠れ声が発された。そんなことで無情な怪物から逃れられるはずがない。覚悟を決めかけてしまった時、俺の目には信じられない光景が映った。
頭を握り潰さんと近づいていたドゥーマの手が、直前でピタリと動きを止めたのだ。舐るようにマイをじっと見つめ、やがてゆっくりとその腕を戻していく。
――狙うのをやめた……!?
あたかもマイの声に呼応したように、ドゥーマは彼女から一歩、二歩と後ずさる。そして空から覗く月を見上げると、大きな翼を広げた。
「ルアアアアッ――!」
この世のものとは思えぬ絶叫が遺跡を劈めいた。声は崩壊した地盤を越え、荒れ狂う地上にさえ抜けていく。その声が止むと同時に、ドゥーマは凄まじい衝撃とともに洞窟の中から姿を消した。
飛んだのではなく、おそらく跳躍だ。この地下から一気に飛び上がるなんて、人間の遠く及ばない身体能力を保有している。おまけに先程見せた無敵にも等しい再生能力――『厄災』と呼ばれる所以を見せつけられた。
目の前には打ちひしがれるマイだけが残っていた。数々のショックに動けないままの彼女に俺はどんな言葉をかけてあげれば良いのだろう。ようやく立ち上がり、使い物にならない右腕を抱えながら彼女へと近づいた。
「マイ……」
返事はない。俺はとにかくここを出る一心で、彼女に対して励ましの言葉を選んだ。
「大丈夫だよ。きっと、まだ何とかする方法がある。ドゥーマが復活した以上、国もギルドも放っておかない」
「……う、いい」
「彼らが留めてくれている間に、俺たちが奴を封印する方法を見つければまだ被害は最小限に抑えられる。だから……」
「もういいって、言ってるの!」
ガラスをも割りそうな声だった。大人しいマイからは想像できない程に掠れ、裂き切られてしまっている。俺は一瞬だけたじろぐと、彼女はかき消えそうな弱音をぶっきらぼうに吐き出した。
「何もかも……もう何もかも残ってない。母様との約束も、家族さえも守れなかった。これから大勢の人が死ぬ。私が無力だったばっかりに……私が頑張った分だけ、全部空回りする。兄様の言う通り、私はどこまでも浅はかだった……!」
彼女に落ち度はない。全ては狡猾なキッグ・セアルの策略によるものだ。そんなことは誰もがわかっている。だけど一番傷つけられたはずの少女は、それでも自分のことを責め立てる。
「これがセアル家の呪いなの……封印を解く鍵になってしまうくらいなら、私なんて生まれてこない方が良かった!」
その言葉に、俺はキッグに蹴られた時よりも明確な衝撃にぶん殴られた。数秒前の自分は、何を安直に励ましの言葉なんてものを選んだのか。ここを出たとしても、ドゥーマが居る限り彼女はセアル家の宿命に苦しめられる。あの殺戮の悪魔を解き放った一族唯一の生き残りとして。そしてそれを止められなかったことを、マイが無関係と言い張れないくらい素直なことを知っている。
彼女の中で自らの呪いが確立してしまっていた。無力で、自分の守りたいものさえ傷つける忌み嫌われた力。それを解いてやれるのは、きっと誰よりも『呪い』を知る俺だけなんだ。
「呪いは、何かを結びつけるだけなんだ」
呪術を研究する中で知ったこと――それは、呪いの本質は、そこにあるだけのものということ。何かと何かを一本の線で強固に結び付けるだけしかできなくて、悪意を持つのはいつだって結わう人の意思でしかない。
「ただ何かの繋がりを保つだけ。それだけなんだよ。だから、マイが生まれてこなければ良かったなんて絶対にない」
「この後に及んで、どうしてまだそんなことが言えるの!?」
マイはやるせない激情を押し付ける。その怒りも悔しさも、俺に向けられたものじゃないことくらいわかる。彼女のこれまでの頑張り、セアル家に居た頃から励んできた研究も、全てが嘲笑われる結果だった。自らの至らなさに失望して、悄然と浮かぶ迷いの行き場を探している。
だから俺は、その道の先に立つ光になりたい。
「少なくとも俺は、マイと出会ったのは呪術のおかげだと思ってる」
最初はただの気紛れだったかもしれない。どれだけボロボロになっても可憐に咲く一輪の花に、庇護欲をそそられただけなのかもと何度も思った。だけど、懸命に家族を取り戻そうとするマイに協力したことを悔いてはいないのだ。この出会いも彼女の努力も、俺は誰にだって否定されたくはない。
