第22話

 四月も下旬に入った。ナーシャとフウがまだ慣れていないことと、新規の仕事が立て続けに紹介されたこともあり、僕たちは結局慌ただしい日々を過ごしていた。久しぶりに税関に行くと、同じく久しぶりにベアトリスを見かけた。気持ちが一瞬うずいたのだが、彼女は僕に会釈しただけで話しかけてくることは無かった。どこか雰囲気の変わった彼女にジャンを思い出すと、僕もそれ以上彼女に関わることはせず、そっと税関を後にして事務所へと戻った。

 その次の日はノルドゥルフ社から紹介を受けた新規顧客の輸入案件で、ムラトと営業担当のイワン、そしてイェンスとともに相手先へ挨拶に伺う予定が入っていた。約束の時間になって相手先を訪問すると、ノルドゥルフ社から良い評価を聞いていたらしく、非常にあたたかく迎えられる。その後も終始和やかな雰囲気のうちに訪問が終了し、相手先の事務所を出るなりムラトが、「お前たちは本当に良く貢献してくれている」と僕たちを労って声をかけてくれた。それでも僕たちは慢心を遠ざけ、控えめに振る舞った。僕たちだけでこの結果が得られたわけではないのである。そこを強く噛みしめていると、イワンが「お前らのおかげですんなり仕事をもらえることもある。そこまで評判いいとか、本当に感心するよ」と僕たちに明るい口調で言葉をかけてきた。

 それまで社内でもさほど親しくなかった人からも認めてもらえたことに、喜びとみずみずしい熱意までもが芽生えていく。そもそも新規顧客獲得ができたのはイワンの営業力が素晴らしかったからであり、僕たちはそこに便乗しただけであった。そのことをイワンに伝えると、「当然だ、俺すごく営業をがんばったんだぜ」と返したのだが、その表情は親しみやすく、何より瞳にはあの光があった。

 事務所に戻って再び職務を遂行する。調べものがあってイェンスと書庫をあさっていると、奥の部屋からムラトがギオルギに対し、イェンスと僕の名前を出しながら何かを話しているのが耳に入った。彼らの会話の内容が気にはなったものの、急いでいたこともあり、イェンスとそのことを共有することなく目先のことをこなす。

 自席に戻って仕事を再開させると、今度は遠くから視線を感じた。そこで辺りをそっと伺ってみると、やはりギオルギとムラトが離れた場所から僕たちを見て話しているようであった。そうなるといよいよ話の内容が気になったのだが、急ぎの書類を抱えていたこともあり、気持ちを切り替えて仕事に取り掛かっているうちにいつしか忘れてしまっていた。

 その日の仕事帰り、夕食を取るべくイェンスとカフェに寄った。事務所でのギオルギとムラトの様子を思い出した僕は、イェンスも気が付いていたのかと尋ねた。彼は落ち着いた表情でうなずくと、「僕たちのことを見ながら話していたことにも気付いていたけど、忙しかったからあえて気にかけないようにしていた」と答えた。

 食事が終わりかけていたこともあり、それ以上その話題を掘り下げることなくカフェを出る。外に出るなり、ほほに生ぬるい風があたった。時折、道行く人から視線を向けられている気もするのだが、イェンスと濃紺の世界に浮かび上がる街灯りとを交互に見ながら歩く。

 夜風に吹かれて街路樹の萌え芽がゆったりと揺らされる。その様子を同じく捉えていたのか、イェンスがしみじみとした口調で「人の手で管理されている街路樹でも美しいのだから、大自然の中で形成された原生林をこの目で見ることがあれば、その神々しいまでの美しさに圧倒されるんだろうな」と語った。

 その言葉は僕の心にやわらかく響いた。写真や映像で見る美しい自然の風景を、目の前で彼と一緒に五感を開放した状態で見ることができたなら、どんなにか感慨深い体験になることであろう。考えているうちに胸が熱くなった僕は、その思いをイェンスに素直に伝えることにした。

「イェンス」

 僕はなるべく率直な言葉で彼に伝えた。自然の美しさもそうなのだが、僕は彼と一緒に体感してみたかった。彼は僕の思いを優しい表情で受け止めると、美しい眼差しとともに言葉を返した。

「行こう、必ず。君とならきっと生涯忘れ得ぬ体験になるだろう」

 彼の言葉に感激して彼を見つめると、不意に彼が頭上を見上げた。その視線の先が気になって僕も空を見上げる。すると偶然なのか、ちょうど流れ星が遠くの空に現れて消えていった。僕は彼の鋭い直感に興奮し、「よくその兆候に気付いたね」と話しかけた。彼は控えめな口調で「なんとなく空が気になったんだ」と返したのだが、空を見上げているその眼差しは落ち着いており、どことなく自信に満ちているように見えた。

「君は順調に変化を続けているようだ」

 歩き出した彼に感慨深く言葉をかけると、彼は僕の肩にそっと手を回した。

「クラウス、言葉が違う。『君は』じゃ不適切だ。『君も』だ」

 その言葉に気付かされて彼を見つめると、彼ははにかんだ表情を見せて続けた。

「君と一緒にいると、僕は本当に心強いし励みになる。しかもお互いに高め合っていけるのだとしたら、これほど嬉しいことはない」

「ありがとう、イェンス。僕も同じ気持ちなんだ。ねえ、どうせならとことん変化を続けて異種族をびっくりさせてやろうよ」

 僕がいたずらっぽく笑いながら言葉を返すと、彼は僕の言葉が気に入ったのか、表情を輝かせた。

「君、いいことを言ったな。異種族をびっくりさせるか。そうだな、それぐらい分不相応で、ばかげた目標があったほうが張りあいもあるというもの。無力で中途半端な個体だけでは終わらせないさ」

 彼ははしゃいだ様子で僕の顔を片手で抱えると、ほほにキスをした。

「はは、くすぐったいよ。イェンス」

 僕は思わず声を上げて笑い、すぐさま同じように彼に返した。

「本当だな、くすぐったさがあった。君と一緒にいると、どんな些細なことだって楽しいよ」

 イェンスも朗らかな笑い声を上げる。その瞳にはもちろん、あの光があった。

 見慣れたはずの目の前の景色がどこか新鮮で、それでいて抒情的な美しさを醸し出す。行き交う人々もその景色の中に溶け込んでいき、まるで芸術作品のようである。僕はイェンスと一緒にその世界を鑑賞していることが嬉しくてたまらなかった。やわらかい雰囲気の中、僕たちは刻々と様変わりする芸術を味わいながら帰路へと就いた。

 その週の金曜日の午前中、仕事をしているとギオルギとムラトがイェンスと僕を呼んだ。僕たちは訝しげに顔を見合せると、事務所の奥の部屋へと向かった。

「仕事を中断させてすまない。ドアは閉めてくれ」

 ムラトが声をかける。僕はそっとドアを閉めてからイェンスの隣に座った。彼らが改まった表情で僕たちを見るので、僕たちもかしこまって彼らと相対する。

 いったい何事かと僕が思考を張り巡らす前に、ギオルギが柔和な笑顔を見せた。

「いや、そう固くならなくてもいい。ゆったり座ってくれ。実は君たちに話があるのだ」

 彼はそう言うと身を乗り出した。その隣ではムラトが明るい表情で僕たちを見つめていた。

「新しい体制が早くも軌道に乗り、実を言うと、粗利益がたった数か月でも統合前の試算より数字が良いのだ。もちろん簡単に楽観視していくつもりはないが、統合後の評判も思っていたよりかなりいい。その要因はもちろん、我が社で働いている全員が持っている卓越した能力と、真摯な勤務態度とに起因していると考えているのだが」

 ギオルギの表情がさらに和らぐ。

「やはり君たちの功績がもっとも大きいように思える。ノルドゥルフ社を始め、君たちが直接挨拶に伺い、仕事を担当している輸入者のほぼ全てが、君たちの仕事ぶりと絡めて謝意を伝えてくれるのだ。顧客だけじゃない。関連する官庁や協力会社からもすこぶる評判がいいことは、ちょくちょく私たちの耳にも入ってくる。君たちの、その端正な容姿も一役買っているのかもしれないが、いずれにせよあまりにも評判が良いので、こちらから営業に行かずとも問い合わせを受けることも増えたほどだ。もちろん、誠実に対応していかなければ、あっという間に評判も数字も悪くなることは十も承知だが、知名度の低い我が社に機会が与えられるということ自体、本当に奇跡だと考えているのだ。この状況がもう少し続いて、今後の業績予想もさらに上方修正が見込めるよう、私たちもいっそう骨身を惜しむつもりだ」

