第30話

 朝日を顔に受けて目が覚めた。おもむろに身支度を整え、簡単な朝食を作って食べる。少し時間は早かったのだが、なんとなく心が浮ついていたので会社に向かうことにした。

 少し歩くと、遠くにイェンスが歩いているのが見えた。彼の注意を引くため、魔力を一瞬解放する。予想どおり、彼は何かを感じ取ったのか立ち止まって振り返ったかと思うと僕の姿をあっさり見つけ、手を挙げて僕に合図を返した。

 イェンスと談笑しながら一緒に歩く。彼は相変わらず美しい眼差しで僕を見つめ、そうかと思えば僕の肩に手を回して心地良い雰囲気をもたらした。

 三週間ぶりに事務所へと入った。ギオルギとムラトはすでに出社しており、僕たちを見るなり笑顔をほころばせながら歩み寄ってきた。

 「イェンス! クラウス! おかえり。君たちが無事で、また元気な顔を出してくれて嬉しいぞ」

 ギオルギが弾んだ声で話しかけたのに続き、ムラトも笑顔で話しかけてきた。

 「君たちがいない間は皆で力を合わせて乗り切った。多少残業はしたがね。旅行は楽しかっただろう?」

 「三週間もの休暇を本当にありがとうございました。おかげで僕たちは非常に有意義に過ごすことができました。これはささやかですが、感謝の気持ちです」

 イェンスと僕はそう言うと、旅先で購入したチョコレート菓子とクッキーを彼らに手渡そうとした。

「ありがとう、後で取り分けて食べよう」

 ギオルギは笑顔で受け取ったのだが、突然驚いた表情で僕たちを見つめ、それから心配そうに尋ねてきた。

 「君たち、その瞳の色は……?」

 その言葉にムラトも僕たちの目を覗き込み、途端に驚いた表情を見せる。僕たちは落ち着いて彼らに微笑むと、旅行に出てすぐに体調を崩したという例の設定を説明することにした。最初は不安げに耳を傾けていた彼らも徐々に僕たちの説明に納得がいったらしく、「そうか、それは大変だったな。健康に問題が無くて良かった。では、また今日から頼むよ」と返したので、どこか罪悪感を抱きながらも会釈して自席へと向かった。

 三週間ぶりに会社のパソコンを立ち上げ、メールなどを確認する。取引先や関係者に事前に長期休暇の案内をしておいたからか、社内連絡や税関などから配信される輸出入関連の連絡以外で重要なメールは届いていなかった。そこで僕たちはまず、ノルドゥルフ社のヴィルヘルム、そしてハンスとフランツに本日から出社したこと、特にフランツから教えてもらったレストランなどで非常に有意義な時間を過ごしたことをメールにて報告することにした。手短かつ丁寧に、感謝の言葉を彼らに送信する。それからたまっていたメールに一通り目を通し、本日申告すべき通関書類の確認を進めていく。

 イェンスがマルクデンからの家具の輸入書類を見つけて僕に話しかけてきたその時、遠くから馴染みのある声が僕たちの名を呼んだ。

 「クラウス! イェンス! お帰りなさい」

 ローネであった。彼女は僕たちに駆け寄ると僕たちの手を取って大きな笑顔を見せた。

「旅行は楽しかった? あなたたちがいなくてもなんとかなったんだけど、いないと寂しくてみんな待っていたのよ」

 彼女の言葉が嬉しくて、イェンスも僕も笑顔で感謝の言葉を伝える。しかし、彼女も僕たちの瞳の変化に気が付くと驚いた表情を見せた。

「その瞳の色はどうしたの?」

 心配そうに尋ねてきたローネに対し、イェンスも僕も落ち着いた表情であの設定を話し出した。そこにジャンとティモが出社し、僕たちを見るなり歓声を上げながら駆け寄ってきた。

 「おはよう、クラウス、イェンス!」

「元気そうで良かった。お前たちが来るのを待ってたんだぜ。あれ、二人とも瞳の色がどうなっているんだ?」

 ジャンの言葉に、ローネが神妙な面持ちで僕たちの説明をかいつまんで教える。それを聞いたジャンとティモの表情がたちまちのうちに曇り、彼らは心配げに僕たちの瞳を覗き込んだ。

 「それで、今度は眼の検査をそこで受けたんでしょう?」

 気の毒そうに僕たちを見つめるローネの言葉に、僕たちは割り切って明るい口調で答えた。

 「ああ、三日間さらに入院したのだけど、検査で体にも眼にも異常は見られなかったことから、医者が非常に稀な経験をしたのだろうと話していたよ」

 「せっかく三週間も休み取れたのに、インフルエンザで一週間も病院で過ごしたのか。残念だったな」

 ジャンもまた気の毒そうな表情で僕たちを見ていた。彼らにも嘘をついていることに後ろめたさを感じたのだが、イェンスも僕も努めて明るい笑顔を浮かべ、丁重に感謝の言葉を返した。

「心配してくれてありがとう。でも、ご覧のとおり、僕たちはもうとっくに大丈夫さ。君たちのほうはどうだった? きっと、仕事が忙しくて残業をさせたんだろうね」

 僕たちの言葉に、安堵した表情を見せていたティモが表情を曇らせながら答えた。

 「いや、仕事のほうはなんとかなったんだけど、少し事件があってさ」

 「事件?」

 オウム返しのように尋ねた僕たちに、ローネが小声で説明を始めた。

 「オランカが解雇になったの。ドーオニツの身体規定違反に触れてね。順を追って説明するわね。あなたたちが旅行に出掛けた最初の週の金曜日、私たち三人で夕食をどこかで取ってから帰ろうかという話になったの。あなたたちがいない間の体制をもう少し補強したかったから、食事を取りながらアイデアを出し合おうという流れでね。それをオランカがたまたま目撃していたらしく、事務所を出たところで呼び止められたの。最初は三人で食事に行くのを彼女にはぐらかしていたんだけど……」

 ドーオニツの身体規定違反と聞いて、僕はなんとなくその内容が予測できていた。

 ドーオニツ居住者に課された規定は、その身体にまで及んでいた。特権を享受するためには、社会的行動における厳しい規定に従うだけでは不十分なのである。

 その時、出社したトニオとケンが僕たちを見るなり、「久しぶりだな、元気で何よりだ」と笑顔で話しかけてきた。彼らに挨拶を返しているうちに、ナーシャとフウも明るい笑顔で「おかえりなさい、旅行はどうでしたか?」と声をかけていく。彼らにも感謝の言葉を返してから再びローネたちの会話へと戻ると、今度はジャンが怪訝な表情で話し出した。

 「ローネは断ろうとしていたんだけど、俺が何も事情知らなくてさ。食事だけのつもりだったし、そもそもまさかあんな人だと思っていなかったから、つい『俺は別に構わない』って言ってしまったんだ。それが大失敗だった。あいつ、いきなり俺に寄りかかるように歩き始めて、『それなら早速行きましょ』って言ってさ。最初のうちだけかと思ったけど、ずっと俺に『あたし、いいお店知っているの』ってべったりだったから、ベアトリスに悪くてオランカから離れたんだ。それでもあいつは馴染みのバーに行こう、せっかくだからお酒も飲もうって言って聞かなかった。とうとう俺らが折れてそのバーに行くと、俺たちの話し合いを邪魔してずっと一人で話し続け、しかも強い酒を立て続けに飲み干してあっという間に泥酔してしまったんだ」

 彼はそこまで言うと急に押し黙った。そこでローネが時刻を確認してから小声で続けた。

 「本当にすごかったのよ。酔った勢いでジャンに抱きついてみたり、彼が飲んでいたグラスに口を付けて彼をからかってみたり。ジャンはそれでも落ち着いて彼女に注意していたのだけど、彼女は体を密着させて甘えれば許されると思ったんでしょうね。でも、彼には通用しなかった。彼が不快とも困惑ともとれる表情で彼女から離れようとすると、彼女はなぜか下品な会話を始めたの。今でも若い男性からナンパされて困るとか、昔、ギオルギに誘われたのを断ったからいじわるされるようになったとか。ギオルギの件なんて大ウソよ。でも、それを平然と言うのよ。そこで私がもう耐え切れなくなって注意したら、彼女がものすごい剣幕で怒って大声を出したの。そりゃ、ひどかったわ。それで彼女がすごく興奮していたから、店の従業員が念のために警察官を呼んだの。いかにも平和なドーオニツらしいでしょ。警察官はオランカを見るなり、『またあなたですか』と言ったのだけど、彼女のほうは警察官の姿に驚いたらしく、バランスを崩して転んでしまって……。その時に着衣が乱れて、太ももに大きな入れ墨があるのを警察官が発見したのよ。その途端にバーの中が騒然として、私たちまで事情聴取受けそうになって本当に大変だったわ。結局、私たちはその場で解放されたんだけど、オランカはそのことで今、ドーオニツ居住者身分はく奪処分を受けているの。きっと来月には紹介された地方国へ移住となるわね」

 「この話は後で詳しく話そう。始業時間だ」

 ティモの言葉にジャンが続けて、「そうだ、俺は今日だけ先週からの仕事の処理のために税関に行くんだ。明日から通常どおりさ」と付け加え、ローネの隣で早々に仕事を始めた。

 イェンスも僕も早速仕事を始めた。久しぶりの仕事に新鮮味を感じてやる気を出していたのだが、オランカの話があまりに衝撃的であったため、少しだけ思考を向けることにした。

