第21話 襲撃
そうして男は立っていた。目測で背格好は俺より大きく、クイップさんと同じくらいと見える。やや窶れているが見た目は若そうで、二十代半ばと言ったところか。薄暗くなった森の中でたった一人。向かいくる馬車の群れを視界に入れて、ただ、不動。
男の森に対する異物感を覚えたのは服装からだった。新品同然の黒マントは旅人という風体でもなさそうで、かと言って貴族の人間が羽織るような高級な物ではない。あたかも森に溶け込もうとしている――そんな思考が透けて見えるような恰好がこの場所では異質そのものだった。
加えて、森に潜むには随分と目立つ紅い髪。きめ細かな艶こそ無いものの、瞳を覆うまで伸びた赤色は、ここ暫く一緒に居て目に焼き付いた色と同じだ。
「まさかっ……」
脳裏を過ぎった憶測を口に出す前に、男がこちらに向けて差し出した指で森の中でパチリ、と快音を響かせた。
前方を走っていた馬車が轟音と共に爆発した。
大量の硝煙が舞う直前に捉えたのは木材や積荷が飛び散る様子。そして黒い赤に染まってしまった何かを形取っていたものたち。例えばそれはさっきまで大地を駆けていた蹄だったり、まさに今、俺の肩から伸びる腕に似たものだったり。生命を司る細胞が機能を失ってただの肉片になってしまった『それら』が散らばる。
「てっ、敵襲ーっ!」
目の前で起きた凄惨な光景が焼き付いた中で、辛うじて動いたのは声帯だけだった。自分のものとは思えないくらい裏返った声で、認識したくない景色からわかる現状を必死に叫ぶ。その声が届いたのか、はたまた馬車が炸裂した音に反応していたのか、別の荷台から幾人もの【ソラティア】の構成員が現れた。全員が白煙の向こうの景色を捉えて焼け焦げた残骸を見る。
「なんてこと……!」
声を出したのはリーダーたるアレス。あの馬車に乗っていた、【ソラティア】のおよそ三分の一のメンバーの命は、恐らくもう無い。拡散した血飛沫が露わになるにつれてその事実を受け入れざるを得なくなる。
「今の爆発は……“魔術”なのか?」
馬車一台を塵にするほどの使い手なんて耳にしたこともない。もしも口にした推測が正しければ、赤髪の男はハリエラさんをも凌ぐ魔術士の可能性がある。底知れぬ実力に体の芯がすぅっと生気を失った。
「総員戦闘態勢! あの男をっ……」
「うっ……おおああああーっ!」
アレスが柄に手を掛けるその前に咆哮が聞こえた。野太声は獣の雄叫びを思わせ、薄暗い森の中に一瞬の雷光を生む。遠目から見てもわかった。憤怒そのものを身に宿したソラウが赤髪の男に攻撃を仕掛けたのだ。駆け抜ける鬼の形相を、酷く涙で歪めながら。
大地を穿つ威力を持った豪腕が男を襲う。それでも男は一歩たりともその場から動こうとせず、先程指を鳴らした方の手を再度ゆっくりと前に出した。
「ソラウ! 奴の魔術に気をつけなさい!」
先駆けたソラウに対してアレスが叫んだ。やはり誰もが先の攻撃を警戒している。まともに喰らえば跡形もなく木っ端微塵になってしまう。男の手に真っ直ぐ向かって行くソラウの身を誰もが案じていた時、男は初めて口を開いた。
「――お前みたいな雑魚じゃ、魔術を使う理由にもならねぇ」
微かに聞こえた、しかし確かに届いたその言葉に戦慄が走る。強がりの嘘にも聞こえたが、男の右手は振り抜かれるソラウの腕を真正面から迎えようとしていた。
「死ねっ、クソ野郎がああああっ!」
【群れ狼】よりも、クイップさんに拳を向けた時よりも大きな雷鳴が轟く。男の体がくの字に歪み、全身の骨を砕かれる――はずだった。
