第26話

僕はまどろんでいた。清らかな世界と優しい世界とが僕を包み込んでいるのを感じながら、やわらかい光の中を進んでいく。その光は僕を受け入れ、優しく守っているように思われた。

 (クラウス、あなたは美しい存在だわ。どんな時でも自分自身を無償の愛で包むことを忘れないで)

 まどろみの中で女性が僕にささやく。僕はその声がするほうへと体を向けると、その声に向かって尋ねた。

 『僕は今でも美しいだろうか、自分自身を愛するのに相応しい存在だろうか?』

 すると、さらなる光が優しく僕を包み込んだ。

 (クラウス、あなたは気付いているわ。あなたという素晴らしい存在に、あなたの中の美しい愛に。あなたはもう孤独ではない。『自分』という無償の愛を与える存在を得たんですもの)

 その時、その声の主が僕の頭に触れ、僕の両目を軽く覆うと僕の口に優しくキスをしていった。そのキスがあまりにも生命力にあふれた感覚であったため、僕はこれが幻では無いことを感じていた。

その思考に気が付いた瞬間、僕ははっと目が覚めた。

やわらかな日差しが窓から舞い込む室内は、僕の他には誰もいなかった。それでも僕の唇にははっきりとした感覚が残っており、全身が優しい香りに包まれていた。僕はその感覚を大切に受け止めると、穏やかな気持ちを感じながらはっきりと口に出して言った。

 「ありがとう、リューシャ。君の言葉を忘れない」

 あたたかい感情が全身から湧き上がり、力強さが再び僕の中でみなぎる。それと同時に、内側からみずみずしい生命力があふれていく。

無償の愛で自分自身を包み込もう。

僕はそっと誓うと身支度を整え始めた。シャワーをしばらく浴びていないことにも気が付き、バスルームで体を洗い、シャワーを浴びる。快適なお湯が出ても、この場所がどこで、なぜ僕が望むものが完璧に備わっているのかなど気にも掛けなかった。ただ、感謝の気持ちだけは絶えず湧き上がっていた。

着替えを済ませると再び空腹を覚えた。冷蔵庫の中には新たな食材が追加され、パンもいつの間にかテーブルの上のかごの中に入っている。僕は感謝の気持ちでそれらを調理すると、静かな気持ちで食べた。開いた窓から小鳥のさえずりが聞こえてくる。目を向けると自然の中で蝶々が舞い、美しい花々が風にゆられているのが見えた。

 (なんて美しいのだろう)

 僕は心の中で何度も何度も感嘆しながら、その美しい世界を見つめた。見つめているうちに、その美しい世界が存在していることに対して感謝の気持ちが湧き上がる。その気持ちをしっかりと抱きかかえると、そこに存在する全ての美しいものがさらに繁栄するよう、心から祝福を贈った。

 食器を洗って室内を簡単に清掃しているうちに、荷物をまとめて外に出なければという思考が離れなくなった。それが何度も何度も強く押し寄せてきたため、意を決して荷物をまとめ、行く当てもないまま小屋を出ることにした。

 美しく澄んだ空の下で優しい風が穏やかに流れる。生物の持つ原色と生命力にあふれた空間の中、誰もいない小屋を振り返って見つめる。僕の居場所はそもそもそこでは無いのだ。僕はスーツケースをしっかりと手に持つと、風に導かれるように進み始めた。

歩いているうちにあの小屋に対しての関心が徐々に薄れ、振り返って確かめようとする気概さえも無くなる。足元の美しい花々に癒され、立派にそびえ立つ木々のたくましさに感動しながら一人、道らしきところをどこまでも歩く。近くで鳥の大きく羽ばたく音が聞こえた時、見たことのある光に突然包まれた。

眩しさで目がくらみ、腕を上げて顔を覆う。少しして目が慣れてくると、先ほどまで歩いていた場所とは異なる林の中におり、曲がりくねった山道の先に一人のエルフが歩いているのが見えた。

僕は久しぶりに誰かを見た喜びから、思わずそのエルフに向かって駆け出した。そのエルフの姿が徐々に近付き、姿形を鮮明に捉えられると思わず大声で叫んだ。

 「イェンス!」

 彼は僕の声に反応して振り返るやいなや、僕を見つけて大声で返した。

 「クラウス!」

 どちらからともなく駆け寄り、再会を喜んで固く抱き合う。僕はイェンスの存在を確かめるかのように、彼の背中を強く撫で続けた。

 イェンスだ!

僕の美しい友人にまた会えた――。

感激からとめどなく涙があふれ出す。彼の温もりや息遣いはまさしく生命そのものであった。

 「良かった。また君に……君に会えた」

 「僕もさ、クラウス。ずっと君に会いたかった。君が泣き叫んでいる姿を離れた場所から見ていたんだ」

 彼は涙声でそう返すと、僕の耳元で鼻をすすった。その言葉に驚きを覚えたものの、彼と再会できた喜びから咄嗟に返す言葉が見つからず、無言のまま彼を抱きしめ返す。

風がほほを撫でる。だんだんと落ち着きを取り戻し、どちらからともなく離れた。そこでようやくしっかりと顔を向かい合わせたその時、イェンスが非常に驚いた表情のままで固まってしまった。僕も彼の瞳が濃さを増しただけではなく、彼自身があまりにもエルフのような雰囲気を美しく醸し出していたものだから、しげしげと彼を見つめ返した。ところがイェンスはなおも困惑した表情で、僕の目を凝視したままであった。

「イェンス、どうかしたの?」

彼の様子に不安を覚え、おそるおそる尋ねる。すると彼は一つ呼吸をし、それから声を絞り出すように言った。

 「クラウス、その瞳の色は……?」

 「瞳の色?」

 僕はしっかりと自分の顔を見ていなかった。しかし、彼の言葉に思い当たる節があり、当惑しながらも彼に尋ね返した。

 「ひょっとして紫色なのか?」

 イェンスが無言でうなずいたことに対し、衝撃のあまり言葉を失う。その事実を僕自身が確認しようにも、二人とも鏡を持ち合わせていなかった。

 その時、力強い風が僕たちの間を流れ、木々が揺れた。その風に乗って遠くから僕たちの名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

 「ルトサオツィだ」

 イェンスが辺りを見回しながら言った。

 「君はずっと一緒じゃなかったのか?」

 「君がどういう経験をしたのかはわからないけど、僕は彼らから魔力を授かった後、ずっと一人でいたんだ」

 彼はスーツケースを持って歩き始めた。

 「行こう。ルトサオツィが僕たちを迎えに来てくれたんだ!」

 イェンスの言葉に僕も再び歩き始める。ルトサオツィの姿は見えないのだが、どこにいるのか、声だけは届いていた。やがて森が開け、視界が広くなると再び光が僕たちを覆い、次に気が付くと遠くにルトサオツィがこちらに向かって立っている光景が飛び込んできた。

 「イェンス! クラウス! 良かった。君たちが無事で良かった!」

彼は僕たちを見つけるとすぐさま駆け寄り、はじけるような笑顔で僕たちを交互に抱きしめた。そして僕の口に軽くキスをし、「ああ、君はすっかりドラゴンの魔力を自分のものにしたのだな。君の美しい紫色の瞳が全てを物語っている」と感慨深げに言って笑顔を見せた。

しかし、僕は彼の思いがけない行為に動揺していた。その困惑している僕を見て、ルトサオツィが微笑みながら言葉を足した。

 「ああ、驚かせたようだね、すまない。親しい人にキスを贈るのは主にエルフと妖精の習慣であり、親愛の表現なのだ。私たちは言葉を用いて魔法を使うが、魔法は使い方ひとつで相手を傷付けてしまう。それゆえ、太古から成人した男性の挨拶として、互いの口を閉ざして合わせることで敵意が無いこと、自分が味方であることを示しているのだ。もっとも今では成人した女性も同じ挨拶をするのだけどね」

ルトサオツィがそこまで僕を受け入れてくれている。会った回数が少ないうえに特別な縁が無いにもかかわらず、彼が僕に親愛の表現を示してくれたことは素直に嬉しく、すんなりと彼の好意を受け止めることにした。

ルトサオツィはイェンスにも同じくキスをした。イェンスがはにかんだ表情でルトサオツィを見つめると、彼は「君はまぎれも無くエルフそのものだ、おめでとう」とイェンスを再び優しく抱きしめた。

「ありがとうございます。あなたは僕の憧れでした。今もそうです。本当に光栄な気分です」

イェンスが喜びを顔中に表しながら伝える。しかし、僕を見るなり「そうだ!」とはしゃいだ声を出してルトサオツィを再び見た。

「クラウスはまだ彼の瞳の色を確認していないのです。鏡か何かを持っていませんか?」

イェンスの言葉にルトサオツィは朗らかな笑顔を浮かべた。

「そういうことなら、これで確認できるだろう」

彼は腰にぶら下げていた鞄のような袋から磨かれた銀製の小物入れを取り出し、僕に手渡した。そこでおそるおそる小物入れを覗き込むと、僕の瞳は見慣れた灰色の瞳から確かに紫色へと変わっていた。それは魔力を授けたリューシャと全く同じ色であった。こうなる可能性があったことは、あの不思議な空間にいた時に思考を深く練っていれば、予測もつけられたのかもしれない。しかし、あの場所で僕自身を受け入れようとしたことさえ、僕には奇跡のようなものであった。

この紫色の瞳に相応しいよう、ドラゴンに応えたい。僕に魔力を与えたことが無意味であったと彼らが落胆することの無いよう、とことん成長していくしかないのだ。

 僕は誓いを新たにすると、ルトサオツィにお礼を伝えながら小物入れを返した。ルトサオツィは「いい眼だ」と微笑み、さらに言葉を続けた。

 「よし、私の住む村へと行こう。妹も君たちの帰りを待っている」

 彼の言葉を聞き、元の世界に戻ってきたのだという気持ちがいっそう強まる。

 「ありがとうございます。僕たちはどうしたらいいですか?」

 イェンスがはにかんだ様子で尋ねた。

 「君たちは今や魔力を立派に保有している。私が行うような魔法を扱えるほどではないが、それでも君たちの魔力に力強さを感じる。私一人の魔力で君たちをウボキ村へと移動させよう」

 そう言うと彼は両手を広げたので、イェンスも僕も彼の腕にしっかりとしがみついた。どこまでも頼もしいルトサオツィにしがみついているだけで、言いようもない安心感が芽生える。ルトサオツィが精神を集中させて不思議な言葉を発するにつれ、僕たちの周りを奇妙な光が取り巻く。その光が落ち着いて視界が開けた時、僕たちが手入れの行き届いた花壇のある庭の片隅に立っていることに気が付いた。

ここがウボキ村なのであろうか。ルトサオツィにお礼を伝えて彼の腕を離す。辺りを見回すより先にラカティノイアがどこからともなく現れ、笑顔で駆け寄ってきた。

 「イェンス、クラウス。良かった、あなたたちは無事魔力を自分のものにできたのね」

 彼女は嬉しそうに僕たちを見つめていた。僕はすぐさま彼女の言葉に感謝を伝えたのだが、なぜかイェンスは押し黙ったままであった。気になって彼の様子を伺うと彼はじっとラカティノイアを見つめており、僕が今まで見たことのない、不思議な表情を浮かべていた。

ラカティノイアは彼の視線が重いのか、視線を下に向けた。しかし、よくよく見ると、その表情ははにかんでいるようにも見えた。彼らの間に流れるみずみずしい緊張感を見守っていたのだが、イェンスがようやく我に返ったのか、訥々とラカティノイアに感謝の言葉を返す。ラカティノイアはやはりはにかんだ笑顔をイェンスに絶やすことなく向けており、少なくともイェンスを拒絶しているようには見えなかった。僕はふと過去のイェンスの願望を思い出したのだが、ラカティノイアのことも含め、この先もあえてそのことには触れないことにした。

 ルトサオツィは僕たちにそれぞれ独立した小屋を用意したようで、そこに荷物を置くように伝えた。それを受け、早速ラカティノイアが僕たちを先導する。小屋は庭先から歩いて一分もかからない場所にあった。

先に僕が滞在する小屋に案内されたので、荷物を置いてすぐに室内を興味深く見回す。現代の人間社会の生活様式と全く同じではないものの、決して奇妙な内装で無いところに親近感を覚えていると、ルトサオツィが小屋にやって来た。

 「少し休んだら、この村を簡単に案内しよう。珍しいものは無いが、きっと興味を持ってくれるはずだ」

 「本当にありがとうございます」

そこにイェンスとラカティノイアがやって来た。

 「ラカティノイア、少し彼らを休ませてからウボキ村を案内しようと考えている」

「それならお茶を用意するわ」

あっという間に彼女が姿を消す。半ば呆然とその光景を見ていた僕に、ルトサオツィが「おいで、私の家に案内しよう」と声をかけて歩き出した。何もかもが優美なその後ろ姿に憧れを抱くと、イェンスと一緒に弾ける笑顔を浮かべて彼の後をついていった。

最初に見た美しい庭を通り抜ける。彼の家は外装がレンガ造りの落ち着いた風貌でそれなりに大きく、想像していた牧歌的な生活を充分匂わせていた。室内は木材をふんだんに使用した落ち着いた内装であり、人間社会ではすでに失われた手工具や美しい装飾が施された工芸品が実用性のある道具としてそこかしこに存在していた。エルフの普段の日常生活を目の当たりにしていることに非常に感激し、イェンスも僕もついあちこちを興味深げに見回す。ルトサオツィが「珍しいものはないぞ」と言って笑ったのだが、書斎らしき部屋にパソコンがあるのを見つけると、その奇妙な組み合わせを感慨深く受け取めるしかなかった。

