第29話

 最後の空の旅はイェンスも僕もおとなしく過ごし、会話は少なかった。映画を観たり、音楽を聴いたり、そうでなければ窓の外を眺めて過ごす。それをも堪能すると、ほどよい眠気に任せて転寝する。僕がタキアの山奥を歩き続け、森が開けた先の草原にどこかで見た懐かしい小屋が見えたところで夢から覚めた。

 飛行機はドーオニツに近いところまでやって来ていた。完璧に近い円形の島が遠くに見えた途端、得も言われぬ安堵の気持ちに包まれていく。イェンスは起きており、窓の外を眺めていた。

「眠れた?」

「うん、まあまあ」

 イェンスは落ち着いた様子であった。飛行機が着陸態勢へと移り、シモとホレーショが脳裏に浮かぶ。彼らが空港まで迎えに来てくれることになっていたため、再会の楽しみが目前にまで迫っていた。しかもそれだけではなかった。数時間後にはユリウスとも対面しているはずなのである。イェンスも僕も、一刻でも早くユリウスに会って僕たちが魔力を得たこと、彼の父親と会ったこと、エルフの村で体験したことなどを報告したいと考えていた。特別管理区域に渡った者に国家安全大臣への報告義務が法律で定められていることは、本当にありがたいことであった。

 無事飛行機が着陸し、ドーオニツに戻ってきたことで自然と安堵の笑顔がこぼれる。早速入国審査窓口へと向かった。地方国と違ってそれなりに行列ができていたのだが、長く待つことは無かった。ドーオニツ居住者身分証明証を機器に挿入して入国手続きを行うと、確かに僕の虹彩情報は紫色へと変更されていた。ユリウスのことだ、きっとつつがなく変更登録を終えたのであろう。本来であれば煩雑な申請が必要なはずなのだが、やはりユリウスが親しい友人であることは奇跡と感謝を連発するようなものであった。

 ようやく荷物を受け取り、出口に向かって歩き出す。長旅の疲れはあったものの、地元にいるという安心感から足取りはしっかりしていた。

「この雰囲気、懐かしいけどやっぱり以前より違うな。たった三週間いなかっただけなのに、なんだか真新しく感じられる」

 イェンスが耳元でささやいた。

「僕も同じことを思っていた。慣れ親しんだ雰囲気なんだけど、どこか新鮮でもあるんだ」

 その時、行き交う人の流れの中から力強い視線を感じた。その視線は僕たちを探しているようであった。

「シモとホレーショがどこかにいる」

「やはりそうか。どこからともなくあたたかい視線を感じていたんだ」

 僕がイェンスに耳打ちしたその時、彼が右手奥を見て声を上げた。

「見つけた、彼らだ!」

 その言葉に僕も思わず声を上げた。

「ああ、いた! 彼らだ!」

 人をかき分け、合間を縫うように彼らに近付いていく。最初にホレーショが僕たちを見つけ、続けざまにシモが僕たちを見つけると弾けるような笑顔とともに駆け寄ってきた。

「イェンス! クラウス! お前たちが無事で良かった」

 彼らは僕たちを交互に力強く抱きしめた。そして人目もはばからず僕たちのほほにキスをしていき、再び強く抱きしめる。そのあたたかい抱擁で僕の心はさらに喜びと安堵に満たされていった。

 ついに戻ってきたのだ――。そう思いながら改めて目を合わせると彼らは一瞬驚いた表情を見せたのだが、すぐさま優しく微笑んだ。

「いい色だな。将軍から事情は聞いている。さあ、行こう」

 外は雲が多いものの晴れており、政府関係者用の駐車場に向かって進んでいるようであった。大元帥であるユリウスに報告することになっているため、帰りもその扱いなのであろう。そう考えているうちに、例の黒い車がすぐさま視界に現れる。しかし、車を見た途端に胸騒ぎにも似た胸の高鳴りを覚えた。

 「クラウス、今の見えた?」

 イェンスが話しかけてきた。

 「いや、何も。だけど何か気になる」

 するとシモとホレーショが突然僕たちのスーツケースを手に持ち、おどけた表情で言った。

 「車に近付いてみればわかる」

 その言葉を聞いた途端、イェンスが笑顔を見せて「行こう!」と僕を引っ張った。ようやくその言葉の意味に気付き、湧き上がる喜びと興奮に引っ張られるように急ぐ。

 車の後部座席には誰かが座っているようであった。スモークガラス越しに見えた人影に、思わず叫びそうになる。内側から車のドアが開くと、イェンスも僕もなだれこむようにドアに駆け寄った。

 「ユリウス!」

 「クラウス、イェンス。無事に戻ってきて良かった。おかえり」

 ユリウスはそう言うと僕たちのほほを交互に撫で、あの美しい眼差しで僕たちを優しく見つめた。シモとホレーショが僕たちのスーツケースを車に積み込み、「一人は反対側から乗るんだぞ」と声をかけてきたので、急いで反対側に回って車に乗り込む。ドアを閉めるとイェンスは早速ユリウスに抱き付き、「エルフ式の挨拶だ」と言ってユリウスの口にキスをした。

 「ついに君もエルフの仲間入りをしたか」

 ユリウスは顔をほころばせると、イェンスに同じようにキスを返した。そして今度は僕のほうに顔を向け、紫色の瞳で僕の目を覗き込むように見つめた。

 「美しい瞳の色になったな」

 「ありがとう。まだ慣れてはいないんだけど、この瞳の色に恥じないようにしていきたい」

 僕ははにかみながらも、ユリウスにそっとエルフ式のキスを贈った。

 「君なら大丈夫だ。それにしても君もエルフ式の挨拶を覚えたんだな」

 ユリウスは微笑みながら同じようにキスを返した。その言葉に照れつつも明るく言った。

 「そりゃ、エルフの村にいたからね。ルトサオツィは元気にしていたよ」

 その時、シモとホレーショが車に乗り込んできた。

 「お待たせいたしました、将軍。それでは早速移動いたします」

 シモがやや控えめな口調でユリウスに話しかける。それを受け、イェンスがユリウスに目配せしたのが見えた。

 「車を出す前に、君たちにもエルフ式の挨拶を贈りたいんだ」

 「エルフ式の挨拶……?」

 シモとホレーショが困惑した表情でイェンスを見る。するとイェンスは助手席と運転席とに手を置き、器用にシモの口にキスをしたようであった。

 「お前!」

 シモは全くもって困惑した様子であった。その一部始終を間近で見ていたホレーショが、怯えた様子で「次は俺なのか?」とつぶやく。しかし、それに構うことなくイェンスがホレーショにキスをしたので、ホレーショは口元に手をあてながら黙り込んでしまった。

 「エルフ式の挨拶って……。イェンス、ついにお前はそこまで辿り着いたんだな」

 ようやくホレーショが言葉を発すると、シモが苦笑いを浮かべながら僕を見て言った。

 「クラウス、なぜお前も身を乗り出したんだ。お前は違うはずだぞ?」

 その言葉に気恥かしさを感じたのだが、それでも彼らに感謝と親愛の気持ちを伝えるべく「僕もエルフの村でその挨拶を学んだからね」と控えめに声をかけた。

 シモは観念したのか、さっぱりとした表情を見せた。

 「わかった、では受け取ろう」

 そこで僕は軽く彼の口にキスをした。それから妙な緊張感とともにホレーショを見る。彼は「好きにしろ」とぶっきらぼうに言ったのだが、彼がまだ緊張していることはわかっていた。

 ユリウスの前に同じように身を乗り出し、器用にバランスを取りながらホレーショにキスを贈る。すると、ホレーショは真顔で僕を見つめ、その表情を崩すことなくシモを見て言った。

 「俺はもしかしたら、戻れないところまで来てしまったかもしれない」

 「美しい奥さんと可愛い子供を見捨て、とうとう禁断の恋へと走るのか」

 茶化したシモの言葉に、ユリウスまでもが笑いだす。しかし、ホレーショだけはむきになって吠えた。

 「違う! エルフ式の挨拶を受け取って光栄に思っている自分がいたことに、気付いたという意味だ!」

 ホレーショは眉間にあの複雑な紋様を付け足し、言葉を続けた。

 「お前たちが空港でその挨拶をしなかったのは、お前たちもその行為が何を意味するのかを理解し、なおかつ目立つことを知っていたからだろう? いいか、絶対に外でその挨拶を俺にするな。絶対にだ!」

 彼の言葉は裏を返すと、人目につかない室内では構わないという意味らしかった。

 「どうかな、お前も『エルフ式の挨拶を俺も覚えた』とか言って、外でもお構いなしにこいつらにするかもしれん」

 シモがさらに茶化す。それを聞いたホレーショはますます顔を真っ赤にして吠え返した。

 「まさか! 俺は……俺は人間だぞ」

 その様子をずっと見守っていたユリウスがとうとう朗らかな笑い声を上げた。

 「……申し訳ございません! た、大変お見苦しいところをお見せいたしました」

 ホレーショは慌てて謝罪の言葉を口にしたのだが、車内の雰囲気は彼の動揺とは裏腹に穏やかであった。

 「気にするな。ところでホレーショ、車が動き出す前に彼らに尋ねたいことがある」

 ユリウスが優しい口調でホレーショに声をかけると、ホレーショは瞬時に表情を切り替えた。

「かしこまりました。それではこの場で少々待機いたします」

 シモとホレーショは前方を向いて無言になった。

 「ありがとう。さてクラウス。君は私の父に会ったのだったな。君がドラゴンの能力を持っていたことを、父は何か話していただろうか?」

 僕は彼の紫色の瞳を見ながら答えた。

 「うん。僕は幼い頃、タキアの祖母の家の近くで君の父親に直接接触していた。だからドラゴンの能力をわずかでも持っていんだ」

 僕は簡単にヅァイドが話した僕の体験を彼らに伝えた。ユリウスがじっと僕を見ながら耳を傾ける。説明を終えると僕はイェンスを見つめた。僕の眼差しに気が付いた彼は、「僕にも話したいことがある」と言って話し始めた。

 「君のお父様は僕のエルフの特徴についても説明してくれた」

 イェンスもかいつまんでユリウスに説明していく。その会話は、間違いなくシモとホレーショにも届いていた。

 「なるほど、そうだったのか。どうもありがとう、イェンス。それで君たちは魔力を授かったのだな?」

 ユリウスが深く掘り下げてイェンスに尋ねた。

 「ええ。僕たちはそれぞれの種族から非常に強力な魔力を受け取った。それを体に馴染ませるため三日間別々に過ごし、ある程度安定した後にようやくエルフの村を訪れたんだ」

 「そうか、それが終わってからエルフの村に行ったのか。あそこは魔力が無いと何もできない場所だ。魔力を身に付けたのであれば、それなりに楽しめただろう?」

 ユリウスは僕たちを交互に見つめながら尋ねた。

 「うん、とても。エルフの村を散策したり、山登りをしたりして過ごしたんだ。特に晩は三日間ともエルフから歓待を受け、最後の晩はエルフの伝統舞踊を鑑賞した。本当に美しかったし、貴重な体験だったよ」

 僕がそう答えると、ユリウスは朗らかな笑顔を浮かべながら言った。

 「そうか、それでは続きはじっくり家で聞くとしよう。ホレーショ、待たせてすまなかった。車を出してほしい」

 ユリウスの言葉にホレーショは「かしこまりました」と答えて車を動かし始めた。

「本当に再会を心待ちにしていたのだ」

 ユリウスが僕たちを抱えてそれぞれの頭にキスをする。イェンスと僕はそのままユリウスに寄りかかっていた。ユリウスがかつて何度も訪れた異種族の地を、僕たちもとうとう訪問した。そしてかつてユリウスが予言したとおり、僕たちは彼の父親であるヅァイドにも、ヅァイドの意思によって会うことができたのである。思えば、自分の父親がドラゴンであるということは本当に特殊なことであろう。ユリウスが普通の人間と自分自身が異なることにドラゴンが関与しているということを素直に受け止められるようになるまで、やはり相当の葛藤があったに違いない。いくら高い知能を持っていたとしても、そのことを事実として彼自身に反映させるようになるまで誰にも相談できず、ひたすら孤独の道程を突き進んできたはずなのだ。

 僕はユリウスの幸せを改めて祈りたくなっていた。そして彼に寄りかかっていて気が付いたことがあった。僕の中の魔力がやはり喜んでいるのである。それはイェンスの時と少し異なり、同じ種族の魔力をルーツに持っているからなのであろう、より強く反応しているように感じられた。

 魔力は魔力に反応する。

 エルフの村がある地域より、ひょっとしたら妖精が住まう地域、ドラゴンが生息する島のほうが魔力が濃いのであろうか。そうであれば、空間を瞬時に移動できるルトサオツィなどは、普段からウユリノミカ島を訪れては魔力を高めているのかもしれない。

 脳裏に世界地図を思い描いたその時、不意に特別管理区域立入許可証の返納を思い出し、ユリウスに尋ねた。

「そうだ、僕たちのこの立入許可証は返納しなくてはいけないんだよね? たしか『特別管理区域通行及び許可手続きに関する法律』の第四条第一項に、『交付を受けた者が渡航を終え、もしくは立ち入りが不要となった場合は、当該許可証を速やかに国家安全省大臣に返納しなければならない』とあった。同法第四十三条には罰則も規定されていたはず」

 それを聞いてユリウスが朗らかな笑い声を上げた。

「さすがだな、クラウス。それでいくと、同法律第四条第二項の『但書』は覚えているかな? 『第一項の手続きに関する必要事項は政令で定める。ただし大臣が相当の理由があると認めた場合については、この限りではない』。君たちはまた訪れるだろうから、そのまま保管して構わない。あとでそのことに関する文書も必要となるのだが、君たちは署名をするだけだ」

 イェンスと僕はユリウスの言葉に歓喜して感謝の言葉を返した。ひょっとしたら僕が思っている以上に、僕たちが特別管理区域に立ち入ることに万全の体制が敷かれているのではなかろうか。いつかまた特別管理区域内を訪問する日が来た際、僕たちが再度特別政府関係者として扱われるかはともかく、いずれにせよ最寄りの空港からあのゲートまで、クロードらが再び協力してくれる可能性もあるのだ。

 そのクロードを始めとする外殻政府軍の兵士の一部は、今現在も特別管理区域で哨戒にあたっていた。彼らが生まれ育った故郷を離れて職務を遂行していることに感謝しつつも、あの殺風景な大地に想いを馳せる。ユリウスから命令があったとはいえ、クロードらは丁寧かつあたたかく僕たちを迎えてくれた。いったい、それがどうして当然のことといえよう?