 彼の眼差しには力強さがあった。

「高い評価をいただき、ありがとうございます」

 思いがけない言葉に思わず口元が緩んだのだが、気を引き締め直すべく、すぐさま表情を取り繕った。

「しかしながら、その言葉に甘えて慢心することのないよう、気を引き締めて引き続き仕事に取り組んでまいります」

 イェンスがやわらかでありながらも、はきはきとした口調で言葉を続けた。彼の言葉は僕の考えをまさに代弁していたため、「僕も同じです」と追従し、真っ直ぐにギオルギとムラトを見つめ返す。すると彼らは少し驚いた表情を見せ、それから僕たちを感慨深そうに見た。その眼差しに彼らの思惑を推し量ろうとしたその時、ギオルギがゆっくりと口を開いた。

「君たちならそう言うと思っていたよ。そこで私たちは話し合いの結果、君たちの功績を認めて特別報奨金を支給することに決めたのだ」

 その言葉に驚き、思わずイェンスを見る。彼も驚いた表情で僕を見ており、困惑した様子で彼らに話しかけた。

「突然のことで大変驚いております。そのような評価を頂いていることに、感謝の言葉もありません」

「僕も驚いております。彼ならともかく、僕までもがそのような高い評価をいただき、大変恐縮です」

「確かに驚くだろうな。ただし、このことは内密だ」

 ムラトはそう言うと笑顔を見せた。

 その時であった。

 突然、僕の中を光が貫くような感覚が駆け上った。そして直感にも似た思考が閃き、僕を強く支配していく。僕は衝動的にイェンスを見た。すると彼は力強く僕を見つめており、その唇は「ウボキ」と動いた。僕はその言葉にうなずいて返すと、口の端で軽く微笑んで返した。イェンスもまた口の端で微笑むと瞳に静かな意志を宿し、ギオルギとムラトにゆっくりと顔を向けた。

「お願いがございます。特別報奨金を辞退させてください。その代わり、僕たちが同じ時期に長期休暇を取ることをお許しいただきたいのです」

 はっきりとしたイェンスの口調に、彼らは一様に驚いたようであった。

「休暇……長期休暇とは! もちろん、認めよう。しかし、いったいどれぐらい休みたいのだ?」

 ギオルギの口調は明らかに困惑していた。

「二……いえ、三週間ほど休暇をいただきたいと考えております。もちろん、ただでさえ仕事が忙しいさなか、同時期に二人一緒に長期休暇を取ることによって同じ部署の人たちだけでなく、会社にも多大なるご迷惑をお掛けすることは重々承知しております」

 僕はイェンスに確認することなく、咄嗟に答えた。しかし、僕には彼が同意をしているという、根拠の無い強い肯定感があった。僕はその肯定感に促されるがまま、ギオルギとムラトを真摯な眼差しで見つめた。

「同じ部署内で重要な立場にいる君たちが、同時に三週間いないのか……」

 ギオルギは後に続く言葉を失ったのか、ムラトに視線を向けた。ムラトは僕たちの言葉を聞いて考え込んでいるのか、手元を見ていた。

 沈黙が流れる。数十秒がまるで数時間のように感じられる。それでも僕は前向きな気持ちで沈黙の中にいた。

「よし、わかった。三週間だな?」

 ムラトが突然、僕たちを見て言った。イェンスと僕は力強く「はい」と返すと、心を落ち着けつつ彼を見つめ返した。

 ムラトがギオルギに耳打ちする。すると、彼らは席を立って部屋の隅で話し合いを始めた。僕たちはなるべく彼らの会話を拾わないよう、うつむいて待った。その間も、何か強い力に包まれているかのような感覚の中におり、不思議と不安も緊張もなかった。

 脳裏に青白い光がぼんやりと浮かぶ。なぜ今、その光が思い返されたのか。

 その時、彼らが戻って来た。その表情は硬かったのだが、瞳には強い意志が宿っているように見えた。ギオルギは軽く咳払いをすると、僕たちをしっかりと見ながら口を開いた。

「よし。二人一緒の三週間の休暇を認めよう。ただし、二つ条件がある」

 その言葉に思わずイェンスも僕も前かがみになる。ムラトもまた、前かがみになっていた。

「一つは、特別報奨金も夏の賞与も受け取ることだ」

 彼の表情はやや厳しかったのだが、口調は穏やかであった。

「いえ、それでは他の従業員と比べてあまりにも公平さに欠けます」

 僕たちがなおも辞退を申し出ると、ギオルギが真剣な表情で続けた。

「いや、君たちには受け取ってもらいたい。君たちにはそれだけの功績がある。もちろん、これは私たちの感謝からも来ているが、君たちは頭がいいから気付いているだろう。君たちに恩を着せるためだ。そうまでしても私たちは君たちを評価しており、今は手放したくないのだ」

 僕は彼の言葉に耳を疑った。

「三週間ともなれば、地方国への旅行でも考えているはずだ。広い世界を見聞きした君たちが、別の新たな道を見つけないとも限らない」

 ギオルギの言葉に心がざわめき立つ。彼はさらに続けた。

「そこで二つ目の条件だ。さっき言ったことに関連するが、必ずここに戻って来ること。元気な顔をまた見せて、当面はこの事務所で働いてくれることだ」

 僕は全く戸惑っていた。彼らの提示した条件は僕に限っては不利益な部分が何一つなく、むしろ寛容さに満ちていた。

「君たちは若く、非常に優秀だ。広い世界を見て感化されることは、私たちでも容易に想像がつく。そんな君たちに無理強いさせては、かえって私たちの首を絞める結果を招きかねない。だが、あえてそういう条件をつけることにした。それほどまでに君たちを手放すのは惜しいのだ。いずれその日が来るのかもしれないが、私たちはまだ受け入れる体制を整えていない。もちろん、君たちが望めば私たちから強制させるものは何一つ無いし、君たちは常に自由だ。だが、将来の話は将来にしよう。今は徐々に事業が広がりを見せている途中であり、その発端となった君たちが我が社にとって非常に重要な人員であることを理解してもらいたいのだ。さっきも言ったが、君たちはかなり評判がいい。そんな君たちを好待遇で迎えたい大企業も、少なからずあるだろう。実を言うと、その点も私たちは懸念している。私たちの思いをぜひ汲み取ってもらえたらと願っている」

 僕はその言葉を聞くなり、イェンスを見た。彼の緑色の瞳にはあの光と力強さとがあった。僕はその眼差しから、彼の心情が僕と同じであることを感じ取っていた。

「ありがとうございます。休暇を頂けるうえに報奨金までお与え下さる、そのご寛大なるご判断に感謝いたします」

 僕はなるべく心を込めてギオルギとムラトに伝えた。続けてイェンスが穏やかな表情で話し出した。

「そのうえ、僕たちに対するお言葉の数々にも感謝しております。表面的なことだけではなく、深い見地から僕たちの将来までお考えくださっていることに、非常に感銘を受けました。しかし、正直に申し上げますと、僕――僕たちは浅い理由で休暇を願い出たのです。ですから、贈られた言葉を受け取るにふさわしいよう、そして慢心から評価を下げることのないよう、今後いっそう誠心誠意をもって職務に取り組んでまいりたいと思います」

 それを聞いてギオルギとムラトは安堵したような表情を見せた。

 事務所内の様子がかすかに耳に届く。電話の鳴る音、誰かの話し声、通路を歩く音――それらはいつも事務所内で耳にする、馴染み深いものであった。しかし、今の僕にとってそれら音はどこか遠い世界の、それでいて懐かしさを覚えるものであった。その理由を僕はしっかりと掴んでいた。

 僕はそれまでいた世界とは全く異なる、新たな世界の入り口に降り立ったのだ!

 一つ深呼吸をし、おもむろにギオルギとムラトを見る。ギオルギは目が合うなりゆったりと姿勢を変え、くつろいだ表情で僕たちを見た。

「君たちの気持ちはわかった。ところで、実際いつ頃休暇を取る予定なのだ?」

 僕が黙り込んで考えていると、イェンスが耳元でささやいた。

「六月はどうだろう?」

 その言葉にうなずいて返すと、イェンスが彼らに「六月の上旬で三週間を予定しております」と答えた。

「そうか、六月か。いい時期かもしれん。ローネや他の者には私のほうからも伝えておこう。ひょっとしたら一人ぐらい、別の業務から一時期手伝ってもらうことになるかもしれないな。それが具体的に決まったら、君たちがいない間も仕事が滞りなく進むよう、仕事の手順書や打ち合わせを君たちのほうからも協力して取りまとめてもらいたい」

