第21話

 三月下旬になり、エトネとイリーナを久しぶりに訪ねる機会を得た。彼女たちは厳しい冬をつつがなく乗り越え、訪れ始めていた春の息吹とともに優しく僕たちを出迎えてくれた。

「あなたたちがこうして訪ねてくれるのが本当に嬉しいの。いつだってあなたたちの幸せを心から祈っているのよ」

 エトネの言葉が静かな微笑みとともに伝えられると、同じように考えていた僕たちも感謝の言葉を添えながら言葉を返した。そしてエトネがイリーナに愛を贈っている行為を再び目の当たりにすることで、僕の心がますますあたたかく照らされる。それはイェンスも同じであるらしく、彼は目を細めてその様子を見守っていた。

 イリーナが僕たちのことをすっかり忘れていても、僕たちは全く気にしていなかった。エトネが「彼女の機嫌がいいから、あなたたちは受け入れられているみたいね」と言って朗らかに笑ったのだが、イェンスより交流頻度が少ない僕にまでその言葉が向けられたことは単純に嬉しいものであった。

 人と人との出会いが結びついて新たな出会いを生み出していくことは、ありふれた日常の中でごく頻繁に起こる、小さな奇跡なのであろう。過去にはユリウスからのつながりで、シモとホレーショとも出会えた。いや、イェンスとの出会いも、ローネが先に彼と親しくなっていたからこそ、成立できたのではなかったか。

 昨日まで全くの他人であった人、すれ違うだけであった人と知り合い、親しくなっていく。そのことに不思議な感動を覚えるのは、決して大袈裟とはいえまい。思考をイェンス、エトナそしてイリーナに向ける。彼らは飾らない笑顔を浮かべており、時折その表情のままで僕を見ては談笑していた。心地良い感情を感じている人から笑顔を向けられることは、僕が思っている以上に幸運なことなのではないのか。

 僕は咄嗟に、目の前の三人にさらなる幸福が届けられるようそっと願った。すると、僕の心はあっという間に純朴な喜びで満たされていった。たとえ恒久的なもので無くとも、この一瞬の喜びに価値を見出せたことに僕は充分満足していた。

 日が西側へと傾き、そろそろ暇を告げて帰ろうかという頃、エトネが改まった様子で僕たちを見つめた。彼女が僕たちに何かを伝えたいことがあるのだと勘付いたその時、彼女が遠慮がちに切り出した。

「あなたたちに本当に感謝しているからこそ、あえて言わせてほしいことがあるの。あなたたちはまだまだ若い。いえ、人生これからという若さだわ。だから、今後は私たちのことより、あなたたちが大切に想い、あなたたちを大切に想う女性と過ごすことを優先しなさい。あなたたちはもう充分私たちに贈り物を届けてくれた。私たちにかまけて、すぐ目の前にある人生の美しい贈り物を見過ごしたり、あるいは受け取ることをためらってはいけませんよ」

 イェンスと僕がその言葉を聞いて思わず否定しかけたその時に、イリーナが力強い眼差しで僕たちを見つめた。

「そうよ、亭主のいる女性のところを訪れたって、私はあなたたちにはなびかないもの。あなたたちは確かに男前だけど、うちの旦那の男っぷりには敵わないわ」

 それを聞いた瞬間、僕の中であたたかい何かがはじけた。時同じく、はち切れんばかりの笑顔がイェンスとエトネからもあふれ出す。イリーナのしゃがれた声で、それまで秘匿されてきた彼女の亡き夫への深い愛を直接聞けたことは、僕の心によりいっそう感銘をもたらしていた。

「そうですね、僕たちはあなたにずいぶん無礼を働いたようです。どうかお許しください。しかし、あなたの幸せを心から祈っていることに変わりはありません」

 イェンスが優しい眼差しで微笑みながら言う。それを受けたイリーナの表情は、打ち解けているように思われた。

「それでも友人としてまたお会いすることは可能でしょうか?」

 僕の言葉にイリーナはゆったりとした口調で答えた。

「そうね、お友だちならね。でも、忘れないで。私は夫を愛しているのよ」

 その言葉にエトナが感激した様子でイリーナに抱きついたのだが、イリーナは優しくエトナを撫でて「これで良かったわね」とだけ言った。

 イェンスと僕はエトネの言葉もイリーナの言葉もしっかり胸に刻み込むと、改めて彼女たちにお礼を伝えた。エトネは僕たちを美しい笑顔で受け止めると、静かに口を開いた。

「あなたたちがまた訪ねてくるのは、友人として大歓迎だわ。でも、この言葉に縛られないで。あなたたちはこの先もいろんな出会いを経験し、きっと新しい世界を目指すことになるわ。だって、いろんな可能性に満ちているんですもの。あなたたちが進む先に私たちはもちろん寄り添えないけど、応援しているわね。大丈夫、未知の扉を自ら開けて進んでいく勇気と知恵を、最初から持ち合わせているもの。きっと何もかもうまくいくわ」

 彼女の言葉には深さと重みがあり、人生経験の未熟な僕では到底思い付くことのできない、聡明な含蓄に富んでいた。

「僕たちをあたたかく励ましてくださったことに感謝しております。そして僕たちを友人として受け入れてくれたことも。あなたのあたたかい言葉に相応しい人物となれるよう、いっそう努力を重ねていきたいと思います」

 イェンスの言葉にエトネは優しくうなずき、イリーナも朗らかな笑顔を見せた。その笑顔に僕たちは再び心からの感謝の言葉を伝え、彼女たちに見送られながら帰路へと就いた。

 ジャークとは少しだけ接触があった。三月上旬に、事務所から少し離れたカフェで僕たちが昼食を取ろうとした時、店の軒先でばったり彼と鉢合わせたのである。なぜこんなところに、と思えるほど彼が勤めている事務所から離れているのだが、彼は相変わらず馴れ馴れしい口調で話しかけ、昼食を一緒に取ろうとイェンスの肩に手をかけてきた。しかしながら、イェンスが冷静にその手を払い、冷淡な口調で「僕たちが嫌がっていることがまだ理解できないのですか?」と返すと、さすがに諦めがついたのかそそくさと離れていった。彼がカフェから去っていったことを確認するとあっという間に関心が薄れ、いつもどおりの軽快な会話を交えた昼食を楽しんだのだが、カフェを出る時に警戒から彼の姿を探したものの、とっくに姿かたちも見当たらなかった。そしてそれ以来彼を見かけることは無く、先日ジャンが「ジャークがB地区の支店へ異動になったらしい」と情報を仕入れてきても、イェンスも僕もあからさまに喜ぶことさえ避けたものの、あっさりと日常の雑音に流したのであった。

 そのジャンには気になる女性ができたらしかった。彼は相手の女性こそ僕に詳しく話さなかったものの、ティモに話している内容から、どうやらベアトリスに恋心を抱いているようである。先日のドーオニツ交流パーティーで彼女と知り合い、連絡先まで交換したらしい。それを知った僕は、過去の彼女とのやり取りがジャンにとって万が一でも障害になることの無いよう、意図的にその話題を遠ざけることにした。

 ベアトリス自体も見かけることが無くなっていた。税関にはもっぱらティモが用件をまとめて出向くようになっており、イェンスと僕は時折客先に伺う用事がある以外はほとんど事務所にいた。そしていつの間にか、ティモが持ち帰る噂話にジャンが仕入れた情報を話題として、四人で一緒に昼食を取ることも多くなっていた。イェンスや僕には無い視点を持つ彼らと話すことで新鮮な気付きが得られ、そうでなくとも同世代で共有する時間は単純に楽しかった。そういったことから、四人で会話を弾ませているうちに昼休みがあっという間に終わってしまうことも定番となっていった。

 もう少しで四月になろうかという三月のある日、ムラトが「人員不足解消のため、ベテランの男性と新人の若い男性を二人、四月からこの部署に配属することにした」と僕たちを集めて説明した。僕のいる部署はローネを筆頭に、元々僕と一緒に働いていたトニオ、さらにギオルギ側にいたケンとティモ、そこにイェンスと僕を含めた六名で通関業務にあたっていた。そこに二名加わるということは、飛躍的に新体制へ移行させようとするギオルギ側の思惑があるのであろう。ローネが「いよいよ大所帯になるわ」と歓迎した様子でムラトと打ち合わせを始める。その後も彼女は僕たちから意見を募っては、度々ムラトと打ち合わせし、最終調整を図っていった。

 三月の最後の営業日、新しい人員を同時に二名迎え入れるため、業者が入って事務所内で模様替えの作業にあたっていた。ローネの指示のもと、新たにデスクが二台追加されてその分周りが狭くなる。それでも僕たちは人手が増えることを諸手を挙げて歓迎していた。そして春の嵐が吹き荒れる四月最初の営業日、新入社員二名がとうとう事務所へとやって来た。

 ベテランの男性は三十代半ばでナーシャといい、長らくC地区で働いていたのだが、彼の妻の仕事上の理由でD地区へ移り住むことになり、前の職場に不満はなかったものの退職して再就職したらしかった。もう一人の若い男性はフウという名前で、底抜けに明るい笑顔が印象的であった。フウは昨年に貿易関連の専門学校を卒業したあとは地方国で半年ばかり親族の仕事を手伝っていたのだが、どうにも地方国の雰囲気に馴染めず、引き止める親族に暇を告げてドーオニツに戻ってきたのだという。フウの教育係をローネの指揮下でトニオが担当することが決まると、迎えた新体制は好調な輸入件数と相まってのっけから慌ただしくも順風満帆な出だしで始まった。

 それから数日経ったある晩、オールに誘われ、イェンスと僕は久しぶりに彼と食事することになった。オールが「俺が酔っぱらう前に」と鞄からソフィアと彼との結婚式の招待状を取り出して僕たちに手渡す。七月下旬のその日付を感慨深げに見つめていると、彼は満面の笑みを浮かべて「あっという間さ」とつぶやいた。

 その頃になれば、僕たちの状況もまた、一変しているのであろうか。脳裏にルトサオツィの笑顔がかすめる。彼によると、夏になる頃、イェンスと僕にエルフの村を訪ねる機会が巡ってくるはずなのだ。

 オールと別れてイェンスと帰り道を歩いている時、そのことについて彼と話し合った。その機会がどうやって僕たちに訪れるのかが想像だにできないため、どこか夢物語のようなその機会を可能性ととも探る。しかし、話しているうちに異種族に対する憧れと興奮とが湧き上がったため、結局はオールの結婚式とあわせて夏の訪れを淡い期待とともに待つことにした。

 オールと一緒に食事を取った次の日の昼、久しぶりにユリウスからメールが届いた。それはようやく今週の土日にまとまった時間が取れたため、前回と同じく泊まりながら訪ねて来ないかという誘いであった。その日を心待ちにしていたイェンスと僕は、すぐさま「必ず伺う」と返信した。少しして、ユリウスからシモとホレーショを僕たちのアパートまで迎えに行かせると連絡が入る。いつもの公園ではないのかと訝しがってユリウスに問い合わせると、『彼らからのたっての希望だ』とすぐに返されてきたので、イェンスと僕は顔を見合わせて彼らの心遣いに感謝しあった。

 その夜、僕たちが仕事を終えてアパートに向かって歩いている途中、シモからイェンスのスマートフォンに電話が入った。シモは「久しぶりだな」と元気そうな声を聞かせると、土曜日に僕たちを迎えに行く時間を伝えてきた。

「クラウスもおおかたすぐ隣にいるんだろう? クラウス、お前はイェンスを迎えに行く前に拾う」

 シモの朗らかな口調に、僕はイェンスのスマートフォンに向かってやや大きめの声で返した。

「ありがとう、楽しみに待っているよ」

 その時、電話の向こうでホレーショの笑い声が聞こえた。ホレーショが電話に出て「土曜日に会おう」と言ったので、イェンスの顔に僕の顔をくっつけて「僕も楽しみにしている」と付け加える。そこで電話が切れると僕たちは顔を見合わせて陽気に笑い合い、ゆったりとした足取りでお互いの部屋へと戻っていった。

 その土曜日は春風とともにあっという間にやって来た。シモが伝えてきた待ち合わせの時間よりも早く、アパートの前でのんびりと待つ。天気は晴れており、そよ風がどこまでも心地良かった。春の訪れを受けたドーオニツではところどころで花が咲き始めており、重く着飾っていた人々の装いも軽やかになったことも加わって、街全体に弾んだ活気がみなぎっていた。

 約束の時間になった頃、シモとホレーショがいつもどおりの黒い車でやって来た。彼らはわざわざ車から降りると僕を手荒く抱擁し、凄みを利かせて「元気だったか?」と尋ねてきた。その様子が面白くて僕が笑顔で答えると彼らは優しい笑顔を一瞬見せたのだが、すぐに軽口をたたいて僕をからかった。