男の大きな手はソラウの拳骨を覆う形で捕まえ、瞬間鳴り響いた音が無かったかのように雷の勢いが殺される。助走も、振りかぶった腕の勢いも纏った“魔術”も、彼の手には何一つ残ってはいない。
「あ?」
「あの世で鍛え直しな、愚図」
決して大きな声ではなかったはずの男の声は、あたかも森中に響いたように俺たちの心音を引っ掴む。困惑したソラウは拳を握られたまま宙に浮かび上がり、全身が男の頭上にまで昇った直後。
男の足元に赤いクレーターが出来上がった。
砕けて舞い上がる石礫。遅れてやってきた全身を貫く衝撃に、誰もが硬直していた。理解の範疇を超えた異次元の出来事。詳細を話すには、俺の頭でできる理解からとうに外れてしまっていた。
「ソラウ――ッ!」
【ソラティア】の一員が叫ぶ。振り回された玩具の如く地面に叩きつけられたソラウはピクリとも反応しない。全身から滲む血の量が、彼の生命の呼吸の脆さを物語る。
圧倒的な力量差。実力主義の【ソラティア】の副リーダーはあまりに呆気なく、化物じみた謎の男に敗れた。
「店主さん、何が……?」
「おいルミー、随分騒がしくなって……!?」
天幕の外の異変に気付いたマイとトウマが顔を出した。この超常の事態をどう説明したものかと戸惑っていると、前方に広がる悲惨な光景を目の当たりにしたマイが唇を震わせて言った。
「
フードを被っていてもわかるほど色白い肌が蒼白に染まっていた。同じ血を分けた人間を見る目とは思えないくらいマイが激しく慄いているのが伝わる。
「やっぱり、あいつがキッグ・セアルなのか」
硬直するマイに問うと、彼女は長年放置された機械みたいに首だけで頷いた。予想は的中してしまった。よく似た赤い髪や、この場にいる不自然さが彼女と最初に出会った時の違和感と重なっていたから。しかしながら、今はあの時には存在し得なかった確かな絶望を感じている。
「『王国騎士に引けを取らない』……そんなレベルじゃないぞ」
いつかにマイが教えてくれたキッグ・セアルへの評価。王国騎士団はこのルディナ王国きっての精鋭たちで構成されていると聞く。実際に会ったことは無いが、そうだとしても実戦経験の豊富な開拓者がそうそう引けを取るものか。
「ど、どういうことなんだよルミー。兄貴とかって……って、あそこでやられてるのってまさかソラウか!?」
セアル家についての事情を知らないトウマはただ現場の状況に驚くしかできないで居る。しかし仔細を話している時間は、支援者の俺たちには残されていない。
「トウマ、敵襲だ。天幕の中にいる支援者たちに伝えて、俺たちは一旦離れよう」
「お、おう! 後ろの馬車にも伝えてくる!」
彼は荷台を飛び降り、風の魔術を使って早馬になる。情報伝達をトウマに任せたら、俺は馬の手綱を強く握り直した。
「い、良いんですか? 逃げてしまって」
「俺たちが居ても巻き込まれるだけだよ。前にも言ったけど、戦いの邪魔にならないことが支援者の基本なんだ」
支援者はあくまで開拓者の活動を手助けする仕事。そして戦闘は彼らの仕事である。その相互関係から逸脱してしまうなら、職業の区切りなんて必要無い。俺たちが馬車ごと『お荷物』になれば、寧ろ厄介事を抱えさせてしまうだけなのだ。
それでもなおマイが不安そうな顔をするのは、彼女が一番キッグ・セアルの危険性を理解しているからだ。家族である自分が逃げて良いものかという葛藤もあるのだろう。
「大丈夫。何せこっちには、あのクイップさんが居るんだから」
最強の剣士とまで言われた彼ならば、異常な力を見せたキッグにだって劣るまい。さらにその弟子までもが相手なら、単騎で勝てる人間なんてまず居ない。【ソラティア】に敗北はあり得ないのだ。だから俺たちにできることは、物資や移動手段を守ること。
