第26話 兄/妹

※――――――――――――――――――――――


 夢を見ると、よく亡くなった母の声を聞く。それは小さな喜びを与えてくれると同時に、目を覚ました後には、思い出にいつまで浸っているのだと責め立てられるような喪失感を味わうのだ。


 ――もし本当に困ったら、王都に行きなさい。


 頭の中に残っている母の忠言だった。母は何でも無い日の夜に、私や兄さんにおとぎ話を語るみたいに微笑みながら教えてくれた。


 ――頼もしい騎士様が、必ずあなたたちを導いてくれるわ。


 今にして思えば、セアル家を迫害したはずのルディナ王国が私たちを救ってくれるなんて信じられない。だから騎士とは王国騎士では無いような気がした。でもそれ以外の騎士団など聞き及んだことがない。それならば、かつて母が言った「騎士様」とは一体誰のことなのだろう。


 何年経っても解けない疑問は、それでも私にとって一つの希望だった。大好きだった母の信じる人がルディナに居る。いつかそんな騎士に会えたなら、翳りのあるセアル家にも一筋の光が差し込むのではないか、なんて――



「起きろ、マイ」


 顔を何度も無造作にはたかれる衝撃で、私の意識は現実へと引き戻された。辺りには火の灯る大きな燭台がいくつも存在し、洞窟と思しき岩肌を照らしている。


「ここ、は」


 朦朧とする景色の中で、頭が何者かに担ぎ上げられているのがわかった。ぼやける視界に捉えたのは、私と同じ髪を持った背の高い男。たった一人の家族。


兄様あにさま……!」


「久し振りだな。兄ちゃん、心配しちまったじゃねぇか」


 気味の悪い笑みを向けてくるのは当代のセアル家君主、キッグ・セアル。かつての温かな面影は消え、けた頬を浮き彫りにするように炎が骨格をくっきりと現す。


 昔はこんなに不健康な見た目ではなかった。活発で頼り甲斐があり、わからない魔術についてはできるまで教えてくれるような人だった。別人となってしまった兄に対して、私は鋭い言葉を飛ばす。


「白々しい……! 私を殺そうとした癖に!」


「殺す……殺す、ねぇ。フフッ」


 何が面白いのか、兄は堪え切れない様子でまた笑った。一緒に育ってきたのに、今はその考えの寸分も読めないでいる。ただわかっているのは、もう彼は殺人鬼としての歩みを止めるつもりはないということだ。


 兄が私の頭を放すと、視界が開けて禍々しい祭壇が見えた。大きな段差の上にはおんぼろの社があって、中心には兄の身長の倍はある巨大な棺がそびえ立つ。棺にはセアル家の“封印術”の文字と酷似した札が幾重にも張り巡らされており、溢れ出る物々しい雰囲気が正体を悟らせる。


「ここが……ドゥーマ封印の遺跡なのね」


「ご名答。さすが、聡明さは母さん譲りだなぁ」


 人を食うような態度でぱちぱちと手を叩く様子が酷く腹立たしい。この歳になっても私を子どもとしてしか扱わず、たった二人の兄妹だというのに相談もなく独断ばかりになった。私を見ること止め、この世を手中に収めることに執着する姿こそがもはや悪魔そのものだ。


「私は良いわ。でも、関係のない人たちの命まで奪って、これが本当に兄様の望んだ道なの!?」


 私の問い掛けに兄はまたクツクツと笑うだけだ。長い髪の下で青い瞳がじろりとこちらを睨み、底の見えない不気味さを醸し出す。


「なぁマイ。俺が本当にお前を殺したかったと思っているのか?」


「今さら何を……」


「俺は兄貴なんだぜ。お前がどう行動するかなんて手に取るようにわかる」


 今さら兄を名乗れる立場でないことは彼もわかっているはずだろう。しかし彼の計略によって身柄を抑えられてしまったのは事実で、その策士ぶりに悔しさを滲ませることしかできない。


