赤の痕跡
鮎崎浪人
赤の痕跡
一
「ア~アア~~」
一人の少女が太い樹の枝に巻き付けたロープにぶら下がり、野獣の雄たけびのような奇声を発している。
ロープは枝を支点に勢いよく大きな弧を描き、少女の身体もそれに合わせて、ぶら~んぶら~んと枝から離れたり戻ったりを繰り返している。
ここは十月下旬の奥多摩のキャンプ場。
東京都の西北のはずれに位置する奥多摩は、都内で最も自然が豊富な地域である。
キャンプ場のほか、湖や温泉もある。登山客も多い。
今日は、アイドルグループ「ネバーランド ガールズ」のメンバーたちと、彼女らが出演している「ASAKUSA 百貨店」というケーブルテレビの自主制作番組のスタッフの面々が「奥多摩キャンプ村」を訪れている。
普段のロケ地である東京都の東部地域から離れ、三回にわたって放送予定の特別番組を収録するためだ。
撮影は滞りなく進んだ。
林に踏み入って竹を捜し、その竹を切って割ってお手製の食器を作ることから始まり、場内の畑でタマネギやじゃがいもを収穫。
木にロープを巻き付け、そのロープを両端から引っ張って木を回転させることから生まれる摩擦によって火を起こす。そして、その火で鍋の中の具材を煮てカレーを作る。
火を起こすために使ったロープを奪い、するするとミズナラの幹を登ってターザンごっこに興じているのは、「ネバーランド ガールズ」の
今回は特別番組であるため、臨時のスタッフとして駆りだされた深川は、初対面の神希の行動に面食らった。
初めて顔を合わすや否や、「『ネバーランド ガールズ』で一番かわいくて面白い神希で~す」との真偽不明な自己紹介にまず驚いたが、番組の収録に入ってからも、団結が主要なテーマであるのに、神希は後輩の
挙句の果てには、他のメンバーがカレー作りの仕上げにかかっているのを尻目にターザンごっこだ。
一致団結という観点からすれば、そんな神希の存在は場の雰囲気をぶちこわす厄介者でしかないが、これがバラエティ番組の収録である以上、意外と重宝されるキャラクターであることくらいは、新卒三年目のADの深川ですら理解している。
現に一台のカメラもそんな神希の行動を撮影していた。
ひとしきりターザンごっこを楽しんだ神希は、地面に降り立つと、カメラの前へ一目散にかけてくる。
ふんわりとしたアッシュブラウンのショートボブが軽やかに揺れていた。
神希はインドとのハーフという特異な生い立ちであるからか、日本人離れした彫りの深い端正な顔の造りをしており、「ネバーランド ガールズ」のメンバーの中でもひと際異彩を放っている。
「わたしのパパの親戚が山口県の田舎に住んでて、小さい頃、よく遊びに行ってたんですよお。
そのとき、木登りを覚えたんです!
だから大得意なんです、ねっ、すごいでしょっ!」
カメラマンのかたわらに立つ深川にも、自慢げに押しつけがましい笑顔を向けてくるので、いささか圧倒された深川は曖昧な笑みを返しつつ一応うなずいておく。
それからも、神希はカレー作りに集中する他のメンバーの輪に加わろうとはせず、深川とカメラマンに対し、その田舎でイノシシに追いかけられて危うく命を失いそうになったエピソードなど、キャンプとは無関係の話題を楽しそうにぺらぺらとしゃべっている。
それにしばしば、「うれシゲ~」、「たのシゲ~」、「おもしろシゲ~」など、本人曰く「シゲ語」を強引に挿入するのも鬱陶しい。
とはいえ、インドとのハーフの異国風の顔立ちと日本の田舎の生活との組み合わせのギャップが多少は面白くもあったのだが、とにかく自分中心の話しぶりの上に、たいしたオチもないため、話し半分で深川が聞いていると、しばらくして手作りカレーが完成した。
「おなかペコペコだよ~ おいしそ~」と、さも自分が一番の働き手であるかのように、神希はいの一番にどっかりと腰を落ち着けると、最初に皿によそってもらうや、あっという間に三杯も平らげたのには、深川はあきれるやら感心するやら。
神希を除くメンバーたちの懸命な労働の後の楽しい食事が終わると、最後の企画、キャンプファイアーで締めくくられる。
だが、その途中で事件が勃発した。それも殺人事件が・・・
その第一報は、午後七時過ぎ、途中で具合が悪くなりコテージで休んでいた
二
「あのなあ、向日葵なあ、見てもうてん!」と大阪弁をまる出しで、仲間のメンバーに訴えかけるように早口の向日葵。
「あのなあ、絶対に見てん! 向日葵なあ、あれはヤバいて、マジで。
影がなあ、あれはそうや、間違いないわあ。棒みたいなんで」
「?」
「?」
「?」
一同、サッパリ要領を得ない。
だが、向日葵のこうした言動に慣れているのか、誰も詳しく問いただそうとはしない。
神希とは別の意味で、彼女もまた個性派のようだ。
見かねたように萌香が、体調不良を押して口を開く。
百六十五㎝を超えてモデル並みに高身長の向日葵に対し、百四十五㎝に満たず小学生にも負けるかもしれない低身長の萌香だが、その話しぶりは堂々としていた。
「わたしと向日葵は、向かいのコテージの様子を目撃したんです。
わたしは具合が悪くてコテージの寝室で横になっていました。
しばらくして向日葵が訪ねてきて、そのときは気分も少しよくなっていたので、向日葵とたわいもない話をしました。
