第28話

 空港内部に入り、向けられる視線を上手に交わしながら搭乗手続きを進める。これから国内線でタキアの大きな空港に向かい、そこで国際線に乗り換えるといよいよ本格的な観光旅行が始まるのである。僕たちは高揚感と様々な思いを胸に飛行機内へと進んだ。遠ざかっていくタキアから広大な空へと視線を移す。一時間ほどして国際線のある空港に到着して乗り換えると、そこからは今までで一番長い、およそ十時間もの空の旅が待ち受けていた。

 機内食を取り、談笑し、映画や音楽を楽しむ。長時間の移動も、イェンスがいれば僕には全く苦でも退屈でもなかった。疲れを感じて眠り、軽食のアナウンスで目が覚める。飛行機は目的地まであと二時間も無いところまでやってきていた。時差の関係で目的地に到着するのは、現地時間の午後七時頃である。昨晩、急遽宿泊予約を入れたホテルに辿り着くのは午後八時を過ぎた頃であろう。その頃には眠気と飢えとの戦いになっているはずだから、食事を済ませたら早めに就寝しようということで話がまとまった。

 飛行機がいよいよ目的地である、ツェイドの大きな空港へと到着した。すんなりと入国を済ませて荷物を受け取り、街の中心部まで電車で移動を始める。これから僕たちが訪れる場所はかつてイェンスが家族旅行で二度ほど訪ねており、ある程度なら案内ができるのだという。

 「懐かしいな。建物が少し変わったぐらいで、ほとんど当時のままだ」

 イェンスは感慨深げに電車の窓から外を見つめていた。夜とはいえ辺りはまだまだ明るく、遠くまで街並みがはっきりと見える。僕にも多少の感慨はあった。僕の先祖は父方も母方もマルクデンに辿り着いた。その隣国となるツェイドは、古くからマルクデンと良きに付け悪しきに付け、様々な形で関わりがあったため何となしに親近感を覚えていたのである。

 ドーオニツ同様、様々な人種が通りを闊歩する中でホテルを目指す。久しぶりに味わった都会の喧騒には少しの違和感と懐かしさとがあった。ドーオニツにも似たような場所は数多くあり、決して不慣れな雰囲気ではないのだが、イェンスも僕も眠気と飢えとに抗いながらの移動であったため、口数は少なかった。ようやくホテルでチェックインを済ませて荷物を部屋に置くと、空腹を満たすべくすぐさま街中へと戻った。

「さて、どうしようか? 食事ができる場所ならごまんとある。確かに疲れはあるけど、せっかくだからこの地方国らしい料理を味わいたい気もする」

 「クラウス、思い出したよ。ノルドゥルフ社のフランツが勧めてくれたレストランが、確かこの先の通りにあるはずだ。おそらくだが、ここからだと五分とかからないだろう」

 「そうだったね。よし、そうしよう。フランツに対してもいい土産話になる。通りの名前は確かケッテン……」

 僕の言葉を受けてイェンスが道案内を始めた。疲れを感じさせない軽やかな足取りと並んで歩いているうちに、そのレストランにはすんなりと到着した。

 レストランはやや混んでいたものの、席は空いていた。にぎやかな店内を通って窓際の席を案内される。フランツが勧めたビールを注文して飲んでみると、苦みが苦手な僕でも飲みやすくて美味しかった。

 「フランツもかつてここで食事を堪能していたんだな」

 僕は店内の様子を興味深く伺った。薄明るい照明の下でいろんな人たちが食事と会話を楽しみ、酒を飲んでは陽気な笑顔を見せ合う。ドーオニツのレストランと一見変わらないようにも見えたのだが、耳を澄ませると会話の内容は地方国らしい特色にあふれており、この地方国独自の言語も聞こえてきた。タキアでもこの地方国でもそうなのだが、そもそもその地方国で使われていた言語は母国語として当然残っており、各々の地方国固有の文化と風土を担うものとして一般的に話されていた。アウリンコとドーオニツは統一された言語が唯一の公用語であるため、僕たちが地方国の言語を学ぶことは必修ではなく、その代わりに言語学を深く学ぶことのほうが重要視されていた。そのため、イェンスと僕にとって別言語の習得、とりわけエルフ語の学びは実に興味深いものであった。

 一方で、僕たちと同じ世代になると統一言語しか話せない者も一定数いるらしく、それが地方国において問題となっていることもニュースなどで知っていた。地方国の独自性を決定付ける言語が、複雑な歴史に翻弄されて存亡の危機に立たされていることが今ほど身につまされるのは、おそらくエルフの言葉に出会って独自の言葉を話す重要性と意義とを体感したからであろう。

 どうか、どの地方国でも固有の文化や風土が消え去ることなく受け継がれますように。

 イェンスとそのことを話し合うと、僕たちは活気あふれる店内を後にした。通りは相変わらずにぎやかで、熱気に満ちていた。男女が建物の陰で激しくキスをしあっているのを見つけ、咄嗟に視線をそらす。横切った通りの向こうで若者たちが大声ではしゃいでいるのが聞こえると、いよいよイェンスも僕も早足になった。

 涼しい夜風が運ばれる中を、重くなったまぶたをこじ開けながら歩く。それでも僕たちは目立たないよう気を配ることを忘れなかった。真っ直ぐにホテルへと戻り、お互いの宿泊する部屋の前までやってくる。イェンスを見ると、彼もまた非常に眠そうにしていた。

「明日は先に目が覚めたほうがどちらかを起こすことにしよう」

 どちらからともなくその提案が出されると、お互いにおやすみを言い合って室内へと入った。

 シャワーを浴びて着替え、くたくたになってベッドのふちに腰かける。それでもホテルのテレビをつけ、見慣れない番組を眺めては異国情緒にひたった。しかし、それもあっという間に流れ、眠気が限界に達してとうとうベッドの中にもぐり込む。遠くからにぎやかな喧騒が耳に入ったような気もするのだが、そこで力尽きてしまった。

 爽やかな目覚めとともに朝を迎える。ゆったりと時刻を確認すると午前八時半を過ぎていた。最後に時刻を確認してから十時間以上も眠っていたことになる。僕はおもむろに起き上がると、イェンスとの約束を思い出して彼に電話を掛けることにした。

 耳元でコール音が鳴り響く。イェンスはまだ眠っているのであろう。そろそろ電話をいったん切って掛けなおそうかと思ったその時、ずいぶんと眠そうな声でイェンスが電話に出た。

 「……クラウス、おはよう。ずいぶんと僕は眠っていたようだ」

 「おはよう、イェンス。まだ眠いのならもう少し眠る?」

 「大丈夫だ。……いや、すまない。やはり五分経ったら起こしてくれ」

 彼にしては珍しいお願いであった。僕は快諾すると電話を切り、その間に身支度を整えることにした。あっという間に五分が経ったのだが、もう少し時間を置き、二十分ほど経ってから彼に電話を入れる。すると先ほどよりしゃきっとした口調でイェンスが電話に出た。

 「おはよう、クラウス。ありがとう、ようやくすっきりと目が覚めたよ」

 「どういたしまして。ねえ、僕は着替えを済ませたよ。君の部屋に行っていい?」

 「もちろんさ」

 そこで僕は鞄を肩にかけて彼の部屋へと赴いた。気配を感じたのか、僕がノックをする前にイェンスが笑顔でドアを開けた。

 「適当にくつろいでいて。すぐに着替えるから」

 その言葉に応じ、僕は初めて観る異国の風景を窓から眺めて楽しむことにした。

 歴史的町並みと近代的な建物とが共存しており、その調和された景観が魅力的な街のようである。アウリンコやドーオニツでも同じような街並みは今でも残っているのだが、僕はあえて新鮮な気持ちで受け止め、観光客としての旅行気分を盛り上げることにした。

 「待たせてごめん」

 「気にしてないよ。ゆっくり休まないと旅行を楽しめないからね」

 僕がそう言って微笑むと、彼は僕のほほにキスをしてから「朝食を外で探そう。お腹をすかせている中、君を歩かせるのは申し訳ないけど」と言葉を返したので、期待に胸を躍らせながら早速街へと繰り出すことにした。

 月曜日を迎えたツェイドのこの街は、せわしさの中にものどかな情景をあちこちに散りばめていた。イェンスと事前に打ち合わせしていた観光地に向かいながら、朝食が取れる場所を探す。しかし、結局は駅構内のカフェでやや遅い朝食を取ることとなった。そのまま高速鉄道に乗り、列車のあまりの速さに驚きながらも鉄道旅を楽しむ。古城を訪れ、周囲を散策し、歴史博物館を訪ねては貴重な展示物を鑑賞する。ある程度計画を立てていたとはいえ、気の合う友人と自由気ままに散策することの楽しさと喜びに、僕はすっかり魅せられていた。

 行く先々で視線を感じることはあったものの、旅先で浮かれていることもあり、気にする頻度は少なかった。さらに好ましい変化に気が付いた。僕たちに接触しようとする人たちを、ぼんやりとでも勘付くことができるようになったのである。そのほとんどが過剰な思い込みであったとしても、ある程度の危険予知に基づいて行動したほうがはるかに動きやすかったため、僕たちは楽しみつつも周囲の気配に注意を払ってはお互いに声をかけ合うようにした。

 フランツが教えてくれた観光名所に行く。そして歴史ある建物を見ては感動を覚え、美しい芸術品に感嘆の声をもらす。過去から現代にまでつながっている歴史と文化に、僕たちは感動と敬意を抱いて接した。異種族の魔力を得た今となっても、僕一人では到底作り上げることができないそれら芸術の数々は、この地方国のみならず他の地方国においても誇り高い歴史と伝統を証明するものであろう。それゆえ、長きにわたって人々に受け継がれてきたものを私見だけで簡単に否定し、軽んずることは悲しいことのように考えていた。

 最初から一方的に否定され、拒絶されて喜ぶ人などいるものか。少なくとも、僕の経験では深い悲しみと相手への怒りしかもたらさなかった。そう考えると、異種族が人間社会になるべく干渉しない理由も見えてくる。彼らは人間社会に一定の敬意を払ってくれているのだ。

 イェンスとそのことについて話し合ってみることにした。彼もまた同じように考えていたらしく、微笑みを添えて僕の意見を歓迎する。しかし、個人という観点に立って話しているうちに、一方的に視線を投げつけ、あるいは馴れ馴れしい態度で接してくる人に対し、僕たちこそが最初から拒絶反応を示していることにようやく気が付いてお互い言葉に詰まる。

 だが、避けたいと思うだけの理由がそれなりにあった。それはつい先ほどまで考えていた思考の中にも答えが出ていた。そのことから言い訳ではなく、僕の本心なのだと受け止めたその時、イェンスが沈黙を破った。

「僕にはやっぱり無理だ。綺麗事を並べたいところだけど、やはり避けられるのであれば避けたい。きっと異種族もその点では同じなはずさ。お互い適度な距離を保っている限り、敬意を払っていられる。相容れないのを無理にくっつけようとするから、ひずみが生まれるんだ。理想と現実の間に多少の矛盾があっても、均衡が保たれているのなら僕は都合よく解釈していい気がしている。不自由な思考を保ち続けることのほうが、非生産的だからね」

 イェンスの言葉に僕は全くもって同意した。彼の表情は穏やかであり、彼の言葉どおり、自由な思考の中に身を置いているのであろう。

「そうだね。どんな事も突き詰めていけば、矛盾が見つかるのかもしれない。道徳観や不文律も例外や除外規定があるのは確かにそうだ。問題を解決できる大いなる視点と知恵が無いのであれば、なおさら避けたほうが無難なんだと思う。ああ、君の考え方ですごく気が楽になったよ。僕自身のみならず、他人の矛盾した言動にもいちいち腹を立てずにいられそうだ。ありがとう」

「僕も感謝を述べたい。こんな深い話を君と共有できたのだから」

 彼の美しい眼差しにエルフの魅力を感じながら受け取る。今の僕が幸福なのはイェンスがいて、彼が僕の親友だからなのだ。その後も軽口をたたいては自由気ままに散策し、観光という贅沢な余暇を満喫した。

 あちこちを歩き回ってくたびれたのと小腹が空いたこともあり、カフェで休憩を取ることにした。イェンスに勧められ、この地方国の名物甘味を注文する。ドーオニツでも同じものを食べたことはあったのだが、あまりにイェンスが懐かしそうに味わうものだから、自然と僕も新鮮な気分にひたった。

 気が付くと空模様があやしくなっており、今にも雨が降り出しそうである。僕の視線に気が付いたイェンスが同じように空を見上げたのだが、「おそらく駅までは持つだろう」と言ってのんびりと紅茶を口に含んだ。そのくつろいだ表情につられ、僕ものんびりと紅茶を口にする。多少の雨にあたることもまた、旅行の醍醐味ではなかったか。

 カフェを出ると、ぽつぽつと雨が降り出してきた。それでも駅が近いこともあり、お互いにショーウインドウを覗いたりしながら駅へと向かう。高速鉄道に乗って再び一息つけると、今度は旅行の感想を思い付くままに話して愉快な気分にひたった。

 ホテルに戻った。しかし、つかの間の休息を得たのち、すぐさま夜の街へと繰り出す。途中途中で小さな観光をしつつも、飢えて機嫌が悪くなり始めた胃に献上する料理を探すためであった。ガイドブックにあった有名なレストランを通り過ぎ、あてもなく横道に入る。少し進んだところで、良い雰囲気を醸し出しているこじんまりとしたレストランを見つけた。店の外観と窓から見える店内の様子だけで美味しそうな料理にありつけると判断し、お互いに目配せしただけで中へと入っていく。予想どおりに居心地の良い席に案内されたことで、安心して思い思いの料理を注文する。やがて運ばれてきた料理を一口ほおばると予想以上の美味しさであったため、イェンスと自然に笑い合った。

 食事が進み、追加で水を注文しようとしたその時、隣席に座る夫婦とおぼしき男女と目が合った。お互いに店員を探していることに気が付いて、会釈をする。僕たちの分の注文を終えると、先に用件を終えたその男女が「ご旅行ですか?」と話しかけてきた。

