第23話

 五月の三週目は慌ただしく過ぎ去ろうとしていた。僕たちはノルドゥルフ社のヴィルヘルムらに、『急で申し訳ないが二人一緒に休暇を取り、ツェイドを含めた地方国へ旅行することとなった』といった内容の文章をメールで送った。ここのところノルドゥルフ社の輸入は落ち着いており、連絡すること自体がほとんど無くなっていたのだが、万一不在時に問い合わせがあっては申し訳ないと判断して報告したのである。すると、メールを送って五分としないうちに、やや興奮した様子のフランツから電話がかかって来た。

「ツェイドに行かれるというのは本当ですか? きっといい体験になりますよ。僕が忙しいあなたたちを捕まえて電話したのは他でもない、ツェイドの非常に有名な観光地と美味しい料理をどうしてもお伝えしたかったのです」

 電話を取った僕はイェンスに目配せをした。すると彼は仕事の手を休め、電話のやり取りに耳をそばだてた。

「まず観光地ですが、ツェイドは各地に伝統ある城が多く存在していまして、その中でも年末年始に彼女と一緒に行った……」

 フランツの声が活き活きと弾んでいたので、僕は彼の思いがけない私生活の近況報告に驚きつつも、聞き逃すことのないよう復唱することにした。それを聞いてイェンスが隣でメモを取り始める。

「続いて食事ですが、やはり腸詰肉と……」

 フランツの話が食事に移ると、イェンスは笑顔を浮かべた。

「ああ、押しつけがましい電話を長々とすみません」

 フランツは一通りの説明を終えると、申し訳なさそうに付け加えたのだが口調は明るかった。

「いえ、とんでもない。フランツ、あなたの説明は非常にわかりやすく、魅力にあふれていました。ぜひ、参考にさせてください」

「そう言って頂けると光栄です。ヴィルヘルムもハンスも、あなたたちに楽しんで来られるよう伝えてほしいと申しておりました。では、またお会いできるのを楽しみにしております」

 フランツはそう言うと丁寧に電話を切った。僕は静かに受話器を置くと、隣で笑顔を浮かべているイェンスを見た。

「君が食事の話の時に笑顔を浮かべたのは、フランツが教えてくれた料理を知っていて、その美味しさも知っていたからだろう?」

「そのとおりだ。味を思い出してお腹が空いたほどだ。有名なレストランも彼は教えてくれたし、候補に入れておこう」

 イェンスはそう言うと、フランツから聞いたメモをスマートフォンケースにはさみ込み、ジャケットの内側へと入れた。

 僕たちは仕事の合間に普段担当している輸入通関の手続きをまとめ上げていた。それだけではなく、ローネとティモ、トニオとケンにも何度か実際に書類を作成してもらい、不慣れさと不安な要素を少しずつ解消するようにしていた。その様子をジャンが見て、熱心に仕事の手順や気付いたことをメモに取る様子も、最近ではすっかり見慣れた光景となっていた。

 その週の金曜日の午後、どこで噂を聞き付けたのか、オランカが社内書類を届けるついでにと僕たちに話しかけてきた。

「ねえ、あなたたち、その地方国ならおすすめの観光地があるのよ。ちょっと待ってて。前に行った時の写真を見せてあげるねっ」

 どうしても見えてしまう胸元から極力視線を逸らし、丁重かつ確実に断る言葉を模索する。しかし、ここぞという時に僕は相変わらず不器用であった。必死に当たり障りのない口実を考えていると、イェンスが見かねて彼女に「すまない。今忙しくて、彼も僕も手が離せないんだ」と丁寧な口調で伝えて断ろうとした。僕は天の助けとばかりに喜んだのだが、彼女がお構いなしにイェンスと僕との間に入り込んできたものだから、そんなに嫌ではなかった香水の匂いが突如として凶器に変わってしまい、とうとう耐え切れずに咳込んでしまった。

「大丈夫? でさぁ、昔付き合っていた男がぁ、どうしても私を旅行に連れて行きたがってぇ」

 僕の背中をさすった手をそのままそこに置いてオランカが語り始める。僕は背中の感触と彼女の甘ったるい口調にすっかり凍り付き、イェンスに助けを求めることさえできずにいた。

「イェンス、お願い。この二つの化学品がわからないの。私にもわかるように説明してくれる? オランカ、悪いわね、急いでいるの」

 ローネがすかさずイェンスに声をかける。

「クラウス。この輸入者の、この貨物の分類がよくわからないんだけど」

 ティモはオランカを全く無視していた。

「すみません、あなたの話を聞けそうにありません」

 僕は表情に気を付けながらオランカに控えめな口調で言葉を返すと、『渡りに船』という言葉を思い返しながらティモの席へと向かった。

「おお、オランカ。ちょうど良かった。急いでこの書類をムラトに渡してくれ」

 ギオルギが遠くから彼女を呼びつけて書類を手渡す。すると、彼女はむっとした表情を見せたのだがそれ以上は何も言わず、ローネだけを睨みつけるように一瞥してから事務所を出ていった。

「ありがとう、ティモ。助かったよ」

 僕の本心から出た言葉に、ティモは明るい笑顔を見せた。

「いや、実際悩んでいたんだ。この貨物のインボイスでの品名は『ゴム製マット』とあるのに、君が以前作成した申告書を参考に見ると『プラスチック製の家庭器具』のところに分類しているんだ。どうしてなんだい?」

「ああ、それはカタログを見ると一目瞭然さ。君はきっと足元に敷く合成ゴムでできたマットを想像しているのだろうけど、それはシリコンゴムでできた調理用マットなんだ」

 僕はカタログの中から該当する商品を探し出して彼に見せた。彼はそれを見て納得したようで、申告書作成を進めていく。その隣では、ローネが難しい表情でイェンスの説明に耳を傾けていた。

「今度はメントールですね。メントールは脂環式アルコールの一つなので……言葉だとわかりづらいですね。分子式を書きます」

 イェンスが環式に分子式を書き添えて説明を続ける。

「ご存知だと思いますが、この『C』が炭素を表しています。大雑把に言うと、この炭素を含む化合物のことを有機化合物と呼ぶのです。飽和というのは、隣同士の原子間が2価以上で結合されていない状態を指します。2価というのは二重線で表されるものです。この六角形の環状からこのようにOHが伸びており、それでいくと……」

 イェンスはメントールがなぜ脂環式アルコールに属するのか、ローネに丁寧に説明していた。その間に僕は席に戻ったのだが、彼らのやり取りが気になったので少し様子を伺うことにした。

「……第二級アルコールなので、ここに分類されるのです」

 ローネの眉間から深いしわが消えることはなく、説明を聞き終えた頃には深いため息が彼女からもれた。

「これって化学式の中でも簡単なほうなんでしょうけど、化学を最後に勉強してから二十年以上も経っているから、まるっきりぴんとこないわ。あなたの説明は本当にわかりやすいけど、化学品の取り扱いがそもそも少ないから、きっとまた忘れるわね」

 彼女はイェンスが伝えた言葉をつぶやきながらインボイスに書き添えた。

「HSコードは2906……」

「メントールは以前、他の輸入者で取り扱いがあって、その時もそのHSコードで申告して輸入許可になりましたので大丈夫ですよ」

「そうなのね、ありがとう。それにしても、あなたもクラウスもやっぱり驚くほど頭がいいわね。特別コースなのは知っていたけど、本当に知識が豊富だわ。さっきのメントールはあなたにして見れば簡単でしょうけど、すらすら化学式が出てくるあたりがさすがよね。記憶力もいいし、洞察力はあるし、計算も早いしでうらやましいわ。おかげでこういった時に大変助かっているんですけどね」

 彼女はそう言うと笑顔を見せ、再び仕事に戻った。イェンスは僕の視線に気が付くと微笑んだのだが、特に何も言わずに自席に戻って仕事を再開させた。

 僕はローネに褒められたことが嬉しかったのだが、以前、イェンスが彼自身のことを『中途半端』と揶揄していたことをふと思い出してしまった。彼に関して言えば、能力を活かして社会に貢献することは目立つことにつながるため、過去の辛い経験もあり、それだけは避けたいというのは切実な願いであった。彼は優秀であったからこそ、あえて中途半端な道を選択せざるを得なかったのである。

 しかし、僕は違った。ずっと否定的な自己評価をしてきただけの理由が僕にはあった。僕がローネの指摘どおり本当に優秀なのであれば、もっと社会や環境に重大な貢献をすることをためらいもせずに選択していたはずである。すると突然、ロヒールの言葉が脳裏に浮かんだ。

『特別コース出身でありながら、もったいないことをしている』

 その言葉は今まで幾度となく僕に向けられたものであった。変わり者だと言われることも、努力もせずに姑息だと言われることも少なくなかった。僕はそう言われ続ける自分自身を恥じていた。いや、恥じるだけでどうにか改善しようとしない自分を、何よりも恥じて責めていたではないか。能力にこそ普通の人間より秀でているところがあっても、それを積極的に活用せず、深い情熱も湧き上がらない僕こそが中途半端の塊であり、至らない人間の証のようなものではなかったか。

 それはかつても僕の思考の中にあったのだが、久しく僕は忘れていた。しかし、僕が中途半端な存在であることに再び気が付くと、途端に胸が締め付けられた。久しぶりにあの『魔物』がのっそりと僕の中に現れる。魔物は蔑んだ表情で僕を見るなり罵り始め、嘲笑しながら孤独の淵へと引きずり込もうと猛攻撃をかけてきた。

 僕が書類を目の前に固まり、人知れずもがき苦しんでいると、隣にいるイェンスが立ち上がるなり僕の肩に優しく手を置いた。その彼の行為で我に返ると、彼が資料を取りに書庫へと向かったのが見えた。

 いつまでも自己卑下を続け、弱者のふりをしたままではいられない。

 自力で這い上がろうと、気合を入れ直して自分自身を奮い立たせる。あの魔物から無理やり逃れるまでもなく、仕事は立て込んでいた。未解決の思考を脇に置いて黙々と仕事を再開させる。イェンスは資料を抱えながら席に戻ってきたのだが、僕に言葉をかけることはなかった。僕もあえて彼のほうを見ることはせず、心の中で彼に感謝の言葉を贈った。

 だらけてしまった分を取り返すべく、いつにもまして雑念を振り払って仕事に取り組む。輸入申告書入力控を出力して入力ミスや見逃しが無いかチェックしていると、イェンスが「急ぎでこの書類もチェックをしてくれないか」と声をかけてきた。その言葉に反応して彼を見ると彼は優しく微笑んでおり、「ここに書類を置いておく」と僕の机の隅に書類を置いた。「すぐに見るよ」と彼に微笑んで返して、続けざまにその書類のチェックに入る。もはや、先ほどまで僕の心を支配していたものが何であったのかが気にならなくなるほど、僕は仕事に打ち込んでいた。