空気を入れ替えたら、もっと気分がすっきりするかもと思って、向日葵に窓を開けるように頼んだんです。
寝室のドアから入って左手の窓です。
すると、向かいのコテージのリビングの光景が目に飛び込んできたんです。
距離は三十mほどだったと思います。
カーテンは閉じられていましたけれど、リビングに電気がついていたので、中の様子が見えました。
そこでは、二人の、シルエットから男の人だと思いますが、その二人の男性が格闘していました。
といっても、凶器を持っている方がずっと優勢で、もうひとりは防戦一方でした。
わたしたちが最初に見たのは、男の人が向かいのコテージを訪ねてきたところで、わたしから見れば、向かって右手にある奥の部屋から出てきた男の人が、左手にあるリビングを通り、玄関から中に招き入れていました。
短い口論の後、声は聞こえませんでしたが、訪ねてきた男の人が傍に置いてあった金属バットをつかんで、もちろんバットもシルエットしか見えませんでしたが、あとでお話しする事情から、金属バットに違いありません、そのバットを右手で振りあげて襲いかかりました。
バットは頭部に命中したようで、相手の男の人は頭を抱えながら膝をつき、そして奥の部屋とを仕切る壁に両手をついていましたが、しばらくしてよろよろと立ちあがりました。
そしてふらつきながら前進し、バットをつかみました。
奪い取ろうとしたのでしょうが、あっさりと突き放されてしまい、二回目の一撃が。
今度も相手の男の人は頭を抱えてうずくまってしまいました。
その姿をバットを持った男の人は、じっと見下ろしています。
しばらくして、相手の男の人は最後の力をふりしぼるように、頭から両手を離して、自分を襲った男が持っているバットをつかもうと両手を伸ばしました。
だけど、その手は届かず、三回目の一撃が。
右利きのバッターの横殴りのスイングでした。
ところが、そのときはバットを握る手がすべったようで、空振りになり、男の人の手からバットがすっぽ抜けました。
すると、そのバットは宙を飛んで、奥の部屋とを仕切るドアが開いていたので、その隙間から、奥の部屋に飛び込んでいきました。
バットを失った男の人はちょっとの間、呆然と立ちすくんでいました。
その僅かな時間をついて、殴られた男の人は、かかんで這いながら奥の部屋に逃げ込み、ドアを閉めました。
そのドアを閉める音に我に返ったのでしょうか、バットを失った男の人は自分の行為の恐ろしさに改めて気づいたといった様子で、両手で頭を抱え込みました。
そして急に両手を解いて顔を上げると、殴られた男の人が入ったドアには見向きもせずに、半回転して早足でリビングを横切り、玄関を出ていきました。
わたしたちはそれまでスマホで録画することも忘れて硬直していましたが、男の姿がコテージから消えると、はっと我に返って、寝室を飛び出しました。
わたしたちがコテージを出てすぐそばの林の影に身を潜めて男の人の姿を目で追うと、コテージの入口前から続く右手の坂道を小走りで駆け上がっていくところでした。
わたしたちの五〇mほど先だったと思います。
周囲を気にする余裕もないようで、前方を向いたまま遠ざかっていきます。
常夜灯の明かりはあったものの、大半は暗闇でよく見えませんでしたが、男の人がフードを深くかぶり、ジャンパーを着ているのはわかりました。たぶん赤い色だったと・・・」
萌香の簡潔かつ的確な話しぶりに深川は感心していたが、彼女はここで少し言いよどんだ。
「大丈夫やて、萌香。向日葵がついてるから安心しい」
萌香に寄り添うように立っていた向日葵が、優しく励ますようにそっと萌香の肩に両手をそえる。
それで勇気づけられたのか、萌香はひとつうなずくと、再び口を開いたが、彼女の表情は青ざめて沈痛であった。
「その男の人の逃げていった小道の先は行き止まりであることをわたしは知っています。
そこには、コテージがひとつ建っているだけです。
そのコテージの宿泊客は四人で・・・
その四人のうちの一人は・・・」
それまでの自信に満ちた口調からはほど遠い、ほとんど消え入りそうな声で萌香は締めくくった。
「わたしの兄なんです…」
三
事件の前後に深川が見聞きしたことや、土唯萌香から聞いたことを総合すると以下のようになる。
犯人が逃げ込んだコテージを借りていたのは、いずれも二十代の男性四人組。
町内の草野球チームのメンバーで、仲の良いもの同士で遊びに来ていたという。
まず、一人目の一戸は、色の白い上品な顔立ちをしていて、物腰もいたって柔らかく、スポーツよりも華道や茶道が似合いそうな優男で、フランス料理店のシェフという肩書がとてもよく似合っている。
チームではピッチャーをこなし、その容姿から想像されるように、コントロールと配球重視の繊細なピッチングが持ち味だという。
ただ練習嫌いが玉に瑕で、もう少し真剣に野球に取り組んでくれればとチームメイトたちはぼやいているそうだ。
大手保険会社の営業マンである二葉は、精悍でいかにもスポーツマンタイプの面構え。
実際、野球の技術に秀でており、四番バッターでキャッチャーというチームの要であり、またキャプテンの重責をも担っている。
しかし、三週間ほど前に全治一か月という右手指の骨折に見舞われ、以来、大事を取って野球からは遠ざかっている。
