第6話

 唐突に、エミリアの中で、敬愛すべき夫の全てが崩壊して行った。


 今までフィリップから掛けられたすべての言葉が現実味を失う。


 中身を伴わない、薄っぺらなものに塗り替えられた。


「エミリア? 何を笑ってる。先ずは、サンフラン嬢と」


「あら、失礼しました。急に可笑しくなってしまって。フィリップ様が妃の私に向かって、臣下に詫びろだなんて仰るものですから。しかも愛? に目が眩んで。いいえ、愛と言っても愛欲でしょう」


「何? 今度は私を侮辱する気か? 私が彼女に抱いている気持ちは紛れもない愛だ」


 “愛”とは崇高な言葉だ。


 しかし今フィリップの口から紡がれた ”愛“ は、何と滑稽な言葉だろう。。


「私、フィリップ様のお陰で愛というものが分からなくなってしまいました。ですから……私が王宮をお暇します」


 エミリアは胸の前で両手を揃え、深々と頭を下げた。


「はっ? ……ここを出て行くという意味か? 王宮を出てどこへ行くというんだい。君には帰る場所などないだろう? 私の庇護を、とても喜んでいたじゃないか」


「あの頃の私はまだ幼かったようですね。私はね、フィリップ様。誠心誠意、身も心も貴方に捧げて来ました。両親を失って尚私を求めて下さったお義父様、お義母様、フィリップ様の期待に添うように、研鑽を重ねて参ったのです」


 息継ぎと同時にサンフラン嬢を一瞥し、直ぐにフィリップへ視線を戻す。


「それが、私の誇り。帰る場所などなくとも、私をないがしろにする方の元にはおられません」


 エミリアはすっと背を伸ばし、目の前の二名を見据えた。


 虚勢ではない。


 ”花のエミリア”は文字通り社交界の花だ。


 愚者に翻弄されたりしない。


 毅然とした態度で、堂々と。


「では、ごきげんよう。お二人とも。ご機嫌麗しゅう」


「ま、待つんだ。エミリア……」


「陛下。エミリア様は一先ずお一人になりたいだけですわ。冷静に、考えられようとしているのでは」


「む……」


 二人の会話を背に、エミリアは部屋を後にした。扉を閉め、鍵を掛けたのは、せめてもの皮肉だった。


 初めは静々と、誰も追って来ないとわかると、たまらなくなってエミリアは走り出した。


 早く、自室に戻らなくては。


 飛び込むように、部屋へ駆け込み、鍵をかける。


 錠の降りる音と同時に、堰を切ったように涙が零れる。


「どうして、涙など……っ」


 エミリアは何も間違っていない。


 くだらない妄言に傷付く謂れはない。


 頭ではわかっている。けれど心はしっかりと痛めつけられていた。

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