 車に乗り込み、イェンスを迎えに行く。彼もまたアパート前ですでに待ち構えており、僕たちを見つけるなり笑顔を見せた。そして僕と同じようにシモとホレーショから手荒く抱擁を受け、軽口の歓迎を受ける。車内へと乗り込んできたイェンスと顔を合わせると、彼はすぐに僕に寄りかかり、「昨日の夜は楽しみで眠れないかと思ったよ」と弾んだ声で言った。

「その様子だとぐっすり眠れたようだけど?」

 僕はわざと意地悪く尋ねたのだが、イェンスは屈託のない笑顔で答えた。

「実を言うと、充分な睡眠が取れるようになるべく早く休んだんだ」

 その様子を見ていたシモが「お前たちは相変わらずだな」と笑った。その隣でホレーショが「全くだ」とわざと呆れた風に付け加え、軽やかに車を走らせ始める。

 例の公園を通り過ぎる頃には、お互いの簡単な近況報告が終了していた。その間にも僕たちは彼らから異種族に関する質問を受けるのではないかと考えていたのだが、一向にその気配は見えなかった。前回、僕たちが彼らに異種族と関わりがあることを打ち明けてから、その後の経過や心境をずっと気にかけていた。そこで、あえてその話題をもちかけ、彼らがユリウスにも全て話したのかを尋ねることにした。

 なるべく親しみを込めた口調でイェンスが彼らに話しかける。すると、僕たちがただ知りたいだけであることを理解したシモが、落ち着いた口調で答えた。

「あの後、ユリウス将軍に全てをお話したら、あの方は何もかもご存知でいらっしゃった。それを踏まえたうえで、これからも公私ともどもよろしく頼む、とおっしゃって下さったのだ」

 僕はユリウスらしい対応に安堵して、自然と笑顔になった。その様子を見ていたシモがやわらかい表情で続けた。

「この話をすることによって、お前たちが異種族のことで俺たちが変に勘ぐっていると思われるのが不安で、なかなか話を切り出せずにいた。尋ねてくれたことに感謝する」

 ホレーショも追従するかのように感謝の言葉を添える。イェンスと僕はやんわりと首を横に振って「気にしないで」と返し、そこにイェンスがさらに言葉をつけ足した。

「君たちから僕たちの特徴のことで質問を受けたとしても、僕たちは気にしないできちんと答える。こちらこそ、話してくれてありがとう」

 それを聞いたシモの瞳に優しい光が灯った。ホレーショもまた、わずかに見える後頭部にあたたかさを醸し出す。その後も彼らと過ごす時間は彩りにあふれ、アウリンコに入る頃にはシモの子供の頃の話やホレーショの思いがけない体験談で車内が盛り上がり、僕たちは軽快に笑い合っていた。

 いつの間にか見慣れてしまった街並みに目をやる。僕は前回のことを思い返しているうちに、今回の滞在に関する具体的な内容を、ユリウスからも彼らからも説明が未だ無いことに気が付いた。そのことを頃合いを見計らって興味津々に尋ねると、ホレーショが冷やかし気味に答えた。

「お前ら、どんな予定であれ、どのみち今日明日と全力で楽しむんだろ? 身軽なところを見ると、またユリウス将軍から衣装の貸し出しがあるみたいだし、細かいことは気にするな」

「けど、何があるのかわかると楽しみが増すじゃないか」

 僕が明るい口調で反論すると、シモが振り返って言った。

「実を言うと、俺たちも詳しくは知らされていないのだ。将軍は明日の昼以降に予定が入っており、それを踏まえて俺たちに今日の夜と明日の昼以降は空けておいてほしいとお願いされている。理由をご説明されなかったため、きっと何かお考えがあるのだろうと考え、俺たちのほうからはそれ以上確認していない。まあ、明日の午後は確実にお前たちを送り届ける任務があるんだがな」

 それを聞くなり、僕は期待と興奮とで体全体が弾むようであった。態度にこそ大袈裟に表さなかったものの、逸る気持ちでイェンスの顔を見る。すると彼はその瞳を輝かせており、彼もまた期待に胸を弾ませていることが一目でわかった。

「それなら、想像すらしないで一つ一つ体験していこう。何であれ楽しいことに変わりないから、とことん味わうさ」

 イェンスがそう言うと明るい笑顔を見せたので、僕はうなずいて返すと彼にだらりと寄りかかった。その様子をバックミラー越しで見ていたホレーショが、真面目な口調で切り出した。

「お前ら、職場や公共の場所では、絶対そういう態度を見せなさそうだな。職場の連中はお前たちがそこまで仲がいいってこと、知らないんだろう?」

 僕がホレーショの鋭い観察眼に驚いてイェンスを見ると彼は微笑んでおり、そのままの表情でホレーショの質問に答えた。

「そのとおりだ。僕たちは特に職場では節度ある態度を保っているからね。僕たちの仲がいいことは事務所の人たちも知っているけど、こんな風にお互い寄りかかって心を預けているとまでは思ってもいないだろうな」

「だろうな。お前たちは頭がいいからこっちは安心して見ていられるが、一応念の為忠告しておく。イケメン同士で親密に寄り添うと目立つから、気をつけろよ」

 話しながらホレーショが車をユリウス邸のゲート前に付けた。

「イケメン同士、って僕がまさか」

 僕は苦笑いを浮かべて咄嗟に否定したのだが、シモが落ち着いた表情で「心当たりはあるだろう?」と言葉を返したので、一瞬で心がざわめき立つ。シモは僕の返答を待つことはせず、前を向いて身分照合を受け始めた。

 僕は落ち着かない心を視線に乗せてゲートの警備担当者に視線を向けた。すると、前回会話をした、あの若い男性であることに気が付いた。スモークガラス越しに目が合うなり彼に目礼すると、彼も目礼を返す。身分照合の確認を受けて車が敷地内へと進入した時、ホレーショが思い出したように付け加えて言った。

「クラウス、お前は謙遜しているのかもしれないが、その自覚は持っておいたほうがいい。あらぬ災難から身を守れるからな」

 僕は視線に慣れてきていたからか、久しくその『設定』を忘れていた。いや、やはりイェンスを目の前にしていると、彼がまぶしいほどまでに美しいものだから、その反射のおこぼれに与っているにすぎないと心のどこかで思っていたのである。

 かつてイェンスが告白してくれた彼の過去を思い返す。彼は勇気と優しさをもって、彼が経験したことを赤裸々に語ってくれた。それらを軽々しく扱うつもりは毛頭なかった。

 僕は改めて気を引き締め直すと、心から彼らに「ありがとう」と気持ちを伝えた。しかし、シモがおどけた表情で「お前たちと一緒にいる時に俺たちは警護の仕事をしないからな」と言葉を返したので、結局はそのあまりのおかしさについ吹き出してしまった。

 玄関前に到着する。ユリウスはすぐさまドアを開け、僕たちに優しい笑顔を見せた。車から降りて彼と抱擁しながら挨拶を交わしていると、その様子を見守っていたシモとホレーショにユリウスが歩み寄った。

「せっかくだから一緒に昼食を取っていかないか」

 その思いがけない展開に僕は高揚し、彼らの反応をイェンスとともにそっと伺った。すると彼らは瞳を輝かせながら恭しく承諾し、感謝の言葉を丁寧な態度とともにユリウスに返した。ユリウスは彼らをあたたかい眼差しで受け止めると「ありがとう、さあ中に入ってほしい」と声をかけ、続けて僕たちに目配せして中に入るよう促した。

 彼らの後についてリビングルームに入る。すると、ユリウスがイェンスと僕に向かって朗らかに言った。

「実を言えば、クラウス、イェンス。君たちと一緒に昼食を作ろうと考えていたのだ。来て早々申し訳ないのだが、手伝ってくれないだろうか?」

 ユリウスの申し出を僕たちは喜んで受けた。しかし、シモとホレーショは明らかに戸惑っていた。そのことに気が付いたイェンスが、彼らに微笑みながら声をかけた。

「僕たちが調理の手伝いをすることは気にしないで」

「そのとおりだ、君たちは特別なゲストだからな。自宅だと思って楽にしてくれ。ネクタイも緩めて構わないんだ。昼食を取って少し休んだら、ようやく君たちを開放しよう。だが、夕方六時にはまたここに来てほしい」

 ユリウスの自然な笑顔に彼らはほほを紅潮させ、控えめに感謝の言葉と喜びを表した。そこでユリウスは彼らにリビングルームで好きなようにくつろぐよう勧めると、早速イェンスと僕に指示を出していった。

「これの皮を剥いてほしい。それが終わったら、茹でたジャガイモをつぶしてくれるかな?」

 僕は彼の指示どおりに動いているのだが、決して器用とはいえないため、動作は緩慢であった。しかし、僕の隣ではイェンスが対照的に鮮やかな包丁さばきを見せていた。

 この強烈な対比も、以前の僕なら劣等感をもって受け止めていたのであろう。だが、僕の心は案外と穏やかであった。僕は僕ができる範囲で丁寧にやるしかないのだ。

 その時、リビングルームでくつろいでいたはずのシモとホレーショが、「お邪魔で無ければ、作業を見ていても構いませんか」と、ユリウスの承諾を得に話しかけてきた。

「もちろん、構わない。自由にしていいんだ」

 ユリウスはそう言うと彼らに優しい笑顔を向けた。そこで彼らはイスに並んで座り、感心した様子でイェンスと僕を交互に眺め始めた。

「イェンス、お前は本当に器用なんだな。顔も頭も良くて、性格もいい。体格にも恵まれたうえに料理の才能があるとか、いったいどうなっているんだ」

 シモが驚いた様子で声をかけたのに対し、イェンスがにやりとした表情で答えたのが見えた。

「褒めてくれてありがとう。でも、全てエルフの特徴のおかげなんだ。人間としては多少目立つかもしれないけど、傑出しているというほどでもない。そのうえ、エルフからしたらほぼ人間でしかないという、中途半端な特徴だけどね」

 それを聞いた途端、シモとホレーショの表情が曇った。

「その……すまない。どうやら俺は失言をしたようだ」

 シモが謝罪の言葉をすまなそうに伝えたのだが、先にユリウスが優しい口調で彼らに言った。

「気にするな。おそらく彼はそういった意図で言ってはいないはずだ。それにこのメンバーなら、私たちは包み隠さず本当の自分でいられる。それは君たちだってそうだろう?」

「そのとおりさ。シモ、ホレーショ。君たちは僕たちのことを知っている。遅かれ早かれ、僕たちの能力に否応なしに付き合わされることになるんだ」

 イェンスもまた、屈託のない笑顔を彼らに向けていた。

「ありがとう、どれほど光栄なことなのだろう!」

 シモのその言葉が、僕たちの特徴を肯定的に捉えていることの表れであることを理解し、再び心があたたかくなっていく。僕は口の端にその余韻を残しながら、引き続き作業にあたった。

 三人で手分けして調理していると、凝った料理も手早く完成していくようである。僕はさほど複雑な工程にあたっていなかったのだが、ユリウスがひと手間かけていることは理解できていた。それでも何の料理なのか皆目見当が付かなかったため、気楽な気持ちでユリウスに尋ねる。すると、彼はやわらかい口調で、「エルフの村で以前ご馳走になった料理だよ」とだけ答えた。

 ユリウスの言葉に皆一様に驚きながらも、テーブルの上に食器などを並べ、料理を盛り付けて並べていく。食欲そそる料理が目の前に広がる様はさながら小さな美術展のようで、僕はまたしても貪欲な胃袋の忠実なしもべとなった。

 ユリウスが一人テーブルの短辺に座り、長辺にシモとホレーショ、僕たちがその反対側に座る。主賓者であるユリウスが音頭を取って食事の合図を送るであろうと見守っていると、彼はシモとホレーショのほうを向き、優しい表情で話しかけ始めた。

「シモ。ホレーショ。いつも私のわがままに付き合ってくれてありがとう。君たちには本当に感謝している。いまや君たちの力添えが無ければ、私はこうやってくつろぐこともままならない。君たちはいわゆる普通の人間だが、非常に美しい人間だ。その君たちに私たちの秘密のせいで、長く苦しい思いをさせてきたことを許してほしい。実を言うと、君たちが私たちの秘密を知ったことで、これから先ますます苦しい思いをするかもしれないことを懸念しているのだ。だからあえて今、彼らがいるこの場で伝えておこう。君たちは自由だ。私たちの秘密を知ったとしても、私たちのほうから君たちを制限させ、押さえつけるものは何一つない」