 車は内洋へと向かって快調に走っており、その車内はおしなべて静かであった。ユリウスに寄りかかっているうちに、睡魔と勝負にならない格闘が始まる。簡単に打ちのめされるのだが、それでも僕は抵抗から必死に目をこじ開けていた。シモとホレーショがいつも以上に気を張り巡らせているのは、ユリウスを乗せているからであろう。しかし、僕にとっては居心地の良い空間に変わりなかった。

 ユリウスはシモとホレーショにも僕たちの体験を聞かせるよう、わざとあの場で尋ねたに違いない。そうでなければ、彼らは遠慮して尋ねてこなかったことであろう。ユリウスはそこまでシモとホレーショを信頼しており、好ましい仲間だと捉えているのだ。

 ぼんやりとそのことを考えながら穏やかな雰囲気に埋もれる。僕はそこで力尽きた。

 話し声で目が覚めると、ユリウス邸前のゲートであった。慌てて座り直して窓の外を見る。例の若い警備の男性が僕を見て会釈してきたので、彼に寝ぼけた顔で会釈を返してからユリウスにおずおずと話しかけた。

 「ごめん、君にずっと寄りかかっていた」

 イェンスも眠っていたのか、ゆっくりと顔を上げた。

 「気にするな、長旅の後だ。今日は泊まってゆっくり体を休めるがいい。夕食の時間になったら、彼らも再びここを訪れる」

 ユリウスはそう言うと前方の二人を見た。

 「君たちも一緒に夕食を取るんだね!」

 僕の言葉にシモが微笑みながら言った。

 「遠慮したのだが、将軍がこうおっしゃってくださったのだ。俺たちもいるほうがお前たちも喜ぶとね。旅の土産話はその時にゆっくり聞こう」

 車が玄関前に到着する。早速降りようとした矢先、ホレーショが声をかけてきた。

 「待て、俺たちが今ドアを開ける」

 彼らは車を降りてすぐに後部ドアを両側開けた。そして積んであった僕たちのスーツケースを降ろして玄関前へと運んでいく。

 彼らの優しさに感謝しながら車を降りて深呼吸する。大自然の中で味わった空気より多少味は劣っていたのだが、それでも爽快な気分が僕の中を突き抜けていった。

 「ありがとう、シモ。ありがとう、ホレーショ」

 イェンスと僕は心を込めて感謝の言葉を伝えた。彼らは屈託のない笑顔を見せて「たいしたことじゃない」と返すと、「夕方また会おう」と続けて僕たちの背後へと回った。

 「シモ、ホレーショ。本当にありがとう。君たちと夕食を取ることを心から楽しみにしている」

 ユリウスの言葉に彼らは深々と一礼をし、家の中へと入る僕たちを笑顔で見送ってくれた。

 「荷物をいつもの部屋に置きに行くのであれば、そうしたらいい。好きに使ってくれ。私はお茶を用意しよう」

 ユリウスはそう言うとリビングルームへと去っていった。

「荷物を置いて、必要なものだけを持って行こう」

 イェンスの言葉に同意し、疲れをものともせずに階段を上る。部屋に着くなり、荷物を大きく広げた。その中にはユリウスに渡さなければならない、ヅァイドから預かっている大切な手紙があった。それをバッグから丁寧に取り出したその時、イェンスがルトサオツィからもらった本三冊を抱えながら室内へと入ってきた。

 「これらを見たら、いったいユリウスはどんな反応を示すんだろう?」

「驚くのは確かだろうね。特に父親から、おそらく重要なことが書かれている手紙を受け取るんだ。よし、先に手紙を渡そう」

「そのほうが良さそうだ」

 僕たちは弾む気持ちを隠しながらユリウスのところへと向かった。ユリウスはちょうどお茶を用意したところらしく、僕たちを見つけると「座ってくつろいでいるがいい」と声をかけてきた。彼の言葉に甘えてソファに座る。彼が紅茶をカップに淹れている間、イェンスも僕も妙な緊張感から押し黙っていた。

 ユリウスがソファに座り、落ち着いた様子で僕たちを見る。そこで僕はイェンスに目配せしてからユリウスに視線を向けた。

「ユリウス、これが君の父親であるヅァイド氏から預かった手紙だ」

 僕はそっと手紙を彼に手渡した。ユリウスは一瞬驚いた表情を見せたのだが、すぐさま感慨深げな表情で『我が最愛の息子 ユリウスへ』という文字を見つめ、それから丁寧に手紙を開封していった。その様子を注意深く見ていたイェンスと僕は思わず感嘆の声を上げた。

「どうかしたのか?」

 「ごめん、邪魔をした。僕たちに構わず手紙の内容を読んで」

 僕たちは手紙を読んでいる彼の様子をひたすら見守った。最初は真剣な眼差しであったのが、徐々に瞳が喜びで輝いていく。途中で少し困惑した表情を浮かべたものの、顔を上げると僕たちを歓喜の表情で交互に見つめた。

 「そういうことだったのか……! やはり私の中のこの感覚は魔力だったのだ」

 彼は感激した様子で手紙を読み返した。その瞬間にもユリウスが活き活きと魅力を増していくため、そのあまりの変化の速さに目を見張る。今や彼は全くもってみずみずしい美しさを放っていた。

 「手紙には私が魔力を持っていれば封を開けられること、そして魔力を持った君たちと私の中の魔力が呼応して徐々に高まっていくことが書かれていた。その際の注意点も書き添えられていたのだが、魔力を外側にもらさない方法を君たちはとっくに身に付けたのだろう? 私はどうやら魔力を知らず知らずのうちに内側に留めていたようだが、おそらく運が良かったのだと思う。実を言うと魔力を得たと感じた最初の頃、執務中につい気を緩ませた時、たまたますぐ近くにいた男性秘書が急激に頭痛を訴えたことが何度かあったのだ。最初は私も理由がわからないでいたよ。彼は頭痛持ちではなかったからね。しかしある時、彼が私のすぐそばにいて頭痛を感じていると判断した時、直感的に私の中に原因があると理解した。そこでその直感に従って体の中心に意識を向けるようにすると、不思議と秘書の頭痛も収まっていったのだ。それ以来、一人でいる時以外はなるべく体の中心に意識を向けるようにしている。シモとホレーショもひょっとしたら一度だけ被害にあったかもしれない。彼らが私のそばに寄った時、今までにない、ひどく緊張した表情を見せたことがあったからね。そうなると、今後ますます魔力を支配下に置かなくてはならないな」

 そこで僕たちはルトサオツィから聞いた魔力の扱い方をユリウスに伝えた。彼は早速試し、ものの数分でその感覚を掴んだようであった。その習熟の早さに僕たちが驚いていると、ユリウスははにかんだ笑顔を見せた。

「ありがとう。父が君たちから方法を聞くように、と手紙に書き記していたので期待していたのだよ」

 全てを見通していたドラゴンの知性と先見性に驚き、畏怖の念を抱く。そのドラゴンの魔力がリューシャを通じて僕に与えられたのだ。しかし、神聖な彼女を僕の思考にいたずらに招くのは冒涜的に思われ、慌てて彼女の残像を振り払うかのようにイェンスを見た。

 「じゃあ、今度は僕の番だ。実を言うと、ルトサオツィから三冊の本をもらったんだ。どれもエルフ語で書かれていて、二冊はエルフ語を学ぶための本なのだけど、もう一冊はどうやら魔力を高める本らしい」

 イェンスが三冊の本全てをユリウスに手渡した。

 「本当か? 素晴らしい。そこまで君たちは受け入れられていたのだな」

 ユリウスはそう言うと、まるで読み漁るかのように熱心に本を眺め始めた。

 「エルフ語がわかるの?」

 驚きのあまり素っ頓狂な声で尋ねた僕に、ユリウスが控えめな笑顔を見せて口を開いた。

 「少しだけだがね。本こそ持っていないが、ルトサオツィから以前教えてもらっていたんだよ」

 その言葉にますます尊敬と憧れを抱く。ユリウスこそがずっと前からルトサオツィに受け入れられていたではないか。

 ユリウスはしばらく魔力を高める本をぱらぱらとめくっていたのだが、突然驚いた表情を見せて固まってしまった。

 「どうかしたの?」

 イェンスの問いかけにユリウスは興奮した様子で答えた。

 「すごいぞ。この本は魔力を上げる方法だけが書かれているわけじゃない。多くは無いが、魔法の使用方法についても解説してある」

 「なんだって?」

 イェンスと僕の重なった声が大きく響いた。

「私も全てが読めるわけではない。しかしこの単語、これは魔法という意味であったはずだ。芽生えたばかりの魔力を持つ私たちに扱える魔法があるかどうかはわからないが、この内容からして、ここに記載されている魔法は初歩的なもののようだ……ああ、イェンス。その本を貸してくれ」

 ユリウスは本を三冊広げると、魔力の本を読み解き始めた。

 「この魔力を高める本の冒頭に、『魔法は魔力が無いと全く効果を発揮しない。魔力を高め、また精製していかないと自己を思いがけず傷付ける可能性が非常に高いため、まずは良質の魔力を高めることに専心すること』とある」

 彼は本を指しながら、人間の言葉にあたるエルフの文字を他の二冊の本で素早く指し示していった。確かにそのようなことが書かれていることがわかり、俄然前のめりになる。この僕にも『無限の可能性』という奇跡がもたらされるかもしれないのだ!

 ユリウスは引き続き二冊の本を駆使しつつ、魔力の本を読み解いていった。何度も本を往復しては考え事で手を休め、再開させる。少しして彼はやはり興奮した様子で僕たちに説明を始めた。

 「必要だと思われるところをざっと読んだ。詳しいやり方までは読み解けなかったが、魔力を高める重要なことは『思考を消し、心を無にすること』と、『自己を無償の愛で包み、自分を信じること』らしい」

 彼の言葉を受けて内側から興奮がほとばしった。

『自己への無償の愛』

 それはリューシャが僕に繰り返し伝えてきた言葉であった。

 彼女は確かに自己愛で自分自身の心を満たさないと、魔力に翻弄されていずれは身をも滅ぼすと話していた。しかも、『自己への無償の愛』はユリウスもイェンスも直感的に得ていた答えであり、ルトサオツィと初めて出会った時もその言葉を直接聞かされていたのである。

 僕があの不思議な空間でリューシャから魔力を受け取った後、愚かな行動を取った自分を無償で愛そうと決めた時に心が軽くなったことを思い返す。あの経験は今でも僕の中で強い影響を与えていた。

 イェンスが魔力を得るまでの経緯をユリウスに説明し始めた。空港でヘルマンと再会し、僕がゲーゼのペンダントを譲り受けたこと、クロードが僕たちの秘密に勘付いていたのだがあえて指摘してこなかったこと、ルトサオツィと会ってすぐにヅァイドがいる場所へと連れられて行ったこと。ユリウスは全てを興味深そうな表情で聞いていたのだが、イェンスが魔力を授かったところに言及すると、彼は真剣な表情でその方法について尋ね始めた。

「ずっと不思議に思っていたのだ。いったい、魔力という形の無いものをどうやって君たちに植え付けたのかとね」

 その言葉にイェンスの表情が強張ったのだが、彼は一呼吸置くと落ち着いた様子で丁寧に回答していった。

 「すると君の親族とラカティノイアから口移しで魔力をもらったのか?」

 ユリウスは明らかに信じられないといった面持ちで僕たちを交互に見ていた。

「ええ。今気付いたのだけど、魔力を与える側は相当な危険を背負っている。相手をかなり信頼していないとできない行為だ。失った魔力は元の魔力が高ければ高いほど、数日で取り戻せるとラカティノイアは言っていたけど、その仕組みを考えるとやはり想像を超えている」

 「クラウス、それでいくと君は人間に姿を変えた父から魔力を譲り受けたのか?」

 ユリウスが尋ねてきた。それは話の流れからして当然なのだが、僕は気恥かしさから口ごもった。

 今頃になって気が付いたのだが、リューシャはユリウスの姉妹にあたった。おそらくドラゴンであるリューシャのほうが年齢が上であろうから、ユリウスとは異母姉弟にあたるのだ。

 「ひょっとして、他の兄弟……ナッツォ、ニチェール……いや姉から、リューシャから魔力をもらったのか?」

 ユリウスが言葉に詰まっている僕を見かねたのか、控えめに尋ねた。僕は顔が赤くなるのを隠すようにうつむくと、「実はそうなんだ。君のお姉さんなのにごめん」とつぶやくように答えた。

 「クラウス、私のことは気にしないで欲しい。姉と君との間に起こった出来事に私は関与できないし、そのことで君が何かを感じたとしても君は全く持って自由だ。姉とは言ったが、あくまでもドラゴンでの年齢としてだ。人間の年齢にしたら、ちょうど君たちぐらいの年頃だ」

 ユリウスの言葉を聞いた瞬間、抑えていた気持ちがあふれだした。

 そうだ、僕は彼女のことが忘れられないのだ。全てを見透かしていながら、ありのままの僕を認めてくれた彼女。人間の女性からの熱っぽい視線に抵抗を感じたのも、彼女に対して特別な気持ちがあり、彼女に対して潔白でありたいとどこかで感じていたからであった。僕はようやく自分の気持ちに気が付いたのだが、彼女に対する想いはそのまま押しとどめることにした。

 彼女は僕のようなものが求める存在ではないのだ。

 イェンスが魔力を授かった僕たちが別々の場所で体験したことを、かいつまんでユリウスに説明していく。僕もリューシャとの間に起こったことを、曖昧な言葉でありながらもなるべく包み隠すことなく伝える。ユリウスはそれすらも始終静かに耳を傾けていた。一通りの説明が終わるとユリウスは感慨深げに僕たちを見つめ、それから優しく深みのある声で僕たちに話しかけてきた。

「本当に大変な経験をしたのだな。君たちの経験を聞けたことは、私にとっても実に有意義で貴重なことだ。今の君たちからは以前にもまして力強さと美しさ、そしてある種の神々しさまでもが感じられる。三週間前とは明らかに雰囲気が異なるのだ」

 ユリウスの眼差しにリューシャが重なった。その途端に感情が繊細に反応する。しかし、再び彼女に対する想いを突き放してこらえた。少しずつ平静さが失われていることに気が付き、思考を落ち着けようと足元に視線を落とす。それでもリューシャの美しい笑顔が僕の脳裏からなかなか離れず、一人苦悶する。どうすれば元の平静さを取り戻せるのかとあがいていたその時、イェンスが僕の肩を抱きながら優しくささやいた。

 「クラウス、これは僕の推測でしかないが、君は何か思い悩んでいるようだ。君は感じていることを正直に認めたらいい。そしてその自分を、ありのままの自分だと認めて受け止めるんだ。魔力を高める第一歩だし、何より今の君に必要なことのように思える」

 その言葉に促されるかのように顔を上げると、ユリウスの紫色の瞳が僕を捉えた。その瞳にまたしてもリューシャを見出し、自分自身の不甲斐なさにほとほと嫌気がさす。

 どうして僕は意味もない堂々巡りを止めさせることができないのであろう?