「ええ、僕たちは観光客です」

 落ち着いた口調で男性に返す。

「そうですか。私たちが今住んでいるところはここからさらに北の港町なのですが、妻がこの街の出身でしてね。それにしてもここはいいレストランでしょう。穴場なのですよ」

「はい、非常に雰囲気が良くて美味しいです」

「それは良かった。その、差し支えなければ、どちらのご出身か聞いても構いませんか?」

 彼らは朗らかな笑顔を僕たちに向けていた。そこで僕たちが控えめにドーオニツ出身であることを告げると、男性は非常に興味深そうな様子で僕たちを見た。

「本当ですか? 実を言うと、初めてドーオニツ人に会ったんです。なんだか光栄だなあ」

 その言葉に妙な照れくささを感じたのだが、男性はよほど感激したのか、活き活きとした表情であれこれとドーオニツについて質問を並べていった。しかし、彼から嫌な感じがしなかったため、イェンスも僕も会話を楽しみながら丁寧に答えていく。ドーオニツでは当然のことでも彼らからしてみれば驚愕かつ奇妙に聞こえるらしく、夫婦そろって終始興味深い表情で僕たちの話に聞き入っていた。

「ありがとうございます。おかげで非常に有意義なお話が聞けました。二人ともお若いですが、学生ですか?」

「いえ、僕たちは社会人で、同じ事務所で同じ仕事をしています」

 僕が明るく答えると、彼はやわらかい笑顔を浮かべて返した。

「そうでしたか。仲が良いということはいいことですね。ちなみにお仕事は何をされているのですか?」

「僕たちはカスタムブローカーで働いており、通関の仕事を主に担当しております」

 イェンスがそう答えるとその男性は非常に驚いた表情になった。

「本当ですか? 実は私も同じ仕事なのです。全く奇遇ですね」

「本当ですか!」

 男性のその言葉に一気に親近感を覚え、途端になめらかな口調で仕事の話を始める。そして好奇心から、その男性に対して仕事の手順や税関とのやり取りなどについて質問を並べた。彼の妻が「旅先にいる間ぐらい、仕事から離れたらいいのに」と明るい笑顔で言ったのを照れ笑いで受け取ると、男性が打ち解けた表情で回答していくのに耳をそばだてた。

 地方国とドーオニツにおける通関手続きにおいて、大元は同じであるものの、細かいところで独自のルールがあることを興味深く捉える。この地方国の製品もよくドーオニツに輸入されていることを伝えると、彼は「本当かい? では、私が輸出通関手続きをした貨物の中に、ひょっとしたらあなたたちが扱ったのもあったのかもしれないね。今までもう何度も、ドーオニツ向けに輸出申告をしてきたんだよ」と嬉しそうに返した。それを聞いてノルドゥルフ社の輸入を思い出す。守秘義務から男性には伝えなかったのだが、ひょっとしたら彼が輸出通関を担当していたかもしれないのだ。

「ドーオニツ向けは他の地方国向けと異なり、アウリンコ納品の貨物も扱うことからインボイスや申告に詳細な記載が求められるんだ。それに少なくとも輸出者としての実績が三年無いと、ドーオニツ向けの輸出を取り扱うことができない。今じゃ、特に優良な輸出者でないと税関検査も書類審査も厳しくなったから、簡単な気持ちでドーオニツ向けの輸出を行おうとする輸出者にこういった事情を説明することが本当に多いんだ」

 男性は少しうんざりした口調で付け加えた。僕たちは知識としてそのことを知ってはいたのだが、実際の輸出地でその新鮮な情報を聞くことができたのは本当に嬉しかった。

 わざわざ時間を割いてまで、僕たちのつたない質問に答えてくれたその夫婦に再度感謝を伝える。二人とも「こちらこそ、ありがとう。では良いご旅行を」とあたたかい笑顔で言うと先に会計を済ませ、僕たちに会釈してからレストランを出て行った。

 こういった心があたたまる出会いも素晴らしいことだと考えるようになっていた。他人同士であった者が知り合うということは、やはり不思議なことなのだ。イェンスにそのことを伝えると、「あのご夫婦がいい人たちで良かった。だからこそ、出会いというものが貴く感じられたのだからね」と朗らかな笑顔で返した。

 僕たちもレストランを出た。夜風にあたりながらホテルに戻りつつ散策していると、夜の観光地が醸し出す雰囲気に妖しげな魅力が気になった。ドーオニツほど治安が良いわけではないからであろうが、注意を払いつつも新鮮な気持ちでその感覚を受け止める。それでも長居することなくホテルに戻り、笑顔に心地よい疲れを乗せてイェンスにおやすみの挨拶をする。その後は何をするわけでもなく、明日に備えて早めに休んだ。

 次の日も思い思いに散策し、自由気ままに移動する予定であったのだが、昨晩の同業者の話に感化されて急遽大きな港を訪れることにした。朝早くにホテルを出て空港へと赴き、およそ一時間後に目的地の空港へ到着するなり、早速港がある方へと移動を始める。途中で街並みを観光しながらも、気が付けば急くように港に向かっているものだから、イェンスと顔を合わせて苦笑いを浮かべた。異国の地とはいえ、ドーオニツでさんざん見慣れてきた光景を目にするだけなのである。

 休暇中も仕事のことを思い返すだなんて、ギオルギとムラトが聞いたら仰天するに違いない。そんなことを冗談ぽく話しながらも大きな港に到着した。関係者ではないためふ頭には近付けないのだが、見慣れたガントリークレーンが二十数基と並んでいる様は圧巻であった。

 大型のコンテナ船が岸壁に停泊しているのを見つけて船名を確認する。積載されたコンテナーの中には、ドーオニツ向けもあるのかもしれない。そうだとしたら、そのコンテナーがドーオニツに実際に到着するのはおよそ四週間後である。他の遠い地方国に運ばれて行くのであれば、途中でいったん積み替えられることであろう。その間も複数の地方国の、いろんな職種の人たちを介して物が運ばれていく。地方国から地方国へ、人から人へ、常に誰かが関わっており、その対象物が僕たちの手元から離れる時も、結局はいろんな職種の人たちの手を介して姿を消していくのである。以前に仕事中にも考えたことがある、この『物の流れ』というものを改めて思い返すと、やはり世界が親密につながっていることが感慨深く思えてならなかった。そこで、またしてもイェンスにこのことについて意見を伝えることにした。

 興味深そうに港の風景を眺めていた彼は、僕の言葉に真剣な表情で聞き入り、話を聞き終えるとあたたかい笑顔を添えて同意を示した。それから僕が感じていた感慨を、彼らしい言葉で語り出す。彼と同じ観点をまたも共有していたことは嬉しかった。この共有も親密なつながりの一つなのだと考えると、彼に対してさらに好ましい感情が強まった。

 港を離れて近代化した都市を観光しつつ、美術館へも向かう。いつの間にか絵画鑑賞はすっかり定番と化し、僕のお気に入りの趣味にさえなっていた。自分の心に触れる絵画をイェンスと共有していることに気が付くと、またしても心が躍る。彼が一緒にいることで心強さと喜びを感じており、僕はもう幾度となく彼に感謝を感じていた。僕がこの旅行を心から満喫できているのも、ひとえに彼によるところが大きいことも、それこそもう何度も何度も感じていた。それゆえ、僕は改めて認識せずにはいられなかった。

 イェンスは僕にとって、やはりかけがえのない大切な存在なのだ。

 次の日は早朝にホテルをチェックアウトし、空港へと向かった。僕たちは一日だけ、マルクデンを訪れる予定であった。マルクデンは僕にとっても縁のある地方国なのだが、イェンスにとってはさらに重要な意味を持つらしかった。彼にとっても先祖の出身国ではあるのだが、彼の家系は他の地方国の由緒正しい家柄ともつながっていたため、幼い頃は頻繁に縁のある地を訪れていたのだという。

 「クラウス、僕の我がままにつきあってくれてありがとう。先日も話したとおり、僕は親族が住む場所の近くまでは行かない。ただ散策できればいい。あまり近付くと、僕を覚えている人から家族へ連絡が行くかもしれないからね」

 搭乗時間が来るまでの間に立ち寄ったカフェで、彼は紅茶の入ったカップに手をかけながら静かに言った。

 「君が堂々と訪れる日が早く来るといいのだけど」

 「今年に入って僕が正式に家督相続を放棄したから、ほとぼりが冷めるまでは難しそうだ。それでも僕が大胆なことをしようとしていることはわかっている」

 彼はカップをテーブルに置き、ポケットからハンカチを取り出した。そして周囲の目に触れないよう注意深く広げ、色鮮やかな刺繍を僕に見せる。それは彼のアパートでも見かけた、彼の実家の紋章であった。僕は彼の家柄を気に掛けていなかったため、その紋章についてあれこれと尋ねたことはなかったのだが、どうやら彼の意図は別のところにあるらしかった。

 「これは僕の家系に代々伝わる紋章だ。ここに想像上のドラゴンに剣とシロツメクサが描かれている。僕の実家はドーオニツが完成した時に僕の五代前、つまり高祖父イェンスの父ハンスが野心と名声を求めて移住したのが始まりなんだ。高祖父は当時すでに二十歳を超えていたのだけど、ハンスと一緒に家の繁栄を担うべく移住している。その際、事業を拡大させるため、世界のあちこちを飛び回ったらしい。当時はもちろん船旅であったのだけどね。その時、例の地の近くでリカヒに出会ったとされている。その後の話は君も知っているだろう。だけど、今話したいのはそこではなく、親族がマルクデンではある程度その名前が知れ渡っているということなんだ。もちろん名字は同じだけど、紋章がこれと少しだけ図案が異なる」

 小声で話す彼の説明を聞き、改めて紋章を注意深く見つめる。彼が「もういいかな」と声をかけたのでうなずいて返すと、彼はハンカチを丁寧に折り畳んでジャケットの内ポケットへとしまいこんだ。

 「君が興味をあまり示さないでくれるのは本当に嬉しいよ。さっき見せた紋章に似た紋章を掲げている場所があれば、近付くことを避けたいんだ。マルクデンを訪れたいという気持ちと矛盾していることは重々承知だ」

 「わかったよ、僕も注意深くなる。それと君の想いは理解できる。君にとって思い出深い場所だ。少しぐらい滞在したって、ご家族やご親族も厳しく咎めることは無いだろうさ」

 僕はあっけらかんと答えた。実のところ、イェンスが感じている複雑な思いや重圧を、彼の言葉どおりほとんど気に掛けていなかった。彼の親族が名門であろうと、彼が家督相続を放棄したことで実家から絶縁されていようと彼はただ彼であり、それらのことはただの付随した情報にしか過ぎなかった。僕はそのことをも伝えると、紅茶と一緒に注文したドーナッツを頬張った。その素朴な甘さにシモとホレーショを思い出す。彼らは今頃、ユリウスを警護しているのであろうか。

 突然、イェンスが吹き出すように笑い出した。

 「やっぱり君は最高だな。僕はずいぶん小さなことで悩んでいたようだ」

 彼はそう言うとようやく同じようにドーナッツを食べ始めた。

 「美味しいな」

 はにかんだ笑顔を見せたイェンスに微笑んで返し、何となしに空港内を行き交う人たちを見つめる。それから少しして飛行機の搭乗時間が差し迫ってきたため、ゆったりとした足取りでゲートへと向かった。

 飛行機が離陸すると、イェンスは窓の外を熱心に眺め始めた。そんな彼を見守りながら、一時間半弱ほどの空の旅を満喫する。マルクデンに到着しても午後二時頃までにはまた空港へと戻り、次の滞在予定地へと向かう駆け足の訪問予定であった。イェンスの事情もあったのだが、その後も予定が目白押しであったため、今回はあえてそうしたのである。それでも縁あるところを訪ねることは興味深く、僕は顔しか知らない祖父たちに思いを馳せながら淡い紺色の空を見つめた。

 マルクデンの空港に到着した。すっかり慣れた手付きでアウリンコ・ドーオニツ居住者専用入国手続きを済ませ、国内線へと乗り換える。およそ四十分後に目的地の空港に到着し、荷物をそのまま空港内のコインロッカーに預け、バスで中心部に到着すると早速市街地へと繰り出した。

 縁が深いとはいえ、実のところ僕には目新しい風景ばかりであった。思えばマルクデンを訪れたのはたった一度きりで、子供の頃に遠い親戚を家族一同で訪ねた、数日間の滞在しか無かったのである。イェンスは懐かしそうにあちこちを見回しており、どこか落ち着きのない様子であった。

「行けるところまで行こう」

 颯爽と歩き始めた彼は思い出の地にいるためか、いつも以上に堂々とした美しさをにじませていた。行き交う人たちがその魅力に引き寄せされるように見つめるのだが、気にする素振りも見せずに周囲の建物を感慨深い表情で捉えていく。

 突然、イェンスが立ち止まった。その緑色の瞳の先を見つめると、空港内のカフェで見せてもらった紋章とよく似たレリーフを掲げている建物が奥に見えた。

「以前は無かったように思ったのだが、僕が今、自由に歩けるのはここまでなのだろう」

 イェンスの口調はどこか哀愁を帯びていた。さわやかな陽気を受けて鈍く光を放つその重厚感あふれるレリーフを、僕もまたどことなくやりきれない思いで見つめた。イェンスが家族との軋轢を気にしなければ、たとえ親族と鉢合わせることがあったとしても、機転と知恵を働かせることによって乗り越えることもできたであろう。しかし、彼の中で何かが引っかかり、重い足かせを強いていた。魔力を得て彼自身の未来だけを真っ直ぐに捉えているようでも、心の中で折り合いをつけるべき箇所を捨て切れずにいるのだ。

「戻ってもいいだろうか」

「君の好きにしたらいい。イェンス、僕は君がのびのびとできる場所ならどこでもいいんだ」

「ありがとう。では、反対方向へと向かおう。そっちのほうは確実に親族に関わる場所が少ないはずだ」

 彼は優しい表情で来た道を戻り始めた。

 最初に到着した場所を超え、さらに美しい街並みの中を散策する。実のところ、僕はどこを歩いていても非常に愉快であった。全てが感慨深く新鮮で、僕のルーツに関りがあると考えるだけで静かな感動に包まれたからである。僕の両祖父ともこの街の出身ではないのだが、ドーオニツの祖母に連れられて過去に一度だけ訪れたその場所は、ここから北に離れた海が近い小さな町で、風が非常に冷たかったことも覚えていた。