 アウリンコとドーオニツは建国の背景がはっきりしていることから、その理念を理解して行動をする人材は常に求められた。そこに、この身体規定の歴史的背景として樹立直後の事情が加わった。それはご一部の農産物を除いて、ほとんどの物資を外からの輸入に頼らざるを得ない状況で、樹立から間もない二つの国に住まう人たちの最低限の生活を健康的に安定させることが最重要課題であったため、身体を医療目的以外で傷付ける行為が不慮の事故を招くことのないよう、政府が指定したイヤーロブ以外へのピアス、そして小さなものでも入れ墨は固く禁じられるようになった経緯があったのだ。優先順位がはっきりしているため、身体に容易に消えることのない個性を取り入れて主張することより、他者との協調が滞りなく図れることを重んじてきたのである。仮に、未成年者に禁止行為を行えば、保護者が罰を受け、また成人してから規定違反を犯すと、居住権のはく奪という厳しい処分まで存在していた。これらはアウリンコでもドーオニツでも低学年のうちから繰り返し学ぶため、たいがいは興味も持たずに大人になることのほうが多かった。しかし、地方国では本人が望めば何もかもが自由であり、その自由へのあこがれから、制限の多い生活環境に不満を感じる生徒の中から「人権侵害だ、表現の自由を奪っている」と憤る者も珍しくは無かった。するとその度に教諭から、丁寧に次の説明を受けるのもまた、通例であった。

 『耳たぶ一か所以外のピアスや、体に入れ墨を入れている地方国の人たちの表現の自由を認めるし、彼らの人格を否定することは決して許されない。中には、そういった文化と伝統を持っているところもあるからな。だが、ここは地方国ではない、ドーオニツだ。なぜ、この規定が医療技術が発達した現在もなお、存在するのか。それは君たちをドーオニツ居住者としての意識を高めていくことを目的としているからだ。この規定を守れない人はおそらく、他の規定も安易に破るだろう。衣服に隠れる場所ならばれずに済むと考える者も中にはいる。だが規定違反をした者は、いくら表面上を取り繕っても必ず言動に現れる。非常にわかりやすいのだ。ここに住み、居住者としての権利を享受するためには、こういった規定に従い、法令順守の意識を外部に見せることも必要になる。君たちはまだ若く、他の社会のことを知らないでいるが、このドーオニツで居住権を得るということは非常に恵まれていることなのだ。高い住民税を支払い、さまざまな規律や制限こそあるが、それでも一生を通して考えれば、地方国にいるよりここで得る自由のほうがはるかに質が高いと私たちは考えている。進学や就職、病気やケガ、出産に子育てといった人生の重要な出来事に対し、ここの居住者である限り手厚く保障されるからな』

 僕は旅行を通してそのことを感じ取っていた。確かに地方国にあふれる自由は、ドーオニツに無い輝きと魅力を放っているのを目の当たりにした。ドーオニツでの暮らしに不自由さと不満を感じている者にとって、ありとあらゆる自由に満ちている地方国での生活ほどまぶしいものは無いに違いない。だが、それを口に出すと周囲の大人たちの決まり文句があちこちから流れ、ほとんどのドーオニツ人が共有している価値観のような言葉を必ず耳にすることとなった。

 『そんなに地方国が良ければ、ドーオニツを出て好きな場所で暮らすがいい。だが、年齢を重ねるにつれ、ドーオニツの良さに必ず気付くようになる。地方国は確かに自由だが、お前が病気をし、家族に不幸があった場合にも自由にも振る舞う。他人がお前に過干渉するのも自由に行われる。ここは規定さえ守っていれば、あとは好きにやっていい。政府にだってよほど反逆的じゃない限りは自由に意見が言えるし、老後だって安心して暮らせる。かりそめの自由に憧れて、真の自由を失うことは本当に取り返しがつかないことなのだ。よく考えるんだな』

 オランカはその身体規定違反を犯した。わざわざ地方国へ赴き、闇業者に頼み込んで施術を受けたのであろう。想定される危険をおそらく覚悟しながらも、彼女をそこまで駆り立てたものとはいったい何であったのか。際限のない自由を求めたのか、それとも自分という唯一の肉体に何らかの誓いを入れるために規定違反を犯したのか。しかし、僕がその答えを知る由もなく、どうにもならないことに注意を払うのをやめると、気を取り直して目の前の仕事に取り組むことにした。

 昼休みになるとローネが僕たちを昼食に誘った。ジャンとティモも僕たちの土産話に興味があるらしく、五人で近くのカフェへと向かう。歩いている間もずっと、イェンスと僕は彼らから旅行についてあれこれ質問を受けた。カフェに到着するなり、五人で身を寄せ合うようにテーブルに座り、注文も素早く済ませる。その間中も僕たちの旅行話が途切れることは無かった。

 僕たちが短期間のうちにいろんな地方国を訪れ、出入国も素早く済ませた話をすると、案の定ドーオニツ居住権にまで話が及んだ。

 「お前たちは地方国の奴らに絡まれなかったのか、運が良かったな! 俺なんか母方の祖母の家近くのバーではとこと一緒に飲んでいたら、さんざん地元の奴らから『政府の犬』だって罵られたんだぜ? ぐっとこらえたけどな。地方国の奴らはドーオニツのことをあまりわかっていない。奴らは特権だらけと勘違いしているか、俺たちが政府から常に直接干渉を受けながら生活していると思っているか、とにかく両極端なんだ」

 眉間にしわを寄せて話したジャンの言葉に思い当たる節があったイェンスと僕は、思わず苦笑いを浮かべた。

 「だけど、ここで受けられる制度の概要を把握すれば、ドーオニツ居住権は垂涎の的で必死にコウラッリネンを受けるらしいぜ」

 ティモはしたり顔で言ったのだが、急に怪訝な表情を見せたかと思うとさらに付け加えた。

 「もっとも、それを知りながらも、あえて無謀なことをする人もいるんだけどな」

 僕たちの料理が運ばれてきた。料理を食べる前に、ジャンがため息をつきながら話し出した。

 「オランカか。あの後、ローネから話を聞いて彼女がどういう人かはわかったけど、にしても自ら居住権を捨てるようなことをして馬鹿だよな」

 「あの人は私が入社する少し前に、ギオルギの知り合いの紹介で転職してきたらしいの。私より六歳年上になるのだけど、あの人、見た目は華があるでしょ? だから最初はちやほやされていたらしいわ。それから私が入社して、三か月くらい経った頃かしら。私も少しずつ雰囲気に慣れてきて、当時経理を担当していた男性と単なる世間話をする機会があったの。でも、彼女はそれが気に入らなかったのね。その後、トイレでばったり会った時に『仕事を覚えるより先に男性をひっかけるなんて、その容姿じゃ必死にもなるわよね』って半笑いで言ってきたのよ。その時は恋人もいなかったし、容姿も自覚していたけど、ほんのちょっと他愛もない話をしただけであんなことまで言われて、本当にむかついたわ。その男性は転職していなくなって、私がその数年後に同じ大学の人と結婚してから近寄って来なくなったけどね。あの人、つい最近までよく胸元をはだけさせたり、短いスカートを履いたりして色気をアピールしていたでしょ。常にパートナーがいるようなことは言っていたけど、そしたら事務所の男性には絡まないはずだもの。単なる浮気性なのか知らないけど、本心は寂しいのだと思ってたわ」

 それを聞いた途端、ジャンが驚いた表情を見せた。

 「そんな年齢なの?! 全く見えなかった……」

 ローネがため息交じりにうなずいて返した。

 「あの時の彼女、きっとあなたが彼女に気があるって勘違いしたのね。『別に構わない』という言葉を、あそこまで歪曲できるのは本当にすごいわ。そのうえ、彼女はもともとプライドが高いから、あなたのほうから彼女を誘うよう、酔った勢いで絡んであなたの気を引こうとしたんじゃないかしら。それが空回りしていることに気が付いて、今度は彼女がそれまでに犯した法令違反すれすれの行為や、今も複数の男性からもてている話をすることで彼女自身を高く見せようとしたのよ。きっとそうだわ。でも、あの話は聞いていて本当に不快だった。私が話半分に聞いて流せば良かったんでしょうけど、つい嫌味ったらしく注意したのがいけなかったのね」

 ティモがそれを聞いて強く同意を示した。

 「でも、あれは仕方ない。ちょっと内容が生々しかったし、俺だって聞いていて不快だった。そもそも社内でもいい噂聞かなかったしな。けど、まさかあなたの注意であそこまで激昂するなんて、酒癖も相当悪かったんだな」

 「それでも、身体規定違反なんて本当にどうかしているわ。あの年齢で地方国でやり直すなんて大変だと思うんだけど、彼女は何にも考えてなかったのね」

 イェンスと僕は彼らの会話に耳をじっと傾けながら食事を取っていた。それにしてもなぜ、オランカは一連の行動を取ったのであろう。ふとした疑問に思考を練っていくうちに、ある仮説が浮かび上がってきた。

 一見して自信家に見えた彼女であったが、本心では自分自身のことが嫌いで仕方なかったのではないか。それが生い立ちに由来するものかはわからないのだが、いずれにせよ自己肯定感が非常に低かったに違いない。だからこそ、イェンスのような家柄も良く、見た目も性格もいい男性の好意を得ることによって自分の価値を見出そうとしていたのではなかったか。

 いったいどうしてこの考えが浮かんだのか不思議であったものの、それでいくと派手な格好も年齢を隠し、異性から魅力的な人物だと思われたいからではないのかという推測がついた。しかし、身体規定違反した理由まではこれといって思い浮かばないでいた。