 「ソファに座って休んでいたらいい。先日、君たちを馬車で送ってくれたタングストの作品で、彼はエルフの村でも人気の職人なんだ」

 そのソファは木目の美しさを活かし、黄金比からなるやわらかな曲線を描いたフレームをもとに美しい模様が織り込まれた生地を張っており、座り心地が非常に素晴らしいものであった。

 「では、私もお茶を用意してくる。自宅だと思って遠慮なくくつろいでほしい」

 ルトサオツィはそう言うと笑顔を残して部屋を出ていった。

イェンスと僕は心地良い室内に身を委ねるかのように、ゆったりと座った。くつろいだことによって心に余裕が生まれてくると、僕たちが数十分前までにいたあの不思議な空間のことが途端に気にかかる。思い返せば、何もかもが超自然的でありながら、最後に見た小屋のあるあの景色は非常に美しいものであった。

 「そういえば、僕たちはどれぐらい一人の空間にいたんだろう?」

 僕がつぶやくように言った言葉に、イェンスは神妙な面持ちで言葉を返した。

 「僕も気にはなっていた。あの場所がどこであるのか――。ああ、そうか。君と僕とでは滞在していた場所が違うんだった」

 イェンスがソファに体を沈める。僕は考え事をしているであろう彼に、遠慮がちに尋ねた。

 「君は魔力をあの親族のエルフから譲り受けたんだろう?」

 それを聞いて彼は僕を見つめ、少し間を空けてから答えた。

 「そうだ、最初に彼から魔力を口移しで譲り受けた。僕の血に馴染みやすい、という理由でね。それから、高い魔力を持っているラカティノイアからも同様に魔力を譲り受けた。だけど、強い魔力が僕の体内で弾けた瞬間、僕は気を失ったようなんだ。次に気付いた時には、夢なのか現なのかわからない場所で独り、荷物を持ったまま彷徨っていた。僕以外に何も存在しない場所で孤独と不安とに怯えていると、僕が過去に経験した出来事が次々と目の前に現れては去って行った。幼い頃の嫌な思い出やアマリアやデボラとの経験、それに姉と弟との確執なんかさ。僕にはその映像を見るのがつらすぎて目を背けた。そして言いようもない恐怖に怯えていると、君が荒野で一人泣き叫んでいる姿が見えた。僕は泣きながら君の名を呼び、手を差し出そうとした。しかし、僕の声が君に届かず、君に気付いてもらえないことに気が付くと、ただ君を見殺すかのようにその風景を見守るしかなかった。僕が無力感と虚無感に襲われていると場面がまた変わり、何も無い虚無の空間をひたすら彷徨い続けた。その間もずっと、ずっと僕は不甲斐なくずる賢い自分自身を責め続けていた。気が付くと、僕は灰色の世界のわびしい小屋に辿り着いていた。そこにも誰もいなかったので、僕はいよいよ一人で生きることになったのだと思い、悲しみと苦しさからずっと泣き叫んだ。ようやく掴みかけた、君という大切な存在とも二度と会えないのだと思ったからね。そのうえ、過去の嫌な記憶がまたしても僕を追い立てたので、困憊から心が擦り切れて全く生きる望みを失ってしまっていた」

彼の言葉にぎょっとして体が固まる。彼もまた、僕とどこか似た経験をしていた。

「それでもずっと僕の思考はぐるぐると回り続けていた。僕がかつて君に言った言葉を覚えているだろうか? 自分を愛する、という言葉だ。その言葉が僕の脳内でずっと響いていた。でも、僕は存在する価値も無い、汚れて卑しい存在なのだとどこかで自己否定してきた。だから、実を言うと、自分を愛することに抵抗があったんだ。『ほら見ろ、自分を棚に上げて、やっぱりずる賢いじゃないか』ってね。そう考えると再び、激しい苦しみと悲しみとに襲われたのだけど、それでも僕は『今こそ自分を愛するんだ』と自分に言い聞かせ、なだめ続けた。最初はもちろん、無条件で受け入れることに抵抗があったのだけど、最終的に今後も独りであれば、他人の評価が存在しないことに気が付いて、それでようやく受け入れる気になれたんだ。するとだんだんと安心感に包まれ、過去を思い返しても、アマリアやデボラ、ジャークにオランカまでもが愛おしい存在と思えるまでになった。あの心境の変化は本当に不思議だったよ。そこで僕は開き直った。もうずっと独りなのだから、ありのままの僕をとことん愛そうと決め、全ての反発する思考を放棄したんだ。そしたら部屋が急にぐにゃりと曲がってきたものだから、慌ててその小屋を出た。その間も君がどうしているのか、心配だった。君ならうまくやっている、という気持ちはあったのだけどね。それでももう一度君に会えたら、どんなにか嬉しいだろうと考えているうちに、再び孤独感に襲われた。でも、後戻りはしたくなかった。また君に会うことができたなら、胸を張って自分を愛することを実践している僕を見せたかった。僕はそんな僕を受け入れることにしたんだ」

 イェンスの告白に僕は最後まで衝撃を受けっぱなしであり、じっと耳を傾けるのが精一杯であった。彼は目の淵をにじませて静かに微笑むと、僕の手を握った。

 「やっぱり君と一緒にいると、本当に落ち着くよ」

 イェンスの飾らない言葉が心から嬉しかった僕は、彼の肩を抱くように抱きしめた。彼は僕に寄りかかり、僕の顔に頭を寄せながら震える声で言った。

「ありがとう、クラウス。少しこうしていたい」

「……もちろんさ」

彼もまた、孤独のうちに壮絶な体験をしたのだと思うと、彼に対して深い親愛の情が込み上がった。きっと僕の想像以上につらかったに違いない。しかも彼は、彼自身の力だけで乗り越えていた。僕にはできない強靭な精神力に尊敬を抱くと、彼の幸せをまたしても心から願った。

どうか彼の全てがうまくいきますように。

少しして体を起こしたイェンスが、完璧なまでに美しい眼差しで僕を見つめた。その瞳に吸い込まれるかのように見つめ返すと、「君ほどじゃないかもしれないけど、僕が体験したことを君に伝えたい」と前置きしてから僕の経験を話し始めた。

リューシャが僕に伝えた言葉、彼女が僕に見せた魔法、交わした会話。そして僕が彼女に対して抱いた欲望から、本能の赴くままに彼女に取った行動も包み隠さず彼に伝えると、彼は一筋の涙を流し、僕を優しく抱きしめた。

 「クラウス。君が泣き叫んでいたのは、そういう理由だったのか」

 彼は僕の頭に何度もキスをすると、僕の顔を撫でた。彼にあたたかく抱きしめられているうちに、僕も安心感からつい涙がこぼれる。

 「ありがとう、イェンス。だけど、今となってはあの経験をして良かったと思っている。それに僕の初めてのキスの相手がドラゴンなら、これ以上光栄なことはない」

 彼はそれを聞いて優しく微笑むと、僕のおでこにそっとキスをしてから言った。

 「君は本当に美しいのだな、クラウス」

 彼の眼差しは光であふれていた。きっと、彼の瞳もまた、僕の中の光を捉えているのであろう。穏やかな心境に至ったのか、僕たちは何も言わずに微笑みあうだけで充分満たされていた。

 ふと気が付けば、ルトサオツィたちがいなくなってからそれなりの時間が経っていた。おそらく、僕たちに互いの経験を話し合う時間を与えてくれたのであろう。そう推測しながら彼らが戻ってくるのを待っていると、遠くから話し声が聞こえ、それが徐々に大きくなってきた。そしてすぐに、ルトサオツィとラカティノイアが明るい笑顔を見せながら部屋へと入ってきたのであった。

 「遅くなってすまない。君たちに最高のお茶を用意しようと、つい時間をかけてしまった」

 彼はそう言うと白磁のティーカップにハーブティーを注ぎ始めた。そこにラカティノイアが「お茶受けにどうぞ」と焼き菓子を添えていく。

 「ありがとう、ルトサオツィ。ラカティノイア。僕たちに話し合う時間をわざわざ作ってくれてありがとう」

 イェンスと僕とで伝えたお礼の言葉に、ルトサオツィは「単に遅くなっただけさ」と微笑みながらティーカップを差し出した。

 「どうぞ」

 「ありがとう」

 お茶は優しい香りで飲みやすく、豊かな味わいであった。

 「美味しい」と僕たちが感想をもらすと、ルトサオツィが「これもどうぞ」と焼き菓子を勧めた。その焼き菓子も非常に美味しかった。はにかんだ様子のラカティノイアを見ると、どうやら彼女が作ったものらしかった。

僕たちは遠慮なく全てを美味しく頂いた。一息つけたことで、それまで感じていた疑問が活発になって頭の中を回り出す。ルトサオツィならきっと何かしら知っているに違いない。そう考えた僕はイェンスに耳打ちして伝えた。彼は目で言葉を返すと、優しい眼差しで僕たちを見守っていたルトサオツィに、真剣な眼差しで話しかけた。

 「ルトサオツィ、あなたにお尋ねしたいことがあります。僕たちは魔力を授かった後、お互い一人で不思議な空間にいました。あの場所はいったい何だったのでしょうか?」

 するとルトサオツィは意外にも首を静かに横に振り、神妙な面持ちで答えた。

 「そのことに関して、私からは何も言えない。君たちがどこにいたのか、エルフの私にはわからないのだ。おそらくヅァイドとリューシャが非常に強力な魔力と魔法を使用した場所にいたのだろうが、私はヅァイドから『彼らはきっと魔力を自分のものにし、自己を見つめて戻って来る。その時に彼らを迎えに行って欲しい』とだけ言われていた。君たちと離れてすでに三日が過ぎようとする頃には思わず不安に駆られたのだが、あの時、君たちの瞳には強い意志が宿っていた。だから、不安を無視し、君たちの可能性を信じて待とうと決めたのだ。今朝になって不意に『村外れにある森に行かなくては』という強い衝動に駆られ、それから居ても立ってもいられなくなって急いで向かったのだが、最初は君たちがいる気配など全く感じなかった。それでも信じて君たちを待っていると、徐々に君たちの気配を感じるようになった。そこで私は君たちの名前を呼び続けたのだ」

 彼の告白もまた意外であった。そして僕たちが三日間もあの場所にいたのかと思うと、さらに驚いてイェンスと顔を見合わせた。もっと長い間あの場所にいたような気もするし、短かったような気もする。しかし、今となっては僕たちのそれぞれの追憶の中にしか、あの不思議な場所は存在していなかった。そのことを理解すると、ルトサオツィに改めて感謝の気持ちが湧き上がった。

 「ルトサオツィ、迎えに来てくれて本当にありがとう」

 ルトサオツィはただ優しく微笑んで返した。しかしながら、僕にはもう一つ気になることがあった。そのため、僕は続けてルトサオツィに尋ねることにした。

 「ルトサオツィ、もう一つ教えてください。僕たちは今や魔力を得ました。この魔力は上がることもあるのですか? リューシャがそれを匂わせることを言っていました」

 それを聞いた彼は感慨深そうに僕たちを見つめた。傍らでラカティノイアも微笑んで僕たちを見ている。そこに希望を感じて力強く見つめ返すと、ルトサオツィは静かに語り出した。

 「もちろんだ。ただ、魔力というものは個人の資質によって伸びに差が出るから、一概にどの程度伸びるかは言いかねる。君たちは確かに後天的に植え付けられたようなものだが、元々その土台は整っていた。おそらくだが、君たちは想像以上に魔力を高めていくだろう。だからこそ、ドラゴンであるヅァイドが魔力を与える決断をし、私に話を持ち掛けたのだと考えている」

 僕はその言葉を聞いて、何とも言えない誇らしい気分になった。イェンスも僕も、ヅァイドに存在を認められていたのだ!