 僕は彼の言葉に内心動揺を覚えたのだが、平静さを装ってシモとホレーショの様子を伺った。彼らはユリウスの言葉に感激したのか、うっすらと涙ぐんでおり、その表情は強い決意に満ちているように思われた。

「まさか……! 他の者に言えるはずがありません。この昼食はあなた様の全くのご好意であることは充分承知いたしております。しかし、このようなご好意を受けずとも、私たちは決して他言するつもりは毛頭ございませんでした。他の人間があなた様や彼らの特殊さに気付けば、おそらくあなた様も彼らも平穏無事に過ごすことは難しくなるでしょう。仮に世間一般にその秘密が知れ渡ってしまえば、常に好奇や嫉妬の眼差しを向けられ、そればかりか不要な詮索を受けてますます苦しまれるかもしれません。その懸念が拭えないというのに、いったいどうして私たちが他言することができるでしょうか?」

 シモの切々とした言葉を聞いても、ユリウスの表情は穏やかであった。

「しかし、ずっと君たちだけで秘密を抱えるとなると、君たちがあらぬ苦しみや疲労で擦り切れてしまう可能性もある。君たちにはずっと健やかに、胸を張っていてもらいたいのだ。私たちが特殊であることを隠し続けるためには、時には君たちに嘘をつかせ、矛盾した行動を強いることにもなるだろう。それが長く続けば、君たちが疲弊してしまう。だから君たちにまず、重荷を卸して欲しいとお願いしているのだ。確かに私たちが異種族の能力を部分的に持っていることを『秘密』だと言ってはいるが、その情報をどう扱うかは君たちに委ねる。扱いきれなくなったら、他人に打ち明けてもかまわない。その時はその時だ。私がこの件で威圧的かつ脅迫気味に君たちと接しようとは考えていないことを、どうしても彼らのいる前で伝えたかったのだ。私の話を聞いてくれてありがとう。さあ、お腹が空いているだろうから、早速食べようじゃないか」

 しかし、シモとホレーショはうなだれたままであった。彼らの肩が小刻みに震え始めると、ユリウスは席を立って彼らの間に進み、両手を彼らの肩に優しく置いて語りかけた。

「つらい思いをさせてすまなかった。君たちもまた、何一つ気にしなくていいのだ」

 僕は料理が冷めることも厭わず、その光景を温かい気持ちのままで見つめていた。やがて彼らの肩に置かれているユリウスの手に、彼らが手を重ねる。ふとイェンスを見ると、彼は僕の視線に気付いて微笑んだので、僕も彼に微笑んで返した。

 ユリウスが僕たちに目配せする。どうやら食事を取ってかまわない、という意味らしい。僕たちはうなだれているシモとホレーショを尻目に食事を取ることにためらいもあったのだが、目の前でまだ微かに湯気を立てている美味しそうな料理の誘惑にとうとう負けてしまい、ゆっくりと料理を口に運んだ。

「美味しい!」

 率直な感想が思わず口から飛び出す。そこにイェンスが続けた。

 「本当に美味しいな、こんな美味しい料理がエルフの村にはあるんだね?」

 ユリウスが微笑みながらうなずいて返す。そうなると、僕たちの胃袋に献上品を捧げる作業は控えめでありながらも止まらなくなった。

 僕の無遠慮な食事は、シモとホレーショにどうやら受け入れられているようであった。シモはやおら顔を上げると、ユリウスに小声で「感謝の言葉をどうお伝えしたらいいのか」と伝えた。そのシモの瞳にはあの美しい光があった。それを聞いてホレーショも顔を上げたのだが、やはり瞳に美しい光を煌めかせており、「感謝の言葉以外見つかりません」とユリウスに伝えたのが聞こえた。ユリウスは二人を交互に優しく見つめると「ありがとう、だが感謝されるほどのことではないのだ。だから気にするな」と返し、ゆっくりと席に戻った。

 「さあ、私たちも食べよう。クラウス、君は実に幸せそうな顔で食べるのだな。イェンス、君もいい顔をしている。食欲がますますそそられる」

 ユリウスの言葉で、ようやくシモとホレーショも食べ始めた。料理を口に運んですぐ、彼らの表情が明るく華やぐ。めいめいに感嘆した様子で「これは美味しい!」と目を丸くさせると、彼らもまた料理の虜となったようであった。

 「君は本当に料理の天才なんだね、驚いた。超高級レストランだってこんな美味しい料理を提供できやしないんじゃないか」

 僕がユリウスに率直な感想を伝えると、彼ははにかんだ様子で答えた。

「褒めすぎだと思うが嬉しいね。どうもありがとう」

 それを聞いていたホレーショが怪訝そうに尋ねてきた。

「お前、超高級レストランに行き慣れているのか?」

「まさか、この間のアウリンコのレストランぐらいだ」

 僕が澄ました表情で返したからか、イェンスとユリウスが笑い出す。それにつられたのか、シモも笑顔を見せた。

 「全く、お前は。超高級レストランだって、こんなうまい食事にありつけるかどうか」

 ホレーショはやや呆れた口調で言ったのだが、目元は優しいままであった。

 食事が終わるとユリウスはイェンスと僕にシモとホレーショを連れてリビングルームでくつろぐよう伝え、一人でお茶の準備を始めた。彼の好意に甘えてソファにゆったりと座り、すっかり春めいた外の景色を眺めながら雑談を交わす。そこにユリウスがお茶を淹れてやってきた。

 五人で穏やかな時間を重ねていく。陽光のぬくもりが窓を隔ててもなお、ささやかな喜びとともに届けられる。やわらかな雰囲気が僕たちを充分に満たした頃、シモとホレーショがユリウスに「夕方またこちらに伺います」と伝え、いったん彼らの自宅へと戻っていった。

 そのシモとホレーショの表情はさわやかでありながら、眼差しには今まで以上に力強さが現れていた。そこに彼らの清らかさを感じ取っていた僕は、彼らが僕たちの秘密を口外しないであろうことをぼんやりと考えていた。その後ユリウスとイェンスと談笑し、体を休めてからトリッキングで能力や体の切れを確認したのだが、シモとホレーショがどう感じたかについてあえて彼らと話すことはしなかった。

 一通り体を動かしてから、ユリウスが前回と同じように部屋を案内した。

「クローゼットの中を見てごらん」

 彼の言葉の意図を探ることなくクローゼットを開ける。するとそこにはフォーマル・スーツが一式揃えられていたので、僕は驚いた表情のままユリウスのほうを勢いよく振り返った。

「他人の視線を気にせず夕食を楽しむとなると、どうしても場所が限られるのだ」

 少しおどけた表情を見せたユリウスに、イェンスと僕とで抱き付いて感謝の言葉を贈る。彼が今晩何を計画しているのかは皆目見当がつかないのだが、数時間後に訪れる未来にまたしても心を踊らせた。

 シャワーを浴び、それまで着ていた衣類を前回と同じように指定された場所に置いて髪を乾かす。それからフォーマル・スーツに着替えたのだが、僕はあまりにも高級感あふれる仕立てにすっかり感動してしまい、着替えが済むやいなやイェンスの元へと向かった。

 部屋に入るなり僕は慌てふためいた。僕が彼より先にシャワーを浴びて着替えたことから、シャワーを浴びたばかりの彼はほぼ全裸であった。

「ご、ごめん!出直す」

「気にしていないよ」

 朗らかなイェンスの声に呼び止められ、もう一度彼をこっそりと盗み見る。すると、彼がいかに恵まれた体格をしているのかを改めて思い知ることとなった。そのしなやかで美しい彼の上半身を見て感心していると、彼は着替えながらも「君が何を考えているか、少し想像がついた。けど、君だって似たようなものさ」と話しかけてきた。

 「そうだろうか? 君はこの間、美術館で見た彫刻のようだった」

「ホレーショが言っただろう? 自覚を持て、とね。僕は以前から言っているけど、君は美しいよ」

 イェンスはそう言うと優しい眼差しで僕を見た。すると不意に彼がエルフの特徴を表していることを思い出し、かつてルトサオツィを見て緊張したように、見慣れたはずの彼の顔を間近で捉えたことで思いがけず緊張を覚える。イェンスはそのことにも気が付いたのか、僕のほほにキスをすると再び着替えを続けた。

 僕はその様子を見ながら、彼がますますエルフに近付いているからこそ、緊張を覚えたのではないかと考えたりもした。仮にそうなのであれば、その反対の、イェンスが僕に緊張を覚えることもあるのかもしれない。そして見慣れたはずの彼に僕が緊張を覚えるのであれば、僕以外の人間にとって、彼は抗えないほどの魅力を持っていることにならないか。

 僕は自己への評価とは裏腹に他者の僕自身に対する評価が高く、僕の知らぬところで勝手に一人歩きをしていた話を、以前オールから聞いた話と過去の経験から感じ取ってはいた。しかし、改めてそのことに考えが及ぶと、光栄に思う気持ちより恐怖のような感情のほうが強く勝っていることに気が付いた。着替えを済ませて声をかけてきたイェンスにそのことを伝えると、彼は落ち着いた表情で答えた。

「僕は自分の外見が過大評価されていると思っているし、高く評価されても反応に困るだけだから、気にしないようにしている。言い寄ってくる人を利用したところで、僕が利益を得られることは無く、だいたいは相手を傷付けるということぐらいしか学べなかったしね。僕を批判的に見ている人たちもそれなりにいるけど、他人の評価に耳を傾けたところで、今の自分を彼らの言葉どおりに変えるつもりもない。傲慢だけど、普通の人間のうわべだけの反応に、僕はとっくの昔に興味を失くしたんだ。赤の他人が僕を知っている……確かに以前、オールと似たような話をしたね。それについても気にしないようにしている。けど、そのことに関して言えば、ユリウスが一番参考になるはずだ。彼は世界中にその名を轟かせているのだからね」

 淡々と話した彼の様子とは裏腹に、僕は彼の言葉に内心衝撃を受けていた。それはまたしても僕が気付けずにいた、僕の本当の気持ちを彼が的確に言い表したからであった。

 しからば、ユリウスならどのように捉えているのであろう。早速そのことをユリウスに確認すべくリビングルームへと向かうと、やはり着替えを済ませた彼が誰かと電話している様子が飛び込んできた。電話の邪魔にならないよう部屋の入り口で待機しているうちに、彼の口調が丁寧な言葉遣いとは裏腹に、素っ気なさが目立つことに気が付く。その様子から、電話の相手が僕たちの全く知らない人であることは見当ついたのだが、どこか困惑しているユリウスの表情が気になって仕方なかった。

 少しして、電話を終えたユリウスが苦笑いを交えて僕たちに話しかけてきた。

 「誰とは言えないのだが、地方国の有名な家柄の女性が私の仕事用のスマートフォンに電話をよこしてきたのだよ。以前、とあるパーティーで連絡先を聞かれてね。それまでも何度かはぐらかして避けてきたのだけど、独身である私のことを案じていた知人が、『名家の出で若く美しい女性の誘いを無下にするとは、いかがなものか』と私の仕事用の連絡先を彼女に伝えてしまったのだ。それ以来、時折その女性が私に連絡をよこすようになったのだが、彼女と私とでは見ている世界が異なりすぎて、正直に言うと会話をするのが苦痛でね。そのうえ、彼女の目的が私では無く、ユリウス将軍と親しい自分であることを世間にアピールするためであることに気が付くと、ますます対応に苦慮せざるを得なくなった。仕事用の電話番号を変えるのも考えねばなるまいが、そうなるとほとんどの人に連絡先が変わったことを伝えなくてはならなくなる。自らが蒔いた種とはいえ、さてどうしたものか。……ああ、君たちなら心配ない。君たちに教えたのは本当に個人的な連絡先だ。ルトサオツィにしか、それまで教えたことはなかったのだ。今となってはシモとホレーショも知っているが、この連絡先は大統領にさえも知らせていない」

 「そうだったんだ。でも、確かに将軍ともなれば、下心を持って近付く人も多そうだね」

 イェンスと僕がユリウスから最初から特別扱いされていたことに感謝と喜びを感じながらも、先ほどまでイェンスと話していたことにまさに関連した出来事を目の当たりにし、僕の中で戸惑いが燻り出した。

 「仕方あるまい。父から与えられた特徴を活かして社会的に高い地位に就けば、兄がそうであったように、それなりに目立つのは覚悟していた。私が割り切って上手に対応するだけの話だ」