その二葉は自分自身の容姿や能力に大きな自負があるといったタイプであるらしく、女性へのアプローチも積極的で、友人の妹である萌香に交際を申し込んだことがあるそうだ。
だが、アイドルという職業柄、それが不可能であるのは当然であった。
もっとも萌香としてみれば、そういった職業上の要請ももちろんだが、それ以前に、俺についてこいと言わんばかりの強気な態度に閉口し、きっぱりと断ったとのことだ。
IT企業のシステムエンジニアである三村は、いつも笑っているようにみえる印象的な垂れた目尻と、穏やかな表情から想像されるとおり、普段から運動をしないインドア派。
そんな彼がチームで担っている役目は、マネージャーであった。
前の二人とは異なり三村は既婚者であり、一児の小学生のいる父親でもある。
父に似て運動が苦手なひとり息子につきあって、鉄棒の逆上がりの練習などに一緒に取り組む良きマイホームパパであった。
公園やショッピングモールなどで、妻を含めた家族三人連れを萌香はよく見かけたそうである。
何かの折りに、三村と二人きりで会話をかわしたことがあったが、そのときにも三村は優しげな目を細めて、「子どもと妻は僕の宝です。二人の幸せのためなら、僕はなんでもできますよ」ときっぱりと言いきっていた。
その言葉に萌香は真実味を覚え、胸の中がじんわりを熱くなったことを思い出すという。
最後に、大学院でマスメディア論を学ぶ四ノ宮だが、彼は特にこれといった特徴のない平凡な顔つきで周囲の目を引かない没個性的なタイプ。
運動能力も並といったところで、チームでは補欠に甘んじている。
彼は土唯萌香の兄であるが、家庭の事情により名字は異なる。
離れ離れになってはしまったが時間を見つけては萌香は四ノ宮に会いに行っているとのことで、妹として兄に憧れに近い感情を抱いているようだと他のメンバーが何やら秘密めかして教えてくれた。
今日の偶然の再会をとても喜んでおり、ロケの様子を見学に来た兄を他のメンバーにうれしそうに紹介し、仲睦まじいところを見せつけていたのを深川も目撃している。
その兄の去り際、ジョギングをするため手袋をはめた兄の両手を握り、兄の方は気にも留めていないようだったが、萌香がもぞもぞと両手を動かしているのは奇異に映ったので、「なにしてたの?」と深川があとで聞いてみると、彼女はにっこりと笑って答えた。
「お兄ちゃんには秘密。おまじないをかけたの」
その後、その兄が殺人事件の容疑者になることなど思いもよらない無邪気な笑みだった。
四
二人の報告を聞いて、メンバーとスタッフ一同は被害者のいるコテージへ向かった。
コテージの手前で、萌香の連絡を受けて駆けつけた四ノ宮ら四人と合流する。
玄関ポートの短い階段を駆け上がり、開いていた玄関ドアからリビングを覗いた。
十畳ほどのリビングの奥の方にはキッチンがしつらえてあり、入口の右手には調理器具や食器が収められた棚がある。
中央にはテーブルと椅子が数脚。
その他、電子レンジ、炊飯器、冷蔵庫など自炊用の設備も整えられていて、液晶テレビも備わっている。
左手奥の方に通路が伸びていて、トイレや浴室につながっているとみえる。
リビングの隣は寝室で、その寝室と隔てる一面が真っ白な壁には汚れひとつないが、その壁にはめ込まれたドアのノブには、血がべっとりとついている。
だが、それ以外に、転がった椅子や横倒しになったテーブルなど、格闘の跡を物語る異変はない。
これはおそらく、加害者の一方的な攻撃に終始したからだろう。
そのような状況を見届けると、一行は玄関から出て、建物の裏手に回った。
裏手は寝室になっていて、深川たちが立っている建物の背後から見て、正面と左手には窓がある。
この左の方が、萌香と向日葵が目撃した窓であった。
明かりは点灯したままだが、カーテンが閉められているせいで、中の様子はうかがえない。
また、両方の窓には内側から鍵がかかっていた。
住居侵入を犯してまで踏み込むか、まずは警察に通報するかで議論になった。
目撃の状況からいって、被害者はすでに力尽きていると思われたが、万が一でも助かる見込みがあるなら思いきって踏み込むべきだとの意見が優勢に立った。
結局、ふたつのうち大きい方の正面の窓ガラスを地面に落ちていた石とハンカチで三村が割り、施錠を解いて足を踏み入れた。
続いて二葉、その後にディレクターの佐賀と深川が、その次には果敢にも神希が続く。
思わず深川が呼び止める。
「ちょ、ちょっと、君は入らない方が…」
「いいのいいの」としれっとした様子の神希。
決していいとは思わないのだが、さも当然とばかりの口調に、何となく深川はそれ以上引きとめる気が失せた。
一方、当たり前の反応であろうが、四ノ宮や一戸、その他のメンバーやスタッフは一様におそるおそるといった体で、窓外にたたずんでいる。
八畳ほどの寝室の中央にはベッドが一つ。
室内のドアは施錠されているのが視認できたが、そのドアとベッドの間、ドアからは二mほど離れたフローリングの床に、作業着姿の男が仰向けに倒れていた。
頭頂部から真っ赤な血がにじんで流れ出しており、頭部の下の床に小さな血だまりを描いている。
一見して、手の施しようがないとわかった。
血は、両手の指と手のひらにもこびりついていた。ドアノブも同様である。