 イェンスは正直に認めることを勧めたが、正直に認めたところで何かが好転するわけでもなく、また解決に至るとも思えなかった。こんなにも薄っぺらで未熟な心情を吐露すれば、彼らがいよいよ失望するかもしれない。不安からどんどん余裕が失われ、自分の表情を気遣うことさえままならなくなる。

 「クラウス。その、率直に尋ねるのだが、君はもしかしてリューシャに好意を寄せているのか?」

 ユリウスが優しく、しかしながらはっきりとした言葉で尋ねてきた。勘の鋭いユリウスに僕は無言でうなずいて返したのだが、すぐに気恥ずかしさからうなだれてしまった。

 「クラウス、ラカティノイアの言葉を覚えているだろう? 魔力を持った者が魔力を持っている者に想いを馳せた時にあたたかい気持ちになれば、それは相手も自分を思っている証拠だと」

 イェンスが僕の頭にキスをしながら耳元でささやいた。しかし、その言葉は流れを変える布石のようにも思われた。僕は顔を上げてイェンスを見つめると、意図的に会話をずらすことにした。

 「もちろん、覚えているよ。そういう君は今、この瞬間もラカティノイアから想いを受け取っているの?」

 それを聞いた彼ははにかんだ表情を一瞬見せたのだが、すぐさま穏やかな笑顔で答えた。

 「そのとおりだ。今も彼女を想うとあたたかく優しい気持ちになる」

 「君はラカティノイアと特別な関係になったようだな」

 ユリウスの問いかけにイェンスは真剣な表情でうなずき、「彼女のことはとても大切に考えている」と力強く返した。しかし、何か閃いたのか、急に自信に満ちた表情でユリウスを見た。

 「ユリウス。今、話しただろう? 魔力を持っている者が魔力を持っている者に想いを寄せた時にあたたかい気持ちになれば、それは今でも相手が自分を想っている証拠だと。――ウィスカのことを今、想ってみたら? 彼女の真意がわかる」

 イェンスの言葉にユリウスは困惑しているようであった。僕も思いがけない話の流れに驚いたのだが、イェンスは相変わらず信念に満ちた眼差しで僕たちを見ていた。

「わかった。試してみよう」

 ユリウスが不安げに目を閉じて深呼吸する。次の瞬間、ユリウスは目をぎゅっと瞑った。それを見て思わず祈るように彼を見つめる。

 不意に彼の目から一筋の涙が流れた。清らかな輝きを放った涙がほほを伝ったかと思うと、感極まった声でユリウスがつぶやいた。

 「ああ、ウィスカ……。今でも……今でも私のことを想ってくれていたのか」

 ユリウスは顔を両手で覆い、肩を震わせてうつむいた。それを受けてイェンスも僕も立ち上がってユリウスの背中に手を置き、そっと彼に寄り添う。嗚咽をかすかに漏らす彼を、僕はあたたかい気持ちで受け止めた。

 「ウィ……ウィスカはただの戯れで私と……私と一緒にいたわけでは無かった……」

 かつて涙を空に置いて来たドラゴンの息子は、妖精からの想いを受け取った今、再び涙をためらうことなく流すようになっていた。きっとウィスカは今までずっと、ユリウスが彼女の想いに気が付く日を待ち望んでいたのであろう。だからこそ、今この瞬間にユリウスとウィスカの心がつながったのだ。そのことを思うと僕の中にも深い感激が訪れ、自然と涙ぐむ。

 しばらくの間、僕たちはユリウスに優しく寄り添い続けた。僕はその間中もユリウスの幸せとイェンスの幸せを心から願った。彼らは長い間、孤独と苦悩の狭間で生きてきた。これからはたくさんの愛と喜びと光とが彼らを優しく包み込みますように。そう願う度に僕の心があたたかくなる。その意味を噛みしめてこの美しい空間にいることに感謝する。僕たちは同じ想いでつながっているのだ。

 優しい気分のまま、窓の外に目をやる。澄んだ青い空に、僕はエルフの村の外れでドラゴンの姿を見せたリューシャのことを思い返していた。

 空を舞った彼女本来の姿は気高く美しく、何より神々しかった。それは非常に貴重で、光栄な出来事でもあったのだが、今や僕の軽率な感情を押し留める重石となりつつあった。

 魔力を授けてもらった時点で、僕は言い切れないほどの感謝と恩を彼女に感じていた。僕は充分すぎるものをすでに彼女から与えられたのである。彼女に対する想いに蓋をし、思い出を記憶の書庫へと移そう。今は多少切なくとも、いずれはあの青空のように僕の心も澄んでいくに違いない。

 落ち着きを取り戻したユリウスが顔を上げた。彼はあの美しい眼差しで微笑みかけてから僕たちを力強く抱きしめ、感謝の言葉を添えながら僕たちの頭にそれぞれキスをしていった。その表情は輝きと愛にあふれており、瞳には清らかな光があふれていた。心から喜びと安らぎとを感じることで、その人が本来持っている美しさがさらに完璧なものへと押し上げられるのであろう。

 すっかり冷めた紅茶をユリウスが「淹れ直そう」と言って下げる。彼が再び紅茶を用意している間、イェンスと僕とでエルフの本を読み解こうと懸命に三冊の本を往復することにした。しかし、知識もない僕たちが読み解けるはずもなく、あっという間に頭を抱える。そこにユリウスが淹れ直した紅茶とともに戻ってきた。

「君たちなら焦らずとも、少し勉強したらすぐに読めるようになるさ」

 その言葉に息を緩めて本から離れる。そしてあえて前向きな未来を思い描いた。それはエルフ語を流暢に操る自分の姿であった。目標に意志が完全に重なると、たとえどんなに遠い道程でもやり遂げようという力強さがもたらされるに違いない。僕はまさしく高揚感の中で強く意志を握りしめていた。

 あっという間に日が傾き、夕闇が訪れる。時刻を確認したユリウスが声をかけてきた。

 「君たちにお願いがある。夕食の準備を手伝ってほしいのだ。君たちの旅の土産話をゆっくり聞くべく、今晩は家で食事を取ろうと考えていたのだよ」

 僕たちは彼の提案を喜んで受け取り、早速手伝いに入った。

 旅行で食べてきた様々な料理を思い出しながら調理を手伝う。美味しい記憶だけが残っているため、思い返すたびに懐かしさと喜びとが僕の中で駆け巡っていく。午後七時近くになる頃には夕食の準備が全て整い、クロスを敷いたテーブルの上に次々と料理が並べられていった。

 ユリウスが動きを止め、耳をそばだてる。車が近付いて来る音は僕の耳にも届いた。

 「来たようだな。よし、三人で出迎えよう」

 ユリウスが玄関のドアを開けると、彼らは車の前に立って待機していた。

 「よく来てくれたね、どうもありがとう」

 ユリウスの気さくな挨拶に、彼らは控えめながらも喜んだ様子で答えた。

 「とんでもないことでございます。優しいお心遣いに感謝しておりますし、身に余る光栄です」

 その時、彼らと目が合った。その眼差しは澄んでおり、表情は凛々しかったのだが、ダイニングキッチンに入るやいなや、それまで冷静であったシモとホレーショが思わず感嘆の声を上げた。その様子を見ていたユリウスが優しい表情でグラスにワインを注いでいく。イェンスと僕は間違いなく愉快な夕食となることを見越していたため、含み笑いが止まらなかった。

 「さあ、座ってほしい。まずは食べて、それからじっくり彼らの体験談を聞こうじゃないか」

 僕たちが席に着くと、ユリウスが両手を伸ばしてシモとイェンスの手を握った。その意図に気が付いて、お互いに両隣で手を握り、ホレーショと僕がテーブルの上で手を握る。それを見届けてからユリウスが静かに言った。

 「私たちの友情に感謝する」

 その言葉を聞いた途端、シモとホレーショの顔は喜びにあふれていき、美しい光を携えながらユリウスを見つめた。

 「では、早速頂こうとしよう。イェンス、クラウス。まずはゆっくり食べてほしい。シモ、ホレーショ、君たちも遠慮するな」

 その言葉どおりに僕たちはまず食事を取ることにした。僕も多少手伝っていたとはいえ、ユリウスの手料理が本当に美味しく、ただただ夢中になって食事を取る。人を魅了する人間の才能には様々なものがあるのだが、イェンスもユリウスも間違いないく、見た目の美しさと明晰な頭脳、優しい性格に加えて料理上手もかなりの特色となっていることは間違いなかった。

 食事がどんどんと進んでいき、余裕が出始める。それに伴って少しずつ会話の量が増えていく。イェンスと僕は旅行で得た体験を順を追って話すことにした。ヘルマンと空港で再会したこと、軍の担当者クロードに会ってエルフの村へ向かった話、エルフの村で体験した出来事、そしてエルフの村から戻ってすぐタキアの祖母の家に向かい、僕の兄と久しぶりに再会したことも彼らに伝える。そして瞳の色が変わった本当の理由と、僕たちがエルフの村を訪れていたことは周囲の人間には話せないため、作り話をでっち上げて堂々と嘘をつくことにしたことも伝えた。ユリウスは興味深そうに僕たちの説明に耳を傾けていたのだが、僕たちの表向きの理由を聞くと「君たちの虹彩変更登録にあたって、理由を『原因不明』としておいたのだが、後で加筆訂正しておこう。どうもありがとう」と言って朗らかに笑った。

 話はツェイド旅行へと移った。レストランで同業者と話す機会があった話でさえ、彼らは熱心な様子で聞き入った。男五人で取る夕食会に野太い笑い声と豪快な話し声とが響きわたる。笑いあっているからか暑くなり、ユリウスが冷房を入れてもなお熱気が飛ぶ。

 マルクデンに立ち寄った話になった。そこでイェンスが彼の家系を簡単に説明したのだが、シモとホレーショだけでなく、ユリウスまでもが改めて驚いたようであった。

「イェンス、実を言うと君の遠い親族にあたる、そこの当主に会ったことがあるのだ。彼は実に聡明で、広い視野を持っていた。しかし、彼のような人物は一握りだ。知っていると思うが、世界中の有名な一族のほとんどが外殻政府より古くから存続しているため、今でも実質的な影響力と支配力を持っている。その彼らが表面上は外殻政府に協力的かつ友好的であっても、裏では懐疑的であったり批判的であったりするのだよ。そこで彼らの誇りと伝統を傷つけないように政府の意向を伝え、協力をお願いするのだが、それぞれ主張が異なる名門一族を一つの方向にまとめ上げるのはなかなか骨の折れることでね。正直に言うと、今でも人間の知恵だけで彼らの主張をまとめるのは不可能なのだ。それを踏まえて、君がドーオニツで一人暮らしをしていることは、本当に奇跡だと考えている。これは以前も話したが、君が窮地に立つことがあったら、遠慮なく知らせてほしい。喜んで力になろう。クラウス、君も困ることがあったら、必ず私に知らせるんだ。君たちを匿うことぐらい、どうってことはない」

 ユリウスの優しい言葉に、イェンスははち切れんばかりの笑顔で感謝の言葉を贈った。僕にとってもユリウスの提案は非常に心強かった。そのうえで、彼の話は実に興味深い内容に富んでいた。利害が完全に一致していれば、そもそもこの地球上に悲惨な争いも逃れられない悲劇も起こらなかったはずである。しかし、多種多様な人たちで構成されている限り、その実現は不可能であった。多様性こそが可能性の道筋を広げ、様々な種類の繁栄と供給に直結してきたのであれば、その多様性を決まった枠の中に治めることは混乱と反発をいたずらに招くだけなのだ。だからこそ、政府は人間社会を高い見地からある程度制御できるエルフたちの知恵と見識を重要視し、それらを国家の基盤として位置付けてきたのであろう。

 一方、ユリウスが古くからの権力を無下にするどころか、尊重して友好的な共生を図ろうとしてきたことに感銘を覚えていた。彼はつくづくドラゴンの、ヅァイドの息子なのだ。権力や地位と全く無縁の僕にできることが限られているとしても、ユリウスの要請があれば、それに応えていこう。

 それからヒイラータスエを訪れ、有名なオーケストラのコンサートを鑑賞した話を彼らに伝えた。それを聞いたシモとホレーショが、「本当に良かったな」とまるで自分のことのように喜んで目を細める。僕たちはさらに迷子の姉妹をそっと彼女たちの両親の元へ、五感を開放して連れていった話も伝えた。最初は驚いた表情をしていたユリウスが、「君たちが周囲に自分たちの能力が知られる危険を背負いながらも、幼い姉妹を助けたことは賞賛に値する」と優しい眼差しで言葉を返す。しかし、シモとホレーショがなおも心配そうな表情であったため、翌日の電車内で聞いた少年たちの会話を僕が付け加えた。すると彼らはようやく安堵した表情を見せ、シモが「ああ、良かった。お前たちの身元がばれなかったのか」と言って微笑んだ。

 それからアティウェルヘで大自然を満喫し、思い付きでバレエ鑑賞したことを話した。それに思いがけず喰らいついてきたのが、ホレーショであった。

 「あのバレエ団だろ! 俺の祖父母の出身国のバレエ団なんだ。俺が子供の頃、祖父母と一緒にテンリブに行った時に祖父母に連れられて初めて観たバレエがそのバレエ団の、お前たちが鑑賞したものだったんだ」

 彼の淡い水色の瞳が輝きを増した。

 「そうなの?」

 イェンスと僕の驚いた声に、今度はシモが一昨年の休暇で家族旅行をした際、そのバレエ団の同じ演目をやはり鑑賞したことを打ち明けた。そこにユリウスまでもが十年ほど前に特別席で鑑賞した話を打ち明けたため、妙な感激から会話が止まらなくなった。

 バレエで一見して簡単そうに見える動作も、日々の鍛錬と技術の向上が無ければ実行に移すことは難しいらしく、体を張った仕事をしているシモとホレーショには特に感銘を与えるものらしかった。自己実現のために自己鍛錬を欠かさない人を称賛する。それはほとんどの人にとって当然なのだが、嫉妬や自己保身のために相手を見下し、その実力を頑なに認めない人たちも僕は知っていた。いや、僕も自分には無い意志の強さへの憧れから、努力を続けてきた人たちをどこかで区別してきたのではなかったか。彼らの話に耳を傾けながら、僕がこういった面でも変化し、成長していることを噛みしめる。

 話題が最後に訪れたセンラフへと移った。数々の美術館巡りを臨場感あふれる言葉でイェンスが語り出す。そこに僕の拙い言葉で様々な人間の人生を垣間見たことを付け加えていく。人生の先輩であるユリウスやシモ、ホレーショからしたら僕の感想は他愛もないことであったであろうが、彼らは一様に同意を示し、深みのある眼差しで僕を見ていた。

 土産話もひとまず落ち着いて紅茶を飲んでいると、僕は重要なことを忘れていることに気が付いた。くつろいだ様子のホレーショを横目で見ながらスマートフォンを取り出す。あの穏やかな表情を曇らせることに、僕はあろうことか愉快な気分にさえなっていた。

「ホレーショ、これを見てほしいんだけど」

「どうした、クラウス」

 彼は画面を見るなり、目を大きく見開いて言葉を失った。それを目の当たりにしたシモが怪訝な表情で画面を覗き込む。ユリウスにはイェンスが何やら耳打ちしており、僕をおどけた表情で見つめた。

 「お前、これ食べてきたのか?」

 甘党のホレーショの表情に、一気に苦みが増す。

 「そうさ、紅茶とともに美味しく頂いたよ」

 「くそ、いいなあ。有名なやつじゃないか。俺も本場のものはまだ食べたことがねえってのに」

 「心配するな」

 シモが珍しく、眉間に複雑な模様を作ったホレーショをなだめた。

「アウリンコにもその店はある」

 「本当か?」

 ホレーショの表情が途端に輝きを取り戻す。シモがその店の場所を説明している間中、少年のような純粋な眼差しでシモを見ているものだから、僕が意地悪したことをいよいよ反省するしかなかった。

