第4話 罠

※――――――――――――――――――――――


 ――音だ。


 何日も喋らず、自然の声にばかりに耳を傾けていた私は随分と鋭敏にそれらを感じ取った。石じゃない。砂が落ちるでもない。蝙蝠が羽ばたくような空気の揺れでもない。


 人だ。靴が地を踏む音。持ち物が打ち合う音。服の布ずれの音。それがいくつも、いくつも、いくつも反響して。


 ――近づいてくる。


 その事実の認識までに、私は一体何分要したのだろう。いや、もしかしたらそれはたった数秒だったかもしれないし、数時間を待ったのかもしれない。


 気づいたという現実を認識した時点で、私は千鳥足で走り出していた。ボロボロでまともに食事もできていない体を洞窟の壁に肩を打ちつけながら、それでも奥へ奥へと歩を進め続ける。


 頭がおかしくなりそうだった。そう思えて仕方がないほど憔悴しているのに、まだ私自身を客観的に見ている自分がいることに安堵する。荒い息を吐くことすら億劫で、前を向くために首を持ち上げることもしたくなかった。ただ転ばないようにだけ。倒れてしまえば、きっと諦めてしまうから。まだ許されない。私の役目はまだ果たされていない。


 片手に握り締めていた小さな石と入れ替えるように、ポケットから取り出した長方形の薄紙を壁に貼り付けながら走った。どんなことをしてでも、託された物だけは守り抜く。


※――――――――――――――――――――――


 『アルテナ鉱山』は整備がろくに行き届いていないものの、一度は王国が開拓者ギルドに依頼し、探鉱に着手した場所だ。そのため既にかなり奥の空間まで掘り進められており、洞窟と言って差し支えないだろう。ただその際に大規模な崩落が発生したらしく、計画は断念せざるを得なかったと聞く。


 それが二年ほど前。再び鉱山の開拓を始めようとしていた王国は、今度は森のボヤ騒ぎに足止めを食らったというわけだ。そんな事故があったこともあり、今回の調査の方針は保身が最優先。崩落の危険が少しでも見つかれば、すぐに撤退することが【ソールサー】とハリエラさん、そして俺の総意だった。


「とりあえず、ここまでは問題ねぇな」


 一時間が経った頃、先頭のナゲさんが久方振りに口を開いた。岩肌に手を当てながら、ひとまずは問題が生じていないことに安心する。


「この鉱山の資料をギルドから借りて読んだけど、二年前に起きた崩落ってのは、当時掘り進めていた最深部のところだけだったそうさね。奥に行くまでは、とりあえず崩れる心配は無さそうだよ」


 全員の後ろを歩くハリエラさんが大きめの声で言う。彼女は風来坊のように自由人だが、開拓者としては高名なだけあって他者の見本になる行動を取れる人だ。だから仕事の前には必ず自身なりの下調べをしている。俺は忘れかけていた彼女への尊敬を思い出しながら、会話の中で一つだけ気になったことを尋ねる。


「最深部だけなら、王国はなぜこの鉱山の開発を諦めたんでしょう?」


「それは資料には書いて無かったねぇ。そもそも最深部だけってのが違和感だ。人為的な何かがあったか、偶然にしては随分……」


 ハリエラさんが言いかけたそのとき、突如として俺の前にいた【ソールサー】の人員が叫ぶように言った。


「おい待て! なんか匂うぞ」


 彼の言葉を聞いた全員がアンバランスな石道の上で足を止めた。緊張の糸が五人を一つに縫い付けるようにして張り詰める。ただ俺には何の異臭も感じ取れず、どれだけ鼻を吸っても砂の香しかしなかった。