また、ドアノブから死体が倒れている位置までの間にも、血痕は続いていた。
その他には血の痕跡は見られないが、ドアに背を向けて左手奥の壁際には、金属バットが転がっていた。
その金属バットの付近の壁、床から一八〇㎝ほどだろうか、その壁の一部は何かが勢いよくぶつかったように、丸くへこんでいる。
リビングから寝室に飛び込んでいったバットが衝突してできた傷に違いない。
これが凶器に違いないと思いながら、屈んでまじまじとその金属バットを深川が見つめていると、そのバットを握る部分、つまりグリップには、直径五㎝ほどの血痕が付着しているのに気づいた。
ふと気配を感じて横を見ると、神希もその血痕を興味津々といった表情でみつめている。
そのとき、「とにかく」という二葉の落ち着いた声が室内に響く。
「ここから出よう。もう死んでいるのは明らかだ。オレたちにできることは何もない」
この場を取り仕切るのはオレしかいない、といわんばかりのいかにも自尊心が強そうな二葉らしい命令的な語調だった。
そんな二葉の威圧的な姿に従うような形で、室内にいた一同は、ぞろぞろと戸外へ。
外で様子をうかがっていた人々に、ディレクターの佐賀が寝室の様子を簡潔に伝えると、静かではあるが大きな動揺が波打った。
全員が一列になって無言でコテージの側面を回って、玄関に向かう。
そのとき、列の中ほどを歩いていた「ネバーランド ガールズ」のひとりのメンバーが不思議そうな声をあげた。
「あれ、なにこれ? なんか書いてある」
近くにいた深川はそちらに向かい、そのメンバーの指さす方を見る。
コテージの壁に、A3版の白色のコピー用紙がガムテープで貼りつけてあった。
地面からちょうど一メートルほどの高さである。
その用紙には、太い黒マジックペンの殴り書きで、縦にこう記されていた。
「ケイサツニツウホウシタラ、アイドルヲコロス」
五
脅迫めいたメモの内容を知った一同にまたしても動揺が走った。
特に少女たちが恐慌とも言っていいくらいの混乱に陥った。
だが、彼女たちの不安を鎮めるのはオレの役目だとばかりに、少女たちの前に進み出た二葉が自信満々に弁別をふるう。
「みんな、落ち着いて聞いてくれ。
いいか、まさかホラー映画に登場するような殺人鬼が潜んでいるとはとても思えないから、このメッセージはおそらく犯人のハッタリに過ぎない。
何らかの理由で警察を呼ばれたくない犯人が時間稼ぎを狙っているんだろう。
だから、これ以上の事件は起きない。
みんな、安心してくれ」
深川としても、二葉のこの見解には賛成であった。
だが、なにゆえ時間稼ぎを必要とするのか、その理由について説明できる者はいなかった。
また、犯人が万が一、自暴自棄になっていることも考慮して、当面は警察への連絡を差し控えることとした。
ただし、「現場の保存が最優先されるべきですよね」という神希の意見に皆が賛同したため、誰も現場に近づけないようにという監視の意味を込めて、一同は五関のコテージ前で当面待機することとなった。
さて、犯行時の状況だが、これについては現場を実際に確認したことで、より明白になったといえる。
血痕が残されていた場所が少ないことや被害者に逃げる余力が残されていたことから、打撃を受けた頭部は内出血状態だったに違いない。
それが時間を経るうちに、といってもどのくらいの時間とは断定できないが、とにかく血が頭皮に滲み出していったのだろう。
それでも被害者は最後の力を振り絞り、隙をついて寝室に逃げ込み、ドアのカギを閉めた。
そして、部屋の奥へと進む途中で、ついに力尽きて倒れてしまったのだ。
また、凶器のバットは、被害者が寝室に避難する直前に、犯人の手からすっぽ抜けて寝室に飛び込み、その左手奥の壁に衝突して丸いへこみをつけ、床に落ちた。
こうして、犯行現場が出来上がったのである。
ところで、土唯萌香の証言から、犯人は逃げ帰ったコテージを利用していた四人に絞られるわけだが、その中で犯人を特定できるのか。
例えば、コテージの壁に脅迫状ともいえる用紙を貼り付けたのは四人の中で誰なのか。
一同がコテージに駆けつけてから死体を発見するまでのドサクサにまぎれて四人の誰かが警告文を貼り付けたのだろうが、しかしその用紙は常夜灯の明かりがあまり届かない場所で、しかも大人の身長より低い場所に貼られていたので、すぐに目に留まるわけではない。
ということは、いつの時点まで壁にはなくて、いつの時点ではあったのか、このことが判断できない。
つまりは、各人の行動がある程度判明したとしても、誰が貼りつけたのかは特定できないということだ。
また、ペンや用紙、ガムテープはコテージに備え付けのものだし、文字は利き手ではないほうで書かれたものらしく手がかりにはならない。
四人が四人とも、当然といえば当然ながら、貼り紙のことなど知らないと憤然と否定した。
特に一戸は自分が犯行とは無関係で、だから冗談めかすことができると周囲にアピールするためなのか、「僕のこの美しい手が殺人を犯すなんて、そんなこと、ありえませんよ」と、シミひとつない真っ白な両手のひらを大げさな身振りで見せびらかしながら、芝居がかった口調で潔白を訴えたが、誰も真に受ける者はいない。