 一通りの説明を聞き終えたホレーショは腕組みをし、僕を見て声高に言った。

「残念だったな、クラウス。確かに本場のは食べてないが、俺はその気になればいつでも同じようなものを食べられる場所に住んでいるんだ」

 ホレーショの甘味に対する情熱が、気まぐれで食べた僕の一過性の興味ごときではびくともしないことは当然であった。

「そうだね、確かにドーオニツには無いもんね」

「時々なら土産で買って持たせてやっていいぞ」

 僕がおどけて返した言葉に、思いがけず彼本来の優しさが付け加えられる。するとその様子を見守っていたユリウスが、不意に「私にもお願いしていいだろうか」とホレーショに話しかけた。

「もちろんです! 喜んでお届けいたします」

 ホレーショはすぐさまユリウスに向き合い、嬉々として答えた。そのユリウスの屈託のない笑顔からして、お土産の件は本心のようであった。

「僕たちが警護役の演技をもっと上手にこなせるようになったら、五人で食べに行くことも可能になるだろうか」

 僕の言葉にイェンスが笑顔で答えた。

「ようし、それなら僕たちは君たちに弟子入りしないと」

「言ったな、俺は絶対手加減しないぞ」

 ホレーショが吠えて返したのに続き、シモがにやりと笑いながら言った。

「こいつらは頭が切れるうえにタフで、見た目もいいからな。せっかくだ、映画顔負けのしごきを見舞ってやろう」

「なら、俺たちは悪役ってわけか。はん、ならとことんしごいて潰してやる」

 ホレーショが息巻いたので、イェンスと僕はとうとう大笑いした。

「お前ら、何で笑っていられるんだ? もし、そんなことになったら俺たちは手加減しねえぞ」

 ホレーショが少しむきになって返したので、イェンスと僕は笑いながら謝った。

「ごめん、君たちの本性を知っているから、しごきの中にも優しさが残っているに違いないと思ったんだ」

 僕たちの言葉にシモがわざと呆れた口調で言った。

「こいつら、やっぱり俺たちを舐めていやがる。ようし、後でお前たちをとことん警護役として叩き込んでやる」

 彼らはそこで厳しい訓練メニューを紹介していった。その内容全てがかつて彼らが体験したもので、特にきつかったものらしかった。しかし、その説明に耳を傾けていたユリウスの表情は明らかに感激していた。

「そんなに大変な訓練を受けてまで、警護をしてくれていたのだね。本当にありがとう」

 ユリウスが感慨深げに話しかけた。その途端にシモとホレーショの瞳にあの光が美しい輝きを放つ。結局その話はそこで流れたのだが、親しい人たちが感激しているのを見ただけでも僕は充分に満たされていた。

 リビングルームに移動し、お茶を飲みながら会話を続ける。話の内容は魔力の話へと移った。魔力が普通の人間に悪影響を及ぼすことは、シモとホレーショにとってにわかに信じがたいことらしかった。彼らはともに困惑した表情で僕たちを交互に見つめ、何か思案していたのだが、深く息を吐いたシモが先に真剣な表情で口を開いた。

 「その、もしお前たちさえ良かったら、魔力に触れさせてもらえないだろうか。それで仮に体調を崩したとしても、その責任は一切俺にある」

 その言葉に僕は動揺したのだが、ユリウスとイェンスは落ち着いているようであった。

「そんなことならいつだってどうぞ。僕に触って。君たちが触れたら魔力を放出するよ」

 朗らかな笑顔を浮かべて答えたイェンスとは裏腹に、シモがおそるおそる彼に触れる。次の瞬間、シモが露骨に不快な表情を浮かべた。

 「ありがとう。確かに妙な感覚だ。体の中が淀むようだ」

 シモは手をさすりながら後ろへと下がった。それを受けて、ホレーショもまたおそるおそるイェンスに触れる。彼は注意深くイェンスの手を突っつくと、思い切ってイェンスに抱きついた。しかし、彼はすぐさまイェンスから離れ、怪訝な表情でつぶやいた。

 「すまない、イェンス。なんだか落ち着かなかったんだ」

 それを聞いてもイェンスは穏やかな表情を崩さなかった。

 「気にしてないさ。実を言うと、率直な感想と反応がわかって良かったと思っている。魔力が普通の人間には不快である、ということが今一つわからないでいたからね。さて、今はもう魔力を体内に押し留めているから大丈夫だ」

 イェンスはそう言うと、シモとホレーショを優しく抱きしめていった。彼らは一瞬、戸惑った表情を見せたのだが、影響が無いことがわかると安堵の表情を浮かべてイェンスを抱きしめ返した。

 「不思議なものだな。さっきの外に魔力があふれている状態は、確かに俺にはきつかった。うまく言えないが、むかつきと悪寒を感じたんだ。ほんの一瞬だったのにな。あの状態をまた感じるのは、正直言うとためらいを覚える。魔力がお前たちにさらなる魅力と可能性を与えたことはわかっているのだが、やはり俺のような普通の人間の理解をとうに超えている」

 シモの言葉にホレーショが続けた。

 「お前たちは体調に悪い変化は無いんだろう?」

 「うん、無いよ。むしろ調子がいいくらいだ」

 僕がきっぱりそう答えると、シモとホレーショは興味深そうに僕たちを見つめながら言った。

 「なるほどな。異種族が人間から離れて暮らしているのは他にも理由があるのだろうが、人間に悪影響を及ぼさないよう配慮しているのもあるんだな」

 彼らはまたしても、おそるおそる僕たちに触れた。

 「魔力を無暗に外に放出したりしないよ。さっきも言ったとおり、魔力を外に放出するのはエネルギーを放出しているのと一緒なんだ。試してみてわかったのだけど、魔力を無駄に体外に放出すると体が疲れるんだ」

 「クラウスの言うとおりだ。そして君たちの言葉どおり、異種族はずっと何もかも理解したうえで人間と接触していた。僕の先祖のリカヒだけが特例だったんだ。だから、僕は棲み分けができていることはいいことだと考えている。エルフにも人間にも、穏やかかつ安定した幸せの中で暮らしたいという願いが根本にあるからね」

 「そうだったな。それを踏まえて異種族が人間に対して肯定的な態度でいることがわかると、ますます人間が無遠慮に交流を求めないほうがいいということが理解できるな」

 シモの言葉にホレーショが真剣な表情でうなずいてから口を開いた。

「ドラゴンやエルフなどが人間を見下していないというのも意外だった。なるほど、高い知能を持つ彼らからしてみれば、平等の命を持つ生物の順位付けなど無意味なのかもしれない」

 彼らの言葉は本当に嬉しかった。僕たちが説明する前にそこまで理解が及んだということは、この先も彼らとの友情が続くことを意味しているのではないのか。

 僕は感謝の気持ちで彼らを見つめた。しかし、ホレーショは目が合うなり当惑した表情を浮かべた。

 「おい、よしてくれ。そんな顔されると、あのキスでさえ無抵抗に受けてしまいそうだ」

 「でも、僕は君の言葉に感激したし、感謝さえ感じているんだ。ねえ、抱擁を贈る分には構わないんでしょ?」

 僕がそう言ってホレーショに近付くと、彼は神妙な面持ちで立ち上がって両手を広げた。

 「抱擁だけだぞ。いや、エルフ式の挨拶も受け取ってやる。だが、舌を入れてきたらぶっ飛ばすからな」

 僕はわざと凄んでみせた彼をただ優しく抱きしめた。すると彼は僕を力強く抱き返し、「お前がドラゴンの魔力を受け継ごうとなんだろうと、俺の大切な友人であることに変わりねえ」と耳元でささやいた。

 その言葉に感激して彼に挨拶のキスを軽く贈る。ある程度覚悟を決めていた彼は、「家族以外の人と口にキスをしたことは無かったんだ。妻が聞いたら笑うだろうが、俺にとって妻は最初の恋人で、そのまま結婚したからな。だからキスには特別な意味があった。だが、お前たちは特別に許そう」と言って僕のおでこにキスを返した。

 「なんていったって、こいつらはエルフの村帰りだからな」

 シモが言葉をかけると、ホレーショが苦笑いを浮かべながら言った。

 「まさか、お前まで俺にエルフ式の挨拶をしたいと言うんじゃねえだろうな?」

 「よしてくれ、俺だってなるべくならロヴィーサ以外に譲りたくないんだ」

 シモはそう言うと珍しく照れ笑いを浮かべた。

 それから少しして、ユリウスの家を誰かが訪ねて来たらしく、インターホン越しにユリウスが対応した。時計を見ると夜十時を過ぎていたため、こんな時間にと不思議に思いながらその様子を見守る。イェンスと僕の視線に気が付いたユリウスは、「ここのゲートを警備している先ほどの若い男性だ。彼はシモとホレーショが飲酒するであろうと考え、勤務終了時に彼らを送り届けることを願い出てくれたのだ」と言ってシモとホレーショのほうを見た。

 「お心遣いに感謝します」

 シモもホレーショも酔いが回っているようには見えなかったのだが、彼らはすっと立ち上がると僕たちを力強く抱きしめ、「また明日会おう」と笑顔を見せた。

 シモとホレーショと警備の男性を見送るため、ユリウスとイェンスとともに玄関前まで赴く。警備の若い男性は離れた場所で不動の体勢にて待機していた。

 「楽にしてくれ」

 ユリウスが声をかけると、彼は少し表情を緩めた。続けてシモとホレーショが彼に話しかけた。

 「クリチュ、仕事で疲れているのにもかかわらず、俺たちを送ってくれることに心から感謝している」

 クリチュと呼ばれたその男性は、はにかんだ表情で僕たちに一礼してから早速車に乗り込んだ。ふと彼の住まいがどこにあるのか気になってユリウスに尋ねると、「彼はシモの住まいから歩いて十分ほどのところにある、政府が管理している寮に住んでいる」と答えた。ホレーショが助手席に座り、シモが後部座席に座ると彼らは目礼をして車ごと去っていった。

 「確か、彼はシモとホレーショに憧れているんだったね」

 僕の言葉にユリウスが微笑みながら返した。

 「シモとホレーショに憧れている若者は多いぞ。何度か伝えてはあるが、彼らは警護のプロ中のプロだからな。今じゃすっかりその片鱗を君たちには見せなくなったかもしれないが、私の警護にあたっている時は実に沈着冷静で、黙々と職務を遂行してくれている」

 彼は僕たちを両手で抱きかかえながら言葉を続けた。

 「戻ろう。君たちも疲れているはずだ。明日は私が朝食を用意するから、ゆっくり休むがいい」

 ユリウスの優しさとあたたかさは、ただただ僕の心身に深くしみていった。すっかり馴染んだ彼の家の中へと戻ると、ユリウスが微笑みながら言った。

 「後片付けは私がしておく。おやすみ」

 その気遣いに心を込めて感謝の言葉を伝える。長旅の疲れもあり、僕たちは彼の言葉に甘えて先に休むことにした。

 イェンスにも「おやすみ」と伝えて部屋へと入る。靴を脱ぎ、ベッドに突っ伏すように横になると、起き上がるのが困難なほどの心地良いベッドの感覚に囚われた。脳裏に一瞬、忘れられない美しい姿が浮かび上がったのだが、それも束の間、気が付くと次の朝を迎えていた。

 飛び上がって時刻を確認すると、八時を過ぎた頃であった。急いでバスルームに向かってシャワーを借りる。イェンスは起きているであろうかと思案しながら身なりを整えて部屋を出ると、ちょうどイェンスが部屋から出てきた。その様子からして、彼は起きたてのようであった。

 「おはよう、クラウス」

 「おはよう、イェンス。僕は先にシャワーを浴びたよ」

 「大丈夫だ、疲れていたけど昨晩のうちにシャワーを借りたからね。僕も顔を洗って着替えたらすぐに向かうよ」

 小さな欠伸を一つ残して去っていったイェンスを残し、一人でダイニングキッチンへと向かう。食欲がそそられる匂いにつられて進んでいくと、すでにユリウスが朝食の準備をほとんど終えてテーブルに並べているところであった。

 「おはよう、クラウス。ゆっくり休めたかい? イェンスも起きただろうか?」

 「おはよう、ユリウス。おかげでぐっすり眠れたよ。どうもありがとう。イェンスも間もなく来る」

 見た目も美味しそうなその料理は、旅の疲れがすっかり癒えて空腹を抱えるだけの僕に強く訴えかけた。うなっている胃をなだめながら、やわらかい朝の光が差し込む室内を見渡す。穏やかな日曜日の朝にふさわしく、どことなく優しい雰囲気が漂っていた。

 「何か手伝おうか」

 「気にするな、座っていていい。ああ、イェンス。おはよう。その様子だと君もゆっくり休めたようだな」

 「おはよう、ユリウス。おかげで疲れはすっかり取れたよ。本当にありがとう」

 「どうってことはない。さあ、食べよう」

 ユリウスの勧めで僕たちは早速朝食を取り始めた。彼もずっと多忙であったであろうに、土日を僕たちのために空けてくれたことに改めて感謝の気持ちが湧き上がる。そんな思いで朝食を取っていると、ユリウスが話しかけてきた。

 「今日は午後二時頃に、シモとホレーショが君たちを送り届けるためにここにやって来る。だから、昼食もここで取ったらいいだろう」

 彼の紫色の瞳が美しく輝く。思わず見とれていると、それに気が付いた彼が微笑みながら声をかけてきた。

 「クラウス、君も今や同じ虹彩を持っているのだぞ」

 その言葉に僕は照れ笑いで返した。確かに僕の虹彩も紫色なのだが、ユリウスのほうが鮮やかで美しい輝きを放っているように考えていた。するとリューシャの美しい眼差しが、またしても脳裏にはっきりと浮かび上がった。

 透明感ある優美なその姿は、僕に優しく微笑みかけていた。それに呼び覚まされたかのように、彼女のやわらかい唇の感覚までをも思い出す。しかし、僕が再び彼女に会える可能性はほとんど無かった。彼女はすでに重要な役目を終えており、僕もしばらくは普通の日常生活へと戻るつもりであった。次にエルフの村を訪れるのがいつかはわからないのだが、彼女と会う機会があるとすればそこだけであり、そうでなくとも様々な生物の頂点に立つドラゴンの、広く平等な眼差しが僕という個性にだけ関心を抱き続けることはありえないことのように考えていた。そうなると途端に切なくなったため、彼女に関する全ての感覚を無理やり追い払い、憧れを抱くことすら不敬に値する彼女のことを忘れようと無心に料理を頬張る。

 崇高なドラゴンの魔力を直接与えられただけでも、奇跡以上の経験を得たのだ。僕が果たすべきことは、不遜することなく邁進することではないか。だから、もう彼女のことを考えるのはやめよう。

 食事を終えると、イェンスと僕はユリウスに申し出て朝食の後片付けをした。その間にユリウスがお茶を準備する。僕たちはシモとホレーショが再びここを訪ねて来るまで、リビングルームで優しいハーブティーを飲みながらのんびりと過ごすことにした。

 ゆったりとした時間が流れる中で、ユリウスが穏やかな表情を浮かべながら言った。

 「実を言うと昨晩、久々にウィスカの夢を見たんだ。彼女と一緒に戯れ、美しい自然を眺めている内容だった。父と会うついで、久しぶりに彼女のところにも訪ねてみるつもりだ」

 「夢だろうか、ひょっとしたらウィスカが魔法を使って君に会いに来たのかもしれない」

 イェンスが目を輝かせて言った言葉に、ユリウスははにかんで答えた。

 「そうだったらいいが、あれはやはり夢だ。だが、実現する夢だと信じている。私も魔力を高めて彼女を驚かせるつもりだ」

 僕はユリウスの前向きな言葉を、どことなく沈痛な気持ちで聞いていることに気が付いた。その理由もとっくにわかっていたのだが、そのことから目を背けてユリウスを見る。僕は紫色の瞳にあえて微笑みかけたのだが、彼は僕の心の内を見透かしていたかのように真剣な眼差しで僕を見つめ返した。

 「クラウス、どうした? 君の瞳に憂いの色が見られる」

 その瞬間、僕は動揺してしまった。ユリウスを見るとふとした時にリューシャを思い出し、その度に不純な動機で心が揺れるのである。しかし、ユリウスもまた、僕にとって大切な友人であった。心から敬愛し、信頼を寄せ、ひいては彼の幸せを願わずにはいられないようなかけがえのない存在に対し、全てをさらけ出してしまうことは果たして適切なのであろうか。

 またしても逡巡し、意志の弱い自分を恥じる。僕が苦しいのは、ひとえに僕が弱さとずるさとを手放せずにいるからではないか。

 「無理して言う必要は無い」

 ユリウスはそう言うと再び優しく微笑んだ。その瞳に、呆れるほどしつこくもリューシャを見出す。彼女に対する想いを遠ざけよう、忘れようとする度に彼女への気持ちが僕に強く深く刻み込まれていくのである。なぜ、僕はこうも繰り返してしまうのか?