 ギオルギはそう言うと微笑んだ。

「思えば、彼らはいくら勧めてもまとまった休暇をほとんど取らず、有給休暇もずいぶん残してきた。ちょうどいいのかもしれない」

 ムラトの口調もまた朗らかであった。

「本当に感謝しております」

「よし、それなら仕事で返してもらおう。もう結構だ。仕事に戻ってくれ」

「ありがとうございました」

 声を揃えて部屋を退出する。突然決まった休暇がどこか信じられず、喜びを押し隠しながらイェンスを見る。すると彼もまた、喜びを必死に抑えているのがわかった。

「クラウス、君を見ていると僕は喜びを爆発させてしまいそうだ。ひとまずは落ち着いているふりをして、後でこの話を思いっきりしよう」

 僕は彼の言葉に心から同意した。喜びながら席に戻れば、周囲からいろいろと勘繰られるであろう。何より、やるべき仕事はたんまりと残っていた。

 僕たちは努めて平静さを装いながら席に戻った。しかし、ローネが仕事の手を休め、わざわざ僕たちのところにやって来たかと思うと、声をひそめて尋ね始めた。

「あなたたち、急に呼ばれてどうかしたの?」

 何かを見透かしたかのように僕たちを見つめる彼女に対し、どのように説明すべきかで悩む。イェンスも戸惑っているらしく、二人して思わず口ごもっていると、奥の部屋から出てきたムラトが僕たちのところにやって来て言った。

「ああ、ローネ。ちょうど良かった。君たちに話がある」

 その言葉にティモたちも反応してムラトのほうを見た。

「実はクラウスとイェンスが、六月に三週間の休暇を一緒に取ることになったんだ。彼らがいない間は、皆で手分けして乗り切ってほしい。ただし、やはり応援は必要だろうということで……ちょうど良かった。ジャン、戻って来て早々申し訳ないが、こっちへ来てくれ」

 ムラトはそう言うと事務所に戻って来たばかりのジャンを呼び寄せた。ジャンが不思議そうな表情で僕たちの話し合いの輪の中に加わると、ムラトが再び話を切り出した。

「ジャン、彼らが六月に三週間の休暇を一緒に取ることになった。そこで突然のことですまないが、君には税関の通関業務従業者研修と従業者登録を済ませてもらい、彼らが居ない間、ティモの代わりに税関に行ってもらいたいのだ」

 僕はムラトの思わぬ言葉に驚き、しわ寄せの直撃を受けたジャンを申し訳なさそうに見た。しかし、彼の反応は僕の予想とは裏腹に、かなり意外なものであった。

「本当ですか! ひょっとして通関手続きにも関われますか?」

 まるで喜んでいるかのようなジャンの様子に、ムラトもまた驚いていた。

「あ……ああ、君が望むなら簡単な書類を作らせてもらうといい。だが、あくまでもメインは税関への対応だ。書類の提出と検査の立ち会いをお願いしようと考えている。彼らの休暇の件は後で会議を開き、どういう体制で進めるかを改めて打ち合わせするとしよう。では、仕事に戻ってほしい」

 ムラトはそう言うと「取引先のところに出掛けて来る」と言い残して事務所を出て行った。

「あなたたち、いつの間に決めていたの? まあ、いいわ。後でちゃんと聞かせてもらいますからね」

 ローネが驚いた顔のままで言ったので、僕たちは控えめな態度で「皆に迷惑をかけますが、きちんと対応を考えます」と言葉を返した。

「もちろん、あなたたちがきちんと休めるよう、私も対応を考えるつもりよ」

 ローネはそう言うと、いつもの優しい笑顔を浮かべた。しかし、続けざまに「ひとまずこの仕事をやっつけないと」とつぶやき、そのまま自席へと戻っていった。

 他の同僚たちの反応も思いのほか冷静であり、表立って嫌な表情を見せた者はいないように思われた。その中でもジャンは格別であった。彼はティモに「やった!」と興奮気味に話しかけ、それをティモがにやついた表情で「良かったな」と受け止めるほどであった。

「お前たち、安心して休暇取っていいぞ。じゃあ、また後でな」

 ジャンの残したさわやかな笑顔にただただ茫然としていると、ティモがその様子に気が付いたのか、小声で話しかけてきた。

「俺も詳しくは聞かされていないんだけど、ジャンの奴、ベアトリスと結構仲良くなったらしいんだ。だけど、あいつベアトリスも担当している、俺たちのこの仕事がよくわからないらしくて、話題についていけないことを気にしててさ。噂だと他にも彼女を狙っている奴らがいるらしいんだ。だから少なくとも、あいつが税関に行けば今より彼女と会う確率が増えるし、通関手続きの仕事を覚えると共通の話題が増えるだろう? それを狙っているんじゃないかと思う。まあ、あいつらしいよ」

 彼はおどけてみせたのだが、事務所の電話が鳴るとすぐさま態度を切り替え、素早く電話に出た。すると税関からの問い合わせであったらしく、彼はそのまま対応を続けた。

 僕は思いがけない展開から結び付けたエルフの村への訪問に対し、なんとか喜びを抑え込もうとしていた。しかしながら、それを軽々と跳ね除けて喜びが湧き上がるので、結局は嬉しい徒労を繰り返すばかりであった。それでも心を少しでも落ち着けようと、深呼吸を何度か繰り返す。少しずつ平常心が取り戻されてくると、浮き足立ってつまらない失敗をすることの無いよう、気を引き締めて仕事を再開させた。

 昼休みに入る直前、今後のことで打ち合わせすべく、会議日程をローネが皆から意見を聞いて取りまとめた。ざっくりとした日程が決まったと同時に昼休みになる。ローネが昼食を外で取るために迎えに来たフェイと一緒に忙しなく事務所を出ていく中、イェンスと僕も急いで事務所を出て早足で歩き続けた。

 事務所からそれなりに離れると、僕がずっと考えていたことをイェンスが先に言葉で表した。

「クラウス。今、ユリウスに報告しないか? 夜まで待てそうにない」

 僕は即座にうなずいて返した。イェンスが人気のない場所を選んでスマートフォンを取り出し、ユリウスに電話をかけ始める。訪問以外の用件で僕たちのほうからユリウスに連絡を取るのは、お互いに初めてのことであった。

「彼のことだ、出られない状況ならそれなりの対応をしているはずだ」

 イェンスはそう言うと、スマートフォンを手に僕を見つめた。音声を控えめにしたスピーカー状態のスマートフォンの画面を、僕も注視しつつ電話のコール音を拾い続ける。妙な緊張感が十数秒ほど辺りに漂ったその時、ユリウスが声をひそめて応答した。

「どうした、わざわざ電話をくれるとは何かあったのだな? クラウスも一緒か?」

「そうなんだ、クラウスはすぐ隣にいる。実は急遽、六月に三週間の休暇を一緒にもらえることになったから、ウボキに行くことにしたんだ」

「本当か? それは実に良かった! 君たちからの電話を受け、何かあったのだと思っていた。ちょうど昼休みに入って一人になった時でタイミングも良かった。しかし、それならますます近いうちに君たちに会いたい。必ず時間を作る」

 ユリウスは声をひそめながらも興奮しているようであった。

「ありがとう。シモとホレーショは近くにいるのかい?」

「いや、今週まで彼らは訓練期間中だ。来週からまた私の警護に戻る。もし、彼らに直接伝えたいのであれば、メールで知らせたほうがいいだろう。彼らが都合を見計らって返信するはずだ」

「ありがとう、そうする」

「ところで現実的に行くとなると、君たちの身分証明申請が必要になる。その件はまた後で連絡しよう。忙しいところ、連絡をありがとう」

「こちらこそありがとう、ユリウス」

「クラウス、君の声も聞けて何よりだ。では、また連絡する」

 電話はそこで終わった。僕たちは改めて嬉しさを噛みしめながら、急ぎ足でカフェに向かった。そして料理が運ばれてくる前に、シモとホレーショに『六月に二人揃って三週間の休暇を取得したので、その件で近いうちにユリウスと会うことになった』とだけメッセージを送った。

 昼食の間に彼らから返事が来ることはなかった。彼らの訓練が苛酷で、ユリウスの言葉どおり、すぐに連絡が取れないことも理解していた。彼らが僕たちのメールをどう思ったのか、そもそも外部と連絡が取れるような状況にいるのかも不明であったのだが、まだ先ということもあり、気長に返事を待つことにした。

 金曜日の仕事が残業になりながらも無事に終わる。イェンスと僕が会社のパソコンを閉じて机の整頓をしていると、ジャンとティモから軽く飲んでいかないかと誘われた。

 さりげなくイェンスの表情を伺う。彼が微笑んで返したので、僕のほうから笑顔を添えて答えた。

「もちろん。前にも行ったレストラン?」

「それは、歩きながら決めることにしよう。お前たちには聞きたいことがあるからな。三週間も休暇を取って、いったいどこに行くんだ?」

 ジャンがにやにやしながら尋ねてきた。僕たちが「実はこれから考えるんだ」とはぐらかすと、ジャンはティモと交互に地方国のおすすめ観光地を話し出した。

 事務所を出てしばらく歩く。こじんまりとしたバーにジャンとティモが入っていったので、僕たちも続けて中へと入る。ジャンがボトルで注文した、手頃な値段のワインがグラスに注がれると、早速彼はやわらかく口に含んだ。