「分はこっちにあるよ。とにかく逃げる準備を……」
その時だった。キッグ・セアルと交戦する真反対の方角から、幾重にも重なった怒号が響き渡ったのは。
「かかれぇーっ!」
木々の間をすり抜けて聞こえたのは開戦の合図を示す言葉。聞き覚えのない野太く血気盛んな声が空気を揺るがす。慌ててそちらを振り返って見れば、三十は下らない男たちの群れが全力で馬車に迫って来ていた。
「店主さん……! あれは兄の仲間です!」
マイの言葉に目を見開いた。身なりも整っておらず荒くれ者にしか見えないが、妹である彼女が――否、かつて命を狙われた彼女が言うのなら間違いないだろう。
「挟まれたのか……!? 一体いつから付けられて……?」
少なくとも昨日まではそんな気配を察知できなかった。しかしここまで接近されているということは、【ソラティア】はずっと狙われていたと考えるのが自然だろう。
――仕組まれていた。誰かがキッグ・セアルを手引きしたとでも言うのか。
突拍子も無い思考のはずなのに、やけに背筋に悪寒が走る。キッグ・セアルが目の前に現れたこと。その部下が【ソラティア】の動向を把握していたこと。状況が出来過ぎている。
唖然とする【ソラティア】のメンバーを差し置いて、気怠げに立っていたキッグ・セアルがうつ伏せに倒れたソラウの頭を踏みつける。空を見上げ、その先にある愉悦に触れるように猟奇的な笑みを浮かべた。
「さぁ、俺の野望を始めようか! 悪いが開拓者諸君――生贄になってもらうぜ」
意識なく転がるソラウを蹴飛ばして宣戦布告をする。その静かな威圧感に足を止める開拓者たち。しかし、先頭に立つ一人の美女だけは物怖じなんて言葉を知らなかった。
「一人倒した程度で、そう舐めないで欲しいわね……! みんな! 猛者を自負するのなら、決して臆するな!」
そうして号令をかけると、アレスは藍色髪を舞い上げてキッグに挑みかかる。【ソラティア】は二分し、荒くれ者とのぶつかり合いが始まろうとしていた。
「マイ、馬車から降りて。俺のまじないで姿を隠す。その間に離れよう」
「わかりました。すぐに中の方々にも伝えます!」
そうしてマイは荷台で休んでいる支援者を呼び起こしに戻った。その間に俺は両方向から迫る危機に目を向ける。この森の暗がりなら、一度視界から逃れることができればそうそう見つかるまい。ポーチからは他者からの認知を阻む“盲隠のまじない”に必要な呪符を取り出しておく。
まずは確実に逃走。そして負傷した開拓者たちの救護が必要だ。特に爆発した馬車に乗っていた人々とソラウは早くしないと手遅れになる。
アレスとの戦いに備え、“魔術”を片腕に纏うキッグ・セアルが見えた。こんなにもあっさりと人の命を散らすことができる人間が他に居るだろうか。まさに殺戮兵器。いつかに聞いた『化け物』という言葉が脳裏を過ぎる。
「きゃあっ」
「っ!? マイ!?」
荷台から聞こえたその声とほぼ同時に、首の裏に衝撃が走る。
「うっ」
短い声を漏らして体が倒れていく。正確に何が起きたかはわからない。ただ、もうこんなところにまで敵が居ただなんて迂闊だった。
死を予感した直後、俺の視覚はあってはならないものを捉えた。白い長髪。清潔な背広服。そしてなにより、纏う剣気。
「申し訳ない……ルミー殿」
“破剣”のクイップ。マイを担ぎ上げる彼の姿を確かに見て、俺の意識は黒く染まっていった。
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