 慌ただしいながらも、その日のうちに入れなければならない申告が全て終わり、イェンスと僕とで申告して許可になった書類の整理を始める。書類を捌いていると、仕事を終えたローネとティモが手伝おうと声をかけてきた。

「ありがとう、僕たちのほうは大丈夫だ。トニオやケンたちを手伝ってあげてほしい」

「こっちもさっき終わった。書類の整理を手伝おう」

 僕の言葉を耳にしたケンがやって来て、書類の束に手を伸ばしてきた。

「彼らはもういいだろう、僕たちは三週間休暇を取るんだ。先に帰らせよう」

 イェンスが小声でささやく。僕は彼の意見に全く持って同意すると、ケンとティモに明るく伝えた。

「残業は僕たちが引き受ける。これから一緒に三週間休むから、せめてもの償いだ。だから、早く帰って良い週末を迎えてほしい」

「気にするな。休暇は休暇、仕事は仕事だ。それに俺たちだって今後長期休暇を取るかもしれない。その時はお互い様だろう?」

 ティモがそう答えると、ケンが笑いながらうなずいた。

「ティモの言うとおりだ。手分けしてさっさと終わらせようぜ」

 ケンは僕たちのところから未処理の書類の束を手に取ると、ティモに半分渡して整理を始めた。

「ありがとう」

 イェンスと僕が口々にお礼を伝えると、「その代わり、お土産を期待しているからな」とケンがいたずらっぽく笑いながら言った。

 ナーシャとフウが先に退社し、さらにローネも続く。トニオはずっと仕事上の調べ物をしていたのだが、それも終わったらしく、僕たちに声をかけて帰って行った。書類の整理はあっという間に終わり、あとは書庫に保管するだけである。ケンは知り合いから誘われたらしく、仕事が終わるやいなや机の上を整頓して退社していった。

 その時、ジャンがずいぶん前からいないことにようやく気が付いた。そこでティモに軽い気持ちで尋ねと、彼はにやついた表情で答えた。

「あいつは今頃ベアトリスとデート中さ。CX-1地区にある、超有名高級レストランに予約を入れたらしい」

 彼は言い終えると欠伸をし、両腕を頭上にぐっと伸ばした。

「ああ、疲れたな。実は俺も今日、久しぶりに学校の時の友だち何人かと飲む約束があるんだ。けど、すごく忙しい友人がいて、彼に合わせるために待ち合わせの時間が遅くてさ。まあ、待ち合わせ場所は地元だし、まだ時間もあるから、この近くの家電ショップでぶらぶらしようかと思っているんだ」

 僕が時計に目をやると夜七時をとっくに過ぎていた。

「待ち合わせは何時から?」

 イェンスが尋ねると、彼はパソコンを閉じながら答えた。

「夜九時さ。地元はDX‐14地区なんだけど、地下鉄の接続がいいと一時間足らずで到着する。終電を逃すだろうから、帰りは久しぶりに実家に泊まるつもりだ」

「それは楽しみだね、よい夜となるよう祈っている」

 イェンスの言葉にティモが顔をほころばせた。

「ありがとう、お互いに良い週末を!」

 彼はそう言うと、颯爽とジャケットを片手に事務所から出て行った。僕たちも書類を書庫にしまい、帰り支度を済ませる。それから僕たちの他に数名残っていた事務所の人たちに挨拶をし、静かに事務所を出た。

 歩きながら今日の夕飯について話し合う。様々な意見が出た結果、僕たちは久しぶりに歓楽街の中にある、地方国の料理を提供するレストランバーで夕食を取ることにした。普段なら近寄らない歓楽街も、旅行を控えた今となっては他人の視線に慣れ、人がたくさんいる中でも落ち着いた行動を選択できるよう練習しておきたいという思惑があったからであった。

 事務所を出て、アパートがある方角とは反対方向に向かって歩き始める。生ぬるい風に吹かれながらも、イェンスと僕はなるべく落ち着いた気分を保っていた。

 歓楽街に向かって歩道が混むにつれ、いろいろな人たちの人生の一部が目の前で繰り広げられていく。酒が入るとそれまで隠していたその人の本性が、ひょんなことで露呈されるのであろう。僕も決して人生経験が豊富とは言い難いのだが、周囲に漂う複雑な人間模様に流されずに済んでいられるのは、やはりイェンスと一緒にいることがかなりの心強さをもたらしているからであった。

「久しぶりだとにぎやかすぎていろいろ驚くね。以前は歓楽街にオールと飲みに行ったこともあるのに、今となっては歓楽街の近くだけでも気後れしそうだ」

「地方国に行けば、ここ以上に気後れする場所もざらにある。僕だって決して居心地良くはないが、クラウス、君と一緒だ。本当に心強いよ。あっ……」

 イェンスがあまりの人の多さに体勢を崩したのか、勢いよく僕にぶつかった。

「ごめん、クラウス」

「どうってことないよ。それにしても、ここはまだ歓楽街の外れのほうなのに金曜日の夜だからか、混んでいるなあ。僕たちが住んでいる辺りは閑静だから差が激しすぎるよ。こういった場所で五感を開放して歩くのは、一気に疲れそうだね」

「本当だな」

 イェンスが苦笑いを浮かべて返した。そこからさらに数分歩くとさらに通行人の量が増え、ドーオニツの中でも有数の繁華街と名が知られるだけのにぎやかな界隈へと辿り着いた。ただ、ドーオニツということで、このような場所でも法律を破るほどの羽目を外す人はそうそういないのだが、酒が入ったことでついついゆるんでしまい、迷惑行為になりかねない動きを見せている人に警ら中の警察官がたしなめる光景も決して珍しくはなかった。

 若い女性のグループに若い男性グループが声をかける。その近くでスーツ姿の中年男性数人が、陽気な声で仕事の愚痴をもらす。一人で足早に通り過ぎる女性の後ろを、年配の女性二人が談笑しながらゆったりと横切っていく。そのような中で目的のレストランバーの場所を探していると、イェンスが耳元でささやいた。

「あった、あそこだ。ああ、混んでいそうだな」

 イェンスは僕の肩を掴んで歩き始めた。レストランバーの前に着くと男女数名が入り口近くでたむろしていたのだが、僕たちが店内の様子を伺おうとしても彼らは気にもせずに語り合っていた。

「いらっしゃいませ、二名様ですか?」

「はい」

「ご案内しますよ」

 明るい笑顔を見せた男性店員の後をついていく。店内は混雑しているうえ、非常ににぎやかである。酔いが回っているのか、陽気な笑い声をあげる女性やら大声で自慢話をする男性の声などで空間が埋まっており、活気にあふれるとはまさにこのことであった。

「なんだかこういった雰囲気が懐かしくさえ感じられるよ。僕たちの旅行では落ち着いたレストランにばかり行くわけじゃないから、やはりいい機会なのかもしれない」

 僕がイェンスにささやくと、彼はやや緊張した笑顔を浮かべてうなずいた。

「君の言うとおりだな。いい練習だと思って楽しもう」

 店員が差し出したメニューをイェンスが早速開くと、地方国の特色ある料理が鮮やかな写真付きで紹介されていた。初めて見るもの、名前だけ聞いたことがあるものなどを眺めているうちに、僕の飢えた胃が敏感に反応を示す。しかし、一通り目を通すと、結局は普段から食べ慣れている料理に一番食欲がそそられたのであった。僕が苦笑いを交えながらそのことをイェンスに打ち明けると、彼は「好きなものを食べたらいい。実を言うと、僕も結局は冒険しないんだ」と言って微笑んだ。

 店員に目配せして注文を終えると、ななめ前のテーブルにいる女性二人が僕たちをちらちらと見ていることに気が付いた。僕はその視線を軽く流したのだが、イェンスの表情が物憂げに見えたので心配になって声をかける。すると、彼はどことなく緊張した面持ちで答えた。

「ありがとう、クラウス。その、実を言うと、酒類が提供されるこういったにぎやかな場所で視線を受けることに、未だ慣れていないんだ。君だから言うけど、僕はある程度マナーが求められるレストランに行くことのほうが多かったからね。それに比較的マナーのゆるい場所に来たら、マナーを優先しすぎて周囲から浮いてしまうことのないよう、振る舞いを崩さないといけない気がする。その場に合った振る舞いが、やはり自然に見えると思うからね。それを僕が上手にできているのかが気になったんだよ」

 僕は気品あふれる彼が、厳しい躾の下で本当に美しい所作法を身につけて育ったことに改めて感激を覚えた。

「イェンス、君はどんな場所にいても君らしいんだね。僕は君の振る舞いがとても好きだよ。気にしないで、君らしくしていればいい。それに君は上手に、その場に合わせて自分を楽しませてきたじゃないか。君なら大丈夫さ」

「ありがとう、クラウス。君がそう言ってくれると本当に嬉しい。心強い限りだ。旅行も君がいると思うと非常に落ち着く。君には感謝してもしきれない」

 彼の言葉が僕の心に真っ直ぐに届き、優しさまでもがもたらされる。周囲の喧騒の中で、僕はじんわりとこみ上げる友情の喜びとともに彼を見つめ返した。

「お待たせしました」

 その時、料理が運ばれてきた。飢えていた僕たちは笑顔を見せあうと、早速食事にありつくことにした。注文した水をグラスに注ぎ、イェンスが持ち上げて恭しく「乾杯」と音頭を取る。しかし、彼の態度がどことなくぎこちなかったので、僕はつい吹き出してしまった。

「イェンス、君と一緒にいると本当に飽きないよ。時間も空間も華やかに彩られるし、楽しさも安らぎも何倍にも膨れ上がる」

 それを聞いて彼は思いのほか、はにかんだ表情を見せた。

「ありがとう。君はまた、僕に喜びを与える言葉を贈ってくれた。僕たちの関係で僕が最も気に入っていることの一つに、恥ずかしげも無く感謝の気持ちを伝えられることもそうなんだ。たとえそれがきざっぽい言葉でも君に伝えるのであれば、僕はそれが安く聞こえないよう言い回しを考える必要性を感じるほどだ。さあ、食べよう。クラウス。君は優しく美しい眼差しで僕を包み込んでいるけど、ずいぶん飢えているのも見受けられる」

「ありがとう、イェンス。君が言った言葉は僕が言いたかった言葉でもある。じゃあ食べようか」

 僕たちは飢えていたこともあって黙々と食べ始めた。

 端的に言うと料理は美味しかった。量もちょうど良く、イェンスと僕は食事を堪能していた。イェンスは時折落ち着かない様子を見せたりしたものの、それでも努めてこの店の雰囲気を楽しもうとしていることは一目瞭然であった。