「値段のわりには酸味もあるし、それなりに濃さもあるな」

 繊細なはずの僕の味覚では掴めなかった、ジャンのワインに対する感想に僕は素直に感心を覚えた。

 ジャンの祖父母は父方も母方も同じ地方国の出身であった。その地方国の特産品の一つがワインということで、今も健在でいる両祖父母と一緒にその名産のワインをたまに飲むらしい。その話を、母方の祖母が同じ地方国の出身であるティモがことさら熱心に耳を傾ける。彼の祖母とジャンの母方の祖父母がその地方国の中でも近い町に住んでいることが判明すると、さらに意気投合したらしかった。その彼らの眼差しにあの光が一瞬浮かぶ。どうやらジャンとティモの間にも親密さが増しているようであった。

 食事とともにジャンとティモの酒の量が進むにつれ、話題は地方国から多岐へとわたり始めた。イェンスと僕が持ち合わせていない方面の知識と話題に、新鮮さを感じながら会話を楽しむ。やがてワインのボトルが空になると、追加で注文するのかと思いきや、ジャンもティモもめいめいに好きな酒を注文し始めた。

 僕は日常的な飲酒は未だに避けているものの、付き合いもあってそれなりに酒を飲むようになっていた。かつて酔っぱらって帰ってきた父親に何度も嫌悪感を抱いたことは当然覚えているのだが、今回もまた、飲酒の誘いを断る理由が無かったのである。ふと父を思い返す。父もまた、飲酒のきっかけが大人の男性としての役割を演じていただけではないのかと考えた時、思いがけない心境の変化にまごついた。父は嫌なことから弱々しく逃れるべく、酒の力を借りているうちに酒に飲まれていった。僕はずっとそう考えていた。しかし、父のかつての醜態を許容してはいないものの、嫌悪感はずいぶんと薄まっていた。

 ああ、そうだ。アウリンコで生演奏を聴きながら、シモとホレーショとイェンスと四人で一緒に飲んだのだ。あの時経験した何もかもが僕に好ましい影響を与えていた。僕の心もまた、多方面にわたって成長の途中にあるのではないのか。

 シモとホレーショのことを思い返したことで返信が気になり、こっそりとスマートフォンを確認する。しかし、彼らから連絡は来ていなかった。その様子を見ていたイェンスが、「やはり訓練期間中は仕方ないのだろう」とささやいた。

「それにしても三週間か、大企業か地方国並みの長さだな。ギオルギが以前、君がなかなか休暇を取らないから不思議がっていたんだが、このために残していたのか」

 ティモが屈託のない笑顔でイェンスに尋ねた。

「そうなんだ。長期休暇を今まで取らないでいたのは、忙しさもあったけど君の推測どおりだ。いつかまとまった休暇をもらって、旅行に行こうと考えていたんだ」

 イェンスの表情は明るかった。その彼の言葉に深い意味は無いのであろうが、とりとめのない思考が思い浮かぶ。ひょっとしたら彼は僕と親しくなるのを待ってから、旅行に行こうと考えていたのではないか。

 イェンスは僕からすると堅実な性格であった。そのうえ、その豊富な知識とグルンドヴィ家の長男として受けてきた教育のおかげで、彼は世界中のどこへ行っても誰と会っても堂々とした振る舞いで相手の信頼を得るであろうと考えていた。しかし、彼の容姿では行く先々で目立つことも容易に想像がついた。この僕ですら、変化を起こしてしまった以上、一人きりで不慣れな場所に行くことはどうしても避けたかった。どんなに美しい景勝地でも歴史ある建物のそばでも、仮に不特定多数の視線を浴びることがあれば、旅行の良さと醍醐味を全く味わえないことであろう。もちろん、全てにおいて僕たちが目立つということは無いのだが、ドーオニツと全く事情が異なる地方国に独りでいることは、なおいっそうの孤独感と自己否定感をもたらすように思われた。

 そうなると僕にとってもイェンスにとっても、旅先でお互いに助け合い、心の支えとなる存在はかなり心強く大切なものではないか。しかもこの旅行は異種族の能力を受け継いだ僕たち、とりわけイェンスにとって非常に重要な意味を持っていた。貴重な経験がすでに確約されていることが、どんなに彼の励みとなっていることか。

 僕は改めてイェンスを見た。彼は僕の視線にすぐに気が付き、目を合わせると静かに微笑んだ。この気心知れた間柄で異種族の地を訪れることは、まさしく幸運なことであった。とりわけイェンスがより素晴らしい経験を得られるよう、僕も積極的に協力しくことを改めて自分に誓う。

 ジャンとティモの会話は、イェンスと僕が他のブローカーの間でも有名な存在であるという話題になっていた。僕たちは明るく否定したのだが、ティモがにやついた表情でさらに言葉を続けた。

「君たちが謙遜しているのか、本当に気付いていないのかわからないけど、俺が税関に行くようになってから何度か、いろんな人から君たちのことはそれとなく聞かれたよ。会社の損失にあたるようなことと、個人情報にあたることはもちろん伝えなかったけどな」

 僕はその言葉を聞いて苦笑いを浮かべたのだが、実のところ、誰がイェンスと僕のことを探っていたのかをティモに確認する気にはなれなかった。

「お前たちはとりわけ女性たちに人気だからな。あやかりたいぜ」

 ジャンがおどけてみせる。そんな彼にティモがいたずらっぽく笑いかけた。

「お前、そうは言うけどベアトリスとけっこういい感じなんだろ?」

 その名前に緊張を覚え、控えめにジャンを見る。しかし、ジャンは僕のつまらない不安を一蹴するかのごとく、非常にはつらつとした笑顔を浮かべて言った。

「実を言うとそうなんだ。彼女とようやく休日でも会えそうでさ。もしかしたら明日にも彼女から連絡が来るかもしれない。今まで押し付けない程度に何度か昼食に誘って、少しずつ距離を縮めてきたんだ。彼女、ドーオニツやアウリンコをもっと知りたいと話していたから、何度かにわけて穴場や名所に連れていくつもりだ」

 ジャンが空になったグラスを脇に寄せると、今度はグラスビールを注文した。

「彼女、間近で見るとやっぱり美人で可愛いんだ。色気もあるし、頭もいい。気が強いと言われているけど、話してみると楽しいし、実際優しいと思うよ。そりゃ、コウラッリネンに合格しただけのことはあるんだろうけど、あんな素敵な女性が今まで一人でいたなんて、全くもって驚きだ」

 その時、なみなみと注がれたグラスビールが店員からジャンに手渡された。彼はそれを平然とした様子で、勢いよく飲み始めた。

 僕はジャンが、ベアトリスと僕との間のやり取りを把握していないことにほっとしていた。そのうえで、彼が彼女を僕と全く正反対に評価していることを興味深く捉えていた。

 普通の成人男性であれば、彼のような評価を彼女に抱くのであろう。それが正常なのだ。僕が彼女の良さを見抜けなかったのは、ひとえに僕の性格によるものに違いない。いや、それともやはり変化を起こしたがために、見える世界が異なっているのではないのか――。

「おい、クラウス。どうした、ひょっとして彼がうらやましいのか?」

 笑顔で話しかけてきたティモに反応して顔を上げる。僕の悪癖で、ついぼんやりと思考をたぶらかしたことを素早く心の中で反省すると、努めて明るい口調で彼らに言葉を返した。

「そうじゃない。ジャン、君ならきっと彼女とうまくいくし、彼女もすぐ君の良さに気付く。そう思っていたんだ」

「ありがとう、クラウス。嬉しいことを言うじゃないか。よし、一杯おごろう。飲め!」

 ジャンは笑顔でそう言うと、非常に強い度数のリキュールを注文した。

「それにしても、お前らって本当に酒に強いよな。顔色一つ変わりゃしねえ」

 僕はその理由が変化から来ていることをもちろん把握していた。変化が始まる前は、年齢的な理由に加えてほとんど酒を飲んだことも無かったため単純に比較もできないのだが、強い酒を立て続けに飲んでも理性を失わない自信だけはあった。

 そのアルコール度数が非常に高いリキュールが運ばれてきた。僕がイェンスに目配せすると彼は僕の視線の意味に気が付き、「共犯になろう」とささやいた。そこで僕はわざと、おそるおそるグラスに口をつける仕草をした。一口飲むとそれは確かに辛かったのだが、予想どおりあっという間に舌に馴染み、淡く消えていく。僕はそれでもしかめ面を浮かべ、「さすがにこれは強いよ。舌がしびれるかと思った」と言ってからイェンスに勧めた。彼はグラスを受け取ると、少し匂いを嗅いでから口に含んだ。次の瞬間、彼は迫真の演技で神妙な表情を浮かべ、それから苦笑いしつつ感想を言った。