しかし、すぐさま傲慢な思考を恥じて気を引き締め直した。高い誇りも度が過ぎれば誇大的な自意識をもたらしかねない。僕はドラゴンの魔力に相応しい、全ての存在に固有の価値を見出す存在でありたかった。そのうえでさらに確認したいことがあったので、一呼吸置くと先ほどのルトサオツィの回答についてさらに質問をぶつけた。

 「ではその魔力は、仮にこのまま魔力のある場所にいれば、早く高まるのですか?」

 それを聞いてルトサオツィは朗らかに笑い、それから優しい眼差しで僕を見つめながら答えた。

 「そのとおりだが、それはどちらかと言えば修行のような荒々しさを伴う。魔力が芽生えたばかりの君たちが、仮にここに留まる選択をしたとしよう。きっと一週間もしないうちに心身ともに疲弊してしまうはずだ。エルフの村はどこもかしこも、それなりの魔力があることが前提で成立しているし、内容によっては高い魔力と最低限の魔法を必要とするからね。君たちがここに心地良い気分のままでいられるのは、三日間ほどだと考えている。その間は滞在を心から満喫するといい。私も妹も喜んでそのためのお手伝いをするつもりだ。いずれにせよ、君たちが人間社会に戻っても、お互い近いところに住んでいるのだろう? ユリウスにも会えば、君たちは感化し合ってますます魔力を高めていくことになる。そうなってからまたこの村を訪れたほうが、さらに居心地の良さを感じるはずだ」

 彼の言葉を受け、ラカティノイアが微笑みながら「滞在している間は遠慮なさらないでね」と僕たちに言った。思えば、彼らにも当然普段の生活があるはずなのだが、三日間も僕たちのために時間を割いてくれるのである。そこまでしてくれる彼らの優しさとあたたかい心遣いに、イェンスと僕は何度も何度も感謝の言葉を返すしかなかった。

それからルトサオツィは、エルフ語の簡単な挨拶を僕たちに教えてくれた。エルフの言葉はまるで優しく歌っているかのように滑らかで、響きが優雅であった。何よりもエルフの言葉を教えてもらったことを、イェンスも僕も深い感激とともに受け止めていた。そこで僕たちは早速ルトサオツィに、覚えたてのエルフの言葉で感謝の言葉を何度も伝えた。彼はやはりあたたかい笑顔のままであり、嬉しそうに僕たちを見て言った。

「気にするな。まだエルフの村の観光すら始まっていないのだぞ。しかしその前に、君たちに教えておかなければならないことがある」

彼の言葉を受け、真剣な表情で彼を見つめ返す。彼はすっと立ち上がったかと思うと、僕たちを力強く見つめながら説明を始めた。

 「それでは、これから非常に大切な話を君たちにしよう。今や君たちは魔力を有している。しかし、魔力はヅァイドの説明どおり、人間に対して基本的に不快な症状しかもたらさない。そこで君たちは、魔力を上手に体内に押し留める必要があるのだ。その方法をこれから君たちに実践を通じて教えよう。また、魔力を必要な時に、淀みなく体内から放出する方法も教える」

 彼は穏やかな表情を浮かべると話を続けた。

 「すまないが立ち上がってほしい。この村で魔力を使用する、そのほとんどが立った状態にあるのだ。君たちは立ったまま心を落ち着かせ、感じている魔力が自分の胸辺りに強く留まっているイメージを常に心がけてほしい」

 ルトサオツィの優しい口調に促され、僕たちは早速立ち上がって彼の言葉どおりに試した。しかし、うまくできているのかどうかが全くわからず、すぐに困惑から彼を見る。彼は僕たちの戸惑った表情を微笑みで受け取り、「君たちが魔力を上手に操っているかどうかは、扉を開ける時にわかる」と言って部屋の入口を指した。

 そこでイェンスと僕が扉を開けると、扉はすんなり開いた。当然の結果にますます困惑してルトサオツィを見ると、彼は静かに言った。

 「もう一度、魔力が胸の辺りに強く留まっている感覚を試して欲しい」

 そこでイェンスと僕は立ったまま、じっとその感覚を掴もうとした。全身に飛んでいたエネルギーが次第に中央に集まってくる感覚になると、僕はイェンスの顔を見た。彼は静かに微笑みながら僕を見つめただけで、何も言わなかった。

 ルトサオツィは扉を閉めて、「さあ、入り口の扉を開けて」と声をかけた。そこで僕は魔力が胸の辺りに強く留まっている感覚を保ちながら、ドアノブに手をかけた。しかし、扉は一向に開かず、鍵がかかっているようである。イェンスも同様に試したのだが、やはり扉は開かなかった。

イェンスまでもが戸惑った様子でルトサオツィを見たのだが、ルトサオツィは相変わらず穏やかな口調で言った。

 「では、今度はその胸に留まっている魔力が、君たちの全身表面のぎりぎり真下まで広がっている感覚を掴んでほしい。これはやや難しいが、重要なことだ」

 僕はルトサオツィの言葉どおり、その感覚を掴もうとした。しかし、彼の言葉が意図する状態がつかめず、すぐに疲れを覚えた。

 「クラウス、君は少し疲れているようだね。それは魔力が無駄に放出されていることも意味する。エネルギーが拡散されている、といえばわかりやすいだろうか?」

 彼はそう言うと僕の手を取り、「君は君自身の魔力の感覚を掴むことのほうが先のようだな」と優しく付け加えた。

その時、イェンスがドアノブに手をかけたのが見えた。気になって注視している中で、彼が扉をすんなりと開ける。彼はそこで理解したらしく、驚嘆の声を上げた。

 「なるほど、魔力が無いと扉を開けることもままならないのですね」

 それを聞いたラカティノイアがイェンスに近寄り、感心した様子で彼に話しかけた。

 「イェンス、すごいわ。あなたは上手に感覚を掴んでいるようだわ」

 「ありがとう、ラカティノイア」

 ラカティノイアの言葉を聞くなり、イェンスがまたしても先ほどの不思議な表情へと変わる。僕は彼らに何か好ましい予感を得たのだが、すぐに気持ちを切り替えてルトサオツィの手ほどきを受けた。

ルトサオツィは何度も何度も、根気強く僕に魔力の感覚を掴む方法を丁寧に教えていった。何より嬉しかったのが、嫌な顔一つせずに僕を見ていることであった。そうなると、何としてでも彼に応えたいという気持ちがますます強まり、僕は集中して感覚を掴もうとした。

 「その調子だ、クラウス。あとはエルフの村を散策しながら魔力の感覚を研ぎ澄ましていくといい。それと、この村にいる時は五感を思う存分開放して大丈夫だ。そうでないと重要な情報を見逃すことにもなる」

 ルトサオツィの口調は終始明るかった。その懐の深さに感激して感謝の気持ちばかりがあふれ出す。彼は僕のつたないエルフ語での感謝の言葉全てを笑顔で受け止めると、「そろそろ出かけよう」と言ってウボキ村を案内し始めた。

村といっても、彼の説明を聞いていると非常に広いらしく、少なくとも狭い地域に集落を構えているようではなかった。そこでルトサオツィにおおよその面積を尋ねると、「アウリンコの三倍ほどはある」という答えが返ってきた。

そのエルフの村は想像していたとおり牧歌的でありながら、規則正しい配列で構成されていることにはイェンスも僕もすぐに気が付いた。自然界にも表れるその配列がフラクタルであり、黄金比を忠実に再現していることを素早く計算して確認すると、全てにおいて人間を超えているエルフに畏敬の念が再度湧き上がる。また、人間社会で使用する機械によく似たものや、全く見慣れない装置も数多く存在していた。さらには道を歩くエルフの表情がやわらかく、僕たちが歓迎されていることを肌で感じ取ったため、ますます見るもの全てに新鮮な驚きと興味とがあふれていった。

魔法を用いている姿はあちこちで見受けられた。それは想像していた以上に大きな感動をイェンスと僕とにもたらした。人間である僕たちがいることで、エルフたちは遠慮して魔法を使用しないのではないかとも考えていたのだが、おそらくはここに招かれている時点で受け入れられているのであろう。僕が今まで学んできた、様々な物理の法則が絶妙なバランスで組み合わされて効果を発揮しているのもあれば、複雑な化学反応式を思い起こさせる、物質の状態や性質の変化を生じさせる魔法も見受けられた。しかし、僕の浅い見識ではそれが限界であった。

同じ地球上にいながらも、なぜそのような変化や運動が可能なのか。残念なことに、僕にはそれらを推し量るほどの知恵も知識も経験も全く持ち合わせていなかった。知っている数式のいくつかがあてはまるものの、それらは全体の流れの一部を表しているだけであり、それでさえ完全に定義づけるには根拠が薄かった。そこで僕より優れているイェンスに意見を求めてみたのだが、彼でさえも答えを導き出すような定理や数式が思い浮かばないでいた。まさしく『魔法』という言葉で言い表すしかない、不可解で不思議な現象がやすやすと創り出されていく光景がそこかしこにあったのである。

ルトサオツィは呆然とその光景を眺めている僕たちをあたたかく見守るだけであり、彼のほうから使用されている魔法について事細かに説明することは無かった。僕たちがいくつか知っている限りの知識で確認したところで、彼が嫌な顔一つせずに「焦らなくともいずれ理解できるようになる」と返すだけなのである。人間社会には到底あり得ない仕組みに僕たちが辿り着くまで、いくつかの重要なことを学ばなければ到底理解できないことを知っているからであろう。そのうえで僕たちにも可能性があり、そのことをルトサオツィが確信しているのだと考えた。

その可能性を広げて進んでいく方向を見据える。僕にも魔法を使用するのに必要な、魔力の芽が与えられた今、その『可能性』というのは言葉以上の深い意味と広がりを持っているのではないのか。

結果として魔法を使用している光景は、イェンスと僕から屁理屈を手放させ、魔法への憧憬の気持ちを高ぶらせることとなった。いや、複雑な理由を語らずとも、魔法を使用している様は非常にかっこよかったのである。それは動機としてはやや幼稚なのであろうが、やはり魔力をもっと高めたいという情熱をたぎらせるのに充分であった。

 エルフの村の学校の前を通りすぎた時、奥にある校舎でエルフの子供たちが授業を受けているのが見えた。そのうちの一人が僕たちの存在に気が付き、遠くで手を振って笑顔を見せる。イェンスと僕が嬉しくなってつい笑顔で手を振って返すと、他のエルフの子供たちも僕たちに向かって手を振り始めた。その人懐っこい笑顔を眺めているうちに子供たちが慌てて前を向く。どこまでもほのぼのとした光景に人間社会との共通点を感じ取ると、エルフにますます親近感を抱いた。

 電気を使用する機械も多く存在していた。仕組みを考えながら動かす様子を見ていると、どうやら魔力で内部の動力源を始動させてから電気のエネルギーを捻出しているようである。僕がそのことをルトサオツィに確認すると、彼は思いがけず感嘆した表情で僕を見つめた。

「さすがだな。私たちは磁力を帯びた、特殊な鉱石から作られたモーターに魔力を注いで使用している。人間が使用する機械と仕組みはさほど変わりないが、魔力を使用するという時点で構造はやはり異なる。最初に適量の魔力を注ぐと、単体で使用するような機械においては、運転が終了するまで必要な電気エネルギーが得られる構造になっているのだ。さらに大型の機械となると、操作する時にチームを組んで機械ごとに魔力を注入することもあるのだが、そもそも大型の装置が少ないうえ、私たちの社会は機械や電子機器を基盤としていないから、頻度としては少ない。ただ、機械を使用すれば楽になるものは、機械を利用しているのは間違いない。魔法を使用するより、魔力の消耗もはるかに少なくて済むからね。しかし実のところ、高魔力者になればなるほど、機械を使用せずに魔法で対応しようとするのだ。たとえ魔力の消耗が機械の使用に比べて多くともね。その魔力も心身を落ちつかせた状態で、思考を無にしていれば回復が早い。人間社会にも感心する仕組みが少なからずあって、私も訪問するたびに感銘を受けて帰ってくるのだが、私たちの社会も実に良くできているのだよ」

言い終えると彼は朗らかな笑顔を見せた。

 ルトサオツィと一緒に歩いていると、さらに気が付いたことがあった。それは彼がまだエルフの中で若いにもかかわらず、高位に存在する立場であるということであった。さすがはドラゴンが信頼しているだけの実力者なのであろう。ルトサオツィが高い魔力と深い見識とで他のエルフから広く尊敬と信頼を勝ち得ていることは、たとえ僕たちに魔力が無かったとしても、行き交うエルフが彼に向ける親愛と敬意の眼差しとでまざまざと実感できた。人間社会と異種族の橋渡しを一人で担っていることも大きな要因なのであろうが、いずれにせよ、地位がありながらも気さくで優しさにあふれる彼と知り合えたことに、僕は何度も感謝せずにはいられなかった。

出会いというものは本当に不思議な巡り合わせだ。交わることの無かった人と交わったことで、新たな出会いが連鎖的に発生していく。それは人間社会でも同じことが言えるのだが、ことさら異種族と親しくなることは本当に感慨深いことのように思われた。僕がイェンスと知り合ったことで生まれた数々のつながりにも想いを馳せる。この先も、今はまだ知らない人と出会い、親しくなっていくのであろうか。

 エルフの村を観光しながらも、僕は魔力の感覚を掴むことを忘れなかった。体と魔力の一体感をより強く感じるようになると、今度は魔力が体内でどういった状態で存在しているのかに意識を向ける。

見えないものだが確かに存在している、という感覚。そこにも不思議さを感じるのだが、僕の関心はその先にあった。そのため、行く先々で魔力を使用しないと動作しないものに積極的に触れては、魔力が体表の真下まで広がっている感覚を捉え続けた。

最初はうまくいかないことのほうが多くて落ち込んだりもしたのだが、焦っても仕方が無いと開き直り、挑戦を続ける。そのうちだんだんと感覚が鋭くなり、魔力を意のままに体内で広げたり押し留めることができるようになっていた。しかし、お墨付きをもらいたかった僕は、ルトサオツィにあえて習熟度を確かめてもらうことにした。彼は笑顔で快諾すると僕の手を取り、一通りの動作をするよう指示した。先ほどまで得ていた感覚を思い起こしながら、魔力を体内で広げていく。そして魔力を胸の中心に留めるよう操った時、ルトサオツィが満面の笑顔を浮かべながら言った。

「おめでとう、クラウス。すごく上手に習得したね。君ならもう大丈夫だ」

その言葉にはしゃいでつい彼に抱きついたのだが、彼は優しく抱きしめ返したうえ、「君はもともと素晴らしい才能を持っているんだ。自分自身を信じろ」と僕を励ましてくれた。その言葉にまたしても感激し、彼を感謝の気持ちを伝える。そこにイェンスまでもが僕の練習の成果を喜んで僕を強く抱きしめたので、僕たちは道端で陽気に笑い合って喜びを分かちあった。

その日の晩はルトサオツィの家に招かれ、彼とラカティノイアの歓待を受けた。彼らの手料理と手作りのハーブ酒が非常に美味しく、特にハーブ酒は何回も勧められたため、イェンスも僕も初めて酔っ払った状態になる。彼らから人間社会のことや日常生活のことを尋ねられるたびに、イェンスと僕とで快く答えた。その逆に僕たちが彼らに同じように尋ねると、彼らも包み隠さず快く教えてくれた。魔法を使用している生活であるがため、人間社会と相容れないところも確かにあるのだが、どこかで聞いたような経験談を聞くとさらに親近感を覚えた。