「僕は家督相続の放棄を決意した大学院生時代に、生活の場を両親に迷惑を掛けず、そして実家からなるべく離れた場所にしようと考えた。僕が実家の近くやアウリンコに一人で住んでいたら、両親が干渉することはわかっていたからね。最初は不慣れから戸惑いもあったけど、さすがに今は慣れたし、こういったにぎやかな歓楽街の良さもなんとなくわかる。利用する客層は場所柄もあって熱気あふれる人たちが多いけど、店自体は至って普通だ。地方国に行けば、さらに想像を超えたレストランやカフェもあるだろう。僕が生きて行く道には、マナーが必要とされるようなレストランはごく限られた機会のみ充分だ。ああいった場所は料金も高いし、堅苦しすぎる。そうでなければ、気取りすぎて変に気疲れすることもある。いずれにせよ、僕がこのような雰囲気のレストランだけでなく、物怖じせずにいろんな場所に慣れる必要があるのは間違いない。僕はずいぶんと偏った環境で生まれ育ったのだからね」

 彼は静かにそう語りだしたかと思うと、一つ深く呼吸をした。しかし、僕にはどこか無理をしているように聞こえたので、彼に対して思ったことを率直に返した。

「そうだろうか。君はずいぶんつらい思いをしてきた。君が物怖じを感じているのであれば、こういった場所に無理して来る必要なんかない。僕はこういったにぎやかなレストランバーにもマナーが求められるレストランにも慣れていないけど、少なくとも君はきちんとした教育と躾を受けてきたし、マナーを必要とされるレストランで食事を楽しむことを幼少時から当たり前のように体験してきた。そうであれば、いいレストランに行きたくなることも当然あるはずだ。僕は君の育ってきた環境が、君という人間の土台になっていることぐらい理解している。僕は君のその土台に敬意を払っているつもりだ。つまり、君が育ってきた環境にも敬意を払っているつもりなんだ。いいレストランに積極的に行ったっていいじゃないか。君はそういった場所でなら、本当は落ち着くんだろう? 君は育ってきた環境まで否定する必要はない。君が生きて行く道にはいいレストランが最適で、時々こういった場所にも立ち寄る。それでいいじゃないか。君みたいに振る舞いの立派な人が、ご両親への遠慮と自分への決意だけでいいレストランを遠ざける必要なんてない。君は遠慮せずに行きたい場所に行き、食べたいものを食べたらいいんだ。君さえ良ければ、僕は喜んで同行してその体験を共有しようと思う。僕はそういった場所ではぎこちないかもしれないけど、君が楽しめるのであれば、振る舞いも君に近付けるよう努力する。だから、君は僕に遠慮しないで、もっと自分の土台を愛していいんだよ」

 そこまで言うとふと言いすぎたように思え、思わず彼に謝った。

「ごめん。推測でしかないのに、またずいぶんと勝手なことを言ってしまった」

 しかし、イェンスは茫然とした表情で僕を見つめたままであった。店内の騒々しさが僕たちの間に割って入る。沈黙の状態が続くと、僕は彼の心に芽生えた決意をくじき、あまつさえ失言したのだと考えて後悔し始めていた。

 イェンスは言葉を発することなく、視線をぼんやりと宙に向け始めた。何かを考えているようにも見えたのだが、果たして真意のほどは定かで無かった。僕は手をきつく握り締めると、僕たちの間に流れている不穏な空気から身を隠すようにうなだれ、自分の軽率さと愚鈍さを悔やんだ。

「出ようか」

 少ししてイェンスが僕に声をかけたのが聞こえた。僕が彼を見ることなく「そうしよう」と答えると、彼は店員を呼んで支払いを始めた。僕は支払いの間中、どことなく彼をしっかりと見ることができないでいた。彼が席を立ったのに続いて僕も席を立つ。僕たちを見ていた女性たちに声をかけられたのだが、僕は「すみません」とだけ返すと急いで店を出た。

 通りはますます活気にあふれ、人でごった返していた。若者たちが歓声を上げ、様々な喧騒があちこちから聞こえてくる。そのためか、イェンスは普段にまして足早に通りを抜けようとしているらしかった。僕は道行く人の間をすり抜けながら、彼の後をくっつくように歩いていた。歩いていると女性だけでなく男性からも声をかけられたのだが、イェンスは彼らに気が付かない振りをしているのか反応することはなく、そのまま隙間を縫うようにどんどんと先へ進んで行った。

 ようやく歓楽街を抜ける。大きな通りまで来ると、イェンスが振り返って僕を待った。彼の表情はどこか緊張しているようにも見えたのだが、僕は彼をただ見つめることしかできなかった。

「クラウス、急がせてすまなかった。人が多くて早く抜け出したくなったんだ」

 イェンスが僕と並んで歩き始めた。

「気にしてないよ」

 僕はそう言うと夜空を見上げ、美しい星たちが街灯りにかき消されないよう力強く輝いているのを見てから、再び視線を前方へと移した。

 僕たちはやはり無言のままで歩いていた。生あたたかい風が吹き、紺色の世界の中で木々を優しく揺らす。道ですれ違う人たちが笑い合いながら歩き、遠くで誰かの笑い声が聞こえてくると、僕は胸がきゅっと締め付けられそうになった。

 とうとう僕はいたたまれなくなり、隣で無言のまま歩いているイェンスの様子をおそるおそる伺った。するとすぐさま彼と目が合い、彼は僕にさびしげに微笑んだかと思うと立ち止まった。

 次の瞬間、彼は僕をいきなり抱きしめ、耳元で「君は僕にとって最も大切な存在だ」とささやいた。行き交う人たちの好奇の視線を感じたのだが、僕も彼を抱きしめながら力強くささやき返した。

「君も僕の最も大切な存在だ」

「ありがとう、クラウス」

 彼は親愛に満ちた表情でそう言うと再び歩き始め、歩きながら僕に尋ねてきた。

「クラウス、これから君の部屋を訪ねてもいいだろうか?」

「もちろん、君ならいつだって大歓迎さ」

 僕は感じた喜びをほのかに添えながら答えた。ふとイェンスの肩に手を回してみようという気になり、彼の肩に手を回す。すると、即座に彼も僕の肩に手を回してきた。彼を見ると彼は静かに微笑んで応え、その瞳にはあの光があった。僕は彼との間に再び強い友情が復活したことに心から安堵していた。肩を組んで歩いている様は傍から見れば奇妙に見えたであろうが、僕は一向に気にならなかった。

「クラウス、さっきのレストランで僕が取った行為について謝りたい」

 僕たちはアパートのすぐ近くまでやって来ていた。

「気にしないでいい」

 僕は微笑みながら返すと、アパート内へと入った。階段を上がって部屋に入るなり、いつものように窓を開ける。風がカーテンを揺らしながら室内へと舞い込み、新鮮な空気をももたらしていく。

「何か飲む?」

 僕の言葉にイェンスは首を横に振って答えた。

「クラウス、話を続けさせてほしい。君にどうしても謝りたい。僕は失礼な態度を君に取った」

 僕は上着を洋服掛けに掛けながら返した。

「言っただろう、気にするなと。僕は気にしてないよ」

 イェンスに微笑みかけると背を向け、冷蔵庫へと向かった。冷蔵庫の中には先日購入したグレープフルーツジュースがあるのだ。

 突然、僕はイェンスに肩を掴まれた。その力強さに驚いて彼を見ると、彼は非常に真剣な表情で僕を見ていた。

「いや、それでは君の優しさに甘えっぱなしになってしまう」

 その言葉に僕がますます驚いていると、彼は真剣な表情を崩すことなくはっきりとした口調で続けた。

「君がレストランで言ったことはまるっきり正しかった。僕はああいった場所にいるより、落ち着いた雰囲気のレストランで食事を堪能するほうが好きなんだ。だけどそれを認めたら、僕があれほど嫌っていた階級の暮らしに未練を残していることを認めることになる。矛盾していることに目を背いたままではいられなくなる。僕はそのことにずいぶん前から気が付いていたのだけど、言い訳をして向き合って来なかった。だけど君はそのことを深い見地から見抜くと、大きな愛で僕を包み込みながら指摘した。僕は……僕は浅い自分が恥ずかしかった。君が僕の土台に敬意を表すと言った時、僕は自分の傲慢さを見抜かれ、君という美しい人との間に圧倒的な差があることを見せつけられた気分だったんだ。しかも幼稚な僕は君の美しい提案に対しても素直になれず、君の優しさをずるく欺いた自分自身に愕然とすることしかできなかった。君はすぐに謝ってきたけど、君自身が責められることは何一つ無い。それなのに僕は無礼にもほどがあって、君という美しい人の前で僕の醜い面をさらけ出してしまったことに対して一方的に怒り、恥じて何も言えなくなっていたんだ」

「ごめん。君にそういった感情をもたらしたのは間違いなく、僕の言動に発端がある。君を不用意に傷付けてしまったんだ」

 僕は彼の告白に罪悪感を覚えて咄嗟に謝ったのだが、彼は首を横に強く振ってさらに続けた。

「いや、本当に君は何も悪くない。もし、君の言い分を僕が認めてしまえば、僕は成長できる機会を自らの手で奪ってしまうことになる。今さらだけど、君の言葉がいかに優しさと思いやりに満ちていたかがよく理解できるよ。君は僕の家族にも敬意を表した。僕の過去を優しく受け止めると、僕が僕らしくいられるよう、やわらかい言葉を使って僕に気持ちを伝えてくれた。クラウス、本当にすまなかった。僕が君に取った失礼な態度を僕は心から詫びたい。そうでなければ、君との友情を食い物にし、あげくには君の優しさと愛に傲慢さを持って対応しているのと同じなんだ」

 彼の言葉一つ一つが重く心に響いていく。しかし、その内容は今までにない美しさに彩られていた。

「もし、全ての事情を把握したうえで君が気に食わないというのであれば、僕は甘んじてそれを受け止めよう。君にはその権利がある。僕の傲慢さに嫌気が差したのなら、それも受け止めよう。腹立たしさから殴りたいと思ったのであれば、それも甘んじて受け止める。クラウス、君は全くの自由なんだ」

 彼は言い終えると口をきつく結び、僕をじっと見つめた。その彼の瞳にはあの美しい光があふれていたので、僕は去年の秋にエトネたちを訪ねた時のことを不意に思い出した。珍しく暑かったあの日、僕は公園で汗ばみながらも彼が今言ったようなことを彼に申し出たのだ。

 僕はふと思い付いたことがあった。

「それなら君、目をつむり、歯をくいしばってお腹に力を入れるんだな」

 僕がわざと真剣な表情でイェンスに言うと彼は素直に目をぎゅっとつむり、緊張した様子で無防備な姿をさらけ出した。笑いそうになるのを懸命にこらえながら、気配を殺して静かに彼の背後へと回る。彼がますます緊張しているのがわかると、僕はその後ろ姿に愛おしさすら覚えた。

 少し間を置いてから、何も言わずにイェンスの両膝の裏を同時に押す。すると彼は当然のごとくつんのめり、あっさりと倒れてしまった。彼は茫然とした表情で僕を見上げていたのだが、僕がこらえきれなくなって笑いながら手を差し出すと、彼もあの公園での出来事を思い出したのか、吹き出すように笑い出した。