 兄は二の句を継げない私に向かって「大方こんなところだろう」と前置きを作ってから語る。それはまるで、過去の私の思考をそのままトレースしているようだった。


「俺がドゥーマを復活させることを聞き、お前はそれを防ぐ手立てを探した。そして母さんの言いつけ通り、王都に助けを求めに行ったんだろ?」


 無言は肯定だと言わんばかりに、兄は私の行動を確信していた。まさか店主さんが頼りにしていた老剣士が内通者だったとは夢にも思わず、兄は最初からあの人を使って私の行方を掴んでいたのだ。


「お前の正義感、規律性。大いに結構! できた妹で俺は心底嬉しいよ。だが、だからこそ浅はかだ。何せお前の存在さえ、儀式に必要な材料だからな」


「どういうこと……!?」


「ドゥーマ復活のために必要なもの……それは魔術と呪術、両方の才覚を持ったセアル家の者の血――つまり、お前だよ。マイ」


 告げられた言葉に、ドクン、と全身が衝撃に打たれた。


「私が『厄災』の……!?」


 ドゥーマ復活のためには何か条件が必要だとはわかっていた。そうでなければ、兄はすぐにでも国を落とすための行動を取っただろうから。けれど、今までセアル家の呪術について研究してきても、そんなことはどこにも記されていなかった。


 私の動揺には目もくれず、兄は続ける。


「セアル家の先祖は何の理由があってか、ドゥーマの封印に複雑な鍵を幾つも用意した。まるで誰かを選ぶ、いや、待つみたいにな……今となっては見当もつかねぇが、それでもこれは俺にとって最大のチャンスだったのさ」


 もし兄の言い分が正しいとするならば、セアル家はただ民を守らんとしていたのではなく、いつか必要な時まで『厄災』を管理することが目的だったとでも言うのか。そんな危険なことをする理由はさっぱりわからないが、おかげで私の中には、僅かな希望の光が生まれていた。


 ――もし、私がここで死ねば……!


 セアルの血筋を持つのは兄と私の二人だけだ。加えて呪術の才能を持っているのは私しかいない。つまり私が居なければ計画は破綻する道理だ。目が乾いて、息が荒くなって、心臓の鼓動が早まる。


「おっと、ここで死んだって無駄だぜ。俺に必要なのはお前の血であってお前じゃない。ここにくるまでに死なれたら困るから、ここにたどり着くように誘導したんだ」


 しかし私の単純な考えは見越されていた。頭に浮かんでいた一つの可能性さえ潰える。最悪私は死体でも構わず、この遺跡へと攫われてしまったことで兄の目的は達されてしまっているのだ。


 ぐっと奥歯に苛立ちを隠しながら、納得のいかない兄の言葉に噛み付く。


「誘導、ですって……!? 私は自分の意思で、兄様を止めに来たのよ!」


 一年前に父親が病死し、ひたすら『厄災』の復活を望むようになった兄。たった二人きりの家族を取り戻すために、紅蓮に包まれた森を駆け抜けたのだ。その意思と決意をあたかも人形ように嘲笑され怒りが込み上げる。兄は、ほとほと呆れたと言わんばかりに手を振った。


「全く……お前は本当に優等生だな。自己犠牲を厭わず、無関係な民や救いの手を伸ばすこともねぇ国のために殉死できる。まさに歴史の闇に食い潰されたセアル家の権化だ」


「兄様にはわからないわ。誰の命も粗末にする、今のあなたには!」


 私は言いながら服の下に手を入れた。多くの荷物は馬車に置き去りになってしまったが、店主さんに言われ自衛の策は常備している。しかし真正面から挑もうにも、生半可な威力のものでは兄には通用しない。