 母方の祖父も父方の祖父も、若い頃はここを訪れていたのであろうか。僕が今歩いているこの道を、ひょっとしたら祖父たちも歩いたのではないのか。

 少し早めの昼食を取るべく、またしても雰囲気だけで選んだレストランへと入る。食事を終えたら空港まで戻ることで話がまとまったので、改めてバスの時間や飛行機の時間を確認していく。そこにこの地方国の郷土料理が運ばれてきた。それはイェンスも僕も楽しみにしていたものであった。

 「このレストランには以前来たことがあるの?」

 「いや、紋章を見つけた建物の先がよく訪れていた場所で、こっちのほうはあまり来なかった。だから、こんな美味しいレストランがあるのは知らなかったんだ」

 僕はイェンスの言葉を受けて外の風景に目をやった。彼の親族が由緒ある家柄であるため、おそらくこういった親しみやすい店では無く、もっと格調高い場所で店を堪能してきたのであろう。その場所はあのレリーフがあった場所より奥まったところにあり、そこにはイェンスの幼少時の思い出が詰まっているはずなのである。

 だが、彼は結局のところ、真に思い出深い場所へは一歩も足を踏み入れていなかった。それが彼にとって適切であるのか、きっと彼自身にも今は答えが見出せないに違いない。

 「イェンス。また、またきっとここに一緒に来よう」

 僕は小さめの声ながらも、力強く彼に伝えた。僕の突然の言葉に彼は一瞬驚いた表情を見せたのだが、すぐに満面の笑顔を浮かべて「もちろんさ、クラウス。本当にありがとう」と返した。

 食事を楽しんだ僕たちは真っ直ぐに空港へと戻った。マルクデンの訪問はイェンスとってやはり感慨深かったらしく、空港に戻って荷物をコインロッカーから取り出し、それから出国手続きをしている間中も、その美しい緑色の瞳をはつらつと輝かせていた。

 飛行機に乗り、乗り換えを挟んで次の目的地へと向かう。次に向かう地方国は、やはりイェンスにとって縁があり、彼の遠い親族が住まう場所であった。しかし、その地方国の訪問を僕たちは別の理由で心待ちにしていた。今年のお正月にテレビで観た、かの有名なオーケストラのコンサートを鑑賞する予定でいたのである。

 コンサートは明日の夜に行われ、チケットはエルフの村を出て具体的な日程を立てた時に、売り切れを覚悟でチケットを探していたら奇跡的に並んだ席を入手できたものであった。僕たちの見えないところで、神の御業のような偶然がたまたま重なったのであろうが、とにかく僕たちは歓喜のうちにチケットを購入した。金額はそれなりにしたのだが、イェンスも僕も購入に迷いは全く無く、ただただ鑑賞を楽しみにしていた。

 およそ一時間五十分ほどにわたる空の旅を終え、市街地へと向かう。ここでもイェンスが慣れた様子で僕を案内し始めた。夜の七時前にホテルへと到着する。チェックインを済ませると明日のコンサートを鑑賞するため、予約を入れてあった貸衣装の店へと向かった。フォーマルスーツと靴を借りて一旦ホテルに戻り、衣装と靴を室内のクローゼットにしまう。それから歴史と伝統が息づく街を散策すべく、再び外へと繰り出す。

 見事な建築物に驚嘆し、街のあちこちで演奏されている美しい音楽に耳を傾けながら、夕食を取る場所を探す。角を曲がると落ち着いた雰囲気のレストランが目に止まった。店構えから気楽に利用しづらいように見えたのだが、気になったので店内の様子をそっと伺う。その時、そのレストランの従業員と目が合い、会釈された。レストランのドアを開けたその従業員に僕たちの服装を確認すると、全く問題ないという回答を得られたのでそこで食事を取ることにした。

 趣のある内装に出迎えられながら席へと案内される。ほとんど悩まずに注文を終えて談笑しているうちに、給仕の男性がさわやかな笑顔とともに料理を運んできた。

 僕は食事と会話を楽しみながらも、イェンスが上品かつ優雅な物腰であることに心から感嘆していた。それはこういった場所では特に顕著であった。彼が聞いたらきっと苦笑いするのであろうが、彼がご両親から受けた躾や身のこなしは、やはり僕にとって憧れを抱くほど洗練されているように思われた。

 彼を参考にして僕も振る舞いに調整を加える。彼だけが立派な振る舞いでは、きっと窮屈な思いをさせるに違いない。

「どうしたんだい、クラウス。今さらながら緊張しているのか?」

 「いや、このレストランが品の良い感じだから、君の立ち振る舞いを参考にしようと思ったんだ」

 僕は気恥ずかしさを感じつつも答えた。当然のことなのだが、美しい所作というものは一朝一夕で身に付くものではなかった。僕が今さら彼の真似をしたところで、たかが知れているのである。しかし、彼は優しい眼差しを絶やさなかった。

 「いつもどおりの君で充分さ。もともと君は洗練されているんだ。気にせず普段どおりに楽しんだらいい」

 またしても彼の言葉は僕の心にあたたかく響きわたった。

 「ありがとう、イェンス」

 僕は彼の言葉を素直に受け止め、いつもどおりに振る舞うことにした。店内には静かな音楽が流れ、客同士の会話もどこか声が控えめである。他の客の視線を感じることもあったのだが、心地良さのほうが勝っていた。単に僕が図太くなってきただけなのかもしれないが、この貴重な『今』を心置きなく楽しめることは本当に嬉しかった。

 レストランを出て散策する。イェンスが歴史ある建物を指し示しては簡単な紹介を添えるものだから、僕はずいぶんと気楽に観光を満喫していた。そろそろホテルへ戻ろうかと話し合っていると、旅行者らしき若い女性たちに声をかけられた。彼女たちはどうやら観光地としても有名なカフェを探しているらしかった。そこで場所を知っていたイェンスが教えたのだが、彼の説明が終わるや否や、彼女たちは積極的に僕たちを誘い始めた。

 「すみません、この後ご予定がありますか?」

「地元の人じゃないのに、場所を知っているなんて旅慣れているのね。見た目もすごく素敵だし、せっかくだからおしゃべりしながら一緒に行かない? 出会ったのも何かの縁だわ」

 「いえ、僕たちは違う場所に行きますので、ここで失礼します」

 イェンスがやわらかい口調で断ったのに合わせ、すぐにその場を離れる。そこから少し進むと、今度は中年の男性から声をかけられたのだが、会釈だけ返して足早に先へと急いだ。

 それでも美しい街並みの夜の風情を味わうことは忘れなかった。どこからか音楽が流れ、別な方角からはかすかに歌声も聞こえる。僕たちに無関心な人たちのほとんどが幸福そうに見えたのは、おそらく僕がうがった見方をしているからなのかもしれなかった。

 街灯りにかすんで月が見える。見慣れた天体がこの街の上にも変わらずあることを見つけると、ようやくこの地方国の雰囲気を掴みかけた気がした。イェンスもまた落ち着いた表情であり、どうやら一連の流れも含めて楽しんでいるようである。そこで赤信号で立ち止まった時、僕はつい気を緩めてイェンスに寄りかかった。

「疲れたのか?」

「違う、僕だけが楽をしたいんだ」

 僕がいたずらっぽく笑いかけると彼は僕の肩に手を回し、わざと尊大な表情で「そうだな、本当なら法外な値段を要求するけど、今なら無料で肩を貸してやろう」と返した。

 その表情がおかしかったのでつい笑い声をあげる。イェンスもつられて笑い出したその時、背後から非常に身なりの整った、不思議な顔立ちの年上の女性に声をかけられた。

 「あら、久しぶり。元気にしてた?」

 僕はここに知り合いがいないので、イェンスの知り合いなのだろうと思いながら彼を見た。しかし、彼は全く動じず、「人違いです」と答えると僕に目配せをした。

 「そうかしら、以前も会ったはずよ。間違いないわ。ねえ、お名前教えて下さる? きっと私が思い出せば、あなたも私のことを思い出すはずだわ」

 その女性に独特のアクセントと声色があると感じたその時、信号が青に変わった。

 「いえ、あなたの思い違いです。では」

 イェンスは涼しい顔で答えると僕に合図し、どんどんと人の合間を縫うように先へと進んでいった。彼にくっつくかのように僕も急いで歩く。ホテルの近くまで戻った時、彼が苦笑いを浮かべながら言った。

 「さっきの女性、下手な芝居だ」

 「やっぱりそうだったのか。君の親族か、それとも以前ここを訪れた時に会った人なのかとも考えたりしたよ」

 「こういう時に記憶力が良いのは助かるよ。よし、今度からもっと空気のような存在になれるよう工夫しよう」

 ホテルに戻ると、僕が泊まる部屋でイェンスと一緒に日程を再確認することにした。帰りの航空券の手配も済んでおり、具体的な帰国日時もユリウスたちには知らせてあったのだが、自由気ままに動くことにすっかり味を覚えたため、行程の見直しを図ったのである。

 スマートフォンで次に訪れる地方国の情報を調べながらベッドに寝そべっていると、イェンスも隣に寝そべってスマートフォンを覗きこんできた。

 「何かいい情報があった?」

 彼の頭が僕の顔に触れる。

 「うーん、当初の予定どおりかな。……あ、いや待って」

 スマートフォンの画面に映し出された情報が何となく気になったので開く。イェンスがさらに顔を寄せてきた。

 「これはバレエの公演情報みたいだ」

 僕がそのバレエに反応した理由は実に単純で、イェンスと以前鑑賞したコンサートで演奏されていたからであった。

 「ああ、懐かしいな。子供の頃に観劇したことがある。すごく良かったよ。君は観たことある?」

 「いや、ないな。そんなに良かったの?」

 「有名な曲が多いのと内容が良かったこともあって、感動した思い出があるんだ。どちらかといえば女の子向けの内容だとは思うけど、それでも充分楽しめる作品だと思う。ただし、今は初夏だけどね」

 作品の解説には年末に上演されるバレエの定番とあった。さらにその公演情報を読んでいくと、テンリブ地方国のバレエ団が僕たちが次に訪れるアティウェルヘにちょうど公演に来ているらしく、その日だけは残席がわずかに残っていることも判明した。

 そこまで把握すると、僕は何となしにイェンスのほうに体を横向けて彼を見つめた。

 「クラウス、観てみたいのかい?」

 同じように体を横向け、僕のすぐ目の前で相対しているイェンスが微笑みながら尋ねてきた。

 「旅行日程に余裕があるわけじゃないし、取れる席は一番高い値段の席だ。でも、奇跡的に並んで鑑賞できる。ただ内容が子供向けな感じがして、少し悩んでいる」

 「悩んでいるんなら観たほうがいい。喜んで付き合うよ。それに観終わったら、きっと今言った感想が君の口からもれることは無いと思う」

 彼は朗らかな笑顔を見せた。

 「ありがとう、それなら今チケットを申し込もう。劇場窓口で紙のチケットにも引き換えができるようだ。それにしても、どうしてそう思ったの?」

 僕が再び仰向けになってスマートフォンを操作しながら彼に尋ねると、彼は僕の顔を優しく見下ろしながら言った。

 「君は優しいからね。いろんな意味で感動するはずさ」

 「君ほど優しくはないけど、ありがとう。チケットを購入したよ。服装はどうしようか?」

 するとイェンスが僕のスマートフォンを手に取り、会場の情報に目を通し始めた。一通りの情報を得た彼の表情は穏やかであった。

 「午後二時からの開演か。場所も格調高い劇場ではなさそうだし、今日みたいな服装でも大丈夫だと思う。もちろん、もっときちんとした身なりで行ってもいいんだろうけど、僕はフォーマルだとやや気取りすぎる感じがしたよ」

 「ありがとう、じゃあそうしよう。この日はぶらぶら散策しようかと決めてあったから、ちょうど良かったのかもしれない」

 「こちらこそ、ありがとう。思いがけず、君と素晴らしい体験を共有することになりそうで嬉しいよ。僕たちが鑑賞するバレエ団は、僕が子供の頃に観たことがあるものだ。記憶どおりなら、僕がかつて味わった感動を君も味わうのではないかと思って、今からわくわくしているんだ」

 彼はそう言うと僕のおでこに優しくキスをした。

 「おやすみ、クラウス。僕は休むよ。また明日」

 「おやすみ、イェンス。また明日」

 僕があくびをこらえながら返すと、彼は微笑みを残して彼が泊まる部屋へと戻って行った。

 次の日もまた、朝早くから行動を開始した。有名な歴史的建築物に心を奪われた後に美術館を訪れ、長く栄華と繁栄を極めた時代の作品を感慨深く鑑賞する。それから有名なチョコレートケーキをカフェで食べることにしたのだが、僕はふと思い付いたことがあり、店員の許可を得てからスマートフォンでその写真を一枚だけ撮った。僕の意図に最初から気が付いていたイェンスは、「甘党のホレーショが見たら悶絶もんだな」と言って笑った。彼の言葉に深く同意しながらケーキを食す。僕には甘すぎたのだが、この甘さも思い出になるのだと考え直し、なるべく味わいながら紅茶と合わせて食べた。

 カフェを出て、再びあちこちを忙しなく観光しているうちに夕方になる。僕たちは着替えのためにいったんホテルへ戻り、シャワーを浴びてから借りてきた衣装に身を包んだ。コンサートの開演までは、イェンスがかつて訪れたことのある伝統あるレストランでやや早めの夕食を取る予定であった。そこは身なりも重要であるため、貸衣装は全てにおいて都合が良かった。

 品格ある雰囲気を醸し出しているレストランへと到着する。イェンスが前もって予約を入れていたため、僕たちはすんなり予約席へと案内された。着席して間もなく、支配人を名乗る初老の男性がわざわざ僕たちの席に挨拶にやってきた。その支配人はどうやらイェンスの名字に聞き覚えがあるらしかった。

 「やはりドーオニツのグルンドヴィ氏のご子息でしたか。もしやと思いましたが、またお会いできて嬉しゅうございます。以前、あなた様が当レストランをご両親と一緒にご利用された際、まだあどけなさが残るご年齢にもかかわらず、あまりにご立派な振る舞いでしたから、かなり印象に残っていたのです。今やますますご立派に成長されて、さぞかしご両親もお喜びのことでしょう。それで今回はご親族をお訪ねになられているのですか?」

