第24話

 目が覚めると寝過ごした気がして、慌てて飛び起きる。しかし、時計を見るとまだ朝の七時過ぎであった。シモとホレーショが迎えに来るのは午前十時頃である。僕は安堵すると身支度を整え、買っておいた朝食を食べた。それから三週間も部屋を空けるためゴミをまとめ、戸締りの確認をする。そして荷物の最終確認をし、航空券と特別管理区域立入通行許可証に財布、ドーオニツ在住身分証明証などを一通り確認していると、スマートフォンが着信を知らせた。母からであった。

「クラウス、今日から三週間旅行に行くんでしょう? 気をつけるのよ」

「ありがとう。注意を怠らないようにするし、大丈夫だよ。僕はもう子供じゃない」

 僕の言葉に母は電話越しに明るく笑って答えた。

「そうね、イェンスも一緒だし、楽しいものになるわね。いってらっしゃい」

 電話の向こうで父が咳払いする音が聞こえ、電話はあっさりと切れた。

 僕はこの非常に短いやり取りで、思いのほかあたたかい気持ちになっていた。家族も僕も頻繁に連絡を取り合うほうではなかった。以前、母は『気に掛けているのだけど、私も忙しいから、あなたは元気にやっているのだと思っている』と話していた。薄情なのかもしれないのだが、僕も滅多なことで実家に連絡を入れることはなかった。それでも家族とのつながりを、僕はたった数十秒の電話に見出していたのである。

 自然と優しい気持ちになると、窓を開けて少しの間、いつものように慣れ親しんだ風景を眺めた。ほほを撫でる風はどこまでも心地良く、さわやかである。

 時刻を確認すると少し早かったものの、部屋を出てアパートの前で待つことにした。トイレを済ませ、窓を閉めて鍵を掛け、火元の確認を終えるといよいよ感無量になり、三週間後にいったいどのような自分がこの部屋を再び訪れるのかと考えながら静かな室内を見回す。座り慣れたソファがどことなくさびしげにも見えたのだが、次に座る時にはおそらく新たな心境に至っていることであろう。僕は力強く室内に背を向けると玄関のドアを静かに開け、落ち着いて戸締りを確認した。

 スーツケースを軽々と持ち運びながら階段を降りていく。荷物を少なくしようと、スーツケースの半分は空っぽであった。しかし、三週間後に戻って来る頃には中身が満杯になっているはずなのである。旅先でどんな経験が待ち受けているのか。そしてこのスーツケースの中がいったいどんな出会いを詰め込んでいくのかを想像するとさらに愉快な気分になり、一気に階段を駆け下りた。

 天気は快晴であった。風が薫り、どこまでもさわやかな空気が僕を取り巻く。シモとホレーショはまだ到着していなかったのだが、時計を確認すると約束の時間まで五分も無かった。

 見慣れたアパートの前の風景はいつもの土曜日の午前中そのものの光景であり、穏やかさの中にも活気を秘めていた。そこに同じアパートの住人が出入り口から出て来たので、軽く挨拶をする。彼は短く挨拶を返すとそれ以上僕を気にもかけることなく、スマートフォンを片手に去ってしまった。

 その時、僕のスマートフォンが鳴った。シモからだと直感して電話を取る。案の定、彼からであった。

「おはよう、クラウス。お前のことだ、すでにアパートの前で待っているんだろう?」

「おはよう、シモ。そのとおりなんだ。五分前から待っている」

 彼の声を聞いた途端に嬉しさが一気に込み上がってきたのだが、努めて平静さを装う。しかし、優秀な彼には見抜かれていたようであった。

「お前、落ち着いて話そうとしているんだろうけど、声が嬉しそうだぞ。ああ、この信号が青になればすぐだ」

 その言葉を受けて道路の先に目をやると、遠くにあの黒い車が先頭より何台か後に停まっているのが見えた。

「見えたよ」

「俺にもお前が見えた。電話を切るぞ」

 信号が青に変わった。先頭の車が動いて、彼らの車も動き出す。すぐに僕の前に車が到着した。僕が笑顔を見せるとシモとホレーショも笑顔で応え、シモが車から降りてきた。

「シモ。今日は本当にありがとう」

「気にするな、荷物を入れるぞ」

 彼は車のハッチバックを上げると、僕のスーツケースを掴んだ。

「かなり軽いな」

 彼は続けて「乗っていろ」と指示してきたので、早速車内へと乗り込んだ。

「やあ、調子はどうだ? クラウス」

「絶好調だよ、ありがとう。ホレーショ」

 僕は彼に会えたこともやはり嬉しくて、思わず前のめりになった。

「お前本当に嬉しそうだな」

「そりゃ、旅行に行く楽しみもあるけど、君たちの姿を見て嬉しかったんだ」

 僕は正直に伝えた。

「旅行のほうが楽しみだろう、お前は本当に変わっているぜ」

 ホレーショが優しい眼差しで悪態をつく。そこにシモが戻ってきて、車はすぐに次の目的地へと移動を始めた。

 あっという間にイェンスの姿が視界に現れる。シモが同じように車から降りてイェンスと挨拶を交わすと、荷物を車に積み込んだ。

「おはよう、クラウス。おはよう、ホレーショ」

 イェンスが笑顔を浮かべながら隣に滑り込んできた。

「おはよう、イェンス」

「おはよう。お前もその様子だと、絶好調といったところだな。よし、行くぞ」

 シモが車に戻ったので、ホレーショが早速空港へと車を走らせる。途中で検問があるのだが、僕たち自身が特別政府関係者であることから、おそらくあっさりと抜けてすんなり空港に到着するであろう。

 動き始めて間もなく、シモが神妙な面持ちで振り返って話しかけてきた。

「お前たち、ユリウス将軍から例の落とし物を預かっている。中身は宇宙の写真や映像を収めたUSBメモリに、手紙を添えてあるらしい」

「USBメモリ? エルフの落とし物が?」

 その突拍子もない言葉に、僕は思わず怪訝な表情で聞き返した。

「そうだ」

 シモはジャケットの内ポケットから小包みを取り出した。イェンスがそれを受け取り、訝しげに外観を眺める。ユリウスの封緘がなされたその小さな灰色の小包みの中身が、宇宙の写真や映像を収めたUSBメモリとはやはりにわかには信じ難かった。

「俺も驚いて、念のために将軍に聞き返したのだが、USBメモリだとはっきりおっしゃった。俺が困惑していたから、将軍はさらにご説明された。『エルフの村でインターネットの閲覧はできないが、パソコン自体はある』。思えば、同じ地球にいるんだ。エルフの村に全く人間のものが無いわけではないのだろう。人間社会にも、エルフやドワーフの工芸品は非常に珍しいが、正規の販売経路で流通しているしな。俺が知っているのはここまでだ。確実に言えることは、人間社会のものも少なからずある、ということだ」

 僕は驚いた表情のまま、イェンスを見つめた。彼もまた、困惑の色を隠すことなく僕を見つめ返す。

 想像していたエルフの生活様式は牧歌的で、昔ながらの手間暇かけたやり方が当然のように存在していると勝手に考えていた。それには根拠があり、数少ない人間社会での異種族の資料にそのような記載がなされていたからである。しかし、それは人間側の根拠のない想像かもしれなかった。いや、ユリウスがかつて指摘していたように、異種族は人間から興味をもたれることのないよう、あえて無骨さを強調しているのではないのか。人間よりはるかに高い知能を持つエルフたちが牧歌的なだけの存在と考えるのは短絡的で、その背後で人間には到底真似のできない、高度な文明を築いて謳歌しているのをわざと隠していると考えるのが適切なのだ!