会話が進むにつれ、僕はルトサオツィとラカティノイアの優しく美しい人柄と高い教養と知見の深さに、さらに感嘆と敬愛の念を抱くようになった。彼らは決して人間を侮辱することも憐れむことも言わず、また、態度にも示さなかった。人間が異種族の地をおびやかした過去でさえ、彼らは新しい見地から受け止めていた。エルフが外殻政府の信頼を勝ち得ているというのは、こういったところにも一因しているのであろう。

ルトサオツィが席を離れる。それから少しして、外からにぎやかな声が複数聞こえたかと思うと、ルトサオツィが近所に住む他のエルフたちを引き連れて戻って来た。

エルフたちは早速興味深そうにイェンスを観察したかと思うと、口々に彼を褒め称え始めた。

 「驚いた、本当に人間なんだろうか? まるで私たちエルフだ」

 「そんなにエルフの要素があるんなら、人間社会にいると浮いちゃうわね」

 何名かのエルフが感嘆して言った言葉に、イェンスははにかんで「いえ、僕は本物のエルフと肩を並べるには、あまりにも異種すぎます。魔力をさらに高め、エルフの言葉を話せるようになったら、ぜひその光栄な言葉を心から受け取りたいと考えております」と控えめに返した。するとエルフたちが一様に微笑み、「そうなれる日はきっとくる」「いつでもおいで」と口々に彼にあたたかい言葉を贈ったので、僕も自分のことのように喜んだ。

中には僕に興味を示す者もいた。そのエルフの少女はあどけない笑顔を見せていたのだが、僕が後天的にドラゴンの魔力を得たことを知ると、非常に驚いた顔を見せながら言った。

 「すごいわ、ドラゴンの魔力を身に付けただなんて! エルフでも体調がすぐれなかったり非常に魔力が弱かったりすると、ドラゴンの強い魔力が負担となって体調を崩す者もいるのよ」

 僕が彼女の言葉に驚いていると、ルトサオツィが微笑みながら彼らに言った。

 「クラウスはかなり稀なケースだ。いや、後天的にドラゴンの魔力を身に付けた者の話など聞いたことが無い。彼は奇跡の塊のようなものだ」

 それを聞いたエルフたちが、一斉に驚いた表情で僕を見つめる。そうなると、あまたの美しい澄んだ緑色の瞳が僕を包みこんだので、僕は気恥かしさから思わず下を向いてしまった。

「ドラゴンの魔力を持っても、鼻にかけず照れるだなんてかわいいわ」

おそらくは先ほどの少女の言葉であろう。それと同時に複数の笑い声が上がり、あたたかい雰囲気がさらに広がったようである。顔を上げると皆一様に優しい眼差しであったため、結局は僕も一緒に笑い合った。

 夜が更けていく。夜といっても緯度が高いため、夕方のような明るさがあり、そのことがいっそう幻想的な雰囲気を醸し出していた。歓迎されていることを肌で感じながら交流を深める。誰もが陽気で明るく、ルトサオツィとラカティノイアと同じく人間に対する不平不満を僕たちに伝えなかったこともまた、本当に嬉しいものであった。

ほどよい疲れを感じ始めた頃、ルトサオツィが察したのか、僕たちにそろそろ休むよう伝えてきた。イェンスを見ると彼もどことなく眠気を我慢しているようである。そこで、僕たちはルトサオツィとラカティノイア、そして他のエルフたちに充分感謝の言葉を伝えてからルトサオツィの家を後にした。

歩くと夜風が心地良かった。イェンスと今日の感想を話しながら、何気なしに空を見上げる。ドーオニツのアパートの窓からいつも眺めていたあの月が、夕暮れの空のような夜空でも僕たちを優しく照らしているのがわかると純粋な喜びに包まれた。

 「イェンス、見て! あの月はどこで見ても一緒なんだろうけど、今ここで見ると本当に感慨深いね」

 「本当だ。なんて美しいんだろう。ドーオニツで見ていた時より、よりいっそう神秘的な美しさが増しているようだ。あの月は同じ地球上にいる様々な存在に、やわらかな光を平等に届けているんだね」

 彼の言葉に全く同意すると、束の間、二人とも無言のままで月を眺めた。それから夜風に背中を押されるかのように再び歩き出す。小屋の前に到着してイェンスと「おやすみ」と挨拶を交わすと、ドアノブに手をかけた。だが、ドアが一向に開かない。イェンスはすでにドアを開けて中へと入っており、僕は一人で苦戦していた。

なぜなのかと理由を考えたその時、僕はようやく魔力を押しとどめたままであることに気が付いた。一人苦笑いを浮かべ、魔力を指先に開放してドアノブを回す。ドアがあっさりと開いたことに気恥ずかしさを覚えると、誰も見ていないにもかかわらず、そそくさと室内へと入った。

照明用スイッチを目視で確認し、魔力を指先に留めたまま触れる。すると室内に明かりが灯されたので、僕はその仕組みを想像して小さく興奮した。部屋にはバスルームもあったため、気持ちよくシャワーを借りる。用意されてあった清潔な布で体を拭き、着替えを済ませると、ふと洗濯機らしきものが部屋の片隅に備えられていることに気が付いた。洗濯物はあるのだが、明日ルトサオツィに使用方法を尋ねてからでも間に合うであろう。

そうこうしているうちに、ハーブ酒で酔ったせいか、猛烈に眠気を感じ始める。思えば今日はいろんなことがあったのだ。

長くて濃い一日であったことは間違いない。脳裏にリューシャの笑顔が浮かぶ。しかし、あえて一日を思い返すことなく、ベッドの中へともぐりこんだ。睡魔に揺らされるがまま体の力を抜く。僕はそのまま眠りの世界へと落ちていった。

 清々しい目覚めとともに朝を迎えた。そのさわやかな気分のまま身支度を整え、ルトサオツィの家へ向かうべく小屋を出る。イェンスはどうしているだろうと彼の様子を見に行こうとしたその時、イェンスが誰かと話しているのが聞こえてきた。その相手の声に聞き覚えのあった僕は、彼らの邪魔にならないよう一人でルトサオツィの家へと向かった。

ルトサオツィの家に到着すると彼はすでに朝食の準備をしており、僕を見るなり気さくに挨拶してきた。僕も挨拶を返すなり、小屋の中で見つけた洗濯機らしきものの使用方法について彼に尋ねる。彼は相変わらず優しい笑顔を浮かべており、手を休めて僕に説明し始めた。

 「あの洗濯機は電源にあたるところに、魔力を充分に注入しながら操作する必要がある。それ以外では人間社会で使われているものと大差がない。君ならおそらく、あの洗濯機を回すほどの魔力がすでに備わっているだろう。後で試してみるがいい」

 彼はさらに洗剤の場所や、干す場所などを付け加えて教えてくれた。僕は感謝の言葉とともに宿泊のお礼を兼ねて朝食の手伝いを申し出たのだが、どうやら魔法を上手に使用して作業にあたる必要があるらしく、丁重に断られた。

それから少しして、イェンスが一人でやって来た。一人であったことが不思議に思えたものの、あれこれ尋ねるのも気が引けたため、そのことには触れずに彼と挨拶を交わす。

朝食中にルトサオツィが、「今日は山登りをしないか。君たちは人間社会で窮屈な思いをしてきたはずだ。山で体を思う存分に動かして今の身体能力を把握できたら、今後の生活にも役立つだろう」と僕たちを誘った。彼の誘いにすぐに興味を覚えたのだが、あいにく僕たちは特別な装備を持って来ていなかった。そこでそのことを申し訳なさそうに伝えると、彼は微笑みながら「今の君の魔力と能力なら、よっぽど高い山じゃない限り大丈夫だ」と答えたので、期待に胸を膨らませながら快諾した。

途中からラカティノイアが加わった。彼女は昨日より美しさに磨きがかかったように見えた。そうなるとイェンスの表情が気になるものの、何となく申し訳なさを感じて食事に専念する。それにしても、エルフの料理はなぜこうも美味しいのか。ユリウスの家ですでに体験済みであったとはいえ、あっさりと胃袋を掴まれたうえに心までもがこの朝食に奪われる。食べ慣れた食材がエルフ流に味付けされていることも感嘆の対象であり、さらにはエルフに親近感を抱かせるものであった。僕の単純さもまた、加速しているらしい。

食事を終えると出掛けるまでそこそこ時間に余裕があったこともあり、僕は小屋に戻って洗濯機の使用を試すことにした。ルトサオツィの言葉どおりに電源のところに魔力を注ぎ、運転スイッチを入れる。すると洗濯機が控えめにモーター音を響かせ、いったんは動作し始めたのだが、すぐに警告音が鳴り響いて結局は止まってしまった。

きっと注いだ魔力の量が適切でないのであろう。どれほどの魔力を注げばいいのかと戸惑っていると、ルトサオツィがちょうど様子を見にやって来た。

「あとティースプーン一杯ほどの魔力を注ぐといい」

その言葉どおりに注ぐ。すると洗濯機は再び動き出し、僕がアパートで使用しているものとほとんど変わらない動きで洗濯を始めた。ひょっとしたらエルフたちの技術が先で、人間は後から発明したか、それとも技術提供がなされたのではないかと考えながらその様子を見守る。

「ずっと見張っていなくとも大丈夫だぞ」

ルトサオツィの言葉で我に返り、つい照れ笑いを浮かべる。慣れているはずのことでも新鮮に感じられるため、好奇心が旺盛になっていた僕は見慣れた風景でさえ興味深く捉えていた。

ルトサオツィが彼の家へと戻っていき、僕も洗濯が終わるまでの間、周囲を散策することにする。澄んだ美しい青空の下、どこか懐かしい風景と自然とが調和された街並みを眺めながら、五感を開放してみずみずしい喜びにたっぷりと浸る。人間社会では窮屈に感じていたものでも、ここでは僕の全てに心地良さを与えていた。

 洗濯が終わり、洗い終えたものを干す。そうこうしているうちに、イェンスとルトサオツィが僕を迎えに来た。山登りという、初めての経験に胸を躍らせて戸外へと出る。降り注ぐ太陽の光を浴びながらルトサオツィが僕たちに話しかけた。

「走りながら向かおう」

彼はそう言うと意味ありげに笑った。そして村の道路ではなく、林のある方向に体を向けた次の瞬間、彼はまるで疾風の如く走り去っていった。

慌てて彼の後を追うのだが、彼はあっという間に林を抜け、小川を渡り、森へと向かっていった。彼の姿を見失わないよう、イェンスと必死に彼の後を追っていく。足場の悪い森の中でも、ルトサオツィはまるでシカやウサギのようにあざやかに駆け抜けていった。それを見て、僕たちもなるべく彼が示した動作のとおりに道順を辿っていく。おそらくは実際にいろんな動物たちが生息しているのであろうが、その姿をはっきりと確認することも無いまま移動しているうちに、高い山々が徐々に目の前に現れ始めた。

息が上がり、だんだんときつくなってくる。ずいぶんな距離をかなりの速度で移動しているのだ。イェンスの様子を伺う余裕もなく、ただひたすら取り残されまいと走り続ける。その山の麓まで来るとルトサオツィがようやく走るのをやめ、大きく息を切らしながら辿り着いた僕たちに向かって言った。

 「君たち、やるじゃないか! 驚いたぞ。身体能力も申し分ないな。この山は急勾配な斜面が随所にみられるが、山としてはそんなに高くなく、千三百メートルほどだ。私の速さについて来られた君たちだ。この山も難なく登れるだろう」

 さほども疲れた表情を見せなかった彼は、言い終えるやいなや走りながら山を登っていった。そして軽やかに跳び上がったかと思うと、あっという間に見上げるほどの高い位置に到着していた。

 「君たちもこれぐらいのことは容易にできるはずだ! 自分を信じて、思う存分体の能力を開放するんだ!」

 高い位置からルトサオツィが僕たちに向かって叫ぶ。その言葉に触発されたのか、イェンスが僕に「お先に失礼するよ」と笑顔を見せ、後を追うように登って行く。そして垂直に近い山肌の表面を小鹿のように跳ねたかと思うと、あっという間にルトサオツィのところまで辿り着いた。

 その様子を目の当たりにした途端に対抗意識が芽生える。息切れもすでに収まっていた。僕はルトサオツィとイェンスを力強く見上げると、やり遂げる覚悟を決めて走り出した。先ほどまで感じていた疲れが嘘のように消え、足が軽々と斜面を登っていく。目の前に近付いてきた高い段差も、跳躍すれば辿り着ける気がした。

――行ける。

強い肯定感に後押しされ、力の限り飛び跳ねる。すると人間社会では見せられないほどの高い跳躍をしてのけ、無事ルトサオツィとイェンスのところまで辿り着いたのであった。

「やった!」

「さすがだな」

僕は想像以上に軽々と到達できたことに狂喜し、彼らに抱き付いて喜びを分かち合った。 その後も確かに険しい場所が多かったのだが、その度に僕は自分の中にある目覚ましい能力を信じて開放していった。

とうとう軽やかな足取りを維持したまま、頂上に到着する。イェンスも僕もますます自信を深め、ルトサオツィとともに感激に浸りながら麓を見下ろした。登ってきた方角と反対側の眼下にも集落が広がっている。気になってルトサオツィに尋ねようとする前に、彼はこの山を挟んだ向こう側の村こそがミグメ村であり、イェンスの高祖母の出身地であることを教えてくれた。

僕はイェンスのルーツを間近で捉えたことで、一年前のあの特別な夜のことを思い返した。あの晩、イェンスがエルフと関りがあると初めて知ってから今日に至るまでに、僕たちの人生が一変したのではなかったか。