「どんな匂いだ」


 ナゲさんが日頃の気さくさを捨てて聞いた。鼻が利くらしい男は、自分が感じている匂いをそのまま言語に変える。


「奥から少し煙っぽい……何かを燃やしたみたいな感じだ」


 その返答に全員が“まじない”によって緑っぽく光る瞳を大きく開いた。彼の嗅覚情報はアテにするなら、想起できることはこういうことだ。


「この先で火を使っている――人間がいるってことか」


 ナゲさんが全員の考えを代弁する。どれだけ知性の高い獣でも、火を扱うという話は聞いたことがないからだ。唯一『龍』と呼ばれる巨大な獣が炎を吐く器官を有していると聞くが、それはあくまでおとぎ話の世界でしかない。この世で火を扱うことができるとすれば、それは俺たちと同じ人間ということになる。ハリエラさんは警戒半分、呆れ半分で言う。


「洞窟の中で焚火とは、随分と非常識な奴だね」


「でも、ここまでに空気の薄さは感じませんでしたよ」


 今居る場所でもかなり深い場所なのに、これ以上奥で火を燃やせば酸素が無くなって中毒死しかねない。違和感だらけの状況に不気味さを覚えていると、ハリエラさんが最前線を歩くリーダーに「どうするんだい」と尋ねた。するとナゲさんは数秒の迷いを見せながらも、獰猛な獣の呻き声みたく低い声音を出す。


「……全員、最大限の警戒をして進むぜ。こんな陰気な穴ぐらにいるんだ。王国手配のお尋ね者だって可能性もある」


 彼の言葉に思わず身震いする。こうして調査や探索のために支援を行ってきたが、人間同士の戦いを直接見た経験は少ない。場合によっては始まるのは、殺し合いだ。今まで目にしてきた獣相手の「狩り」とは訳が違う。


「安心しな。アンタは責任持ってアタシが守ったげるよ」


 俺の不安に気づいたのか、後ろに立つハリエラさんが頼もしい言葉をくれる。


「だ、大丈夫です。いざとなれば、邪魔にならない場所まで後退しますから」


 開拓者の足でまといになる支援者は支援者ではない。実戦経験は無くても、意識することは同じだ。俺は長剣の柄に手を当てて、震える心を払拭した。


「頼もしいな、店主さん――さぁお前ら、支援者が腹ぁ括ったんだ。俺たちは開拓者として、その人間をこの鉱山から引っ張り出すぞ」


 目つきの変わったナゲさんに促され、全員の空気が高圧的なものに変わる。俺は彼ら一人一人が優秀な開拓者であることを確信しながら、ゆっくりと進められる歩みに付いて行く。じりじりと、歩く五人分の足音がしっかりと聞き分けられるくらいに警戒と集中を繰り返す。


 体感する時間は異様なほどの長さだった。早鐘は何を基準に脈打っているのだろう。やがてはたどり着くはずの行き止まりは、果たして今生で見られようか。


 そして、少し遠くの壁に小さな『それ』を見つけた。この大自然の中にあるには随分異質で、綺麗な長方形を保っている。人工的な形と、中に描かれた奇怪な文字列。『それ』が良く見慣れたものだと気づいた瞬間、俺の声帯は大きく震えていた。


「止まって! 呪符がっ」


 ある、とは最後まで言えなかった。突如として橙色に発光し出した呪符から、槍のような形をとった火柱が迸る。火は矢のごとき速度で飛来し、先頭に居たナゲさんの左腕を穿った。


「ぐぁっ」


 握っていた戦斧が地面に落ち、洞窟にカン、カランと反響する。


「リーダー!」


 【ソールサー】の二人がナゲさんの心配をして屈もうとした瞬間、最後尾のハリエラさんが叫んだ。


「バカッ! 周囲を見な!」


 一瞬の油断だったのだろう。彼らが壁から目を離したのがいけなかった。呪符の――罠の数が一つだけなんて可能性の方が低い。すぐ近くに先程と同じ橙色の発光がいくつも見え、飛んできた何本もの火の槍が【ソールサー】の面々の体をを次々と貫いていった。


「うぁっ」


 彼らが倒れると同時に、次の炎は俺に迫っていた。しかしできたことと言えば腰の剣を咄嗟に引き抜いたくらいで、目前になった炎を眺めるしかない。


「ルミ坊ッ」


 鼻が熱を感じた瞬間、突然世界が歪んだ。気づけばハリエラさんが俺の首根っこを掴んでおり、彼女に引き倒されたことを悟る。助けられたという理解と、俺の立っていた場所に彼女が居る形になってしまったことに気づいたのは殆ど同時だった。