「お前たちの動揺は理解する。俺もにわかには信じがたい」

 ホレーショが運転しながら声をかけてきた。

「だから、お前たちがその目で確かめてくればいい。そう考えれば、ますます楽しみになるだろ?」

 イェンスと僕はその言葉に強くうなずいて返した。明日には今までベールに包まれてきた幻想の世界を、この目ではっきりと捉えているのだ。その瞬間、得も言われぬ興奮が僕の中を貫いていく。

 僕はゆっくりと深呼吸をし、そして軽く目をつむった。いや、まだ――まだ空港にすら到着していないのだ。逸る気持ちを笑顔に乗せてイェンスを見る。彼は微笑み返すと、その落とし物の小包を大事そうにバッグの奥底へとしまい込んだ。

「それとこれはユリウス将軍からのご伝言で、エルフの村を出て軍の担当者と合流したら、いったん将軍に連絡を入れてほしいそうだ」

 シモの言葉に「確実にそうする」とイェンスと僕とで返す。ユリウスのことだ、きっと僕たちのことを心配して言ってくれたのであろう。

 その後もとりとめのない会話は続き、気が付けば車はCZ‐5地区まで来ていた。車の流れも順調であり、ホレーショが車のラジオから流れてくる曲を軽く口ずさみながら運転している。会話が落ち着いたこともあって、イェンスと僕はノリのいい曲を耳にしながら静かに車窓の風景を眺めていた。

 不意に不思議な沈黙が車内に流れる。赤信号で車が止まると、ホレーショがささやくほどの小声で、くつろいでいたシモに話しかけたのが耳に入った。

「俺たちはこいつらと知り合ってまだ一年も経っていない。会った回数だって両手に収まるほどだ。なのに、今じゃすっかりこいつらのことを気に掛けている自分がいる。異種族と関わりがあるとわかった時はなるほどと思ったりもしたが、今思えばそれが直接の原因でもない気がする」

 僕は彼らが声をひそめたことで、あえて彼らの会話がラジオの音で聞こえない振りをした。

「そうだろうな」

 シモは小声で答えると、座りなおしてホレーショに顔を近付けてささやいた。

「彼らは素直で優しい。かと思えば、骨があって強い意志を秘めている。人懐っこさもあるくせに、嗅覚がきいて不穏な奴らを嗅ぎつけ、人見知りもしやがる」

「くそ、俺はなんだってこんな気分なんだ。たった三週間じゃねえか。しかも、こいつらにとっては大事な意味を持つ旅行だ。さらに大きく成長するきっかけになるんだ」

 彼らの言葉は本当に嬉しかった。しかもその口調や内容があまりにあたたかいものであったため、感激から笑顔がこぼれそうになる。それをひたすら抑えるべく、外の風景に目をやる。淡々と流れていくドーオニツの風景ですら新鮮に感じられたのは、彼らとの関係が僕たちにとってもはや特別であり、重要な意味を持っていることに対する感謝と感激に僕がひたっているからであった。

 車はCZ‐12地区へと入った。同じドーオニツでもほとんど来たことの無い地区へ来ると、浮足立っていることもあってもの珍しく感じられる。そこから思考が飛躍し、ふとシモとホレーショが仕事でドーオニツに頻繁に訪れるのかが気になり、守秘義務を理解しながらも軽い気持ちで彼らに尋ねた。

「ねえ、君たちは仕事でよくドーオニツに来るの?」

 突拍子もない僕の質問に彼らはラジオの音を小さくし、落ち着いた口調で答えた。

「それなりにな。アウリンコもドーオニツも新しい道路がつくられることはほとんど無いうえ、その道路も区画に沿って整備されているから、道を覚えるのは簡単だ。だが、実際に走行してみないとわからないこともある。詳しい内容は職務上の機密だから言えないが、お前たちの住むアパートの前の通りは、以前も何度か通ったことがある。まあ、お前らは頭がいいから、それがどういった状況なのか、言わんでも想像がつくだろう。いずれにせよ、アウリンコとドーオニツは持ちつ持たれつといった関係だから、仕事で来る際はドーオニツ側にも協力要請してから訪れている。いや、アウリンコ側がドーオニツ側を従えているといったほうが適切かもしれんな」

 シモはそう言うと、意味ありげな表情を浮かべて付け加えた。

「だが、仕事以外でなら今後も間違いなく来る。特にこいつがな。協力要請どころか、絶対命令かもしれないぞ」

 彼はホレーショを見て笑っていた。

「俺はまだ、あのレストランのケーキを全種類食べていないからな。フルーツタルトも捨てがたい」

 シモのおどけた口調にホレーショが真面目な様子で答えたのがおかしくて、イェンスと僕はつい笑ってしまった。

「お前ら、恵まれているんだぞ。あんな美味しいケーキを出すレストランが近くにあるんだからな」

 ホレーショが拗ねた口調で言葉を返す。それを聞いたシモが笑いをこらえながら彼に話しかけた。

「あのレストランでケーキを食べる機会はいくらでもあるさ」

 それを受け、イェンスも僕も朗らかな口調でホレーショに話しかけた。

「また一緒に行こう。おごるよ」

「言ったな、俺は覚えてるぞ」

 ホレーショは吠えるように言葉を返したのだが、最後のほうはどうやら笑いをこらえていたらしかった。そこにシモが「ほら見ろ、もう職務命令が下されたようなもんだ」と茶化したので、とうとうホレーショも吹き出すように笑う。

「くそ、こいつら。俺は運転中だと何度言えばわかるんだ」

 ホレーショの明るい悪態で車内に笑い声が飛び交う。僕は何もかも愉快な気分で受け止めていた。

 車はついにCZ‐17地区のノッラ近くまでやって来た。ノッラ一帯は、ノッラを避けてC地区とB地区を結ぶ道路以外は空港があるため特別監視地域であり、保安と監視の面から進入経路は限られていた。そのため、ノッラに近付くにつれて交通量が増えるのは当然のことであり、ほとんどの人は公共交通機関を利用して空港へ向かうのが普通であった。

「予想どおりの混み具合だ」

「俺たちには無縁だ」

 シモのつぶやきにホレーショが余裕のある口調で答えると、この先にある政府関係者専用レーンに進入すべく、車線を変更した。その間、シモが政府関係者を証明するカードが機器に挿入されているかを確認する。車線を変更し、少し走るとゲートが見えてきた。そこで当然のごとく、車が減速するだけで先に進んだので、シモが冷静な口調で「爽快だな」と言って窓の外に目をやった。

 管制塔らしきものや空港のターミナルが遠くに姿を現し、さらには飛行機が離発着している様子が間近に見えてくると、僕はますます舞い上がった。車が政府関係者専用レーンを進み続けているからか、あっという間にターミナルの入り口まで到着する。すると、ゲートで送信された情報によるものなのか、事前にユリウスから連絡があったのか、いずれにせよ保安担当官がすでに僕たちを待ち構えており、素早く近付いたかと思うと一時停車を求めてきた。

 シモが身分証明証で確認を受ける。それから彼が担当官に用件を簡単に告げると、その担当官は微笑みながら「将軍から話を伺っております。このままお進みください」と言葉を返した。彼の言葉どおりに車が進むと、一般向けの駐車場とは別の場所に案内され、すんなりと車を停める。そのあまりに順調な事運びに驚いてイェンスを見ると、「ユリウスだから可能なんだよ。アウリンコにいる上流階級者でも、さすがにここまで優遇されないはずだ」と神妙な面持ちでささやいた。その言葉に、この地球上に住むおよそ七十億もの人々を統べる外殻政府の、大統領をはるかにしのぐ人気と信頼を受けていると言われているユリウスの地位と実力とを肌で感じ取る。しかしそれ以上、公人としてのユリウスを思い描くことはしなかった。

 彼の素の姿を僕は知っている。その姿こそが、僕の友人ユリウスなのだ。

 屈託のないユリウスの笑顔を思い浮かべて優しい気持ちになる。僕はイェンスに微笑むと、「でも、僕たちは素の彼を知っている。彼のおかげでここまで来られたけど、肩書きが全く無かったとしても素の彼を好きだな」と耳打ちした。イェンスがそれを聞くなり弾んだ笑顔を見せ、「僕もなんだ! 彼が肩書き全部を降ろした状態でも僕たちを受け入れてくれたことに、心から感謝している」とささやいたため、たまらなく嬉しくなって笑顔があふれる。

「降りろ」

 ホレーショの合図で車から降りるなりすぐに空港の担当者数名が僕たちを出迎え、スーツケースを台車に乗せた。僕が慣れない状況に戸惑っていると、ホレーショが「大丈夫だ、俺たちが付いている。それにお前たちは乗る飛行機こそ一般乗客向けだが、お前たちの扱いを特別政府関係者にする必要があるからな」と耳打ちした。

「行くぞ」

 シモがイェンスの隣に並んで歩き始める。そして僕の隣にホレーショが並ぶと、彼らはまるで僕たちを警護しているかのような振る舞いを見せた。しかし、彼らが緊張感を漂わせるのではなく、悠然とした面持ちを見せていたため、僕はだんだんと緊張がほぐれていくのを感じた。

