第20話

 やわらかな光を顔に感じて目が覚める。遠くで小鳥がさえずる音以外は何も聞こえなかったので、おもむろに時刻を確認すると朝の九時前であった。僕は慌てて飛び起き、急いで着替えようとしたのだが、昨日洗濯に出された僕の服をまだ受け取っていないことに気が付いた。クローゼットの中を確認してもそこにはなく、替えとなるような服も見当たらない。どうすべきか思い悩んでいる中で、いたずらに時間が過ぎ去っていく。

 それにしても依然として辺りは静かである。ユリウスとイェンスはすでに起きているのであろうか。僕は不明瞭な状況を確認すべく、足音に気をつけながらバスルームに向かって素早く身支度を整えると、部屋着のままリビングルームへと向かった。

 静かなリビングルームを通り抜け、ダイニングキッチンまで覗いてみたのだが誰もいない。僕が一番早起きをしたのだということに気が付くと、今度は二人を起こしにいったほうがいいのかと思い悩み始めた。時刻は九時をとうに過ぎていた。彼らが起きてきてから朝食の準備を始めては、ますます僕が時間を持て余すだけではないのか。

 ――いや、僕が一人で朝食を準備したらいいのだ。

 今までにない名案が閃き、一人でにやける。ユリウスは昨晩、僕たちが起きているようならダイニングキッチンを自由に使っていいと話していた。それでも勝手に使用することに罪悪感もためらいもあったのだが、意を決し冷蔵庫の中を確認する。すると、新鮮な野菜や卵、ベーコン、調味料などが適切な場所にきちんと保管されており、三人分の朝食を作るに申し分のない量が残されていた。僕は不器用ながらも、宿泊させてもらっているお礼とユリウスに楽をさせたいという気持ちを強く握りしめていた。簡単なものしか作れないけどやってみよう――。そう思いながらいくつかの食材を取ろうとしたその時、背後で物音がした。

「何をしている?」

 背後から低く鋭い声が僕に向かって飛んできた。

「すみません、宿泊のお礼に朝食の準備をしようと思ったのです」

 僕が青ざめながら後ろを振り返ると、やはり部屋着のままのイェンスが笑顔を向けてこちらを見ていた。

「おはよう、クラウス。驚かせてごめん。起きたら九時を過ぎていて、慌てて身支度を整えてリビングルームに向かったんだけど、あまりにも静かだったから、ひょっとして僕が一番先に起きたのかと思っていたよ」

「おはよう、イェンス。ああ、本当に驚いた」

 僕は照れ笑いにも似た表情で彼を見たのだが、すぐに朝食のことを彼に相談した。

「ねえ、ユリウスはまだ休んでいるみたいなんだ。きっと疲れているんだよ。だから、僕たちが朝食の準備をしたら彼の負担が和らぐかもしれない。ほら、昨晩、ユリウスは僕たちが起きているんならダイニングキッチンも自由に使っていい、と言っていただろう? 食材を勝手に使っていいとは確認をとっていないうえ、冷蔵庫も勝手に開けたのは申し訳なかったのだけど、見たところ食材は揃っている。どうだろうか、ずっとお世話になりっぱなしというのも心苦しいから、彼に朝食をプレゼントするというのは?」

「なるほど、いい考えだな。本来であれば、彼にそうしてもいいか許可を得るべきなんだろうけど、まだ休んでいる彼をわざわざ起こすのも気が咎める。普段はかなり忙しいだろうから、こういう時にゆっくり休ませてあげるのはもっともだ。よし、僕も一緒に手伝おう」

 イェンスは力強く微笑むと、同じように冷蔵庫を開けて中の食材を確認し始めた。そして彼が卵に手を伸ばしたその時、背後から鋭い声が聞こえた。

「何をしている?」

 イェンスと僕は慌てふためきながら、「勝手なことをして申し訳ございません」と勢いよく謝った。すると、くつろいだ格好をしたユリウスが、笑顔を浮かべながらダイニングキッチンの入り口に寄りかかっていた。

「おはよう、驚かせてすまない。実を言うと、君たちの会話は最初から聞いていたんだ。起きたら朝九時を過ぎていたから慌ててリビングルームに向かったら、ちょうどイェンス、君がダイニングキッチンに入って行くのが見えたのでね。そこにクラウス、君の言葉が聞こえてきた。君たちにはすまないと思ったのだけど、ひとまず様子をこっそり伺うことにした」

 それを聞いてイェンスと僕は胸を撫で下ろすと、改めてユリウスに朝食の準備を僕たちだけで進めていいか尋ねた。

「よし、ならお願いしよう。内容は君たちに任せる。その間に私は身支度を整えることにしよう。そうだった、君たちの着替えを手配しなくては。おそらくもう仕上がっているはずだから届けさせよう。君たちの着替えはもう少し待っていてほしい」