「イェンス。これで、あいこだ」

 彼は笑いながら僕の手に掴まって立ち上がると、そのまま僕に抱き付いた。すると今度はお互いの肩越しで笑い合った。少ししてようやく愉快な気分が落ち着いてきたのだが、そうなるとこの状況に心から感謝せずにいられなくなった。帰り道の気まずい雰囲気を埋め合わせするかのように、再度イェンスを抱きしめる。すると、力強い抱擁が彼から返された。

「クラウス」

 彼は離れて僕を真っ直ぐにみつめた。驚いたことに、その緑色の美しい瞳は涙でうっすらとにじんでいた。

「君という人は……」

 彼の瞳には美しい光があふれたままであった。その光に吸い寄せられるかのように彼のほほにそっとキスをすると、彼は今にも泣き出しそうな表情へと変わった。

「イェンス、君という美しい友人に僕はずっと憧れてきた。君の振る舞いや言動のやわらかさに、僕には無い育ちの良さと人としての美しさを感じていたんだ。君がいたからこそ、僕も変化を起こすことができた。だからもし、君が僕に美しさを感じてくれているのだとしたら、君のおかげなんだ。――今日、僕は仕事中にもかかわらず、ローネの些細な一言で自分自身の中途半端さに囚われ、久しぶりに孤独と恐怖を感じてしまった。目の前に仕事はたんまりとある。それでも僕は孤独という魔物に抵抗できずにいた。すると君は僕の様子に気付いたのか、何も言わずにただ優しく僕の肩に触れてくれた。あの時、それだけで僕には充分すぎるほど心強かったんだ。ねえ、僕たちは中途半端な存在であるけど、君に関して言えば、本物のエルフと肩を並べるくらいの存在だと僕は信じている。そうでなくとも君という人は全く素晴らしいし、僕の心をいつも優しく照らしてあたためてくれる。イェンス、話してくれてありがとう。僕は君が言った言葉全てを受け止めるよ。だって、君の言葉は全くもって美しかったんだもの。それと……」

 僕がここまで言い終えると、イェンスの瞳から涙があふれていた。

「言っただろう? 僕は簡単に君との友情を諦めないって」

 僕は微笑みながら言うと、目の前の美しい友人を優しく抱きしめた。するとイェンスはいっそう力なく僕に寄りかかり、僕の肩に顔をうずめて泣きじゃくった。

 今までもう何度、悲しみをこらえてきた彼をこのように抱きしめてきたのであろう。つい最近もそれはあったのだが、それでも僕はイェンスが弱い性格だから、自分を律することなく涙を流しているのだとは思えなかった。彼は本来その場その場で対応すべきであった彼の悲しみを、ずっと心の奥底に閉じ込めざるを得なかったのである。

 僕にはイェンスという存在が愛おしくてたまらなかった。『好き』という言葉に収まらないほどの深い気持ちが彼に対してあった。僕のこの美しい友人が本物のエルフに限りなく近付くことができたなら、きっと人間としての苦しみ全てから解放されるに違いない。さらに彼がエルフの村で適応し、エルフの女性と深く愛し合う幸運を得られたなら、ますます美しく逞しい存在へとなっていくことであろう。

 それは全くの夢想であったのだが、僕はそれでも彼に最上の幸せが絶えず訪れることを願わずにはいられなかった。

 どうか、彼の全てが上手くいきますように。

 ふと視線を窓の奥へと向ける。夜空の向こうには、美しい青白い星が凛とした輝きを放ちながら僕たちを見守っていた。僕はその輝きをしっかりと受け止めると、すぐそこにまでやって来ている、僕たちの見えない未来に想いを馳せた。


《第六章》

 五月の四週目は快適な気温と清々しい気候の中で始まった。イェンスと僕はエルフの村を訪ねる高揚感を胸の内に秘めて働き、それでいて旅行の内容には気を遣いながら話すようにしていた。事務所内ではジャンとティモがにやついた表情で話しているのを目にすることも多くなり、どうやら彼らも友人としての親密さが増しているようであった。

 その週の水曜日に四人で一緒に昼食を取った時、ジャンが「ベアトリスと真剣に付き合うことになった」と控えめな口調で報告した。しかし、彼の表情は明らかに幸せに満ちており、どことなく自信にあふれていた。イェンスと僕が交互に心から祝福の言葉を伝えると、彼は照れながらもお礼の言葉を返したのだが、不意にティモを見て言った。

「彼にもいいニュースがあるらしい」

 その言葉に驚いてティモを見ると、彼ははにかんだ表情を見せながら言った。

「先週の金曜日に地元に帰って旧友と飲む話をしただろう? その時、女友だちと趣味の話で意気投合してさ。その彼女が今、俺が住んでいる場所に偶然近かったというのもあって、今度また会うことになったんだ」

 僕は立て続けに幸せな報告を受けたため、自然と口元をほころばせていた。するとジャンが意味ありげな眼差しでイェンスと僕を眺め、にやついた表情で尋ねてきた。

「お前たちはどうなんだ? あんなに女性にもてるのに、付き合っている女性は本当にいないのか?」

 僕はイェンスの顔をあえて見なかったのだが、彼は僕の分まで咄嗟に答えてくれた。

「そうだな、僕たちもそろそろそういうことも考えないと」

「男同士でつるむのもいいけど、やっぱり恋人がいるのは違うからな。ベアトリスは俺より一つ年上なんだが、可愛らしい一面ものぞかせる。彼女と一緒にいると女性らしいかよわさと強さ、そして彼女が持つ美しさとが見事に調和しているのを感じるんだ」

 ジャンはそう言うと惚気た表情を見せた。どうやら僕が思っている以上に順調に仲を深めているらしく、僕は心から安堵した。

 しかし、そこからジャンとティモが小声で際どい話を始めた。ベアトリスとは全く関係のない、彼らの過去の経験と一般論に基づいた感想なのだが、イェンスと僕は反応に戸惑い、お互い目を合わせるとその話題から離れて仕事に関する他愛もない話をしながら食事を続けた。

 その週の金曜日の午後、仕事をしているとユリウスからメールが届いた。日曜日の午前中にどうしても外せない用事があるため、泊まりがけは難しいのだが明日の土曜日が空いていることには変わりがないという内容であった。イェンスと僕がそれぞれ素早く返信したのだが、彼からそれ以上の連絡は無かった。

 その土曜日の朝を迎えた。僕は普段より少しだけかしこまった服装にした。身分証明書の控をジャケットの内側に丁寧にしまってから部屋を後にする。さわやかに晴れ渡った美しい青空を眺めながらアパート前で待っていると、懐かしい車が遠くからやってくるのが見えた。僕がその方向に笑顔を見せて手を軽く上げるとシモとホレーショも笑顔で応え、あっという間に車を目の前に着ける。彼らは車から降りるなり僕を手荒く抱きしめ、笑いながら言った。

「クラウス、久しぶりだな」

「元気そうだな、全くむかつく顔をしやがって」

 シモとホレーショはそれぞれ明るく優しい笑顔を見せたかと思うと、いきなり僕の頭をくしゃくしゃに撫で始めた。僕が「ひどいよ。今日は貸衣装が無さそうだから、全体で勝負しようとしたのに」と乱れた髪も直さずに笑顔で彼らに返すと、シモが「大丈夫だ、そもそも落第点だ。よし、次はあの美男子だな」とおどけてみせた。

 イェンスの住むアパートに向かう。すると、彼もまた普段より少しだけいい格好をして僕たちを待っていた。そして僕が受けた手荒い抱擁を彼らから同様に受け、同じく笑顔で挨拶を返す。四人ともくだけた表情で車内へと乗り込むと、車はいよいよユリウスの元へと向かった。

 僕たちはシモとホレーショに休暇を取ることになった経緯を簡単に説明すると、この旅行の目的も明確に伝えた。僕たちがエルフの村へ行くと明言しても、彼らは特に驚きもせずに言葉を返した。

「だろうな、わざわざ連絡をくれたんだ。単なる旅行が目的じゃないってことぐらい、すぐに勘付いたぜ」

 ホレーショの言葉にシモが続けた。

「実はそのことで、ユリウス将軍からお前たちに話がある。将軍は最後までお前たちに説明できなかったとおっしゃっていた。だから、お会いした際に将軍から詳しく話を聞くといい。昼食には俺たちも招待されている」

 彼は僕たちを見て意味ありげに笑った。イェンスと僕が訝しがりながらもうなずいて返すと、話題は彼らの近況へと移っていった。

 談笑しながら車がアウリンコへと入る。僕はすっかり覚えた道順を心の中でなぞりながら、流れゆく風景を楽しんだ。どんどんと目的地に近付くにつれ、イェンスにだらりと寄りかかって外の風景に目をやる。そしてユリウス邸のゲート前に到着し、シモとホレーショとが身分照会を受けると、以前も見かけた若い男性警備員が車中の僕たちに会釈してから僕たちを見送った。

 ユリウスの庭はすっかり春めいており、彩り鮮やかな美しい花々があちこちで咲いていた。車が玄関前に到着すると同時にユリウスが玄関ドアを開けて現れる。僕は久しぶりに彼と会えた喜びが抑えきれず、思わず「ユリウス!」と歓声を上げた。それを聞いたホレーショが「早く降りて、将軍にご挨拶しろ」と笑顔でけしかけたので、イェンスも僕もすぐさま車から降りてユリウスの元へと駆け寄った。

 互いに抱擁しあい、ほほにキスを贈って再会を喜ぶ。顔を合わせるとつい最近も会ったような感覚に陥るのだが、会って話したいことを山盛り抱えていたイェンスと僕にとっては待ち望んでいた瞬間であった。

「ああ、ようやく君たちに会うことができた。話は中でゆっくりしよう。さあ、入るがいい」

 ユリウスに続いて僕たちもぞろぞろと家の中へと入る。見慣れた調度品を目にしながらリビングルームへと入ると、ダイニングキッチンからまたしても食欲をそそる匂いが漂ってきた。

「来て早々すまないが、手伝ってほしい」

 ユリウスのお願いを嬉々として受け取った僕たちは、早速彼の指示どおりに動いた。相変わらず才能を発揮するユリウスとイェンスのおかげもあって、あっという間に昼食の準備が整えられていく。そうこうしているうちに美味そうな料理が食卓に並べられていった。

 前回と同じように座るとユリウスが「遠慮なく食べてほしい」と伝えてきたので、感謝の言葉を添えて早速食事を取ることにした。一口食べるなり、そのあまりの美味しさに感激し、またしても食欲と胃袋の忠実なるしもべとなる。会話が弾む中でも、僕は美味しさを堪能することは忘れなかった。

 食事が一通り終わると、ユリウスが「話がある」と切り出した。僕はシモが車中で話していたことだと気が付き、ユリウスをじっと見つめた。

「君たちがエルフの村に、私の作り話で落し物を届けるという設定になっていることは伝えたね?」

 ユリウスの言葉にうなずいて返し、イェンスがその設定を彼に説明する。シモとホレーショが僕たちに任意同行を求めた点について僕たちなりの解釈を伝えると、ユリウスは「そのとおりだ」と微笑み、言葉を続けた。