 意表を突ける今この瞬間だけが、チャンス。


 取り出したのは糸で繋がれ、数枚が重なった呪符の束。それらは全て炎の魔術と火薬が交互に封じられたものであり、即席の爆発を生み出す仕組みだ。


 ――ごめんなさい、母様。


「セアル家の呪いはここで終わらせましょう」


 この狭い洞窟では逃げ場はない。兄の命諸共、遺跡ごと崩落の海に沈めてしまえばそれで終わりだ。


「解放――“火散粉煙かざんふんえん”!」


 破り捨てた呪符が暗闇を赤く照らす。黒い煙が広がり、飛び出した炎が引火する――その前に。


 いつの間にか兄の姿はすぐそこにあった。私の破り捨てた呪符が地に落ちるよりも早く、紙の間に腕を滑り込ませる。「何を」と思う間もなく、兄の手は現れた赤い光を握り、覆った。


 爆発は起きない。炎は火薬に引火せず、兄の電光石火の判断によって消化されてしまっていたのだ。私は愕然としかけた意識を何とか保って、右手に新たな炎を生み出そうとする。しかしその腕もまた同じように掴まれ、私の体は地面から浮かび上がった。


「焦るじゃねぇかよ」


 耳元で嘲る声がした。胸ぐらを掴むように持ち上げられた体は身長差も含めて引き伸ばされる。足の爪先が地面スレスレを擦り、限界まで引き伸ばされた腕がじりじりと痛んだ。


「うっ、ぐ」


「全く、我が妹ながら恐ろしいぜ」


 ミシ、と手首の骨が歪むような音がする。力が入らず、発動しかけていた魔術は使えない。


 ならば、とすかさずもう一方の手で炎を作ろうとしたが、次の瞬間には私の体は宙を舞っていた。持ち上げられていた腕を使って放り投げられたとわかったのは、石床に足を打ちつけた時だった。ごろごろと土だらけの遺跡を転がる。


「無駄なことはよせ。呪術の使えない俺の代わりに、お前は協力するだけで良いんだ。それだけで、俺の作る新たな王国のお姫様になれるんだぞ」


 立ち上がろうとして、足首に鈍い痛みが走った。もう逃げることさえも許されない――いや、元よりそんなつもりはない。次に兄と対峙した時は、全てに決着をつける時だと決めていたのだから。よろめく体を奮い立たせながら、叫ぶ。


「そんなものは望んでない……私には、もう目指す人ができたの!」


 騎士は居なかった。けれど、今は誰よりも頼もしく思える憧れが居る。風前の灯だった私を、この場所まで導いてくれた優しいそよ風。


 だから、ここから先は私が歩むべき道だ。家族を取り戻すために全力で挑むことこそ、お人好しの彼への恩返し。


「“焔の弩ほむらのいしゆみ”!」


 業々と煮え滾る炎が猩々緋の矢を象る。それは私の身長を大きく越え、やがてこの暗がりに一つの太陽を生み出した。


「愚かな妹よ」


 兄は片腕を振りかぶる。薄赤い灯火を編み出している指先は、魔術での迎撃体勢に他ならない。だとしてもこの距離、この規模の魔術のぶつけ合いならば、いくら才覚溢れる兄とて無傷では済むまい。


 そして無論、私も。


「さようなら」


 それが誰に向けて言った言葉なのか、自分でもわからない。今から潰える現世か、共に散る兄か、それとも、ここに居ない優しい誰かのためなのか。


 洞窟を真っ赤に染める焔が飛翔した。勢いは呪符に封印していた火柱の比ではない。さながら大風を巻き込んだ火災が一匹の狼に迫るよう。化け物じみた兄と同じ血を引く、私の全力。


 災害が化け物へと降りかかる。次に訪れる衝撃は、この場に居る誰もが耐えられない熱量だ。自分の体がぐちゃぐちゃに溶ける様を思い浮かべながら、それでも不思議と恐怖はなかった。もしもそれが兄の言うセアル家の抱える自己犠牲の本質ならば、私は誇らしく紅い徒花になってみせよう。