 ユリウスはそう言うと落ち着いた表情でソファに座った。合わせて僕たちもソファに座ると、イェンスが彼に興味深げに尋ね始めた。

 「ちょうど、クラウスと似たような事例の話をしていたんだ。僕たちの知らない人が僕たちを知っていて、ありがたいことに高評価してくれることもある。それで済めばいいのだけど、中には僕たちの意向なんかお構いなしに、一方的に接触を試みる人たちもいるのは事実なんだ。彼らを気にせず、やんわりと避けるのが一番いいんだろうけど、君は僕たちよりはるかにそういったことに遭遇している。そういう時、君はどういう風に対応しているんだろうか?」

 「いい質問だ。イェンス、君はその特徴ある髪色と瞳の色から、ずっと私と似たような経験をしてきただろう。君の言うとおり、気にしないこと、気にかけないこと、意図的に距離を保つことが一番だ。私に関する様々な信憑性の無い噂も立つが、腹を立てていてもキリがない。気分が落ち着かないと感じた時は、なるべく一人になって空を眺めるなどして心を落ち着かせている。普段から私を好奇や奇異の眼差しで見る人たちとは可能な限り距離を置いているし、街を一人で歩く時はむしろ堂々と歩くようにしている。案外気付かれないこともあるからね。この瞳の色を隠すために濃い色のサングラスをかければよいのだろうが、そうすると人々の瞳に宿る微妙な変化を捉えにくくなる。イェンス、瞳を隠さないことにはそういった利点もあるのだ。クラウス、君も多少目立っていたはずなのだが、君は他人が君に興味を持つはずがないと思いこんでいたから、他人の視線に気付けなかった。それで君はそういった意味での不快な経験がぐっと少なかったのだろう。変化を起こした今は以前のとおりというわけにはいかないが、君はおっとりした性格の中にも芯の強さがあるから、君らしい対応で乗り切っていくのだと思っている」

 ユリウスの言葉を僕は真剣に受け止めていた。僕も他人事ではないのだ。その時、ユリウスが意味ありげな視線を僕たちに向け、さらに言葉を続けた。

 「実はそういう時も、ドラゴンの能力が役に立つ。完全な人間として振る舞う時は、あまりに高い洞察力と記憶力は孤独と窮屈さを感じさせるため、必要な時以外は鍵を掛けて封印しているイメージを自己に課している。だが、その能力を開放して五感を研ぎ澄ませると、これから起こり得ることがある程度予想でき、鋭い勘も働くようになるのだ。すると、不要な揉め事や面倒な人たちとの関わりを未然に防ぐことができたり、画期的な解決策が閃くこともある。そのことを最大限利用するためには、常に自分が影響を与えたい環境に居続けねばならないのだが、ひとたびその環境で自分が優位的な立場になると、最終的にはその場を支配できるようになり、しばらくはその環境が維持される。そして適正な維持のためにまた能力を使用すると、軌道修正しながらもほぼ永続的に意図した環境が続くことも可能なのだ。このやり方はルトサオツィの話した、異種族が陰でこの人間社会の基盤を維持している話を参考にしている。つまり、相手に不快な思いをさせることなく、それでいて自分の発言力を高めることに重要性を感じているのだが……」

 「だから大元帥や大臣の地位に就いているんだ!」

 僕はつい大きな声を上げてしまったのだが、ユリウスは微笑みながらうなずいて返した。

 「そのとおりだ。君たちは意外に思うかもしれないが、今の地位のほうがはるかに私にとって楽なのだ。能力をひけらかして相手を直接的に支配しようとは思わないが、それなりに職権を濫用して異種族との間に産まれたという情報を隠匿することができる。それだけではない。人間として社会に貢献できる機会も増えた。もちろん、そのためには自己を厳しく律し、一番弱い立場にある人の目線に積極的に合わせないとならないがね。それに場を支配することがほぼ永続的に続くとは言ったものの、同じ者が同じ地位を長い間独占していることは、社会にもその本人にも不利益を被る。詳しいことはわかっていないが、異種族も三百年以上も長きにわたって人間社会を直接管理することはしてこなかった。ある程度の基盤を整えたら、それ以上は関与しないようにしてきたらしいのだ。だから私も今の地位は定年までと考えており、定年後は自分が育ててきた人材を信じることにし、あれこれ口を出すつもりは毛頭ない」

 ユリウスの言葉に感嘆して彼を見つめ返す。それは彼の仕事哲学に共感したのみならず、その源流となった異種族の考え方が非常に興味深かったからであった。異種族にしてみれば、人知れず人間社会の安定に寄与しながらも、人間同士がやがていざこざや争いを乗り越えて連帯すると信じているのであろう。それを適切な距離感で彼らの生活と同様、人間の生活様式を崩すことなく見守ってきたのであれば、やはり異種族の存在はこの世界にとって非常に何よりも重大な意義があるように思われた。

「いずれにせよ、能力を駆使して外殻政府で働くことに利点もそれなりにあるということは、君たちにとっても参考になるだろう。むろん、政府関係に勤めることを勧めているわけではない。君たちには君たちの事情とやり方がある。イェンス、特に君が政府関連の場で働くとなると、窮屈さと孤独感を否応なしに味わうことになるだろう。私がアウリンコで自分の意志を優先して働くことが可能なのも、ひとえに地方国出身で、身内からのしがらみが無いからだ」

 ユリウスはイェンスを見ながら言った。

「ありがとう、ユリウス。なるほど参考になったよ。先に場を支配してしまえば、確かに僕の思惑どおりに物事が運ぶ可能性が高まる。一歩間違えれば独裁的になるけど、そこは洞察力と五感を上手に駆使して相手側の不満に気付き、そこから面倒な事態を避けるように努力するだけだし、目立ちたくないという本音が根底にあるから、そもそも陰でうまく立ち回ることは可能のはずなんだ。そうなれば相手を不快に思うことも少なくなるし、そもそも相手に嫌な役をさせずに済む。それに、異種族がはるかな見地から人間社会の数世代先まで動きを読み、その関わり方を調整していることも理解できた。やはり異種族の性質は僕に合っているのだな。ああ、本当にいい話が聞けた。改めてありがとう」

 イェンスは立ち上がるとユリウスに抱き付き、彼のほほにキスを贈った。

 「イェンス。君がそういう行為を見せてくれる意味がわかるから、実に光栄な気分だ」

 ユリウスはそう言うと、彼を抱えながら微笑んでいるイェンスの顔を優しく撫で、さらに続けた。

 「以前、ルトサオツィが話していたことが、今なら実感できる。異種族は特に親しい間柄に対し、肌と肌とが直接触れるやり方で親愛の気持ちを積極的に示すのだ。私もエルフの村で老若男女に関係なくあちこちで見かけたし、その挨拶も実際に何度か受けた。ルトサオツィは人間社会だと場合によっては不適切な関係だと誤解を招きかねないため、意図的に避けていると言っていたがね」

 ユリウスは穏やかな表情のまま、間近で顔を近付けているイェンスのほほに彼のほほをくっつけた。

 「そうじゃないかと思っていたんだ。だって変化が訪れてから、僕は妙に親しい人に抱擁やキスを贈りたいと思ったり、相手からその贈り物を得たいと願うようになったんだもの」

 イェンスはそう言うと僕を見つめた。その視線があまりにも美しかったので、またしても緊張を覚える。彼は微笑みながら僕のところにやってきたかと思うと僕のほほにキスをし、僕に寄りかかりながらユリウスを見て言った。

 「クラウスが近頃、妙なんだ。見慣れたはずの僕の顔を、緊張した面持ちで見つめてくる」

 「それは納得する。イェンス、君は近頃ますますエルフの魅力をあふれさせている。君を見ていると、ルトサオツィやかつて会ったエルフたちを彷彿とさせるからね。おそらく君の変化が確固たるもので、以前と比べてよりエルフに近付いているからなのだろう。それが間近で見ているクラウスにとっても顕著だったから、新鮮さを覚えたのではないのか?」

 ユリウスの言葉に僕は心から同意していた。イェンスの近頃の美しさに僕が対応しきれていなかったのは、イェンスの変化が目まぐるしいほど加速していたからに違いなかった。

 「ユリウスの言うとおりだ。イェンス、君の変化が目まぐるしいんだよ」

 僕がそう言うとイェンスは笑いだした。

 「クラウス、なら君も同じさ。僕は君が急に美しくなったものだから、心を奪われたり、驚くことが以前より多くなったんだよ。君こそ、自分の変化に気付いていなかったんだね」

 イェンスの言葉に新鮮な驚きを感じて彼を見つめ返す。その緑色の瞳は優しい光を僕に向けていた。

 「クラウス、君が自分自身に鈍感なのは君らしくもあり、普通の人間として育ってきたことを考えれば当然なのかもしれない。イェンス、君がそばについていれば、クラウスも客観的な自己像を把握することが早まるだろう」

 そう言うとユリウスは時計に目をやった。

 「そろそろ時間だな」

 僕は彼らの言葉に照れつつも同じように時刻を確認した。しかし、約束の時間には少し早いようであった。そのことに訝しんでいると車がやって来る音が聞こえ、ほどなくユリウスの仕事用のスマートフォンが鳴り響いた。

 「ああ、到着したようだね。ありがとう。すまないが少し待っていてほしい」

 電話はそこで終わったようなのだが、相手は明らかにシモやホレーショでは無かった。

 そこで不思議そうにイェンスと顔を見合わせると、ユリウスが笑って「もう少しでわかるさ」とだけ言った。

 それから五分ほど時間が過ぎると、さらにもう一台、別の車が着いた音が聞こえてきた。咄嗟に今度こそ彼らだと感じた同時に、ユリウスの個人用のスマートフォンが鳴った。

 「着いたか。では、向かおうとしよう」

 相手は案の定、シモであった。僕は今晩起こる出来事に緊張と期待とで胸を膨らませながら、ユリウスの後について玄関へと向かった。

 玄関を出た瞬間、飛び込んできた光景に驚いて動きが止まる。そこには映画に出てくるような、大きく長い高級車が一台横付けされていた。そしてその車からやや離れた場所に、ホレーショが運転するいつもの黒い大型のオフロード車が停まっており、同じくフォーマルな装いをしたシモとホレーショが困惑した表情で僕たちを出迎えた。

 「シモ、ホレーショ。よく来てくれたね。君たちが今宵、またしても時間を割いて私に付き合ってくれることに感謝している。さあ、あの車に乗ろう」

 ユリウスが戸惑っているシモとホレーショの肩に手を回す。彼らの緊張した表情はもっともなことであろう。僕もまた、異世界に飛び込むことにすっかり恐れをなしていた。

 高級車の脇に、運転手とは別に落ち着いた雰囲気の男性が恭しく立ったかと思うと、車のドアを開けて僕たちを待った。そこにユリウスが慣れた様子で先に乗り込み、続いてシモとホレーショとが乗り込んでいく。僕たちも続いて乗り込むと、再び映画や写真でしか見たことの無い豪華な内装が僕たちを出迎えた。

 まるでソファのような皮張りの座席におそるおそる腰を落ち着ける。そのあまりの座り心地の良さに感嘆していると、隣に座ったイェンスが「さすが、ユリウスは粋だな」と興奮した口調で僕にささやいたので大きくうなずいて返した。

 男性が車のドアを閉めて少しすると、ユリウスの近くにある車内に取り付けられた電話が鳴った。

「では、指示した場所に頼む」

 ユリウスが颯爽と答えた。どうやら電話の相手は先ほどの落ち着いた雰囲気を持つ男性のようであった。車内の前方には壁があり、一部がカーテンで覆われている。おそらくそこから運転室の様子が伺えるのであろうが、電話が備え付けられているところをみると、ガラスで覆われるなどしてお互いの声が通らないようになっているらしかった。しかし、庶民を代表する僕にとっては裕福な世界に対するあまたの疑問の一つにしか過ぎず、その一つ一つの疑問もまた、丁寧に答えを探究する気など毛頭なかった。こういった経験は滅多にあるものではないのだ。今はただ与えられる世界を心から楽しむことにしよう。

 車が発進すると、ユリウスが今晩の予定について話し始めた。

 「改めて、私に貴重な時間を捧げてくれた皆に感謝する。服装の指定があった時点で、どのような場所で夕食をともにするか勘付いただろうね。周囲に気兼ねすることなく、食事や会話を楽しめるとなると非常に場所が限られる。庶民的なバーで酒を飲んだり、バーガーを一緒に頬張りながら夕食を取ることも魅力的な選択肢だったのだが、手堅くリスクを減らす方を選んだのだ。これから行く場所は、そういった意味では安心だし、君たちもゆっくり楽しめるだろう。黒ずくめの男性ばかりで華やかさには欠けるかもしれないが、幸いここにそれを気にかける者はいないし、受け入れ先でも君たちが誰であるかを尋ねる者はいないはずだ」