「これは確かにきついな」

 イェンスが目配せしながら僕にグラスを返す。

「ありがとう、ジャン。ちびちび飲むよ」

 僕がそう伝えると、彼は「そうだろう、さすがにその度数はきついはずだ」と笑った。その後も表情に気を遣ってはその強い酒を飲み、飲み干した後は酔いが回ったからと嘘をついてフルーツジュースに切り替えた。

「おっともう十時半か。いい時間だな」

 不意にジャンがつぶやいた。

 その言葉に再びスマートフォンを確認するも、誰からも何の連絡もなかった。その時、ジャンが熱心にスマートフォンを操作し始めた。どこか嬉しそうな彼の表情に好ましい予感がしたのだが、彼はスマートフォンをポケットにしまい込むと、「今日はもう帰る。また会社でな」とだけ言った。それを聞いたティモが、「なら途中まで一緒に帰ろう」と彼に話しかけたので、四人であっという間に会計を済ませてバーを出た。

 ジャンとティモとはその場で別れ、イェンスと一緒にバス停に向かって歩き始める。お互いの足取りはしっかりとしており、陽気さはあったものの、風と共にアルコールが抜けていくようであった。

 バスを降りてイェンスの住むアパートに着いた時、再びお互いのスマートフォンを確認したのだが、やはりシモからもホレーショからも連絡は無かった。

 「もしかしたら夜遅くなったことで、遠慮しているのかもしれない」

 彼はそう言うと微笑み、「明日は君のところに朝食を食べに行くよ」と付け加えた。

 僕たちは土日もほぼ一緒に過ごしており、朝食を一緒に取ることももはや日常生活の一部となっていた。イェンスとトリッキングで軽妙な技を見せあっては能力を把握し、それも満喫すればインターネット回線をテレビにつなげて映画をだらだら鑑賞し、あるいはあてもなくぶらぶら散歩するなど、何かにつけ彼と行動を共にしていたのである。

 「もちろん大歓迎さ、皿とフォークを用意して待っているよ」

「そこまで用意してくれれば充分だ」

 イェンスは朗らかな笑顔を残して、颯爽とアパートの中に入って行った。

 一人になり、さらに急ぎ足で帰宅する。部屋に入るなり窓を開け、ソファにだらしなく寄りかかりながら霞んだ夜空を見上げると、青白い星が目に飛び込んできた。その輝きに魅了されているうちに睡魔に襲われ、うつらうつらと夜風に吹かれてまどろむ。気が付くと午前零時を過ぎていた。そこでようやく着替えてシャワーを浴び、歯を磨いて寝る支度を整えていく。

 まるで誘われるかのように、ベッドに入る前にもう一度夜空を見上げる。この空はユリウスにシモとホレーショ、ひいてはルトサオツィにもつながっているのだ。淡い感動が再度僕の胸を優しく揺らし、小さな満足感で満たされる。

 その気持ちを抱えたまま、ようやくベッドの中にもぐりこんだ。しかし突然、エルフの村に行くのだという実感が湧き上がり、僕はあっという間に興奮状態に陥って眠れなくなってしまった。そのことに焦りを感じるとますますベッドの中で右往左往し、心を落ち着けるべくひたすら力を抜いて興奮から逃れようとする。それからしばらくするといつの間にか眠っていたらしく、少しのだるさを感じつつも朝を迎えた。

 いや、朝のわりには、カーテンの隙間からもれる光が力強い。慌てふためいて時刻を確認すると、時計の針は午前十時をとっくに過ぎていた。それを見た途端に血の気が引いた。

 イェンスがわざわざ部屋を訪ねてきたのにも気が付かず、眠りこけていたのではないのか。もしかしたら応答がないことに腹を立てて帰って行ったかもしれない。

 僕はおそるおそるイェンスに電話を入れた。しかし、彼が電話に出ることはなかった。いよいよ彼を怒らせたのだと落胆し、茫然としてベッドに腰掛ける。

 その時、彼から折り返しの電話がかかってきた。僕はすぐさま電話に出ると、覚悟を決めて彼に謝った。

 「イェンス、ごめん。実は、さっき起きたばっかりなんだ。君に不快な思いをさせてしまって本当にごめん」

 「ああ、違うんだ。クラウス。謝らなきゃいけないのは僕のほうだ。僕は昨晩、急にルトサオツィを訪ねることを思い出し、興奮から目が冴えてしばらく寝付けなかったんだ。目が覚めたのは、君からかかってきた電話の着信音のおかげだ。それさえも最初は夢だと思っていたんだ。時刻を確認して泡を食ったよ。きっと君は呆れているに違いないって、潔く謝ろうと電話をかけたんだ」

 「君もか! 僕も昨晩、寝る直前に夜空を眺めていたら胸が熱くなったんだ。以前、話し合っただろう? この空はユリウスたちやエルフたちにもつながっている。たとえ遠くに離れていても、同じ空を共有していることには変わりがない。そのことを改めて思い返しているうちに興奮が増して、いっそう実感に浸ってしまったんだ。だからしばらくの間、全く眠れなかったし、僕が目を覚ましたのも十分前ぐらいなんだ」

 「そうだったのか、ああ、良かった。本当に良かった。でも、電話に出られなかったことは謝るよ。何はともあれ、すぐそっちに向かう。十五分後には着くだろう」

 安堵した様子でイェンスが電話を切った。僕も胸を撫で下ろして身支度を整え、急いで散らかっていた部屋を片付ける。それから窓を開け、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、どこか新鮮な気持ちで朝食の支度を始めた。

 ほどなくイェンスがやって来て、顔を見るなり軽快に笑い合う。そして一緒に遅い朝食を作ると、近くにいるらしい小鳥のさえずりを聞きながら食べた。その間も後片付けの時も、僕たちはずっとエルフの村に行く興奮と期待を共有しあっていた。

 お茶を飲みながら具体的な計画を立て、それから気分転換にトリッキングをして体を動かす。この部屋の階下の住人が平日休みである職種についており、夜間も不在がちであったため、階下に配慮しつつも自由気ままに体を動せるのは非常に楽しかった。

 昼近くになった頃、僕たちのスマートフォンが同時にメールを受信した。僕たちがすぐさま差出人を確認すると、シモからであった。

『連絡をありがとう。お前たちが再来月に三週間の休暇を一緒に取り、そのことでユリウス将軍のところへ行くことは了解した。俺はお前たちがどこへ行こうとしているのか、突拍子もない予想を立てているのだが、地方国巡りだけというわけではあるまい?』

 受信時間から数分と経っていないので、シモが電話に出られるかもしれない。そこでイェンスがシモに電話をかけると、予想どおり彼はすぐに電話に出た。

 「イェンス、ひょっとしたらあの地へ行くのか?」

 彼が声をひそめて尋ねてきたので、僕はイェンスの顔にひっついて耳をそばだてた。

 「君の想像はあたっている。それと君が警戒して単語を避けてくれていることも理解している。僕たちはまだ綿密な予定を立てていないが、まずは僕の髪色が本物かどうかを確かめに行くつもりだ」

 それを聞いたシモが押し黙った。

 「……わかった。お前たちとまた会えるのを楽しみにしている」

 少しの間を置いてから発せられた彼の声は、どこかさびしげに聞こえた。

 「ホレーショは?」

 「あいつと俺は訓練期間中なのだが、今回は別々のチームで訓練を受けている。おそらく午後になれば、あいつからも連絡が行くだろう。その前にあいつと連絡が取れれば、俺のほうからも話しておく」

 「ありがとう、シモ」

 「ついにその日が来たんだな。良かったな、イェンス」

 シモの口調は優しかった。しかし、僕はふと彼が場合によっては僕たちが人間社会に戻って来ないことを考えているような気がしたので、咄嗟に口を挟んだ。

 「シモ、僕たちは戻って来るし、しばらくドーオニツにいるよ」

 「クラウスか。いるだろうと思ったが、相変わらずお前たちは仲がいいな。旅行をすれば価値観や人生観に影響を与えるだろう。お前たちが旅行で得た土産話はいずれにせよ、戻ってきた時にゆっくり聞こうじゃないか」

 シモの声が明るくなった。

 「その前に会うさ。もうすぐ五月になるから、来月だね。また会おう」

 僕がそう話しかけたその時、僕のスマートフォンにメールが届いた音が聞こえた。急いで確認するとメールはホレーショからで、イェンスと僕あてに『連絡をありがとう。来月根掘り葉掘り聞いてやるから、覚悟しとけ』とだけ書いてあった。