 落ち着いた風貌の支配人は、感慨深げな表情でイェンスを見ていた。

 「お褒めの言葉をいただき、恐縮に存じます。当時のことは僕もよく覚えております。あの時はこの格式あるレストランで粗相することのないよう、覚えたてのマナーで何とか体裁を取り繕うとしておりました。それでも頂いた料理が大変美味しかったものですから、非常に良い思い出となり、あれからずっと忘れられずにいたのです。今回は親しい友人と気楽な旅行に来ただけですので、親族や家族には僕がここを訪れていることを知らせておりません」

 イェンスは落ち着いていた。

 「そうでしたか。そのご様子ですと、ひょっとしてこれからコンサートをご鑑賞されるのですか?」

 支配人はイェンスと僕を交互に見ると、再び柔和な笑顔を見せた。

 「はい、その予定でおります。ただ、急遽鑑賞することにいたしましたので、名門オーケストラの演奏に失礼の無いよう、急いで衣装の手配もせねばなりませんでした。しかし、さすが歴史と伝統の息づく街ですね。僕のような準備不足の旅行者でも楽しめるよう、衣装を借りるにしても、細かいところまで配慮を頂いて感激しております。今はこちらでの食事を楽しみながら、今晩訪れる素晴らしい経験に胸を弾ませているところです」

 イェンスの言葉にその支配人はやや驚いた表情を浮かべて返した。

 「もしや、ご親族の方を本当にお訪ねにならないで鑑賞されるのですか? あなた様なら、ご友人の方と一緒に特別席でご鑑賞することもできるでしょうに」

 僕は支配人の言葉に驚き、思わずイェンスを見つめた。しかし、イェンスは落ち着きを保ったままであり、気品あふれる微笑みを絶やすことはなかった。

 「実を申し上げますと、親族と僕はそんなに親しくお付き合いをさせてもらっていないのです。僕は彼らからしてみればただのマルクデンの親戚ともかけ離れた遠縁の子孫ですし、この地方国の名家と関りがあったのももう何代も昔の話です。しかも僕は友人と旅行に来ているだけですから、遠い親族に厚かましくも押し掛けてご迷惑を掛けるわけにはまいりません。それでもわざわざお気遣い頂いたことに感謝いたします」

 「それであれば、私のほうから何も申し上げることはございません。どうぞ私どものレストランでごゆるりとお食事を楽しんでください。それではご友人の方も良い夜をお過ごしください」

 支配人は深く一礼をしてから去って行った。彼がすっかり僕たちの前からいなくなると、イェンスが小声で話しかけてきた。

 「クラウス、すまない。まさか僕を覚えている人がいるとは思わなかった。ドーオニツと違って、この名字で親族でも何でもない人たちも数多くいるから油断していた」

 彼はすまなそうに僕を見つめていた。

 「気にするな、イェンス。僕は大丈夫だ。だけど、あの支配人から君の親族やご家族に話が行く可能性もあるのかもしれないね」

 それを聞いた彼は苦笑いを浮かべて言葉を返した。

 「その時はその時さ。だけど、多分大丈夫だろう。この地方国の親族やマルクデンの親族にしても、僕にも実家にも興味を持っていないことはわかっている。だからこそ、父や祖父が野心を抱いてきたのだからね。僕が家督相続を放棄した話はとっくに伝わっているだろうけど、関心のない話題だろうし、そもそもこの地方国の親族が僕のことを覚えているとも思えない。支配人が僕の実家を覚えていたのは、当時の父が謙遜しながらも、さもここの親族とかなり近い間柄であるかのような説明をしていたから、それが原因だと思う。それに支配人の話を推察するに、僕の家族はしばらくここを訪れていないようだ。現在のマルクデンの直系の親族ならここの遠縁の親族と親交があることを具体的に話せるだろうけど、ドーオニツに渡った時点で縁遠くなることを選んだようなものだから、親交も簡単なカードのやり取りのみで実のところほとんど無いんだ。実は、曾祖母の婿養子というのが当時のマルクデンの直系親族の四男だったのだけど、それさえも父の代で交流がほとんど薄くなっている。だから父も実のところ、大きく見せたいだけで事実は知られたくないのかもしれない」

 彼は言い終えると、落ち着いた様子で再び食事を取り始めた。どうやら彼はそれ以上気にかけていないらしく、僕も気を取り直して食事に戻る。素材を活かして丁寧に調理された料理は、心からの感動をもたらすほど美味しかった。

 以前は五感が発達するということは、味覚だけでなく他の感覚も敏感になることから食事が取りづらくなる可能性を懸念していた。しかし、今となってはイェンスも僕も以前と変わらず食事を取っており、あまつさえ美味しさを堪能していることのほうが多かった。この不思議な均衡に魔力が関与していることは、おぼろげながらも理解していた。それは僕たちよりも感覚が鋭いエルフや妖精たちが、苦も無く日常生活を送っていたからである。だが、その理屈が相変わらず想像できず、考えれば考えるほど思考が複雑にもつれていくため、あっさりと解明をあきらめて割り切るようにもなっていた。もちろん、五感と直感が前より優れたことに対し、不便や窮屈さを感じることはそれなりにあった。しかし、イェンスも僕も自身の能力の限界を引き上げることに対して貪欲であり、この前向きな意思を喜んで受け止めていたのである。

 コンサートの話題などをしながら食事を終える。開演時間まで一時間を切っていたため、支配人に挨拶をしてから急くようにレストランを出た。豪華な夕食を取ったこともあり、服装に相応しい優雅な気分で会場へと向かう。着飾った人たちが見受けられるようになると、期待と興奮とで自然と足取りが軽やかになった。

 突然、僕の右側からなまあたたかい風が吹いた。それに促されるように視線を右側へと移すと、大勢の人が通り過ぎていく中、ある建物の壁に沿うようにじっと立っている少女が目に入った。

 「クラウス、あの女の子を見てごらん。なんだか気になる」

 イェンスもその少女に気が付いていた。その少女の表情はかなり暗く、不安を抱えているようであった。

 「迷子だろうか、声をかけてみる? 僕も少し気になったんだ」

 イェンスが僕を見てうなずいたので、僕は思い切ってその少女に声をかけた。

 「一人のようだけど、君はご家族とはぐれてしまったの?」

 恐怖心を与えないよう、なるべく穏やかな表情で話しかけた僕に気が付き、少女が顔を上げる。すると少女は今にも泣きだしそうな様子で僕を見上げた。

 「そうなの。パパとママとはぐれちゃった。でも、もっと心配なのは、妹のエイミーとはぐれちゃったことなの。私、パパとママを探すのに夢中で、エイミーの手を離しちゃった」

 彼女はそう言うとぽろぽろと涙をこぼし始めた。それを受けて僕はある意志を持ってイェンスと見た。するとイェンスもまた、強い意思を目に浮かべて僕を見ていた。

 目的は一緒だ、すぐに彼女の幼い妹を探さなくては。

 「クラウス、僕が五感を開放する。君は僕が合図するまで、そのままの状態で彼女を見守っていてほしい」

 イェンスは耳打ちすると、落ち着いた表情を見せた。しかし、地方国で五感を開放させるのは、身体にかなりの負担をかけるはずである。僕はその少女に「君の名前は? 妹はいくつ?」と尋ねながらも、彼が気掛かりであった。

 「私はヘレン、九歳。妹はまだ三歳なの」

 ヘレンは涙を浮かべながらか細い声で答えた。

 「ヘレン、ずっと一人で心細かっただろう。僕たちが一緒に探すよ」

 僕は彼女を元気づけるために微笑んだ。傍らでイェンスが鋭い視線で辺りを見回していたのだが、不意に何かを感じ取ったらしく、僕とヘレンに向かって微笑みながら優しい口調で言った。

 「エイミーの居場所をなんとなくだけど特定できた。ここからそんなに遠くない。すぐに連れて戻ってこられるだろうから、待っていてほしい」

 イェンスはそう言い残すや否や、素早く人混みの中へと消えていった。僕は彼の後ろ姿を見送りながら、ヘレンとエイミーの両親が今頃きっと必死になって探していることを思って心が苦しくなった。だが、今一番不安を抱えているのはヘレンなのである。僕はぽろぽろと涙をこぼしながらも懸命にこらえている彼女をなんとかなぐさめようと、努めて優しく話しかけ続けた。

 「君は名前からして、この地方国の出身じゃなくて旅行者のようだね」

 「うん。カリメアから……カリメアから家族みんなで旅行に来ていて、ホテルに戻るところだったの。人がいっぱいだから、パパがエイミーを抱っこして戻ろうとしたのに、私がわがままを言ってお姉さん気取りでエイミーの手を引っ張りながら前を歩いているうちに、間違った道に来たみたいで、私が振り返ったらパパもママもいなかったの」

 彼女は真っ赤な目で僕をじっと見つめていたのだが、今にも泣き崩れそうな表情になると「エイミーに何かあったらどうしよう」と言って僕に抱きついてきた。

 「彼ならきっとエイミーを見つけてここに戻って来るよ」

 実際のところ僕には確信があった。イェンスならきっと大丈夫だと改めて考えたその時、遠くからイェンスが僕の名を呼ぶ声が聞こえてきた。

 「クラウス!」

 案の定、彼はエイミーらしき幼児を抱き上げながら笑顔で戻って来た。

 「エイミー!」

 ヘレンの表情が途端に明るくなる。エイミーには泣いた跡があったのだが、純粋な眼差しで笑顔を見せると、「お姉ちゃん」とたどたどしい口調で答えた。

 「通りの目立たないところで泣いていたエイミーを見つけたんだ。周りの大人が気付き始めた時に、ちょうど僕が彼女を見つけた。エイミーが僕を見た途端、抱きついてきたのが良かったのかもしれない。周囲の人たちは僕のことを家族か何かだと思ったようで、周りに謝りながら無事彼女をヘレンのところに連れ戻せたけど、誤解されて通報されるんじゃないかとひやひやしたよ」

 イェンスはそう言うと僕の耳元に顔を近付けた。

 「すまない、クラウス。今度は君が五感を開放してこの子たちのご両親を感じ取ってくれないか。エイミーもヘレンも僕が預る」

 僕は力強く「もちろんだ」と答えると、ヘレンをイェンスの横に並ばせた。彼が優しくヘレンの肩を抱くのを見届けてから、五感を開放すべく目を閉じる。

 深呼吸をした次の瞬間、大量の情報が一気に全身に流れ込んできた。そのあまりに支離滅裂な世界に思わずめまいと吐き気を覚える。しかし、情報の洪水と否応なしに飛び込んでくる不快な感覚に何度も溺れかけながらもひたすら感覚を研ぎ澄ませていると、微かにそれらしい兆候が途切れ途切れに放たれているのを感じた。そこに感覚を集中させると、今度はまるでラジオのように拾い、圧倒的な直感となって僕を取り巻いていく。僕はコンサート会場とは真逆の方向を力強く見据えた。

 「あっちの方向が気になる。行ってみよう」

 僕の言葉にイェンスはうなずいて返した。そこで五感を閉じた僕が先頭に立ち、時折振り返っては彼らがついて来ているかを確認する。不安そうな表情を浮かべているヘレンとは裏腹に、エイミーは笑顔を見せていた。何よりイェンスが非常に落ち着いた表情で僕を見ていたため、いつにもまして心強さがあった。

 十分ほど歩くと、遠くから女性の泣き叫ぶような声が喧騒の隙間から聞こえてきた。人だかりができており、かきわけるようにゆっくりと進んでいく。人だかりの中心には女性警官が憔悴しきった女性をなだめており、男性警官が誰かに連絡を取っているのが見えた。その女性の傍らで、うなだれるような表情の男性が立ち尽くしている。

 僕は振り返ってイェンスに合図を送った。彼は目が合うと、エイミーをゆっくりと降ろした。

 「ああ、ヘレン、エイミー!」

 その女性が叫んだ時、ヘレンが「ママだ!」と声を上げた。

 「待つんだ、ヘレン。エイミーと一緒に行かないと、ご両親がますます心配する」

 イェンスが咄嗟にヘレンの手にエイミーの手を握らせる。しかし、先にエイミーが「ママ!」と叫んだことで周囲の人間が彼女たちに気付いたため、瞬く間にヘレンとエイミーは彼女たちの両親の前へと導かれていった。

 「エイミー! どこにいた……ヘレン! ああ、無事だったのね」

 母親と父親がしっかりとヘレンとエイミーを抱きしめる様子を隙間から見届ける。僕が彼らから背を向けたその時、周囲からもどっと歓声と安堵の声が湧き上がった。イェンスも僕もほっとして胸を撫で下ろしていたのだが、街角の時計を見るなり一番大切な用事を思い出して青ざめた。

 「戻ろう。いい時間だ。少し急がないといけないね」

 僕たちは振り返りもせず、急いでその場から立ち去った。周囲の人たちの視線が何を意味するのかを気にかけながらもコンサート会場へと急ぐ。先ほど食事を取っていたレストランを過ぎると、ようやくイェンスを見た。彼は目が合うと微笑んだのだが、何か考え事をしているようにも見えた。

「今回はうまくいったから良かったけど、一歩間違えれば僕たちは誘拐犯にされただろうね」

 僕が彼の耳元でささやくと、彼は真剣な表情で「実を言うと同じ事を考えていたんだ」とささやき返した。このことがきっかけとなり、僕たちが普通の人間ではないことが露呈されてしまうのではないのか。何より人が多い場所で五感を全開したことによって受けた感覚にも僕は不安を覚えていた。拭い去ることのできない種々の不安からお互いに沈黙のまま歩き続ける。

 その不安や危険性を、先にイェンスが切り出した。同じ意見を持っていた僕は、彼の言葉にただただ同意していった。そういったあらぬ事態が引き起こされる可能性を含めても、人間社会で五感を開放にして人助けすることは何度でもできることでは無いのだ。そのことをお互い確認しあうと、その話題はそこで切り上げて話題を今夜のコンサートへと意図的に移した。会場は目前であった。