 「しかし、彼らならともかく、私たちまで……」

 シモが困惑した表情のままユリウスに話しかけたのだが、ユリウスは微笑みを絶やすことなく答えた。

 「細かいことは気にするな。しかし、問題があってな」

 ユリウスの言葉の先が気になり、思わず身を乗り出して彼の顔を見つめる。シモとホレーショも無言のままユリウスを見つめていた。

 「……華やかな場所が苦手で、あまりそういった場所に行かないようにしてきたのだ。だから、そのことで却って目立つかもしれない」

 ユリウスはそう言うとおどけてみせた。

 「それなら、僕たちが一緒にいることで余計に目立ってしまうのでは?」

 僕が不安げに尋ねたものの、彼は落ち着きを払っていた。

 「今回も君たちを私の警護を担当している者と伝えてある。もし、誰かに尋ねられたらそう答えればいいが、おそらくそういうこともないはずだ。受け入れ先には気兼ねなくくつろぎたいため、くれぐれも外部との不用意な接触を避けてもらえるよう配慮をお願いしてある。こういった時にこそ、自分の権力を惜しみなく振りかざせるというものだ。だが、万一ということもあるから、そのことを念の為に伝えておく」

 「ひょっとしてこれから行く場所は、完全会員制のリゾートホテルのレストランなのでは?」

 イェンスが戸惑った様子でそのホテルの名前を告げると、シモとホレーショが非常に驚いた様子で彼を見た。しかし、僕だけがそのホテルの名前を全く知らなかったため、会話の流れを見守ることにした。

 「さすが、イェンス。よくわかったな。ずっと以前に入会したのだが、ほとんど利用せずに会費だけ払うことが多かったのだ。ようやく有意義に利用できそうだ」

 ユリウスが感心した表情を見せたのだが、イェンスの表情は暗かった。

 「父もそこの会員なんだ。父は……父は充分な会費を支払っているにもかかわらず、低いランクであることにずっと不満を覚えていた。ドーオニツを馬鹿にしているとね。だけど、アウリンコとの見えない壁を乗り越えて成功したドーオニツの実業家がそのホテルの上級会員に名を連ねていることを知ると、ランクが上がるよういっそう熱心になったんだ。その期待が僕に向けられた。父は僕に帝王学のみならず、科学や歴史など幅広く知識を得て卓越した見識を養うよう、何度も何度も伝えては僕に『自覚』を持つよう促してきたんだ」

 イェンスは愁いを帯びた表情で僕に寄りかかった。僕はアマリアの話や彼が正月に帰省した時の話を思い出し、彼の肩にそっと手を回した。それを見ていたシモが、神妙な面持ちでつぶやいた。

「イェンス、お前はやはり育ってきた世界が違うのだな」

「傍から見ればそう思えるかもしれないけど、僕の実家はそういった世界の中では下のほうだ。それに僕は大きくなるにつれ、そういった社交の場を意図的に避けてきた。確かに細部にまで管理された場所にいると、思いがけない出来事に遭う確率は減る。だけどその分、打算的な会話をし続け、影のある人間関係を取り繕って維持することになる。それを平然とやってのけることが、僕にはつらくて耐えられなかったんだ。もちろん、そんな関係ばかりじゃない。本当に伝統のある家柄では、そもそも幼い頃から洗練された身のこなしと礼儀作法を身に付けさせているから、品性と教養がある素晴らしい人たちも非常に多かった。それを知っていた父は彼らに取り入り、完璧に安泰できる位置まで上り詰めようと画策していたんだ。実家の歴史からすれば、それは至極当然の流れになるのだろうけど、僕は利用されていることが嫌で仕方なかった。父は僕が幼い頃から、僕が父の都合よく動く駒であることを期待していた。祖父も祖父なりに、僕を駒にしたがっていたことには気付いていた。だから、クラウス、僕は嫌味でも何でもなく、君がいた世界に憧れたんだ。君がタキアの祖母の家で自然に囲まれながら遊んだ話を聞いて、僕は心底うらやましかった。そのうえ、君もつらい体験をしてきたはずなのに、君はずっと美しく、自分の世界を強く持ち続けてきた。君が持っている世界を共有できることは、高級会員制のクラブを出入りするより、僕にとってはるかに意義がある」

 イェンスは気分が晴れてきたのか、瞳にあの光をかすかに放っていた。

 「お前たちを見ていると心が洗われるな」

 ホレーショがつぶやいたことに対し、ユリウスは優しい眼差しを彼に向けた。

 「実にそのとおりだ。イェンス、私には君ほどの過去は無いが、君の気持はよくわかる。そうは言いながらも、君が避けてきた場所に連れて行こうとしていることに申し訳なさも感じている。少し説明をさせてほしい。これから行く場所は、私もなかなか足が向かない場所だ。それでも会員であり続けるのは、立場上そうした方が都合が良いのと、知人や関係者と会食する際に気兼ねなくくつろいでもらい、最高のサービスを受けて満足してもらえるようにという気持ちがあるからだ。君たちとこうやってくだけた関係を築けた今となっては、皆と一緒に家でくつろげるだけで満足なのだがね。しかし、今晩は君たちをあえてそこに招待したいと考えている。私のわがままに付き合わされると思ってほしい。それと君の父親に関して言えば、仮に君の父親が今晩利用していたとしても、鉢合わせることは無いはずだ」

 「それは君のほうがランクが上で、提供される部屋もサービスも異なるという理由からだね?」

 イェンスの落ち着いた問いかけに、ユリウスは静かにうなずいて返した。

 「ああ、父が夢にまで望んでいた世界に、思いがけず僕が足を踏み入れるだなんて、現実はなんて興味深いのだろう」

 イェンスがやや皮肉めいた口調で言ったので、僕は心配になって彼の顔を覗き込んだ。彼の表情は確かに憂いを帯びていたのだが、目が合うと気持ちを切り替えたのか、微笑みながら「ありがとう、大丈夫だ」と言ってユリウスにも笑顔を向けた。

 ほどなく車が大きな建物の前に停車した。イェンスの父親が熱望してきた世界に入り込む――それは僕にとって全く未知であり、無縁でしかなかったため、大きな好奇心と少しの罪悪感とが僕の中で渦巻いていた。先ほどの男性がドアを開けて声をかけてきたので、イェンスの後に続いて慎重に車から降りる。周囲はホテルの関係者以外誰もおらず、人目につくことは無さそうに思われた。それでも、ユリウスと一緒に人前に出るのは今回が初めてであったため、警護担当者らしく見られるよう、シモとホレーショの振る舞いを参考にしながら控えめに動く。イェンスも同じように考えたのか、シモとホレーショの後ろに回るなり直立不動の姿勢でユリウスに視線を向けた。僕は偽の緊張感を漂わせながらも、冷静さと優秀さの中に端正な美しさを醸し出すシモとホレーショの後ろ姿に感銘を受けていた。誰かを護ることに誇りと使命を感じている様はまさしく英雄のようであり、彼らに憧れと尊敬を抱かずにはいられなかった。

 そこにホテルの社長を名乗る男性が登場し、ユリウスに恭しく話しかけてきた。彼は僕たちにも気さくに声をかけてくれたのだが、シモとホレーショが控えめに言葉を返したため、イェンスも僕も言葉少なめに挨拶を返す。ユリウスも僕たちの咄嗟の演技を理解したらしく、いつものくだけた雰囲気ではなく威厳を漂わせて僕たちに目配せした。

 ホテルの社長の案内で建物内部へと進んでいく。僕は周囲を警戒している風に見せながらも、この状況を心から楽しんでいた。僕があのユリウスの警護役を演じていることでさえ、貴重な体験なのだ。

 一見して華美さと高級感あふれる通路を進み、重厚感あふれる扉の奥へと一歩踏み入れる。そこから先は、筆舌に尽くしがたいほどの豪華な世界が待ち受けていた。

 端的に言うと、僕たちは非常に有意義な時間を過ごしたうえ、想像以上に美味しい料理を堪能した。スイートルームという密室で、男性五人が語り合っている様は異様であったのかもしれないが、シモとホレーショがすっかりくつろいだ表情を見せると僕も気が緩み、軽口をたたいては笑い合った。壁に著名な画家の絵が複数飾ってあるのを見つけると、五人で思い思いに絵を評価したのも心嬉しいことであった。似ているようで一人一人異なる個性に、僕は尊い価値を見出していた。そして僕が感じている全ての好ましい感情は、この五人だからこそ得られていることも理解していた。

 イェンスが実に愉快そうに笑い、僕の肩に頭を寄せる。それから「他の人となら、ここまで楽しめなかった」と僕の耳元でささやいたので、僕は「全くだ」と返すとユリウスとシモとホレーショを笑顔で見つめた。

 やがて夜が更けると、ユリウスが静かに微笑みながら僕たちに声をかけた。

 「君たちが楽しめたようで良かった。そろそろ戻ろうかと考えている」

 その言葉を受けて、怪訝な表情を浮かべる者が誰一人としていなかったことも、僕は嬉しく感じていた。

 この場所が非日常性にあふれ、素晴らしいところであることは理解していた。それでも、僕にとってさらに居心地が良く、今やお気に入りとなった場所が僕を待っていた。

 部屋を出る際もホテルを出る際も、他の利用客の気配が無いよう、ホテル側が特段の配慮をしていることはすぐに理解した。そのおかげもあり、全般的に人目につくことのないまま車が停車しているところまで進んでいく。

 事前の打ち合わせどおり、ユリウスが車に乗り込むまでホレーショが指示した位置で警護らしきことをしながら周囲の様子を伺う。ふとユリウスに目をやると、ホテルの社長が彼に対して恭しくお辞儀しているところであった。ユリウスは微笑みながら彼に何か言葉をかけ、その表情を崩すことなく、車の中へと乗り込んでいった。背を向けた瞬間に無表情にならない彼の実直さを目の当たりにしたことで、みずみずしい感激があふれる。彼が広く慕われている理由を今まで間近で捉えていたのだが、僕は改めてユリウスの人となりの美しさに感銘せざるを得なかった。

 車が動き始めた途端、シモとホレーショが安堵した表情を見せた。それを受けて僕もゆったりと構える。ホレーショと目が合うと彼は微笑み、「いい夜だったな」と僕に話しかけた。

 彼の言葉は僕の気持ちを端的に代弁していた。しかしながら、彼にとっても僕にとっても、一番居心地のいいところから少しずれていることは理解していた。そのことをわざわざ口に出して指摘することは、野暮ったく意地悪であることも理解していたのだが、ユリウスが意味ありげに僕を見つめたこともあり、あえてそのことをホレーショに指摘することにした。

 僕の拙い意見を彼は困惑した表情を浮かべて聞いていたのだが、少しして思考をまとめたのか力強く僕を見ると、ユリウスに気を遣いながら「正直に言うと」と前置きしてから話し始めた。

 「お前も同じだろう。俺は、ああいった高級なサービスを受ける場所だったから楽しかったんじゃない。ユリウス将軍がいらっしゃって、そしてお前たちも一緒にいたから楽しかったんだ。ホテルの従業員の完璧な仕事ぶりや、気兼ねなくくつろげる場所を提供する役割には心から敬意を払うが、お前らと一緒なら安いバーの安い酒でさえ、充分楽しめる。なんならそこら辺の小さい公園だっていい」

 しかし、ホレーショは言い終えると青ざめた表情を浮かべ、慌ててユリウスに対して謝り始めた。

 「申し訳ございません。失言を、無礼をお許しください」

 「気にするな、気を遣うなと言っただろう」

 ユリウスは意に介していないらしく、朗らかに笑った。

 「このような素晴らしい経験を彼らのみならず、私たちにもお与え下さったことに感謝します」

 シモが恭しく言葉を添えたのだが、ユリウスはいたずらっぽく笑いながら返した。

 「正直に言って構わないのだ。私は君も彼らと同様、ああいった場所を好まないことを知ってわざと誘ったのだからな」

 その言葉を聞いて、どうやらシモは困惑しているらしかった。

 「おっしゃるとおりです。あなた様や彼らと一緒だったからこそ、私も気兼ねなく楽しむことができました。しかし、ああいった華やかな場所に、私はどうやら向いていないようなのです。その……」

 彼が口ごもったのを受けて、ユリウスが優しい眼差しで彼らを見守る。それに促されたのか、シモが遠慮がちに言葉を続けた。

 「今日の昼食でともに過ごした時間のほうが、はるかに有意義で心が満たされました。あの美しい時間を共有できた喜びに比べたら、やはり先ほどの豪華な夕食がいささか霞んで見えるのです。私があのホテルで体験したこと、受けたサービスに一切の不満はもちろんございません。ホテル側が超一流の仕事を見せ、場所も料理も何もかもが素晴らしいことは私でも容易に判断できました。何か欠けているのがあるとすれば、それらの素晴らしいサービスをきちんと受け取れなかった私の捉え方にあるのです」

