第5話 終わる覚悟との邂逅
先程まで鉱物や岩だけで構成されていた洞窟は、しばらく歩いても未だに氷結の世界だ。ハリエラさんの『魔術』が引き起こした大規模な気温低下によって、吐く息は白く、体力の損耗も激しい。しかしながら、行く先々にさっきの火柱を放出すると思しき呪符を確認すると、奇襲を防ぐことができたという大き過ぎるメリットが存在する。
「寒いかい、ルミ坊」
「そりゃあ寒いですよ。冬用の装備じゃないんですから……」
当のハリエラさんは外套も羽織っていないのに、この極寒に全く動じていない。それは魔術の発動が体内のエネルギーを使う、すなわち運動に近いからだ。走ったら体力を消費し、その分熱が発生する。同じ道理で魔術の行使には体力を消耗するのだという。無論、俺のようにその才覚を持たない者も居て、万人が持つ技能という訳ではない。
「はは、まぁちょいと我慢しな。この先にいる敵を片付けて、さっさとお酒で温まろうじゃないか」
「それ、俺は飲めないやつじゃないですか?」
「期待してるよ、店主サマ」
言うなり彼女はけらけらと笑い声を響かせた。飄々としているハリエラさんだが、俺には少しだけ懸念がある。あれだけの大規模な魔術を発動しておきながら、彼女はこの極寒で一切震える様子もないのだ。もしかしたら彼女は、見えているよりも多くの体力を消費したのではないだろうか。
「……そうですね。早く戻って、彼らの手当てもしなくちゃいけませんし」
「なぁに。全員致命傷は避けてたよ。さすがにアタシが見初めただけあって、なかなかしぶといヤツらさ……ホントはアンタも残して行きたかったんだけどね」
この先にいる敵は『呪術』を使う。発動には「触媒を消費する」というデメリットが存在するものの、その分多種多様な効能を得ることができるのが特徴だ。魔術と違って条件さえ整えば術者本人がその場に居なくても発動可能なため、先程の火柱による奇襲のようなことができる。だから必ずしも敵が呪術士とは限らないが、呪術を扱える人間の少なさを踏まえると可能性は高いと言わざるを得なかった。
「呪術はアタシじゃあ判別できない。正直、この先にいるヤツがどのくらいの使い手かはわからないけど、さっきの奇襲の精度は開拓者からしてもなかなかだった」
ハリエラさんに改めて言われ、俺は自分の顎に手を添えて考えた。呪術は間違いなく危険なものだが、即時的な攻撃手段にはならない。それが今まで学んできた『呪術』の基礎知識だ。しかし、あの呪符はその理を明らかに飛び越えている。
「あの呪符から飛び出して来た炎……すごく『魔術』に似ていましたよね」
俺の言葉にハリエラさんがうんうんと頷く。槍を象った炎――火種を生み出すだけの呪符ならばまだしも、揺れ動く火の形状を操作するなんてことは『魔術』でないと不可能だ。頑強な開拓者たちをも貫く威力も持ち合わせており、まさに呪符から魔術が放出されたと言っても過言ではない。
「魔術を生み出す呪術……? 俺の“陽光札”と同じ要領か、それとも全く別の……?」
「早い話、敵はアンタよりも呪術に精通してる可能性が高いのかい?」
話し相手を失っていたハリエラさんが尋ねてくる。俺は一度思考を止め、正直に話した。
「……わかりません。俺も自分に自信がないわけじゃ無いですけど……如何せん情報の少ない分野です。未知の呪術があったとしても、驚くようなことじゃありませんよ」
「そりゃあそうさね。アタシだって氷の魔術以外はてんで駄目だからねぇ」
使えない俺にはわからない感覚だが、どうやら『魔術』にも得手不得手があるらしい。ハリエラさんは“凍土の魔女”の二つ名が付くほど氷魔術が得意だが、他の物質を生成することは殆どできないと言う。
「ま、どの道ねじ伏せるだけさね」