 無事に会場の敷地内へと到着する。急いで歩いていたことから、僕たちはうっすらと汗ばんでいた。

 「ああ、良かった。間に合った。少しジャケットを脱いで涼もう。といっても、たいして変わらないかもしれないが」

 イェンスが安堵の表情を浮かべながら上着を脱いだ。僕も上着を脱いで首元を少し緩め、数分ほど立って休む。ちょうどよく涼やかな夜風が吹き、ほてった僕たちの体を優しく冷やしていった。

 「開演まで十分ほどか。まだ暑いけど中に入ろうか」

 イェンスの言葉を受け、僕も緩めていた首元を直して会場へと向かった。テレビで観たオーケストラの迫力ある生演奏をこれから鑑賞するのだ。新年を祝う際に開催されるものより若干規模が落ちることは把握していたのだが、とはいえ僕たちは再び興奮と期待とで胸を高鳴らせていた。受付で座席の確認を済ませ、席へと向かう。舞台からはかなり離れていたのだが、僕たちとっては充分喜びをもたらすものであった。

 団員がすでに舞台上で待機しており、会場内もざわめいてにぎやかであった。着飾った老若男女がそれぞれ開演の瞬間を心待ちにしているように見えると、イェンスも僕も次第に無口になってその瞬間をじっと待つ。案内放送が入り、照明が少し落ち着いて会場内に独特の緊張感が漂う。それから数分して舞台の裾から指揮者が登場すると、会場はわれんばかりの拍手に見舞われた。

 知っているオペラの曲から始まった。僕は迫力ある音とやわらかく美しい音色に感動し、瞬く間に耳と心を奪われた。次に今まで知らなかった曲に巡り合って耳を傾ける。イェンスが僕の隣で静かに感動しているのがわかると、彼とこの体験を共有していることを心から喜んだ。

 指揮者が優雅かつ大胆にタクトを振り、時には微細な動きで曲をまとめていく。調和がとれたオーケストラが織り成す珠玉の音色は見事であり、素晴らしかった。遠くからでも演奏者が繊細な動きを見せているのがわかるため、美しい芸術を力強く表現している彼らに心からの賞賛を贈る。何百年か前に人々を魅了した音楽が、時を経てなお、僕たちの心に美しく響いているのだ。特に歴史ある地方国にいることもあって、そのことはいっそう感慨深かった。

 アンコール曲になると指揮者が観客席を振り向き、手拍子を促した。それに合わせて軽快な手拍子が会場全体に湧く。イェンスと僕も笑顔で手拍子をしているうちに最後の曲も終わり、轟くような拍手と歓声が会場内にしばらく響き渡った。極上の時間はあっという間に過ぎ去り、僕たちの旅の素晴らしい経験となって喜びをもたらしていた。

 ホテルまでの帰り道はイェンスも僕も興奮を抑え切れず、地下鉄に乗っている間も終始会話を弾ませていた。お互いに感動したところや、気に入った場面についてとめどもなく話し続ける。豪華な夕食に名門オーケストラの鑑賞はかなりの出費であったものの、お互いに非常に満足していたため話題にもならなかった。

 ようやくホテルに戻り、早速着替えてシャワーを浴びる。そしてイェンスが泊まる部屋で日程の再確認をしてから、自分の部屋に戻ってベッドに体を沈める。僕は素晴らしかった演奏と迷子の少女たちのことを思い返していた。ヘレンが僕たちのことをはっきりと記憶していないことを願いつつ、僕がこの旅行を通じて体験していることに想いを馳せる。ヘルマンと空港で邂逅したこと、祖母と兄が僕の虹彩の変化を受け入れたこと、ツェイドで同業者の男性と話したこと。その種類に富んだ内容に驚いたのだが、どの経験も僕には思い出深かった。ひょっとしたら、この瞬間も貴重な体験となっているのではないのか。旅行日程の三分の二が過ぎようとしてる今もなお、僕は旅全体を感慨深く捉えており、次に迎える体験を心待ちにしていた。

 それでもエルフの村が全く遠いとは思えなかった。ルトサオツィたちが今もあの場所で魔法を使用しながら生活している。その様を脳裏に描くだけで、僕の中の魔力が活き活きと駆け巡っていく。

 ふとリューシャが脳裏をよぎった。記憶の中の彼女は美しく、僕に優しく微笑みかけていた。彼女がドラゴンとして幸せに暮らすことを魔力を意識しながら願うと、またしても心があたたまった。しかし、嬉しかったのは一瞬であり、あっという間に冷たい隙間風が流れ込む。その風に吹き付けられるといよいよ切なさが増し、僕は唇をかみしめた。一方、その理由を深く掘り下げることや、その切ない感情に向き合うことにはどうしても抵抗があった。――僕は僕の本心を知りたくないのだ。

 リューシャのことを無理やり心の奥底に押し込め、明かりを消して暗闇をぼんやりと見つめる。

 ああ、一週間後にはドーオニツに戻っている。

 再びまとまりのない思考が渦巻いたのだが、僕はすっぱりと不毛な思考から離れ、ただただ目を瞑った。今は充分な睡眠を取って疲れを癒し、旅行を心から楽しむことのほうがはるかに重要なのだ。深呼吸を数回繰り返して体の力を抜く。ゆったりとした眠気を感じた後は記憶が途切れた。

 次の朝は気分良く目が覚めたので、颯爽と身支度を整えた。少しするとイェンスが部屋を訪ねてきて、一緒にホテルの朝食を食べに向かう。他の利用客もまた旅行を満喫しているらしく、食堂で目が合うことはあっても話しかけてくる人たちはいなかった。そのおかげもあってゆったりとした気持ちのまま朝食を楽しみ、チェックアウトまでをも済ませる。外は雲が多いものの晴れており、風が気持ちよかった。途中で貸衣装の店に服を返却してから地下鉄の駅へと向かう。何もかもが順調であった。

 ちょうどよくやって来た電車に乗り込むと、運良く席が空いていたので僕たちは並んで座った。すると後から乗車してきた十代前半ぐらいの少年二人が、何やら話し込みながら僕たちの近くに立った。

 「それで、警察官も周囲を探したんだけど、それらしい男性二人組はいなかったそうなんだ」

 眼鏡をかけた金髪の少年が、隣の帽子をかぶった少年に話しかけた。

 「でも、地元の人らしいんだろ、その迷子の少女たちを助けた二人組って。土地勘があったようだ、とさっき言っていたじゃんか。地元の大人ならいずれ見つかるんじゃないの?」

 その言葉を聞いた瞬間、イェンスも僕も思わず石像のように固まった。

 「そうなんだろうけど、旅行者かもしれないし。やっぱり女の子が相手の顔をしっかりと覚えていなかったのが残念だよな。でも、俺だったら名乗り出るね。いちやくヒーローだぜ」

 僕はその少年の言葉に安堵したのだが、念のため顔を伏せたままで彼らの会話に注意を払った。

 「俺だったら名乗り出ないな。なんかかっこ悪いじゃん」

 「けど、その女の子の両親がお礼をしたいと言っていたのは確かなんだよ。俺、周囲の大人がそう言っているの聞いたし」

 「きっとその人たちは女の子の両親が探していることを知らないんだよ。どのみち、お前はずっとその場にいたんだな」

 「そりゃ、通りがかったらそこそこ人だかりもできていたから、何があったのか気になるだろ? 見つかった後も周りの大人がずっとそのことで噂してたしね。ただ、女の子からの情報が少なくてさ。俺もちょっとだけその二人組を探してみたんだけど、暗かったのもあってすぐにあきらめたよ。それに今日学校が休みじゃなかったら、俺もそこまでいなかったし」

 「それさあ、その人たちが名乗り出ないで立ち去ったことに理由があるんじゃないの? 急いでいたとかさ、わかんないけど。でも、それがあえて名乗り出ないのなら、そのほうがやっぱり何十倍もヒーローぽくね?」

 僕はとうとうイェンスのほうを見た。彼は僕の視線に気が付くと静かに微笑んだ。

 「わかったよ、その話はもういいや。ところで、クラスのドロテがさ……」

 少年たちの会話は日々の学校生活へと移ろっていった。彼らはその後も迷子の話をすることはなく、二駅で降りていった。

 「明日のバレエが楽しみだな」

 イェンスがあえて違う話題で話しかけてきた。

 「そうだね、君の話を聞いてから興味はすごくある。それにしても僕たちの旅行は芸術三昧だな」

 僕がそう答えると、彼は優しい表情を浮かべた。

 「今回の旅行で気が付いたのだけど、君も僕も歴史的なものに触れているにもかかわらず、あれこれ歴史上の出来事について話し合うことが少ない。歴史を深く追求したり、進んで学ぼうともしない。一方で、長い歴史の中で受け継がれてきた伝統や価値観はその地方国固有のものであり、敬意を払いたいと考えている。でも、僕たちはどうやらそこで終わってしまうようなんだ。歴史的背景が隠されたものでも詳しく知ろうとしないまま、単に美しい芸術作品として鑑賞し、感動でため息をもらすだけだ。僕たちは都合よく現実的なのかもしれないね」

 イェンスとの会話はどこまでも心地良く、僕の心を穏やかに満たしていった。

 僕はこの長旅の間中、イェンスとずっと一緒にいても彼に飽きるどころか、ますます彼の魅力に惹かれ、また、彼との友情を喜んでいることに度々気が付いていた。大切な関係だからこそ、慣れ合ってなおざりにしたくはなかった。彼が僕の荷物を見てくれている時や道案内を買って出てくれた時、僕のためにドアを開けて待ってくれている時など、僕はこまめに笑顔を添えて彼に感謝の言葉を返した。移動中に彼が隣で眠そうにしている時は、そっと肩を差し出した。

 ささやかなことにこそ、僕は心を込めた。

 次の目的地のアティウェルヘの空港へと到着する。名高い山々が連なるこの地方国で、僕たちは雄大な自然を満喫し、バレエを鑑賞する予定であった。都市部を離れて僕たちが宿泊するホテルがある場所へ移動する間も、絶えずして風光明媚な景色が僕たちを出迎えるため、あっという間にこの地方国が持つ美しい自然にすっかりと魅せられる。ウボキやタキアの自然とはまた異なる表情を見せる自然の中で、人間が溶け込んで暮らしているのだ。そのようなことを漠然と考えながら、自然が魅せる原色の世界の美しさをイェンスと分かち合うこともまた心地良かった。

 少し早くにホテルに着いたものの荷物を預かってもらえたため、早速自然の中へと繰り出す。険しい山々が遠くに威風堂々とそびえ立つのを眺めながら、のどかな風景の中を自由気ままに散策する。ホテルに戻ってチェックインを済ませたのだが、今回はあえて同室にしたため、それぞれのベッドでくつろぎながら明日のバレエの公演場所を再確認した。ここから列車を乗り継いで二時間ほどの観光地にあることは把握していたのだが、当初の計画に少し手を加えてさらに調整していく。

 イェンスも僕も、計画どおりに物事が運ばないと気が済まないほうではなかった。実際の現地に赴いてから思い付きで行動を増やすことも多く、あるいはその場の雰囲気で当初の計画をあきらめることも何度かあった。しかし、僕たちはこの期に及んでなお、計画を練ることを楽しんでいたのである。

 ぐっすりと眠った次の日は、すぐさま行動を開始した。駅までの道程も、街並みや風景そのものが素晴らしく、僕たちはことあるごとに感動しては笑いあった。

 駅に着いて列車を待つ。ここでようやくドーオニツ人である男性二人組に会った。それはドーオニツ人ならよく利用している、地方国における居住者特権に関するインターネットサイトの隠語を彼らが口にしていたのを耳にしたからである。イェンスも僕もそのサイトを積極的に活用していなかったため、最初は離れた距離にいたのだが、彼らのほうから僕たちの立ち振る舞いからドーオニツ人だと判断して気さくに話しかけてきたのであった。

「やはり、そうでしたか。ドーオニツ人はどこか浮世離れしているって地方国で揶揄されますからね」

 褐色の肌に印象的な淡褐色の瞳をした男性の言葉に大きくうなずいて返す。その男性二人は僕たちと同じぐらいの年頃であり、どちらともA地区の出身であった。この地方国にある、比較的登頂しやすい山に登ろうとここを訪れたのだという。

 「君たちも観光ですか? それとも登山に?」

 もう一人の切れ長の目をした、精悍な顔付きの男性が僕に話しかけてきた。

 「いえ、僕たちは観光です。ここの美しい自然を満喫しようとやってきたのですが、急遽バレエの公演を観に行くことにしました」

 僕がそう答えると、彼らは笑い出した。

 「ああ、その気持ちもわかります。ドーオニツに無いものだらけで、何もかもが新鮮だ。僕たちも登山を終えたら、あちこち観て回る予定なんだ」

 彼らは笑顔を浮かべたまま、続けざまに小声で言った。

 「政府の監視下にあるとはいえ、驚くほど安い料金で移動して宿泊することもできる。高いといわれている住民税も物価も、他と比較してもそこまで高いとも思えない。厳しいと言われている規律も身分照会も、幼い頃から刷り込まれているから何の問題もない。ドーオニツ特権の良さは旅行に出掛けると本当に感じられるね」

 イェンスと僕がその言葉に笑顔で同意を示したその時、僕たちが乗る予定の列車がホームへと入線してきた。

 「では、お互い良い旅行を」

 お互いに笑顔で別れて列車に乗り込む。ボックス席の窓際にイェンスを座らせてやがて列車が動き出すと、僕は彼を押し潰すかのように体を近付けて車窓の風景に魅入った。

 「クラウス、君は僕をいいクッションだと思っているんだろう」

 イェンスが笑いながら話しかけてきた。

 「そうだよ。だから、そのままいいクッションでいて。ああ、見て! 羊の群れだ」

 僕は緑色の大地に点在する羊を見て、さらにイェンスを圧迫した。

 「本当だ、羊の群れだ」

 僕の下でイェンスが感嘆の声を上げる。

 「仲がいいのねえ」

 不意に向かい合って座っていた年配の女性に話しかけられた。僕たちは会釈を返すと「はしゃいですみません」と謝り、今度はおとなしく外の風景をじっと見つめた。イェンスが言うほど気にしていないことはわかっていた。彼は彼なりに周囲に気を配りつつ、僕が喜びを共有したくて彼に触れているのを受け入れてくれていたのである。