 ターミナル内に入ると、確かに僕たちが一般旅客用通路とは異なる通路を歩かされていることに気が付いた。政府関係者と同じ扱いを受けていることを真摯に受け止める中、警備員が配備されている扉の奥へと空港の担当者が進んでいく。その室内は僕が知っているような空港のチェックイン・カウンターでは無く、広々とした高級ホテルの一室のような内装で、特別感あふれるものであった。

 担当者の勧めで上質の革が艶めくソファに座る。彼らは早速僕たち全員のアウリンコ及びにドーオニツ居住者身分証明証を確認し始めた。それから次にイェンスと僕に航空券の提示を求め、端末で確認を取る。それが終わると、シモが今回の訪問の経緯を担当者に説明し出した。

 普段からユリウスの警護を担当しており、特別な役職にも就いている彼らが、なぜ他の省庁の関係者が同行しないのか、なぜ政府専用機を利用せずに一般旅行客を装う必要があるのかを重みのある言葉で説明していくため、後付けの設定がまるで真実味を帯びていくようである。その説明にもユリウスが万全の根回しを済ませており、担当者や他の関係者も疑うことなくシモの説明に耳を傾けている様子を、僕は静かに見守っていた。

 彼らから特別管理区域立入通行許可証の提示を求められ、丁寧に提示する。すると、関係者全員が一様に驚いた表情を浮かべて覗き込んできた。

「……これなのですね! 初めて拝見しました。疑うわけではありませんが、発行確認は法律上に定められた必要手続きですので、少々お待ちください。国家安全省に確認いたします」

 その男性はパソコンに接続された端末機器に、僕たちの特別管理区域立入通行許可証を挿入した。それからキーボードに何かを打ち込み、画面を注視する。表示された結果に納得した表情を浮かべると、「お待たせしました。発行確認もすぐに取れましたので、搭乗手続きへと進みます」と笑顔を見せた。

 イェンスも僕もおとなしかった。彼の胸中は定かではないが、おそらく同じ思いであろう。表立って簡単に異種族に会えるとは思っていなかったのだが、ここまで複雑で煩雑な確認が法律に基づいて管理されているのであれば、ユリウスが親身になって根回しをしない限り、決して成し遂げえないことのように思われた。

『奇跡』という言葉が脳裏をよぎる。そうなのだ、まさしくこれも奇跡なのだ。僕一人の力では不可能なことも、イェンス、ユリウス、そしてシモとホレーショの力を借りることによって可能となっていた。そのことに改めて想いを馳せると、彼らに対して言いようもない感謝が湧き上がっていく。

 彼らだけでは無かった。いろんな人たちのおかげで、僕は支えられていた。僕が異種族の地へ渡航できるのも、それこそ様々な職業の様々な立場の人たちが連携しているからこそ可能なのである。

「僕たちは本当に幸運らしいね」

 イェンスがささやいた。その言葉に心から同意したその時、件の担当者が話しかけてきた。

「実は大臣のお計らいで、お二人をファーストクラスにご案内することも可能でございます。差額の料金はもちろん徴収いたしませんので、どうぞご利用くださいませ」

 その言葉に驚いて僕たちは言葉を失ってしまった。政府関係者の扱いというのは、ここにまで及ぶというのか。思えば、僕たちは非常に重要な役割を担っていた。少なくともその任務を終えるまで、それ相応の扱いが必要になるのであろう。

 初めてのファーストクラスを経験し、居心地の良いまま移動できることは確かに魅力的な提案であった。しかし、僕はなぜか尻込みを感じていた。

 シモとホレーショを見ると、「お前たちに任せる」とだけ言って微笑んだ。そこで僕はイェンスの様子をそっと伺った。彼もまた戸惑っているように見えたので、非常に小さな声で話しかけた。

「どうする?」

「君もどうやら悩んでいるみたいだね」

「そりゃそうさ。ファーストクラスって本来はすごく高いんだろう? ユリウスの厚意とはいえ、なんだか気が引ける。僕たちが政府関係者として振る舞う必要があることはわかっているし、初めての経験だから興味が無いわけでもないんだけど、なぜだか諸手を挙げて歓迎することにためらいを感じるんだ」

「それなら話は早い。もともとエコノミーのつもりでいたから、僕もそのままでいいんだ。他の乗客の視線がどうであれ、ユリウスがあえて僕たちに決定権を持たせたということは、彼も僕たちの心情をある程度想像しているからだと思う」

 イェンスの言葉に背中を押された僕は、シモとホレーショに微笑んでから担当者に話しかけた。

「ありがとうございます。しかし、せっかくのご厚意にもかかわらず、辞退してしまうことをお許しください。その、僕たちは重要な任務を背負っていますが、僕たち自身がファーストクラスに相応しい人物であるかどうかは、また別のことだと考えております。もし、まだ当初の席があるのであれば、僕たちをそのままそこに乗せていただけませんか?」

 僕の言葉にシモとホレーショが優しい笑顔をこぼした。

「かしこまりました。私どもとしましては、お二人に極上の時間を提供できないことを残念に思いますが、お二人がそのように控えめで実直な方だからこそ、前例の無い訪問が許されたことも理解できました。それでは、この航空券どおりの席へとご案内しますが、何かご入用でしたらご遠慮なく乗務員にお申し付けくださいませ」

 担当者の笑顔が本当にあたたかかったため、イェンスも僕も丁寧にお礼の言葉を伝える。ファーストクラスへの座席移動を断った未練も特に残らず、僕の心はずいぶんと清々しかった。

「クラウス、本当にありがとう」

 イェンスが耳元でささやいた。

「たいしたことじゃない。もったいないことをしたのかもしれないけど、君と一緒だし、僕は窮屈さも楽しめる気がしているんだ」

 僕がそう言うとシモが、「お前たちなら断るだろうと思っていたが、案の定だったな」と言って笑った。

 僕たちのスーツケースが預けられ、預り荷物引換証を手渡される。手荷物も一通りの保安検査を受けたのだが、ユリウスから受託された曰くつきの落とし物は、外装と封を確認したのみでやはり開封されることはなかった。

 別の担当者がシモとホレーショに話しかけた。彼らが制限区域内に入るため、一時的な立入承認証の手続きを進めているようである。そこに出入国管理審査官から声を掛けられ、僕たちのドーオニツ居住者身分証明証を手渡す。その担当官がパソコンに接続した端末機器に身分証明証を挿入すると、セキュリティで保護された出国手続きの画面が現れたので認証番号を入力した。

 アウリンコもドーオニツも固有のパスポートを発行するのではなく、居住者身分証明証に出入国の情報を書き加えていくことでその個人の渡航履歴を管理していた。居住者身分証明証が実に様々な手続きに対応するようになっているのである。仮にその身分証明証を紛失してしまった場合でも、アウリンコとドーオニツ内にいる限りはほぼ持ち主のところに戻される仕組みになっていた。また、成りすましたところで身分照会の時に虚偽であることがばれ、理由の如何に問わず居住権のはく奪を受けるため、他人の身分証明証を悪用するドーオニツ人はまずいなかった。しかし、地方国で紛失してしまった場合、その経緯によっては管理不十分と扱われて居住者義務違反にもなり得た。他人が不正使用することができない仕組みとはいえ、厳重な自己管理が必要なのは言うまでもないことなのである。僕は返却されたドーオニツ居住者身分証明証を鞄の奥に大切にしまい込むと、しっかりと体の前で抱え込んだ。

 シモとホレーショの立入承認手続き完了と同時に、僕たちも搭乗手続きを終える。

「では、こちらのほうにどうぞ」

 件の担当者が先導する。その後ろをほとんど無言で歩き進む。警備員がドアを開けたのでその向こうに出て少し歩くと、過去に何度か利用したことのある、一般乗客が利用する待合室へと到着した。

 担当者は僕たちが乗る飛行機の搭乗口の場所を伝えると、搭乗ゲートにいる係員に彼の名前を伝えるよう言った。僕たちが了承すると、彼は続けてシモに向かって「もし搭乗口まで付き添われるのであれば、私が同行することになります」と伝えた。するとシモは「いや、そこまでは見送らない」と答え、隣にいたホレーショに何かを耳打ちをした。