 リューシャに対する邪な想いを捨て、僕に親身になって接してくれるユリウスとの友情を感謝して受け取ろう。僕はとっくの昔にユリウスに対して心からの感謝と敬愛を抱いていた。年齢や地位も関係なく、彼は僕にとって本当に大切な友人であった。

 その決意を持って再びユリウスを見つめる。しかし、その紫色の瞳にまたしても心が揺さぶられ、あっという間にうろたえる。その独特で貴重な虹彩を僕に与えた、美しく貴い存在――。僕の脳裏に美しい姿が再び思い起こされると、とうとう観念して僕自身の気持ちに向き合わざるを得なかった。

 僕はリューシャが好きなのだ。

 そのことを改めて自覚したその時、イェンスが僕にそっと触れた。僕の中の醜い動揺をひた隠しつつ、おそるおそる彼を見る。すると、彼は僕の憂いを見透かしたかのような、美しく優しい眼差しで僕を見つめていた。

 「クラウス。君の瞳がそれほどまでに憂いを帯びているのを見るのはつらい。君が話せないのであれば、それを受け止めよう。だけど僕が今、君を抱きしめることはしてもいいだろう? そうせずにはいられないんだ」

 イェンスは言い終えると僕を優しく抱きしめた。僕はその優しさだけであっという間に胸がいっぱいになり、つい涙をこぼしてしまった。

 イェンスに寄りかかりながら、僕の、この取るに足らない混乱を抑えようとあがく。その混乱を引き起こした一番の原因が、リューシャに対する僕の不純な想いであった。それを捨てることが最大の処置であることは疑いようもなかった。

 僕がリューシャを想ってあたたかい気持ちになったとしても、彼女が僕を特別な存在として見ているという意味ではなかった。彼女が全ての生命に注いでいる普遍的な愛を、僕が彼女から譲り受けた魔力を通じて受け取っているからこそ、あたたかく感じているだけに過ぎないのだ。そして彼女を想っても何もあたたかい感情が湧いて来なければ、それもまた至極当然のことのように思われた。僕のちっぽけな好意など、大いなる視点に立って存在している彼女からしてみれば、大海に落とされた一滴の雨粒のようなものであろう。そもそも人間よりはるかに高等で神聖な生き物であるドラゴンが、下等生物である僕の前に美しい女性の容姿で現れ、その魔力を授けてくれただけにしか過ぎなかった。僕の薄っぺらな心のざわめきなど、大いなる目的の中で遂行されたドラゴンの崇高な役割に水を差すだけではないか。

 リューシャはドラゴンとしての生活は喜びにあふれていると語っていた。想像もつかないその美しい世界に、僕の醜い思考を砂粒ほどでも混じらせてなるものか。そう自分に強く訴える度に、ますます心が苦しくなっていく。

 『どんな時でも無償の愛を自分に与える』

 その言葉がリューシャの声で頭の中に再生される。しかし、彼女はそのメッセージを魔力とともに僕に授けた時点で役目を終え、僕が一生交わることのない世界へと戻っていった。僕はそれを何度もしつこく自分に言い聞かせ続けた。彼女との思い出に蓋をし、記憶にさえ浮かばないよう、はるか遠くへ放り投げようともした。それでも僕のまぶたに、彼女は何度も何度も美しい笑顔を浮かべた。

 手が届くはずもない存在に対して邪な想いを抱いた弱い自分を責める。それが繰り返されているだけであることに気が付くと、いよいよ自分の不本意さに失意を覚えた。

 「クラウス」

 ユリウスが僕を呼ぶ。しかし、今の僕にはどうしてもその紫色の瞳を見ることができないでいた。

 「ごめん、ユリウス。君を見ると、どうしても思い出してしまうんだ。僕は……僕は……」

 「ひょっとして姉……リューシャのことか?」

 ユリウスが優しい口調で尋ねる。僕は下を向いたまま、無言でうなずいた。彼に僕の弱さのみならず、叶わぬ恋をしていると指摘されるのがたまらなくこわかった。

 「クラウス、そのままでいいから聞いてほしい」

 ユリウスが穏やかな口調で話し始めた。

 「リューシャも父も、君が彼女に好意を抱くことは想像できていたはずだ。それを見越して、リューシャから君に魔力を与えたんだ」

 それを聞いて、僕はうつむいたままぐっと手を握りしめた。彼の言葉は嬉しかったのだが、にわかには信じ難かった。

 「君はリューシャを想っているのだろう? すると、彼女はいったいどんな感情を君に返してくる?」

 ユリウスの口調はなおも優しかった。イェンスもまた、抱きかかえていた僕の肩を優しくさする。僕は二人のあたたかさに目頭が熱くなるのをぐっとこらえながら、目を瞑ってリューシャの幸せを祈った。彼女が今もドラゴンとして喜びを得ているようにと願うと、全身があたたかい感情で包まれ、喜びさえ感じられた。

 「違う! 僕があたたかい感情を今感じているのは、彼女がドラゴンだからだ! 彼女が全ての生物に等しく無償の愛を注いでいるから、だから僕はあたたかい気持ちになれるんだ!」

 僕は卑屈さから、彼らの顔も見ずに必死に否定した。

 「そうだろうか? 君がそこまで彼女を想うのを許しているからこそ、彼女は君に魔力を分け与え、君の中の彼女の記憶を消さずに君を見送ったのではないのか? 彼女にとって、君がすでに特別な存在であるということなのでは?」

 ユリウスの言葉に僕はとうとう顔を上げて反論した。

 「違う! 彼女は――リューシャは、ドラゴンでの生活は非常に喜びにあふれている、と言っていた。僕なんかが淡い想いを抱いたところで、下等生物にまで降りてその相手なんかするものか! いや、させない。彼女はドラゴンだ。僕ごときの矮小な願いのために、美しく高貴で神聖な本来の姿から、人間なんかの姿を無理強いさせて窮屈な思いをさせたり、そうでなくとも不自由な思いをさせたくはない。彼女はドラゴンとして生きてきた。今までも、これからもだ! 僕は彼女がドラゴンとしての幸せをより深め、自由に羽ばたき、輝いていくことを心から願っている。だから、僕の一過性の浮ついた心に、彼女を巻き込むことをしてはいけないんだ!」

 僕の言葉にユリウスとイェンスが微笑んだ。

 「ああ、おかしいさ。僕は頭がどうかしている! ドラゴンが人間の若く美しい女性の姿に身を変え、僕の初めてのキスの相手をしたぐらいで敏感に反応し、一方的に好意を持ったんだからな」

 「すまない、違うのだ、クラウス。イェンス、君も同じだろう? 君はずっとリューシャの幸せだけを真剣に願っていた。彼女がドラゴンとして幸せに生きることに敬意を表し、そのことを心の底から願っている。考えてごらん。彼女はドラゴンとして幸せであることを君から望まれているんだ。特別な存在から自由かつ美しいままであれと願われたら、ドラゴンであっても嬉しいに決まっている」

 優しい口調であったユリウスの言葉を聞いてもなお、僕は憮然としていた。

 「人間の言葉を話せるちっぽけなトカゲから想いを打ち明けられたところで、人間がそのトカゲに心を寄せるか?」

 すると傍らにいたイェンスが「そうか!」と声を上げ、僕の顔を見つめながら言葉を続けた。

 「リューシャの中で、すでにクラウスは人間の言葉を話すちっぽけなトカゲでは無いんだ!」

 その言葉にユリウスが優しくうなずいて返した。

 「まさか! そんなのあり得ない――」

 僕はまた混乱し始めていた。人間の言葉を話すトカゲで無いとしたら、鶏かネズミか。

 「いずれにせよ、クラウス。君という存在の性格を知ったうえで、リューシャは君と接している。それは父も同じだ。同じ血を引いているから私にはわかる。彼らには君に接触しないという選択肢もあったし、違う容姿で君の前に現れることもできた。だが、父も姉も君に特別な意味を見出していた。だからこそ君を受け入れ、姉がどんな姿で君たちの前に現れたかはわからないが、君にかなりの好意を抱かせるほどの容姿となって君に魔力を与えたんだ。私から言われても嬉しくないかもしれないが、私は君が姉と親しくなりたいのであればそうしたらいいと思うし、君がそのことについて幸せを感じることを願うだけだ」

 「僕と親しくなりたいと、彼女が思うはずがない」

 僕は思わず本音をもらした。一方で、ユリウスの言葉の意味も未だ理解できず、不甲斐ない自分自身にまたしても失望を抱く。

 「クラウス、思い切って彼女と親しくなりたい自分を愛してごらん。それがどういった結果を生むかはわからないが、君は自分を否定しすぎている。君は、君が思っている以上に美しく、輝いている存在だ。余計なお節介かもしれないが、君が君自身を見誤るのを黙って見ていられない」

 イェンスの優しい言葉は僕の心に深く突き刺さった。

 「だけど、僕は身のほど知らずだ。ドラゴンである彼女には多くを望んでいるのに、彼女の願いには応えられそうにも無い。僕はドラゴンになれない。魔力だって、きっと一生かけてもドラゴンのそれまで伸びるとは思えない。高い魔力を持つ妖精でさえ、ドラゴンの魔力には到底敵わないんだろう? 能力も魔力も後付けの僕が、彼女に対する想いは一過性のものだと自分に言い聞かせないと、君たちにも彼女にも迷惑がかかる」

 「でも、それは君の本当の気持ちじゃないだろう?」

 「イェンス、君には到底わからないよ! 君はラカティノイアと結局は愛しあって結ばれたんだろう? 僕にはそれができない。ドラゴンである彼女を人間の姿に押し留めて自分の満足だけで彼女を愛し、結ばれようとすることにいったいどんな意義がある? ああ、そうだよ。本心ではそのことにも憧れている。だけど、そのことを彼女に無理強いさせるわけにはいかない。なぜか? 彼女がドラゴンだからさ! 人間でも人型でも無い彼女に、人間の男性としての欲求をぶつけることは愛じゃない。それに僕が行くことができる世界は非常に限られている。僕にはもちろん翼が無いから、空を自由に飛び回るだなんてできやしない。それに高潔なドラゴンのお相手が無様な人間だなんて滑稽すぎるし、彼女があまりにも不憫でかわいそうだ。そもそも僕が彼女に好意を抱かなければ、こんな思いをせずに済んだんだ。……ユリウス、君は僕が彼女に好意を抱くことを、彼女は最初から見越していたと言った。彼女にとって僕は特別な存在だと。そのとおりさ! 僕は彼女からわざわざ魔力をもらったんだ。自分の中の大切な魔力を分け与えた相手だ。相手が何であれ、特別に決まっている」

 「クラウス、君はたった今、答えを言ったんだ」

 ユリウスが僕を見つめながら静かに言った。その瞳にやはりリューシャを見出すと、途端に我に返った。

 僕はいったい、どこまで無能で大馬鹿だというのか!

 言葉にならないほどの嫌悪感が自分自身に対してまとわりつく。イェンスが僕の頭に優しくキスを贈っているのに気が付くと、彼に対して暴言を言い放った僕自身をますます責めずにはいられなくなった。

 「イェンス、ごめん。本当にごめん。僕は……僕は君を侮辱した」

 自分自身への恥ずかしさと怒りから、彼の顔を見ることができないでいた。

 「クラウス、君に贈りたいものがある」

 イェンスはそう言うと僕の顔を優しく持ち上げた。抗えないほどの圧倒的な魅力を彼から感じ、罪悪感とともにおそるおそる彼を見る。すると彼は美しい眼差しで僕に微笑んでおり、顔を近付けたかと思うと口にそっとキスをし、それから抱きしめながら耳元でささやいた。

 「クラウス、君は僕の大切な友人だ。家族だ。君を心から愛している。君が悲しんでいる時でも、どんな時でも僕は君を愛することをやめない」

 その言葉を聞いて、全ての抵抗を捨てるしかなかった。どうして彼はこれほどまでに優しく、愛にあふれているのか。僕に美しくあたたかい言葉を見返りも求めずに与えてくれるのか。

 イェンスの肩に涙ごと顔をうずめる。その時、ユリウスが僕を背後から抱きしめたかと思うと、耳元で優しくささやいた。

 「では、私からも君に愛を贈ろう。君がなんであれ、私も君を愛することをやめない。なぜなら、君も私にとってすでにかけがえのない存在であり、私の大切な家族であるからだ」

 そうなるとますます涙が止まらなかった。しかし、それはもはや僕の失言を悔いているからではなかった。

 いったい僕がそれまで願っていたことは何であったのか。僕には全てにおいて美しく、尊敬できる大切な友人が二人もいて、なおかつその友人たちを心から愛していた。しかも僕を家族とまで呼んでくれたその愛する友人たちが今まさしく、僕に無償の愛を優しく差し出してくれていた。

 どれほどまでに彼らが僕にとって大切な存在であるのか。

 僕は言葉にならない想いをひたすら心の中から魔力に乗せて彼らに贈った。優しさとあたたかさと幸せな喜びとが彼らに永遠に与えられるためなら、喜んでこの身を差し出そう。どうか、彼らに永遠の光と喜びと安らぎが絶え間なく降り注ぎますように。この僕を優しく包み、愛を贈ってくれている彼らこそが、永遠に美しい幸せの中で輝いていられますように。