静かな気合いに満ちた声が暗闇に吸われる。楽観的な性格の彼女であっても、今回ばかりはいくらか思うところがあるようだ。それは恐らく、彼らをここに連れて来た先輩としての責務だろう。
「はい。早く【ソールサー】のみんなのために戻りましょう。死なないにしても、後遺症が残るといけないですから」
「もちろんさね――さぁルミ坊、そろそろアタシが凍らせた範囲を抜けるよ」
滑りやすかった地面が、靴の裏に石の引っ掛かる感じに変わる。ここまでに人の気配は無い。つまりこの先の「敵」は先の魔術に巻き込まれていないと考えるのが妥当だろう。冷気の残る洞窟に白い息を強く吐き出す。
「以前行われた『アルテナ鉱山』の探索が中断されたのはもっと奥なんですよね?」
「あぁ、何せアタシたちが丸一日かけて踏破しようとしたんだ。こんな浅いところじゃあない」
「それなら……」
俺は“暗視のまじない”によって開けた視界でもう一度周囲を確認する。辺りには機能停止の呪符がちらほらと散見されるだけで、他に人工的な物はない。二年前の崩落で進めた探索も恐らくは全て撤退済みであろう。ともすれば、おかしいと思えることがあった。
「ここを根城にしているなら、もっと多くの罠を置くと思いませんか?」
「それはアタシも思ってたよ。呪術ってのが全部目に見えるものかは知らないけど、もしここが拠点で、それを崩されたくないなら、もっと撃退用の何かの痕跡があっても良いはずさね」
「つまり敵は、この鉱山を日頃から住処にしているわけではなく、偶然入り込んだ」
「それか入り浸って間も無いか、だね」
俺とハリエラさんが見出した可能性に共通する点がある。それは、相手にとって時間が足りないこと。より具体的には――外敵を排除する準備が整っていないということだ。
「そうと決まれば時間の勝負です。ハリエラさん、俺の後ろに付いて走って来てください」
「……本気で言ってるのかい? そりゃあアンタならこの先にある罠も看破できるかもしれないけど……」
「さっきは足を引っ張っちゃいましたからね。それに、守ってくれるんでしょう?」
俺の無上の信頼にハリエラさんは随分と驚いた顔をして、すぐにふっと笑った。
「全く、肝の据わった支援者さね」
その一言を了承と得て、俺は持ってきた直剣を握りしめる。不安も恐怖も尋常ではない。ただ、俺のバックにいるのは開拓者ギルドきっての天才魔術士だ。彼女が信じられなくなるほど、俺はこの世界に強者がいるとは思わない。
「三歩ほど後ろをついて来てください――行きます!」
「あいよ!」
俺はざらつく地面を全力疾走する。寒さと恐怖で震えていた体は、呼吸器官の働きと一緒にその温度を上げていく。
――いつ、来る。
眼前と足元、さらには壁も見遣りながら、俺の中ではその考えが反芻し続ける。敵は俺が支援者寄りの能力と割り切っていた『呪術』を攻撃へと転用してきた。それだけでも未知ではあるが、俺もこの数年間、何の自負も持たずに才能を磨いてきたわけではない。
またハリエラさんにとっても、支援者という立場の俺を先頭に立たせるのはいささか不本意であるだろう。開拓者の第一線にいる彼女がその矜恃を曲げてまで俺を先行させるのは、やはりそこに信頼関係があるからなのだ。俺は今、彼女ら開拓者と同じ立場にいる。それが少しだけ嬉しくもあり、武者震いを許さないプレッシャーにもなっていた。
だから目の前に異常な光が見えた瞬間、俺は躊躇うことなく叫んでいた。
「さっきの炎です!」
「――っ」