言葉などなんらの証明にもならないのだ。
では、アリバイはどうか。
四人には個室があてがわれていて、犯行時間帯は、それぞれ別行動をとっていたので、誰もアリバイを証明できない。
四ノ宮以外の三人は自室で過ごしていたと証言し、四ノ宮はさっきまで野球のトレーニングの一環として、ジョギングやバットの素振りをしていたという。
そのことを裏付けるかのように今も黒い手袋をはめたままである。
だが、その姿を目撃したと申し出る者はいない。
「困ったなあ」と弱々しく呟いて、手袋を外す四ノ宮。
手首のマジックテープをペリペリとはがしたとき、なにか小さなものが地面に落ちた。
すかさず、神希が拾い上げる。
明かりにかざすと、それは一葉の四つ葉のクローバーであり、そのことを確認した神希に満面の笑みが浮かぶのを、隣に立っていた深川は目にした。
さて、アリバイがないなら、萌香の目撃証言は役に立たないか。
だが、犯人が着ていた赤いフード付きのジャンパーは、草野球チームのオリジナルのスタジアムジャンパーで、エンゼルスのデザインを模した鮮やかな赤色であり、チーム全員が所持している。
またバットのスイングから、犯人は右打者と思われるが、四人とも右打者である。
さらに、四人は揃って中肉中背で体格には差がなかった。
一応、暗がりの中で四人がスイングをするのを萌香と向日葵が観察するという実験を試みたものの、失敗に終わった。
それでは、動機のある者は?
被害者の五関は五十三歳独身、ここ「奥多摩キャンプ村」の管理人として、平屋のコテージに一年前から住み込みで働いていた。
元々、四ノ宮らが住んでいる街でスーパーマーケットを営んでいた頃から草野球チームに所属しており、その街を去った現在でも、選手兼監督として活動していた。
その縁で、チームメイトの四ノ宮らにこのキャンプ村を紹介したのである。
今日の夕方、四人は五関のコテージで雑談を交わしたが、特にこれといったトラブルはなかったという。
そのときに、凶器となった金属バットを五関が四人の前でうれしそうに見せている。
現エンゼルスの大谷選手が高校時代に使用していたものをモデルとした限定品で、今日の昼過ぎに宅配便で届いたばかりだった。
さっそく素振りをするからと、彼がバットのビニールの包装をはがす場面を、帰り際に玄関先で目撃したと四人ともが証言した。
四人と被害者との関係は総じて浅くもなく深くもなくといったところだが、ただそのうちの一人とは、やや因縁のある関係にあった。
四ノ宮である。
四ノ宮は、五関とその離婚した妻との間の長女との交際が三か月ほど前にスタートしたのだが、彼がいささか頼りないという理由で、五関はその交際に反対しているというのである。
このことはチームメイトなら誰しもが知っている事実であった。
「弱ったなあ。
そんなことで、僕があの人を殺すわけが・・・」
四ノ宮は心底から弱り切った表情で妹の萌香を訴えるような目で見つめるが、彼女もなんと言ってよいのやら途方にくれたように虚ろな視線を返しただけである。
やがてその視線はさまようように揺れて、神希に向けられた。
「神希さん、お兄ちゃんは犯人じゃないんです。
ね、そうですよね?」
「そうですよ、神希さん。萌香のお兄ちゃんが犯人やなんて、そんなことありえへん」と向日葵も懸命に加勢する。
「さあ、どうかなあ~ 誰が犯人なのかな~」
神希はいかにもこの状況を楽しんでいるようにニヤニヤしている。
神希にお伺いを立てる萌香も萌香だが、萌香の必死の気持ちに思い至る様子もなく、それどころか緊張感のまるでないニヤケ顔に深川は思わずムッとした。
「ちょっと、神希さん、そんな態度はないだろ。
土唯さんの切実な気持ちがわからないのか」
語気を荒げる深川には小ばかにしたような冷笑を浮かべる神希。
「気持ちの強さだけでは誰をも救うことはできません。
考えることによって、真実を導き出す以外には」
落ち着き払った口調でそう言いきる神希。
まるで犯人を知っているような口ぶりだと、また深川は腹が立った。
「ふん、何をえらそうに。君には犯人がわかっているとでもいうのか?」
「はい」とあっけない回答に、深川は一瞬、頭の中が空白になった。
「・・・ え? そうなの?」
神希は強くうなずくと、周囲の人々を睥睨するようにぐるりと見渡した。
「手がかりはすべて揃っていますから。
それでは、『ネバーランド ガールズ』で一番かわいくて賢い神希成魅のソロライブをスタートしますっ!」
六
「最も重要な手がかりは」と神希は語り始めた
「凶器となったあの金属バットに付着していた直径五㎝ほどの血痕です。
あの血痕はどういった状況でバットに付着したのでしょうか?」
「そりゃあ」と、すぐさま深川が口を挟んだ
「深い傷を負った被害者が防御しようとして、バットをつかんだからだろう」
「なるほど、具体的には、いつの時点ですか?」
深川はしばらく考え込んで、萌香の目撃談を反芻した。
「たしか、頭部に一撃目を食らった後だ。
被害者は頭をおさえて、立ち上がって、その後、バットをつかんだ。そのときに頭部から手に移っていた血がグリップに付いたんだ」
「それは違いますね」と神希は断言する。
「違う? どうして?」
「深川さん、あなたは一つの事実を省略してしまっています。