そのイェンスは感慨深い表情を浮かべたまま、言葉を発することなくミグメ村を見つめていた。彼は魔力を授かった際、リカヒの親族、すなわち彼の遠い親族に会っていた。そのことを思い出すと、僕はそっとその後について尋ねた。

「親族の男性はクフクシュといって、僕を歓迎してくれた。彼は僕に魔力を分け与えた後、魔力を馴染ませ、自分のものにすることができたなら、いずれミグメにも必ず来るよう言い残して先に帰っていったんだ」

イェンスは優しい眼差しで静かに答えた。

リカヒから世代を超えて受け継いだ魔力は、彼の人生に複雑な影響を及ぼしたにもかかわらず、今や彼が本物のエルフに認められるまでに好ましい変化を与え続けていた。その落ち着いた表情に彼の意思を感じ取る。きっと、イェンスはこの先も目覚ましく変化を遂げていくのであろう。今回の滞在でミグメを訪れることが叶わなくとも、彼が彼自身のルーツを辿る日は決して遠くないはずだ。

僕もミグメ村を見つめる。その集落の向こうには、おそらく特別管理区域の入り口で見たであろう、高い山々もそびえ立っていた。山頂にはまだ雪が残っており、僕たちが登ってきたこの山よりもはるかに高く険しいことは容易に見て取れた。

 「あの山は?」

 僕がルトサオツィに尋ねると、彼はその高い山のほうを見上げながら言った。

 「あの山々やその麓ら辺は、妖精の住処となっている。アウラもそうだし、君たちはユリウスからウィスカという、私たちと同じ背丈ほどである大型妖精族の話をおそらく聞いただろう? 彼女が住むのがあそこ辺りだ」

 それを聞くなり、イェンスと僕は驚いた。確かユリウスの話では、ウボキ村から五十キロメートルほど離れた場所にあったはずである。ルトサオツィにそのことを伝えると、彼は静かにうなずいて返した。

 「そうだ、君たちが来たルートだとあの山が遠く感じられるだろう。しかし、北部に進めば、私の住む村とあの山の麓が交わるところがある。ユリウスは以前、そのルートから訪ねていたのだ」

 ルトサオツィの山を見つめるその眼差しは優しく、とりわけあたたかさに満ちていた。僕はその視線に何かしらの意味があるのを感じたのだが、なんとなく理由を尋ねることは気が引けたため、ひとまず山頂からの景色を堪能することにした。

今は昼頃であろうか。喉も乾き、お腹も空いてきている。こうなると僕はあっという間に食欲の奴隷へとなり下がるので、なるべく違うことを考えることにした。

「戻ろう」

ルトサオツィが僕の胃袋の空き状況を察したのか、やわらかく声をかけてきた。イェンスも僕も素直に応じると、あっさりと下山を始めた。

 その下山も快調であった。途中の沢で喉を潤しても時間はさほど取られず、あっという間に麓に辿り着く。お腹は空いているものの、あまり疲れていないことに気が付くと、魔力が加わったことの意味を知って奇妙な気持ちになった。果たしてこの人間離れした体力で、人間社会でこれまでどおりにやっていけるのか。そのような懸念も抱いたのだが、まだまだエルフの村での体験が僕を待ち構えていた。いざとなればどうにかなるであろうと思い直すと、のんびりと前を向いた。

赤橙色の長い髪を揺らしながら走るルトサオツィの後を追っているうちに、あっという間にウボキ村の中心部へと戻る。心地良い汗が程よく食欲を刺激するのだが、五感を開放している気持ちよさもあって充実感しかなかった。

 そうこうしているうちに、ルトサオツィの案内でエルフの村にあるレストランに到着した。

「好きなものを好きなだけ食べたらいい。遠慮はするな」

ルトサオツィはそう言うと、メニューを見ながら早速彼の分を注文し始めた。その言葉に甘えてイェンスも僕も注文をする。料理が運ばれてくると、僕たちはその美味しさを堪能しながらもあっという間に平らげた。それを見ていたルトサオツィが、「いい食べっぷりだったな」と朗らかに笑った。彼の勧めで食後にハーブティーを飲んでいる間も彼は優しい眼差しであり、僕は彼に兄弟のような親しみを覚えずにはいられなかった。

 午後は再び、村をのんびりと散策した。美しい自然や興味深い生活の営みを見ては感嘆し、心を奪われる。アウリンコやドーオニツにはない、ゆったりとした時間の流れに身を任せることは実に心地良く、僕の本質を射抜いているように思われた。

夕方になってルトサオツィの家へと招かれると、昨晩と同じようにまたしても僕たちは歓待を受けた。さらに打ち解け合って会話も弾み、エルフの優しさを身にしみて感じ取る。明後日の朝にここを発つ実感が湧くはずもなく、今はこの滞在を全てにおいて心から満喫しようと、明後日以降のことは一旦忘れることにした。

昨晩は人間として受け入れられている感じがしたのだが、今日は違った。彼らは『クラウス』という、個の存在として僕を受け入れていたのである。イェンスとは違う僕の個性を彼らが見出し、丁寧に扱ってくれたことに感謝の気持ちが芽生えるのも当然であろう。どうしてこうもエルフたちは素晴らしいのか!

そうこうしているうちに夜が更け、帰り支度を始める人も現れた。

「君たちも疲れただろう、ここは私に任せて休んだらいい」

またしても優しいルトサオツィの言葉に甘えそうになったのだが、イェンスも僕も眠気を踏ん張って跳ね返すと、何かお手伝いができないかとしつこくルトサオツィに食い下がった。

「それならテーブルの上だけ、片づけてほしい」

根負けしたのか、あたたかい笑顔でルトサオツィから指示を受ける。それを受けてイェンスも僕も、嬉々として片付けにあたった。さほど散らかっていなかったので早々に片付けが終わると、ルトサオツィが僕たちのところへとやってきた。

「充分、手伝ってもらったよ。本当にありがとう」

彼は抱擁とともにその言葉を贈ってきたので、僕もなるべく心を込めて感謝の言葉を添えて彼を抱きしめ返した。続けてイェンスが同じように抱擁し合うと、「おやすみ」というルトサオツィの言葉に見送られながら、僕たちは近所のエルフたちと一緒に彼の家を出た。

外で少し立ち話をしてから、エルフたちと別れる。小屋に戻ろうとしたその時、いつの間にかイェンスの姿が見えなくなったことに気が付いた。気になって辺りを探してみると、彼はルトサオツィの家の脇でラカティノイアと談笑していた。

頭上には相変わらず、あの美しい月が満点の星空を背景に僕と彼らを優しく照らしていた。その彼らには『今』しかないのであろう。時間はこうしている合間にも刻々と過ぎ去っていく。そのことを考えると、僕は二人の間に芽生えたものが優しく、そして力強く成長することを願わずにはいられなかった。僕は一人でそっと小屋に戻ると、満ち足りた気分のまま体を休めた。

 次の朝も目覚めは良かった。身支度を整えて小屋を出る。ドアを開けるなり、イェンスが僕を待ち構えていた。

「おはよう、クラウス」

彼は美しい眼差しで僕を見つめ、それから「気配を感じたから待っていたんだ」と言って僕の肩を抱いた。

 「おはよう、イェンス」

 僕はまたしても、ラカティノイアとのことを尋ねたりはしなかった。お互いに他愛も無い話をしながらルトサオツィの家へと到着する。

僕たちがドアをノックするより先に、ルトサオツィが優しい笑顔を見せながらドアを開けて僕たちを招き入れた。

「おはよう、イェンスにクラウス。今日の晩は君たちがエルフの村を訪れてくれた歓待の締めくくりとして、私たちの民族舞踊を君たちに見せるつもりだ」

それを聞くなり、イェンスと僕は歓声を上げ、感謝の言葉を何度も彼に伝えながら彼に抱きついた。彼の言葉だと、彼だけでなく、大勢のエルフたちが僕たちのために時間と労力を割いて踊りを披露してくれるのである。ここまでくると感謝も感激も一筋縄ではいかなかった。

「ありがとう、ルトサオツィ。本当にありがとう」

イェンスも僕も、心を込めて何度も伝える。ルトサオツィは全てを微笑んで受け取ると、あたたかい口調で返した。

「気にするな。ただ、私は準備があるため、今日は君たちに付き添えない。しかし、君たちならもう充分この村を自由に散策できるだろう。昼食は昨日と同じレストランで申し訳ないのだが、手配はしてあるから好きなものを好きなだけ食べたらいい」

彼の心遣いがまたしてもたまらなく嬉しかったので、僕たちは再び飛びつくように彼に抱き着き、思い思いに感謝の言葉を贈った。

 朝食を取って少しすると、イェンスと僕は早速ウボキ村を自由気ままに散策した。最初は難儀していた魔力を要する動作もなんなく行えるようになっており、駆け出しの魔法使いとして静かな感動をイェンスと共有しあう。行く先々ですっかり顔見知りとなったエルフたちからあたたかい笑顔と気さくな挨拶を受け、片言のエルフ語で挨拶を返していく喜びもすっかり馴染み深いものになっていた。

昼になり、昨日と同じレストランへと向かう。エルフの店員は僕たちを見つけるなり笑顔で招き寄せ、好きなものを注文して食べるよう伝えてきた。料金はすでにルトサオツィから受け取っているらしく、彼が「何も気にしなくていいんだ」と優しい笑顔で付け加える。

いったい、どうやったらルトサオツィに恩が返せるのか。そのことは僕たちにとって最重要課題となっていた。ルトサオツィのおかげで僕たちは歓迎され、そして美味しい料理をも堪能できていた。彼だけでは無かった。出会う全てのエルフがあたたかく接してくれていた。人間である僕たちに複雑な心境を抱いている者も中にはいるであろうが、誰一人として嫌な顔一つも見せないのである。そのエルフたちの美しく気高い心の在り方に、僕たちはただただ学ぶばかりであった。

レストランにもよくお礼を言って後にすると、再びウボキ村の美しいところ、素晴らしいところを脳裏に焼き付けるように見て回った。そしてせっかくだからと、村はずれにあるルトサオツィと再会した森や、ドワーフの村の近くまで歩く。帰りに迷うことの無いよう、目印をイェンスと確認しながらどんどんと進むと僕たちに話しかけてくる男性の声がした。その声に聞き覚えがあって振り返ると、ドワーフのタングストであった。

彼は僕たちに「こんなところまで歩けるとは、さすがルトサオツィが気を許しただけのことはあるな」としきりに感心した様子で話しかけ、それから美味しい湧き水と滋養のある実がなっている場所まで僕たちを案内してくれた。清らかな水を飲み、みずみずしく甘い果実を食べたことで、それまで感じていた疲れが吹き飛び、体力までもが回復していくようである。タングストにこの場所に連れてきてくれたお礼と、彼の作品であるソファの造形美と座り心地についても賛辞を贈ると、彼は豪快な笑い声を上げて言った。

「全く嬉しいことを言ってくれるねえ。ドワーフの村にも次は必ず遊びに来いよ!」

その人懐っこい笑顔に大きくうなずいて返す。その後も少し談笑をしていたのだが、不意に吹き付けた風に表情を一変させたタングストが、「悪いが、仲間が俺を待っているからそろそろ帰る。気を付けて帰れよ」と握手を交わしてあっという間に去っていった。僕たちはやはりあたたかい触れ合いに感激しており、その後もあちこちで経験した感動をやわらかく受け止めては、思い出を胸いっぱいに詰め込んでいった。

夕方近くになり、ようやくルトサオツィの家へと戻る。出迎えてくれた彼の姿に、イェンスも僕も思わず息をのんだ。彼は伝統ある民族衣装に着替えており、そのあまりの美しさと威風堂々とした風貌は、この僕でも惚れ惚れとするぐらいの魅力を放っていた。ラカティノイアの姿は見えなかったのだが、きっと彼女も今晩の準備をしているのであろう。

「さあ、広場へと行こう。皆が待っている」

再び外へと繰り出した。ほほを一筋の涼やかな風がなぞっていく。しかし、村はまだまだ高い日によって照らされており、独特の生命力にあふれていた。

 広場に到着すると、すでに大勢のエルフたちが集まっていた。屋台料理らしきものも見受けられ、行く先々で笑顔の歓迎を受ける。今までであれば苦手であったはずの、このにぎやかで人出が多い雰囲気にイェンスも僕も興奮しており、軽快な挨拶を交わすことでさえ非常に愉快であった。

 弾む笑顔でエルフの子供たちが僕たちの手を引き、石でできた半円形の舞台の前へと案内していく。先ほどより少し沈んだ太陽が見せる、繊細で美しい色合いで夜の訪れを感じると、誰かの合図とともにいよいよエルフの伝統舞踊による饗宴が始まった。

 人間社会でも見かけるような楽器を楽団が奏で、それに合わせて美しい衣装をまとった二組の男女が、軽やかに舞台上で舞い始めた。僕は踊りに関して見識が浅かったため、人間社会にも同じようなものがあるかはわからなかったのだが、息の合った踊りにただただ感嘆して見入っていた。そのうちに音楽の調子が変わり、それに合わせて舞台奥のカーテンから一人の非常に美しいエルフの女性が登場する。ラカティノイアであった。

彼女はそよ風のように舞い、星のように煌めくと、大地を力強く踏みならした。その優美で華麗な踊りにすっかり魅了され、何度も目が奪われる。

 次に勇壮な男性が、荒々しい足踏みをしながら僕たちの前に現れた。僕はすぐに彼に気付き、笑顔をこぼした。ルトサオツィであった。彼もまた鮮やかに、そしてたくましく舞台上を舞うので、イェンスも僕もその素晴らしい業の数々にただただ感嘆の声をもらすしかなかった。

彼らは兄妹だからなのであろう、非常に息の合った踊りを見せ続けた。そして妖しい眼差しで僕たちを魅了し、美しい世界へと誘っていく。音楽のテンポが速まると、彼らは情熱的に回転し、舞台の上で飛び跳ねた。曲がゆったりと流れると、時の流れまでもが止まったかのように繊細な動きを見せ、舞台上が神秘的な祭壇のように変貌していく。やがて音楽が止んで彼らが踊り終えると、舞台を包むかのような大歓声が沸き起こった。

踊っていたエルフたちが一堂に会す。イェンスも僕もかなりの興奮に包まれながら、彼らに盛大な拍手と歓声を送り続けた。その時、ルトサオツィと目が合った。彼の美しい眼差しについ緊張を覚えると彼は微笑んで返し、ラカティノイアを連れてイェンスと僕の所にやって来た。

「観客でいられたのはここまでだ。さあ、一緒に踊ろう」

彼らの突拍子もない提案が、今の僕たちにとってどんなに嬉しかったことか!