「ハリエラさんっ!」


 飛翔する炎が彼女の顔面を貫く未来が浮かぶ。しかし俺は忘れていたのである。ハリエラという開拓者が、ルディナ王国においても屈指の実力者であることを。


「安心しな」


 俺を掴まなかった方の彼女の手は真っ白に染まり『魔術』を発動させていることを確信させる。そして彼女の顔に灼熱が襲う寸前、その手が火柱に触れ――掴んだ。じゅわっ、という蒸発するような音がすると、ハリエラさんを貫くはずだった炎は白い煙を残すだけだった。


 流石はこの国でも五指の内に入る高名な開拓者である。魔術を扱うための判断力、身体能力は並大抵ではない。しかしさらに奥にいくつもの発光を確認した瞬間、俺はだらしなく倒れたまま彼女に言った。


「ハリエラさん、まだ来ます!」


 ただもちろん、彼女がその異変に気づいていないはずもなく、後ろに倒れる俺のほうを見もせずに霜の降りた白い手を前に向けた。


「随分、陰湿な真似してくれるじゃあないさね……!」


 洞窟内に再び炎が飛び交う、はずだった。その呪符がちゃんと機能を果たしたのであれば。


「アタシは正面からこない敵は……嫌いなんだよっ!」


 その手を中心に、一気に冷気が吹き荒れた。吹き荒れるなんて表現は手緩い。まるでその場がハリケーンに突入したかのような猛吹雪。流れるはずのない風が雪のような粒子を次々に洞窟の奥へと運ぶ。ガチガチと地面や岩肌が氷の結晶に覆われていき、発動寸前の呪符をも凍てつかせていく。


 世界が、一瞬で水色の氷洞に変わった。


「さっ、むっ……!」


 鼻や耳、露出した部位が痛い。ハリエラさんが巻き起こした事象を理解するなり、身体中の露出した箇所が痛くなってきた。


 これこそが『魔術』。物質の生成を主とし、大自然の理にさえ抗うことができる技能。


「ふぅ。ルミ坊、無事かい?」


 景色を一変させた張本人は随分とあっけらかんとしていて、それもまた彼女の凄さを思い起こさせる。こんな大規模な魔術が使える人間は、世界を探してもそう居ないだろう。


「はい、なんとか……それより【ソールサー】のみなさんは?」


「なん、とか、生きてるぜ。店主さんよぉ。ちっと寒すぎるがなぁ」


 返事をしたのは最初に炎に左腕を穿たれたナゲさんだった。彼の腕からは出血こそ少ないものの、焼けた皮膚は実に痛々しい。


「ナゲ、アンタ動けるかい?」


「姐さん……すまねぇ、油断した」


「説教は後さね。アンタ、やられた二人の面倒見ててやんな。そんで、動けるようなら外に逃げること」


 ハリエラさんの命令に、ナゲさんは不服そうな顔をした。しかしながら怪我をした状態では彼女の足を引っ張ると判断したのだろう。潔く承諾すると「すみません」とだけ言って黙ってしまう。


「……アンタらはまだまだこれからさね。まずは生き延びな。じゃなきゃ強くなるのに必要な時間すら、貰えないからね」


 その言葉には彼女なりの経験からくる重みがあったのだろう。ナゲさんは悔しそうな表情のまま納得し、倒れていた二人の介抱に移り始めた。


「さて、ルミ坊。どうやら敵は『呪術』を使うようじゃないか。珍しい敵だから、専門家がいると心強いんだけど」


「もちろん、ついて行きます」


「良い返事だ」


 ハリエラさんが白い歯を見せて笑う。俺はナゲさんにポーチにあった消毒液などのいつくかの医療品を渡すと、彼女とともに凍った洞窟の奥へと歩みを進めた。

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