 シモはずっとユリウスのほうに顔を向けていたので、僕の位置からは彼の表情を伺い知ることはできないでいた。

「率直な意見をありがとう。君たちならそう言うだろうと推測していた。だからこそ、付き合ってくれたことに感謝しているのだ。あのホテルの社長に、以前から熱心に声をかけられていてね。ここ数年は利用することもほとんど無く、挨拶だけ簡単に済ませてきたことに申し訳なさを感じていた。この送迎のサービスも同様だ。だが、一人で利用したり、他の誰かを誘うことも気が進まなかった。すまなかったね、私の個人的な理由で君たちを付きあわせたのだ」

 ユリウスはそう言うと朗らかに笑ったのだが、続けざまに「またこういった機会があったら、申し訳ないがその時もまたお願いしたい」とややすまなそうな表情で付け加えた。

 それを聞いて僕が思わず吹き出して笑うと、イェンスも隣で軽快な笑い声を上げた。

 「あのユリウスでも、困ることがあるんだね」

 「人付き合いというのも大切な仕事なのだが、どうも私は心が狭く、選り好みをしてしまうのだ。こういった機会にあざとく君たちを利用しないと、さっきのホテルの社長だけでなく、他の交友関係も乗り切るのは容易ではない」

 その時、ユリウスと僕のやり取りを聞いていたシモとホレーショが小さな笑い声を上げた。彼らは間近でユリウスを見ていることもあって思い当たる節があったらしく、ユリウスに「おっしゃることはよくわかります」と話しかけた。するとユリウスは、「このことは秘密だ。君たちなら相手が誰か、勘付いただろうからね」とおどけて返した。

 穏やかな車内の雰囲気とともに、優しい時間が流れていく。しかし、車が見慣れない場所を通っていることに気が付くと、土地勘が全く無いことからイェンスにそっと尋ねた。

 「ここはどこだろう?」

 その時、シモとホレーショが非常に困惑しているのがわかった。彼らはユリウスに何か言いたげであり、その様子を同じく見ていたイェンスが慎ましやかにささやき返した。

 「ひょっとしたら彼らの自宅に近いのかもしれない」

 イェンスの言葉とほぼ同時に、シモが控えめな口調でユリウスに尋ねたのが聞こえた。

 「差し出がましいのですが、どうしてこのようなところを通るように指示されたのでしょうか? まさか……」

 ユリウスはやはり微笑みを絶やすことなく答えた。

 「君たちもお酒も飲んでいるうえ、もともと帰りは送るつもりでいた。確かこの近くに君たちの自宅があったはずだね。ああ、そうだ。明日はタクシーで来るといい」

 彼は懐から何か小切手のようなものを取り出すと、素早くそれにサインをした。

 「いえ、受け取れません。タクシー代なら私たちで支払います」

 シモが即座に断ったのだが、ユリウスは気にせず彼の手に渡して言った。

 「だめだ。私が頼んで送迎をお願いしているのだ。君たちの貴重な休暇にね。これには私からの感謝の気持ちも含まれている。それとも権限を振りかざして『受け取れ』と命令したほうがよかったかな?」

 優しい口調に包み込まれたのか、シモとホレーショが感激した様子でユリウスにお礼の言葉を丁寧に伝えた。ユリウスの彼らを見つめる眼差しは優しく、僕はユリウスが心から彼らに信頼と感謝を感じていることを肌で感じ取っていた。不意にシモとホレーショが僕たちに視線を向ける。その瞳が美しい光を煌めかせているのを見つけると、さらにあたたかい気持ちになった。ユリウスが車内電話で正確な場所を運転手側に告げる。車は少し走ったのちに完全に停車した。

「本当に感謝しております」

 シモとホレーショは控えめながらも感激した口調でユリウスに言った。それを受けてユリウスは体を伸ばしてシモを抱擁し、「明日も頼む、今日は本当にありがとう」と言葉を返した。その瞬間にシモが大きく肩を震わせてユリウスに何かをつぶやく。僕はその様子をイェンスとともに、静かな喜びをもって見守っていた。続いてシモが席を譲ることで、同様にホレーショもユリウスからの抱擁を受ける。ホレーショの広い背中をユリウスが優しく撫でるのを僕は感激とともに見つめていた。

 シモとホレーショは車から降りる際、僕たちに「また明日会おう、おやすみ」と声をかけ、器用にほほにキスをしていった。僕たちは呼び止めてキスを返そうしたのだが、彼らはしたり顔で「妻からお返しをもらうから間に合っている」と言い残し、さっさと車から降りて行った。

 スモークガラス越しに彼らに手を振る。彼らは並んで僕たちを見送っていたのだが、やがてその姿が遠のいて消えたので、僕はぼんやりと視線を外に向けた。

「あと十分ほどで戻る」

 ユリウスの落ち着いた声で我に返った。少し雑談を交わしているうちに、ユリウス邸の玄関前に到着する。先に運転手の男性とあの男性とが降りて、車のドアを開けた。シモとホレーショの振る舞いを思い返しながら、ユリウスを警護しているかのように車から降りて彼を待つ。ユリウスが車から降りてくると、イェンスと僕は控えめに彼の背後に立った。ユリウスが運転手たちをねぎらっているのを見守っている間も、なるべく辺りに注意を払い、冷静な表情を保つ。訓練を受けたことも無い僕でも、シモとホレーショの行動を真似るだけで彼らの格好良さに近付けそうに思われた。

 ユリウスが一人で家に入り、僕たちは玄関前で車が走り去っていくのを見届ける予定であった。そのため、なるべく凛々しい表情で車が遠ざかっていくのを見つめる。その形が完全に見えなくなると、遠くから都会ならではの喧騒がかすかに届いたものの、辺りに静けさが漂った。

 雲の割れ目から街明かりで霞んでいる星空が覗き、どこからともなく肌寒い風が吹きつける。それに合わせるかのように、庭で咲いている木々の花が身震いするかのように小さく揺れる。

 「そろそろいいだろう」

 頃合いを見計らって玄関から顔を出したユリウスに誘われ、濃紺の世界と橙色の灯りとに彩られた庭に背を向ける。ドアを閉めようとしたその時、僕の耳元で風が小さく別れの挨拶を告げて去っていった。

 リビングルームでくつろぎながら他愛もない話をしているうちに、明日の朝は目覚まし時計を使わないで最初に起きた者が朝食の準備をするという流れになった。ユリウスもイェンスも、熱意にあふれた様子で早起きを誓い合っている。そこに僕がやる気の無い発言をしたら、彼らはどのように反応を返すのか。僕は突拍子もなく思い付いたことを早速冷めた口調で実行に移すことにした。

「……じゃあ、僕は寝坊してみようかな」

 口に出した途端、場違いな発言をしたことを猛烈に後悔した。彼らが不快に思ったのではないかとおそるおそる彼らの反応を伺う。しかし、彼らの反応は意外なものであった。

「聞いたか、イェンス。二人だけで勝負だな」

「クラウス、ライバルが減るから僕は一向に構わないよ。それでも僕が勝つのだけどね」

 二人とも明るい笑顔であっけらかんと答えたので、僕はますます軽率な実行力を悔やんだ。

「冗談だよ、僕が一番早起きしてやる」

 僕がむきになって返すと、彼らは口々に言った。

「それなら君が寝坊するよう、癒し効果のある音楽を枕元で流し続けよう」

「いや、君たちがゆっくりくつろげるよう、最高級の寝心地を誇る寝具をすでに提供してある。残念だが、その寝具に慣れている私が優勝だな」

 三人で明日の早起きに決意を表明しながら、それぞれの寝室へと向かう。フォーマルスーツを丁寧にクローゼットに返して部屋着に着替え、寝る支度を整える。適度にやわらかいベッドに全身をうずめると、すぐさま睡魔に襲われた。ユリウスが最高級の寝具を用意していることは、前回の宿泊時にとうに実感していた。抗えないほどの快適な寝心地に体を委ねると、早起きするという決意が薄弱な願望へとなり下がっていく。安らかな静けさの中に僕がいることを自覚したのは一瞬で、今晩起こった出来事を振り返ることもなく、あっという間に眠りの地へと転がり落ちていった。

 小鳥のさえずりで目が覚めたのだが、僕はまどろみの中にもう少しだけいたくて、心地良いベッドの中で少しだらだらしていた。しかし、突如として昨晩の約束を思い出し、飛び起きて時刻を確認する。朝九時を過ぎようとしている現実に青ざめると、急いで身支度を整え、すぐさまリビングルームへと向かった。階段を降りたその時、イェンスがちょうどリビングルームへ慌てた様子で入って行くのが見えたため、痛恨の極みを感じながら急いで彼の後を追う。すると、ダイニングキッチンの入り口で茫然とした様子で立ち尽くすイェンスの後ろ姿がそこにあった。

「イェンス、おはよう。まさか……」

 「おはよう、クラウス。どうやらユリウスが一番早起きだったようだ」

 僕がイェンスの肩越しにキッチンを覗くと、笑顔のユリウスとすぐに目が合った。

 「おはよう、君たち。やはり私の勝ちだな。君たちがここに来る十分前に着いた」

 「おはよう、ユリウス。悔しいけど君の勝ちを認めるよ。さあ、僕たちにも手伝わせて」

 イェンスがいたずらっぽく言葉を返したので、ユリウスはますます朗らかに笑い声を上げた。

 「もちろんだ、よろしく頼むよ」

 気心が知れているからなのか、それとも同じ世界に身を置いているからなのか、僕が思ったことや感じたことを素直に伝えても和やかな雰囲気ばかりが流れた。かつて同じような内容のことを他の人に伝えた時、僕はそのほとんどを相手から馬鹿にされ、否定されてきた。僕がその相手を否定したことは無かったにもかかわらず、彼らはあっさりと僕のことを否定したのである。当時は馬鹿にされたり、否定されるようなことを言う僕が至らないのだと自分を責めたりもしたのだが、どうやらそうでもないようであった。イェンスとユリウスが親しい友人だから、僕を肯定的に捉えているという側面もあるのであろうが、彼らのあたたかく、思いやりと優しさにあふれた性格が何よりこの居心地の良さを生み出しているのだと思い始めていた。

 精神的に成熟し、多角的な視点から背景を捉えようとする彼らから、貪欲に学ぼうとする。それと同時に、はつらつとした喜びとゆるぎない感謝とが彼らに湧き上がる。全く同じではないものの、似たような感性を持っているということは、何度考えても非常に心地が良かった。

「君たちといると、本当に心地がよいな」

 ユリウスの思いがけない告白に、イェンスが真っ先に喜びを露にした。

「僕もだ。ありのままの僕でいられて居心地がいいなんて、まさに理想郷だ」

 同じ状況で同じことを考えていたことが判明し、目頭が熱くなるほどの喜びが自然な笑顔となってこぼれる。この友情に甘んじることの無いよう、僕の人間性がさらなる成長を遂げるよう努力していこう。

 朝食の準備があっという間に整い、三人で交わした感謝の言葉を皮切りに食事が始まった。相変わらず料理は美味しく、たとえ豪華な食材を使用していなくとも、工夫次第で素材の良さを引き出せることを舌で学ぶようなものであった。多忙を極めるユリウスが、休暇の合間を縫ってイェンスと僕を自宅に招き、もてなしてくれている――そのことを改めて考えると、やはり心からの感謝は尽きることはなかった。昨晩のこともあった。僕はユリウスに具体的なお礼として、何かお返しができないかと率直に尋ねることにした。

 しっかりと言葉を練らなかったため、洗練された言い回しが出て来ず、時折言葉に詰まる。それでもユリウスは微笑みを絶やすことなく僕の言葉に耳を傾け、僕が気持ちを伝え終えるとあの優しい眼差しを向けながら言った。

 「君たちを招いて料理をご馳走したり、アウリンコのレストランに連れていくのは大した手間でも出費でもない。気にするな」

 心のどこかで予想できていた彼の返答に、咄嗟に返す言葉を見失う。その時、イェンスが控えめながらも、はっきりとした口調でユリウスに反論した。

 「でも、昨晩利用したホテルのスイートルームは、一泊だけでも普通車一台が余裕で買えるような、非常に高級な部屋であったはずだ。さすがに高額過ぎる」

 イェンスの言葉に仰天し、僕は思わずユリウスを凝視してしまった。普通車一台が買えるほどの金額が、たった数時間の滞在で消えてしまったというのか。そこまで高級なホテルであったと露知らずに過ごしていた無知な自分が、途端に恥ずかしくなった。