被害者が頭をおさえた後、立ち上がる前、ひとつの動作をしています。
そう、被害者は、リビングと寝室を仕切る壁に両手をついたんです。
しかしどうでしょう、わたしたちが現場に駆けつけたとき、その真っ白な壁には汚れひとつありませんでした。
つまり、壁には血痕が付着していなかったんです。
従って、頭部に一撃目を受けた時点では、まだ血は流れ出していなかったことになります。
この時点では、被害者の頭部から手に血は移っていなく、バットをつかんでも血痕が付着することはありえないんです」
「・・・」
深川は黙り込むしかなかった。たしかに神希が指摘したとおりだったからである。
しばしの間の後、深川は気を取り直して、言葉をつないだ。
「じゃあ、二撃目の後だろう。
さすがにこのときには血が流れだしていただろうからね」
「それはそうでしょう」と神希はうなずく。
「しかし、思い出してください。
二撃目の後、被害者は頭をおさえたので、そのときに血痕が手に付着したとして、その手はバットに触れたでしょうか?
いいえ、被害者は最後の力をふりしぼるように、加害者が持っているバットをつかもうと両手を伸ばしましたが、その手は届かなかったのです。
従って、バットに血痕が付着したのは、この時点でもない」
「う~む」と深川は思わず唸った。
「これら以外に考えられるとすれば、被害者が寝室に逃げ込んだ後です。
被害者が倒れていた地点からは少し離れていましたが、バットは寝室の奥の壁際に転がっていた。
勢いよくすっぽ抜けて宙を飛んだバットが落ちたとしたら妥当な地点です。
瀕死の被害者が、例えば反撃をしようとして、部屋を横切りバットをつかんだ。
しかし、何らかの理由で、例えばバットを握る力さえ残されておらず、バットを手放してしまい、死体のあった位置まで歩いていって倒れた。
そのような状況がありえるでしょうか。
しかし、血痕は、被害者の頭と手、寝室側のドアノブ、そしてドアノブと被害者の間の床にしか付着していませんでした。
寝室側のドアノブの血痕が付着していた以上、その時点では手にも血痕が付着していたはずで、であれば、這っていって寝室に逃げこんだ被害者が壁際のバットに近づこうとすれば、やはり床を這う動きになり、当然ながら壁際までの床に血痕が付着していなければなりません。
しかし、さきほども言いましたように、血痕は、被害者の頭と手と、そして寝室側のドアノブと、さらにドアノブと被害者の間の床にしか付着していなかった。
従って、被害者が壁際のバットに近づいたはずはない。
以上のことから、バットに血痕が付着したのは、被害者が寝室に逃げ込んだ後でもないことになります。
つまり、被害者は寝室に逃げ込む前にも後にも、バットに血痕をつけることはできなかったのです。
このことを言いかえれば、次のように結論することができます。
バットに付着した血痕は被害者のものではない、加害者のものである、と」
一同の脳裏に自分の推理が定着するのを待つように、静かに無言で周囲を見回してから、神希は語りを再開した。
「この事実がどれほど重要か、おわかりでしょうか。
「攻撃を受けたのは被害者だけのはずなのに、加害者は血を流していた。
不可思議な状況ではありますが、事実がそのことを指し示している以上、こう考えざるをえません。
加害者の手から流れた血が、加害者がバットを握ったときに、そのグリップに付着したのだと。
そして、その結論から導かれる事実はこうです。
加害者は素手でバットを握っていた。
これは決定的な事実です。
なぜなら、みなさんもご存知でしょうが、素手でバットを握った以上、そのグリップには指紋が付着しているからです。
そして、わたしたちが現場に踏み込んだとき、寝室のドアも窓も施錠されていましたから、加害者がその指紋を拭きとったはずもない。
従って、今も寝室に転がっているバットには加害者の指紋が残っている。
これもみなさんご存知でしょうが、指紋は同じものが二つとないため、その持ち主を完璧に特定できます。
さらに言えば、このバットは今日の昼過ぎに届いたもので、ビニールの包装を四人の帰り際にはがしたのですから、バットに直接触れたのは被害者と加害者だけと考えられる。
というわけで、加害者つまり犯人が判明したのも同然というわけです。
ところで、犯人が脅迫めいた貼り紙を作ったのも、この指紋と関係しています。
犯行時はおそらく極度の興奮状態で、指紋を拭き取ることに思いが至らなかったのでしょうが、犯行を終えてしばらくしてから、犯人は指紋を残してきてしまったことに気づいた。
そこで急遽、あのような貼り紙を作り、警察に証拠が渡るまでの時間を稼いで、なんらかの機会を待って指紋を拭き取るつもりだったのでしょう。
しかし、死体発見時はわたしも含めて何人かが殺人現場となったあの寝室に入りましたし、その後も現場保存の観点からこのコテージ前に皆が集まっていたため、そんな隙はなく手をこまねている間に、このわたし、神希成魅が真相を見抜いてしまったというわけです」
そう満足げに言って、神希は締めくくった。
だが、深川にはまだ疑問が残っている
「理屈はわかったよ。納得だ。
けど、ケガをしたはずのない犯人の手から血が流れたって、一体どういうことなんだ?