 僕がそのことをシモに伝えると、「あいつも無理やり一人になって、お前たちに返信入れたな」と笑うように言葉を返された。

 「彼はまだ訓練中なんだね、今回はいつもより長いみたいだけど」

 イェンスがシモに尋ねた。

「俺もまだ訓練中だ。まあ、肉体的な訓練は終わって、仕上げの講義だけだがな。間もなく休憩が終わるが、あと一時間講義が残っている。明日は休みで、明後日から再びユリウス将軍の警護に戻る予定だ。本来であれば、もう一日休暇が与えられるのだが、妻と相談して別の日に取ることにしたのだ。知ってのとおり、将軍は我々に気遣いしてくださるから、どんな内容であろうと任務遂行は全く苦ではない。しかし、気遣いを当然のことと受け止めて慢心し、万一の不測の事態にへまをしでかすことのないよう、今回はあえて長く厳しい訓練を受けることにしたんだ。だが昨晩、お前たちのメッセージを読んでからというもの、今日の午後の訓練終了まで待てなかった。将軍からもそのことで連絡をもらっていたしな。……ああ、そろそろ時間だ。切るぞ」

 「貴重な休憩時間にありがとう」

 イェンスと僕が声を揃えて彼に伝えると、電話越しに「ありがとう、またな」と優しい声が聞こえ、電話は切れた。

 僕はすぐにホレーショに返信を打った。彼からメールを受け取った時にシモとちょうど電話で話をしており、シモが彼に連絡を入れると話をしていたことも含めて、イェンスとシモに送信する。その後、ホレーショから連絡は来なかったのだが、僕たちは気にしていなかった。遅めの昼食をカフェで取りながら、地方国の情報を仕入れるために図書館へと向かう。雑誌や本からも情報を仕入れると、イェンスと具体的な日程の流れについて調整を図った。

 日が沈んでからイェンスの部屋へと戻り、簡単な夕食を作って一緒に食べる。食べ終えた頃には出発日と訪問予定地を含めた、一通りの旅行日程が決まろうとしていた。

 「ウボキにどのぐらいいられるかわからないけど、多めに一週間ほど見ておこう。そこから候補を上げた地方国を少しずつ回れば、あっという間だな」

 イェンスの言葉にうなずいて返し、彼が持っていた地球儀で移動の流れをざっくりと確認する。すると、特別管理区域の外れから海を隔てて数千キロメートルは離れているものの、タキアがそこそこ近くにあることを思い出した。

 「どうしたんだい?」

 イェンスが地球儀を眺めながら考え込んだ僕に気が付き、屈託のない笑顔で尋ねてきた。

 「遠いのは遠いのだけど、特別管理区域の最寄り空港から数時間飛行機で移動すれば、タキアの地方都市に到着する」

 「君のおばあ様のところか、ずっと行っていないんだったね。君が行きたいんなら僕は全く構わない。むしろ君の話を聞いていたから、行ってみたい気分だよ。君がおばあ様の家にいる間はホテルにでも泊まるさ」

 イェンスは微笑んでいた。

 「まさか! おばあちゃんに頼んで、君も一緒に泊めてもらうよ。イェンス、君ならおばあちゃんも心から歓迎するさ。だけど、実際に行くとしてもやはりウボキ村での滞在次第だ。タキアはドーオニツからだと本当に遠いんだもの。特別管理区域からでも、海を隔てて結構な距離がある。おばあちゃんには近くになったら連絡を入れよう」

 「本当にいいの?」

 イェンスの口調は控えめながらも、表情はみずみずしい笑顔にあふれていた。

 「もちろん。おばあちゃんの作る手料理は素朴で美味しいし、近所の自然の美しさをぜひ君にも見せたい」

 僕が弾んだ声で返すと、彼はいきなり僕を強く抱きしめた。

 「ありがとう、クラウス。夢みたいだ」

 彼は耳元で嬉しそうにつぶやいた。

「お礼を言うのは僕のほうだ。本当にありがとう、イェンス」

 その時、僕のスマートフォンが鳴った。相手が誰なのかすぐに勘付いたので、素早く電話に出る。次の瞬間、威勢のいい声が耳に届いた。

 「クラウス、イェンスもおおかたすぐそばにいるんだろう? シモから聞いたぞ」

 予想どおり、ホレーショであった。ぶっきらぼうな言葉遣いが訓練の疲れからなのか、それともわざとなのか、何であれ僕は彼の声が聞けて素直に嬉しかった。

 「ホレーショ、訓練お疲れ様だったね。そうなんだよ、今もその話をちょうどイェンスとしていたところだ」

 「やっぱりそうだと思ったぜ」

 シモが電話の向こうで笑いながら言ったのが聞こえる。僕の耳元にイェンスが顔をくっつけた途端、ホレーショがなおもぶっきらぼうに続けた。

 「全く、あんな気になるメッセージを送りやがって。俺が昨晩、どれほど気を揉んだことか! 来月会ったら覚悟してろ!」

 一瞬、間が空いた。

 「再会を楽しみにしている」

 声をかなりひそめつつも嬉しそうに伝えたホレーショの言葉は、僕たちの心に真っ直ぐに響いた。

 「僕たちも楽しみにしているよ」

 「当然だな。ちなみに俺たちは五日間ぶりに家に帰った後だが、シモがこの件でわざわざ訪ねてきたんだ。家が近いとはいえ、あいつも相当変わりもんだな。いてっ! 何すんだよ、シモ! イェンス、あいつはお前に似てきたみたいだ」

 ホレーショはそう言うとイェンスと少しだけ会話し、そのまま電話を切ったようであった。

 僕たちはホレーショからも電話を受けたことで、ますます浮き足立った気分に陥った。

 「イェンス、僕は旅行に行くまでずっと浮ついていそうだ。特別管理区域までどうやって行くかが問題だけど、ユリウスに後で相談すれば判明するだろうし、本当に楽しみだよ」

 「そうだね、ユリウスがいるのは本当に心強い。しかもルトサオツィは、僕たちが呼びかけるように祈るだけで来訪を嗅ぎつけると言っていた。ウボキが現実に迫っているんだ! 確かに、今の僕たちには平常心という言葉が最も要求されるだろう。だけど、来月彼らに会って、再来月は旅行だ。いったいどうして喜びと期待とを抑え込められるだろう?」

 イェンスが瞳をきらきらと輝かせながら僕を見つめた。彼の言葉と眼差しは、僕の逸る気持ちにいっそうの彩りを添えた。

 航空券をイェンスのスマートフォンで手配する。しかし、あいにく僕たちが希望する経由では座席がほぼ埋まっており、離れた座席でしか予約が取れなかった。そこで話し合いの結果、出発時間を少し早めて別経由でウボキがある地域の最寄りの空港まで行くことにした。

 イェンスが再度検索していると、希望に沿った便に座席がちょうど残っていたため、早速並んだ席を購入した。帰りの航空券は、ウボキを出た後に空いている便を探して帰ることにしたため、ひとまずの手配は終わった。

 「こういう時にドーオニツ出身の良さを感じるよ。運賃が格安だし、ホテルの料金も優遇されている。その代わりドーオニツ出身というだけで地方国の人々の関心を集めるのだけどね」

 イェンスが航空運賃の画面を見せる。僕は思っていた以上に安く購入できたため、つい驚いてしまった。

 「本当だね。ドーオニツ特権で正規運賃の三割で済むんだった。でも、ドーオニツ航空に空きがあったなら、もっと割引できたのに」

 「ドーオニツ航空はここじゃ定番だから仕方ないさ。それでもドーオニツ特権の恩恵を享受できるのはありがたい。地方国での出入国審査が簡易で、地方国における公共施設などでもドーオニツ居住者証明身分証を専用の端末にかざせば、割引や特典が受けられる。見せびらかしていると思われるのが嫌で、ほとんどの人は大っぴらに使っていないけどね」

 イェンスの言葉に、僕は幼い頃にタキアを訪れた時のことを思い出した。父はドーオニツの居留資格を得たことを、得意気な様子でかつての知り合いに話していた。母はそれを見てやんわりと窘めていたのだが、一方で僕たちがドーオニツ出身であることを驚かれた経験も何度かあったのである。

 「ドーオニツ出身でこれなら、アウリンコ出身だともっと凄いんだろうね」

 僕の言葉にイェンスは神妙な面持ちでうなずいた。

 「運賃の割引率はもう少し上がるし、ホテルの宿泊費用や公共の施設の利用費も僕たちよりも安い。その代わり、居住する際には監視カメラだらけの中で厳しい身分証明制度に従う必要がある。それはここドーオニツでも全く一緒だけどね。アウリンコで僕たちに絡んできた酔っ払いみたいな奴らもたまにはいるけど、以前フランツたちと話したとおり、お互い共通のルールを共有しているから動きやすい。君も知っているかもしれないけど、地方国に行くとこうはいかない。安全面がここみたいに保証されないうえ、本当にいろんな人たちがいるからね。旅行に行ったら状況を見て五感を解放して、それで得た情報を上手に取り入れて行動したほうがいいだろう」

 「ドーオニツ出身というだけで妬まれるらしいね。そのわりにはドーオニツ居住者としての特権を得るために、コウラッリネンが人気だと聞いている。どのみち、僕たちはドーオニツ出身であることを隠して行動したほうが良さそうだ」