「君たちは今や、彼らと公式に面識があることになっている。そして君たちの推測したとおり、私は彼らが君たちに興味を持ったことを知って、君たちにも直接興味を持つようになった。ひょんな気まぐれからね。周囲に君たちと知り合ったきっかけを尋ねられたら、そう答えようと思う。それと任意同行を求めた点では、優秀な彼らが機転を利かせ、エルフの持ち物を正体がわからずに保有している君たちを不審者から保護する目的であったことを補足して伝えてある。関係者や部下は一様に納得を示し、私の話を受け入れてくれた」

 ユリウスがシモとホレーショに目配せする。彼らが無言で合図を返すのを見て、僕は訝しげに三人を見つめた。

「君たちの表面上の目的は、エルフの村に落とし物を届ける役目だ。民間人に委託する任務ともいえよう。そしてそこには、国家安全省大臣発行の特別管理区域立入通行許可証が必要となる」

 彼の言葉を受けてジャケットの内ポケットから身分証明証の控を取り出すと、イェンスを経由して彼に渡した。ユリウスは「ありがとう」と言って僕たちの身分証明証の控を受け取ると、テーブルの脇にいったん寄せて話を続けた。

「君たちの今回の任務は法律に定められているとおり、国家安全省と軍に報告する必要がある。そして君たちが届ける物は、政府が懇意にしているエルフに由来するもの。それゆえ私は軍の代表として、大臣として直接君たちに関与する義務を負っている」

 僕は彼の言葉を固唾を飲んで聞いていた。

「そこで私は君たちに、住んでいる所から空港までの送迎の手配と、目的地の空港と特別管理区域を管轄する軍の駐屯所までの送迎を手配することにした」

 僕がユリウスの言葉に驚いていると、彼はシモとホレーショを見ながら続けた。

「ドーオニツ内での君たちの送迎を、彼らが請け負うことになった」

「本当?」

 イェンスと僕は思わず声を上げた。それを聞いたシモとホレーショが朗らかな笑顔を浮かべて答えた。

「本当だとも。お前たちが出発する六月の第一週目の土曜日、つまり、来週の土曜日にお前たちを空港まで送り届ける。もちろん、特別政府関係者としてな」

 彼らの言葉にイェンスと顔を見合わせてはしゃぐように喜んでいると、ユリウスが笑いながら言葉を添えた。

「その代わり、条件がある。帰りも送ると言ったはずだ。帰りは申し訳ないが、空港から直接私の所に寄ってもらう。一刻も早く話を聞きたいからね。つまり、法律に則った『報告』だ。確か、第四週目の土曜日の昼前に空港に到着するよう、考えているのだったな?」

 彼の言葉を聞くなり、イェンスと僕はさらに歓喜の声を上げた。

「ありがとう! ああ、信じられない。アウリンコに戻ってすぐ出迎えてくれるのが君たちで、ユリウス、君にもそのまますぐに会えるだなんて!」

「まだ話は終わっていないぞ」

 ユリウスがさらに話を残していることで、僕はますます興奮とともに彼を見つめた。彼は紫色の瞳を輝かせると、重みのある声で話し始めた。

「先ほども伝えたとおり、特別管理区域と最寄りの空港までの送迎を、駐留する軍の部下にすでに手配してある。君たちはそこで身分証明証と特別管理区域立入通行許可証を提示するだけで、部下から送迎を受けることができるようになっている。彼らは君たちの目的を把握しているため、深く追求してくることも無いだろう。本来であれば私が同行し、政府専用機もしくは軍用機で君たちをドーオニツから直接最寄りの空港まで送り届けてもいいのだろうが、その日は大統領や他の閣僚と昼食を交えた会議があってどうしても都合がつかなかったのと、仮に都合がついたとしてもそこまで手配を進めると周囲に過剰な反応をされる懸念も拭えなかったため、あえてそうしなかった」

 イェンスと僕はそれを聞いて大歓声を上げた。実のところ、何度調べても特別管理区域まで辿り着く合法かつ合理的手段が全く無く、ユリウスが僕たちにエルフの落とし物を届けさせるという設定を関係者に周知させたと聞いてからは、彼が考えている手順にかなり期待を寄せていたのである。

「ありがとう、ユリウス。君は本当に大元帥で大臣なんだね」

 僕が感慨深げに感謝の言葉を伝えると、彼は朗らかに笑いながら返した。

「そうなのだ。これほど大元帥と大臣の職務を兼務していて良かったと思ったことは無い」

 それを聞いたイェンスとシモとホレーショもつられて笑い出した。

「クラウス、イェンス。君たちに現地の軍の担当者名を伝えておく。彼に君たちの世話をするよう頼んでおり、君たちが目的地の空港に到着したら、空港関係者が君たちと彼を引き合わせる手はずになっている」

 ユリウスはそう言うと担当者名を告げた。僕たちが交互に復唱すると、ユリウスはさらに付け加えた。

「君たちがエルフの村を出て最寄りの空港まで行く時も、彼を頼るがいい。帰る時の世話も彼に頼んである」

「本当にありがとう、そうするよ」

 僕たちがユリウスに言葉を返すと、シモが話しかけてきた。

「お前たちが届ける予定の落とし物は、俺たちが来週お前たちを空港まで送る時に手渡すことになっている」

「わかった」

 僕は咄嗟にそう答えたのだが、いったい何が手渡されるのかとふと疑問が湧いた。それを知ってか、ユリウスがイェンスと僕を見て言った。

「さて、中身を何にしようか。かさばるものでは困るだろう。気が利く土産を君たちに持たせよう」

 彼はわざと困ったような表情を見せてから朗らかに笑った。

 僕たちはその後も談笑し、それから昼食の後片付けを始めた。シモとホレーショは一旦彼らの家へと戻り、夜に再びここを訪ねて僕たちをドーオニツに送ることとなった。

「夕食をユリウス将軍と一緒に楽しんで来い。また後でな」

 ホレーショはそう言うとイェンスと僕を交互に力強く抱きしめた。僕が彼に感謝の言葉を伝え、ほほにキスをすると彼は静かに受け取り、優しく微笑んでからもう一度僕を抱きしめる。シモにも同じように抱擁とキスと感謝の言葉を贈ると、彼もまた優しい表情で僕たちを抱き返した。やがて彼らが車で去って行くのを、僕たち三人であたたかく見送った。

 再び室内へと戻ると、ユリウスが数枚の申請書類をイェンスと僕の前に差し出した。

「すまないが、形式上でも君たちが署名をした書類が必要でね。ざっと目を通してから署名してほしい」

 僕の顔写真が印刷されている書類や宣誓書には、すでに過去の日付でユリウスの署名が記されていた。僕がそのことを指摘するとユリウスは朗らかに笑い、「ずいぶんと雑な仕事をしているのがばれてしまったね。実を言えば、万一今回の任務が広く知られたら、異種族に近付こうとする輩に君たちが狙われる可能性もあると関係部署に説得して私が直接管理することにしたのだ。そのため、この書類が私以外の者に見られることはまず無いのだが、法律に則った手順で君たちが特別管理区域に立ち入ることを文書で残しておけば、万が一の時にも対応がしやすいのでそうしているのだ」と返した。

 書類に次々と署名してユリウスに返却する。その後も僕たちは紅茶を飲みつつ、いつものように近況を伝えあい、変化で感じた情報を共有してゆったりとした時間を楽しんだ。歓楽街のレストランバーで交わした会話が発端となったイェンスとのやり取りも、ユリウスは美しい眼差しを僕たちに向けたままじっと聞き入り、「君たちは実に素晴らしい友情を築いているのだな」と言って目を細めた。

 会話の流れで僕たちの仕事に話題が移った。僕は特別コース出身でありながら、社会への貢献が高い職業に就いていないことについて自虐的に触れた。それを聞いたユリウスが、いつになく真剣な表情でイェンスと僕に言った。

「君たちまで周囲の言葉に惑わされることはない。君たちの仕事だって充分、社会に貢献している。物流の一環を担っているじゃないか。物流は人間の体でいうと血液の流れのようなものだ。非常に重要な役割を持っており、どちらも生命の維持には欠かせない。物流があるからこそ、人と人とが結び付き、私たちの生活に彩りと喜びと安心とが添えられる。君たちのように、物流に貢献してくれている人たちがいるおかげだ」

 彼の言葉は僕に誇りを抱かせるのに充分すぎるほど重く、感激さえももたらした。

「ありがとう、ユリウス。君が言うとおりだ。改めて君の言葉に感謝する」

 僕が心を込めて伝えると、彼はティーカップを手に取って朗らかに言った。

「この紅茶だって君たちのような職種と物流のおかげだ。おかげで地方国の美味しい紅茶が、アウリンコにいながらも楽しめる」

 そのカップも僕たちが座っているソファも、全て地方国から輸入されているものであった。僕は背筋を伸ばすと、彼が淹れてくれた紅茶を改めて感慨深く味わった。

 その後、僕たちはユリウスが用意した服に着替えて体を動かし、互いの能力を確かめ合った。彼らから驚くほど高い身体能力を見せ付けられたものだから、俄然負けじと張り合い、さらなる高みに焦点を当てる。異種族の地で高い身体能力が求められることもあり、僕はとことん限界に挑戦した。

 ユリウスからシャワーを借り、汗でべたついた体を洗い流す。元の服に着替えると、ユリウスが彼の車でレストランに行くことを提案した。思いがけない提案に僕たちが驚いていると、彼はいつものように朗らかな口調で言った。

「私の車は目立つ高級車では無いうえ、レストランもどちらかといえばカジュアルで、場所も目立たない場所にある。周囲にはさほど気付かれまい。以前から君たちをそこに案内しようと考えていたのだ。ここから少し離れているがね」

「警護をつけなくて大丈夫なの?」

 僕が心配になって彼に尋ねると、彼はあっさりと答えた。

「君たちという、最強の男性たちがいるじゃないか」

 彼は微笑みを浮かべ、すぐさま付け加えた。

「大丈夫だ。シモとホレーショにも伝えてある。実を言うと、彼らは先回りして不審な点が無いか確認を済ませている。それどころか私たちが食事を楽しめるよう、私たちに気付かれない場所で周囲の安全の確保に務めると申し出てくれたのだ。彼らからは口止めをお願いされていたのだが、私もずいぶん軽率なものでね。話さずにはいられなかった」

 僕はイェンスのほうを見た。目が合うと彼は微笑み、「彼らは本当に優しいんだな」と言った。そのことに全力で同意して彼らに思いを馳せる。彼らが見せた心遣いにも、それを秘匿することなく僕たちに教えてくれたユリウスにも、感謝の気持ちでいっぱいであった。

 ユリウスがそっとシモに連絡を入れてから僕たちを案内し始めた。玄関を出て彼の後についていくと、ガレージの前に到着した。ガレージの中には少し古い型の、やや小さい自動車がきちんと手入れが行き届いた状態で保有されており、ユリウスはその車に乗り込むとエンジンをかけ、ギヤを動かした。その動きから、どうやら彼の車はMT車らしかった。