 時刻を確認すると、出発時刻の三十分前であった。まだ搭乗案内がされていなかったため、空港の担当者と別れてひとまず待合室のイスに座って待つ。待合室はそれなりに混んでおり、家族連れから若い女性たちのグループ、年配の男性のグループなど、様々な人たちが様々な表情でその時間が来るのを待っていた。

「帰りの航空機の具体的な便名と到着時刻がわかったら、すぐに連絡をよこすんだぞ」

 シモが優しい笑顔で僕たちに言ったので、イェンスが「必ずそうする」と力強く返す。続けてホレーショが「ちゃんとお前らを迎えに来るからな」と静かに伝えると、その優しい眼差しに思わず胸がつまり、こみ上がるものを必死にこらえてうなずき返した。

 彼らの優しさはすでに全身にしみわたっており、僕はエルフの村へ行くという高揚感の中で思いがけず寂寥感に襲われていた。どうして彼らはこうもあたたかいのであろう。やはり、僕が心の弱い人間だから感傷的になっているのではないのか。そのようなことをぼんやりと考えているうちに、ただ時間と沈黙とがいたずらに流れていく。

 ほどなく搭乗案内が放送される。その時、シモがすっと立ち上がって言った。

「お前たち、気をつけて戻って来い」

 彼は僕たちを交互に力強く抱きしめた。

「楽しんで来いよ」

 ホレーショも僕たちを力強く交互に抱きしめると、真っ直ぐに僕たちを見つめた。そしてシモもホレーショも無言のまま拳を突き出してきたので、イェンスも僕も無言のままで拳を突き出して合わせる。僕は彼らの眼差しから充分すぎるほど、言葉以上の固い友情を受け取っていた。

 彼らは僕たちに手を挙げて微笑むと、何も言わずに後ろを向いて警備担当者に話しかけ、元来た通路へと戻っていった。僕たちもまた、彼らの背中を無言で見送る。彼らの姿が完全に見えなくなってから、ようやくイェンスと僕はお互いの顔を見合わせた。そのイェンスの瞳に美しい光が放たれているのを見つけたので、一呼吸置いてから彼に話しかけた。

「行こう」

 搭乗口に到着するなり、航空券を提示しながら係員の女性に僕たちの名前と空港の担当者の名前を告げる。すると、それを聞いた係員が微笑みながら小声で伝えた。

「話は伺っております。到着地でのお乗り換えのお手続きも素早く済みますよう、現地の空港ターミナルでは必ず係員に政府関係者用の対応をお求めください。ドーオニツ居住者身分証明証と航空券の提示で話が伝わるようになっております」

 係員はさらに座席の位置を説明し、「良い旅を」と笑顔を添えて僕たちを見送った。

 飛行機の中へと進み、先ほどの係員の説明をなぞらえながら座席を確認する。すると窓際と通路側とに並んでいたので、イェンスに窓際に譲ることにした。

「ありがとう、クラウス」

「外の景色が見たくなったら、君を押しのけても見るから平気さ」

 それから少し時間が経つと離陸案内の放送が入った。シートベルトを着用するようにランプが点灯し、やがて飛行機がゆっくりと動き始める。いよいよエルフの村へ行くのだという高揚感と静かな感慨とに浸っているうちに飛行機がさらに加速し、機体が後部へと傾くにつれ、僕の心もまた空へと舞い上がっていく。

 斜めに見える窓の景色から、ユリウスが空に憧れを抱いていることを思い出した。しかし、憧れを抱いているのは彼だけで無かった。僕も空への憧れを、物心ついた頃からずっと握りしめてきたのだ。

 視線を手前のイェンスに移す。彼は相変わらず美しい眼差しで外の景色を眺めていたのだが、僕の視線に気が付くと「ユリウスを思い出していたよ」とささやいた。

 機体がぐんぐんと上昇し、ドーオニツとアウリンコが遠くに見える。やがて水平飛行に入ると機内アナウンスが入り、乗客がおもむろにシートベルトを外していった。乗り継ぎの空港まで五時間ほどかかるため、映画を見たり音楽を聴いたりとのんびり過ごす。他の乗客たちも関心が目的地にあるのか、僕たちに向けられる視線はほとんど無かった。

 転寝からふと目が覚めると、ドーオニツからずいぶん離れた場所を飛んでいることに気が付いた。美しい空の景色をイェンスと眺め、談笑しているうちに機内アナウンスが入り、間もなく着陸態勢に入るためにシートベルトを着用するよう指示が入る。

 その時、シートベルト装着を確認していた客室乗務員の一人が僕たちの側に来て屈みこみ、『お客様たちは私が指示するまで、到着後も機内で待機してください』と書かれたメモを見せた。僕たちが目を見てうなずいて返すと彼女はメモをポケットに入れ、会釈してから他の乗客の元へと移動していった。

 飛行機が着陸態勢に入った。窓の景色がどんどん地上に近付き、それにともなっていよいよ地方国へとやって来たのだという実感が興奮とともに押し寄せる。

 懐かしい揺れとともに飛行機が無事着陸した。乗客が次々と降りていく中、座席についたまま静かに待機する。やがて機内から乗客の話し声が消えた頃、先ほどの乗務員が「大変お待たせいたしました。ご準備ください。ご案内いたします」と声をかけてきた。そこで僕たちは手荷物をしっかりと持って彼女の後についていった。

 機体の外に出て建物の中に入る。すると、すでにこの空港の担当者が待ち構えていたようで、簡単な自己紹介を受けた。その担当者にも僕たちの身分証明証と航空券を提示する。彼女は注意深く僕たちの航空券を確認すると、乗り換えの航空機の搭乗ゲートの場所を簡単に説明し始めた。

「……説明は以上です。しかし、ご存知のとおり、乗り換えの時間まで二時間ほどありますから、政府関係者用待合室をご用意いたしました。時間になりましたら、私が再びお客様を搭乗ゲートまでご案内いたします」

 彼女はそう言うと僕たちを政府関係者用の待合室まで案内すべく歩き出した。しかし、僕はイェンスと一緒にいるにもかかわらず、空港内を散策してみたいという強い衝動に駆られていた。それが浮足立った心から来ているのか、直感から来るものなのかは僕自身もわからないでいたのだが、その気持ちがあまりにも強かったため、イェンスに小声で相談した。

「イェンス、君には申し訳ないのだけど、僕はこの建物内を散策してみたいんだ」

「僕も実を言うと、その気になっていた。じっと政府関係者用の待合室で待つより、きっと楽しいはずさ」

 そこで僕たちは先導して歩いていた担当者の女性を呼び止め、なるべく丁寧な態度で僕たちの希望を伝えることにした。彼女は僕たちの言葉に嫌な顔一つ見せることもなく、微笑みながら言葉を返した。

「それでしたら、どうぞごゆっくりご覧になっていってください。もし、政府関係者用の待合室をご利用になるようでしたら、近くの係員に私の名前を添えておっしゃって下されば、彼らから私宛に連絡が来るでしょうからその時に改めてご案内いたします。そうでなければ、出発の十五分前までに搭乗ゲートにお越しいただき、そこで受付の者にドーオニツ居住者身分証明証と航空券を提示しながら私の名前を伝えてください。いずれにしましても到着地の空港の担当者まで、お客様が特別政府関係者である情報が伝わるようになっております」

「わがままを申し上げたにもかかわらず、丁寧なご対応ありがとうございます。ぜひ、そうさせてください」

 イェンスがそう伝えると、彼女は「では、失礼いたします。良いご滞在を」と言い残して去って行った。

 自由に動き回れる時間が得られると、途端に探検気分が湧いて出るのはイェンスも僕も同じであった。僕たちは周囲に視線を向け、情報収集することした。

「あそこに建物内の案内図がある。見てみよう」

 イェンスが視線を向けた先は、ひっきりなしに人が行き交っていた。その奥にある看板を目指して人をかきわけ、ぶつからないように気を遣いながら案内図へと辿り着く。するとこの空港が地方国の中でもひときわ大きい規模であり、広い制限区域内に様々な店やサービスを提供する場所、休憩室などが数多く存在していることがわかった。僕たちはぶらぶら散策してみるところを大雑把に決めると、早速目についた方へと向かって歩き始めた。

 空港の中ということもあり、様々な人種が行き交うことを興味深く捉える。僕たち自身も時折観察の対象になっているのだが、それも長くは続かないことに気が付いて気楽に散策を楽しむ。有名高級ブランド店を通り過ぎ、この地方国の珍しい土産などを扱っている店を見つけると、探し求めているものが無いにもかかわらず、浮かれ気分から熱心に商品を眺めた。