 「イェンス、君ならすぐ見抜くだろうと思っていた。だが、実を言えば、昨晩の費用は料理代といくらかの手数料のみで、君が思っているほどの費用は発生していないのだ。長らく会費だけを支払ってきた私に、社長が室料をサービスしてくれたおかげだ。それに私は高級な買い物にはさほど興味が無いし、社交的な集まりに高額な費用を払って人脈を広げることにも興味が無い。必要な人脈なら、今の地位にいるだけで自ずと集まってくるからね。立場上、身なりに気を遣っているが、それもある程度揃えれば多くはいらない。時折、匿名の個人として養護施設などに寄付をすることもあるのだが、それもただの自己満足にしか過ぎない。私は、立場の割には経済活動に対する貢献度が非常に低いのだ。この家だって、庭の手入れや室内の清掃に多少費やしているぐらいだ。だから、ああいった機会でも無いと、私は経済に貢献することもままならないのだよ」

 彼はそう言うとおどけてみせた。

 「だけど僕たちは君の好意に甘えっぱなしだ」

 イェンスがさらに反論したのだが、それでもユリウスは非常に優しい眼差しを絶やすことなく言葉を返した。

 「なるほど、友情という観点からすれば不公平かもしれないが、逆の立場だったらどうだ? 私には君たちが同じように振る舞って、『気にするな』としか言わないような気がしている。私は自分の能力や富を、私にとって適切で、それでいて幸福感をもたらしてくれる相手に喜んで使用しているだけに過ぎないのだ。時にはあざとく権力を行使することもあるがね。いずれにせよ、君たちに対する全ての行為は、私の中で強く輝いている気持ちから来ている」

 ユリウスは一呼吸置くと続けて静かに言い放った。

 「……君たちに対する友情と親愛の気持ちからだ」

 彼の瞳はやはり美しく、澄んだ光を静かに放っていた。僕はその繊細な光の美しさに心を奪われ、食い入るように捉え続けた。その様子に気が付いたユリウスが、はにかんだ笑顔を浮かべながら言った。

 「クラウス、イェンス。君たちは今この瞬間に、私の瞳の中に光を見出していてくれているのだろう? 君たちのその美しい眼差しが私に向けられていることだけで充分だ。その眼差しがどこに起因していて、なぜ私に向けられているのかを知っているからだ。さあ、食事を再開させよう。お互い、あと少しで食べ終わるじゃないか」

 その言葉には、異種族の能力を持ち合わせた者のみにしか理解できない意味が含まれていた。彼の言葉に深く共感しつつ食事を再開させる。食事が終わってお茶を飲んでくつろいでいる間も、僕はユリウスの言葉を噛みしめては彼らの瞳にその光を見出し続けた。

 少しして、僕たちはユリウスお気に入りの庭を散策した。ユリウスは人の手で管理されていても、自然が息づいているのを眺めているだけで心が癒されるのだと語った。彼はさらに場所を探るように移動すると、いきなり体をのびのび自由に動かし始めた。僕がその高い身体能力にただただ驚いていると、彼は朗らかな笑顔をイェンスと僕に向けた。

「いいのか悪いのか、ここら辺はちょうど監視カメラの死角にあたり、自由に動いてもカメラに記録されたり、他人に見られることがないのだ。非常に限られた範囲内だが、君たちもここで思う存分に体を動かしてみたらいいだろう」

 そこで思い切って体を動かしてみると、さらに体の能力が向上していることがわかった。日常生活に支障を来すことがないよう、かつての限界と照らし合わせて調整しているうちにだんだんと力加減は掴めてきたのだが、日に日に増していくこの不思議な変化を妙な気持ちで受け止める。

 その時、イェンスが五感を開放してみると言って深呼吸を始めた。そこで彼の様子を注意深く観察していると、たちまちのうちに彼の見た目に変化が現れた。彼の見た目はますますみずみずしい生命力にあふれ、その瞳には力強さと聡明さとが如実に表れているようである。彼の瞳の色も、髪の色もいっそう鮮やかさを増し、もはやそこには彼の自称する中途半端な存在はおらず、呼吸をする一個の美しい完全な生命体にしか見えなかった。

 イェンスは恍惚とした表情を浮かべていたのだが、徐々に口の端を歪ませたかと思うと、突然ぞっとした表情へと変わった。そして「美しい世界だけに浸りたいのに、人間社会で五感を開放するのは窮屈そのものだ」とつぶやき、彼の両腕を抱えるようにさすった。

 興味が湧いたため、僕も五感を開放してみることにした。ユリウスが「気をつけろ」とささやいたのが聞こえたのと同時に、活き活きとした世界が突如として現れる。光の粒や埋もれていた色彩が露になり、離れた場所に咲いている花や草木の香りまでもが届き、鮮やかな空気にやわらかく包み込まれているようである。しかし、あっという間に不快な雑音が耳に響き、空気が重苦しく淀んで苦みまでをももたらすと、僕はイェンスの言葉を身に痛切に感じながら早々に五感を閉じた。

 「たまに五感を開放して自分の能力を確かめるのはいいことだが、長くは難しいだろう。ルトサオツィは人間社会に来る時はいつも、本来の自分を非常に小さく折り畳まないと、すぐに疲れてしまうと言っていた。彼はそれでも人間社会を忍耐強く、かなり訪れているほうだ。前回も話したが、私も時々、加減を間違えて窮屈さを感じることがある。特に君たちと出会って私自身も変化を続けてきてからは、そのことがいっそう顕著に感じられるようになったとも言ったね。ついうっかり、超人離れした能力を普通の人間に見せることのないよう、なるべく自己と向かいあって己の力量を把握することに努めているのだ。それでも最近は余裕を感じて、能力を素直に喜ぶことも多くなってきたのだがね」

 ユリウスはそう言うとぐっと拳を握りしめ、空を仰いだ。

 「空を求めているんだね」

 僕がふと心に浮かんだ言葉をユリウスに投げかけると、彼は澄んだ青空以上に美しい笑顔を僕たちに向けて言った。

 「そのとおりだ。以前、ルトサオツィがいる時に、空に対する思いを話しただろう? ああ、私に翼があったらと何度願ってきたことか! 仮に人間に翼が生えたとしても、筋力が足りないため、自由に空を舞うことはできないことはわかっている。それでも雄大に空を舞う父の姿を見て、どうして父の姿に似なかったのかと、何度も自分の存在を、自分の容姿を恨めしく思った話もしたな。広大な空を見上げるたびに、憧れと思慕と拒絶と否定とが入り混じった感情に襲われる。あの空は全く手の届かない場所にあるのだが、それでも空を見上げていたいのだ」

 「空を愛しているのだったね」

 イェンスがその空を見上げながら言った。

 「愛しているとも。それに空を見ていると、父とつながっていると実感もできる」

 ユリウスは再び空を見上げた。

 「父親であるドラゴンとはあまり会わないの? それとも会えないのだろうか」

 僕が遠くを見つめているユリウスにおずおずと尋ねると、彼は視線を空に向けたまま優しい口調で答えた。

 「会えないのではない、今の仕事をしている間はなるべく会わないようにしてきたのだ。私は憧れでもある父に会えば、私の脆い部分があっという間に露呈されるとずっと考えていた。以前は自分自身の中途半端さに由来する脆さに足元をすくわれ、不要な事態を招きかねなかったのだ。だが、今は違う。私は自分自身に力強さを感じている。今年は父に魔力のことで会いに行く予定でいるが、おそらく父は私の意図を感じ取っているだろう」

 彼はそう言うと不意に視線を僕に向け、ゆったりと微笑んだ。

 「クラウス、きっと君は私の父に会う日が来る」

 僕はその言葉を聞いてたいそう驚き、見開いた目で彼を見つめ返した。

 「どうしてそう思ったの?」

 僕の代わりにイェンスが落ち着いた口調で彼に尋ねた。

 「強い直感だ。イェンス、きっと君も一緒に会うことだろう」

 彼は静かに答えると胸元からペンダントを取り出した。そして首から外すなり僕たちに手渡したので、イェンスと僕とで代わる代わる手に取ってペンダントに触れた。

 ペンダントは相変わらず青白い光を放っており、確実にイェンスよりも僕に対してやや強く反応を示していた。僕はユリウスにペンダントを返した後も、僕がドラゴンの能力を受け継いだことについて考え続けた。

 「僕が小さい頃に見たという光の球は、やっぱりドラゴンだったんだ。ドラゴンとすでに関わりがあったから、ヘルマンが持っていたペンダントをきっかけに、より変化を起こすことができたのかもしれない」

 「そうだろうな。いや、君は本当に見ただけなのだろうか? ヘルマンもペンダントに触れてはいるが、君から受ける印象は彼とは異なる。君には不思議な魅力と力強さとがある」

 ユリウスはじっと僕を見つめていた。僕は彼の紫色の美しい瞳に吸い込まれそうになりながらも、全てが推測の域を出ないもどかしさから首を大きく横に振った。

 「ヘルマンはペンダントを所有していても、君の話だとさほど触れていないみたいだから、それが原因なのかもしれない。でも、結局のところは何一つわからない」

 そう言い終えると、ふと気が付いたことがあった。

 ユリウスの話だと、ヘルマンは普段ペンダントを身に付けず、なるべく触れないように保管しているらしかった。それでも最初にペンダントに触れたのは何年も前のことなので、僕より多く触れていたことは明白である。そうであれば、去年の初夏にヘルマンと出会った時、少なくとも僕たちが目を見張るような若さや能力を彼が保持していてもおかしくはなかったのだ。だが、彼が能力をひたすら押し留め、窮屈そうにしている様子は無かった。見た目も若々しさはあったものの、どちらかといえば年相応であり、全てにおいて今のユリウスほどの特筆すべき点は感じられなかった。

 ヘルマンがペンダントに触れた年齢が遅かったため、彼に与える影響の速度が遅かったことも可能性として考える。だが、当てずっぽうすぎて検証不十分に思われると、途端に思考が絡まった。

 僕はおもむろにユリウスを見つめた。脳裏に浮かぶヘルマンと、目の前にいるユリウスの独特の雰囲気とが重ならないことに改めて気が付き、ますます困惑をもって紫色の瞳を捉える。ユリウスは僕の不安げな視線を優しく受け止めると、そっと言葉をかけてきた。

「気が付いたようだな。君のほうがはるかにペンダントに触れた回数が少ないにもかかわらず、変化を起こしてきたのだ。最初に君を見た時、実を言うとどこか見知っている雰囲気を感じた。だから、君がイェンスのようなわかりやすい特徴を持たずとも、私は最初から君たち二人ともが異種族に関係あると確信していたのだ。君たちは以前も指摘したが、お互いの相性が良かった。心を許せる間柄になるにつれて能力や思考に変化が訪れ、私に直感をもたらすまでの何かを放つようになったのだろう。イェンス、君も最初にクラウスを見た時、彼から不思議な魅力を感じたと話していただろう? 君のみならず、血縁関係のない彼までもがわずか短期間のうちに変化が加速していることも含め、もはや偶然とは思えない」

 彼の言葉に衝撃を受け、煩悶のまま立ち尽くした。

 僕がなぜ、変化を明確に起こしてきたのか。そのことを説明できる判断材料が、当の僕には決定的に欠けていた。推測できる客観的な出来事も、光る球を見たという掠れた記憶以外に特別なことは何一つないのだ。

 いったい僕は何者で、なぜ、このようなことを可能としているのか?