 ユリウスがガレージから車を出す。彼は僕たちに後部座席に座るよう声をかけてきた。

「気楽にしてくれ。運転は得意なんだ」

 気さくな彼の言葉とともに車が動き始める。車がゲートに到着すると、警備員たちの敬礼を受けながら車は出発した。

 戦闘機も操るユリウスの運転は言葉どおり、快適であった。車はエンジン音を上げながら徐々に加速していき、ユリウスがそれに合わせてギヤを上げていく。僕たちと同じようにMT車の運転を楽しんでいることが嬉しく、率直にそのことを彼に伝える。すると、彼は朗らかな笑い声を上げて「そうだろう、きっと君たちも同じだと思っていたのだ」と言葉を返した。

 車は今まで行ったことも無い方へと向かっていた。イェンスが「西のほうへ向かっている」と僕にささやく。やがて比較的に人通りの少ない場所にやって来ると車が駐車場へと入り、そこで僕たちは車を降りることになった。

「ここからそのレストランはすぐだ。木が並んで囲っている場所の中にある」

 ユリウスが先導して歩く。その間も僕たちはいったいシモとホレーショがどこにいるのかと辺りを見回したのだが、それらしき人影は見つけられなかった。

 並んでいる木々の隙間から、古いレンガでできた壁の建物が見えてくる。入り口に向かうと、その建物が外殻政府樹立当時から存在している、歴史ある建物であることが定礎から伺えた。ドアの両横に立っていた守衛の男性二人がユリウスに反応し、恭しく頭を下げてから扉を開ける。僕たちがそのまま彼について中へと進むと、古き良き時代を彷彿とさせる、趣きある落ち着いた内装が僕たちを出迎えた。

 その時、支配人らしき年配の女性が現れ、僕たちをあたたかく歓迎した。今度は彼女の先導で階段を上った先の個室へと案内される。レストランには外の客もおり、ユリウスの姿に気付いた様子を見せた者もいたのだが、誰も表立ってそのことを話しているように見えなかった。

 開放的でありながらも、人目を気にすることなくくつろげそうな室内を僕はすぐに気に入った。落ち着いた気分で着席し、ユリウスが何か食べたいものはあるかと尋ねる。イェンスと僕は声を揃えて「君に任せる」と答えると、彼はすぐそばで待機していたその支配人の女性に声をかけた。彼女は笑顔で注文を受けとり、丁寧にお辞儀をしてから退出していった。

 僕たちは当たり障りのない会話でくつろいでいた。完全なる個室とはいえ、口調や態度に注意を払う。普段のくだけた言葉遣いもなく、敬称をつけてユリウスと話すのだが、ユリウスはその意図に気が付いており、「名演技だな」といたずらっぽく指摘した。そうこうしているうちにドアがノックされ、「料理をお持ちいたしました」という声とともに料理が運ばれてきた。

「これは君たちが訪れる予定の地方国の料理だ」

 ユリウスが料理の内容を簡単に説明していった。彼はおそらく、仕事上ほとんどの地方国に赴いており、そこでその地方国の名物料理も味わってきたのであろう。簡潔な言葉に豊富な知識を控えめに表現した彼に感嘆していると、彼は「さあ食べよう」と微笑んで料理を勧めた。

 ユリウスは僕たちが訪問する予定である地方国の特色も平易な言葉で説明してくれた。その会話の流れで、彼が父親を訪ねる日程が今年の八月下旬か九月の上旬になることを知る。多忙を極める彼が、思い付きで父親を訪ねることは現実的に不可能なのであろう。しかし、ユリウスがその時まで彼自身の魔力についてはっきりと確証を得られないことに、僕でも何か力になれることがあればと考えていた。そこでルトサオツィと再会を果たした際、彼から何か手掛かりになることを聞いてこようと彼に提案した。僕が非常に声量を抑えたからか、彼もまたささやくほどの小さな声で言葉を返した。

「クラウス、どうもありがとう。だが、実を言うと気持ちは落ち着いているのだよ。ルトサオツィは今年の秋もアウリンコを訪れるはずだ。それより前に父と会い、彼にもその時に会うつもりでいる。もし、彼に伝えてほしいことがあるとすれば、それぐらいだ。だから、私のことは気にせずに楽しんできてほしい」

 穏やかな時間が流れ、満足のうちに食事が終わる。先ほどの女性からユリウスに携帯用の端末とペンとが手渡され、彼がそこにサインをする。おそらくここの支払いに関するものであろう。彼女が去った後、イェンスと僕が感謝の気持ちからいくらかでも支払うことを申し出たのだが、彼はやはりやんわりと断った。そして優しい眼差しで僕たちを見ると、「ここの支払いも君たちは気にしなくていい。私から旅行に対する餞別だと思ってほしい」と言って微笑んだ。

 それを聞いて僕は途端にさびしさを覚えた。彼はいつも僕たちに優しく、あたたかい表情で接してきた。四週間後にまた会えるとはいえ、ユリウスの美しい瞳からあふれる光を見つめているうちに、彼とも一緒に旅行に行けたらという考えが拭いきれなくなっていた。

 席を立った時、僕の浮かない表情に気が付いたイェンスが小声で尋ねてきた。

「どうしたんだい?」

「彼も一緒に行けたらと思ったんだ。なんだかさびしいな」

 イェンスはそれを聞くと僕を抱き寄せ、ほほにキスしてからささやいた。

「君も同じことを考えていたのか。彼は忙しいし、役職上、どうしても僕たちのように身軽に動けない。いつかその機会が来ることを願おう」

「どうした?」

 ユリウスが僕たちのやり取りに気が付いて話しかけてきた。イェンスと僕は手短にそのことを伝えると、彼は途端にあたたかい笑顔を僕たちに向けた。

「ありがとう、その言葉で充分だ。君たちが地方国へ行っている間は私もさびしく感じる。君たちがドーオニツにいるのと距離が全く違うからね。普段もなかなか会えるわけではないが、ドーオニツと地方国との差はやはり大きい」

 そう言うと彼は僕たちを優しく交互に抱きしめた。

「それでも君たちが旅行で素晴らしい体験をすることを願っている」

 彼の瞳はずっと美しい光を放ち、輝いていた。思えば、彼が大元帥と大臣を兼務していなかったら、僕たちが異種族に会うことも、異種族の地を訪れることも叶わなかった。彼がドラゴンの特徴を持っているだけではなく、その二つの地位に就いているからこそ、空前絶後の体験を得ることができたのである。

 イェンスも僕も、ユリウスに何度も感謝の言葉を伝えた。感謝と親愛、尊敬と寂寥とが混じった僕の眼差しを、ユリウスが優しく受け止める。そこに高まる期待と拭いきれぬ不安を感じて不意に涙ぐんだ。理由もわからずに変化を起こした僕がエルフの村を訪れた後、どうなってしまうのであろうか。

 解決の糸口が見えない思考に埋もれると不毛の応酬が広がりを見せたのだが、前を向こうと決意したことを思い出し、退廃的な思考からもがくように逃れる。彼らに気付かれないようそっと深呼吸をすると、急いで後を追ってレストランを出た。

 車中では時折他愛もない話もしながらも、イェンスも僕もずいぶんおとなしかった。おそらく彼も同じなのであろう。いろいろな不安を脇においても、旅行への期待とユリウスの優しさが胸にしみ、繊細になりがちな心を強がらせるべく、必死に対抗する。それを彼らに悟られないようにぼんやりと街並みを眺めるのだが、景色が僕の目に留まることはなかった。

 ユリウスの家がある通りへと車が進んだ。その際、背後が妙に気になったのでそっと振り返る。すると、そこには一台の車がまるで後を追うかのように向かって来ていた。

「君も気になったのか?」

 イェンスが話しかけながら、やはり同じように後方を振り返った。夜間ということもあり、車のライトで対象物が見えづらかったため、少しだけ視覚を開放して凝視する。すると、後からついてくる車がホレーショの運転する、あの黒い車であることに気が付き、驚きのあまり思わず大きな声でユリウスに話しかけた。

「後ろにホレーショたちがいる! いったいいつからいたんだろう?」

 それを聞くなりユリウスは朗らかな笑い声を上げた。

「彼らはプロ中のプロだぞ。他からの評判もかなり良いので、私以外の警護を受け持つことがないよう、わざわざ意地悪く画策しているほどだ。彼らは気付かれないようにずっと配慮をしながら後をつけていたのだが、私の家が近くなったのでわざと存在を君たちに気付かせるべく、角を曲がる少し手前で真後ろに回り込んできたのだよ」

 そこでイェンスと僕がもう一度振り返ると、シモと目が合い、笑顔を見せた。僕たちが手を振ると、今度はホレーショがハンドルから片手を少しだけ挙げて応える。車はさらに車間距離を狭め、ユリウス邸のゲートをそのまま通過した。彼らの車が一時停止しなかったので驚いていると、ユリウスが前方を見ながら話し出した。

「私が彼らの身分照会の省略を警備員にお願いしたのだ。実を言うと、君たちを乗せて送迎する時も身分照会を省略させていい、と彼らにもゲートの警備担当者にも伝えてある。しかし、彼らは示し合わせたのか、誰一人として私の提案に乗らなかった」

 イェンスと僕は彼らが職務上の理由で当然拒否をしたのだろうと考え、そのことをユリウスに伝えた。それを聞いて彼は車をガレージ前に着けるとわざわざ僕たちのほうを振り返り、意味ありげに見つめた。

 その眼差しの意味を推し量っていると、ユリウスがリモコンを操作しながら話し出した。

「私も当初は彼らが職務上の規定遵守と安全を優先して断ったのだろうと考えていた」

 鈍い音を上げながら、ガレージの格子が上がっていく。やや離れた場所にホレーショは車を停め、シモとともに車から降りてその場で待機していた。

「違うんだね?」

 イェンスが言葉を返すと、ユリウスは彼らを一瞥してから言葉を続けた。

「実際は私たちの仲を他人が怪しむことの無いよう、あくまでも訪問者として受け入れることで、彼らなりに気を配っているようなのだ。もし、身分照会なしで何度も君たちが私の家に出入りしていることが公に知られれば、君たちとの関係について多少の説明をしなくてはならないからね。今となっては、例の『エルフの落とし物』の設定のおかげで君たちとのつながりにそれなりの説明がつくようになったのだが、シモもホレーショも譲らなかった。『万が一ということもございます。身分照会を都度受けることは一向に構いません。どうか、あなた様と彼らとの友情が良からぬ輩に露呈されませんよう、万全の準備を私たちにさせてください。ゲート警備担当者に詳しい事情はもちろん伝えておりませんが、それでも彼らもイェンスとクラウスがあなた様の大切なご友人であることは深く認識しており、心地良い時間が少しでも長く続くよう配慮したいと、彼らからも願い出ているほどなのです』。私は彼らの言葉に胸を打たれ、感謝の気持ちとともに彼らのやりやすいようにとお願いした。彼らには本当に感謝している」