俺の言葉が終わるときには、さっきまで後ろを走っていたはずのハリエラさんがいつの間にか隣を走っていた。そして一層色白くなった右手で炎を撫ぜると、飛来物は跡形もなく消滅する。目の前の光景に気を取られることなく、床や壁に視界を向ける。しかし今の火柱の他に違和感は掴めない。【ソールサー】を撃退するに至った『呪符』による罠は、広範囲に火炎をばら撒くことで有効な手段となった。巧妙な技術を持つこの「敵」が、果たして牽制にもならない攻撃を仕掛けてくるはずがない。
もしこれが何かの合図だとしたら。火柱を放つことが本意ではない。呪符が生物を感知し、接近を教えることが目的ならば。
「急ぎましょう、敵は近いです!」
俺とハリエラさんは揃って地面を力強く蹴り出した。炎が接敵の合図として使われるのなら、それは何かしらの準備が始まるということになる。そしてそれは間違いなく、俺たちを迎撃するための必殺の一撃。
「間に合えっ……!」
祈る気持ちは声に溢れたが、どうやら独り言になったようである。そして一本道が大きく広がり、当初【ソールサー】が休憩地にする予定だったと思しき大空洞に出た。
そこにいたのは赤毛の少女だった。顔はまだ幼いと見え、十代半ばくらいだろう。身なりは貴族が着そうなロングスカートのドレスなのに、ところどころに傷や破れた箇所があり、血や生傷を思わせるものすらある。殆ど開拓者しか訪れたことのないこの鉱山に存在するには、あまりにも異質だった。
俺はその少女を見たとき――なぜかとても哀れな感情に囚われた。みすぼらしい姿にではない。敵意を持ちながら気丈にこちらを見据える青色の瞳の中に、何か大切なものを棄ててしまうような諦めの感情を宿していたから。
「アイツが犯人か」
隣を疾駆していたハリエラさんがさらにギアを上げた。再び氷魔法の予兆が見られるその手は、赤毛の少女を拘束する腹積もりだろう。彼女は俺なんかではとても追いつけない速さになり、その瞬足で一気に少女に迫る。
しかし少女もただ黙っているわけではない。俺が予感した通り、彼女もまた迎撃の準備を整えている。その手に握られているのはまた奇怪な字列のある薄紙――呪符だ。
「封印解放――“
破られた呪符からは先の火柱。それが幾重にも連なり長大な槍となって放たれる。さっきから見ていた罠とは訳が違い、視界が真っ赤に染まり、術の規模はハリエラさんに匹敵している可能性すら感じさせた。
ただ、いかにその威力が同列であろうとも、ハリエラという歴戦の開拓者は明らかに経験という点で勝っている。霜が降りていただけの手の周囲には粒子の凝結が発生し、折り重なるように氷が生成されていく。頭上に生み出されたのは彼女自身の身長を優に超える氷塊で、大空間の半分を埋め尽くさんばかりだった。
「はぁッ!」
気合とともに腕がしなり、あたかも遠投するポーズのよう。ただしその手が掴むのはボールではなく、特大の氷の一部分である。果たして、連なった火柱を受け、なおも解け残った巨大な氷が水蒸気を上げながらボロボロの少女を押し潰さんとした。
「っ」
声もなく、少女の両手が紅に染まるのを見た。その現象は色彩こそ違えど、ハリエラさんの魔術に酷似していると言って良い。氷塊が地面を揺らす直前、さらなる蒸気が洞窟内に充満した。
「炎の魔術で溶かされました!」
「呪術だけじゃなくて魔術も使えるってのかい……! 随分器用じゃあないか」
地鳴りが鉱山を揺らす。再び崩落を呼び起こしかねないほど激しい戦い。生き埋めになる心配が巡った時、突然目の前のハリエラさんが片膝をつくようにして座り込んでしまった。
「ハリエラさん!」
「すまない……ちょいとデカい魔術を使い過ぎたみたいだよ。アタシは、体力には自信が無いんだ」
彼女はこの短時間に大型の魔術を連発している。ハリエラさんは開拓者と言えども華奢な女性。元より彼女の得意とする分野は緻密な魔術操作であり、豪快な大技の数々ではないのだ。やはりあの時、寒さを気にする素振りが無かったのはエネルギーを大量に消耗したせいか。