イェンスと僕は笑顔で快諾すると、ためらいなく舞台に上がった。そしてルトサオツィとラカティノイアから手ほどきを受け、音楽に合わせて体を動かしていく。

僕は学校の授業以外で踊ったことが無かったため、ぎこちない動きをしていることは誰よりも理解していた。しかしながら、恥ずかしいと考えたり、もっと上手に踊ろうという気概は微塵も湧き上がらず、ただただ楽しさに支配されていた。そこに他のエルフたちも混じって踊り出すと、舞台以外の場所でもエルフたちが踊るようになった。離れた場所で、幼い子供たちも親と一緒に懸命に踊っている。どうやら今踊っているものは、ウボキで非常に重要かつ基本的な踊りであるらしい。誰もが笑顔であり、美しい輝きを見せている。すでにこの広場全体が歓喜と調和しており、陽気で幸福な雰囲気に包まれていた。そして愉快な笑い声が明るい音楽に彩りを添えていったので、僕は心の赴くまでエルフたちと楽しく踊り続けた。

 「ねえねえ、あっちに行こう。すごくおいしいのがあるんだよ!」

心地良い疲れを感じて休んでいる僕に、エルフの子供たちがやって来て手を引っ張る。その愛らしい笑顔に抗えるはずもなく、素直に後をついていく。屋台の前に来るなり「ようこそ!」と歓迎され、食欲そそる料理を手渡されたので子供たちと一緒にほおばった。

「おいしい!」

「ね、おいしいでしょ。人間社会にも似たようなものある?」

無邪気な笑顔から素朴な質問を受ける。パンにいろんな具材を挟むのは、人間社会でも定番の料理だと子供たちに伝えると彼らは一様に目を輝かせ、「人間社会にも同じ料理があるんだって! 不思議だね」と明るい感想を返してきた。

「クラウス、こっちのも食べな。これは人間社会じゃ食えないぜ」

威勢のいい声で僕を呼ぶ声に振り返る。すると子供たちが「あれもおいしんだよ!」と僕の手を引っ張って走り出した。その時、たくさんの緑色の美しい瞳が一斉に僕を捉えた。

「素敵な踊りでしたわ」

「聞いたんだが、あのルトサオツィが君を奇跡と褒めたのは本当かい?」

「人間がここを訪ねるとは、感慨深いもんじゃな。また、来てくれるんじゃろ?」

「あたしね、ラカティノイアにあこがれているの」

「まだ二十一歳なのに、人間だと大人になるの? 僕より年上に見えるのに、実年齢だと僕のほうが年上だなんて信じられない」

様々な年代のエルフたちが口々に話しかけてくる。その表情は好奇心旺盛で親愛に満ちあふれ、自然な笑顔であった。ますます嬉しくなってなるべく丁寧に言葉を返していくうちに、またしても子供たちから手を引っ張られる。こんな風に僕が他人から無邪気に慕われたこともまた、今までに一度も無いことであった。

感謝の気持ちが絶えずして湧き上がる。そのような中でいろんなエルフと話をしているうちに、気が付いたことがあった。それはエルフたちが人間の言葉を完璧に理解しており、また、器用に使いこなしているということであった。村を散策していた時にたまたまエルフ語での会話を聞いたのだが、外でエルフ語を聞いたのはその時と幼児同士の会話ぐらいで、学童以上のエルフたちは僕たちがいる範囲内では人間の言葉を使用していたのである。

今までの僕はイェンスと違ってエルフと無関係であることから、エルフ語とは縁がないものと思い込んでいた。しかしながら、ルトサオツィやラカティノイアを始めとするエルフたちとの心あたたまる交流を深めるにつれ、彼らとの会話をエルフ語でできたなら、という気持ちが次第に強まっていた。

遠い将来に僕が人間社会で窮屈さと違和感を覚え、いよいよ限界を迎えてエルフの村に移り住む可能性も今や全く無いとは言えなかった。しかし、そうでなくとも僕の中でエルフ語を学びたい理由がはっきりと芽吹いていた。エルフたちともっと親しくなってその美しい心の在り方から学べたら、どんなにか自分に芳しい変化をもたらすことであろう。僕の片言のエルフ語でさえ、彼らは優しく受け止めてくれていた。僕自身の成長のためだけではなく、様々な気付きを与えてくれるエルフたちに恩を返すためにも、流暢にエルフ語を操って彼らとさらに交流を深めたいと考えるまでになったのである。

一年以上前には意図さえできなかった願望に、感謝と感激をもって向き合う。人間社会において、異種族は全く隔離された世界の向こう側にあり、その存在すらほとんど見えないでいた。そのうえ、同じ地球に異種族が存在していることを知りつつも、全く興味を抱かない人たちの感性で社会が成立していた。彼らにとって、永遠に知らされることの無い異種族のことより、彼らの幸福に直結している人間社会のほうが重要であることは当然であろう。異種族について関心や興味を強く示す人は、その関心が無い大勢の人たちから浮いた存在として見られることが多かった。それは僕の経験からでもあったのだが、これほどまで関心が薄いのは、おそらく異種族側の意図も反映されているのではないのか。

僕が幼い頃にヅァイドを見つけ、再び魔力を授かって今ここに至るまでの過程は、偶然と奇跡とが美しくその模様を織り成していた。それを踏まえたうえで僕の中の強い意思を握りしめる。僕はなんという幸運を得たのであろう!

少し熱っぽい風が僕の髪をかきあげる。それは周りのエルフたちに対しても同じであった。この美しい夜をなおいっそう心に刻み込もう。全身をもって味わい尽くそう。目の前に広がる光景はなおも喜びと感謝に満ちているのだから。

 その時、ルトサオツィが話しかけてきた。

 「楽しんでいるかい?」

 「はい、とても。本当にありがとう、ルトサオツィ。あなたにどれほど感謝しているか、僕は滞在中に伝えきれるだろうか?」

 僕が感激しながら返した言葉を、彼は優しい眼差しとともに受け止めた。

 「君と出会って親しくなれたことは、私にとっても大きな喜びだ。それを私のやり方で表現しているだけに過ぎない。だから、君が心からの笑顔を見せてくれて本当に嬉しいのだ。私はアウリンコをまた十一月に訪ねる予定でいる。ユリウスには先日、訪問を確定させたと伝えてある。ユリウスの家でまた会えるのを楽しみにしている」

 彼の言葉を聞くなり笑顔がこぼれた。僕がユリウスの家でルトサオツィと再会することが確約されたのである。言葉に表すと陳腐なのだが、再会の約束があたたかい言葉とともに贈られたことに対し、何度も感謝の気持ちを彼に伝えた。ルトサオツィは僕の肩に手を回すと美しく微笑み、「よし、それならとっておきのことを教えよう」と言ってエルフの文化について語り始めた。

ルトサオツィの話は非常に興味深かった。人間がエルフの文化の一部を後追いしていると思えるほど、彼らははるか昔から普遍的な美しさを愛で、個性を尊んでいた。そしてエルフたちが人間と同じ対象物を見ても、価値観の相違から異なる感想を持つことは実に興味深く、僕の心に深い感銘を与えた。それは当然と言えば当然なのだが、貪欲な僕は彼らから、特にルトサオツィから学びを得ようと彼らの言葉に耳を傾け続けた。

ふと、この稀有な体験を共有しようとイェンスを探す。しかし、彼の姿はどこにも見当たらず、誰かがそれを気にかけている様子も無かった。彼もエルフの村での最後の夜を、彼なりに満喫しているのであろう。僕はそれ以上彼を気にかけることはせず、ルトサオツィや他のエルフたちとともに美しい夜を謳歌した。

それから少ししてイェンスの姿を見つけた。彼はラカティノイアと一緒におり、目が合うと微笑んで返した。そして彼はそのまま他のエルフたちと談笑を続けた。

夜が更けて人影もまばらになってきた。幼い子供たちはとっくに帰っており、にぎやかであった広場も少しずつ落ち着きを取り戻しているようである。そろそろ後片付けが始まると考えた僕は、手伝いたい一心でルトサオツィを探した。辺りに視線を向けたその時、笑顔のエルフたちと目が合った。

「クラウス、お前と会えてよかった。また、いつでも来いよ」

「人間社会に戻っても、ここでの思い出を大切にしてくれると嬉しいわ。また来てね」

またしてもあたたかい言葉をエルフたちから贈られ、不意に目頭が熱くなる。こらえようとして笑顔でごまかしたのだが、結局は感極まって言葉に詰まってしまった。一呼吸おいてようやく拙いエルフ語で表された僕の感謝の気持ちを、皆が美しい眼差しをもって受け止める。それらの瞳にはあの光があった。数多くの優しい笑顔に見送られ、他のエルフと話していたルトサオツィを見つけて控えめに声をかける。ルトサオツィの眼差しにもまた、あの美しい光があふれていた。

 「ありがとう、ルトサオツィ。今日は本当に楽しかった。何もかもが美しくて素晴らしかった。僕たちのために、わざわざこんな素晴らしい体験を贈ってくれたことに、心から感謝しています。あの、これから後片付けをするんでしょう? ぜひ、僕にも手伝わせて」

 「気にするな。君たちが楽しんだのなら、それだけで私たちも嬉しいのだ。明日はいよいよ人間社会に戻るのだろう? 疲れを取るためにも、今日はもうゆっくり休んだほうがいい。それと、イェンスは少し散策してくると話していたから、彼に会ったら君が先に戻ったと伝えておこう」

ルトサオツィの言葉にまたしても感涙して言葉に詰まる。それでもなんとか心を込めて彼に喜びと感謝の言葉を伝えると、彼は非常に親しみのある笑顔を見せてから僕を優しく抱きしめた。そのあたたかさにしんみりとしたさみしさを感じたのだが、努めて明るい笑顔で応え、小屋へは一人で戻る。その途中もイェンスの姿を見かけることは無く、彼が滞在している小屋にも人影はなかった。

シャワーを浴び、心地良い気分のままベッドの中にもぐりこむ。明日の朝にはいよいよここを離れるのだ。どこか信じられない気持ちで窓から見える夜空を眺める。訪れる前まではこれほどまでにエルフたちが優しく、居心地の良い場所であるとは思ってもみなかった。いったい、この滞在中にどれほどの喜びと感謝を得たのであろう。

この三日間、全てが調和していて美しかった。そこに穏やかな幸福といくばくかのさみしさを感じて心が揺れ動く。しかし、一日の疲れがそれらから僕をやんわりと引き離し、代わりに睡魔を送りこんできた。すぐに心地良い眠気に包まれ、全身の力が抜けていく。まぶたの裏にエルフたちの美しい笑顔が浮かんだのだが、静かに眠りの海へと沈んでいった。

 次の日も、僕は爽快な目覚めで朝を迎えた。とうとうエルフの村を去るのかと思うとさびしくもあったのだが、ルトサオツィを始め、関わった全てのエルフたちに笑顔で感謝の言葉を伝えようと決意していた。その言葉を考えながら身支度を整え、荷物をまとめる。

 外は気持ちよく晴れていた。早朝の新鮮な空気を吸おうと、小屋の外に出てぶらぶらと歩く。ふと人影に気が付いてその方向に近付くと、聞き覚えのある話し声が聞こえてきた。気になってそっと様子を伺ったところ、イェンスとラカティノイアであった。イェンスは背中を向けていたので表情は見えなかったのだが、ラカティノイアと抱き合いながら何度もキスをかわしているようであった。

 僕は思わず視線をそらし、素早くその場から離れた。拳を握りしめて空を見上げる。澄んだ青空が僕を優しく包みこんでいるように思え、いよいよ決心がつく。

友情を失うのはこわかった。だが、大切な友人の幸福を奪うことはもっと恐ろしく、到底受け入れられないものであった。何が最も重要で、大切なことなのか。僕は見極めているつもりであった。小鳥の優しいさえずりが耳に飛び込んでくると、小屋に戻って荷物を入り口の側に置き、それからルトサオツィの家へと向かった。

 彼の家に到着して中に入ると、見知らぬ美しい女性がルトサオツィと一緒に僕を出迎えた。僕が戸惑いつつも彼らに挨拶をすると、ルトサオツィが「彼女は私の妻でラエティティアだ」と女性を紹介してきた。突然の出来事に目を丸くしながら自己紹介を返したその時、ちょうどイェンスが室内に入ってきた。

