第6話 似姿

 圭以子けいこのベッドルームの壁には、いま、二十枚もの大判の写真が飾ってある。

 期待をふくらませて、でも不安も抱いているような顔。

 好奇心たっぷりに、少し上を見つめる顔。

 パンを持ってかじろうとしていて、でも「さっきご飯食べたばっかりでしょ?」と言われるのを予期している、罪の意識が表れた顔。

 ガラにもなく大判の分厚い古い本を開いて、それをこれから熱心に読もうとしているところ。

 かすみ草の花束をぽんと渡されて、「え、どうしてわたしに花束? でも嬉しい」という表情。

 本は古本屋さんから借りてきてくれた。かすみ草はホテルのフロントに飾ってあって、もう使わなくなった花なのだそうだ。パンはもちろんコンビニで買って来た。

 写っているのは、ぜんぶ圭以子。

 ちーはたくさんの写真を撮った。百枚どころではない。何百枚も撮っていた。圭以子のまわりを踊るようにね回り、圭以子に小道具を持たせ、油断も隙もなく写真を撮りまくった。大きいカメラで写真を撮ることにして、時間をかけて調整しながら、ふと表情を変えたところをスマホのカメラで撮ったりもした。

 そのうち二十枚を印画紙にプリントし、フレームに入れ、壁に吊るためのピンまでくれた。

 自分を撮った写真に囲まれて寝るなんて、今日の夕方まで圭以子は考えなかった。

 自分の写っている写真を見るのが、圭以子は好きではなかった。

 締まりのない体、そして、その体のままに、締まりのない顔の表情。

 あの和服を着たお見合い写真が「緊張感のある表情」の限界だ。しかも、それは、精神を引き締めていたからではなく、着物がズレるのを気にしていたからできた表情だった。

 それなのに。

 「自分はこんな表情ができるんだ」と自分で驚くような表情を、ちー子は引き出してくれた。

 写真を撮り終わってからホテルの二階の喫茶コーナーに行き、ちー子はミルクセーキを、圭以子はメロンソーダを飲みながら、話した。

 「自分の写真を見るのって恥ずかしくない?」

と圭以子がきくと、ちー子はやっぱりくくくくっと笑ってから答えた。

 「ポートレート、って、肖像写真、っていうでしょ?」

 どっちにしてもふだんから使うことばではない。圭以子はうなずく。

 「うん……」

 「肖像、って、似てる姿、って意味だから」

 「だから?」

 「恥ずかしいと思ったら、自分に似てるだれかの写真だと思って見ればいいんだよ」

 「ああ。なるほど」

 圭以子は、そう軽く反応して、メロンソーダをストローで吸った。

 その反応をちー子がどう思ったかはわからない。

 自分に似ているだれか。

 それは、写真のなかだけにいて、手を伸ばしても届かない存在。

 ……かというと、そんなわけもない。

 この、潤いを帯びた唇。

 紅色が体のなかから自然と湧いてきている頬。

 好奇心たっぷりに開いた二重まぶたの目。

 圭以子は、自分の指を、自分の唇に、頬に、まぶたの上にあててみる。

 たしかにいるのだ。

 この美しい、この魅力をいっぱい持った美人は。

 でも、それでも感じるもの足りなさは……。

 自分の前にしゃがみ込み、すらっと立ってちょっと上体を反らし、別のことをやっていると見せかけて圭以子の表情に変化の兆しを見つけ、圭以子のこの締まりのない身体が何かを表現するほんの何分の一秒かをけっして逃さない。

 活動的な原色の黄色の半袖シャツ。

 穿いていたのは黒のキュロットスカートで、脚は生脚だったと思う。

 そして、圭以子の姿勢を直すために、軽く、または短い時間だけ触れてくれる、その手の感じ。

 息づかい。

 肩より上、首筋のところで切りそろえた、ほんの少しだけ茶色っぽい黒い髪。

 移動するときの足のばね。

 すばやくも粘り強くもなる足のばね。

 もの足りないのは。

 あの子が撮った自分の姿があるのに、あの子の姿がないこと。

 圭以子は小さい声で言う。

 「わたしの似姿を彼女にあげた」

 だから、次は彼女が自分に何かをくれる番だ。

 何かを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る