 目的地に到着するなり、イェンスが僕の肩を抱きながら言った。

「帰りは君を窓際に座らせよう。僕も仕返ししなければ気が済まない」

 彼の眼差しは相変わらず優しかった。

 「君、僕のクッションとしてご苦労だったね」

 僕はわざと尊大な態度で彼に答えた。すると彼は僕の頭をくしゃくしゃに撫で、それから僕を上から押さえつけるように抱きかかえた。

「言ったな! 帰りは絶対、君がクッションの役だ」

 「はは、歩き辛いよ、イェンス」

 「ちょうどいい支えだ」

 イェンスも僕も朗らかな笑い声を絶やすことなく、早めの昼食を取るためにカフェへと入った。中は混んではいたものの、ものの数分で席へと案内される。この辺りの特産品を使用した料理を食べると、そのあまりの美味さと濃厚な味わいにイェンスとともに感激しあった。つい笑顔がこぼれたその時、隣のテーブルに座っている男の子がこちらをじっと見ていることに気が付く。目が合ったのでその男の子に会釈をすると、男の子ははにかんだ笑顔を返してから隣に座っている兄らしき少年にささやいた。

 「ねえ、あの人たちの瞳の色、すごいよ。すごくきれいな緑色と紫色なんだ」

 するとその男の子の隣に座っていた少年も、僕たちの目を覗き込むようにまじまじと見つめ始めた。僕たちはその少年にも会釈をしたものの、すぐに彼らから視線を外してうつむく。相手が子供とはいえ、瞳の色を指摘されるのはやはり不安があった。その時、女性の鋭い声でその兄弟らしき男の子たちの名前を呼ぶ声が耳に届いた。

 「よその人をじろじろと見るもんじゃありません!」

 「だって、ママ、あの――」

 「言い訳はよしなさい。きちんと行儀よくしないと、もう連れて来ないわよ!」

 その咎める口調に男の子たちが「はい、ごめんなさい」と答える。しかし、僕たちはあえて彼らを見ることはしなかった。

 内心は僕たちのことがきっかけで彼らが叱られてしまったことを気の毒に感じていた。それでも適切な行動が思い浮かばないのである。悶々と食事を続けながらもふとイェンスを見ると、彼も申し訳なく思っていたのか、目が合うなり苦笑いにも似た表情を浮かべた。

 僕たちの食事が終わりかけた頃、その家族連れが先に食事を終えて席を立とうとした。気になってその男の子たちに再度視線を向けると目が合ったものの、その表情は母親に叱られたことで暗かった。そこで僕たちが彼らに微笑みかけると、その兄弟はあっという間に明るい笑顔を取り戻し、「バイバイ」と手を振って母親の後を追いかけていった。

 「瞳を隠せばいいのだろうね。でも、この美しい風景をサングラス越しで見るのはもったいない気がするんだ」

 イェンスが外の風景を眺めながら、ため息交じりにつぶやいた。

 僕は彼が本心を話していないことを見破っていた。僕たちの特殊な事情を凝縮して表しているこの瞳の色に、彼もまた誇りを感じているのだ。おそらくは言い得ぬ不安と希望を抱きながら。

 外に目をやると、建物と建物の隙間から澄んだ青空の下で青々とした草原が遠くまで広がっており、その向こうには切り立った山々が連なって見えた。

 「眩しい時は仕方ないけど、僕もなるべくなら裸眼で見たいんだ。誰かに聞かれたらたいした色ではないと言って、手短に話を切り上げよう」

 僕の言葉にイェンスが美しい眼差しで微笑む。彼の瞳にはまたしても言葉が浮かんでいた。その言葉を読み取ると、僕たちは周囲を見ることなくカフェを出た。

 先ほどの男の子たち以外にも僕たちの独特な虹彩の色に気が付く人は気が付くのだが、そのことで尋ねられても『生まれつきなので』と素知らぬ顔でうそぶいてやり過ごすようになっていた。そもそも僕たちは目立たないよう、それなりに配慮をしていた。必要以上に誰かと視線を合わせることはなるべく避けていたうえ、漠然と嫌な予感がしただけでもその対象から離れるようにしていた。僕たちは楽しみながらも、慎重に行動し続けていたのである。

 バレエの公演会場に到着する。近代的な外観を有するその建物は、意外と周囲の自然と融け合って調和されているように思われた。家族連れでにぎわう中、ふとあの男の子がここに来たのではないかと変に勘ぐり、視線を建物や自然にだけに向ける。そのままイェンスと一緒に窓口へ向かい、チケットに引き換えてから建物の奥へと進んでいく。

 座席は正面からやや逸れていたものの舞台に近かったため、期待で一気に胸がふくらんだ。イェンスがパンフレットを見ながら簡単な解説を添える。僕はそれを聞きながら舞台の幕が上がるのをじっと待った。やがて館内放送が入り、劇場内の照明が暗く落とされていく。

 舞台袖に指揮者が登場するなり拍手が湧いた。その指揮者は観客に一礼してからオーケストラピットへと降りて行った。それから少しの静寂が訪れ、序曲が流れ始める。僕は華やいだ気分でイェンスを見た。彼は実に優しい表情で僕を見つめ返すと、僕の手を握った。それは数秒の出来事であったのだが、彼もまた気持ちを高ぶらせていることが充分に伝わるものであった。

 ああ、いったい僕はこれからどんな感動を体験していくのであろう!

 幕が上がった。年末の飾り付けを施された大きな居間が舞台に現れた。家族と一緒に主人公の女の子が登場し、彼女の家の招待客に挨拶をしていく。僕は今まで何度か聴いたことのある有名な曲に感激しながら、華やかな舞台上をじっと見つめていた。

 どうして足先だけであんなに軽やかに踊れるのか。僕は次々と華麗に踊り続けるバレエダンサーたちの見事な技に感嘆していた。やがて女の子が真夜中の誰もいない居間で、プレゼントでもらった人形を見ているうちにさらに不思議な出来事が起こっていく。

 ねずみが暖炉から現れ、おもちゃの兵隊と人形とがねずみと争いを始めた。僕はその躍動感あふれる動きを熱心に見入った。それから女の子が人形を助けたことにより、人形が人間の王子に変身し、一緒にどこかへ旅立つ様子が雪とともに表現される。第一部の幕が下りる頃には、僕はその美しい世界にすっかり心を奪われていた。

 第二幕までの間も、僕はひっきりなしにイェンスに話しかけていた。彼が丁寧に僕の話に耳を傾けてくれているのが何より嬉しかった。

 「そうだろう、きっと君ならそこで感動すると思ったんだ」

 彼は美しい眼差しで僕を見つめ、耳元でささやいた。

 「だが、これからが本当に素晴らしいんだ。特に主人公の女の子がバレリーナに姿を変えてからは、超絶した技の数々がひっきりなしに披露される。有名な曲も多くあるから引き続き楽しんでほしい」

 再び照明が落とされ、第二幕が上がった。到着したお菓子の国で、女の子を歓迎するための踊りが始まる。どこかで聴いたことのある曲ばかりで、自然と笑顔がこぼれる。花を模したバレエダンサーたちが踊り始めると、僕は息の合った踊りと有名な曲にまたしても心を奪われた。

 踊っている人たちは幼少時から厳しい練習を重ね、自己を徹底的に管理しながら踊っているのであろう。目標さえも持てなかったかつての僕とは違い、ずっと彼ら自身と向き合って日々の努力を続けてきたからこそ、今この場で美しい踊りを披露できているのだ。

 その時、イェンスの言葉どおりに女の子があっという間にバレリーナに姿を変えた。さらに舞台袖から王子が現れ、二人で美しい音楽に合わせながら、なめらかで優美な踊りを見事に披露していく。

 やがて第二幕で登場した全てのバレエダンサーたちが舞台上に勢揃いし、フィナーレを迎えた。僕は彼らの踊りにもオーケストラの音楽にも圧倒されっぱなしであり、幕が下りて会場から惜しみない拍手と歓声があふれたことで、ようやく感動の中から我に返るほどであった。その喜びの中でイェンスを見る。彼は笑顔で僕を見つめ返すと、その瞳にあの美しい光をにじませた。

 子供たちのはしゃいだ声があちこちから聞こえる。幼い子供の心をつかむほど素晴らしかったのだ。場内に照明が戻り、観客が帰り始める。僕たちは混雑が収まってから会場を出ることにしていたので、少しばかりそのまま余韻にひたった。

 落ち着いた頃を見計らって建物を出る。少し歩くと涼しい風が運ばれてきたのだが、僕はずっと熱っぽい感動をイェンスに向けていた。彼は僕の言葉をやはり笑顔で受け止めており、「クラウス、やはり君は相当気に入ったようだな。いや想像していた以上だ」と言って僕の肩を抱き寄せた。

 「だって君、本当に素晴らしかったんだよ、音楽も踊りも。子供たちが歓声を上げた時は僕も嬉しかったよ。子供たちに夢を持たせるためだけではないことはわかっているけど、それでも優しく美しい世界だということがすごく良くわかったんだ。僕はすっかり魅了されてしまったようだ」

 自然が美しいところで芸術を鑑賞するのは、非常に心地良いものであるに違いない。目の前の風景が簡単に心の中を満たしていくからである。その後も僕はずっとイェンスと感激と感動を分かち合い、さらには地元の荘厳な自然の景色をも堪能してからようやく駅へと戻った。

 列車に乗ると、イェンスの言葉どおりに今度は僕が窓際に座らされた。

「クラウス、仕事の時間だ。HSコードの9404.90には何が分類される?」

 僕がわざとわからない振りをして答えた。

「ええと、確かこの間ミズゴケの輸入があったな」

「それ1404.90だ」

 さすがはイェンスであった。そのミズゴケの通関はたった一度であったにもかかわらず、彼は簡単に返答してのけた。

 「わかったよ、そこに分類されるのは枕やクッションだ」

 「素晴らしい回答だ」

 イェンスは僕にぐっと近寄ってやおら体重を乗せると、流れゆく美しい車窓の風景に感嘆の声を上げた。

 「なんて豊かな自然なのだろう!」

 「本当だね」

 雄大な風景に心を奪われた僕たちは、またしても外の風景に見とれた。

 可憐な花々が風に揺れ、草原全体が気持ちよさそうに波打つ。雲が踊るように流れ、その下で鳥が大気を操るかのように舞う。みなぎる生命力に満ちあふれた大地の中を、人間の技術の結集である列車が進んでいく。僕が見ているこの風景の中にも、草花などに小さな虫がくっ付いており、移ろう季節の中で彼らの命を喜びのうちに輝かせているのだ。僕の目の前の光景は命の輝きに満ちあふれた世界そのものであった。

 「君、非常に美しい顔をしていたよ」

 耳元でイェンスがささやいた。そこで僕が思っていたことを小声で彼に伝えると、彼は美しい眼差しで同意した。親しい人から共感を得るということは、何度体験しても飽きないのであろう。美しい自然を美しい友人と一緒に眺めることの贅沢さにも、僕はすっかりと魅せられていた。

 少しするとイェンスが寄りかかってきた。クッションの役割をしていた僕には何の問題も無かったのだが、どうやら彼は目を瞑っているらしかった。疲れて居眠りをしているのであろうと考え、そのままクッションの役目を担い続ける。

 風景は相変わらず僕の心を和ませた。視覚を開放し、本来の見え方で美しさを堪能しようかとも考えたのだが、この密閉された空間で五感を開放することにためらいも感じて思い留まる。僕はエルフの村で見た美しい自然を、目の前の自然に重ねた。あの時、息をのむほど美しい造形に心を奪われたのは、やはり本来の能力を全て開放していたからであろう。しかも解放された感覚に襲われることは無く、ただただ完璧な調和の世界の中に留まることができていた。

 体内にある魔力だけでなく、周囲に漂う魔力も僕たちに不思議な影響を与えていたに違いない。ヅァイドの最大魔力を浴びて生き抜いた時から、僕の中のわずかな魔力が魔力を求め続けてきたのだ。

 「ありがとう、クラウス」

 不意にイェンスが声をかけて僕から離れた。

 「どういたしまして。ねえ、イェンス。いいクッションだっただろう? 眠っていたの?」

 僕が笑顔を向けながら言うと、彼はやはり微笑みを浮かべ、耳元でささやいた。

 「いや、起きていた。少し周囲の視線が気になったのと、君に寄りかかりたい気分になったからそうしたんだ」

 彼の言葉に思わず車内を見回す。すると近くに座っていた若い女性たちと目が合って微笑まれた。僕は心に抵抗を感じながらも彼女たちに会釈を返すと、すぐさまイェンスに視線を戻した。

 「ごめん、全く気付かなかった。席を変わろうか?」

 僕が先ほどまで感じていた心の平安はあっさりと崩れ去っていった。

 「大丈夫だ。通路側だと君と自然だけを見ていればいいからね」

 彼は窓のほうに視線を向けたままであった。僕もその視線を追うように窓の外へと目をやる。

 美しい風景が流れるたびに、心の奥底がうずく。それに伴うように魔力が反応していく。窓ガラスに映った僕の紫色の瞳を見るのを避けて視線を奥に移しても、先ほど感じた抵抗に引っかかりを感じていた。

 ぼんやりと車窓の風景を眺めているうちに目的の駅へと到着する。どうやら彼女たちも同じ駅で降りるようで、座席を立つような素振りを見せた。

 「少し急ごう」

 イェンスの合図とともに急いで列車を降り、駅から離れる。彼女たちになんら悪いところはないのだが、僕は好意を持ってくれた相手に会釈を返したことにずっと心苦しさを感じていた。いったいこの心苦しさはどこから来ているというのか。

 それでも歩いているうちにだんだんと心の平安が取り戻されていく。体を動かすことは実にいい気分転換になっていた。

 遠回りしながらホテルに戻るその道すがら、どこかで食事を取ろうという話になった。涼しい風が何度かほほを撫でるたびに心地良さが残る。しかし、とうとう汗ばむようになり、つられて喉も渇いていった。途中で水を買い求めてさらに歩き回っていると、雰囲気の良いレストランを見つけた。そこで休憩もかねて食事を楽しむ。美味しい料理とあたたかいもてなしとですっかり回復した僕たちは、軽やかな足取りで再びホテルへ向かって歩き出した。