「クラウス、興味深い情報を入手したよ」

 イェンスがこの地方国の観光地を写真におさめて展示している情報を見つけ、僕に声をかけてきたのであった。すぐに興味を覚え、早速イェンスと一緒にその場所へと向かう。やや離れた場所へと辿り着くまで、思いのほか時間がかかった。何らかの理由が重なったのか、通路がたくさんの人の群れでごった返していたからである。それでもその写真展で今いる地方国の景勝地や観光地の美しさを堪能すると、僕たちの旅行そのものに対する高揚感がいよいよ増していった。

 それでも乗り換えまで時間がかなり残っていた。喉の乾きを覚え、カフェで休もうかとも考える。しかし、通路は相変わらず混雑しており、その人の多さから、おそらくカフェも混んでいるであろうと推測した。そのことを不安に思いながらもイェンスに提案すると、彼が「実を言うと、僕もあえて移動してカフェに行こうかと考えていたんだ」と微笑みながら返したため、僕たちはあえて人の流れの中へ飛び込んでカフェを目指すことにした。

 足を取られながらようやく辿り着いたカフェは予想どおり混んでおり、あいにく満席であった。落胆する間を惜しんで周囲を見回すと、通路の奥にさらに二つのカフェが並んでいるのが見える。イェンスと一縷の望みとともにそこへ向かったのだが、やはりどちらとも満席に近い状況であったため、結局は最初に向かったカフェで席が空くのを待つことにした。

 誰かを呼ぶ声が方々から飛び交い、電話や歩きスマホをしながらあちこち見て歩く人を避けつつ、イェンスも僕も大きな人の流れの中を縫うように進んでいく。真っ直ぐ進もうにも、必ず行く手を阻まれてイェンスにぶつかる。

 その時であった。

 僕は何か気になる人影を感じた。そこで直感の赴くままに視線を向けると、どこかで見覚えのある人が数メートル先を通り過ぎて行ったのが見えた。

「クラウス」

 イェンスが立ち止まるなり「今、何かを感じた」と耳元でささやいた。「僕もだ」とすぐさま同意し、急いでその人を追う。行く手を人に阻まれ、スーツケースに足元を取られつつも必死にその人を探すと、前方の乗り継ぎカウンターの近くに似たような後ろ姿を見つけた。

 僕はその人が誰であるかを確信すると、大声をあげて彼の名を呼んだ。

「ヘルマン!」

 するとヘルマンはゆっくりと振り返り、辺りを見回した。そこにイェンスが先に辿り着いてヘルマンを捉まえる。彼はイェンスを見るなり非常に驚いた表情を浮かべて言った。

「君は……! イェンスじゃないか」

「覚えて下さっていて光栄です。ああ、クラウス。良かった、間に合った」

「先ほど偶然見かけてから、必死に探していたのです」

 僕たちは思いがけない再会に喜び、かなり興奮していた。そんな僕たちを受けてヘルマンも目じりを下げて喜びを露にした。

「もしかしたら、と思っていたのだ。思えば、昨日私が乗るはずだった便は欠航になり、経由地も急きょ変更になった」

 それを聞くなり、僕たちは驚きのあまり言葉を失った。ヘルマンは目配せして僕たちを壁際へと移動させると、僕たちの顔を覗き込むように見つめた。

「最近、ずっとペンダントのことが気になっていたのだ。それで今日久し振りにペンダントを身につけようと箱から取り出すと、ペンダントが熱く反応を示していてね。それでもしやと思い、短い乗り継ぎの合間を縫って歩き回っていたのだが、まさか……」

 ヘルマンはそう言うと僕たちをあふれる笑顔で見つめ、それから奇跡のような再会を喜んでイェンスと僕をそれぞれ抱きしめた。

「ずっと、どうしているのかと気に掛けていたのだ」

「急いでいるでしょうから、簡単にご説明します。僕たちはユリウスと出会い、今や友だちといえるほどの間柄になりました。しかし、彼はそこまで親しくなる前に、僕にこの特徴をもたらした種族の男性を僕たちに紹介してくれたのです。その男性は同じ村ではありませんが、リカヒのことを知っていました。そしてそのことがきっかけとなって僕たちはその男性に招かれ、今まさにその地に向かっているところなのです」

 イェンスがヘルマンに耳打ちすると、彼は再び非常に驚いた表情を見せた。

「そうか、ついにその時が来たのか」

 ヘルマンは感慨深そうに僕たちを見つめた。

「あの夜からもう一年もなるのか。時間の流れとはいかに早いものか。それにしても見違えたぞ。君たちから非常に大きな力を感じる」

 ヘルマンはそう言うとうつむき、無言になった。何か起こったのかと心配になったのだが、どうやら彼は考え事をしているようであった。イェンスを見ると彼は落ち着いており、目が合うなり微笑んで応えた。

 案内放送や人々の話声が僕たちの間に入り込む。それでも意図的に外部の音から離れ、ヘルマンを見守る。数十秒がまるで数十分にも感じられたその時、ヘルマンは顔を上げて僕たちを真剣な表情で見つめ、おもむろに口を開いた。

「クラウス、君に渡したいものがある。君から直接は聞いていないが、君からゲーゼとユリウスから感じた雰囲気を感じる」

 彼は首元からペンダントを取り出したかと思うと、すぐさま人目につかないよう手で隠して僕の手に握らせた。

「これは……いえ、いけません。これはゲーゼがあなたに託したものです」

 予想だにしなかったヘルマンの行為に戸惑い、咄嗟にペンダントを返そうとする。しかし、彼はゆっくりと首を横に振って優しい笑顔を見せた。

「いや、これは君が持つべきだ。いずれ私も誰かに託す時が来ると思っていた。今がその時なのだ」

 ヘルマンは一呼吸置くと続けて言った。

「君たちのその様子だと、とっくに能力に対する変化が起こったようだな。この私も少なからず影響を受けた。だが、私はもともと大いなる力を駆使する気など無かったのだ。人の平均値を超える能力は私の身に余りすぎる。普通の人間として、妻とのんびり余生を過ごすことが私にとって適切であり、最も望んでいることなのだ。どうか私の願いを叶えると思って受け取ってほしい」

 僕が何も言えずにペンダントを握り締めながらヘルマンをただ見つめていると、イェンスが彼に話しかけた。

「どうしてクラウスの独特の雰囲気に気付いたのですか? 僕たちも彼が、おそらくはその爪の種族と何らかの関りを持っていると推測しているのですが、全ては謎なのです。そのことも含めて、これから訪れる地で何か手掛かりが得られることを期待しています」

 それを聞いたヘルマンが静かに答えた。

「実を言うと最初に会った時に、ペンダントが君より彼に強く反応を示していたことをずっと気に掛けていたのだ。それにさっきも言ったが、瞳の色こそ違うが、やはりゲーゼとユリウスに雰囲気が似ている。きっとゲーゼから君に渡るまで、私が保有する運命にあったのだろう。そしてイェンス、君が例の場所に行けば、きっと君はその血に合った素晴らしい体験をするはずだ。ただの直感だがね。しかしそうなれば、君はますます磨かれていく」

 僕たちはじっとヘルマンの美しい眼差しを見つめていた。

「君たちとまた会えるかはわからないが、私は心から安心している。なぜなら、君たちがすでに私の想像を超えた位置にいることが、君たちのその力強い眼差しを見てわかったからだ。そして君たちは変化を受け止め、その先とも向かい合おうとしている。私には君たちがますます美しい存在として高みを昇って行くように見える。それで充分だ」

 ヘルマンは瞳にあの美しい光を放ちながらそう言うと、再び僕たちを抱きしめた。

「おっと、飛行機に乗り遅れる。いつも一緒にいる妻が、友人と約束があって一足先に戻っているのだ。あまりにも帰るのが遅くなってしまったから、おそらく心配していることだろう。ユリウスに会ったら、よろしく伝えてくれ。もちろん、君たちのことは今後も妻を含めて誰かに他言することはない。では、良い旅を!」

 僕たちは手短に感謝の言葉をヘルマンに返した。彼はそれを微笑んで受け取ると、急いで搭乗ゲートの中へと入った。そして最後にもう一度振り返って手を挙げ、僕たちに笑顔を残してから奥へと消え去っていった。