 そこで僕はイェンスに小声で話しかけて彼の意見を求めた。すると、彼は少し間を空けてから非常に小さな声で僕に言った。

 「君の推測は僕も考えていたことだ。僕のことに関していえば、僕の家柄が無かったらもう少し彼女も控えめだったかもしれない。僕が思うに、君が答えを出した『自分のことを嫌っている』というところに原因があると考えている。自分のことが嫌いなのであれば、自暴自棄になりやすい。そこで彼女はまず自分自身を見つめなおすべきだったのだろうけど、他人に彼女自身に対する肯定感や価値を委ね続けた。それは時にはいい方へと作用したのだが、結局は安定した評価につながらず、最終的には何をやっても満足できなかったのだろう。その自分の弱さを改めるために、誓いを体に刻み込もうとして身体規定違反を犯したのか、それともそこまで深い理由はなく、単に体制に反抗的な自分に酔いしれていたのか――。いずれにせよ、彼女が自分の本心に耳を傾け、無償の愛を彼女自身に贈っていれば、もっと違う結果になっていただろうし、そもそも知っている彼女とは全く異なっていたかもしれない。今となってはわからないけどね」

 僕は彼の言葉に揺さぶられていた。オランカが僕とどこか似ていたことに気が付くと、彼女の孤独からくる悲痛な叫びが聞こえてくるようであった。

 「ありがとう、イェンス。僕は彼女の全てを責める気にはなれない。僕が今まで抱えてきた問題にそっくりだ。自己への無償の愛が必要な理由も、改めて認識できた。僕も僕自身のためにやはりそのことを意識しよう。それにしてもオランカが新しい地で、彼女自身を受け入れる思考に巡り合えればいいんだけど」

 つぶやくように言った言葉に、彼は優しい微笑みを浮かべて返した。

 「クラウス、やはり君は美しいのだな。君のその言葉で、僕もその考えを持つことに勇気を持てたよ。もっとも、今の彼らには話せないけどね」

 目の前ではローネとジャンとティモが、オランカのことで未だ怪訝そうに話し合っていた。それもいたし方ないことであろう。彼らにも思うところはあるのだ。

 その話が落ち着いた頃合いを見計らってイェンスが話題を変え、地方国で見たことを話し出す。イェンスの美しい眼差しを見ながら、僕はじっと『自分への無償の愛』という言葉を噛みしめていた。

 突然、僕はリューシャを思い出した。そこで目の前から離れて注意を心と魔力に向け、そっと彼女に想いを贈る。すると、すぐさま心があたたかい感情で満たされていった。僕はそのあたたかさに自由と感謝を見出すと、再び会話の輪に戻っていった。

 午後になってノルドゥルフ社のフランツから返信が届いた。彼は僕たちが彼の提案を採用したことに感激しており、『もし、私がツェイドにいる時にあなたたちが訪れることがあったら、ぜひ私にご案内させてください』と結んであった。イェンスも僕もそれを読んで束の間、楽しかった思い出にひたる。レストランで出会ったあの同業者の男性が、今もドーオニツ向けに書類を作成しているのかもしれないと思うだけで、広大な世界がますます身近になっていく。

 仕事が終わるなり、僕たちは真っ直ぐにイェンスの部屋へと向かった。そこで一緒に夕食を作って食べ、そのままエルフ語の勉強を一緒に行う。語学の本は文字を指先で魔力を少し放出しながらなぞらえると、音声がかすかに脳裏に響くようになっていた。それをイェンスと確認しながら学習することがたまらなく楽しく、僕たちは駆け出しの魔法使いなのだと言い聞かせながら勉強にあたった。

 次の日も慌ただしく時間が流れた。オランカのことを話す人はもはや誰もいなかった。ジャンも本来の担当に戻り、忙しそうに出掛けていく。

 夜になり、今度は僕の部屋でイェンスと一緒にエルフ語の勉強をしていると、母から電話が入った。内容は僕が実家にもお土産を買っていたため、近いうちに届けるとだけ連絡を入れていたことに対する確認であった。そこで今週の土曜日の昼頃に帰省すると告げると、「気を付けて来てね」という母の言葉で電話は切れた。

 僕はイェンスの様子をそっと伺った。彼は朗らかな笑顔で見守っていたのだが、彼の関心が目の前の語学の本に向いていることはわかっていたので、控えめに彼を誘った。

「一緒に行くかい?」

「ありがとう、でも今はエルフ語が気になって仕方が無い。今回は遠慮してもいいだろうか」

 彼が案の定ためらいがちに答えたので、僕は「そうしたらいい。僕は気にしてないよ」と微笑んで返した。その言葉どおり、僕はイェンスの取った選択を全く気にかけていなかった。

 あっという間に水曜日が過ぎ、木曜日も過ぎ去っていく。イェンスと僕は二人きりでいる時にだけ、学んだエルフの言葉を会話に取り入れるようになっていた。発音がどこまで正確なのかは図りかねていたのだが、それでも新しい単語を会話に入れるたびにエルフの地が近くなるようで、競うように学び合った。

 その週の金曜日の夜、イェンスのアパートで一緒に勉強をしていると、ユリウスがイェンスのスマートフォンに電話をよこしてきた。イェンスが近況を伝えてから簡単なエルフ語で話しかける。するとユリウスはエルフ語で返し、それから「早速エルフの言葉を覚えたのか、さすがだな」と言って朗らかに笑った。イェンスから電話を受け取り、今度は僕が片言ながらもエルフの言葉でユリウスに挨拶をする。あまりにもたどたどしかったため、ユリウスが理解できないのではないかと不安に思ったりもしたのだが、ユリウスが僕の挨拶に対してエルフと変わらない発音で挨拶を返したものだから、大きな喜びが熱意とともに湧き上がった。

「やはり君たちは飲みこみが早いな。発音も悪くない。ルトサオツィが十一月にまた来たらきっと驚くだろう。だが、その前に私も一緒にエルフ語の勉強をしなくては」

 ユリウスの美しい眼差しが脳裏に浮かぶ。シモとホレーショは訓練でいないらしく、連絡を取るとしたら土曜日の夜にしたらいいだろうと助言を受けた。それから少しだけやり取りし、エルフ語での別れの挨拶とともに電話は終わった。

 時間は短かったものの、ユリウスとの会話は知的で洒落っ気もあり、非常に心地良いものであった。お互いに離れていても、僕たちの心はやはりつながっているのだ。

 僕は何も言わずにイェンスのベッドに寝そべった。すると、イェンスも本を片手に隣へと寝そべった。彼がゆっくりと目をつむったので何気なしに見守っていると、突然彼は恍惚とした表情を浮かべた。その表情の変化を興味深く捉えているうちに彼は再び目を開け、美しい光を瞳に携えながら言った。

「さっき、ラカティノイアに簡単なエルフ語で想いを贈ったら、今までにない美しい感情に揺さぶられたんだ。いや、今もその感情に包まれている。彼女がたった今も僕を想ってくれているのだと感じられるだなんて、このうえない幸せと喜びと安らぎとに満たされるよ」

 彼の美しい笑顔を見て、僕は久しぶりに緊張を覚えた。今の彼はますます光り輝き、自信にあふれているようである。さらに成長を遂げていくイェンスに、僕はいつものように心の中で彼の幸せを願った。お互いに見つめ合う中で、あたたかい気持ちが僕を包んでいく。どうやらイェンスも、まさしく僕のことを考えていたようであった。

 最愛の友と共有しているものが貴くて、僕はイェンスに「ありがとう」とつぶやいた。それを聞いたイェンスが「こちらこそありがとう」とささやく。流れ去った過去にも遠い未来においても、今この瞬間に訪れている美しさに勝るものは無かった。その『今』に僕たちはまさしく存在しているのだ。

 起き上がって再びエルフ語の勉強を始め、ひと区切りがついたところで窓から夜空を眺める。星の光は相変わらず街灯りにかき消されて弱々しかったものの、そのことがかえってエルフの村で見上げた夜空を思い起こさせていた。そのエルフの村の上空でさえ、ドラゴンが宙を舞うのは非常に稀なことらしかった。そのことを思い出したその時、僕の中で途方も無い願望が込み上がった。

 ドラゴンの言葉とはいったい、どのようなものなのであろう。もし、僕がその言葉を話せるようになり、その言葉でリューシャと会話できたなら、彼女はいったいどんな反応を示すのか。

 僕は魔力を感じながら青白い光を脳裏に浮かべた。僕が青白い光を好む理由が判明した今、紺色の空の向こうで小さく輝く青白い光は非常にたくましく見えた。

 そもそもドラゴンにとって宇宙とはどういった存在なのか。ルトサオツィが宇宙について興味深いことを話していたことを思い出す。僕たちの目の前にある空間には、何らかの情報が隠されているらしい。だが、僕の今の魔力では、エルフが観測している宇宙の情報どころか、そもそもその概要すら掴めないかもしれなかった。空間と魔力が密接的な関りがあることは判明していても、なぜそうなのかを理解するのにある程度の魔力が必要なのであれば、僕が喚きあがいても真実を得ることは不可能のままなのである。

 今の僕は全くてっぺんが見えない梯子を、地上から数メートルの位置で見上げているようなものなのであろう。そう考えることはまたしても後ろ向きであることは理解していたのだが、生身の体が相当離れている空間を瞬時に移動するということがなぜ可能なのか、その原理の欠片さえ全くおぼつかないのだから、むしろ的確であるようにさえ思われた。

 僕の中の魔力をほんの少し、空間に放出する。しかし、当然のごとく何も変化は起こらなかった。いや、魔力が弱いがため、空間に影響を与えられずにいるのではないのか。

 異種族の世界では、魔力の強大さが非常に大きな意味を持っていた。そのうえ、僕が知っている高魔力者は全て物腰がやわらかく、弱い立場にもあたたかい眼差しを向ける優しさと知性を兼ねそろえており、存在そのものが非常に美しかった。僕の俗っぽい尊敬と憧れでさえ嫌がらずに受け止めてくれることも、ルトサオツィが充分その証明を果たしてくれていた。

 もし、僕の魔力が奇跡的な水準にまで高まっていけば、ルトサオツィのような振る舞いを身に付けるのみならず、瞬間移動の魔法やもっと複雑な魔法を操れるようになる可能性があった。そうなれば、僕は間違いなく人間では足を踏み入れることができない世界で、今は想像だにできない光景を当たり前のこととして受け止めているはずなのだ。