 ふと意識を向けると、空も雲も風も木々も、そして花や草など目に見えるもの全てが美しく見えて仕方がなかった。道を行き交う人々や動物のみならず、昆虫さえも圧倒的な美をまとっている。イェンスもまた、感慨深い表情で辺りを見回していた。ひょっとしたら彼も同じことを考えているのであろうか。

 これらの感動はもう何度も味わい、そればかりか似たような会話もすでに幾度となく彼と交わしてきたのだが、それでも僕はあの贅沢を再び味わいたくなっていた。

「イェンス」

「どうしたんだい、クラウス」

 僕は率直な言葉で感じていた感動を彼に伝えた。彼は時折微笑むと僕の言葉に何度も静かにうなずいて返した。

「やはり君もか。僕も飽きずにずっとその美しさに心を奪われていたんだ」

 その彼の瞳がまたも美しい光を放ったので、愛でるようにその眼差しを見つめ返す。目に見える全てが美しいと感じていられるのも、やはりイェンスのおかげなのだ。

 ようやくホテルへと到着した。部屋に戻るなり、二人とも倒れるようにそれぞれのベッドに転がる。今日は実によく歩いた。少し休んでから話し合った結果、先に僕がシャワーを浴びることにした。体を洗ってすっきりしたところでイェンスにシャワーを譲る。すっかり夜の帳はおりており、一日の疲れが僕たちのまぶたを何度か優しく揺すったのだが、僕たちはそれでも無心に夜空を求めた。

 ホテルの窓から二人並んで夜空を見上げる。ドーオニツでもうっすらと見えていた星や銀河の中心が、街明かりに消されることなく美しい星空として辺りを覆っているのを見て心が洗われる。僕が「そろそろ寝ようか」と言ってイェンスを見ると、彼は僕を抱きしめてエルフ式のキスをした。

「おやすみ、いい夢を」

 久しぶりのエルフ式の挨拶は唐突であったものの、彼との親密さが感じられて嬉しかったこともあり、同じように彼に返すことにした。

「おやすみ、イェンス。君もいい夢を」

 そっと顔を近付けてキスを返したのだが、少し緊張したことでぎこちなくなってしまい、つい笑い出してしまった。

「エルフのように自然と交わしているとは言い難いな」

 イェンスはそう言って笑ったのだが、このような関係になるまで起こった出来事も道程も、全てが貴い経験であった。心あたたまる素晴らしい思い出のみならず、嫌な思い出も悲しい出来事も、ひとつ残らず僕を成長させるための布石でなかったか。

 疲れもあり、それ以上の夜更かしをすることなくベッドの中にもぐりこむ。そこから眠りにつくまで、時間はほとんどかからなかった。

 鳥のさえずりに優しく起こされ、清々しい気分で朝を迎える。イェンスは隣のベッドですやすやと眠ったままであった。

 僕はその美しい寝顔をじっと眺めた。彼は人間でありながらほとんどエルフそのものと、エルフの村で賞賛を受けていた。ラカティノイアがイェンスを初めて見た時など、彼女は頬を赤らめていたではないか。ひょっとしたら、イェンスはエルフから見ても美しい見た目なのかもしれない。その彼が憧れているルトサオツィの美しさにも僕は感銘しっぱなしであったのだが、見慣れたはずのイェンスにも未だ感激していることを前向きに捉えていた。

 身を乗り出し、彼を起こさないように注意を払いながらそっと彼の頭にキスをする。それから物音をなるべく出さないよう身支度を整えてトイレから戻ったのだが、イェンスは目を覚ましたらしくベッドから起き上がっていた。

 「おはよう、イェンス」

 「おはよう、クラウス。ああ、やっぱり夢だったか」

 彼はそう言うと照れ笑いした。

 「どんな夢を見ていたの?」

 僕の質問に、彼は少しはにかんだ表情を見せて答えた。

 「美しいドラゴンが僕の頭にキスをしてくれたんだよ」

 その言葉を聞いて思わず僕の動きが止まった。

 「どうかした?」

 「いや、その、さっき君の寝顔があまりにも美しかったから、君を起こさないよう気をつけながら頭にキスをしたんだ」

 それを聞くなり、イェンスが神妙な面持ちで僕を見つめた。

 「やっぱり夢じゃなかったんだな。昨日も帰りの電車の中で感じたのだけど、君の雰囲気がユリウスやヅァイドに似ているんだ。それに一緒にいるとすごく落ち着く。僕が変なことを言っているのはわかっている。だけど、君に触れると僕の中の魔力が喜ぶんだ。だから昨日、あえて寝たふりをして君に寄りかかっていた」

 彼はベッドから降りると僕を抱きしめ、耳元でささやいた。

 「人前ではできないけど、室内でならできる。やっぱり君と抱き合っていると落ち着く」

 彼の素直な心情はただただ嬉しかった。そして僕にも気が付いたことがあった。確かに僕の中の魔力が心地良さと喜びを感じているのである。

 「魔力は魔力を持っているものを惹きつける、か。確かに今、僕も魔力が弾けているのがわかる」

 僕がそう言うとイェンスが僕のほほを撫でた。

 「僕たちは今、魔力の無い場所にいる。すると魔力が呼応し合うのは、どうしても君と僕との間だけになる。魔力というのは互いに惹き合わせることで高まると言っていた。異種族が固まって暮らしているのも、そういった理由があるのだろう。一人でずっといれば、弱まったり、薄まる可能性もあるのかもしれない。単なる推測にしか過ぎないのだけどね」

 「それでいくと僕たちはもう運命共同体のようなものだな。君は嫌でも僕にくっついていなきゃいけないんだ」

 僕は自虐気味に返したのだが、彼は静かな微笑みを崩さなかった。

 「君を嫌いになる理由なんて何一つ存在しない。クラウス、君を愛する理由ならいくらでも見つけられるけどね」

 その言葉に胸を打たれ、そっと彼の口にキスをして彼を抱きしめる。僕が感じている喜びに呼応するかのように動く魔力を感じながら、力強く僕を抱き返しているイェンスのことを想う。心がさらにあたたかい喜びで満たされていくと、もはや言葉はいらなかった。

 朝食を終えて少しだけ休むと、すぐに荷物をまとめてホテルを出た。駅で高速鉄道に乗り換え、流れゆく雄大な自然を目に焼き付けるように眺める。たくさん美しい風景に見送られながら、僕たちは次の最終目的地であるセンラフへと向かった。

 センラフは小雨であった。宿泊予定のホテルに荷物を預かってもらい、早速市街地へと繰り出す。有名な美術館が多いため、事前にイェンスと打ち合わせておいた道順に従って小雨の中を練り歩いた。美術館ではお互いの好きなように見て回ったらどうなるかという興味本位の疑問から、あえて別行動をするようにした。しかし、行く先々で彼と一緒になり、それどころかいつの間にか並んで鑑賞しているものだから、結局は一緒に行動したほうが確実であるという結論に至る。どうやら僕たちはとことん似通っているらしかった。

 時間を掛けて館内を回っているうちにあっという間に日が傾き、さらには閉館時間をも迎える。僕たちの胃はずいぶんとご機嫌斜めになっていた。

 「来る途中に見かけた、雰囲気の良さそうなレストランに行ってみない?」

 僕の提案にイェンスは笑顔を浮かべた。

 「君が気になったレストランだ、きっと美味しいに違いない」

 そこで僕たちはにぎやかな夜の街を、絵画の感想を話しながら移動していった。小雨はとうに止んでいたらしく、乾いた石畳の上をのんびりと歩いていく。

 途中でホテルに寄り、チェックインを済ませてから再度そのレストランを目指す。街角にあった古めかしい外観のそのレストランの入り口で、たまたま外に出ていた店員の女性と目が合った。

「あら、すごくかっこいい二人組ね。観光客?」

 弾ける笑顔を躱すかのようにやや言葉を濁しながらも答えたのだが、女性は意に介することなく「食事ね。二人ともいい男だからおまけしとくわ」と言って席に案内し、メニューを差し出した。

「……では、お願いします」

 僕たちの注文を聞いた店員の女性は朗らかな笑顔を見せた。

「その料理ならお勧めのワインがあるの。グラスワインをおごるわね」

 「ありがとうございます」

 僕たちは遠慮がちにお礼の言葉を返したのだが、その女性はさらに朗らかな口調で「今まで見てきた中で一番の美男子だから、今日は仕事が楽しいわ」と言い残して店の奥へと消えていった。

「あら、本当にいい男ね。どちらからいらしたの?」

 少ししゃがれた女性の声が聞こえてきた。声の主を辿ると、隣のテーブルで一人で食事を取っている初老の女性であった。土地柄なのかかなり洗練された装いであり、僕の両祖母にはない独特の華やかさがあった。

「ドーオニツから観光で来ました」

 イェンスが丁寧な態度で答える。それを聞いた初老の女性が驚いた表情で「ドーオニツですって?」と大きな声で聞き返したので、食事を楽しんでいた他の客までもが一斉に僕たちを注目したのがわかった。

 「ドーオニツってなかなか地方国の人は入れないのよねえ。アウリンコはなおさらなんでしょ? ねえ、ドーオニツ建国当時、この国からドーオニツに渡った人もけっこういたらしいんだけど、あなたのご先祖はひょっとしてこの国のご出身なの?」

 女性の口調はなめらかであった。しかし、僕は視線を集めているということもあり、やや緊張しながらその女性の質問に答えた。

 「いえ、僕たちの先祖は主にマルクデンの出身です。ですが、ドーオニツにはこの国に縁のある人もたくさんおりますよ。僕たちの勤める会社にも、祖父母がこちらの出身の者がおります。確かに地方国からですと、ドーオニツはなかなか訪れにくいところではありますが、短期滞在者の方はよく見かけます」

 それを聞いて初老の女性は目を輝かせた。

 「まあ、そうなのね。私も一度でもいいから行ってみたいと思うんだけど、規律だらけなんでしょ? すぐに息が詰まりそうねえ。でもセンラフ系が身近にいるだなんて、なんだか嬉しいわ。それにしてもドーオニツからここまで遠かったでしょう?」

 「そうでもないですよ。確かにドーオニツから飛行機で七時間と離れておりますが、東に進めば最初に辿り着く大陸ですから。それと、旅行者に対しては身分証明証を目に見えるところに携帯して派手な動きさえ見せなければ、そこまで厳しく注意を受けることはありません」

 その時、近くのテーブルで食事を取っていた若い男性二人組が、屈託のない笑顔を向けて僕たちに話しかけてきた。

 「すみません、聞きたいことがあるんです。ドーオニツに移住するのは大変と聞きますが、やはりそうなんですか? 実を言うと、少し憧れているんです」

 その質問に他の客たちも僕たちに視線を向ける。どうやら、僕たちの回答に関心があるらしかった。会話が止まった店内で、イェンスが微笑みながら丁寧な態度でその質問に答えた。

 「そのようですね。移住するためには試験に合格する必要がありますし、その後も審査や面接を何度か受けないといけないようです。しかも最初の数年間は必ずドーオニツ居住者身分証明証を携帯しなくてはなりませんし、五年経ってようやく永住権を獲得したら、次は複雑な身分照合制度にも慣れる必要があります。その身分照会を受ける機会はかなり多いうえ、自分専用のパスワードを覚えられないのであれば、結局は身分証明証を常に携帯し、簡易パスワードを都度認証機器に入力したうえで二種類の生体認証を受けなくてはなりません。慣れればどうってことは無いのですが、アウリンコやドーオニツはやはり独特ですから、地方国よりは自由が感じられないと思います」

 それを聞いた二人組のうち、栗毛色の短髪の男性がため息をもらしながらつぶやいた。

 「やっぱり俺には無理そうだ」

 もう一人のドレッドヘアで褐色の肌を持つ男性も難しい表情を見せて黙り込む。しかし、何かを思い出したのか、初老の女性の会話を遮って僕たちに再び話しかけてきた。

 「ユリウス将軍を見かけたことはありますか?」

 その思いがけない質問に、僕たちは思わず首を強く横に振って否定した。イェンスを見ると彼は目で合図を返し、一呼吸置いてから落ち着いた口調で彼らに答え始めた。

 「いえ、ありません。アウリンコにいても滅多に見られない存在です。政府要人がいる場所は特に警備や監視が厳しく、政府関係者と一目でわかるバッジか身分証明証を常に提示していないとすぐに職務質問を受け、場合によっては監視対象下に置かれてしまいますから、特に用がない場合はそもそもアウリンコ中枢部へは近付かないほうが無難なのです」

 「そんなに厳重な警備体制を敷いているんですか? アウリンコもドーオニツも規則だらけなのに? 憧れているんですけど、やっぱり大元帥と大臣も兼務となれば、滅多に見られないのかあ」

 二人の男性は落胆した様子であった。僕はユリウスと聞いて、ここセンラフ出身であるクロードを思い出していた。クロードは憧れであったユリウスから直接指示を受けるようになるまで、必要な鍛錬と勉強を日々怠ることなく彼自身の才能をさらに価値あるものへと開花させていったに違いない。かつての僕なら、きっとその日々の地道な努力がもたらす成果に価値を見出そうともしなかったであろう。そのクロードは、今も特別監視区域近辺で誇りを胸に抱きながら任務にあたっているはずなのである。

 その男性二人に初老の女性がなぐさめの言葉をかける。短髪の男性がお礼の言葉を返すと、初老の女性が言葉を続けた。

 「ユリウス将軍は確かにいい男ね。雰囲気も独特で、若い時は腕のいいパイロットだったもの。あの人に憧れてパイロットを希望する人が続出したのよね。でも、あれで未だに独身だなんて、信じられないわ。周りの女性はなぜほったらかしにしているのかしら。もっとも今でも充分、年齢の割には見た目が若いけど。たしか、五十を超えたぐらいなのよねえ」

 「そうなんです。あの独特の雰囲気に憧れるんです。背も高いし、体も鍛えてあるから見た目もかっこいい、なのに親しみやすいところもある。国立中央アウリンコ校を特別コースの首席で卒業されてすごく頭もいいのに控えめで、大統領や他の閣僚のみならず、目下の存在にも紳士的で敬意を払っているところも好きなんです。実は俺、軍に入隊してパイロットを目指そうかと思ったんですけど、もともと乗り物酔いしやすくて諦めたんです。今は違う仕事に就いて、それなりに楽しいからいいんですけどね」