 再び周囲の喧騒が流れて込んでくる。子供の笑い声が聞こえ、案内放送がひっきりなしに続く。僕は引き寄せられるようにイェンスを見た。

 「イェンス、僕は驚いている。だって、不思議な巡り合わせだったんだから」

 僕は突然湧き上がった興奮をやや抑えながら彼に伝えた。すると、彼は不思議そうな表情を浮かべて言葉を返した。

 「そうなんだよ、クラウス。覚えているだろうか? 僕たちが一番最初に考えたウボキへの最短ルートは、この空港経由では無かったうえ、ちょうどいい席が無かった。だから取り止めたんだ。そしてこの経由地に着いた時、僕たちは政府関係者専用待合室を利用しなかったうえ、あちこち移動している。ヘルマンがいつ到着したのかはわからないが、彼も何かを嗅ぎとってあえて歩き回っていた。彼の乗り継ぎの時間に、さほどの余裕も無かったのにだ」

 イェンスがそこまで言うと、僕はもはや興奮を抑えることなく熱っぽく語った。

「そうなんだよ。しかも普段の僕たちなら取らない行動をいくつか取っていた。本当にすごいことだよ、この状況下でヘルマンと再会できただなんて! 彼はペンダントが反応していたと言っていたけど、きっと偶然じゃない。やはり惹きつけられていたんだ」

 「君の言うとおりだ。僕たちは見えない強い力に最初から導かれていたんだろう」

 イェンスも興奮した様子で僕を見つめ返した。

 その時、握りしめたままのペンダントが熱くなったような気がした。しかし、人目にさらすのは気が引け、ペンダントが見えないように注意しながらズボンのポケットに入れるべく腕を動かす。その動作に気が付いたイェンスが、咄嗟に僕の腕を掴んだ。

 「クラウス、せっかくだ。身に付けたほうがいい。君は譲り受けたんだ」

 「だけど、僕には有り余る。因果関係だって判明していないのに」

 「君は充分ふさわしいはずさ。それに身に付けていれば、ヘルマンが感じ取ったように何かを君に知らせるかもしれない」

 その言葉を聞いて抵抗感が弱まる。変化の一助になるかもしれないという淡い期待と、神聖とされるドラゴンに関するものを僕ごときが身に付けることで、醜い傲慢を抱くのではないかという不安の狭間で揺れ動いたのだが、一呼吸置いてからイェンスを真っ直ぐに見つめた。彼は微笑みをもって僕を受け止めると、僕の手を握って耳元でささやいた。

 「僕の手のひらにペンダントを落として。人目に触れることの無いよう、注意を払って君に付けてあげる」

 「ありがとう、イェンス」

 僕は素直に彼の手にペンダントを落とした。彼は受け取るやいなや僕の首に手を回し、素早くドラゴンの爪を服の中に落としたかと思うと首の後ろで金具を留めた。

 身に付けた瞬間、得も言われぬ安心感につつまれる。服の中からペンダントを覗き込むと青白く光っているようにも見えたのだが、嫌な感じは全くしなかった。

 「なんだか不思議な感じだ。正直に言うと安心感がある」

 「君の表情を見て、そうだろうと思ったよ。安心感があるということは、やはり君はあの存在に関りがあるのだろうね。それにしても、君の雰囲気がどことなく変わった気がする」

 イェンスが僕をまじまじと見ながら言ったので、僕は思わず「本当に?」と彼に詰め寄るように尋ねた。

 「僕がそういうふうに見ているからかもしれない。いずれにせよ、ヘルマンの判断は正しいよ。君なら全てにおいて、新しい持ち主に相応しい。少なくとも僕はそう考えている」

 イェンスはそう答えると微笑み、僕の肩を抱いた。

 「クラウス、改めてカフェに行かないか? まだ時間はあるし、喉も渇いてきた」

 彼の言葉を聞くやいなや喉の渇きを思い出した僕は、心からの笑顔を添えて賛同した。

 カフェに到着して少しするとちょうど二名分の席が空いたので、ようやく落ち着いた気分で一息つける。飲み慣れたリンゴジュースが喉を潤すにつれ、時間がゆっくり流れることさえ心地良く感じられる。しかし、ペンダントの持つ不思議な力のせいなのか、それとも何かが目立っているのか、イェンスも僕も徐々に視線を感じるようになった。視線を周囲に向ける度に誰かと目が合い、微笑みが贈られる。不機嫌な顔で睨まれるよりはるかにいいのだが、それも頻繁に起こるとどうにも居心地が悪く、お互い伏し目がちになった。

「ねえ、あの二人かっこよくない?」

「私もそう思っていたの。どこの人かしら」

 近くに座っていた女性二人が、あからさまに僕たちのことについて話し始めた。

 「イェンス、そろそろここを出ようか」

 僕が窮屈さに耐えかねて提案すると、彼は苦笑いを交えていったんはうなずいたものの、何か名案でも思い付いたのか表情を明るくしながら言った。

 「クラウス、覚えているかい? ユリウスは自分を空気だと思えば、案外他人も気に掛けなくなると話していた。それを試してからここを出よう。せっかくだから、他人が全く関心を示さない状況を想像してみようじゃないか」

 僕は彼の言葉に一抹の不安を覚えたものの、検証するいい機会だと思い直して早速実行に移すことにした。ぼんやりと視線を宙に投げ、僕たちを気に掛ける者は誰もおらず、空気のような存在なのだと何度も心の中で言い聞かせる。次に辺りを見回した時、僕たちを見つめる人は誰一人としていないはずなのだ。

 ふと視線が減ったような気がして、おそるおそる周囲を確認する。すると僕たちを見ている者が実際に誰一人としておらず、それどころか誰も気にかけていないように見えたため、予想以上の効果に思わず笑顔がこぼれた。

「すごいよ、イェンス――」

 「すみません、良かったら少しお話ししませんか?」

 僕たちの会話を遮ったのは、先ほどの女性二人であった。彼女たちはいつの間にか僕たちの背後におり、そのために気付けなかったのである。僕はひとまず彼女たちに会釈を返したものの、イェンスが目で合図を送ってきたのに合わせ、席を立ちながら言った。

 「いえ、すみません。そろそろ時間なので失礼します。良い旅を」

 ぎこちない愛想笑いを添えつつ、これ以上呼び止められることのないようそそくさとカフェを出る。イェンスが「ひとまず最初にいた待合室まで戻ろう」と言うので、いくぶん人の波が収まった通路を進んで待合室を目指すことにした。

 待合室はかなり混雑していた。しかし、イェンスも僕も席を探すべくうろうろすることはしなかった。

「あと三十分ほどで搭乗手続きが始まるから、政府関係者用待合室を利用しないでここで待とうか」

 イェンスはそう言うと壁に寄りかかった。僕も彼の隣で壁に寄りかかると、窓の向こうの空を眺めていたイェンスに話しかけた。

 「ねえ、イェンス。さっきは惜しかったのかな。彼女たちは僕たちに話しかける心づもりでいたから回避できなかったんだろうけど、僕は自分自身を空気だと思うことと他人が僕たちに関心を示さないイメージは、それなりに効果があった気がするんだ」

 僕の言葉に彼は微笑みながら答えた。

 「そう言ってくれて嬉しいよ。実は、僕もそれなりに感じていたんだ。ユリウスはやはり見識の深さが違うな。それで今も再度試しているのだけど、全く視線を回避できるわけではないが効果を感じるんだ。ドーオニツにいた時に思い出していれば良かったんだろうけど、遅すぎるということもない。気が付いた時に都度試していけばいいさ」

 イェンスが軽い気持ちでいるのは意外であったのだが、彼がその状況ですら楽しんでいるのだということに気が付くと、僕も待ち受ける世界に再び想いを馳せた。

 窓の向こうの空には、ドーオニツを出発した時と同じように青空が広がっている。僕たちはそのドーオニツから、すでに何千キロメートルと離れた場所にいた。非日常的性に加え、これからいよいよエルフの村を訪れる期待と喜びとが僕を完全に覆いつくしていたため、目に映る何もかもが新鮮である。ヘルマンと再会し、ドラゴンの爪のペンダントを譲り受けたことも大きかった。胸元に意識を向けるといいようもない安心を感じる。エルフの村を訪れる直前に僕の手に渡ったことに、やはり特別な意味があるのであろう。新しい持ち主として相応しいよう、自己を高めていくことを改めて誓いながら空を見つめた。