 それを想像しただけで、言いようもない興奮と感動とが湧き上がる。それに呼応するかのように魔力がみずみずしく体内を駆け巡っていく。それは紛れもなく、ドラゴンから授かった魔力であった。

 全ての発端となったヅァイドも僕に魔力を直接与えたリューシャも、僕の魔力が高まっていくことを望んでいた。そうであれば、なおさら僕はドラゴンが見ている世界に辿り着きたかった。そう、リューシャがあの美しい眼差しで捉えている世界を見つめてやるのだ。そのことを自分自身に誓いながら、脳裏の彼女にそっとキスを贈る。またしてもあたたかい気持ちに包まれると、僕はいよいよ力強い安心感に満たされていった。

 夜も更け、僕は自分の部屋へと戻ることにした。エルフ式の挨拶をイェンスと交わす。その挨拶はお互いの部屋にいる時だけで、しかも思い出した時ぐらいであったのだが、僕たちにとってはすっかり馴染み深いものとなっていた。僕が明日の夕方までには実家から戻ってくるとイェンスに伝えると、彼が久しぶりにゲーゼのレストランで夕食を取ろうと提案してきたので、すぐに賛同して彼と別れた。

 次の日は少し早めにアパートを出て実家へと向かった。最近はずっとイェンスと行動をともにしていたため、一人でいることはどことなく心許なかった。それでも他人の好奇ある視線が以前よりも気にならなくなっていたため、気を取り直してのんびりと自分一人の時間を楽しむ。

 地下鉄に乗り込むと途中の駅から知り合いが乗ってきたのだが、その人は僕に気付かないまま目の前を通り過ぎっていった。僕もあえて声をかけることなくやり過ごす。単調な景色が流れ、いよいよ実家の最寄り駅に到着する。改札を出るなり、急くように実家へと向かった。

 伏し目がちに移動する。瞳の色を指摘されることに対して割り切るようになったとはいえ、なるべくなら避けたかった。それでも何人かの知り合いに会って挨拶を交わしたのだが、彼らは特に気にかけた様子もなく立ち去っていった。ひょっとしたら僕が気にしすぎているだけで、他人には関心の無いことなのではないのか。

 新年早々に帰省した時以来に実家へと到着する。遠慮がちに呼び鈴を押すと、母が笑顔で僕を出迎えた。

「クララス、お帰りなさい」

 母はそう言うやいなや驚いた表情を浮かべ、そのまま固まってしまった。その奥から祖母と父が様子を覗き込むかのように顔を見せる。僕は笑顔を取り繕いながら母に言葉を返した。

「ただいま、母さん。これ、たいしたものじゃないけど土産のお菓子と紅茶だよ」

 しかし、母は反応せず、ただただ僕の瞳だけを困惑した表情で見ていた。母の異変に父が気付き、僕のほうへ歩み寄ってきて怪訝な表情で覗き込んだ。

「どうしたんだ?」

 その父も僕の顔を見るなり、非常に驚いた様子でぴたっと動きが止まった。

 僕は両親にもドラゴンの魔力を得たこと、そのことでもはや普通の人間でなくなったことを決して話さないと決めていた。そのことに罪悪感もあったのだが、振り切るかのようになるべく明るく振る舞うことにした。

「中へ入るよ。ずっと歩いてきたから疲れたし、喉が渇いた」

「待って、クラウス。もう一度よく見せて」

 母が引きとめて僕の瞳を覗き込む。それから父のほうを見ると、言葉を絞り出すかのように話しかけた。

「この子が小さい頃、タキアで少しだけ姿をくらましたことがあったでしょう? あの時、この子はすぐに見つかったのだけど、その時、今みたいな紫色の瞳だったのを覚えている?」

 それを聞いた途端、今度は僕の動きが止まった。高鳴る鼓動に息苦しさを感じながら、おそるおそる母のほうを見る。困惑した表情の父が何度も首を縦に振ると、僕を見ながら言った。

「ああ、あの時はこいつがいなくなってがら戻ってきた時に、確かに瞳の色が紫色に変わっていだな。何か良ぐないものに感染したのがと思って病院に連れて行こうと話し合っているうちに、徐々に元の瞳の色に戻り、すっかり跡も無くなった。クラウス、お前が俺たちに反応していだから、視力に特別な異常がないことはひとまずわかったし、それ以外に変わった様子も無かったがら、俺たちが見間違えたのだろうと考えたりもしたのだが、念の為ドーオニツに戻ってすぐに病院でお前の眼を検査してもらったんだ。だけどな、やっぱり異常は無かったんだ」

 父は僕の新しい虹彩をじっと見つめていた。

「そんなことがあったのは知らなかった。そんな偶然もあるんだろうか? 僕の瞳の色が変わった経緯を説明しよう」

 僕はしらじらしく例の説明を始めた。両親と祖母は最初から心配そうに耳を傾け、入院した件でいよいよ表情が曇ったのだが、医師が診断して問題が無かったという設定を話すとあっという間にほっとした表情を浮かべた。

「じゃあ、本当に視力にも身体にも影響は無いのね?」

 母が安堵した表情で僕を見つめながら尋ねた。

「問題ない。そのためにさらに三日間入院したんだから」

 良心の呵責を感じたのだが、開き直って堂々と室内へと歩き出した。僕はドラゴンであるヅァイドを見つけ、触れた時点で普通の人間が歩む道から外れてしまっているのだ。

「クラウス」

 父が僕の名を呼んで肩を掴んだ。その行動に驚いて振り向くと、父は真顔で僕をじっと見つめていた。

「何があっても、お前も俺の自慢の息子だ」

 それを聞いて僕は思わず固まった。なぜ、父はその言葉を唐突に言ったのか。しかし、言葉少なめな父から初めて聞いた、僕に対する愛情に満ちた言葉であった。

 僕は今にもあふれだしそうな感激をぐっとこらえた。こういった時、照れも隠さずに素直な感情を表す勇気を身に付けるのは時間の問題なのか、それとも永遠に訪れないのか。それでも熱くなった目頭を隠すことなく、じっと父を見つめ返す。見慣れた父の灰色の瞳にはあの美しい光が微かに放たれており、僕の視線に少しはにかんだ表情で応えた。その瞬間、僕の中で優しい気持ちが全身にあふれかえった。父の瞳に美しさを見出した僕は、初めて父の息子であることに喜びを感じたのである。

 父は母を掴まえて「クラウスは少し疲れているんだ、休ませでやれ」と言い残し、テレビの前のソファに座った。母が「そうね、冷蔵庫にグレープフルーツジュースがあるから持ってくるわ」と、笑顔を見せてキッチンへと向かう。祖母だけは僕の瞳をしきりに驚いた表情で見つめており、「難儀な経験をしたとはいえ、ずいぶんきれいな瞳の色になったもんだ」と不思議そうにつぶやいていたのだが、だんだんと納得がいったのか、僕から離れてキッチンへと去っていった。

 母がコップにグレープフルーツジュースを入れて僕に手渡した。僕がそれを勢いよく飲み干すと、母と祖母が土産話を聞き出すべく交互に質問を並べていく。僕は瞳の色をそれ以上追及されなかったことに安堵していたため、いつもより饒舌かつ丁寧に答えていった。それもあってか、母も祖母も熱心に耳を傾ける。父もいつの間にかテレビを消しており、僕の話にじっと耳を傾けていた。

 僕はタキアを訪れ、祖母と兄に会ってきたことも伝えた。兄が僕に言い残した言葉も漏らさず両親に伝えると、母は「今度の冬に家族と一緒に遊びに来ると言ったのね? まあ、大変。今から準備をしておかないと」と嬉しそうに言った。父も表情がゆるんでおり、独り言のように冬の予定を話し出す。それからマルクデンを訪れた話をすると、祖母が懐かしそうな表情で何度もうなずきながら話に聞き入った。祖母の夫、つまり僕の亡くなった母方の祖父もマルクデンの出身であった。おそらく過去の忘れられない思い出を脳裏に描いているのであろう、祖母の笑顔が少女のようなあどけない輝きを放つ。

 その後も各地で体験した素晴らしい旅の思い出を、かいつまんで両親と祖母に話し続けた。僕の土産話を一通り聞き終えた頃には、家族の誰もが僕の瞳の色が変わったことにもはや疑念を抱いていないようであった。

「一生の思い出に残るわね」

 母が明るく笑って僕を見つめた。その言葉に笑顔を取り繕い、うなずいて返す。しかし、両親に対して嘘をついていることに心苦しさは相変わらず残っており、果たしてこの行動が本当に適切なのかと、全く悩んでいないわけでもなかった。

『無償の愛を自分自身に贈る』

 リューシャの言葉を噛みしめる。今は両親にも嘘をついている僕自身を許そう。本当のことを伝えていなくとも、僕が家族に対して感じている感謝の気持ちに変わりは無いのだ。

 彼らにとって、クラウスという息子がドラゴンと縁があり、今や普通の人間では無くなってしまったという事実は真実味の無いことであろう。思えば、そのことを証明できる具体的なものは無く、魔力を開放して両親の体に影響を与えたところで、両親が真に理解してくれるとは到底思えなかった。それほどまでに普通の人間と異種族は隔離され、接点が無いのである。それどころか、僕がドラゴンから魔力を受け継いだから瞳の色が変わったと正直に話してしまえば、僕の頭がおかしくなったと心配されかねなかった。

「昼食を食べてから帰るんでしょ? それにしてもイェンスにすっかりあなたがお世話になったのに、きちんとお礼ができないのはあの子に悪いわね」

 母は残念そうに言うと、キッチンへと向かった。父も母に何かを話しかけながらキッチンへと入っていく。祖母は「最近、あの二人は仲がいいのよ」とささやくと席を外した。

 僕は手持ち無沙汰気味であったため、再び幼い頃のあの特別な記憶を辿ることにした。すると、一つの疑問が湧き上がった。いったい僕はなぜ、ドラゴンに気が付くことができたのであろう? 