 途方もない謎に圧し潰されかけたその時、イェンスが僕の肩を優しく抱いた。そのあたたかさにすがるように彼を見ると彼は微笑んでおり、僕を包み込むような落ち着きを払っていた。

 「エルフの村に行けば、きっと手掛かりが掴めるさ」

 僕はその言葉に魅力と不安を感じながらも、彼の瞳を見てうなずき返した。

 エルフの村できっと手掛かりが得られるに違いない。それは僕の願望でもあり、期待でもあった。仮にドラゴンと僕との間に全く関係が無かったとしても、ルトサオツィから直接招かれていることに変わりはないのだ。いずれにせよ、エルフの村を訪問することが、僕にも何らかの感慨深い経験をもたらすことは間違いないであろう。

 そよ風が心地良く吹き、すぐ近くから小鳥のさえずりが軽やかに響き渡る。花々の近くでは蝶や小さな虫が飛び回っていた。春を迎え、黄緑色のはつらつとした萌え芽が木々のあちこちで可愛らしい姿を現しているのを、風や小鳥や虫などが喜びをもってその彩りを祝福しているように思われた。

 「いい時間だ、戻ろう」

 ユリウスの掛け声とともに、僕たちは家の中へと戻った。リビングルームで少しくつろいでいるとユリウスにシモから連絡が入り、間もなく到着することが告げられた。

 ユリウスが昼過ぎから用事があることは、シモから事前に聞かされていた。僕はそれが大臣、もしくは大元帥としての立場に戻ることを意味することにうすうす気が付いていた。しかし、ユリウスは僕たちに微塵にもそのような素振りを見せることはなく、僕たちとのおしゃべりを楽しみ、優しい笑顔を絶やすこともなかった。彼は最後の最後まで、僕たちの親しい友人として接してくれたのである。

 シモとホレーショが到着すると、ユリウスはやはり優しい笑顔で僕たちを抱擁し、ほほにキスをした。そして僕たちがシモとホレーショとも抱擁を交わすように、ユリウスも彼らを優しく包み込むように抱きしめた。

「四人で楽しんで帰れ」

 ユリウスは明るい笑顔でそう言うと、僕たちを見送ることなく家の中へと戻っていった。その短い言葉に、ユリウスの優しさが凝縮されているのを僕は感じ取っていた。車に乗り込み、ユリウスの家を振り返って眺める。ユリウスはイェンスと僕をシモとホレーショに送らせるため、あえて他の警護担当者をつけて出掛ける予定なのだ。彼らがそもそも本日の警護担当から外されて休暇となっているのは、ひょっとしたらこうなるようにユリウスが最初から仕組んだことなのではないのか。

 憶測にしか過ぎない彼の気遣いに思案を巡らせていると、シモが話しかけてきた。

「お前たち、今日はこれから空いているのか?」

 イェンスと僕はすぐさま反応して勢いよく姿勢を元に戻すと、「空いている。どこかに一緒に行ってくれるのかい?」と期待に胸を膨らませながら答えた。

「昼食はこれからだろう、どこかで食べて行こう」

 シモの提案に間髪入れず快諾する。ユリウス邸のゲートを出て少し走ると、車は一旦脇に停車した。そしてホレーショが振り返ってのんびりとした口調で尋ねてきた。

 「昼食抜きにして、どこか行きたい場所はあるか?」

 僕が思わずイェンスを見ると、彼も「どこか特別に行きたい場所がある?」と尋ねてきた。僕は昼食にこそこだわりは無かったのだが、国立美術館にもう一度行ってみたいと考えていた。そこで、そのことを思い切って彼らに伝えるとすぐさま三人の笑顔が集まり、「よし、それなら美術館の近くのカフェで昼食を取ってから向かおう」とホレーショが明るく返したので、弾む声で「本当にありがとう」と返した。

 どことなく見覚えのある場所まで車が移動していく。車を降りると、談笑しながらカフェへと向かった。行き交う人から視線を感じたりもしたのだが、シモとホレーショがイェンスと僕をまるでかばうかのように歩いたので、たいして気にならなくなった。ユリウスもこのような感激を感じているのであろうかと感慨深げにホレーショに視線を向けると、彼は「後で警護代をきっちりもらうからな」とおどけた口調で言った。

 カフェに着いて思い思いに昼食を取ると、僕たちは早速美術館へと向かった。チケットを買い求める際、僕が提案したことから彼らの分も支払うと申し出たのだが、彼らは「ここぞという時に奢ってもらうから気にするな」と笑って取り合わなかった。

 美術館の中はやはり人が多く、入り口付近は相変わらず混んでいた。それでも中へ入っていくと徐々に鑑賞者の数が分散され、世界有数の規模を誇るだけの広さを感じる。以前鑑賞した美しい風景画を再度堪能すると、今度は前回断念せざるを得なかった展示室へと向かい、地方国の古い美術品や彫刻、そして歴史的な価値もあるつぼやタイル、調度品を鑑賞して回ることにした。

 現代よりはるか昔に生きていた人たちが残した芸術品や歴史品の数々から、古代の人々の息吹や意図を感じ取った僕は得も言われぬ感激に浸っていた。おそらく製作者は、遠い未来に僕のような存在から鑑賞されるとは思わずに自分の作品を世に送り出したのかもしれない。時にイェンスと並んだり、シモと感想を話したり、ホレーショとともに移動したりと自由気ままに芸術鑑賞を心から満喫する。この経験の何もかもが居心地の良いものであった。

 夕方近くになり、ようやくアウリンコを出てドーオニツへと向かう。車中で美術館での感想を再度話し合ったことで、控えめな情熱と静かな喜びとが絶妙なバランスで交互に訪れた。饒舌なシモの解説とホレーショの冷静な感想、そこにイェンスの聡明な意見と僕が率直に感じた感情が混じると、一つの大きな一体感が生まれた。その一体感はあっという間に個人個人の内側深くに消えていったのだが、今まで孤独をこじらせることが多かった僕に連帯することで得られる喜びと、多方向からの視点が新たな発想をもたらすという深い学びを与える気付きともなった。それは普通の人間でも子供の頃にとうに習得しているのかもしれないのだが、ひねくれていた僕にも抵抗なく理解できたことは素直に嬉しかった。

 気が付けば、車はあっという間に公園の近くまでやってきていた。傾いた日に照らされ、街路樹の影が細長く道路に映し出される。

 信号で停止する。ホレーショがイェンスと僕のほうを振り返って咳払いをしたかと思うと、やや声を低くしながら話しかけてきた。

 「お前たちにお願いがある」

 僕たちは改まった彼の態度に大変驚き、神妙な面持ちでどうしたのかと言葉を返した。しかし、シモが何かに勘付いたのか、突然笑いだした。

 「前回訪れたレストランがあっただろう? ゲーゼに関係のあるレストランだ」

 ホレーショは隣で笑っているシモを尻目になおも続けた。

 「あそこにまた行きたいのだ」

 「ああ、なんだ。そんなことならお願いでもなんでもない」

「ちょうど僕たちも小腹が空いてきたところさ」

 イェンスと僕とで口々に言葉を返すと、シモがおどけた表情で続けた。

 「こいつ、あのレストランにまた行きたいとずっと話していたんだ。あの時、悩んだケーキを食べたいとね」

 それを聞いてホレーショが少し顔を赤らめたのだが、すぐさまむっとした口調でシモに反論した。

 「あれは絶対、食べないでいると損をするレベルなんだ。俺にはわかる」

 その言葉を聞いた瞬間、とうとう僕たちも笑い転げた。やや憮然とした表情を浮かべているホレーショが、かえっていじらしく見える。そこで僕が笑いをこらえながら「喜んで付き合うよ」と言うと、彼は「よくも笑ったな、覚えていろ」と返したのだが、ついに彼もこらえ切れなくなったのか、豪快に笑いだした。

 前回と同じ駐車場に車を停めてレストランに向かうにつれ、ホレーショの表情がだんだんと純粋な喜びに満ちていくのがわかった。レストランに到着し、今度は店内の奥側へと案内される。メニューを見るなり、シモも真剣に悩み始めた。かつてない真摯な眼差しに警護時の表情が重なり、まるでシリアスな映画のワンシーンを切り取ったかのようである。

 やがてケーキが運ばれてくると、前回同様にホレーショが僕の隣で非常に小さな一口分をすくい上げ、もったいぶった様子で口の中へと入れた。そして静かにその味に浸ったかと思うと、次の瞬間、目を輝かせて「美味しい」と笑顔をこぼした。

 僕はホレーショがあまりにも純粋な眼差しでケーキを見つめ、その大きな体を使って小さくケーキを食べているものだから、再度彼がいじらしく見えて仕方が無かった。しかし、僕の視線に気が付いた彼が「おい、その目はやめろ。俺はお前の孫じゃない」と凄んできたため、「ごめん」と軽快に謝ってからは注文したフルーツタルトを堪能した。

 紅茶を飲みながら会話をしていると、ますます彼らが大切な友人であるという認識が深まっていった。それは他愛もない雑談や、何気ないやり取りであったのにもかかわらず、僕の心がほんのりとあたたまっていることに気が付いたからであった。そのあたたかさに浸りながら心地良い時間をともに過ごす。

 心を許せる人と楽しく過ごせるということは、改めて言うまでもなく、夜空を眺めることとまた趣が異なる感動と感謝に満ちていた。その当たり前の素晴らしさが与えられていることは、僕にとって最高の贅沢の一つであった。

 レストランを出て駐車場へと向かっている途中、通りの向こうから若い女性たちが歩いて来た。その女性たちが控えめながらも熱っぽい視線を向けてきたことから、シモとホレーショが何も言わずに僕たちの前に出て視線を遮る。彼らは彼女たちとすれ違いざまにイェンスと僕の横に並んだのだが、それをやり過ごしてから「お前ら、さっきの女の子たちをナンパしたかっただろうに、全く残念だったな」と僕たちをからかった。

 イェンスも僕も異種族の能力を少しでも持っていることで、そのことを知る由もない赤の他人との関係構築に負担と不安を感じていたため、可能な限り無益な接触は避けたいことをシモとホレーショにすでに伝えてあった。それを踏まえて僕たちが、「いや、彼女たちは君たちに興味があったんだよ」とさらに冗談で返したのだが、彼らが「嬉しいところだがやめてくれ。俺たちが女性にモテていることを妻が知ったら、訓練より厳しい状況で袋叩きにされる」と当意即妙におどけたので、イェンスも僕も大笑いしてしまった。

 駐車場に戻り、車に乗り込んだ途端に無言になる。それでも彼らとのあたたかく力強い友情が僕を取り巻いており、僕はじっと車内のやわらかい雰囲気に身を任せた。あっという間に僕が住むアパート前へと車が到着する。僕が車から降りるとシモとホレーショもわざわざ車から降り、照れることなく僕を強く抱きしめた。僕も同じように彼らを力強く抱きしめ返すと、シモが「またすぐに会えるさ」と耳元でささやき、ホレーショは彼のほほを僕のほほにくっつけて笑った。

 手を振って彼らを見送ると、すぐさまアパートの階段を駆け上り、部屋の窓を急いで開けた。あたたかい風を受けながら眼下を見下ろしているうちに、あの黒い車が再び登場する。前回同様にアパートの前で一旦停車し、ホレーショが運転席の窓を下げて僕に笑顔を見せる。シモにいたってはわざわざ車を降りて軽く手を挙げてから再度乗り込んだだめ、黒い車がゆっくりと走り去っていく様子をじっと見守った。

 誘われるかのように視線を空へと移す。僕を度々魅了してきた空は、雲の向こうに無限の広がりを見せていた。

『あの空はこの地球上全ての場所とつながっている』

 ぼんやりと脳裏に浮かんだ言葉を空に解き放つと、茜色に染まった空の先に紫色の雲がふちを金色に輝かせながらたなびく様を無心に見つめた。どこからか運ばれてきた優しい風が、僕の周りで空気と溶け込んでいく。先ほどまで親しい友人たちと一緒であったのに、今は一人だ。だが、孤独ではなかった。

 ふと眼下が気になり、ゆっくりと視線を落とす。次の瞬間、僕は驚いて思わず大声を出した。

「イェンス!」

 彼は何やら買い込んだものを両手に、僕を見上げて微笑んで立っていた。僕が笑顔で手を振ると彼はアパートの中へと入ったので、玄関のドアを開けて戸口で彼を待つ。数分と経たないうち彼は僕のところに到着し、弾ける笑顔に弾む声で言った。

「一緒に夕飯を取ろうと思って買って来たんだ」

 僕は彼の行為が素直に嬉しくて、彼に飛びついて抱きしめた。すると彼は「クラウス、ありがとう。でも、惣菜がこぼれてしまう」と言って、僕のほほにキスして返した。

 僕たちは早速夕食の準備をし、それもあっという間に平らげると、くつろいだ気分を共有しながら一緒に過ごした。インターネット上の興味深い動画を観て会話を楽しみ、あるいはささやかな願望や小さな思い出話に花を咲かせる。それから少しすると窓の外を二人で眺め、夜空を見上げた。言葉を交えなくともお互いに心が通じ合っているという心地良さの中で、僕は星のきらめきをイェンスの美しさに重ねた。やがて夜が更けると、イェンスは「おやすみ」と言って軽く抱擁し、彼の住むアパートへと戻って行った。

 再び夜空を見上げる。遠くで美しく輝いている青白い星に気が付くと、その神秘的な輝きに心を奪われた。かつて見た青白い光をうっすらと脳裏に描いているうちに、その美しい光に包み込まれているかのような感覚に捉われる。僕はその感覚のまま、ベッドの中にもぐりこんだ。目を閉じると青白い光がまぶたの奥でさらに輝く。その輝きを追うかのように意識を眠りの世界へと引き渡した。

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