 ユリウスはそう言うと部屋を出て行った。そこで、僕たちは朝食の内容について話し合うことにした。数分の協議の結果、イェンスがパンケーキを焼いている間、僕がサラダを作ることとなった。スモークサーモンとチーズはすぐに盛り付けられるため、目玉焼きとベーコンを焼いたものは手が空いた者が担当することで話がまとまる。早速僕が作業を始めると、イェンスも調理器具を棚から取り出して作業を開始した。材料を水洗いし、水気を切ってちぎったり、一口大に切ったりしながらガラス製のボウルに投入していく僕の隣で、イェンスが手際よく卵と小麦粉など材料を混ぜ合わせ、ホットプレートで焼いていく。少しして食欲をそそる甘いパンケーキの匂いが漂ってくると、ひとまずサラダを作り終えた僕が目玉焼きを作り、ベーコンを焼くことになった。

「やあ、とってもいい匂いだ」

 着替えを済ませたユリウスが、顔中をほころばせながらダイニングキッチンに入って来た。

「もう少しでできます」

「ありがとう、実に楽しみだ。君たちの着替えを届けてもらったついでに、昨日のスーツを勝手にクローゼットから出してクリーニングに出した。君たちの着替えはベッドの上に置いてある」

「食事の準備ができたら急いで着替えてこようか」

 僕がイェンスに声をかけると彼はうなずいて返し、ユリウスを見ながら言った。

「僕たちは朝食の前に急いで着替えてきます」

「わかった。それならその間にお茶の準備をしておこう」

 僕たちはできあがった料理を皿に盛り付けると、急いで着替えの置いてある部屋へと向かった。ベッドの上にはユリウスの言葉どおり、きれいに洗濯された僕の衣類が畳まれた状態で置かれていた。着替えを済ませると、今度はそれまで着ていた部屋着をどこに置けばいいのかで悩む。先ほどのやり取りで気が付いていれば、ユリウスにその場で確認できたのだ。ひとまずなるべく丁寧に畳んでベッドの上に置くと、ちょうどイェンスが部屋にやって来て声をかけてきた。

「部屋着をどうしようか。君も悩んでいるようだね」

「ユリウスに確認すれば良かったな。朝食の後でもいいのだろうけど、とりあえず向かおうか」

 空腹を抱えて急いでダイニングキッチンへと戻る。ユリウスはティーポットにお湯を注いでいる最中であった。そこで彼にそれまで着ていた部屋着をひとまずベッドの上に置いたと伝えると、彼は「ああ、それでいい。あとでまとめて洗濯に出しておく、ありがとう」と明るい口調で返して紅茶を用意していった。

 三人分の朝食が食卓に並べられる。

「食べる前に感謝の気持ちを伝えたい」

 ユリウスはそう言うと僕たちを優しく抱きしめ、一人ひとり丁寧に見つめて「ありがとう」と伝えてきた。その美しい眼差しと所作に心から感激し、あふれる笑顔で彼を受け止める。それからユリウスに勧められ、早速朝食を食べ始めた。しかし、当のユリウスはじっと料理を見つめるばかりで、なかなか食べようとしなかった。僕たちがその様子を訝しがって遠慮がちに声をかけると、彼は我に返ったかのように笑顔を浮かべ、「さあ、食べようか」と言ってようやく口をつけた。彼は僕が材料を切って混ぜ合わせただけのサラダを「実に美味しい」と褒め、イェンスのパンケーキに至っては「ほほが落ちそうなほど美味しい」と絶賛し、食事中もずっと弾ける笑顔を絶やすことはなかった。

 僕にはユリウスの一連の反応が不思議に思われたので、食事が終わってゆったりしているところを見計らい、なぜ料理をなかなか食べようとしなかったのかを思い切って尋ねることにした。僕の唐突な質問にユリウスがはにかんだ表情を見せたので、ますます気になって彼を見つめる。するとユリウスは「たいした話じゃない」と言って一呼吸置くと、噛みしめるように口を開いた。

「本当に嬉しかったのだ。君たちの気持ちも、君たちが作った料理も。私には身に余る喜びであり、感謝以外の何物でもなかった。食事中も私は感無量で、胸がいっぱいだったのだよ」

 彼の瞳はあの光を煌めかせており、優しい眼差しにはゆらめく美しさがあった。

「私は自分と同じ境遇の者はいないだろうと思っていた。似たような境遇ならヘルマンンがいるが、そのヘルマンも私のような能力は持ち合わせていない。孤独には慣れているつもりだったが、そのことを考える時はいつも、私だけが虚無という暗闇の中にたった独りで取り残されている気分だった。だが、今は君たちがいる。私のことを労って朝食まで用意してくれた。一年前の私には想像だにできなかった未来が今、ここに在る。……すまない、朝からこんな話をすべきじゃなかったな」