 ドラゴンは近くにいる人間の関心や注意を逸らす魔法を使用して人間社会に潜入する、とヅァイドは話していた。実際に、僕たち家族はその魔法をドラゴンから直接かけられていたのである。しかし、幼い僕だけが影響を受けなかったのは、やはり不思議なことのように思われた。そこが妙に気になった僕は、当時の記憶をできるだけ丁寧に思い返すことにした。

 背丈ほどの草、川のせせらぎの音、青白い光――。あの時見た光景は、青白い光を除いては先日訪れた時とほとんど変わっておらず、僕の視点だけが成長によって高くなっていただけであった。そして当時の僕はずっと何かに反発し、心の中で抵抗していた。

 その時、僕は重要なことを見落としていたことにようやく気が付いた。ヅァイドの説明を受けてから、僕は抵抗をドラゴンの威嚇や最後に僕にかけられた記憶の魔法に対してなのだとばかり考えていた。だが、実のところは河原で徐々に漠然とした嫌な雰囲気を感じ、その雰囲気に飲みこまれまいと必死に抗っていたのである。すると、その嫌な雰囲気が人間の注意がドラゴンから逸れるよう、ヅァイドが僕たち家族に対してかけていた魔法であったことに気が付いた。僕は幼いながらにその魔法を嫌な雰囲気と捉え、必死に抵抗をしていたのである。

 その小さな反抗が全ての始まりであった。ヅァイドはそこまで説明していなかったものの、そう考えた時に言いようもない肯定感が強くあったため、あながち間違いでもないのであろう。僕は最高の奇跡を幼い頃にやってのけたのだ。それを成し遂げることができたその理由も、今や僕の身にしみるほど理解していた。それはヅァイドも指摘していた、僕の中の強い意志力であった。

 しかし、いつの間にか僕はそれを失ってしまい、イェンスと出会って変化を始めるまでは僕の中に欠片も残っていなかった。深い情熱と喜びをもって何かを成し遂げるという経験が、それまでの僕には徹底的に欠けていたのである。それゆえにかつての僕は全てにおいて中途半端であり、またそのような自分を恥じ、責めるばかりであった。

 あの時、幼い僕が強い意志力を持ってドラゴンの魔法を跳ねのけ、あろうことかそのドラゴンに直接触れたこと、そのことでドラゴンから記憶を消されかけた時でも最後に抵抗を見せて『何か美しいものを見た』という記憶と『青白く光るものを美しく感じる』という感覚を守り抜いたことは、驚異的な出来事には間違いないであろう。だが、それでも強大な力の前では結局自分が無力であるという事実に変わりはなかった。ヅァイドがその強大な力を残虐なことに使用しなかったからこそ、僕たち家族は今も存在していた。そのことを幼い僕が無力感とともにうっすらと感じ取り、それが家族間の揉め事と複雑に絡まっていつの間にか僕の中で肥大化し、否定的な観念を自己にもたらしたのではないか。

 しかし、そこで結論付けることがなぜか腑に落ちなかった。よくよく考えれば、僕の中の可能性という芽を全て摘んだとも思えなかった。もし、僕が自分自身の能力を過信して、目立つようなことを自ら進んで行っていれば、過去の複雑な心境と浅い知見とが醜く絡まりあい、今いる位置には到底辿り着けなかったことであろう。傲慢な自尊心が僕の中に全く無いわけではないのだが、いくら魔力が魔力を引き合わせるとはいえ、僕が狡猾な自己中心さを顕著に表す人物であれば、イェンスは目を合わせることすら避けたはずなのだ。

 ひょっとして、僕がドラゴンの能力を受け継いだあの幼少時の時から、僕に一番合ったやり方でその力を馴染ませてきたのではないのか。それが今の結果を生んだのであれば、やはり僕に最も適した道筋で成長させてきたことになる。そのことに思いを馳せると、感謝の気持ちしか湧き上がらなかった。

 つくづく僕は恵まれていたのだ。

「いい匂いがしてきたわね」

 祖母が席に戻りながら僕に声をかけてきた。キッチンから、「あとは俺がやる」と父が母に伝えたのが聞こえる。気になって様子を伺っていると、母が苦笑いを浮かべて出てきた。

「私がいると邪魔なんですって」

 母の口調は明るかった。祖母が「あら、楽でいいじゃない」と朗らかに話しかけると、母は「そうね」と返しながらテーブルに着き、僕が渡した土産のお菓子を改めて手に取って眺めた。

「ヒイラータスエは私のおばあちゃんの故郷、ルージャマの隣国ね」

「そうなの? ルージャマ?」

 僕は初めて聞いた事実に驚いておうむ返しに言った。

「あれ、クラウス。知らなかったのかい。まあ、あまり私の母の話はしなかったかもしれないね」

 祖母の穏やかな笑顔を受け、母が思い出話を始めた。僕の曾祖母が移住した当時は船でしかドーオニツに渡ることができず、嵐の収まった明け方に眺めた大海原に曾祖母自身の未来を思い描いたこと。移住後はやはり馴染めずに苦労の連続であったこと。そしてマルクデン出身の曽祖父とはアウリンコの図書館で出会ったことと、大恋愛の末に曽祖父がドーオニツへ越してきたことなどが語られていった。

 僕はそれらを聞き、母が十代の頃に亡くなった曽祖父と曾祖母をしのんだ。不鮮明な写真で顔を見たことがあるのは一度きりで、それもはっきりとは覚えていないのだが、僕にまでつながった二人の人生が遠い昔の出来事のようには思えなかった。

 ゲーゼはその間も生きていた。ヘルマンの話だと、すでに異種族の地で生活をしていたらしいが、そう考えるとやはり突出して長生きであることは様々な不具合をもたらすに違いない。

 遠い、遠い未来を想像する。百年後に僕はどうなっているのであろう。かなり強力だと言われているリューシャの魔力をじかに受け取っても、この体に不調をもたらすことなく馴染ませることに成功していた。それでいけば、おそらく繁殖能力も無くなっているに違いないし、百年後もさほど老いることなく生きているのかもしれない。しかし、それ以上のことを考えるのは無意味であるように思えたので、すぐさま思考を目の前の現実へと移す。まずは明確になった目標に向けてできることを、確実に実践していこう。僕は中にもはや悲観も楽観もなく、冷静さだけがあった。

 父が料理をテーブルに並べ、昼食の用意が着々と進められていく。「手伝おう」と申し出ると父は思いがけず笑顔を見せ、「それなら皿を並べてくれ」と返した。そこで父の後を追うようにキッチンへと入っていった。

 無言で皿を取り出しているうちに、ふと父の言葉を思い出した。僕を『自慢の息子』と断言してくれたことに対し、照れくささとともに感謝の気持ちが湧き上がる。ずいぶんと間が空いてしまったとはいえ、今しかないのだと考えて小声で父に話しかけた。

「父さん。その、さっきはありがとう」

 僕の遠慮がちな声を聞いた途端、父の動きがぴたりと止まった。その様子に少し緊張しながら父を見守る。父は僕を真っ直ぐに見つめると、力強く言った。

「当たり前だ」

 父は口の端で微笑むと、料理を持ってキッチンを出て行った。そのあっけない態度に無性に感激しながら、父の背中を追うように僕も皿を持って続く。

 タキアで味わった懐かしい料理を食べながら、母と祖母を中心に会話が弾んだ。父が時々会話に参加するものの、僕に関していえば短い相槌を返すだけである。昼食を食べ終え少し休むと、実家を出て帰ることにした。帰り間際に、母がイェンスによろしく伝えるようにと念押しして言ってきたので、わざと呆れた表情で「次はイェンスを連れてくるよ」と返す。すると、母は「必ずそうしなさいよ。ご馳走をつくって待っているからね」と明るい笑顔を浮かべ、その隣で祖母があたたかい笑顔で僕を見ていた。父はテレビの前のソファから立ち上がって「また来い」とだけ言ったのだが、瞳にはあの光がうっすらと浮かんでいた。

 僕はあっさりと実家を離れて足早に駅へと向かった。心の中がこそばゆく、喜びに満ちている。道端で以前、雪遊びをしていた父子とばったり会ったので挨拶を交わした。子供が僕をじっと見つめてから笑顔で手を振ったので、僕も笑顔で手を振り返してから再び歩き出す。すると、背後から男の子の言葉がかすかに耳に届いた。

「あのお兄ちゃん、きれい」

 その美しい言葉に立ち止まって振り返ると、男の子と目が合った。その純粋な眼差しは僕に美しい光をくれてから前へと向いたので、僕もその男の子とその家族の幸せを願ってから前を向いた。

 地下鉄の駅に着くなり、イェンスにおおよその到着予定時間を報告した。すぐに彼から返信が来たのだが、彼はずっとエルフ語の勉強に熱中していたらしく、いつの間にか時間が経ったことをでたらめな数式に表していた。そこで僕もまたでたらめな数式を書き、さらに僕が彼のアパートに寄って遅れた分の勉強をしてからレストランに行きたい旨を書き添えて返信する。その数分後に彼から、『それなら僕がきちんと知識を定着させるためにも、僕が君に説明することを許してほしい。それと数式は完璧だ、全く君には脱帽するよ』と冗談を添えて返事が戻ってきた。

 このくだらない一連のやり取りに顔をほころばせながら、やって来た地下鉄の中へと乗り込む。さほど混んでいなかったため、空いている座席に座ろうとしたその時、後ろから男性の声で呼び止められた。聞き覚えのある声に振り返ると、声の主は幼馴染のロヒールであった。