それに、さっきは犯人がわかったと言ったけど、ほんとにそう言えるのかな?
警察が指紋を分析するまでは、犯人はわからないんじゃないか?」
「お答えしましょう」と即座に神希。
「マメ、ですよ」
「え? なんだって?」
「だから、マメ、です。
みなさんも一度は経験があるんじゃないでしょうか。
スポーツをしたときに、手に水ぶくれができたことが。
バットやラケットなどの道具と手のひらの皮膚との間で、繰り返し摩擦が起きた場合にマメができます。
水ぶくれの中には血液が混ざるものもあります。
犯人も日頃からスポーツをしていたために、手のひらにマメができていたのです。
そのマメが、犯行時の強い急激なバットのスイングで、つぶれてしまったんですね。
その結果、つぶれたマメから血液が流れ出して、バットのグリップに付着してしまったというわけです。
つまり」と神希は一段と語気を強めて、
「犯行時、手のひらにマメができていた人物こそが犯人というわけです。
ここまでは皆さん、おわかりですよね?」
うんうんと深くうなずく佐草向日葵。
その姿を見とめた神希が「向日葵、では、その人物が誰かわかるかな?」と投げかけると、向日葵ははっとした表情で腕組みをとき、「え~と、え~と」と口ごもる。
子どもが何かを考えるときの様子を絵に描いたように、顔を右斜め上に傾けて宙を見すえながら、なにごとかを思案する向日葵。
そして、おもむろに、
「三橋さんやろ」
「三橋って、誰やねん」と向日葵につられて関西弁で指摘する神希。
「え? 三橋やないっけ? 向日葵、人の名前覚えるの、苦手やねん。
だいたいな、先輩の話、ややこしいやんか。向日葵にもわかるように話してもらわな」と開き直る向日葵。
神希は諦めたようにひとつため息をつくと、深川に目を合わせた。
「深川さん、その人物とは誰なのか、わかりますか?」
「う~む、と言われてもなあ、マネージャーの三橋さんならぬ三村さんは除外できるとして、他の三人には可能性があるけど・・・
性格から考えると、二葉さんかなあ。
なんかプライド高そうだし、そういう人に限って、キレたらなにをするかわからないって感じで…」
言ってから、本人が目の前にいることに思い至ったが、もう遅い。まさしく鬼の形相で睨まれる。
一瞬で体が固まってしまった深川を助けるように、神希が口を開いた。
「二葉さんではありませんよ。
二葉さんは手指の骨折で全治一か月。三週前から野球をしていないそうですから、例えマメができていたにしても、時間の経過とともに消えているでしょう」
「ああ、そのとおりだ」
二葉は、手指の包帯をほどき、手のひら全体を差し出した。
そこにマメはなかった。
「僕にもないですよ」と一戸。
神希はにっこり微笑んで、
「ええ、それはわかっています。
さきほど、あなたが自ら手のひらを見せたとき、シミひとつなかったですからね」
「ということは・・・」
皆の視線が一斉に四ノ宮に向けられる。
萌香の両目には涙が浮かび、百四十五㎝の小さな体がぶるぶると痙攣していた。
おびえきった四ノ宮は両手を背中の後ろにひっこめ、駄々をこねるように首を激しく左右に振った。
「ぼ、ぼくじゃない。違うんだ。違う、信じてください」
ずるずると後ずさりする四ノ宮。一歩、前に踏み出す一同。
「やっぱり、お前か。さあ、手のひらを見せろ」
容赦なくそう言って、四ノ宮の元へ駆けだそうとする二葉を「違いますよ」という神希の確信に満ちた声が引きとめた。
「なぜ、わかる?」と、かみつくように二葉。
神希は少しも動ぜず、「これですよ」と常夜灯の明かりに、さきほど拾い上げた四つ葉のクローバーをかざした。
「これは、まだ犯行が起きる前の時間帯に、萌香ちゃんが四ノ宮さんの手袋のマジックテープの間にはさんでおいたものです。
お兄ちゃんが何かしらの幸運に恵まれるようにという、萌香ちゃんなりのおまじないだったんですね。
そして、犯行時刻の後、さきほど四ノ宮さんがマジックテープをはがすときまで落ちなかった。
つまり、クローバーはその間、ずっとマジックテープの間にはさまっていたんです。
言い換えれば、犯行時刻の前から後まで、四ノ宮さんはずっと手に手袋をはめていたことになる。
犯行時に素手だったという犯人の条件に一致しません。
萌香ちゃん、クローバーがお兄ちゃんを救ってくれたね」
「はい」と、ほっとしたように、ゆっくりとうなずき、向日葵と微笑みを交わし合う萌香。
「お兄ちゃんの疑いが晴れて、ほんとによかった・・・」