 乗り換えの便の搭乗手続きが始まった。係員に航空券を手渡し、ドーオニツ居住者身分証明証を提示しながら、先ほど僕たちを案内した女性担当者名を伝える。するとその係員はすぐに端末を確認し、「お待ちしておりました。話は伺っております。どうぞごゆっくり空の旅をお楽しみください」と航空券を返しながら言葉をかけてきた。

 「ありがとうございます」

 その女性に見送られながら飛行機の中へと進む。座席を見つけるなり、イェンスが僕に窓際を譲ると言い出した。僕は明るい口調で断ったのだが、彼はなおも真剣な様子でさらに粘った。

 「クラウス、君だって人目を引く存在だ。僕のことは気にするな」

 「イェンス、僕は気にしていないよ。それに君がもし不快な思いをしたら、僕はきっと自分を責める。幸い僕の見た目には特徴が無い。だから君が心から楽しめるよう、君には窓際に座ってもらいたいんだ」

 するとイェンスはとうとう諦めが付いたらしく、あの美しい眼差しで「わかったよ、クラウス。本当にありがとう」と言って窓際に座った。

「今、君を強く抱きしめることができないのが本当に残念だ」

 着席した僕にイェンスが耳元でささやいた。

 「今の君の瞳に、僕の心を打つ光が見える。僕はそれで充分だよ」

 僕がイェンスの美しさに思わずはにかんで言葉を返すと、彼は僕の手をそっと取って「君の存在と、君の美しさに感謝している」と続けた。彼はすぐに手を離したのだが、窓の外を見やると「いよいよだな」とつぶやいた。

 「いよいよさ。君が君らしくいられる場所はすぐそこだ」

 僕が控えめに伝えた言葉に彼は微笑みながら振り向き、「君と一緒にいるだけで僕は充分僕らしくいられる」と静かに返した。しかし、突然意味ありげな表情を浮かべたかと思うと、いきなり僕の頭をくしゃくしゃに撫で始めた。

「やめろよ」

 僕は笑いながら抵抗し、お返しと言わんばかりに彼の頭をくしゃくしゃに撫で回した。乱れた彼の髪型を見て、僕が声を押し殺しながら笑ったからか、彼もまた声を押し殺しながら笑う。やがて機内アナウンスが流れてシートベルトを装着したものだから、エルフの村に対していっそう高揚感が増した。

 八時間ほどの空の旅は、そのほとんどが徐々に押し寄せてきた疲れに負けて眠りについていた。誰かの笑い声で目が覚める。僕たちは互いに頭を寄せ合いながら眠っていたらしく、通路を挟んで隣の席に座っていた年配の女性に「仲がいいのね」と微笑まれた。イェンスが僕の肩でまだ眠っていたため、そっと窓の外に視線を向ける。飛行機の下には、雲が雪原の地平線のように広がっていた。

 ドーオニツはとっくに真夜中なのだが、西へと向かっているため、外は相変わらず明るかった。地球と宇宙との境目のような、濃紺色の空間の向こうを眺めているうちに、僕たちが宇宙にとって刹那でも必要だから今こうして存在しているのだとイェンスと話し合ったことを思い出す。

 最新の研究によると、この宇宙には二兆個もの銀河が存在するのだという。二兆個もの銀河を内包する宇宙の広さに驚くのも今さらであろう。あまたに存在する銀河の中には、僕たちと同じような環境の下で、似たような文明を発展させている惑星もあるかもしれなかった。そこにも僕たちと同じような職種に就き、たった今も飛行機に乗りながら、永遠に巡り合うことの無い僕たちのことを想像し、思いを馳せている人がいるかもしれないのだ。もしくは、すでにこの地球上では鳥類に命をつなげた種類以外は絶滅した恐竜が、どこかの惑星で悠々と闊歩しながら繁栄を謳歌しているかもしれなかった。その、永遠に見ることができない世界を想像しただけで、本能的に身震いを覚える。

 しかもこの広大な宇宙がたった一つあるのではなく、その外側に、それこそ数え切れないほどの宇宙が存在する可能性があるのだという。そうであれば、僕という存在は素粒子にもはるかに届かない、非常に弱くて脆い『揺らぎ』でありながらも、今に存在しているという力強さを持っているのではないのか。

 その時、イェンスが目を覚ました。彼は眠たそうな顔をしながらも、僕の表情の中に喜びがあったのを見つけたらしく、欠伸をこらえながら話しかけてきた。

 「君は楽しい思考の中にいたみたいだな」

 「たいした思考じゃない。君と今まで何度も話してきた、僕たちが素粒子以下でも存在することの意義を思い出していただけさ」

 僕はそう言うとつい欠伸をした。

 「あと一時間半ほどでいよいよ到着するのか。やっぱり眠いな」

 僕はイェンスにわざと寄りかかったのだが、彼は嫌がる素振りを全く見せずに「少ししか眠れないけど、僕は起きているから寝ていいよ」と優しくささやいた。その言葉に甘えたくなり、「ありがとう、そうする」と言って軽く目を閉じる。最初は人の声や物音で眠れなかったのだが、気がつけば眠っていたらしく、着陸のためにシートベルトを着用する機内放送で目が覚めた。ぼんやりとした表情でシートベルトを締め、睡魔と格闘しながら着陸をじっと待つ。その時、シートベルト着用を確認していた客室乗務員の男性が、僕たちのところに来るなり『お客様たちは最後にお降りください』とメモを見せて去っていったので、忘れかけていた緊張感がよみがえった。あと少し、あと少しで異世界に辿り着くのだ。

 飛行機が空港に到着し、乗客たちが一斉に降り始めた。僕たちが多少の緊張感と隠し切れない疲れとともに座席で待機していると、人がまばらになった頃を見計らって件の客室乗務員の男性が僕たちのところにやってきた。

 「お疲れのところ、大変お待たせして申し訳ございません。軍のお迎えの方がすでに空港でお待ちです。当機を降りられましたら、空港の担当者がお二人をご案内いたします。そちらの指示に従って入国手続きや荷物の受け取りなどを済ませてください」

 彼はそう言うと空港の担当者名を告げた。ほとんどの乗客が降りたところで僕たちも空港ターミナルビル内へと向かう。するとそれらしき男性担当者が、入り口のすぐ横で僕たちを見つけるなり明るい笑顔で出迎えた。

 「長旅お疲れさまでした。では、早速ご案内いたします」

 彼の案内で政府関係者用の待合室へと向かって歩き出す。一般旅客者の目に付くところからいつの間にか離れ、僕たちは入り口が厳重に管理された通路の先にあった待合室へと通された。しかし、中は他の政府関係者の出入国手続きで思いがけず混雑しており、ソファというソファに人が座っている状況であった。本物の政府関係者たちの手続きが終わるまで、にわかである僕たちはここで順番を待つのであろうと考えていると、件の担当者がやや申し訳なさそうに話しかけてきた。

「すみません。せっかくお越しいただいた中で恐縮ですが、一般旅客者用の近くにございますアウリンコ・ドーオニツ居住者専用入国審査レーンは、おそらく空いていると思います。ここで待っていると入国までしばらくかかりそうなので、思い切ってそちらに行ってみませんか?」

「ええ、そうします」

 イェンスと僕が口をそろえて返答すると、彼は微笑みながら「では、ご案内いたします。お手間を取らせて申し訳ございませんが、また私について来てください」と言って再び僕たちを先導し始めた。

 その一般旅客者用入国審査ブースに到着した。窓口はどこも混雑していたのだが、彼の推測どおり、アウリンコ・ドーオニツ居住者専用レーンに並んでいる者は時間がある程度経過したこともあって一人もいなかった。そこで僕たちは早速、入国審査専用端末にドーオニツ居住身分証明証を挿入して入国審査の手続きを進めることにした。

 アウリンコとドーオニツの永住居住者は法令を遵守することから一般的に信頼性が高く、また個人情報が政府の管理下に常に置かれているため、地方国での簡易出入国審査、つまり身分証明証を端末に挿入して自らの操作で出入国の情報を書き加えることが認められていた。その際はもちろん個人の生体認証の確認および暗証番号を入力する必要があるのだが、不正が発覚した場合は刑罰の対象のみならず居住権のはく奪にもつながることから、居住者側で不正を行うことはまずなかった。