「見てろ……!」
俺は膝をつく形になって、ポーチの中から殆ど黒に染まった呪符を取り出した。それは以前、クイップさんが【アメトランプ】を訪れた時に使った『呪い』――“呪術治療”に必要なものだ。それをキッグによって破壊された腕に巻き、これから訪れる地獄に目を向けた。
「巻き戻せ――“再生の呪い”!」
壊れた腕に押し付けた札が遺跡中を緑色の輝きで照らす。死んだ細胞を蘇生させる、自然の理に抗う技。成功すれば医術をも凌駕する効能を生み出すが、その代償に発動には多大な負荷が発生する。
「……ッ!」
「そんな……やめて店主さん! 危険過ぎるっ」
呪術治療は壊れたときと全く逆の工程で治してしまう。つまり、一度経験した痛みすら、もう一度味わわなければならない。だから本来、治療者が激痛で苦しまないための処置は必須なのである。クイップさんに同じ治療を施した時、麻酔をしたのはそういう理由だ。
しかし今はそんな丁寧な処置ができる状態ではない。キッグに肉と骨を粉々にされた時の痛みが再現され、灼熱に傷跡を炙られているようにすら感じる。眼球の充血がわかるくらいに視界が霞んで、ぶるぶると震える体は有り得ない現象に拒絶反応を示しているようだ。
それでも意識を失うわけにはいかなかった。途中で集中力を欠けば二度と使えない腕になり、最悪その部分から壊死が進行してしまうかもしれない。どんな医者であっても治せない体になる。
わかっていても、この激痛に耐えるだけの理由があると思った。
「――ハァッ、ハッ……」
無限に思えた真緑の発光が終わった時、俺の腕は指先までの感覚を取り戻していた。全身からかいてはいけない汗を噴き出していて、自分が本当に生きているのか疑わしくすらある。
目の前には心配を通り越した顔をするマイが居た。俺は治った腕の手の平を向けて、今にも決壊しそうな涙腺を押し殺してから笑ってみせる。
「ほらな。不幸が約束された呪いなんて、無いんだよ」
呪いはそこにあるだけ。どれだけ危険でも、最後に黒く染めるのは人の意思でしかない。この力は俺を不幸にもしたけれど、誰かの優しさを教えてくれる大切なきっかけにもなったのだ。
マイは荒らげていた声を潜ませ、俺の瞳を見る。もしもそこに彼女が僅かにも希望を見出したなら、俺が告げるべき言葉はたった一つ。
「きみの運命を助ける。俺がドゥーマを止めてみせる」
「そんなこと、できるわけが……」
「もう、できないことだって諦めるのはうんざりなんだ。なにせ一番の夢を置き去りにしちゃったからな」
戦う力がない。でも誰かを助けられることは知ったのだ。俺が支援者を目指したのは、強さの垣根を越えて、誰であっても助けられるため。兄が強くない俺を「どこへだって連れて行く」と言ってくれたように。
ドゥーマは単純な戦闘力では倒せない。だからこそ、俺が可能性になれる余地がある。
「どうして、そこまでしてくれるんですか」
いつかに似たような質問を聞いた。あの時は確か、彼女の覚悟を理由にして協力を約束したのだ。お節介をかけて命を助けた義理を果たそうとして。
でも、もうあの時とは違う。今は確かな答えを持っている。俺は――
「きみの支援者だから」
マイは俺の答えに、じっと下を向いて黙っていた。その赤髪の下の瞳が何を思っていたか、俺にはわからない。
その代わり、俺の脳裏には一つの可能性が過ぎっていた。あの不死の悪魔を再び封じ込めるための方法。理論が合っている保証もないが、目の前で涙を流す少女のためなら、今はその不確証な賭けにだってオールインで乗ってやる。
「待っていて。君が次に地上に上がって来た時には、呪いは晴れてる」
俺は棺に嵌め込まれていた刻時石を取り出す。そして長剣と呪符の入ったポーチを確認すると、遺跡の出口目掛けて駆けた。彼女の運命に決着をつけるためにひたすら走り、やがて地上に飛び出した。。
燃え盛る荒野に起き上がる人間は誰も居ない。ただそこに立つは、天に浮かぶ月を見上げる二本角の悪魔。俺はその後ろ姿に向かって、高らかに叫んだ。
「勝負だ……ドゥーマ!」
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