「久し振りだな、クラウス。こっちに来てたのか」

 彼はそう言うと僕の瞳の色に気付くこともなく、僕の隣に座って彼の近況を話し出した。イェンスも持っていないような高級腕時計とブランドのバッグを身に付けている彼に物怖じしかけたのだが、気を取り直して彼に明るく言葉を返す。

「君も元気そうだね。それに話を聞いていると本当に忙しそうだ」

 僕の言葉に彼は笑いながら答えた。

「そりゃあ、来年はいよいよ法制省の国家公務員試験があるしな。実際にあった裁判の事例から関係する法律を全て洗い出し、どういった判断がどのような動きで行われたのかを再確認していく課題やら、司法書士の勉強やらで何かと忙しいんだ。その点、お前は楽な仕事でいいよな。……どうしたんだ、その瞳の色?」

 彼はようやく僕の瞳の色の変化に気が付くと、怪訝な表情で僕を見つめた。そのうえ彼の声が少し大きかったため、近くにいた乗客数名の視線が一斉に僕たちのほうに向けられる。その好奇の眼差しに気後れしてしまった僕は、ロヒールに例の説明を簡潔かつ手短に小声で伝えていった。すると彼は途中からあからさまに不機嫌そうな様子で顔をしかめ、後半は明らかに見下した表情で僕を見ていた。

「浮かれているからそんな目に合うのさ! しかもわざわざ遠回りするなんて、自業自得じゃねえか。お前みたいなやつがいるから、公務員の仕事が煩雑になるんだ。お前が遊び呆けている間にも、ドーオニツ居住者身分証明証が地方国でもきちんと機能するように働いている人たちがいるから、簡易出入国審査も医療費一部免除も可能なんだぞ。特別コース出てんのに、そんなこともわかんねえで恥ずかしくねえの?」

 彼の言葉の節々に辛辣な棘があったので憤然としかけたのだが、優しい何かが一瞬にして僕を取り巻いたため、不思議と冷静さを保つことができた。

「そうだね、君の言うとおりだ。高い志を持って働く人たちがいるから、僕たちの生活が支えられている。そして君がその立派な志を持って未来を見据えていることに対し、僕は心から尊敬しているし、政府で働く人たちには本当に感謝している。僕はもう少し思慮深く行動すべきだったと思う」

 僕は穏やかな心のまま、普段から思っていることを率直な言葉で彼に返した。すると彼は面食らったらしく、困惑した表情を隠し切れずに僕を見て言った。

「わ、わかっていればいいんだ。それにしても不思議な目の色だな。人間じゃないみたいだ」

 彼の言葉に胸がざわめき立つ。それでも僕は平静さを失わなかった。

「慣れれば気にならないさ。僕も最初は驚いたけど、すっかり慣れた」

 僕は話題を変えようと、アーネストやリョウの近況をロヒールに尋ねた。すると彼は知っている範囲で答え、それから彼が複数の女性からもてている話をし始めた。

 次の到着駅の車内放送が流れる。それを聞いたロヒールが、「俺は次の駅で乗り換えるんだ。しばらくお前と会うことは無いだろうが、まあ今後は人様に迷惑かけんなよ?」と言って席を立った。車内広告にある男性向けファッション誌のモデルとよく似た服装のロヒールの後ろ姿を、ぼんやりと見つめる。駅に着いてドアが開くと、彼は僕を振り返ることも無く颯爽と降りていった。

 電車が再び動き出すと、少しざわめきだった心を落ち着かせようと静かに目を閉じた。周囲の話し声を意識的に遠ざけ、リューシャの言葉を何度も心の中で繰り返す。それから僕が大切に想っている友人たちの顔を思い浮かべた。イェンスもユリウスもシモもホレーショも、僕の脳裏では優しい笑顔を浮かべていた。ルトサオツィらも美しい眼差しを僕に向けていた。ロヒールとまた会うかはわからないのだが、彼の行く末が成功することを願うと僕は目を開けて魔力を意識した。

 僕は僕が望む道を進んでいくのだ。

 ようやくアパートの最寄り駅に到着し、急いでイェンスの待つアパートへと向かう。落ち着きは取り戻していたのだが、彼に、あの美しい眼差しに一刻でも早く会いたくてたまらなかった。

 息を少し切らしながら彼の部屋のドアをノックする。彼はすぐさまドアを開け、優しく微笑みながら「おかえり、クラウス」と言って僕を中に招き入れた。

 僕はイェンスに抱き付くと、彼の口にキスを素早く贈った。それから彼の美しい瞳をじっと見つめながら、僕に起こった出来事を端的に説明していった。それは父の言葉であり、僕が家族に感じた感情であり、ロヒールとのやり取りであった。

 イェンスは始終静かに耳を傾け、話が終わると僕を優しく抱きしめてから僕の口にキスを返し、微笑みながら言った。

「君が感じた気持ちや感情を、僕にもよくわかるように教えてくれてありがとう。僕は君の言動全てに愛を贈るし、君が美しい行動を選択したことに賞賛を表したい」

 僕にはその言葉だけで充分であった。

「ありがとう、イェンス。君がそう言ってくれるだけで僕は本当に力強い。話を聞いてくれてありがとう。僕は充分満たされた」

「君の力になれて嬉しいよ、クラウス」

 僕はその美しい眼差しと優しい表情とに癒され、心から安堵と感謝を覚えた。

 やはり彼は全てにおいて特別なのだ。

 イェンスに対して改めて親愛の情が湧き上がる。そのことを意識しながら一呼吸置くと、あえて話題を変えて話しかけた。

「ところで、エルフの言葉で君が今日勉強した範囲のことを教えてほしいのだけど」

 僕がテーブルの上に置いてあったエルフの本に目をやると、彼は笑顔で今日一日で学んだエルフの言葉を説明し始めた。それから僕はイェンスと一緒に勉強し、束の間エルフ語での簡単な会話を楽しんだ。

 空が夕焼け色に染まり始めた頃、空腹を覚えた僕たちはようやくゲーゼのレストランへと向かうことにした。夜七時を過ぎても遠くの空は茜色を残しており、大通りは仲夏の夜を楽しむ人たちの明るい声にあふれていた。若い恋人同士が暑さをものともせず身を寄せ合い、その背後で家族連れが幼児の笑い声に合わせてのんびりと歩く。買い物帰りの年配の男性の脇を、老齢を重ねた女性たちが趣味の話に花を咲かせて笑い声を上げ、その背後で子供たちが大声で明日の約束して別れていく。いつものドーオニツらしい光景の中を、僕たちも風景に馴染んで談笑しながら歩いた。

 レストランは混んでおり、少し外で待つことになった。道行く人からの視線を上手にかわし、イェンスと言葉少なめに待つ。やがて店員の案内で窓際のあの席に案内されると、時を経てもなおつながっているゲーゼとの強い縁に僕たちは想いを馳せた。

 ゲーゼの肖像画に目をやりながら料理に舌鼓を打つ。そのゲーゼが持てなかった魔力を僕たちは得た。彼がそのことを知ったら、いったいどう感じたことであろう。

 いや、違う。僕はまたしても思い違いをしていることに気が付いた。

 ゲーゼにもわずかながら魔力があったからこそ、イェンスも僕も、このDZ-17地区へと惹きつけられたのだ。だからこそ、ヅァイドがわざわざ『亡き我が息子、ゲーゼの愛した土地』とそのように言及したのであろう。しかし、ゲーゼの魔力はヅァイドやルトサオツィからしてみれば、やはりほとんど無いようなものであった。ゲーゼの晩年を人づてに聞いた話だけで判断するのは早急なのであろうが、彼がはっきりとした魔力を保有していたのであれば、ヘルマンに出会うことなく異種族の地の中で完結していたのではあるまいか。

 ゲーゼは人間であるヘルマンを頼り、しかもドラゴンの爪までをも託していた。彼が最後を迎えた土地は、僕はドワーフの村ではないかと推測していた。だが、それであればドラゴンの爪が彼の父親のところへ戻るよう、周囲に頼むこともできたはずである。しかし、そうしなかったということは、魔力がいよいよゲーゼの身体に負担をかけていたからということにならないか。

 いくら父親であるヅァイドや、リューシャを始めとした他の兄弟が魔力を支配下に置いているとはいえ、高魔力者の持つ独特の雰囲気が魔力をほとんど持たないゲーゼに堪えたであろうことは、魔力を持つ今なら容易に推測できた。血縁関係があるとはいえ、魔力の壁は矛盾をはらんだ苦境であり、唯一の解決策が距離を置くことであったのは確かであろう。

 さらに、ゲーゼが魔力を積極的に求めていないことも気になった。ドラゴンである父親との間に絶望的な能力の格差があったこと、そしてドラゴンと関連付けられることを最もおそれていたことも要因であったのであろうが、ゲーゼはその意思さえあれば魔力を植え付けてもらうことが可能な立場であった。しかし、今までの話を推察するに、彼はその選択を取らなかったようなのである。

 食事を終え、街灯から少しでも遠い位置を選んでイェンスと散策する。僕は思考に区切りをつけないまま、ゲーゼについての考察をイェンスに話した。彼はまとまりのない僕の考察に丁寧に耳を傾け、少し間を置いてから優しい眼差しで言った。

「そのことは僕も考えていた。おそらくなんだけど、ゲーゼは若い頃から人間として生きることのほうに価値を見出していたんじゃないかと思う。魔力を得ても異種族のように自由に魔法を操れるとは限らないし、常に鍛錬を行っていないと異種族との力量の差は開く一方だ。そのうえ、彼には同じような仲間がいなかった。きっと本当に孤独だったと思う。彼は晩年に危険を冒してまで人間社会に出入りしていた。彼の中では人間として在ることが、一番居心地の良い選択だったのかもしれないね。ドラゴンの爪をヘルマンに託した理由はわからないけど、直感があったんじゃないかな。その爪が後世に役立つことをね。そしてヅァイドにもその予感があった。もし、爪が不特定多数の人にわたるようなことがあったら、人間に姿を変えるなりして回収し、とっくの昔に人間社会との関りをも断つようにしたと思う」