 言い終えるとユリウスは再度優しい眼差しをシモたちのほうに向けた。

 ユリウスの指示で車から降りる。風に乗って花々の香りらしきものが鼻先をかすめていくのを感じながら、イェンスと一緒にシモとホレーショが待機している場所へと向かう。彼らは僕たちと目が合うとすました表情を浮かべ、「楽しかったか?」と話しかけてきた。

「しらじらしいぞ。君たちが僕たちに気付かれないよう注意を払いながら、遠巻きに警護していたのを知っていたんだ」

 僕の言葉にイェンスが続けた。

「そのことでユリウスは君たちに心から感謝していたし、僕たちも感謝している」

 それを聞いた彼らの表情がほころび、ホレーショが「気にするな、お前たちのためじゃない。将軍のためだ」と言葉を返したのだが、次の瞬間、彼らは凛々しい表情を浮かべて背筋を伸ばした。そして切れのある動きで敬礼を取ったので背後を確認すると、ユリウスがすぐ後ろに立っていた。

「それでは気が詰まるだろう。楽にしてくれ」

 ユリウスの親しみある笑顔に促され、彼らが敬礼から休めの体勢を取る。ぼんやり突っ立っている自分が申し訳なくて背筋を伸ばしてユリウスを見ると、彼は朗らかに「君たちもだ」と言って笑った。

 しんみりとした風が流れる。しっかりと時刻を確認していなかったのだが、おそらくは夜の九時ぐらいであろう。シモとホレーショが僕たちをドーオニツまで送り届けるとなると、ユリウスとはここでお別れなのだ。

「ユリウス、今日も本当にありがとう。君と四週間後に会えるのを楽しみにしている」

 僕がそう言うと、ユリウスはおどけた表情を見せた。

「クラウス、実は私もドーオニツまで同行しようと考えているのだ。彼らには伝えてある」

 彼はイェンスと僕の肩に手を回すと、シモとホレーショを見た。

「お願いしてあるとおりだ。頼む」

「はい、喜んでお連れいたします!」

 ユリウスの思いがけない言葉にイェンスと僕は顔を見合わせると歓声をあげ、その喜びのままにユリウスに抱き付いた。そしてシモとホレーショのところに駆け寄ると同じように彼らに抱き付き、彼らに感謝の言葉を伝えた。

「すっかりこいつらの、この行為に慣れちまったな」

 シモが笑いながら僕たちを抱き返した。

「おい、ちょっとは恥じらえ」

 ホレーショも笑い声を上げながら、僕たちを力強く抱き返す。彼らの言葉とは裏腹に、優しさあふれる眼差しが僕を捉えており、その眼差しからはあの光がかすかにもれていた。

 帰りの車中はユリウスが後部座席の真ん中に座ることになったので、彼をイェンスと僕とで挟むように座った。しかし、そうなるとさすがに窮屈であり、彼に対して申し訳ないほどであったのだが、ユリウスはそれでも笑顔を絶やすことはなかった。

「ドーオニツに着く頃には、君たちに渡す特別管理区域立入通行許可証の入った封筒が折れそうだ」

 それを聞くなり思わず窓に頭をくっつけてのけぞるように離れたものの、すぐにユリウスがイェンスと僕の肩を掴んだ。

「冗談だ。特別管理区域立入通行許可証は偽造ができないよう、特殊なプラスチックと金属を組み合わせて作られているから簡単には破損できない」

 彼はそう言うとジャケットの内側に手をあてた。

「僕たちは肌身離さず携帯していないといけないね」

 イェンスが僕に話しかけた言葉に、シモが反応した。

「お前たちなら絶対にそういうことはしないとわかっているが、会話にも気をつけろ。特別管理区域立入通行許可証を喉から手が出るほど欲しがっている奴は、どの地方国にも必ずいる。泊まるホテルのランクはまずまずだが、どのみち貴重品は自分自身で死守するこったな。普通の人間より高い身体能力と洞察力を持つお前たちなら大丈夫だろうし、危険な場所にあえて行くような向う見ずさもないから、俺の忠告が無駄だということもわかっているがな」

「ありがとう、シモ。君の忠告はきちんと心に留めたよ」

 僕が答えると、今度はホレーショが前を向きながら話しかけてきた。

「馴れ馴れしい奴らは全員無視して構わない。お前たちに簡単な護身術でも教えとけば良かったな」

「ありがとう、ホレーショ。僕たちは以前より勘が鋭くなっているから、危険な人物や出来事を回避できる可能性は、決して低くはないと考えている。それに治安が良いとされている街にしか行かない。だから、気をつけていれば楽しめるはずだ」

 イェンスの言葉に続けて、僕も感謝の言葉を彼らに伝えた。

「二人とも本当にありがとう」

 しかし、思いがけない心配りを見せたのはユリウスであった。

「君たちならどこへ行っても大丈夫だろうと思っている。だが、万一ということもある。もし困ったことがあれば、たとえ真夜中だろうと閣議中だろうと、遠慮なくすぐに連絡をよこすんだ。エルフの村にいる時は安全だが、それ以外の地方国では思わぬトラブルに巻き込まれる可能性もあるからな。私が電話に出られない時は彼らにするんだ。きっと助けになる」

 彼はあたたかい眼差しをシモとホレーショに向けると、それから僕たちを交互に見つめた。

「もし、近くに軍の施設があったら、特別管理区域立入通行許可証を見せて保護を求めてもいい。その許可証を持っているということは、私の信頼を受けているということを意味する。きっと君たちを手厚く保護してくれるはずだ」

 ユリウスの思いやりにあふれた言葉を受け止め、イェンスと一緒に感謝の言葉を伝える。しかし、ユリウスは思いがけずはにかんだ笑顔を見せた。

「すまない、つい心配で干渉してしまった。まるで保護者気取りだな。だが、本当に万一の時は遠慮するな」

 彼は僕たちを力強く両脇に抱えると、軽く僕たちの頭を撫でた。僕は彼がこれほどまでに僕たちを気に掛けてくれているのかが嬉しく、そのまま彼に寄りかかって彼の優しさに甘えた。

 車がドーオニツに入ると、ユリウスは懐かしそうに辺りを見回した。

「あのレストランに、皆で食事にでも行きたいものだな。だが、ドーオニツだとアウリンコ以上に目立ってしまう。何かいい案を考えねばなるまい」

「そこのケーキがすごく美味しいってホレーショが言っていたよ」

 僕がユリウスに伝えるとホレーショが、「お前、あの味はアウリンコでも上位に来るほどのうまさだぞ」と反応した。彼の甘味に対する深い熱意が筋金入りであることに、妙な感心を覚えて一人微笑む。

 そのレストランの前を通り過ぎると、イェンスと僕は途端に口数が少なくなった。車だとあっという間に僕の住むアパート前に着いてしまう。別れの時間が差し迫っているのだ。

 僕がじっとユリウスの顔を見つめると、彼は優しく微笑み、僕の頭にキスをして言った。

「クラウス、四週間後にまた会おう」

 彼は美しい光をほのかに瞳に輝かせていた。そして胸ポケットから特別管理区域立入通行許可証が入った封筒を取り出し、「君の分だ」と言い添えて僕に渡した。僕は彼に抱き付くと、改めて感謝の言葉を贈った。イェンスに目配せし、シモとホレーショにも感謝の言葉を伝えてから車を降りる。すると彼らはわざわざ車から降りて僕を交互に抱きしめた。

「来週の土曜日、アパートの前で会おう」

 シモとホレーショの優しい笑顔が僕を見つめたので、ささいな言葉でも感激して胸がいっぱいになる。それをぐっとこらえて車内にいるユリウスらに手を振り、車が走り去っていくのを見送る。少ししたら彼らが再びこの道路を通って帰っていくため、このままアパートの前に立って待とうかとも考えたのだが、ユリウスが万一でも目立つことがあっては申し訳ないと考え直し、急いでアパートの階段を上った。部屋の鍵を慌てて開けて窓際に走り寄り、窓を急いで開けてすぐさま眼下を見下ろす。その車はすぐにやって来た。

 彼らは案の定、僕のアパートの前で一旦停車した。そして後部座席の窓が開き、ユリウスが顔を覗かせる。彼は僕をすぐに見つけると、薄暗い中でも僕にはっきり届くほどの優しい笑顔を浮かべた。僕が少しの感傷を感じながら彼に小さく手を振ると、彼も軽く手を挙げて応えた。それも長くは続かず、ホレーショが運転席から手を出して合図したかと思うと、後部座席の窓を閉めながら車は走り去ってしまった。

 僕は車が見えなくなっても、しばらく窓際から離れられずにいた。夜空を眺めて心を落ち着けようとするのだが、今日起こった出来事に対する感慨と旅行に対する期待と不安とで感情が交錯し、ありとあらゆる思考が芽生えては消えていく。それでも着替えて歯を磨き、就寝の準備を進めたのだが、気分を落ち着けようとソファに座って特別管理区域立入通行許可証をじっくりと眺めることにした。

 見慣れた僕の顔写真が印刷されている通行許可証に、発給を証明するユリウスの署名が添えられている。偽造ができないよう特殊な素材を使用し、さらには特殊なインクで独特のデザインを印刷することで万全の偽造対策を施しているのであろう。

 この通行許可証を手にした人物はイェンスと僕しかいないのだ。そのことに感動を覚えてますます気分が高ぶりかけたのだが、いよいよ眠れなくなることを恐れてその思考から無理矢理離れる。以前は思考が無駄に空回りして眠れなくなることもそれなりにあり、その度に僕は不要な思考を延々と続けた自分を責めていた。僕はその苦い経験から充分学んでいたのである。

 その重厚感ある許可証をテーブルの上に置くと、ベッドに倒れ込むように横になった。それから早く眠りたくて体の力を抜いてみたのだが、取りとめの無い思考が頭の中でぐるぐると回って離れないため、結局は頭が冴えて焦りだけが募っていった。

 その時、僕の脳内に美しい笑顔が浮かんだ。その人が僕の名を呼ぶ声までもが再生されると、途端に感傷的になった。何より、その人物そのものが急に恋しくなった。

 僕は意を決し、起き上がるとスニーカーを履いてパーカーを羽織り、急いでアパートの階段を下りた。人通りのない深夜の歩道が広々と感じられ、静けさを突き破るかのように移動する。

 僕が自分勝手であることを頭の中では理解していた。だが、僕を突き動かしている衝動に抗うことは不可能なことのように思われた。不可能というよりは、さびしさからくる一種の物悲しさを受け止める気概が僕には無かったからなのだが、あっという間に目的地に到着すると、少しの緊張とともにドアの向こうの僕の大切な友人の名を小声で呼んだ。