しかし、二葉はなおもくいさがる。
「おい待てよ。一度、手袋を脱いで、そのときに落ちたクローバーを拾っておいたのかもしれないぞ。
その後、素手で犯行に及んだが、指紋を残してきてしまったことに気づいて、再びまた手袋をはめて、クローバーを元に戻したかもしれないじゃないか。
あんたが今言ったような推理で容疑から逃れるために」
「それはありませんね」とぴしゃりと神希。
「貼り紙を作ったことから、犯人はわたしたちと現場に向かう時点で、自分の失策に気づいていたはずです。
だから、指紋を拭きとる機会を常に狙っていたはず。
しかし、四ノ宮さんは寝室には一歩も入らず、他の多くの人たちと同様に、室外で待っていた。
指紋を拭きとる意思なんてなかったんですよ」
「じ、じゃあ、やつが犯人じゃないとすれば、犯人がいなくなるじゃないか」
「犯人はここにいますよ」
神希は悠然と笑みを浮かべた。
「マメができるのは、野球をやっている人に限りませんよ。
ふだん運動をしない人だって、マメができることはあります。
例えば」と神希。「鉄棒によって、とか」
「ちくしょうっ」と吠えるようなどなり声が意外な人物の口から飛び出した。
「犯人はあなたですよ」
神希は、怒声をあげた人物を左手でびたりと指さす。
「え? でも、そんな・・・」
神希に名指しされた三村にとまどいの視線を送る萌香。
「三村さんは、いつも優しくって、マイホームパパで、とっても奥さんや息子さんを大切に思っていて・・・」
「フン、バカバカしい」と、三村はあざけるような冷笑を浮かべる。
「オレにはなあ、二人の愛人と三人の隠し子がいるんだよっ!。
それを嗅ぎつけやがった五関が、三千万よこせと脅迫してきやがった。
だから、殺してやったんだあああ」
そう絶叫すると、三村は不意に駆けだした。
コテージ群をあっという間に後にし、出入口の方へとひた走る。
一同もどやどやと後を追った。
バーベキューハウスの手前でようやく追いついたが、三村はジャンパーのポケットからサバイバルナイフを取り出して威嚇する。
うかつに近づけない追手とのにらみ合いが続いた。
「いいか、近づくんじゃねえぞ」
三村はナイフを一堂に突きだしたまま、徐々に遠ざかっていく。
そのときだった。
「ア~アア~、ア~アア~」
猛獣の雄たけびのような奇声が周囲に響き渡った。
そして、深川は見た。
常夜灯のまばゆい光に彩られて、まるでスポットライトを浴びたかのような一人の少女が空中を飛ぶのを。
木の枝から地面へ、地面から空中へと弧を描いたロープがピンと伸びきった地点で両手を離した少女は、そのまま夜空に舞い上がるかのように見えた。
星空を背景に一瞬制止した少女の黒い影は、今度は一直線に地面へと降下していく。
だが、そのまま落下せずに、あまりのことに呆然と硬直している三村の身体に激突した。
二人とも地面に倒れ込む。
一同が駆けよると、神希はすぐに立ち上がった。
だが、三村は微動だにしていない。
ナイフは三mほど離れた場所に落ちている。
一同が三村の顔を覗き込むと、卑劣漢は両目を閉じて気絶していた。
七
代表して、ディレクターの佐賀が警察へ通報した。
パトカーを待つ間、神希はまさしく有頂天で、周囲がうんざりしているのを気にも留めず、同じことを何回も繰り返している。
「犯人を推理したのも、犯人を捕まえたのも、このわたし、神希成魅で~すっ。
この後、お巡りさんがきたら、わたしが全部、話しますからねっ。
神希成魅のソロライブのアンコール開幕! なんちって」
自分の言葉に酔いしれたのか、ますます気分は高ぶったようで、急に全力で走りだすと、その姿は一本の巨樹の枝の中に消えた。
やがて、夜空を突き抜けるような真っ直ぐな大声が。
「ア~アア~、ア~アア~ あれ? ア~レ~~~」
なんのはずみか、神希の両手はロープから離れ、彼女は一直線に地面へと転落。
どさりっ。
「ウゲッ!」
神希が楽しみにしていた警察への独演会は中止と相成った。
彼女は救急車で病院に搬送され、腰の強度の打撲と診断された。
二か月の静養を余儀なくされ、その間は公演を欠場した。
支配人やマネージャーにこっぴどく叱られた。
だが、当の本人は、「かなシゲ~、つらシゲ~、しょんぼりシゲ~」などと、いたって呑気な調子で、微塵も反省している様子はなかった。
(了)
赤の痕跡 鮎崎浪人 @ayusaki_namihito
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