「イェンス、君はすごいな! 憶測にしか過ぎないけど、全ての辻褄が合う気がする」

「ありがとう。それでいくと、一年前にヘルマンと出会ったのは、僕たちの中に辛うじて残っていた魔力のおかげだ。レストランの話を耳にした時、なぜか君を思い出した。そしてその日のうちに君と行ってみたいとすごく感じていたんだ」

 僕は彼の言葉に驚き、思わず立ち止まった。

「そうだったのか! それでも君の中に残っていた魔力のほうが確実に強かったみたいだね。僕はあのレストランの存在を知っていたけど、全然興味が無かった。心に引っかかるものさえ無かったんだ。ヅァイドの指摘どおりだ。もし、魔力が本当に少しでも残っていたなら、初めて会った時にルトサオツィが指摘していただろうし、そもそもペンダントがもっと強い反応を示していたと思う。魔力が辛うじて残っていたことさえ奇跡なんだろうね」

「それは僕も同じさ。そもそも僕たちにごくわずかな魔力が残っていただなんて、考えたことも無かった。ユリウスだって自分に魔力は無いものと捉えていた。ルトサオツィは最初から僕たちの中のわずかな魔力に気付いたんだろうけど、理由があって指摘しなかったんじゃないかな。彼はユリウスが生まれる前からヅァイドと親しくしていただろうし、ゲーゼともおそらく面識はあるだろう。そういった中でヅァイドがルトサオツィにかなり信頼を寄せているところを見ると、僕たちが想像している以上に大局的な観点からルトサオツィが動いている可能性がある。いずれにせよ、魔力が辛うじてでも残っていたからこそ僕たちは出会い、今いる状況になったことは判明しているんだ。僕たちに魔力の耐性が無かったら、こうはならなかった」

 彼の考察は実に興味深かった。ルトサオツィはヅァイドにかなりの敬意を表していたが、僕たちの重要な節目に彼が直接関わってきたことを思い返すと、ヅァイドの意図を的確に伝えるため、そして彼自身の意図もあってそうしたのであろう。エルフにとってもドラゴンは神聖で強大な存在のはずなのだが、ヅァイドとルトサオツィに関していえば、より個人的な親しい付き合いがあるように思われた。そうであれば、僕が幼い頃ヅァイドに触れた時点でルトサオツィとも出会う運命にあったのだ。その不思議なめぐり合わせを未来につなげた、当時の僕の強い意志力に改めて驚く。あの時、幼い僕は決して諦めなかった。表面的な情報に惑わされることなく、直感に従ってドラゴンに触れたのである。

 一筋の風がほほを撫でる。僕は実家で考えていた無力感のことを思い出した。無力感のおかげで多少は遠回りしたものの、傲慢にならずに済んだ。そのこともイェンスに伝えると彼は真剣に僕の話に聞き入り、それから考え事を始めたらしかった。

「イェンス。君も以前、無力感を抱いていたと言っていたね」

 汗ばんだ様子で遠くを見ている彼にそっと話しかけた。彼は僕の言葉に微笑んで応えると、穏やかな口調で話し出した。

「そのとおりだ。以前も話したとおり、無力感なら中途半端な存在である僕とこの奇妙な運命にずっと感じていた。僕も自己肯定感は低かったから、もしかしたらそのことで僕自身の魔力の芽を自ら摘んでしまっていたのかもしれないね。僕が魔力を得てから気付いたのだけど、魔力がある感覚は全く馴染みが無いものじゃなかった。今まで何度か感じていたけど見過ごしていた、昔からある小さな感覚だったんだ。最初は気付けなかった自分に落胆したりもしたけど、今となってはその手順で良かったと思っている。君が言ったとおり、無力感のおかげで僕たちに一番適した方法で成長できたのかもしれないからね」

 彼の表情は落ち着いていた。

「君の言うとおりだ。そう考えれば、僕たちは自己否定のループから脱却できる」

 僕がいたずらっぽく笑いながら言葉を返したからか、彼は僕の頭を軽く撫でまわした。

「そのとおりさ! 今の僕たちに一番必要なのは、『無償の愛を自分自身へ贈ること』だ。それを地道に続けていけば、辿り着いた先の視点から世界を見つめることになる。その時にはきっとまた新鮮な発見があるに違いないんだ」

 彼の美しい眼差しは喜びと期待とに満ちあふれていた。僕もまた同じであった。内側からあふれる熱意が喜びを伴って全身を駆け巡る。僕たちはとことん突き進んでやるのだ!

 僕が住むアパートの入り口で、階下の住民が外出したのを見かけたことでイェンスと部屋で器用に運動をこなす。心地良い汗をかくことで爽快な気分になった頃、僕のスマートフォンが鳴った。好ましい直感がして画面を確認する。ホレーショからであった。僕が嬉々として電話に出るなり、シモが笑いながら話しかけてきた。

「今、こいつの電話を奪ったんだ」

 電話の向こうでホレーショが、「電話を返せ」と吠えているのが聞こえる。イェンスも僕も、その状況だけですでに腹を抱えて笑うほど愉快であった。

「わかった、お前やめ――」

 シモの叫び声が電話越しに響くやいなや、慌ただしく物音が続く。笑いをこらえながら様子を伺っていると、ホレーショが「無様だな」と吐き捨てたのが聞こえてきた。

「あいつは軟弱だ。俺が抱き付いて口を近付けただけで、息巻いて逃げやがった」

 勝ち誇った口調でホレーショが電話に出た。電話の向こうでシモが「卑怯だぞ」と笑い声を上げる。

「訓練期間中なのに連絡をありがとう」

「けっ、気分転換に電話しただけだ。今回は軟弱野郎と一緒だからな。お前た――ぎゃあっ!」

 ホレーショの叫び声が遠のくと、またしても慌ただしい物音が耳に届いた。

「あいつのほうが相当軟弱だな。優しく顔を撫でてやっただけで、悲鳴を上げやがった」

 シモが笑いながら電話に出た。背後でホレーショが「汚いぞ、てめえ」と再び吠えまくっている。イェンスと僕にとってその一連の流れ全てが面白く、にやついた表情のままで次の展開を待った。少しして彼らは和解したのか、電話の向こうがずいぶんと穏やかになった。

「お土産のお菓子、美味しかったぞ。ありがとうな」

 落ち着いた口調のホレーショに続けて、すぐにシモが電話に出た。

「来月上旬に知り合いの結婚式があると言っていたな?」

「うん。七月の第二週目の土曜日だ。二週間後だな」

 僕たちはオールの結婚式のことをユリウスと彼らに伝えてあった。

「そうか。お前たちが今後どうであれ、幸せな結婚式に参加することはいいことだ。お前たちには人の幸せを素直に喜べる純粋さがある。周囲の目を気にせずにお祝いしてくるんだぞ」

 シモの言葉は本当に優しかった。

 「ありがとう。もちろん、心から祝福してくるつもりだ」

 僕たちが口々に揃えて言葉を返すと、電話の向こうでシモが咳ばらいした。

 「すまん、また年長者ぶった口のきき方をしたな。お前たちならそんなことをわざわざ言わなくとも、大丈夫だとわかっていたのだが」

 「お前は心配性だからな。その点、俺はこいつらがしっかりしていることを理解しているから口は出さねえ。おい、お前ら、いい経験にもなるから楽しんで来いよ」

 ホレーショがあたたかい笑顔を浮かべていることは、彼の口調からも容易に想像がついた。たった数十秒の会話に、彼らの美しい人柄を感じ取る。真に洗練された大人とは、きっと彼らのことを指すのであろう。

 「その結婚式の次の週末を開けるべく、将軍がご尽力されているはずだ。確定ではないがな」

 ホレーショの言葉にシモが続けた。

 「将軍はお前たちに会うため、以前と比べてさらに精力的に仕事をされるようになった。そのことで周囲が相当驚いている。一部の者がその理由を知ろうと、好奇心から将軍に直接尋ねていることも間接的に知っている。だが、俺たちは将軍とお前たちとの関係が露見されないことが最も適切だと考えている。実を言うと、そのことで他の警護担当者やゲートの警備の担当者たちと、いざという時に備えて話し合いを進めているのだ。今の状況だと問題も不安要素も無いのだが、万一ということもある。用心するに越したことは無い。もちろん、将軍とお前たちの『事情』は彼らに伝えてはいないが、それでもみんな察しているのか、全面的に協力したいと申し出てくれている。いずれにせよ、俺たちで万全を期すからお前たちは安心していろ」

 シモの力強くあたたかい言葉に、イェンスも僕も感激のあまり言葉を失った。

 「どうした?」

 シモの問いかけに最初に反応したのはイェンスであった。

 「すまない。彼はおそらく君の言葉に感激しているんだと思う。僕も隣で聞いていて感激していた。君たちがそこまでしてくれていることに、本当に感謝している」

 「そりゃ、あの挨拶が欲しいからな」

 シモがおどけて言ったことに、ホレーショは笑っているようであった。

 「いくらでもするさ」

 いたずらっぽく返したイェンスの言葉に、シモは「勘弁してくれ、冗談だ」と明るい口調で言った。

 「シモ、ありがとう。イェンスが僕の気持ちを代弁してくれた。関わっている全ての人たちに、僕たちの心からの感謝を伝えてほしい。もちろん、ユリウスの意向もあるのだろうけど、それでも君たちが僕たちのためにしてくれていることは本当に貴いし、勇気があることだと思っている。君たちが僕たちの友人であることにすごく感謝しているし、心から嬉しい」