「イェンス」

 唇を固く結んで祈るように目を閉じる。しかし、すぐにドアが開き、イェンスが優しい笑顔で僕を出迎えてくれた。

「クラウス! 本当によく来てくれたね。君がいたら、と思っていたところなんだ」

「イェンス、ありがとう。その、君はきっと寝づらいだろう。でも僕は今、一人でいたくないんだ」

 僕が打ち明けるように言うと、彼は微笑みながら言った。

「君ならいつだって大歓迎だ」

 彼は僕を優しく抱きしめると、僕のおでこにキスをした。その優しさに胸がいっぱいになり、彼をしっかりと抱き返す。それから彼がベッドのふちに腰掛けたので、僕も隣に腰掛けて他愛もない会話を始めた。笑い合ったことでますます気分がほどけていくと、ようやく心地良い眠気が訪れた。

「クラウス、横になって休むがいい。ベッドは半分こだ。だけど、僕の腕が当たって目が覚めても文句は無しだ」

 眠そうな僕を見てイェンスが微笑んだので、彼の言葉に甘えて毛布の中にもぐりこむ。部屋の灯りを消した彼が反対側からもぐりこんでくると、僕たちは新年を迎えた夜以来、またしても目と鼻の先で顔を合わせた。

「おやすみ、イェンス。本当にありがとう」

「おやすみ、クラウス。こちらこそありがとう、いい夢を」

 それから僕たちは横を向いて背中を向けた。急に静かになった室内に、言いようもない安心感が募っていく。その安心感とイェンスの静かな息遣いを耳にしているうちに、いつしか眠ってしまったらしかった。

 薄明るい光で目が覚める。目を開けて最初に飛び込んできたのは、イェンスの寝顔であった。いつの間にか向かい合って眠っていたらしく、すやすやと寝息を立てている彼を間近で見つめる。きっと眠っている間も何度か背を向けたり、向かい合ったりしたに違いない。もしかしたら、本当にお互いの腕をぶつけあっていたのかもしれなかった。そのようなとりとめのないことを考えているうちに、頭の中がいよいよ目覚めからすっきりと冴えわたっていく。

 僕は彼を起こさないようにそっとベッドから出るとトイレを借りた。戻ると彼はまだ眠っており、さてどうしようかと思案していた矢先に彼が大きく伸びをし始める。その様子をなぜか息をひそめて見守っていると、どうやらちょうど彼が目覚めたところらしかった。しかし、彼は勢いよく飛び起きるなり、ベッドの脇にきょろきょろと視線を向け、何かを探し始めた。そこで僕が近付きながら「おはよう」と声をかけると、彼は照れ笑いを浮かべて「おはよう。ああ、驚いた。君は起きていたんだね。姿が見えなかったから、僕はてっきり昨晩のことは夢なのかと思ったよ」と返した。

「いったんアパートに行って身支度を整えたら、ここにまた戻って朝食を食べに来るよ」

 僕はそう言うと、パーカーを羽織ってドア口まで向かった。

「それならお願いがある。ベーコンがあったら持ってきてほしい。切らしていてないんだ」

 僕は冷蔵庫にあったのを思い出し、「わかった。じゃあ、またすぐ来る」と言い残して自分の部屋へと向かった。

 日は高かった。思えば、昨晩イェンスの部屋へ向かったのが、午前一時くらいであった。あの時、彼もなかなか寝付けず、心細さを感じていた。

 僕は彼と住んでいる場所が非常に近いことを今まで幾度となく感謝してきた。この至近距離も、何か不思議なめぐり合わせがあるに違いなかった。なぜならイェンスも僕も、このDZ-17地区に縁もゆかりも全くなかったからである。そもそも優秀な彼がブローカー事務所に就職したことも奇跡のようなものであった。

 彼がギオルギの事務所を選んだ理由はただ一つ、『なんとなく気になったから』であったらしい。しかし、国立中央アウリンコ校を特別コースで、しかも優秀な成績で卒業した彼にとって、彼さえ望めば外殻政府や世界的大企業、そして有名な研究施設にもすんなりと入って頭角を現すことは容易であったはずである。それは彼の家柄だけではなく、彼が本当に優秀であり、それでいて優しさと魅力にあふれていることを僕が今でも強く感じているからであった。

 実を言うと、僕がムラトの事務所を選んだ理由も同じような理由で、住む場所も偶然が重なって今まさに向かっている場所へと決まっていった。

 やはりイェンスと僕は目に見えない、それでいて力強い何かに引き合わされてきたのであろう。そのことを思うだけで体中から感謝と喜びとがあふれ出す。しかも彼のおかげでかつての僕には全く縁が無く、持つことさえもあり得なかったものにまで機会が与えられるようになっていた。その最たるものが一週間後に迫っていた。

 アパートに戻って身支度を整える。そして冷蔵庫からベーコンの塊を取り出すとラップに包み、急いでイェンスのところへと戻った。

 イェンスに僕が持参したベーコンを渡すと、彼はたいそう喜んで受け取った。そして手分けして朝食の準備を進め、のんびりと会話しながら食事を取る。思う存分くつろいでから旅行に持っていく荷物の最終確認を行うと、散歩がてら一緒に買い物へと出かけた。空も風も弾んだ表情を見せるのは、僕の心が弾んでいるからなのだと考えていた。

 日曜日が穏やかに終わろうとする頃、旅行の準備もほぼ万端といえるまでになった。いつものように自室で夜空を少しの間だけ眺める。心の中の純然たる喜びが僕を支配していたので、さびしさも不安もいつしか僕の中で居場所を失っていた。想像だにできない見果てぬ世界に対するあこがれをそっと胸の奥にしまい込むとベッドに横たわり、あっという間に夢の世界に身を委ねた。

 月曜日になると僕はさらなる高揚感に包まれていた。イェンスの顔を見るとことさらそれが高まり、浮足立って失敗をすることのないように気を引き締め直す。仕事の引き継ぎや打ち合わせもほとんど終了していたのだが、不備やもれの無いよう、そしてローネやジャンなどからの要望を取り入れるため、空いた時間に作業工程や必要となる情報の内容を見直して改善を図り続けた。

 昼休みはイェンスとローネと僕の三人で昼食を取った。ローネが地方国の話をしては、「気をつけるのよ。行く先々で注意を払いつつ、楽しむことも忘れないでね」と何度も伝えてきたので感謝の言葉を丁寧に返す。イェンスも僕も彼女の気遣いが本当に嬉しく、旅の安全を願った彼女の言葉を大切に受け取めていた。

 火曜日は十一時からギオルギとムラトとイェンスと僕の四人で会議が行われた。すでに引き継ぎ書の作成を終えた僕たちは、不在時にローネたちが困ることの無いよう、輸入者ごとに要点をまとめたうえで資料の見やすさに重点を置いたことを彼らに説明した。ギオルギとムラトが僕のパソコンからモニターに接続して映し出された実際の引き継ぎ書の内容を感心した様子で確認したので、イェンスも僕もひとまず胸を撫で下ろす。僕たちはそのまま彼らと一緒に昼食を取ることとなった。食事中はギオルギが若い頃にバックパックで旅行した時の話や、ムラトの両親が地方国の出身である話などが展開された。レストランを出るなり、ギオルギとムラトが「まだ少し早いが、必ず元気な顔を見せるんだぞ」と力強く僕たちに言ったので「ありがとうございます。きちんとご期待に沿えるよう頑張ります」とはきはきと返す。彼らは優しい笑顔を絶やすことなく一緒に事務所へと戻り、僕たちの旅の成功を祈って去っていった。

 水曜日、木曜日が過ぎて金曜日を迎えると、僕たちはいよいよ平常心を保ちながら仕事をすることを心掛けた。その昼休みはジャンとティモに昼食を誘われた。カフェで僕たちの旅行計画を聞かれたため、一週目の予定をあいまいにぼかしながら伝える。するとジャンもティモも、羨ましげな目付きで僕たちを見て言った。

「お前たちが二人で旅行に行く話をベアトリスに話したら、『本当に仲がいいのね』と言っていたぜ。それはともかく、俺も近い将来、彼女の出身国に一緒に行く約束をしたんだ」

 ジャンの惚気た表情に、ティモがからかうように彼女の出身国を尋ねる。ジャンは笑顔でその質問に答えると、お返しと言わんばかりにティモに対して意中の女性とどうなったのかと迫った。ティモはまんざらでもなかったらしく、笑顔で近況を返していったのだが、僕たちはその幸せに満ちたジャンとティモのやり取りを見守りつつも旅行に対する期待と興奮を静かに胸にたぎらせていた。

 その金曜日も仕事が終わると、ローネが僕たちを見て明るい口調で言った。

「旅行の間は仕事のことを一切忘れて、楽しんで来なさいね」

「ありがとうございます」

「僕たちがいない間、よろしくお願いします」

 その時、トニオとケンが「楽しんで来いよ」「気をつけて」と話しかけ、ナーシャとフウが「三週間はあっという間だから、とことん満喫してきてください」と明るく続けた。イェンスも僕も彼らの優しさに心を込めて感謝の言葉を返したのだが、彼らが一様に明るい笑顔で受け止めてくれたため、僕はやはり感謝するしかなかった。

「三週間後には、俺がお前たちを抜いているかもしれないな」

 ジャンがおどけて言った。それを受けてティモが「頼りにしてるぜ。君たち、気をつけて行って来いよ」と笑顔で言い添える。彼らの優しさにも胸がいっぱいになり、再び心を込めて感謝の言葉を述べると、そのあたたかい気持ちのまま事務所を後にした。

「三週間後にまた戻って来るのに、なんて優しい人たちなんだろう」

「本当にそう思ったよ。これは僕たちもきっちり楽しんで来ないと」

 僕が感激からもらした言葉に、イェンスが微笑みを添えて言葉を返す。それと同時に夜の世界から、どこからともなく誰かの陽気な笑い声が耳に届く。僕たちは近くのカフェで夕食を一緒に取ってから家路へと着いた。イェンスの住むアパートの前に着くと、僕は彼を抱きしめて「おやすみ、また明日」と伝えた。彼は僕を抱きしめ返すと、「おやすみ、また明日。シモとホレーショが迎えに来たら、いよいよ僕たちの旅行が始まるんだ」と喜んだ口調で僕の耳元でささやいた。

 彼を見送り、足早にアパートへと戻る。明日に備えていろいろ最終確認をするつもりでいたのだが、それでも先に窓の外の風景を眺めずにはいられなかった。

 逸る気持ちを抑えることなく濃紺色の世界を見上げる。頭上に浮かぶあの美しく優雅な月を、エルフの村でも見るのだと思うとさらに興奮が迫ってくるようである。

 少ししてからようやくシャワーを浴びて寝る準備をした。明日の朝、目が覚めたらいよいよ僕の今後に関わる重要な世界へと旅立つのだ。興奮からなかなか寝付けずにいたのだが、深呼吸を繰り返して心地良い疲れに身を委ねさせる。静かな夜の世界に溶け込むかのように力を抜くと、そこでようやく眠りの世界へと誘われたのであった。


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