 僕はあふれる涙を拭うこともせず、何度も何度もイェンスとユリウスの幸せを願い続けた。

 突然、僕の体中から光があふれる感覚がほとばしった。それと同時に空気が張り詰めていき、僕の中の魔力が一気に力強く広がっていく。その時、イェンスが僕から離れ、僕の背後を非常に驚いた表情で見つめた。ユリウスも僕から離れたのだが、彼もまた、動きが止まってしまったようである。僕は彼らの様子を不思議に思い、涙で真っ赤になった目をこすりながらゆっくりと振り返り、イェンスの視線の先を追った。

 視界に人影が入り、思わず息が止まる。

 リューシャがそこにいた。

 「ユリウス、久しぶりね。あなたにこの姿を見せるのは初めてだったわね。イェンス、あなたも順調に魔力を高めているのね」

 彼女はそう言って微笑むと僕を見つめた。

 「クラウス」

 彼女が優しく僕の名を呼ぶ。そして静かに近付いてくると、あの美しい眼差しをやわらかく僕に差し出しながら話しかけてきた。

 「クラウス。あなたが私のことでさっきまで話していたこと全てを、島から覗いて聞いていたわ」

 僕は茫然と彼女を見つめ返すので精一杯であった。僕の周りから風景が消え、リューシャだけが目に飛び込んでくる。それでもやはり信じられない目の前の光景に動揺が収まらず、ソファから滑り落ちるように両ひざを床に打つ。すると彼女は僕に近寄り、同じように両ひざを床につけて僕を見つめた。

 「クラウス、あなたは私の言葉を覚えているはずよ。『あなたは美しい存在』、『無償の愛で自分自身を包みなさい』」

 「……どうしてここへ?」

 ようやく口から出た言葉は、全く気の利いたものでは無かった。

 「クラウス、あなたは自由よ。あなたの想いや感情を制限するものは何一つ存在しないの」

 リューシャはあたたかい眼差しと完璧な美しさをまといながら僕に話しかけていた。

 先ほどまで心の奥底から渇望していた彼女が、すぐ目の前にいる。しかも手を遠くに伸ばさなくとも触れられるほど、非常に近い距離にいた。しかし、僕の心はリューシャを目の前にしてようやく決心がついたのであった。

 僕は彼女に最善を捧げようと、考えうる最高の結論を思い切って伝えることにした。

 「リューシャ、君がここに来た理由が何であれ、そんな軽々しく人間の姿になっちゃだめだ。君は気高く、完璧な美しさを持つドラゴンだ。早く喜びに満ちた世界に戻るんだ。僕なら大丈夫、心配ない。ただ、ちょっと混乱しただけだ。だから――」

 突然、彼女が僕の顔に手を添え、彼女の口を僕の口に合わせた。

 それは優しい、優しいキスであり、実体を伴う生命力にあふれたものであった。やがて彼女は静かに離れると、僕を優しく見つめて美しく微笑んだ。

 唇の先から喜びが全身へと広がりを見せる。それでも僕は彼女に対するあふれる想いを必死にこらえようとした。

 「リューシャ……なぜ……なぜ、こんなことを……。こんなことをされたら……僕はますます君を……」

 言葉に詰まって彼女を見つめ返す。彼女にこれ以上の迷惑はかけられない。しかし、この弱い心を見透かすかのような、リューシャの慈愛にあふれた美しい眼差しが僕を強く捉えて離さなかった。

 「……君を好きになってしまう」

 結局、僕はこらえ切れなかった。

 そっと彼女の顔に手を添え、彼女がしてくれたような優しいキスを何度も心を込めて返す。それは間違いなく、僕が初めて経験した感触そのものであった。そして彼女を両手いっぱいに抱きしめ、実体のある彼女を全身で感じ取る。彼女は確かに甘い香りを漂わせながら僕の腕の中に存在しており、その美しい顔を僕の首元にうずめさせていた。

 彼女に対し、今まで感じたことのない愛おしさと喜びとが湧き上がる。そのやわらかい感情に抵抗するのをやめて全身を委ねると、さらに深い喜びと安心感とに包まれた。言いようもない幸福感の中で、思考の棘があっさりと消えていく。

 リューシャは他の誰でもない、僕にとって特別な存在なのだ。

 そのことを彼女の息遣いと甘い匂いとに包まれながら自覚する。――好きだ。僕は彼女がドラゴンであれ、やっぱり好きなのだ。

 「ユリウス、イェンス。あなたたちが彼に無償の愛を差し出したことに、心から感謝しています」

 僕の腕の中でリューシャが二人に話しかける。その間も僕は彼女を抱きしめている喜びと幸せの中にずっとひたっていた。

 「クラウス、忘れないで。あなたは自由だわ。そして美しい存在なの。今のあなたもさっきまでのあなたも、無償の愛を与えるのに充分相応しい存在なのよ」

 彼女はそう言うと僕にもう一度キスをしてから微笑んだ。

 次の瞬間、リューシャの周囲が光った。彼女は優しい眼差しで僕を見つめながら僕の脳内に直接話しかけ、それから忽然と姿を消した。しかし、僕は彼女がどこへ行ったのか理解していた。彼女は喜びに満ちたドラゴンの世界に、在るべき場所に帰っていったのだ。

 彼女の感覚を全身で思い返しながら、彼女が僕の頭の中に直接話しかけた言葉を何度も何度も噛みしめる。

 「クラウス、いい顔しているよ」

 イェンスが清らかな瞳で僕に微笑みかける。彼のすぐ近くでは、やはり美しい眼差しでユリウスが僕を見つめていた。

 あれほどまで重苦しかった僕の気持ちが晴れて澄み渡ったのは、束の間に訪れたリューシャとの再会が嬉しかっただけではなく、イェンスとユリウスが優しく見守っていてくれたからであることを僕はしっかりと握りしめていた。

 立ち上がって彼らをしっかりと見つめる。一つ呼吸をすると、心を込めて彼らに話しかけた。

 「イェンス、ユリウス。その……なんて言ったらいいのかわからないほど、君たちには心から感謝している。ありがとう。本当にありがとう。愛している、という言葉では足りないかもしれないな。君たちのことが本当に好きだし、愛している。心から大切なんだ」

 「今の君から感謝と愛の言葉をかけられるのは本当に光栄だ」

 ユリウスは優しく微笑むと僕を抱きしめた。続けてイェンスからもあたたかい抱擁を受け取る。彼らの瞳には今までにないくらいの美しい光があふれており、僕はその光を感激とともに受け取った。

 「お茶を淹れなおそう」

 ユリウスの言葉にイェンスが「手伝うよ」と続け、二人とも紅茶の話をしながらダイニングキッチンへと消えていった。

 僕は一人、ソファに座り直した。僕の唇にも手にもリューシャと触れた感覚がまだ強く残っており、彼女が僕に残した言葉はなおも頭の中でぐるぐると回り続けていた。

 『クラウス。私も特別な存在であるあなたのことを愛おしく思っています』

 僕は彼女に想いを寄せていいのだ。そんな僕を受け止めていいのだ。突きつめて考えると、僕は彼女に拒絶されることを恐れていた。そして惨めな思いをする自分自身にまたしても嫌悪感を抱くことを、さらに恐れていたのだ。だが、そもそも嫌悪感を抱くことは僕の内面の問題であった。僕の僕自身に対する評価は、僕の脆弱な主観にしか判断されていないではないか。

 ふと否定的な思考に気が付き、慌てて心を落ち着ける。たとえ繰り返して誤った行動を取ったとしても、その度に前を向いて進みもうとする意志を僕は握りしめていた。

『僕の想いや感情を制限するものは何一つ存在しない』

 リューシャは確かにそう言った。そして僕が自由であることも繰り返していた。それらの言葉を何度も何度も噛みしめながら、いったい『自由』とは何であるのかを考える。彼女からもらった魔力はなおも僕の中で力強く駆け巡っていた。その魔力の流れに意識を向けたその時、彼女が残した言葉にひそむ深い意味にようやく気が付いた。

 僕が考え方を変え、違う角度で物事を受け止めれば、全ては良い方にも悪い方にも判断を下せた。光を選んで進めば、背後の影を見ることはできない。だがその光ですら、その気になれば悪い見方を用いて否定することもできた。影も同じことであろう。もっと言えば、光も影もただ存在しているだけであり、そのことに優劣や意味を見出しているのは僕の心や思考であった。しかも、僕のその時々の感情で評価が変わることもままあるというのに、どうして目の前の事象にあっさりと判断を下せるのであろう?

 光も影も必要な世界に存在しながら、対象の一部分だけで優劣や善悪までをも一方的に判断するのは、おそらくどんな存在にもできないのであろう。いや、全てを見通せる高い存在になればなるほど、目の前の現象にこだわって意味付けすることが全く不要になるのではないか。彼らの視界を妨げるものなど、何一つ存在しないはずなのだ。

 僕はかつてリューシャとあの不思議な空間で話したことを思い返した。

『全ての存在には意味がある』

『迷った時は心の声に耳を傾け、喜びをもたらすほうを選択する』

 リューシャを、ドラゴンを妨げるものの存在など、同じドラゴンを除いてはこの地球上にありえなかった。地球の環境でさえ、ドラゴンにとっては影響がさほど少ないであろう。仮に、その場所がドラゴンにとって不快かつ苦痛であるならば、魔力が豊富な別の場所に移動しさえすればいいだけではないか。

 ドラゴンはその気になれば、人間が生息している場所を縮小させることも可能であった。いや、はるか昔に人類が地球上に誕生した時、居住場所に制限を設けることも容易にできたはずである。しかし、彼らはそうしなかった。人間の自由と生存する権利を他の生物と同様に認めていたからこそ、人間の営みを長きにわたって見守ってきたのであろう。リューシャは僕だけでなく、何もかもがただ存在しているだけで充分価値があると話していた。そうだとすれば、全ての存在に意味を見出しているドラゴンにとって世界は幸福そのものであり、その中で感じる喜びというのも実に単純なものなのではないのか。

 不意に直感が湧き、今の自分に注意を向ける。この瞬間にも僕が存在していることを意識しながら、自分自身を無条件で受け止める。すると目に映るもの全てが色鮮やかに輝きだし、内側から絶対的な安心感に包まれていった。その途端、あれほどまでに苦しかった心があっという間に消えた理由と、僕に与えられた『自由』の意味をようやく理解した。

 リューシャの言っていた『自由』とはなんと優しく、様々な可能性と寛容さに満ちているのであろう!

 不意に過去のやり取りを思い出した。それは以前、イェンスと『存在自体が必要だから僕たちが存在している』と話したことであった。僕の中に辛うじて残っていたヅァイドの魔力は、長年かけて僕にドラゴンの価値観を自然と芽生えさせたのである。

 遠い昔の不思議な巡り合わせから現在に至るまで、その道程は決して歩きやすいものではなかった。しかし、今となっては茨の道とも言い難く、多種多様な学びや気付きを得るのに必要な過程であったように思われた。そうであれば、僕が思っている以上に幸福な道を歩んできたのではないのか。

 僕は一人微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。そしてダイニングキッチンへと向かい、作業しているユリウスとイェンスに話しかけた。

 「何か手伝えることはある?」

 「なら、これを持っていって。今ちょうど新しいお茶が入ったんだ」

 イェンスが朗らかな笑顔でティーカップを乗せたトレイを僕に手渡した。彼もユリウスも、先ほどまでのことについて触れる素振りすら見せなかった。彼らが見せた優しさに目頭が熱くなりかけたものの、何も言わずにトレイをリビングルームのテーブルの上に置いて彼らを静かに待つ。

 そこにユリウスとイェンスがティーポットとお菓子を持って現れた。

 「先日、頂いたんだ。君たちと一緒に食べようと思っていてな」

 ユリウスがイェンスの手元にあるお菓子を見て言うと、ゆったりとした物腰でティーカップに紅茶を注いでいった。白い湯気が上品に挨拶をしては消えていくのを、僕は幸福感とともにじっと眺めた。

 お菓子も紅茶も美味しく、談笑している時間は充実に満ちていた。彼らと他愛も無い話をしつつも、心の中で感謝と愛を贈る。体感する何もかもが穏やかで美しい。そのような瞬間が僕に与えられていることは、何より贅沢なことであった。いったい、僕の人生はいつからこんな風に満ち足りるようになったのか。

 昼食の時間が来ると三人で調理にあたった。単純な作業でも楽しさがあり、イェンスと張り合いながら調理する。ユリウスが上手に僕たちをまとめながら料理を作り終えると、三人で喜びを共有しながら食べた。後片付けもまた愉快であった。三人で仲良く食器を洗い、皿などを片付ける。あっという間にキッチンが元どおりに収まっていった。

 ふと時刻を確認して途端に寂寥感に襲われる。ここにいられるのもあと一時間ほどではないか。

 ユリウスと別れるのがさびしく、僕はリビングルームに入ってソファに座る前に、「ねえ、ユリウス」と呼び止め、甘えるように彼に抱き付いた。彼は僕を優しく抱き返すと、僕の頭にキスを贈りながら「クラウス、本当にありがとう」とささやいた。その行為が嬉しくて、「感謝してもし足りないのは僕のほうだ」と魔力を感じながら伝える。即座にあたたかい気持ちに包まれたことで、物理的な距離より貴いものを与えられたのだと実感した。

 空間を瞬時に移動できる魔法を扱える者にとって、物理的な距離など全く問題では無いのであろう。そのことはエルフの村にいた時に理解できていた。いや、つい先ほども、ジェット機を使用しても十数時間もかかるような距離を一瞬で移動する奇跡を目の当たりにしたではないか。そのような中で、彼らにとって愛と信頼と感謝の心を示す行為はどういった位置付けにあたるのか。その理由を少しずつ探っていくうちに、深い理由が隠されていたことに気が付き驚愕した。

「わかった!」

 僕の大きな声にユリウスがたいそう驚き、「何がわかったのだ?」と不思議そうに尋ねてきた。同時にイェンスも驚いた様子で僕を見つめたため、僕は興奮を少し抑えつつ、気付いたことを彼らに説明し始めた。

 「驚かせてごめん。高い魔力を持つ者にとって空間の移動は魔法で容易に行えるから、愛する相手との物理的な距離の遠さは全く意味が無い。だから、彼らにとってもっとも貴い価値があるのは、無償の愛を持った心だ。これはラカティノイアも言っていたね。無償の愛の重要性は、魔力が無い人間同士でも同じことが言えるのだけど――この無償の愛を、リューシャはまず自分に与えなさいと言っていた。自分に愛を与えられない者は、他人にも愛を与えられないのだと。だけど、無償の愛を自分に与えるということは言葉以上に複雑で、自分という人間の価値を見下せば見下すほど、容易に与えられるものではない。自己に甘く尊大だと、見返りや損得で考えて結局は無償の愛から離れてしまう。その自分に対する無償の愛ができていないと、魔力を持つ者は心のあたたかさを一時は感じても、すぐに不安に駆られてしまうんだ。これはエルフの村での経験を通して思ったことなんだけど、魔力は心を落ち着けて制していないと、たとえエルフやドラゴンでも悪影響を及ぼすんだよ。それが体調にくるのか、精神的なダメージとなるのかは不明だけど、今までの僕がまさにそうだったし、エルフの村でも少女が高い魔力に耐えられずに体調不良になる事例を話していたから、そうなんだと思う。そこで確固たる愛を常に自分に向けることができていれば、僕は他人に依存したり、周囲の環境に流されることなく穏やかに自信を持ち、失われがちな優しさも保っていられる。そうやって初めて、愛する人に永続的なあたたかい気持ちを贈ることが可能となるんだ。そのことこそが魔力を持つ者にとっての至高の愛の形だからこそ、リューシャが何度も『無償の愛を自分に与えなさい』と僕に言ってくれていたのではないかと考えたんだ」