 褐色の肌を持つ男性はそう言うと僕たちを見た。

 「話を聞かせて下さってありがとうございます。どうぞ、良い旅を」

 「いえ、こちらこそありがとうございます」

 会話が終わると店内が案外と落ち着きを取り戻し始めた。先ほどの店員の女性が料理とグラスワインをテーブルに置き、ウインクしながら「素敵な食事を」と声をかけて去って行く。

 隣のテーブルにいた初老の女性は食事を終え、席を立とうとしていた。僕たちがお礼の言葉を伝えると、その女性は「あなたたち、この国を楽しんで行ってね」と朗らかな笑顔を見せて颯爽と去って行った。

 料理もワインも実に美味しかった。行く先々で美味しい料理に恵まれるのは、明らかに旅の思い出により鮮やかな彩りを添えるものであった。食事を終え、件の店員に声をかけてワインのお礼を伝える。すると彼女は「その代わり、ドーオニツに戻ったらこのレストランの宣伝をたくさんしてね」と茶目っけたっぷりに返したので、僕たちもつい笑顔で「必ずそうします」と返した。

 二人組の若い男性にも挨拶をしてレストランを出る。まだ夜の八時にもなっていなかったため、街は相変わらずにぎやかであった。少しだけ遠回りして夜の雰囲気を楽しむ。それでも九時前にはホテルに戻り、心地良い疲れもあったことから早めに休んだ。

 次の日は朝早くから行動を開始した。最初に歴史的に有名な建築物いくつか見学し、それからアウリンコ国立美術館に匹敵するほどの大きな美術館を目指す。美しい街並みの中で年齢や性別、人種の多様性がもたらす人間の外的特徴に僕たちが埋もれていることを願うのだが、それでもわずかに視線を感じるとイェンスと苦笑いを浮かべて「もっと工夫しないとな」と話し合った。

 その多様性を持つ人々の中には、僕たちの瞳の色が埋もれてしまうほどの奇抜な格好をした人、もちろん美しい男女も数多く見かけたうえ、優しい眼差しを持っている人、あの美しい光を瞳に宿している人も数多くいた。その一方で荒んだ形相の人、何かしらの意図があるのか、しつこく他人にまとわりつく人もそれなりに見かけた。特にまだ十代にも届いていないであろうと思われる子供が、観光客を利用してお金を搾取しようとしていることに気が付くと心が痛んだ。

 彼らにも無償の義務教育が広く行き渡っているはずなのだが、この旅行は僕が今まで知ることもなかった様々な人間模様と社会の綻びとを感じる機会にもなっていた。義務教育で道徳を学んでいるはずの子供が、なぜ犯罪に手を染めていくのか。

 ユリウスがかつて話していたことを思い返す。エルフたちがもたらした外殻政府の構造は、ほとんどの面において成功をもたらしているのであろう。外殻政府が発足して数十年のうちに、世界中を巻き込むような大きな争いも極端な差別も減ったという報告はかつて授業でも学んだことであり、現在でも一定の効果があると考えられていた。

 しかし、どうしても相容れない人、想定している枠内に収まりきらない人は一定数いるのであり、そういった人たちが社会に不満を持ち、あるいは疎外感を持つことも当然起こることであった。よくよく考えればイェンスも僕もその当事者で、しかもかなりの少数派に属しているではないか。それでもシモとホレーショは受け止めてくれた。ルトサオツィたちも僕たちという存在を受け入れてくれた。いや、異種族こそが人間の多種多様な個性を認め、最終的には個人の存在自由を尊重しているのではなかったか。

 そのことを踏まえて改めて目の前の光景に目を向ける。僕が今まで社会の一面しか見てこなかったのは、ただ単に世間知らずなだけであったのであろうが、いずれにせよドーオニツではほとんど見かけることの無い個性の多様性は示唆に富むものであり、混とんと秩序が入り乱れているようであった。

 その一方で、地方国にはドーオニツには無い素晴らしさもたくさん存在していた。それは長い歴史と伝統の継承であり、固有の文化であり、自由であり、大自然の営みであり、人と人との飾り気のない触れ合いであった。その地方国の自由が実に幅広くて深いことは旅を通じてさらに実感していたのだが、それでも僕は慣れ親しんだドーオニツを恋しく感じていた。規律だらけで自然も少なく、そのうえ窮屈さもあるドーオニツにまるっきし幻滅することは無かったのである。

 どうやら僕は生粋のドーオニツ人らしい。そのことを自覚すると、僕が人間社会にいる間は故郷のドーオニツに住み続けようと思いを新たにする。故郷を特別に思うのは、きっとどの地方国の人でも同じであるに違いない。父がそうであったように。

 大きな美術館に到着する。早速中へと入ると、今度はなるべく一緒に回ることにした。僕が驚いたのは、美術館の中がアウリンコ国立美術館に類似している点が数多くあることであった。いや、この美術館のほうが歴史と伝統があるのだから、アウリンコ国立美術館がここを参考にしたのであろう。美しい絵画や彫刻、見事な調金細工などを鑑賞しては感嘆する。広い館内を一通り回ると、昼食を取るべくあえて一度外に出た。クロードに教えてもらったカフェでまたも美味しい料理を味わい、ついで近くの通りを散策する。それから再び美術館に戻ると、待ちかねていたかのように鑑賞を再開した。イェンスも僕も、この広い美術館で一日のほとんどを過ごすことに全く退屈していなかった。

 次の日も、朝早くから鉄道を利用して郊外にある美術館へと向かった。そこで絵画の世界のような美しい自然と、自然と調和しているかのような絵画を思う存分堪能する。やわらかい光を表現している絵画は外の世界と穏やかに一致しているようで、イェンスも僕もただその調和された美しさを熱心に見つめた。

 そのような場所でも他人からの熱っぽい視線はあった。僕たちを見つめる女性たちにも固有の美しさがあることは理解しているのだが、それでも彼女たちに興味を抱くことはやはり無く、会釈を返すことにすらかなりの抵抗があった。

 洗練された大人であれば、深読みすることなく気軽に会釈を返して颯爽と振る舞うのであろう。しかし、子供じみた癖が抜けないでいる僕には、象を小指の先だけで持ち上げることより難しかった。

 ふと、どこかで嗅いだ甘く懐かしい匂いが鼻先をかすめる。だが、僕はその記憶を辿ることを無意識のうちに避けてしまった。懐かしい匂いも視線を送る女性たちも、結局のところ僕とは全く縁がなかった。関りがあるのは最初のうちだけで、特に普通の女性が僕の本質を知った後は、まるっきり手に負えないと判断することは容易に想像がついていた。そうであれば、最初から関わらないほうがお互いにとって最善ではないか。今は目の前にある美しいものを体感することだけに専念しよう。

 ホテルのある大きな町まで戻ると、今度は歴史的建造物を観光した。いくつか名所を回っているうちにあっという間に夜を迎える。地方国で迎える最後の夕食は、落ち着いた雰囲気のレストランで取ることにした。せっかくなので少しだけ豪華な食事を楽しもうと、酔うこともないスパークリングワインを注文し、気持ちが華やぐ。明日の夕方にはこの地方国を離れ、いよいよドーオニツに戻るのだ。途中で日付変更線をまたぐため、ドーオニツに到着するのは土曜日の昼である。イェンスとそのことを話し合っていたのだが、その実感はあまりにも薄かった。

 ホテルに戻ると受付の人に呼び止められ、雑談が始まった。その親切な受付の男性が、明日のチェックアウト後も夕方まで荷物を預かることを申し出てくれたため、素直に甘える。それからそれぞれの部屋に戻ると、荷物の整理にあたった。行く先々で少しずつ増えていったお土産により、スーツケース内の空きはほとんど無くなっていた。睡魔と格闘しながらシャワーを浴び、ベッドに寝転がる。ぼんやりと意識を閉じると、あっさりと眠りの世界へ沈んでいった。

 次の日にチェックアウトをする際、ホテルの受付が別の女性に変わっていた。念のため昨晩の話が有効かを確認すると話が伝わっていたらしく、お礼の言葉を添えて再び荷物を預ける。旅行最終日は晴れており、気持ちのいい風とともに始まった。今日は鉄道を利用し、郊外にある有名な歴史的建造物である宮殿を目指す予定である。そしてそこがこの旅行最後の目的地であった。

 到着すると、美しい装飾がなされた門の前をすでに様々な人種の人たちが並んで開場を待っていた。地方国が長い間育んできた文化と伝統とで他の地方国民を魅了することは素晴らしいことであるに違いない。いろいろな文化が新しい価値観と出会うことで、さらなる発展が待ち受けているかもしれないからである。もちろん、きれいごとだけではなかった。中には相容れずに衝突してきた事実もまた、歴史上数多く存在していた。それでも、お互いの個性を尊重し合いながら共栄の方法を常に模索していくことは、異種族がそうであるように、非常に重要でかつ価値のあることではなかったか。

 そのことをイェンスと話し合っているうちに列が進み、ようやく建物内部へと入る。イェンスにとっても初めての訪問らしく、彼もまた足を踏み入れた途端に目を輝かせた。

 その内部は驚くほど絢爛豪華で、様々な美術品で装飾されていた。美しい宮殿の前に広がる広大な庭園も整然と管理され、かつての栄華を華々しく思い起こさせる。そのあまりの広さに、まずは宮殿内部をやや急ぎながら鑑賞した。そして簡単な昼食を取ってから、時間の許す限り庭園も散策していく。

 手入れされた花壇を眺めながら移動している途中で、家族連れの父親らしき人にカメラのシャッターを頼まれた。そこで女の子と男の子を両親の間に挟んで彼らの写真を撮る。自然な笑顔がカメラに収まったのを確認してもらうと、その父親が明るい笑顔を僕たちに向けた。

「ありがとうございます。その、あなたたちは写真撮らないのですか? よろしかったら私が撮りましょうか?」

「いえ、僕たちは大丈夫です。良い一日を」

「そうですか、あなたたちも良い一日を」

 その家族連れはあたたかい笑顔を残してにぎやかに去って行った。

 実を言うと、今回の旅行で写真を撮ったことはほとんど無かった。イェンスも僕も脳裏に焼き付けるようにじっと対象を観察していた。エルフの村で見た風景、マルクデンで見た街並み、そしてアティウェルヘの雄大な自然も全て、僕たちはその時に感じた風や空気の匂いまでをも鮮明に覚えていたのである。

 そのことに意識を向けながら目の前の風景を眺める。今僕が立っているこの位置で、かつて誰かが同じように風景を眺めていたに違いない。それが数分前なのか、数百年前なのか、いずれにせよ僕たち以外の誰かが同じ風景を共有していることは当然のことなのだが、時間が重ならないことによって誰かと同じ風景を共有するということを、僕はどこか奇妙なことのように捉えていた。

「そろそろいい時間だな」

 イェンスが空を見上げながら言った。鳥が数羽、気持ちよさそうに大空を羽ばたいている。僕はその光景をなんとなしに目に焼き付けると、後ろ髪引かれることなくその場を後にした。

 荷物を預かってもらっていたホテルまで戻り、宮殿内で買ったお菓子を受付の女性にお礼がてら手渡す。その女性の弾んだ笑顔に見送られると、いよいよドーオニツに戻るべく駅に向かった。

 電車に揺られて地方国最後の空港最寄り駅に到着する。

「戻ろうか」

 イェンスと顔を見合わせて微笑み合う。いよいよ最後だと思うものの、不思議と気分は落ち着いていた。

 出国手続きも済ませてもなお、飛行機の出発の時間まで少しだけ余裕があったため、カフェに入って軽食を取る。僕たちがサンドイッチをほおばっていると、隣の席で一人静かにコーヒーを飲んでいた中年の男性が荷物を手に去っていった。彼がどこの地方国出身かはもちろん知る由もないのだが、広い世界から一瞬でも隣に居合わせた人がまた広い世界へと去っていくことは感慨深いものであった。

 やがて搭乗時間を迎え、ユリウスとシモとホレーショに予定どおりの飛行機に乗ることをメールしてから飛行機内部へと進んでいく。席を見つけるなり、今回も窓際をイェンスに譲ることにした。

「いろんなことがあったな」

 イェンスが窓の外を見ながらつぶやいた。

「本当だな。だけど、君がいたおかげで全てにおいて楽しかった。イェンス、君には本当に感謝している」

 僕がそう言うとイェンスは振り向いて僕のほほに素早くキスをし、微笑みながら言葉を返した。

「ありがとう、クラウス。僕も同じ気持ちだ。君という大切な存在がいたからこそ、僕は三週間ずっと喜びと感謝の中に浸っていることができたんだ」

 彼の眼差しが本当に美しかったため、僕は思わず照れて「君にそう言ってもらえて嬉しいよ」と伝えたのだが、イェンスとの友情がこの旅を通じてますます深まったことは何よりも貴重な経験であった。

 飛行機が動き出し、ぐんぐんと加速していく。僕は遠くを眺めるイェンスの美しい緑色の瞳を見ているうちに、魔力を得たあの経験を思い返していた。ルトサオツィに連れられ、ガラス張りのような空間でリューシャとヅァイドに対面したあの時、僕は人類史上初の道を進むことを選んだのだ。しかし、思考を掘り下げるにつれ、だんだんと淡い喜びと物悲しい気分とが入り混じってきたため、意図的に彼らを思考から締め出す。その代わりにルトサオツィとラカティノイアとラエティティア、そしてアウラに思いを馳せることにした。彼らは本当に美しく、あたたかい人柄であった。

 飛行機が上昇するにつれ、さらにこの旅行で訪れた地方国の風景や、タキアの祖母や兄との思い出に思いを馳せる。いったい、僕はこの旅行でどれほどの素晴らしい体験を得てきたのであろう?

 僕たちを利用とした人たちですら、今頃無垢の笑顔を心許せる相手に見せているのかもしれない。そう考えると、あの時感じた不快な気分が遠のくようである。今回の旅行で出会った全ての人々が笑顔でいられますように。そう考えるだけで僕の心は軽やかに広がった。

 その思いを胸に抱きながら、だんだんと離れていく大地に心から祝福を贈った。

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