 あっという間に入国審査を終わらせる。すると、一般旅客者用の入国審査待ちの列からその様子を見ていた男性に、遠くから話しかけられた。

 「やあ、羨ましいな。もう終わったのかい? おおかた、ドーオニツから来たんだろう。ドーオニツの人は楽でいいや」

 男性の口調は少し皮肉めいて聞こえたのだが、イェンスと僕は彼に微笑みかけて「その代わり僕たちの行動は全て、ドーオニツを出た時点で政府の観察対象になっていますけどね」と丁寧な態度で返した。すると男性の反応が目を丸くしただけであったため、それ以上その男性に構うことなく、待たせていた空港の担当者の元へと急いで戻る。彼は「さすがドーオニツ居住者は入国審査が早いですね」と驚いていたものの、すぐさま朗らかな表情で「荷物もすぐにお渡しできますので、こちらにどうぞ」と言って案内を始めた。

 警備員に見送られながら再び特別な通路を進む。その時、僕たちを先導していた担当者が振り返って尋ねてきた。

「そういえば、先ほど一般旅客の男性に話していたことは本当ですか? ドーオニツ居住者は出国すると、政府の観察対象になるということをおっしゃっていましたね」

 「そのとおりです。観察対象というのも仰々しいですが、ドーオニツを離れている居住者は、身分証明証を通じて現在の滞在場所や安否などの情報が政府へと送られていきます。それには理由があって、ドーオニツ居住者身分証明証が地方国で適切に管理されているかを把握するためなのです。僕たち居住者は確かに恩恵を受けますが、それと同時に政府の様々な機関から干渉も受けます。住民税も他の地方国よりかなり高いはずです。地方国の方はそれを聞くたびに窮屈だ、恩恵の無いほうがいいとよくおっしゃいますよ」

 「そんなに個人情報が政府に管理されているのですか? 確かに地方国でしたら、政府が個人の行動を逐一把握しているというのは考えられませんね」

 僕の言葉に苦笑を添えて男性が言葉を返す。その内容に地方国らしい自由を感じ取っているうちに別の部屋へと到着した。

 室内には僕たちのスーツケースが置かれてあった。その担当者に荷物引換証を手渡してスーツケースを受け取ると、ようやく自由に動けることにほっと胸を撫で下ろす。しかし、いよいよ軍の担当者との面会が待ち受けているものだから、イェンスも僕も言いようもない緊張感に再度襲われた。長旅の疲れと眠気を跳ね除け、すぐさま軍の担当者が待つ場所へと赴く。小部屋に案内されると、軍服を着た男性三人が僕たちを待ち受けていた。

 「こんばんは。初めまして」

 柔和な笑顔を見せた体格の良い男性が、僕たちを見るなり声をかけてきた。ユリウスから伝えられていた軍の担当者名を告げると、その男性は「私です。クロードとお呼びください」と身分証明証を提示しながら答えたので、僕たちも自己紹介をしながら特別管理地区立入通行許可証を彼に提示する。するとクロードは通行許可証を鋭い眼差しで慎重に受け取り、その場でその許可証が有効であるかを携帯用端末で確認し始めた。そのうえで、僕たちが預っている落とし物の確認を求めたので、イェンスがバッグの奥底から落とし物を取り出してクロードに手渡す。彼は封に記されたユリウスのサインを確認するとすぐにイェンスに返却し、再び柔和な笑顔を浮かべて話し始めた。

 「お待たせしました。では、ご案内いたします。あなたたちの荷物は彼らに持たせます。どうぞ、お任せください」

 クロードが背後で待機していた若い男性二人に指示を与えると、彼らはきびきびとした返事とともに僕たちのスーツケースを持ち始めた。

 空港の担当者に丁重にお礼の言葉を伝え、彼に見送られながら移動を開始する。先頭にいたクロードが僕たちを振り返りながら言った。

 「今日はお疲れでしょうから、ここから車で三十分ほどの場所にございます、軍の来賓用宿泊施設でお休みください。そうご案内するよう、大元帥から仰せつかっております」

 「大変助かります。大元帥のご厚意にも感謝しております」

 僕たちの言葉にクロードがまたも柔和な笑顔を見せる。彼は空港の駐車場に停めてある小型のバスに向かって歩いていた。そのバスは、一見して軍に関係するようには見えないものであった。そこにユリウスの配慮を感じたのだが、それ以上詮索するほどのことでもないように思われ、静かにバスの中へと乗り込む。席がそれなりに空いているにもかかわらず、習慣からイェンスの隣につい座ると、クロードが「ゆったり座って構わないのですよ」と声をかけてきた。しかし、僕に改めて座席を移る気力が無かったのと、イェンスが「僕は落ち着くから歓迎だよ」とささやいたこともあり、「このままでお願いします」と返す。すると、クロードは「かしこまりました」と柔和な笑顔を見せ、運転手に移動を開始するよう指示を出した。

 「特別管理区域へは軍用ヘリで明日お連れいたします。その際、中継地点となる基地でヘリと操縦士の交代を経て、さらに奥の基地へと向かいます。ヘリでの移動は合計で二時間ほどですが、特別管理区域の入り口は二つ目の基地から車でおよそ一時間ほどかかりますので、長時間の移動を覚悟してください。それで本日の夕食はいかがなさいますか?」

 クロードの口調は最後まで丁寧であった。今いる地方国は午後六時半を過ぎようとしていたのだが、緯度が高いため、夕方という感じはしなかった。その陽気な日差しを受けているイェンスの顔を見ると、彼はずいぶん疲れた顔をしていた。そこで僕は周囲に総菜などが買える売店があるのかをクロードに尋ねた。すると彼は「もし先にお休みになるようでしたら、どうぞそうなさってください。食事はこちらで手配いたしますので、気になさらないでも大丈夫ですよ」と朗らかに返した。

 僕はクロードの言葉に彼の優しさと、ユリウスの偉大さとを感じ取っていた。イェンスと相談し、先に休んでから食事を取ることをクロードに伝える。彼は僕たちの要望を聞くと、やはり丁寧な口調で「かしこまりました。もし、気が変わって先にお食事を召されるようでしたら、遠慮なく申し付けください」と言って微笑んだ。

 彼の言葉に謝意を示して一連のやり取りが終わった途端、車内が静かになった。初めて訪れた地方国の風景を見ようと、イェンスの横顔の向こうにある窓に目をやる。しかし、その関心も長くは持たなかった。長旅の疲れから、ずいぶんとまぶたがくたびれて重くなってきていた。それでも懸命にこじ開けようとするのだが、欠伸すら逃げ出してしまうほど僕は眠かった。

「クラウス、起きて」

 イェンスが僕の耳元でささやいた。車は軍の来賓用宿泊施設らしき建物の前に到着しており、僕はいつの間にかうたた寝をしていたらしかった。なんとか目を開けて、丁重にお礼を言いながらバスを降りる。その建物の外観は古めかしさこそあったものの、一歩館内に入ると、洗練された上品さをにおわす内装で統一されていた。

 クロードの案内で広々とした室内へと入る。先日のアウリンコのリゾートホテルとはまた異なった趣の、非常に居心地の良さそうな部屋を見回す。ここにもユリウスの気遣いを感じ取ると、改めてユリウスに感謝の気持ちをそっと送らずにはいられなかった。

「非常に重要な物をお持ちですので、一緒のお部屋にいたしました。部屋の外にも警備をつけますが、念の為、中からも鍵をかけてご利用ください。室内にはシャワーと……」

 クロードが簡潔な言葉で説明していく。

「……以上ですが、何かご不明な点はございますか?」

「いえ、丁寧な説明でしたので、充分把握できました。ありがとうございました。明日またお願いいたします」

 イェンスと僕とでお礼の言葉を伝えると、彼は「それでは、ごゆっくりお休みください」と微笑んで部屋を退出していった。

 クロードの言葉どおりにイェンスが部屋に鍵を掛ける。僕は早速靴を脱ぎ、衣類を緩めると、ベッドに倒れ込むように横になった。

 「灯りは消すよ」

 イェンスの言葉に、僕は気力を振り絞って「ありがとう、おやすみ」と返した。灯りはすぐに消され、イェンスが隣のベッドに横たわる音が聞こえた。

「おやすみ、クラウス」

 彼の言葉をまどろみの中で聞きとったような気もしたのだが、意識はすでに曖昧にぼやかされており、そのまま睡魔の支配下へと治められていった。

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