 「そう、君自身の成長のためだけではなく、君からの無償の愛も得たいがためにね」

 イェンスがそう付け加えて微笑んだので、僕は照れてしまった。

 「確かにそういうことになるのかもしれない。でも、それはラカティノイアも望んでいたんだろう? だからこそ、君にそのことを教えた」

 「そうだな、いや、そのことは正直に認めよう。彼女には今この瞬間も感謝しているし、深い想いであふれている。――ねえ、ユリウス。それでいくとウィスカも長い間、君がいずれ気付くのをわかっていて、無償の愛をずっと贈っていたのでは? 何十年も会っていないのに、彼女のことを想った時に心があたたかく感じられたということは相手も同じだったということだろう? 彼女はひょっとしたら君に会っていた時に少しずつ魔力を贈っていて、いつか君がその魔力に気付き、ひいては彼女の想いに気付く日を信じてきたという可能性は無いのだろうか?」

 イェンスが落ち着いた態度でユリウスに話しかけた。その様子を見て僕はもう一つ、気が付いたことがあった。それはイェンスが確実に好ましい変化を続けており、以前にもまして優しさと力強さとに深みと広がりを見せ、高い視点から物事を捉えようとしていることであった。リューシャは彼の魔力が強くなったと話していた。彼は着実に、エルフとしての彼自身の存在を高めているのだ。

 ユリウスは微笑むと、余裕ある表情でイェンスを見つめた。

 「君の落ち着いた表情からして、確信があるといった感じだな。今思えば、そうなのかもしれない。ドラゴンの能力を僅かにしか受け継がなかった以前にはわからなかったのだが、魔力がある今はいろいろと広い視点が見えてきたからね。イェンス、君はまず最初に親族の男性から魔力を受け取ったね? 体に馴染みやすいという理由でだ。それでいくと、基礎となる魔力は血縁の近い存在から受け継いだものが要となるのだろう。そしてある一定の基準を超えると、他者の魔力も受け入れられるようになる。そう考えると、異種族が魔力のある地域に住む理由がさらに明確になるんだ。魔力は魔力を引き寄せ、増やしていく。だが、そうなるためには基幹となる種族特有の魔力を、ある程度体内に備えていなければならない。だから、ウィスカは私に影響を及ぼすほどの魔力を与えることができなかった。それでも彼女がドラゴンを父に持つ私の可能性に期待して魔力を少しでも渡していたと考えれば、実を言えば全ての辻褄が合うのだよ。今さらなのだろうがね。当時の私が気付けなかったのも仕方がないのかもしれない。魔力が身に付けられないのであれば、ウィスカも父も具体的な説明がしづらかっただろう。しかも私は父と一緒にいた時でさえ、私の中にかすかに存在していた魔力が反応しなかった。父はきっと落胆しただろうが、一方で期待を残していたとも思う。なぜなら、私が父や姉、義母に他の異母兄弟と会っても体調を崩したことが無かったからだ。今や父が認めるほど、私は魔力を保有するようになった。そして無償の愛がなぜ必要なのかも、君たちの貴重な体験と話しから学ぶことができた。そして遠く離れていても最高の愛を贈れることを知った今、喜んでそうしようと思う。あの時、父の願いや彼女の想いに気付けず、今まで時間がかかったことでも私は自分を責めることなく受け入れ、認めることができそうだ」

 ユリウスはかつてないほど精悍な眼差しで僕たちを見ていた。

 「あれほどまでに渇望していた空への憧れも、今ではただ穏やかだ。クラウス、君が体験したとおりだ。自分自身を責めないというのは心地良いものだな。それでいて、自己弁護も言い訳も無い。私もどうやらもっと成長していけそうだ」

 ユリウスの言葉は非常に心強かった。

 確かに自分自身を責めることから解放されると、穏やかな気持ちで自己を客観的に顧みることができるようである。一方、怒りや苛立ちを感じる時は決まって、自分だけが何かしら不遇で理不尽な思いをしていると判断した時であった。世間の幸福や安心から自分だけが取り残されたと思った時、無意識のうちに不器用で軽率な自分を責めていたのである。ひょっとしたら、僕の心に余裕さえあれば、他人や環境や社会を責めることさえ消えていくのではないのか。もちろん、全てをそれで片付けられるほど達観もしていないのだが、苦手だと考えていた思考や出来事を思い返しても、不思議とそこで嫌な気分に覆われることは無かった。

 「僕たちは焦らずいけばいいさ。この先、またイライラして自分を責め、他人を責めたとしても、そこで気付いて気持ちを変えていけば、きっと今よりもっと良くなっていく」

 落ち着いた表情で話したイェンスの言葉が意外であったため、怪訝な表情で尋ね返した。

 「君はもうイライラすることなんか、無いんじゃないのか?」

 「まさか! 未だに自分を責めたり、イライラすることも当然あるさ。昨日シモとホレーショに会ってからは無かったけど、無遠慮な視線を受けて不躾な質問を受けたら、きっとさっき言ったことをあっさりと忘れてあからさまに不機嫌になるよ。そしてあっという間にそのことで自己嫌悪するんだ」

 僕よりはるか先の道程を歩んでいると思われたイェンスも、結局は不安定な意思と遠い目標との狭間で奮闘していた。いや、僕も頭では理解していても、ささいな出来事をきっかけにあっさり自分自身を再び責めなじり、それもつらくなれば他人を責めていたではないか。

 僕がようやくたどり着けた穏やかな境地が、僕たちの事情を知らない人たちの前でも保持できなければ、本当の意味での自己への無償の愛を実現しているとは言えまい。無償の愛を自分に捧げ、ありのままの自分を認めるということは、自己肯定感が低い僕にとっては常に意識していないと一朝一夕には成就しないのであろう。

 それでも挑戦していくのだ。リューシャと再会してから何度か感じた安らぎは、本当に心地良かった。そこに僕がいられるためなら、喜んで取り組もう。僕が自由なのであれば、進む方向を常に僕の意思で選んでいける。僕を責め、他人を責め、社会を責めることから離れ、ドラゴンのように大いなる観点から全ての存在に愛と価値を見出すことだって不可能ではないはずだ。

 空に白い雲が広がる。隙間から覗く青い空間は、僕がいる空間と壁を隔ててつながっていた。空は改めて言及するまでもなく本当に身近で、誰に対しても平等であり、様々な表情を刻々と変化させていく壮大な存在であった。

 「次に私たちが会う日が楽しみだな。その時は今よりも魔力が強まっているだろう。君たちさえ良ければ、もっと君たちと会える時間を作るよう工夫する」

 ユリウスの言葉に、イェンスと僕は思わず歓喜の声を上げた。

 「本当? 今より会う時間が増えるのはもちろん大歓迎さ。ただ、公人でもある君が、多忙から私的時間をなかなか自由に取れないことも重々承知している。だから、もし疲れを感じたなら、先にゆっくり休んでほしいんだ。」

 「そうだよ。ねえ、こうしたらどうだろう? イェンスと僕とで魔力の本を読み進める。それで得た知識をユリウス、君と共有する。それ以外でも僕たちに頼みたいことがあったら、遠慮なく伝えてほしい。そしたら君はますます時間を有意義に使えるだろうし、ウィスカに想いを贈る時間も増えるだろう?」

 僕たちの言葉にユリウスは満面の笑顔を浮かべた。

 「ありがとう、君たちには本当に感謝しているし、心から愛している。ようし、それならぜひともお願いしよう」

 そう言うと彼は少し神妙な面持ちになった。

「実を言うと父からの手紙には続きがあって、ウィスカのこと、ゲーゼのこと、そして君たちと私とのことも書かれてあったんだ。端的に言うと、私たちは三人とも魔力を劇的に高める可能性が高く、その鍵を握っているのはクラウス、君だと書かれていた」

 僕は全くもって思いがけない彼の言葉に当惑したのだが、それと同時に心の奥で何かが高鳴るのも感じていた。

 「君だけが後天的に異種族の能力を身に付けた。イェンスのことも奇跡的なことなのだが、君の場合とはやはり状況が異なる。クラウス、君は恐れを克服し、強い意志で魔法を跳ね除け、とうとうドラゴンに触れることができた。このことがどれほどまでに奇跡を重ねていることか、君自身が一番よくわかっているだろう。だが、問題は手紙が途中から空白であることなのだ。昨日より、今朝のほうがいくぶん文字が読めたことから、おそらくもっと魔力を高めていかないと手紙が読めないように魔法がかけられているのだろう」

 彼はそう言うと大事そうに手紙を持ち出し、僕たちに中身を見せた。僕は興奮とともにその手紙を覗き込んだのだが、あっという間に困惑してしまった。

 五枚綴りのその手紙は一枚目の三分の二ほどのところで文章が終わっており、それ以降は白紙にしか見えなかった。そしていくら魔力に意識を向けても、ユリウスが話した『僕が鍵を握っている』という文章が全く見当たらなかったのである。

 「僕にはその文章すら見えない」

 落胆してつぶやいた僕に、イェンスが残念そうに言った。

 「僕にも見えない。ウィスカのこともだ。でも、ゲーゼのことは文字がかすれているけど、なんとか推測して読めそうだ」

 彼の言葉で再び肩を落とす。僕にはそのゲーゼという単語すら見えなかった。

 「この空白にはおそらく、私たちが魔力を高めるにつれ、必要になる情報や助言が書かれているのだろう。父に会うまでに読めるようになっているといいのだが、時間が限られている。それでもやれるだけのことはやろう」

 ユリウスが力を込めて言ったことに対し、僕は手紙が読める範囲を正直に彼らに伝えた。彼らの反応に不安を覚えるところなど何一つなかったのだが、僕自身を奮い立たせるためにすぐさま付け加えた。

 「大丈夫さ、僕は僕のやるべきことをきちんとやる。無償の愛を自分自身に贈ることを努力するよ」

 それを聞くなり、ユリウスが微笑みながら返した。

 「クラウス、君は力を抜いていいんだ。努力になってしまえば、おそらく上手にできなかったときに自分を責めてしまうはずだ。さっきも言ったが、君は私とイェンスとが能力を身に付けた理由と全く異なる経緯で能力を身に付けた。だから、君の魔力が伸びる速度は私たちのとは異なるのかもしれない。だが、そのことで私は何の憂慮も心配も不要だと考えている。なぜなら父の強力な魔法を押しのけ、自らの意思でドラゴンに触れて魔力を取り込んだあげく、姉の強力な魔力を受け取っても体に馴染ませたのだからね。だから、君の中の魔力は、君にさえその意志があれば自ずと高まっていくだろう。父も姉も、身内のみならず、ドラゴンの中でも魔力が抜きんでて高いほうだ。扱える魔法も、おそらくだが想像をはるかに超えるものばかりのはず。だが、ドラゴンはそれでも人間を支配下に置こうとしてこなかった。自分の血に悩んで葛藤していた私を、父は魔力でねじ伏せてドラゴンにとって都合のいい駒にしようともしなかった。――君が父と最初に出会った頃にはすでに父を遠ざけていた。だから、直接確認したわけではないのだが、父は君の話を少なくとも他の家族にはしたことだろう。いずれにせよ、父にも姉にも興味を抱かせ、イェンスを引き寄せ、この私も引き寄せた君という存在を考えると、実に感慨深い。君はとっくにドラゴンの中での常識をあっさりと破ってきたはずなんだ」

 僕は真剣に耳をそばだてていた。あと三十分ほどでいよいよここを離れ、ドーオニツに戻らなければならない。あの日常生活に帰れば、ユリウスとの対話さえも非日常へと分類されていくのである。今現在体験しているこの貴重な一瞬を、僕は全身全霊をもって受け止めていた。

 「姉が、リューシャが生身の人間にわざわざ姿を変え、君に会うために魔法でここにやって来た。それがどんな意味を持つのか。……少し昔話をしよう。姉は初めて会った時から私のことを弟として受け入れてくれたが、それでも魔法で人間に姿を変えたことは無かったし、私以外の人間に関心を見せたことも一度も無かった。私の母に対してもそうだ。実を言うと、父も母に恋愛の関心があったから接触したのではない。父とその他ごく一部のドラゴンは、あくまで全ての存在が調和して生きる構造を安定させるのが目的で、必要最低限に人間と接触するようなのだ。私は父と初めて会った時にそのことを伝えられた。だからといって私が父に愛されていないわけではない。父はそのことを踏まえたうえで、産まれた時から私を見守っており、息子としていつでも受け入れると言ってくれたのだ。そのことを踏まえて、もう一つ話したいことがある。生身の姿を他の生物に変えるという魔法は、以前父から聞いて知ってはいたのだが、まず使用することはないだろうとも聞かされていた。理由として、ドラゴンはドラゴンであることに非常に誇りを抱いているかららしい。父はかつてこう言った。『種々の生物の存在に等しき命の重さを見出せば見出すほど、ドラゴンとしての種に喜びと誇りを感ずるのだ』。それは優越感から来るものではなく、単純にありのままの姿で存在する喜びと、そのことで自分たちの命にも輝きを見出すからだそうだ。だからこそ、私の母の前でも生身の人間に姿を変えず、魔法でその幻を見せていたようなのだ。それは父から直接確認しているし、魔力が人間に悪影響を与えることを知った今、それが最良の方法だったとも理解できる」

 僕はユリウスの言葉に緊張を覚えていた。彼が話していることが非常に繊細かつ興味深いものであることは、彼のどこか緊張した面持ちがまさしく表しているようであった。

「いずれこのことは君たちに包み隠さず話すつもりだったから、話は逸れるが正直に全て話しておこう。実を言うと母は奔放な性格で、人間社会に偵察に来た父を見るなり、母のほうから話しかけてあっさりと深い仲になったそうなのだ。母を知る人からその奔放さを聞かされていたから、間違いないだろう。それからというもの、父は努めて魅力的であろうといろいろ知恵を使ったそうなのだが、母は私を身ごもったことが判明してからというもの、昔から母に好意を寄せていた、ある程度お金のある男性の元へと姿をくらました。その男性とは今の継父ではない。しかし、私は母の判断は正しかったと思っている。おかげで私が無事産まれて育つことができたのだからね。だから実際のところ、父と母は数か月しか交際していなかった。おそらくは私を身ごもらせるために使用した魔法が母にとって不快だったのだろう。父はもちろん細心の注意を払ったのだろうが、わずかな魔力にさえ苦痛を感じた母が父を追い払ったのだと考えている。父は本来であれば、人間社会の生活基盤を考えてもっと長く滞在するつもりだったらしいのだが、母が嫌がった。この話も母から聞いたのと一致している。母ははぐらかしながらも、父のことをこう言っていた。『お前の本当の父親に当たる男は、見た目も性格も頭もすごく良かったんだけど、どこか得体の知れない、気味が悪いところがあってね。あの男と一緒にいる時だけ体の調子が悪くなって、いろいろ大変だったんだ。そばにいてもらっても鬱陶しいだけでさ。お前には悪いけど追い払って、それっきり。それにしてもお前は何もかもがあの男に似たんだね。その独特の瞳の色も、不思議な雰囲気もそっくりだ。私に似ているところなんて、髪の色ぐらいじゃないか』」