 僕がそう言うとイェンスが力強くうなずいた。その後も僕たちは談笑しながら、土曜日の夜を満喫した。夜が更けるとイェンスに別れを告げ、僕の部屋に戻ってゆっくりと休息を取った。


 五月に入ると気温も上がり、快適な日々が続いた。僕が一年の中でも五月を特に気に入っているのは、快適なだけでなくいよいよ木々が新緑で鮮やかに彩られ、草花や虫たちが喜びあふれた様子でそれぞれの生命を謳歌しているのを目の当たりにするからでもあった。

 イェンスにそのことを伝えると、彼は強い喜びを添えて共感を示した。

 「そうなんだよ、クラウス。君とまたもこの喜びを共有できて僕は幸せだ。ごらん、あの蝶々の移動する速さときたら! 軽やかに舞っているようで、信じられないほど素早く、それでいて正確に風の動きを捉えている。あの動きを方程式で表現した論文を、君と先日インターネットで見たことを思い出すよ。ああ、クマ蜂もやって来た。彼こそ、空気の慣性力と粘性力の均整が取れた、実に見事な飛行を見せてくれる。それにしてもなんて愛らしいんだろう」

 イェンスの言葉は、今まで僕が感じてきた小さな生命への尊敬と感慨を端的に表していた。僕は喜びをもって彼の言葉を受け止め、目の前で忙しなく動き回っている自然の小さな使者を彼とともに見守った。

 その彼が明らかにはつらつとした美しさを増していったのは、日々彼が発揮していく異種族から受け継いだ変化への対応だけでなく、エルフの村を訪問することに対する喜びと期待とが彼を包み込んでいるからなのだろうと考えていた。彼にとって間違いなく思い出深い旅行になるはずである。仮に彼がエルフたちに受け入れられることがあれば、もともと違和感をもって生きている彼にとって、おそらく人間社会への帰属感がますます薄まるきっかけとなるに違いない。

 そう考えると、僕たちの友情関係に重要な岐路を迎える可能性が訪れることも受け入れざるを得なかった。ひょっとしたら、帰りは僕一人かもしれないのだ。それを受け入れることは決して容易では無いうえ、そのことを考える度に深い衝撃が体中を駆け巡った。

 それでも僕の美しい友人がずっと美しくいられるのであれば、これ以上の喜びはない。僕は進んで彼の力になろう。

 職場では、僕たちが揃って三週間の休暇を取ることで、ギオルギとムラトも含めた関係者全員で会議が何度か行われた。僕は会議の度に彼らに感謝を感じずにいられなかった。それは概ね僕たちの休暇に肯定的であり、互いに協力をすることで意見がまとまったからであった。

 ある会議の時、イェンスと僕が何度もそのことについて感謝の言葉を伝えると、ジャンが「お前たちが戻って来る頃には、俺が通関手続きのメインとして働いているかもしれん」と言って笑いを誘った。実際、彼は驚くほど非常に呑みこみが早く、筋が良かった。

 ジャンの言葉を受け、ティモが「ベアトリスとついに休日二人で出掛けたらしいんだ。それで通関手続きに関してかなり勉強熱心になっていて、俺にもよく法律を聞いてくる」と、僕たちに彼の事情をこっそり打ち明ける。それを聞いて僕たちは笑顔を浮かべたのだが、ジャンとベアトリスの事情を知らないローネが突然、「ジャンは本当に頼もしいわ」とはしゃぐように彼を歓迎したので、つい声に出して笑ってしまった。

「イェンス、クラウス。あなたたちもうかうかしていられないかもね」

 茶目っ気たっぷりにローネが微笑んだので、「実にそのとおりですね」とイェンスが言葉を返す。そのやり取り全てがあたたかく、僕はますます感謝の気持ちを彼らに抱いた。優しい人たちに恵まれたことが全てなのだ。僕は改めて彼らに感謝の言葉を伝えると、初心に帰って仕事にあたった。

 旅行に向け、イェンスと僕は少しずつ準備を進めた。必要なものをリストアップし、お互いに貸し借りできるものは共有してなるべく荷物を減らそうということで話がまとまる。そして話し合いの結果、スマートフォン以外の記録媒体は持たず、エルフの村ではそのスマートフォンの電源を落とすことに決めた。

 その間は連絡が取れなくなるため、イェンスと一緒に旅行に行く話とともに、そのことを両親に電話で伝える。僕の曖昧で簡単な説明を聞き終えると、母は電話越しにたいそう驚いて「どこへ行くの?」と熱心に尋ねてきた。僕はややはぐらかしながらも、手短におおまかな行程を答えた。

「あの子と一緒でも、気をつけるのよ」

 母の心配そうな口調に対し、明るい口調で「大丈夫だよ」とだけ言葉を返す。タキアに行くかもしれないとことは、なぜか言えなかった。

 五月の二週目の水曜日の夜、僕の部屋でいつものようにイェンスと一緒に夕食を取りながら過ごしていると、ユリウスからイェンスのスマートフォンに電話が入った。ユリウスが「再来週の土曜日がまるまる空く予定だ。急で申し訳ない」と話したようである。イェンスが確定した出発日時を伝え、さらにウボキに一番近い国際空港までの航空券を手配したことを報告すると、ユリウスが小声で話し始めた。

「航空券はもう手配したのか。――そうだな、時期が時期だ。エルフの村に行くためには、私が直接発行する特別管理区域立入通行許可証が必要となる。本来であれば、さらに煩雑な申請書類が必要となるのだが、そのほとんどが身辺調査と宣誓書に関するもので、訪問予定日の三か月前に提出する必要があるものだ。これは申請書類を異種族に連絡を入れて、実際に審査してもらう理由からだ。そこで彼らが承認して初めて私が許可を下すことになるのだが、今まで何度かその申請を受けたことはあっても、許可を下したことは一度も無い。理由は想像がつくだろう、異種族が断るのだよ。特にルトサオツィからは、『君が申請書から何となくでも嫌な印象を受けたものは、その段階で却下して構わないし、私たちとしてもそのほうが望ましい』とまでお願いされていた。しかし、君たちはルトサオツィから招待を受けている。私もその場に居合わせたし、何より君たちが招待に相応しい人柄であることを私も充分知っている。だから改めて申請する必要はない。ただ、通行許可証に顔写真を載せるため、すまないが来週中にでも身分証明申請端末で撮影付き証明申請を行ってほしい。土曜日の午前中でも構わない。その申請の際、宛先官庁の入力コードを、これから伝えるコードで入力するんだ。すると直接、私の執務室のコンピューターにその情報が届けられる。君たちの申請が他の省庁や政府関係者にもれることはない。その申請を受け取ったら、早速その手続きを進めることにしよう。私が許可操作を行ったら、再度連絡する。君たちは後で身分証明申請端末からその証明を受け取るだけだ。その際、出力条件コードにも特定の文字を入力する必要がある。そうすることで身分証明不正発給エラーが回避されると同時に、君たちの情報も守られるのだ」

 ユリウスが入力コードと出力条件コードを口頭で伝える。イェンスと僕が交互に暗唱すると、彼は「さすがだな」と笑って話を続けた。

「もう少し早く連絡を入れようと思っていたのだが、君たちをエルフの村付近に容易に行かせるため、関係者に時間をかけてそれらしい作り話をしておいたのだ。話はこうだ。去年のあの日、君たちはルトサオツィが落としたエルフの装飾品を、偶然アウリンコの旧市街地を訪れた際に拾った。それを君たちが手に持って不思議がっているところを、たまたま通りがかった、捜査官でもあるシモとホレーショが君たちの挙動に不信を感じて任意同行を求めた。彼らは装飾品を見るなり、私の警護中にたまたま見かけたエルフのものに似通っていることに気が付き、私に確認を求めた。彼らの要請を受けて私が直接確認すると、それはまさしくそのエルフの所持品であり、エルフから『見つかったら届けてほしい』と言伝されていたものだった。そこで私が直接届けることで当初調整を進めたのだが、私が直接行くと動きが派手になりやすく、エルフが人間社会を訪れているという国家機密が暴露されかねないことも予想できたため、善良そうな君たちの人柄を信じて君たちに届けさせることにしたのだ。むろん、そんな落し物などもないが、わざわざ他人にそれを見せる必要もない。布にくるまれた何かを提示するだけだ。届けるまでに期間が空いたことに対しても、私が直接君たちの身辺調査や申請書類の確認などをしたため、時間がかかったことになっている。さらに私から関係者に、『布の中身はすでに一度彼らから預かって現物を確認してある。そしてそのまま確実にエルフに届けるため、特別な封をしたので開封してはならない』と伝えておいた」