 闇を駆ける一閃が兄と衝突した。瞬く間に地下を激震させる程の爆発が生まれて、私の体は熱風で吹き飛ばされる。


「……っ!」


 あまりの衝撃波に悲鳴すらこぼれない。反射的に目を塞いだが、鼻も頬も耳も手も、露出していた肌の全てが焦げるように痛かった。体は壁に押し付けられ、身動きの許されない中でただ灼熱の風を浴びるだけ。


 衝撃は刹那。されど凄まじい空気が洞窟を抜けていく。風が止んだ時には立っていることすら叶わず、膝からがくりと崩れ落ちた。


 ――生きている。


 全てが終わった瞬間に感じたのは、まだ痛みも息苦しさも知覚できる自分の幸運だった。閉所であの爆発を受け、木っ端微塵にならなかったことが奇跡である。果たして、私よりも至近距離で先の爆発を受けたはずの兄はどうなったのか。


 そして目を開いた先に、あるはずのない異様な光景を見た。


 さっきまではあったはずの天井からは月の光が覗き、吹き抜けとなってしまっている。崩落してもおかしくない惨状が広がる中、兄は飄々と元の場所で立っていた。


「――足りねぇよ。お前じゃあ、何もかも」


 その言葉に、熱だらけの体が冷や汗を吹き出した。さらに見れば、兄の背にある祭壇や棺にも傷一つ見られない。彼の向こう側には、私の魔術の影響は一切現れていないのだ。


 ――爆発の魔術の風圧を使って、私の炎を消し飛ばしたっていうの……!?


 蝋燭を思い切り吹き消すのと同じようにして、炎の魔術が生み出す爆風だけであの規模の魔術をかき消したのだ。そんな子どもの遊びみたいな方法で、私の全力は否定された。魔術も呪術も、私の培ってきたものは余さず蹂躙されたのだ。


 私が知る頃よりも数段強くなっている。奇しくもそれは、物語の英雄の如き力量にまで。


「さて、そろそろ抵抗する力も失ったか?」


 物でも拾い上げるみたいに、骨張った腕が私の胸ぐらを掴んだ。足がゆっくりと地面を離れ、当たる拳と締まる襟が呼吸を苦しめる。


「うぅっ……」


 喘ぐ喉には焦げた風しか通らず意識が朧に包まれていく。段々と焼けた土の匂いが薄れていって、血が指先を温めない。兄の腕を外そうとしても枯れ果てた手の力では寸分も動かなかった。抵抗する手段はもう残っていない。


「お前が死ぬのは勝手だがな……先んじて聞いておかなきゃいけないことがある」


 そう言った兄の顔はさっきまでの飄々とした態度とは全く別の、相手を射殺すような眼差しだった。そこに昔の彼の一面を垣間見た気がして虚しさが溢れ出る。しかしそんな愁傷をかき消すほどに、兄の問いに驚愕させられた。


「刻時石はどこにある? ――無事、だろうな?」


「……!?」


 どうして兄が石の無事を祈るのか。刻時石はドゥーマに対して何かしらの効果があるからこそ託された物だ。だからこそ兄は私に破壊を命じたのではなかったのか。


「答えねぇなら良いさ。答えたくなるよう、その指の一本一本を焼き切ってやる。お嬢様育ちのお前が、そんな痛みに耐えられるかな?」


 声が出せる状況ではないこともわからないほど、兄は自分本位だった。苦しさに歯の奥を噛み締めて耐える。せめて命絶えるまで、叫びの一つもあげてやるものか。


 私を持たない方の手が燃えるような紅に染まり始めた。これから襲い来る熱鉄の如き痛みを覚悟し、白く霞がかる世界から目を閉じた。


「待て!」


 高らかに響く声が胸を揺らす。それが驚愕だったのか、一縷の希望を得たからなのかはわからない。私よりも戦えるはずがなく、そして私の比にならない程に頼れる人――ルミー・エンゼの姿があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る