 一目彼を見るなり、僕は驚きのあまり目を見開いた。彼は平然としていたのだが、匂い立つほどの美しさと魅力を放ち、自信にあふれ、内側から輝いているのが見て取れるほどであった。僕はイェンスのその様子から、彼に訪れた大きな喜びを直感的に理解した。彼は彼の美しい心を満たし、たくましい魅力を放つほどの甘美で満ち足りた世界の扉をも開いたのだ。それを思うと感激で胸がいっぱいになり、心からの祝福を彼に与えずにはいられなかった。

 ルトサオツィがイェンスにラエティティアを改めて紹介すると、すぐに付け加えて言った。

 「妻は君たちが魔力を身に付けて安定するまで、離れた場所にいてくれたのだ。彼女はエルフと大型妖精との間に生まれた。髪の色も、エルフの髪色と妖精の髪色が束になって交互に現れ、瞳の色も妖精の淡いピンク色にエルフの緑色が囲っているのがわかるだろう? エルフに妖精、そしてドラゴンが持つ魔力は、それぞれ種族特有の雰囲気を持っている。よって妻は、エルフの魔力と妖精の魔力をそれぞれ併せ持つのだ。君たちが受け取った魔力は、想像していた以上の速さで君たちの体に馴染んでいったのだが、それでも他の種族の魔力の影響を受けると定着するまで時間がかかる恐れがあった。特にクラウス、君と三日前に森で再会した時、まだ不安定な要素が残っているのはすぐに感じた。妻もアウラも魔力を完全に制御できているのだが、万全を期して君の負担を減らすため、妻とアウラからの提案でそうしてもらっていたのだ」

 彼は優しい表情のまま話していたのだが、僕は彼の言葉に戸惑うだけであり、ついには彼らに対して非常に申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。

 「すみません、僕がいたから離れ離れに……」

 僕の口からそれ以上の言葉が続かなかった。おととい山に登った際、ルトサオツィが優しい眼差しであの高い山のほうを見つめていた。その理由にようやく気が付き、愕然とする。彼らにやはり迷惑を掛けていたのだ――。そうなるとあっという間に罪悪感を覚え、彼らの顔を直視できなくなった。

 「クラウス、気にしないで。あなたが魔力を無事安定させることができて良かったわ。あなたたちをヅァイドに連れて行く前に挨拶を済ませておけば良かったのでしょうけど、初めて異種族の地を訪れ、これからヅァイドに会うという時に、ただでさえ処理すべき情報が次から次へとやってくる中で混合型の私と会ったら、余計に混乱させると思ったの。だから、まずは妖精という種族をただ知ってもらうために、あえてアウラに頼んだの。彼女は小型妖精族だけど、人間が想像する妖精のイメージそのものでしょ? どのみち、あなたたちとは必ず会うと最初から決めていたから、会えて光栄だわ」

 ラエティティアが優しく話しかける。その丁寧な説明を聞いてもなお、僕は当惑していた。その時、ラカティノイアが部屋に入ってきた。彼女はイェンスを特別な眼差しで見つめてから、僕たちに優しく微笑んで挨拶をした。その様子を穏やかに見守っていたルトサオツィが話を再開させた

 「いずれにせよ、気にしないで欲しい。君たちが短期間のうちに、たくさんの実のある経験をすることは私たちもわかっていた。とくに君たちをヅァイドに最初に連れていく時点で、最重要事項と最優先事項はすでに決まっていた。それは、人間と特に深い関りがある主要種族を最低限の情報で君たちに把握してもらうこと、そして君たちが与えられた魔力を完璧に体になじませることだ。それゆえ妻も私も、最良と考えた案を実行に移したまでなのだ。あえてこの話をしたのは、妻がいなかった理由を伝えるためだ。彼女は離れた場所で私たちを見守っていたし、君たちがこの家で食べた料理も、実は彼女と協力して作ったのだよ。だから、ずっと離れていたわけでもない。さあ、冷めないうちに朝食を取ろう」

 ルトサオツィはあたたかい表情で僕を見つめていた。しかし、頑固な僕はどこか釈然としなかった。厚意に甘えっぱなしの僕が、あまつさえ特別な配慮を彼らに強いていたのだ。それでも食卓にエルフの郷土料理が並べられると食欲がそそられ、前のめりになる。美味しそうな料理を目の前にするだけで心が揺れ動くとは、あまりにも単純過ぎるではないか。

 「では、いただきましょう」

ラエティティアの言葉を合図に、ルトサオツィが感謝の言葉を捧げる。僕は諦めておとなしく周囲に従うと、イェンスに追従して感謝の言葉を彼らに伝えた。ラエティティアは気遣っているのか、終始僕に微笑みかけており、そのあたたかさにまたしても感激と申し訳なさとが募った。

「美味しいでしょ、実は私も手伝ったのよ。ちょっとだけどね」

その可愛らしい声のするほうに視線を向けると、いつの間にかラエティティアの肩にアウラが乗っており、僕たちを微笑みながら見つめていた。

 料理はアウラの言葉どおり、本当に美味しかった。そして何より感慨深かった。一口一口が味わい深く、口に運ぶ度に楽しかった思い出とあの不思議な空間での出来事とが脳裏に浮かんでは去っていく。それと同時に、懐かしさと喜びとさびしさまでもが僕の中で複雑に渦巻いた。だが、それで終わりではなかった。僕がこれからすることを考えると、新たな感情がさらに加わった。しかし、それでも僕は決意を固く握りしめていた。心の奥底でうごめいた感情を押し殺して平静さを取り繕うと、食事を終えた頃合いを見計らうことにした。

 会話を楽しみながらも、隣に座るイェンスを脳裏に焼き付けるように見つめる。彼は僕の視線に気が付くと、あの美しい眼差しで微笑んだ。その奥で、ラカティノイアが美しい佇まいで僕たちを優しく見つめる。食事はほぼ終わりかけていた。

 「そろそろ時間だな、君たちを人間社会近くまで送り届けよう」

 食後に出されたお茶を飲み終えたルトサオツィが僕たちに話しかけてきた。それを受けて全員が立ち上がろうとしたその時、僕は一呼吸置いてからイェンスに向かって言い放った。

 「イェンス、君はここに残れ」

 「なんだって? クラウス」

 案の定、彼は非常に驚いた顔で僕を見つめ返した。イェンスだけではなかった。ここにいる全員も同じく、非常に驚いた表情で僕を見ていた。それを受けて弱気な自分が一瞬現れたのだが、気を強く取り直すとはっきりとした口調で続けて言った。

 「イェンス、君はエルフとしてこの村に留まったほうがいい。君は……君は、大切な存在とついに巡り合えたのだろう? このままここにいれば、君はもっと幸せになれる。ギオルギとムラトには僕からうまく説明するし、君の荷物も手配して届けよう。だから、君はこの機会を逃さないでありのままの自分でいられる、このエルフの村に留まるべきだと言っているんだ。エルフを驚かせてきた君なら、このままここに残っても疲弊することなく魔力も高めていける」

 僕はいっそう力強く、真っ直ぐに彼を見つめた。彼はじっと僕を見つめ返すと、静かに答えた。

 「クラウス、僕はドーオニツに戻るよ。義務感からじゃない、自分の意志でだ」

 「イェンス、何を言っているんだ! ここは君が望んでいた場所だ。ようやく君がありとあらゆる制限から解放され、望む生活を送れる希望の場所なんだ! ここにいれば、君は窮屈な思いをしなくてすむ。お互いに心を寄せあっている人と一緒に、幸福感に包まれながら暮らすこともできる。わざわざドーオニツに、人間社会に戻る理由なんか、何一つ無い!」

 僕は思わず声を荒げ、怪訝な表情を浮かべているであろう、ラカティノイアのほうを見た。しかし、彼女は困惑した様子もなく、ただ静かに僕を見ていた。

 「クラウス、君は僕の大切な友人であり、家族だ。僕が簡単に君から離れて暮らせるとでも?」

 イェンスは真剣な表情で返した。その彼の言葉が僕の心にまたしてもやさしく響いたため、あたたかい感激に包まれていく。この期に及んでなお、僕は彼の素晴らしさに気付かされていた。それでも彼に最善を届けようと、今にもこぼれ落ちそうな感情を必死に抑えつける。彼に後悔はさせたくなかった。

 僕はイェンスの美しい眼差しをあえて厳しい表情で見つめ返すと、彼の未練を断ち切らせるべく、思い切って退路を断つことにした。

 「イェンス、前から言おうと思っていた。僕は……僕は……」

 一瞬の沈黙が流れる。

「僕は……君なんか、大嫌いだった……」

 その瞬間、涙があふれて止まらなくなった。自分の言葉が稚拙で、なおかつ簡単に相手を傷付けることは自覚していた。しかし、いざ言葉にしてみると、考えていた以上の衝撃が僕を襲った。

――どれほど彼を好きであったのか。彼が僕にとってどんなに大切な友情であるのか。答えはわかりきっていた。

襲ってくる悲しみと苦しさから顔を上げることができず、涙を落としてうつむく。誰も物音一つさえ発しない静まり返った室内で、それまでの和やかな雰囲気を壊した自分自身を受け入れようとする。しかし、僕の中の深いところから簡単に拒絶され、身を切り刻むかのような苦しみばかりが増幅していく。

――これでいい。ここにいる全員に軽蔑されてもイェンスが幸福に生きるなら、僕は喜んで悪役も引き受けよう。

しかしながら、僕が失いかけている存在が、今までどれほどまで僕に喜びと安らぎを与えてきたのか。彼とともに過ごした日々全てが美しく、全身をあたたかく包むような思い出しかなかった。それを強く感じると、さらに悲しみとさびしさとに打ちのめされ、どうしてもこらえ切れない感情が涙となってあふれ続ける。

なぜ、彼の幸せを願って取った行動が、こんなにも苦しくて切ないのであろう? なぜ、僕はこうも不器用で無責任なのか。

 「クラウス……。いったいどうして僕が……僕が、君との友情を、君への愛を簡単に捨てることができると思ったんだ?」

 イェンスが途切れ途切れに尋ねる。彼の口調が僕を責めるどころか、優しく包み込むように感じられたため、ますます心苦しさと自責の念との間で煩悶した。

 「君のためだ……」

 その時、イェンスが僕を優しく抱いた。そして涙を落としてうつむいている僕の頭を優しく撫でながら、震える声でつぶやいた。

 「……ようやく掴んだ君みたいな美しい友人を、僕から取り上げようとするのか?」

 僕は真っ赤にはらした目で、とうとう彼を見つめた。すると彼も瞳から涙をあふれさせており、瞳にあの美しい光を放っていた。彼は僕を見て優しく微笑むと、涙ぐみながら言った。

 「君の涙が全てを語っている。僕を……僕を嫌いなら、なぜ君はそんな美しい涙を僕のために流すんだ。クラウス、君が僕の幸せを願って言っていることは充分理解している。だけど、僕はエルフとしての愛の表現を選ぶと決めたんだ」

 彼はそう言うと僕の口にそっとキスをし、続けておでこにキスをした。そしてなおも泣きながら立ち尽くしている僕を優しく抱きしめると、耳元でささやいた。

 「君がいたから、僕はここまでこれた。君がいたから……」

 その言葉を聞いた瞬間、僕は嗚咽をもらしながら彼を強く抱き返した。イェンスは僕の大切な友人だ……。僕にとってかけがえのない存在なのだ!

改めてその思いが全身を駆け巡ると、彼に幸福と自由を贈ることすらできないのだという、不甲斐なさからくる悔しさも湧き上がった。なぜ、僕はこうも不器用なのか!

僕の最初の提案で、イェンスは喜んでエルフの村に留まるであろうと考えていた。そのうえ、あのような失礼なことを言った僕に幻滅し、ますます移住を決意するに違いないとも思っていた。しかし、想像と全く異なった結果に、無能な僕にはこれ以上どうすることもできなかった。

「イェンス、君は……君はエルフたちと一緒にいたほうが……もっと幸せに……」

言葉に表しきれない想いが、嗚咽に交じってぽろぽろと落ちていく。

 「クラウス」

 不意にラカティノイアが僕に話しかけてきた。涙でぼやけた視界で彼女を見ると、彼女は美しい眼差しで僕を見つめており、慈愛に満ちているようであった。

 「あなたに教えたいことがあるの。あなたは非常に美しい存在だわ。あなたがイェンスのことを大きな愛で包んでいることもよくわかる。だからこそ、聞いてほしいの。私たちエルフは、いえ、魔力を持つ種族は人間と少し異なる愛情表現をするのよ。人間は愛情を感じる相手と一緒にいることを大切にする。それは私たちも確かに変わらないのだけど、もっと重要なことがあるの。それは愛する人に、魔力を意識しながら想いを与えるという行為なの。相手の存在を喜び、相手の幸せを祈り、美しいもの、優しいものが相手に絶え間なく注がれることを相手に願う気持ち、それが魔力を持つ種族が共通して持つ、最も美しい愛の形であり、喜びなの。クラウス、今のあなたがまさにそうだわ」

 僕は彼女の言葉に困惑しながらも、じっと話に耳を傾けた。

 「魔力を持つと、相手が自分に心を寄せているかどうかが感覚でわかるの。相手を想った時に喜びや安らぎを感じれば、相手も同じ気持ちでいる。それだけじゃないわ。相手への愛と自分自身への愛で自己を満たすことができれば、さらに言いようもない安心感と幸福感に包まれるの。だから、まずはお互いの心が寄り添っていなければ、たとえ相手が目の前にいても何も意味が無いのよ。大切なのは心を自己愛で満たすこと、そして相手にあたたかい想いを与えること。だからラエティティアと兄も、そしてあなたと私も、物理的に離れていたとしても全く問題がないのよ」

