第8話

「貴女……それがどういう物か分かっているの?」


 エミリアは呆れ果てた。ウィルマの手は震えている。


「分かってるわよ、分かっているわ! 私ね、本当は殺したくはなかったの。でも、あなたがおとなしく捕まってくれないから……っ」


 ナイフを向けて突進してくる。エミリアは背後に飛び退いた。しかし、スカートの裾を踏んでバランスを崩す。


(こんな時に……!)


 よろけた隙に、ウィルマがナイフを振り翳した。


 振り下ろされるタイミングで、地面を転がって躱す。


「怖いでしょう!? 怖かったら、命乞いでもしてみたら」


 起き上がる隙を与えず、再びナイフが振り下ろされる。


(果物ナイフよ。急所に当たらなければ、かすり傷だわ。落ち着いて……)


 しっかりと、軌跡を見定めてから避ける。


 緊張と、運動量の増加で息が上がりきり、最早脳を揺さぶるような鼓動も耳に届かない。


「どうして私が貴女に乞うの!? 私の命を奪う権利が、貴女にあって?」


「権利なんか関係ないのよ! でも、奪われれば終わりよ。死にたくないなら、私に縋ってみせなさいよ」


「私が縋って頭を垂れれば……それで貴女は満足なの?」


 ウィルマは一瞬、身じろいだ。


 エミリアは、土に塗れた顎を上げた。


「貴女の目的は何? フィリップ様の妻になる事? ヴォルティアの正妃になりたい? それとも私の地位が欲しいの?」


「そうよ!」


 ウィルマはほとんど間を置かず、即答した。


 具体的に何が欲しいのか、判別できない。


「全部よ! どれも、貴女は全部持ってるじゃない。地位も、名誉も、尊敬も、人が欲しがるものは何もかも」


「私は! 他人の羨むものを望んでいたんじゃない。私はただ、愛だけを求めていた」


「そうやって、貴女は綺麗ごとばかり!」


 ウィルマは、今度こそ渾身の力で振り下ろした。


 エミリアは咄嗟にナイフの刃を手で掴んだ。鋭い痛みが走るが、怯んでいられない。


 むしろ好機とばかりにその手を懐に巻き込むと、逆に相手の手首を捻り上げた。


 その拍子にナイフが地面に転がる。


「フィリップ様の妻になりたいなら、陛下の許しを得る努力をなさい。正妃になりたいなら、能力を磨きなさい。こんな所で手を汚している暇などないはずよ」


 ナイフを蹴り上げた勢いで、エミリアはウィルマの腕を掴む。


 ウィルマは抵抗するが、べったりと付着したエミリアの血に怯んだ。


 そのまま腕を捩じり上げる。もはや形勢は完全に逆転していた。


「痛っ……」


「痛くない! いい加減、甘ったれるのはよしなさい」


 ぴしり


 掴んでいるのと反対の手で、エミリアはウィルマの頬を張った。


 傷を負ったエミリアのほうが痛いに決まっている。

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