 ユリウスの話はかなり衝撃的で、想像以上の複雑な生い立ちを背負っていた。それでも彼は淡々としており、その瞳には相変わらず優しい光を放っていた。僕はその美しい瞳を見て、思わず彼の幸せを願った。

 一方で、僕はまだ本題が話されていないことをうすうす理解していた。ユリウスの母にとって、魔力はわずかでも身体にかなりの負担をもたらすものであり、シモやホレーショの例をとっても一般的な人間の反応なのであろう。それでいけば、幼い僕が示した反応は、ヅァイドにとってかなりの衝撃であったはずなのだ。

「それでも私は母が母であったことに感謝しているし、父が父であったことに感謝している。そうでなければ私は存在しなかった。さて、ようやく話を本題へと戻そう。すでに私が言わんとしていることに勘付いただろう。クラウス、君は何もかもが異なっている。ドラゴンがその姿を強力な魔法と魔力を用いて人間の姿に変えるという行為は、繰り返しになるが本当にドラゴンの常識を破っていることなのだ」

 僕は彼の言葉一つ一つを噛みしめていた。ユリウスがドラゴンである父親と何度か対話することで理解できた世界に、僕が特異点として存在していることは確からしい。それでもリューシャがドラゴンとして特別な行為を取ったということはにわかに信じ難かった。

 リューシャが僕に向けたあの美しい眼差しに、常識を大胆に破った向こう見ずさは微塵も感じられず、ただ清らかで誇り高い精神だけが宿っていたように思われた。彼女はこの世界に数多く存在する中から、あり得ないことをやってのけた人間の僕に特別な価値を見出したのである。ドラゴン同士の恋愛事情など僕が知る由も無いのだが、魔力が抜きんでて高いと言われているリューシャに想いを寄せる雄のドラゴンがいないとは考えにくかった。繁殖の条件が何であれ、より高い魔力を持つ者が魅力と人気を集め、周囲の尊敬と期待とを一身に担うことは容易に想像がついた。そうでなければ、ヅァイドがそもそも人間社会に干渉する機会を得られなかったのではないのか。

 しかし、やはり浅い思考ではそれが限界で、その後はどんなに思考を重ねても堂々巡りから離れられずにいた。答えの見つからない疑問に対し、不毛な思考だけが取り残される。

 「じゃあ、なぜリューシャは……」

 いったい、僕の中にどのような可能性を見出して、ドラゴンとしての常識を打ち破ったというのか。いくらあり得ないことをやってのけたからとはいえ、身近にいる雄のドラゴンが一番彼女の人生において必要かつ頼りがいのある存在ではないか。

 「クラウス、君は稀有な存在なんだろうね。幼いにもかかわらず、気配を消していたドラゴンに反応して姿を見つけ、威嚇にも耐えながら手を伸ばして触れた。ヅァイドの話を思い返しても、君が全く警戒心の無かった子供だったとは思えない。むしろ、ドラゴンの本質をとっさに見抜いたからこそ、君が勇気を持って行動を起こしたように思えるんだ。おそらくなんだが、そのことがそれまでドラゴン全体が経験したことの無かった人間の行動だったのではないだろうか? 強力な魔法に抵抗して触れるだなんて、魔力を持っている今なら不可能だと理解できる。しかも相手は、あのドラゴンなんだ! だけど、君はそれを難なく乗り越えて魔力を取り込んだ。それだけで充分、ドラゴンの関心を引くに値する理由だと思う」

 イェンスが微笑みながら言った言葉を僕は素直を受け止めた。実のところ、当事者である僕にも不可能を可能とした理由がわからないでいた。なぜ、魔力が悪影響を及ぼさなかったのか。ヅァイドは喜びの感情が僕を守ったのであろうと推測していたが、そもそもあの時は僕に危険が及んでいるなど微塵にも思っていなかった。ただ、本能と強い意志に身を任せていたのである。

「その君自身はどこかのんびりしたところがあって、自分の優しさと美しさをあまり理解していないまま、それでも僕たちを懸命に愛してくれている。いずれにせよ、僕は君と一緒にいると心から落ち着くし、君のことを本当に愛している。君とユリウス、そしてこの僕が魔力を高めてさらに未知の世界へと歩んでいけるのなら、かけがえのない友人であり、僕の家族でもある君たちの力になれることも、いつだって心から喜んでしたいと思っている。――ああ、それとこのことをきちんと伝える機会を与えられたことにも感謝している。僕は本当に幸せなんだ。ありがとう」

 僕はイェンスの純粋な笑顔と言葉にはっとし、緑色の美しい瞳を見つめ返した。まるで恋人に贈るような情熱とあたたかみにあふれた美しい言葉というのは、彼みたいな美しい内面があるからこそ紡ぎ出されるのであろう。そこにユリウスが優しく言葉を続けた。

 「それは私も同じだ。なおかつ、長旅で疲れを感じているにもかかわらず、昨日今日と君たちが私と対話を重ねてくれたことにも本当に感謝している。これからますます気付きを得てその先の未踏の地へと辿り着くことも、決して遠い未来のことではないはずだ。また近々会おう。君たちを心から愛している」

 言い終えると彼はイェンスと僕にエルフ式の挨拶をした。

 「人前で堂々とするようになったら、いよいよ私たちも人間社会からはじかれていくのかもしれないな」

 ユリウスはやや照れているようであった。それでも彼が親愛の気持ちをわざわざ表してくれたことは本当に嬉しかった。

 「そろそろ時間だ。荷物を取りに行っておいで」

 ユリウスの言葉に僕たちが荷物を持って戻ってくると、ちょうど玄関前にシモとホレーショが到着したようであった。

 「お土産を渡すのを忘れていたよ。君に何を贈ろうかとずっと考えたのだけど、気に入ってくれると嬉しいな。と言ってもたいしたものじゃないけどね。これは君の好きな紅茶が入っている缶で、これがネクタイピン」

 僕が差し出したものをユリウスは感嘆の声とともに受け取ると、早速中を開けて取り出した。

 「実に嬉しい贈りものだ。どちらも私の好みがよくわかっている。本当にありがとう」

 くしゃくしゃの笑顔でユリウスが僕を抱きしめ、ほほにキスをする。彼に喜んでもらえたのが嬉しくて、僕も笑顔で彼を抱きしめ返した。

 「僕からもお土産。メモを取る時にでも使用してくれたら嬉しい」

 イェンスが万年筆を贈ると、ユリウスはやはり歓喜の表情でイェンスに抱き付き、ほほにキスをした。

 「これも実に美しい、見事なものだ。高かっただろうに、本当にありがとう。君たちの贈りものとその気持ちに心から感謝している」

 ユリウスの瞳にはあの美しい光が絶えずしてあり、澄んだ眼差しには清らかさがあふれていた。

 「さあ、行こう。彼らが待っている。それに君たちは早速明日から仕事に戻るのだろう? ゆっくり休んで明日に備えてほしい」

 ユリウスはゆっくりと玄関のドアを開けた。シモとホレーショがさわやかかつ優しい笑顔で僕たちを出迎える。彼らは僕たちからスーツケースを受け取るやいなや、早速車に積み込んでいった。

 「またね、ユリウス」

 「近いうちに、きっと」

 僕たちはお互いに笑顔で手を振った。ユリウスに背を向けた瞬間さびしさが込み上がったのだが、その気持ちを優しく受け止めてから車に乗り込んだ。

 「出すぞ」

 ホレーショが声をかけると車は早速動き出した。大きな邸宅の前で一人、僕たちを優しい眼差しで見つめているユリウスの姿が徐々に小さくなっていく。彼は最後まで僕たちを見送ることはせず、空を一瞥してから家の中へと入っていった。

 「ゆっくりできたか?」

 シモが話しかけてきた。僕たちは「もちろん」と答えると、続けざまに鞄から彼らへのお土産を取り出した。

 「昨日渡すのをすっかり忘れていたよ。まあ、たいしたものじゃないんだけどね」

 それを聞いたシモが驚いた表情で振り返る。ちょうどユリウス邸のゲートを通過した後であったため、ホレーショが道路の脇に車を停めた。

 「生意気にも気を遣いやがって……」

 シモとホレーショは目を細めていた。

 「僕は君たちにチョコレート菓子と、それぞれ香りが異なるコロンスティックだ」

 「僕のはクッキーとネクタイ」

 僕がイェンスの後に手渡すと、彼らはわざと難しい表情を浮かべてから中を開封した。

 「お前にしてはやるな。ありがたく受け取ってやるぜ」

 ホレーショがやわらかい笑顔を見せる。それを見ていたシモも同じように柔和な眼差しで僕たちを見つめた。

 「全く、お前たちは抜け目ねえな。ありがとう。お菓子は家族と後で食べる」

 言葉以上のあたたかみを彼らの優しい笑顔から受け取る。しかし、ホレーショが突如としてわざとらしく片眉を上げた。

 「お前ら、あとで礼を返すから覚えていろ」

 瞳に優しい光を宿したまま凄みを利かせた彼の様子が愉快で、つい吹き出して笑う。それと同時にイェンスもシモも笑いだしたため、ホレーショも結局は豪快な笑い声を上げた。

 「僕たちは今まで以上にユリウスと会えるかもしれない。彼が今まで以上に、なるべく時間を作ると言ってくれたんだ」

 イェンスが笑いをこらえながら彼らに伝えた。

「本当か?」

 シモが思いのほか、嬉しそうな声で聞き返した。

 「彼次第だけどね。そういえば、君たちは警護と訓練とを交互に実施しているんだよね? まずは家族が優先だし、体を休める日も必要だろうから、もし、本当にそうなったら君たちがこの先も僕たちを送迎するというのは厳しいのかもしれないね」

 僕がふと思ったことを言うと、ホレーショがすぐさま声を荒げて返した。

 「まさか! こんな手に負えないクソガキどもを、他の奴らに任せておけるか! 家族と相談して俺たちが全責任を持ってお前らを送迎するから、覚悟しておけ」

 「本当にそうだな。お前たちをきちんと送迎するように、というユリウス将軍のご命令にも背くし、訪問する頻度が増えたとしてもせいぜい一か月に一度ぐらいが関の山だ。なのに、全くこいつらは危ないことを言いやがる。しばらくは監視対象下に置かざるをえまい」

 シモがおどけた様子でそう言うと再び車が動き出した。

「お前たち、今日はゆっくり休んだらいい。今日はどこにも寄らずに送り届けるぞ」

 ホレーショの言葉に短い感謝の言葉をイェンスと交互に返す。シモがどこかくつろいだ様子で座っていたため、僕たちも静かに車窓の風景を眺める。

 見慣れた風景だけが過ぎ去っていく中で橋を渡り、いよいよドーオニツに入った。街並みはもちろん三週間前と同じであったものの、感慨にひたっていた僕はどこか新鮮さを感じ取っていた。おしなべて静かとはいえ、会話がそれなりにあったことで決して気まずい沈黙だけが流れていたのではなかったのだが、あの公園を通り過ぎた途端に言いようもない寂寥感と安心感とが内側で拮抗して口数が少なくなった。夕焼け空でないのがせめてもの救いであろう。やや黄みを帯びてきた青い空を見上げ、最後まで努めて明るく振る舞う。

 あっという間に僕が住むアパート前に到着した。僕がイェンスにエルフ式の挨拶をして「また明日」と声をかけると、彼は同じようにキスを返して「また明日」と微笑んだ。

 シモとホレーショは車から降りており、僕の荷物を取り出していた。

 「あの挨拶はまた今度にするよ」

 僕が意味ありげな表情で言うと彼らは安堵した表情を浮かべ、「そいつは残念だったな」と返した。その優しい眼差しには彼らの人としての美しさが表れており、僕が憧れを抱く粋な男性の姿そのものがそこに存在していた。

 シモとホレーショは僕を抱きしめ、「また会おう」と握手して車に戻っていった。彼らが走り去るのを見守ってから、急いでアパートの階段を駆け上る。息を切らすことなく部屋の前に到着し、落ち着いてドアの鍵を開ける。

 ――戻ってきたのだ。

 部屋は静かに主を待っていたようであった。だが、その主はもはや三週間前と同じでは無かった。僕はついさっきまで受け取っていた美しい贈りものによって、確実に変化を遂げていた。そこで少しの間、感慨深く室内を歩いていたのだが、大切なことを思い出して窓へ走り寄った。急いで窓を開けて眼下を見下ろすと、ちょうど彼らの車が遠くから走って来るのが見えた。

 車は僕のアパートの前で停車し、シモとホレーショが予想どおり車から降りて僕を見つけた。僕が小さく手を振ると彼らは笑顔で応え、再び車に乗り込んで去っていった。

 寂寥感が一瞬だけ顔を覗かせたのだが、僕は心の中で根を張った友情を思い返し、あたたかい気持ちのままで荷ほどきを始めた。僕は決して一人ではなかった。

 旅の思い出を整理し、洗濯をかけてから食材を買いに街中へと繰り出す。いつものスーパーに行こうと角を曲がると、買い物帰りのイェンスにばったりと会った。

 「やあ。戻って来てもなんだかんだ忙しいな。やらなきゃいけないことが思いのほかある」

 彼は朗らかに言った。

 「本当だね。ゆっくりできるのは夕飯後かな」

 僕がそう返すと、彼は笑顔を残して去っていった。

 イェンスと別れてから数時間も経っていないにもかかわらず、また偶然再会するところに今さらながら不思議な縁を感じ、ひっそりと愉快な気分にひたる。そのままスーパーで食材や日用品を買い求め、足早にアパートへと戻り、それから洗濯物を干して掃除をし、夕食を取り終えた頃には緩慢な眠気に襲われた。それでもなんとか後片付けを済ませ、シャワーを浴びる。歯を磨き終えるとやるべきことを全て終わらせた解放感を味わったのだが、それも束の間、くたくたになってベッドに倒れ込んだ。

 なじみ深い枕の感覚を確かめるかのように全身の力を抜く。イェンスとユリウスの笑顔が脳裏に浮かび、続いてシモとホレーショの笑顔も浮かんだ。僕が感じているこの親愛の情を、彼ら一人ひとりと今も共有しているのだ。眠気を跳ね除けて顔がほころぶ。

 そしてリューシャ。彼女の笑顔を思い浮かべると、僕は至福な気持ちに浸った。

 ドーオニツにいても、僕は彼女とつながっている。

 どこかで見た美しい星空が目の奥で輝く。青い光はひときわ輝きを放っているようであった。その光に見守られている感覚に陥ると、僕は安らいだ気持ちのまま意識を睡魔に委ね、眠りの地へと転がっていった。


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