氷の内部が赤く光る。段々と近づいてくるように色味を増し、やがて薄くなった部分からさっきの少女がその姿を現した。
「はぁ……はぁ……」
氷のかまくらから出てきた目は、晴れた日の夜空のごとき青藍。瞳には強い意志があるものの、息はろくに整っておらず、顔色は蒼白という酷い状態だ。ハリエラさんよりも明らかに体に異常をきたしているはずなのに、なぜ少女はそうも毅然と立っていられるのか。
「あなたたちに、『厄災』の力は使わせないっ……」
――厄災。
俺は少女の発した言葉の意味がわからなかった。それでもかろうじて理解できたのは、その少女がぐしゃりと握るものが『呪符』であるということだった。
「ルミ坊ッ!」
ハリエラさんが叫んだ理由は、俺が突然走り出したことに対してだろう。しかし彼女に返事をすることもなく、一直線に赤毛の少女に向けて突っ込んで行く。
持っていた長剣すら投げ捨て、ボロボロの少女を両手で押し倒す。抵抗があることも予想していたが、その体はあまりに簡単に、重量を感じさせない勢いで地面に仰向いた。そして彼女が手に持つ呪符を無理矢理に引き剥がす。
「うぅっ……!」
「これで呪術は使えない……!」
触媒がなければいかなる呪術も使えない。少女は俺を押し退けようと藻掻くが、体格差と彼女の力の入っていない腕がそれを許さない。俺は少女の腕を二本とも地面に押さえつけ続ける中で、さっきまで彼女が握り潰していた物を見た。
「はな、してっ……!」
「文字が火薬と炭で書かれてる……これ、ひょっとして起爆剤か?」
「!」
間近になった青い目が見開かれる。俺はその反応で自分の仮説を確信すると、息を切らしながらも近くに来てくれていたハリエラさんに向かって警告した。
「この娘、自分ごと俺たちを洞窟に埋めようとしてたみたいです。その呪符には恐らく火薬やらガスやらが溜め込んであって、炎の魔術で着火すれば大爆発を起こせる仕組みかと」
それを聞いたハリエラさんはすぐに落ちていた呪符を凍らせた。無力化したことが分かると、彼女はふぅ、と一息を入れた。
「心中ってことかね。助かったよ、ルミ坊」
「俺を信じてくれたのはハリエラさんですよ。ハリエラさんが俺をここに連れて来てくれてなかったら、怪我をした【ソールサー】の人員ごと崩落の下敷きだったかもしれないんですから」
「そうかい……ありがとう」
素直な感謝が普段の彼女に似合わなくて、俺はついつい笑ってしまった。そしていつの間にか抵抗をやめた少女を見下ろす。鼻筋が綺麗に通った顔で、痩せこけた頬が目立たなければかなりの美形だろう。紅髪は荒れているが、動きにくい背中までの長さを見るに生活水準の高い地位にいたのではないか。このような無人の洞窟には沿わないレース付きのドレスがその推測に説得力を持たせる。
「仲間は、いないよな? 自爆しようとしてたくらいなんだから。なんだって、そんなこと……」
俺はそこまで言って、気づいた。彼女の両の瞳から、涙が流れていることに。その表情は絶望にも安堵にも、希望すら見つけたようにも思える。感情がぐちゃぐちゃに混ざった少女に、俺は釘付けになっていた。
「あなたは……『呪術士』、なの?」
掠れた声で、震えた唇で、少女は必死に問いを発した。俺は一瞬意味がわからず、息を詰まらせながらも正直に答えてしまう。
「……そうだ」
「――お願い」
洞窟の暗がり。“まじない”越しの彼女の顔を、俺は生涯忘れないと思った。少女の嘆願は利己的でしかないはずなのに、どうしてもここにはいない「誰か」を、誰よりも想っていたような気がしたから。
「私を、助けて」
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