 僕が伝えた言葉に、シモとホレーショは少し間を空けてから「ありがとう」とだけ答えた。

 「改めて、君たちの貴重な休憩時間を僕たちに割いてくれてありがとう。ご家族が何より君たちを心待ちにしているだろうに、僕たちのことを気にかけてくれる君たちの優しさと思いやりに僕たちは敬意を払いたいんだ。ありがとう、愛している」

 イェンスが親しみを込めた口調で伝えると、再び彼らは沈黙した。誰かのにぎやかな笑い声が窓から室内へと飛び込んできた時、ホレーショが電話に出て吠えるように言った。

 「今度は俺らが感激してしまった。くそ、俺は軽々しくそういう言葉を言わないんだ!」

 ホレーショは続けざまに非常に聞き取れないほどの声でささやいた。

 「俺もお前らを愛している」

 その後の沈黙はホレーショが照れているからだというのはすぐに理解できた。彼の言うとおり、彼が軽い気持ちで大切な言葉を伝える人柄ではないことは僕たちも充分理解していた。それゆえ、彼が気持ちを返してくれたことは本当に嬉しかった。

「俺からも感謝の言葉を贈ろう。まさかお前たちと愛を語り合う日が来るとはな」

 再び電話に出たシモの口調はどこか感慨深げで、彼は少しの間を置いてからやはり小声で続けた。

「俺もお前たちに感謝しているし、愛している」

 その瞬間、ホレーショが笑い声を上げた。電話口から豪快な笑い声がもれて僕たちもつられて笑いあう。いつの間にか彼らと僕たちは軽口をたたき合うほどの間柄になっていたのだが、今さら真剣に友愛の言葉をささやき合うことはどうにも滑稽すぎることであった。

「これ以上はやめるぞ。周囲に誰かがいるわけじゃないが、このまま続けて誰かに億が一でも聞かれたら、俺たちの頭が狂ったと思われる。そうでなくとも俺の柄じゃねえから、二度と口に出さねえ」

 シモは非常に照れているようであった。ホレーショが「顔が赤いぞ」と笑いながら指摘したことに、シモがむきになって「うるさい」と返す。

「ごめん、僕たちもなんだか妙な雰囲気に途中で笑ってしまった。たしかに君の柄じゃないし、僕も君たちとの友情にそんな重い言葉を口にしたくない」

「イェンス、わかっているじゃねえか。まあ、俺たち全員がもともとそういう性格だ。感謝の言葉はともかく、いちいち口で言わなきゃ伝わらねえ仲なんて、お前もめんどくさくて関わらねえだろ? それは俺もこいつも同じだ。じゃあ、また後でな」

 シモの言葉に「そのとおりだね。じゃあ、また後で」と僕から返す。「じゃあな」とホレーショがぶっきらぼうに言ったのが聞こえたかと思うと、電話はそこで切れた。

 イェンスと僕は笑いあっていた。電話一本でこれほどまでにあたたかく愉快な気持ちにさせるシモとホレーショの素晴らしさが、あふれる笑顔に変換されて表現されるのである。そこにまたしても窓の外からの人々の笑い声が加わる。どうやら今晩は愉快な気分の人たちが多いらしかった。

 イェンスと僕は人々の笑い声につられるように窓に向かい、星空を眺め始めた。エルフの村でも見た月や星が、孤高の美しさを静かに表しているのを見て胸が打たれる。

 紺色の世界からいったん視線を戻してイェンスを見ると、彼が美しい眼差しで月を見つめているのがわかった。きっと彼は今、ラカティノイアに想いを馳せているのであろう。

 僕の視線に気が付いたイェンスが優しい微笑みを浮かべた。

「君、またいい表情をしていた」

 僕が彼に静かにささやくと、彼もまた静かにささき返した。

「愛を受け取るのは素晴らしいことだ。だけど、もっと素晴らしいのは愛を贈ることだ。自分自身にも誰かにも心から愛を贈れることは、実に貴い経験だ」

 彼が僕の口にキスをする。

「もちろん、君にもね」

 その美しい眼差しと、彼の言葉を噛みしめながら「僕もだ」と返す。

 僕たちは再び夜空を見上げた。穏やかな気持ちに浸りながらリューシャのことを想う。優しい感情に包まれると、僕は喜びを感じた。彼女を抱きしめた時の温もりや、唇の感覚までもが僕をあたたかく撫でる。今この瞬間も彼女が喜びの中にいますように。あの美しいドラゴンがますます輝き、ありとあらゆる祝福の中にその身を生涯にわたって置き続けていきますように。

 僕がそう願う度に彼女が僕に贈ってくれた優しいキスが思い返され、何度もあたたかい気持ちで満たされていく。そこに彼女が分け与えてくれた魔力を意識すると、僕が今でも彼女と抱き合っているかのような幸福感と充足感とを感じた。五感を超えた何かで彼女の温もりが今でも届けられている。それは離れている距離を忘れさせるほどの、言いようもない安らかさであった。

 僕はその状態のままイェンスに覆いかぶさり、彼のほほに僕のほほをくっつけた。魔力を感じて体内の魔力が反応を示す。気のせいか、今朝より魔力がみなぎっている気がする。ああ、そうだ。僕も少しずつではあるものの、魔力を高めているのだ。

 しかし、ふと魔が差し、後ろ向きな思考を思い付いた。ユリウスと僕たちは魔力を劇的に高める可能性があり、その鍵を握っているのがこの僕であるというのがヅァイドの説明であった。そうであれば、僕が少しでも早く魔力を高めていかないことには優秀なイェンスとユリウスがいたずらに待たされ、最悪の場合はその可能性も潰されてしまうかもしれなかった。僕が足手まといになっては、ますます彼らの幸福と希望とが遠のいていく。

 不穏当な思考に捕らえられ、不安と焦りから自信を失っていく。僕は――。

「クラウス、君は今平静さを失っていないかい?」

 イェンスの言葉に我に返って彼を見ると、彼は僕を静かに見つめていた。

「やっぱりな。直接肌に触れていたからか、君の魔力を少しだけど感じていた。ずっと穏やかな感じがしていたのに、急に乱れたような気がしてね。もしやと思って尋ねたのだけど、魔力を高めると相手の状態をも把握できるようになるのか」

「君は本当にすごいな。僕はヅァイドが言っていた、『僕たちが劇的に魔力を高める鍵を握っているのが僕』という言葉を思い出して、少し焦ってしまったんだ」

 僕が申し訳なさそうに彼に伝えると、彼は美しい眼差しで優しく言葉を返した。

「君は君の歩調で進んで行けばいい。それは僕たちにとっても充分心地良く、変化を実感できる速度のはずだ。もし、君が急激な変化を見せて魔力を一気に高めたとしたら、僕たちは追いつけない。考えてごらん、君はドラゴンの魔力に耐性と適用性があるんだよ。実の息子である、ゲーゼでさえ持てなかった奇跡だ。君はその奇跡の塊なんだ。おそらくそういったことも含めて、ヅァイドはそのことをユリウスに伝えたんだろう」

 彼の言葉に僕はまた勇気づけられた。

「ありがとう、イェンス。僕は僕自身のことをもっと信じなくては」

 感謝と自省から出た言葉を彼は微笑んで受け取ると、僕を優しく抱きしめて耳元でささやいた。

「きっと僕たちは充分に早い速度で魔力を高めていると思う。比較対象が無いのであれば、僕たちが常に最善の場所にいると考えていいと思うんだ。そしたら僕たちが時々休憩するぐらい、どうってことないはずさ。君は君のままでいい。君が君らしくいられるよう、僕は喜んで力を貸すよ」

 彼のあたたかい言葉を魔力を通じて受け止める。魔力はこの瞬間も少しずつ、確実に力強さを増していった。イェンスの言葉どおり、今この瞬間も魔力が力強さを増しているのであれば、きっとこれが僕にとっての最善なのであろう。

「ありがとう、イェンス」

 僕は再びこの美しい友人を抱きしめた。彼の広い背中を両手で抱え込むと、彼がずっと愛と喜びの中に存在していられるよう心から願った。

「僕もさ、クラウス」

 夜風が優しく僕たちを取り巻く。かつて一方的に憧れ、全てにおいて僕より優秀であると考えていたイェンスと今や深いところで愛を贈り合う間柄となった。それはリューシャを想う気持ちとはまた少し異なっていて、彼を好きであることに対する純粋な喜びのみならず、彼とここまで友情を深めることができたことに対する誇りをも僕に抱かせていた。

「そろそろ帰ろう。おやすみ、クラウス」

 イェンスは僕にエルフの挨拶をし、それから小さなあくびを一つしてから部屋を出ていった。窓に近付いて、眼下を見る。イェンスはアパートの入り口から出てくるなり見上げて笑顔を見せると、颯爽と彼の住むアパートへと帰って行った。

 遠ざかっていく彼の後ろ姿を見送ってから、頭上を見上げる。青白い星が美しく瞬くのを見た瞬間、やはりリューシャのことが脳裏に浮かんだ。僕たちは魔力を通してつながっている。いや、このあたたかい気持ちが僕を包み込む限り、リューシャと僕は特別な想いでつながっているのだ。

 友情とはまた少し趣の異なる喜びが全身にあふれる。僕はその喜びに浸りながら、寝る支度を始めた。シャワーを浴び、少しだけ髪を乾かしている間も絶えずしてあたたかい気持ちに包まれる。程よい疲れがいよいよまぶたを優しくゆすったので、安らいだ気持ちのままベッドの中へと潜り込んだ。僕の大好きな人たちが次々に脳裏に浮かぶと、そのまま眠りの世界へと移行していった。



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