 僕は彼の言葉の一つ一つに細やかな気配りを感じて感激していた。

「ありがとう、ユリウス。そこまでしてくれるなんて、なんてお礼を言ったらいいのか」

 イェンスが感謝の言葉を伝えた。

「立場を悪用しているがね。だが、話はまだ終わっていないぞ」

 ユリウスは朗らかな口調で言ったのだが、突然無言になったかと思うと早口でささやいた。

「すまない、誰かがこちらに向かってくる気配を感じた。この時間でも面会人がいるのはよくあることだ。なかなか君たちとゆっくり話もできないが、続きは今度会った時だ。では、申請を待っている」

 電話はそこで切れたのだが、僕たちは彼と話したことで充分満たされていた。

 それから少しして、地方国の情報を得るためにテレビの電源を入れた。するとニュース番組が放映されており、今日の午後に行われた政府の閣僚会議の様子が映った。そこには当然の如く、ユリウスも映っていた。彼は威風堂々としており、テレビの画面越しでも知性と品格とがあふれていた。

 イェンスと僕は顔を見合わせると、何となしにチャンネルを変えた。

「なんとなくこういった彼の姿を見るのを避けていたのだけど、改めてテレビで見ると、あの優しいユリウスが本来なら全く遠い存在であることを思い知らされるよ」

 僕が思わずもらした言葉にイェンスは微笑んで返した。

「僕もテレビやネットなどでなるべく彼を見ないようにしている。だけど、僕たちはお互いに深いところで結び付きがある。友情とは不思議なものだな。本来なら遠い存在でも、お互いの心と心の距離が近いだけで、身分や地位とは関係なしにあたたかさと力強さとをもたらすのだから。クラウス、君には感謝している。君のおかげで僕たちはつながったようなものさ」

 彼の言葉は、またしても僕の全身を喜びと誇りとで満たしていった。その彼こそが感謝されるべき人物ではないか。しかし、ここぞという時に相変わらず不器用さが勝り、「ありがとう」と言ったきり口ごもる。そうなると僕はただただ感激から彼を見つめるしかできなかった。

 イェンスはそんな僕をはにかんだ眼差しで見つめてから抱きしめると、僕の肩に両手を置きながら言った。

「ほら、クラウス。君は本当に美しいんだ! 今さらそんな表情を僕に見せるだなんて、僕は全く嬉しくて仕方が無い。君という親友を、いや、僕は君を家族以上に大切に考えている。とにかく、君という友人を持てたことが何より僕の誇りなんだ。だからといって僕が君に押し付けるものは何もない。君はただ君らしくいてくれればいいし、君はいつだって自由だ」

 彼の眼差しにはあの美しい光があった。その光から清らかな彼の内面を感じ取ると、僕はそれ以上言葉を華美にまとめることはせず、彼に対して思ったことを率直に伝えることにした。

「ありがとう、イェンス。君にそう言ってもらえるのは光栄だ。僕だって、君という大切な存在に感謝している。君が僕を親友と言ってくれるたびに、全身から喜びと感謝とが湧き上がるんだ。そして君が言う『君らしくいてくれればいいし、君は自由だ』という言葉には全く同意する。だから、その……その、もし、君がエルフの村を気にいることがあったら、その時は僕が全力で君を応援する。だから、いざとなったら何も気にしないで僕に後処理を任せていいんだよ」

 僕の言葉が最後まで彼に届くより前に、彼は目の淵をにじませていた。

「クラウス……君……君という人は……。君と……君と一緒に帰ることを、僕は最初から決めている」

 彼はこらえるように言ったかと思うと、再び僕を抱きしめた。それは力強くもあり、体を預けて寄りかかるようでもあった。

 僕はこの美しい友人を、しっかりと支えながら抱き返した。彼の広い背中がまるで子供のように小さく丸まっているのを知り、そっとその背中を撫でてから彼の頭にキスを贈る。その間も彼はずっと無言のままであり、肩を小刻みに震わせていた。かつて何度か体験したことを噛みしめながら、現在の彼を受け止める。それはやはり今の僕ができる最大限のことであった。

 どれほどの時間が経ったであろう。

 不意にイェンスが僕の耳元で「ありがとう、クラウス。少し、窓の外を眺めてもいいだろうか」とささやいた。僕が「もちろんさ」と返すと、彼は赤くなった目を僕に向けて微笑み、静かに窓際へと歩み寄った。

 僕はお気に入りの本の存在を思い出し、手に取ってベッドの淵に腰かけた。この会話の無い空間に、厚い友情と強い信頼とが心地よく漂っていることがたまらなく嬉しく、何度も気に入っていた同じ文章を読み返す。少ししてから、イェンスに何か飲むかと声をかけた。すでに落ち着きを取り戻していた彼は笑顔を見せ、「何があるんだい?」と尋ねてきた。僕が「グレープフルーツジュースがある」と答えると、彼は僕に近寄って「ちょうど良かった。さっぱりしたものを飲みたいと思っていたんだ」と返したので、僕はグラスを二つ並べ、冷蔵庫からグレープフルーツジュースを取り出して注いでいった。

 さわやかな酸味と少しの苦み、そして果実本来の甘さを味わう。その時、僕たちの身分証明の申請をいつにするか決めていないことを思い出したので、早速そのことをイェンスに提案した。

「地区庁舎の無人端末は、土曜日の午前中も利用できる。今週末に行こう」

 僕の提案にイェンスは大きくうなずいて返した。彼はグレープフルーツジュースを飲んだことで一息付けたのか、興味深そうな表情を浮かべて話し出した。

「そういえば、ユリウスも考えたものだな。最後まで話せなかったけど、僕たちが直接エルフの落し物を将軍の命を受けて届ける設定で、シモとホレーショの立場を上手に組み込んである。そのことによってシモたちと僕たちが信憑性のある経路でつながり、その先のユリウスとも、異種族との接触を管轄するという立場でつながっていく。彼にしてみれば、僕たちが旧市街のどこでそれを拾ったかなんて、きっと些細なことだろう。いずれにせよ、僕たちの関係性が周囲に知られたとしても、彼はおそらく『シモとホレーショが不思議と彼らを気に入ったから、私も興味を持ったのだ』というような内容でシモたちに伝えてあるのかもしれないね」

「すごくいい推測じゃないか、イェンス! きっと今頃、シモとホレーショもユリウスに感嘆しているに違いない」

 その時、あたたかい夜風がそっと室内に吹き、青いカーテンを優しく舞い上がらせた。その様子を一緒に目撃していたイェンスが、つぶやくように言った。

「来年の今頃も、こんな風にカーテンが心地良く揺れるのを二人で見るんだ」

 彼は視線を窓のほうに向けていたのだが、彼の心は僕に向き合っていた。彼の言葉にあふれる優しさと友情を感じ、目頭が熱くなる。彼との友情がエルフの村を訪れた後も続くのであれば、万が一の時は覚悟を決めているとはいえ、やはり嬉しくてたまらなかった。

 やがて夜が更け、街から生活音がほとんど消えた頃、イェンスは笑顔を残して帰って行った。窓から彼を見送った後に再び夜空を見上げ、何週間後かに訪れる未来に期待に胸を弾ませる。それから少しして、落ち着いた気持ちで休息の地へと向かった。

 打ち合わせのとおり、その週の土曜日に地区庁舎へと赴いた。人気のない庁舎内で、黙々と撮影付き身分証明申請手続きをコンピューター端末にて行う。申請の際、ユリウスから教わった入力コードを宛先官庁に慎重に入力し、互いに確認し合ってから送信すると、ユリウスに「申請が終了した」という報告をメールで送った。

 多忙である彼からすぐに返信は来ないであろうと考え、その場を離れる。しかし、数分後に僕たちのスマートフォンがメールを受信した。

「『ちょうど今日は執務室に来る用事があったので、今しがた確認を取った。許可を出しておいたので、後で出力条件コードに留意しながら取り出してほしい。データの保管期限は一週間だ』だってさ。少し離れてしまったけど、今日中に終わらせたほうがいいだろうし、まだ時間的にも間に合う。戻ろうか?」

 僕の言葉にイェンスが「そのほうがいいだろう」と力強く答えたので、来た道を颯爽と引き返す。地区庁舎に戻り、申請端末にドーオニツ居住者身分証明証をカード差し込み口に挿入し、手続きを選んでから出力条件コードを注意深く入力する。少しして、静かな庁舎内の中で端末機器がかすかな唸り声を上げ、僕たちの身分証明証を元に新たな身分証明申請が受理され、正式に手続きが完了したことを示す証明書を吐き出した。

「これを今度ユリウスと会う時に特別管理区域立入通行許可と引き換えるんだね。ユリウスじゃないと到底できない手順だ」

 僕のほとんど聞こえないほどのささやきに、イェンスもまた、ようやく聞き取れる程度の声で返した。

「本当だな、彼には法令違反をさせてばかりだ」

 彼もまた神妙な面持ちであった。僕たちはその証明書を大切に鞄の中にしまいこむと、足早にその場を立ち去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る