 彼女の話は衝撃的であり、感情が高ぶっていたからか、即座に全てを理解できずにいた。その時、なぜか脳裏にリューシャの笑顔が浮かぶ。ああ、そうだ。彼女はとても大切なことを僕に教えてくれていた。だが、しかし――。

気持ちをなるべく落ち着かせながら、ラカティノイアの言葉を頭の中で反芻する。するとようやく、それまで僕が見えていなかった世界と価値観を理解し始めた。ルトサオツィとラエティティアのほうを見ると彼らは優しい眼差しで僕を見ており、ルトサオツィは「君は何も心配しなくてもいいのだ」と近寄って僕の頭にキスをしていった。その優しさにまたしても涙があふれる。彼らはどこまでもあたたかかった。

目を閉じて一呼吸置く。『相手に想いを与える』『魔力を意識する』。その言葉がぐるぐると頭の中で駆け巡ったかと思うと、突如として消え去った。僕は急激に理解すると、ようやくイェンスの顔を見つめた。彼は目が合うなり、涙でにじんだ瞳で僕に優しく微笑んで応えた。

 「イェンス。君が……君が言った、エルフとしての愛の形を選ぶ、とはそういう意味だったのか」

 僕が紡ぎ出すように話しかけると、彼は静かに答えた。

 「そうだ。僕はエルフとしての考え方を取り入れて生きることを決めたんだ。そのためにはエルフの愛の形を今、実行に移さないといけない。彼女と一緒にいることは、確かに僕にとって素晴らしく、本当に幸せなことだ。だけど、それでは僕は何も変われない。僕は成長を望んでいる。だから未熟な僕が、エルフとしての振る舞いや考え方を実行しなければ、結局は中途半端な存在として浮いてしまうし、自ら成長の芽を摘んでしまうことになるんだ。それにこのままエルフの村にいれば、魔力の低い僕は周囲に頼らざるを得ないし、彼女にも迷惑をかけてしまう。でも、それは僕の願う関係じゃない。僕が魔力を高めて、少しでも自立した存在に近付いた時こそが、僕が考える彼女との理想の関係の礎になると思うんだ。それに、クラウス、君と気軽に会えない生活は想像できない。君となら、僕はありのままの自分を見失うことなく人間社会で暮らしていけるし、お互いに相乗効果をもたらして魔力をも高めていけると思う。そしてそれこそが、今の僕が考える最良の道なんだよ」

 その言葉からイェンスが彼自身のこと、ラカティノイアのこと、そして将来のことまでをも広い視点から深く考えていたことに気付かされ、僕の取った幼稚で軽率な言動の数々に途端に後悔を抱く。僕は何一つ、魔力を得た経験からまたしても学んでいなかったのだ! 

ざわめく心が僕を煽り立てる。リューシャの言葉が再び脳裏をかすめるのだが、僕は動揺を覚え、自分に反発し始めていた。不器用で哀れな自分自身に失望したまま、何か言葉を返さなくてはという気持ちだけでラカティノイアを見る。すると彼女は微笑みながら、イェンスではなく僕のほうに近付いて来た。

それと同時にイェンスが僕から離れていく。僕は不安と動揺からラカティノイアとイェンスとを交互に見つめた。ラカティノイアは僕の目の前に立ったかと思うと、僕の顔に手を添えて背伸びをした。困惑から彼女を見つめているうちに、不意に彼女が僕の口にキスをする。思いがけない彼女の行為に、動揺から慌てふためいてイェンスを見たのだが、彼は非常に落ち着いた様子で「君は彼女のキスを受け取るに値する、美しい存在だ」と微笑んだ

僕は恥ずかしさと混乱から、ラカティノイアと視線を合わせることができず、ますます言葉に詰まってしまっていた。なぜ、彼女は僕にキスをしたのか。

 「クラウス、これ以上あなた自身を責めないで。あなたはこういった時、どのような思考を選ぶべきなのかを学んでいるはずだわ。何より、あなたがイェンスに伝えた全ての言葉が愛から来ていることを、ここにいる皆が理解している。あなたは美しい愛の形を、あなたの優しさを添えて私たちに見せてくれたのよ。あなたがどれほどまでに彼の幸せを願っているのかも、本当にひしひしと伝わってきた。あなたは本当に彼のことを愛し、大切に思っているのね。クラウス、そんな自分をもっと誇りに感じて。それともう一つ言わせてね。もし、あなたが魔力を持つ相手に心を寄せたなら、ぜひその相手に魔力を意識しながら想いを送ってほしいの。それであなたが幸福感に包まれたら、相手も同じ気持ちなのだから」

 ラカティノイアのあたたかい言葉は僕の中で静かに響いた。僕は今ここで自分を受け入れる必要があるのだ。そこで僕は少しの間、意識的に自分自身を受け入れることにした。否定的な感情がやわらいだことで、ようやくラカティノイアの言葉が全身に馴染んでいく。そこに感謝を覚えると、内側から静かな喜びがよみがえってくるのを感じた。

「ありがとう、ラカティノイア。僕はまた同じ過ちを犯し、道を踏み外すところだった」

心に穏やかさを感じながら彼女にしっかりと伝える。彼女は優しく微笑んで返すと、「あなた自身の力で取り戻したのよ」と返し、それからイェンスを特別な愛情からくる眼差しで見つめた。

 その様子を受けて、僕の脳裏にまたしてもリューシャが思い浮かぶ。しかし、ドラゴンである彼女はやはり遠い存在であった。ひょっとしたら、もう二度と彼女と会うことはないのかもしれないのだ。それでもラカティノイアの言葉を思い出し、リューシャに意識を向ける。

次の瞬間、得も言われぬ幸福感が僕を包み、心がほんのりあたたかくなるのを感じた。思いがけない反応に驚き、気のせいではないかと疑ったのだが、一呼吸置いて再度魔力を意識しつつリューシャのことを考える。すると僕の勘違いではなく、よりいっそうあたたかい喜びがまたしても僕を取り巻いていった。

僕は彼女に忘れ去られていないのだ!

この小さな反応だけでも僕には充分であった。こういった経験を積み重ねていくにつれ、魔力を持つ者が大切にしている愛の表現方法についてさらに理解を深めていくのであろう。そう考えた時にようやく、魔力を持つ相手なら物理的距離にかかわらず、いつでもあたたかい感情を共有できるということを身をもって体験する。それは不安をあっという間に一蹴するものであった。

 「みんな、ありがとう。場を乱してしまったのに、時間を割いてまで僕に大切なことを教えてくださったことに、本当に感謝しています」

 僕は心を込めてこの場にいる全員に感謝の気持ちを伝えた。すると誰もが僕を優しく抱きしめ、あのキスを贈ってくれた。アウラまでもが小さな体を大きく使って僕を優しく抱擁し、茶目っ気を添えてキスをしてくれたので、そのあたたかさにまたしても感激せずにはいられなかった。

 「人間にキスをしたのは初めて! せっかくだから、イェンス。あなたにもしてあげるわね」

 そう言うと彼女はイェンスにも軽くキスをし、「人間とここまで親しくなったと知ったら、みんな卒倒しちゃうわね」と朗らかな笑い声を上げてラカティノイアの肩に座った。

わずかな期間でも僕たちの心の距離がぐっと狭まり、寄り添っている。それは、僕だけの勘違いではなかった。僕たちを包みこんでいる雰囲気はあたたかさとやわらかさに満ちており、種族を超えて友情を結ぶことができることを教えてくれていた。

 「君たちが人間社会に戻っても、離れているとは思わない。私たちが心を寄せ合い、相手を想っていることがわかっているからだ。特に君たちが力強い魔力を得た今、ドーオニツに戻ってもその感覚に磨きをかけていくことは確信している。さあ、行こう。あまり帰りが遅くなれば、君たちを送り届ける人間も、待っている人間も気にかけることだろう」

 ルトサオツィはそう言うと優しく微笑んだ。その言葉を受けて小屋に荷物を取りに行き、名残惜しさを隠しながらルトサオツィの家を出る。その時、すっかり顔馴染みとなったエルフたちが僕たちを見送るために集まってくれた。口々に別れの挨拶をかけてくるので、イェンスと僕とで何度も何度も感謝の言葉を彼らに心を込めて返していく。

そのウボキ村のエルフたちに見送られながら、ルトサオツィとラエティティア、そしてラカティノイアとアウラがイェンスと僕を取り囲んだ。彼らから不思議な言葉が発せられ、体の周りが発光した次の瞬間にエルフの村入り口にまで移動していた。

 「ありがとう、ルトサオツィ。ありがとう、ラカティノイア。ありがとう、ラエティティア。ありがとう、アウラ」

 僕は彼らに何度も心を込めてエルフ語でお礼を伝えた。イェンスも同じように感謝の言葉を伝えたのだが、最後にラカティノイアに近寄ると彼女を抱き寄せ、特別なキスを贈った。

その光景にそっと背を向ける。すると、ルトサオツィが僕の横に並んで耳打ちした。

「おそらくだが、彼がそういった行動を見せたことが今まで一度も無かったのだろう? だが、それは妹も同じだ。あの妹が、あそこまで心を許したのは彼が初めてなのだ」

彼の言葉に驚くと同時に、まるで自分のことのように喜ぶ。ラカティノイアがひときわ目を引く存在で、ルトサオツィとはまた異なる敬愛をエルフたちから受けていることは、これまでの交流からうすうすと感付いていた。そのような立場である彼女が、僕の親友であるイェンスを受け入れてくれたのだ。

僕は何度も何度も、イェンスとラカティノイアの未来があたたかい愛にあふれていくことを心から願った。きっと彼なら、リカヒが得られなかったものをラカティノイアに与えるに違いない。そのことを思うだけで、大きな希望が喜びとともに押し寄せてくる。イェンスも僕も、可能性という世界に歓迎されているのだ。

 イェンスとラカティノイアが輪に戻ると、ルトサオツィがどこからともなく三冊の本を取り出し、「これを渡そう」と言って僕たちに手渡してきた。イェンスがそれらを全て受け取ったところで、ルトサオツィが説明を始めた。

 「エルフの言葉を学ぶための本だ。人間の言葉と対応してあるから、君たちさえ興味があれば、ぜひ学んでみてほしい。そうでなくとも、また必ずここに戻ってくるのだぞ。君たちならいつでも大歓迎だ」

 ルトサオツィはそう言うと僕たちを交互に優しく抱きしめ、口にキスをしていった。彼の厚意と言葉にまたしても感激し、目頭が熱くなっていく。

 その時、そよ風が止み、張り詰める緊迫した空気を感じた。ふと僕に対する視線を感じたため、辺りをそっと見回す。甘い香りに誘われるかのように視線を上へと向けると、村の入り口の高い木の上にリューシャがいた。

その瞬間、僕は呼吸を忘れた。

 (あなたは美しい存在よ、クラウス)

 彼女の声が頭の中で響く。僕は感謝の気持ちをもって彼女を見つめ返した。彼女は僕を見つめて微笑んでおり、あの美しい眼差しも優美な姿も完璧なままであった。

その圧倒的存在感から、イェンスやルトサオツィたちもリューシャに気が付き、視線を向ける。そして彼らが一様に驚いた表情を見せた次の瞬間、彼女はうす紫色の大きなドラゴンへと姿を戻し、上空を三度旋回してから忽然と姿を消してしまった。

 「ドラゴンが自らの意思でここ辺りに来るなんて、滅多にないのよ。しかも、エルフの村の中でならまだしも、この場所でありのままの姿をさらけ出すなんて――」

 アウラが驚いた表情で僕に言った。僕はその意味に驚いて言葉に詰まったのだが、リューシャがわざわざ僕を見送りに来てくれたのだということに気が付くと、言いようもない喜びと感激とに満たされていった。

 「きっと君はドラゴンとまた関わるだろう。いや、これ以上は何も言うまい。いずれにせよ、君たちなら人間社会でも順調に魔力を高め、さらに成長していく。次にまた会えるのを本当に楽しみにしている」

 ルトサオツィに続いて、ラエティティアが話しかけてきた。

 「二人とも本当にありがとう。遠慮しないで、また必ず来てね。近いうちに、きっとよ。今度はアウラと一緒に、妖精の住む地区も張り切って案内するわね。さて、これからあなたたちだけを軍の設営基地に近い場所まで魔法で移動させるのだけど、他の人間にその瞬間が見られないよう、いくらか距離がある場所に送るから、申し訳ないのだけど少し歩いてちょうだいね。それじゃあ、残りの旅行を楽しんで」

 彼女はそう言うと、僕たちを優しく抱きしめた。ルトサオツィが愛する女性は人間の浅い思考をはるかに超えた美しい心と慈しみを持っており、その素晴らしいものを惜しみなく僕たちに分け与える寛大さも持ち合わせていることも、この優しい抱擁から感じ取っていた。

僕たちを再び、ルトサオツィとラエティティア、そしてラカティノイアとアウラが取り囲む。四人から不思議な言葉が流れ出ていくにつれ、僕たちの体を光が覆っていく。そして四人の笑顔が見えた次の瞬間、僕たちは最初にルトサオツィと合流した殺風景な荒野へと戻っていた。

 すでにルトサオツィたちの姿はどこにも無く、先ほどまであたたかく触れていた感覚だけが残っていた。それでも僕の心は喜びと安らぎとに満ちていた。その理由を知った今、魔力を感じながらイェンスを見る。彼は美しい眼差しで僕を見ており、その瞳にはあの輝く光があった。

 「行こう」

 どちらからともなく声をかけ、スーツケースを引きずりながら歩き始める。やがて軍の設営基地が遠くに見え、ゲートの向こうで兵士たちが僕たちを見つけて騒ぐ声が届くと、僕たちは笑顔で彼らに手を振って帰還を知らせた。

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