 彼はそう言うと静かに微笑んだ。僕が思わず立ち上がろうとしたその時、イェンスが素早く立ち上がった。

 目的は同じだ。

 僕が確信しながらユリウスのそばに立つと、イェンスもやはり同じく彼のそばに立った。驚いているユリウスの手を何も言わずにそっと片手に取ると、彼の肩にもう一方の手をかけるように置く。次の瞬間、ユリウスはうつむき、その肩に力が入っていくのがわかった。

 かつてのイェンスを彷彿とさせるユリウスに、どのような対応をすればいいのか思い悩んでイェンスを見ると、彼は僕の視線に微笑んで返した。イェンスはそのままユリウスに覆いかぶさるように抱き付いた。そうなると僕はそんなイェンスまでをも抱きかかえるようにユリウスに抱き付くしかなかった。イェンスもユリウスも長年、孤独をえぐられるような傷を抱えてきた。僕にできることといったら、心を寄せるぐらいのことしかできないのだ。

 ユリウスの境遇も決して華やかに彩られ、たくさんの愛に満ちただけのものではなかった。世界有数の為政者であり、広く人々に優しい微笑みを絶やさないその裏で、悲しみと孤独とにのみ込まれないように厳しく彼自身を律してきたのである。そのことを深く知った今、僕はひたすら彼の幸せを、温もりあふれる未来を願わずにはいられなかった。

 どうか、ユリウスにもイェンスにも驚くほどの幸福と優しさとが流れ込みますように。

 穏やかな時間が小さな砂時計ぐらいに流れた頃、ユリウスは顔を上げ、いつにもまして美しい眼差しで僕たちを交互に見つめた。

「ありがとう、もう大丈夫だ」

 その言葉を聞いて自然と笑顔がこぼれる。

「全く、君たちはたいしたものだ」

 彼の顔はみずみずしい笑顔であふれ、紫色の瞳には喜びが満ちていた。

「人の温もりがこうも心にしみるとは……。思惑を気にすることなく抱擁が与えられるのは、実に幸せなことなのだな」

 彼はそう言うと両手を大きく広げ、いきなり僕たちを力強く抱き寄せた。

「ユリウス、すごい力ですね。さすが鍛えているだけのことはある」

 僕がそのあまりの強靭さに驚いてつい感想をもらすと、彼は朗らかな笑い声を上げて僕を見た。

「すまない、つい力が入ってしまった。学生時代に身体能力の測定をする時はいつも、加減をするのに一苦労だったのだよ。気を抜くと、つい普通の人間の平均値をはるかに超えてしまうからね。おそらく私も変化が進み、以前より能力が上がっているのも原因だろうが、最近は特に力加減に苦労する。まだ物を壊してはいないが、ようやく力加減が掴めるとまた変化を起こして調整が必要になるのだ。君たちも同じだろうが、このことはしばらく続くのだろうな」

 ユリウスの言葉に僕は感ずるものがあった。自分の手を握ってみると、確かに昨日より力加減が変わっているようである。そこでユリウスに後でハンドグリップを握って試させて欲しいと願い出ると、彼は「ついに壊されるかもしれないな」と快諾し、さらに明るい笑顔を見せた。

 ユリウスが屈託のない笑顔を僕たちに向けたことは心から嬉しかった。それは彼に寄り添えたという小さな自負心を抱けたことのみならず、彼と僕たちとの間にあったささやかな溝――それは地位や年齢の差なのだが――が埋まってきていることを意味しているように思えたからであった。

 僕たちは朝食の後片付けをして少し休むと、運動器具のある部屋に早速向かった。昨日試した器具を昨日よりも容易にこなしていることがわかり、三人とも顔を見合わせて驚く。

 見た目に劇的な変化が起こっていないことも不思議なのだが、まだ半日ほどしか経っていないにもかかわらず、なぜこのような変化が驚異の速さでもたらされているのか。そのことが何よりも不思議でならなかった。だが、考えても結論が出そうにもないこの謎を、僕たちだけで解明することはほぼ不可能であろう。ただ、はっきり言えるのは、異種族の力を身に宿すということは、これほどまでに人間の理解を超えてしまうのだ。

 それぞれが自分の能力を確かめながら調整する中、トリッキングも昨日と比べて格段にできるようになっており、僕は空中を舞っている時でさえ、僕が受けている五感を冷静に把握することができていた。今の僕が可能とする動作の限界はどこにあるのか。動きたい方向に体が向き、やりたい動作が少しずつできるようになってくると、いろいろと自分の能力を試してみたくなるのは生物本来の欲求なのかもしれない。僕はいったい、どこまで可能性を秘めているのであろう?

 僕はうつ伏せになって床に横たわると、腕と足に力を込めて飛び上がってみることにした。きっとできる――そう考えて思い切って実行に移した次の瞬間、体が宙に舞い、無事着地を果たす。思っていた以上の結果に驚いていると、イェンスが「すごいじゃないか、クラウス! 僕は興奮したよ」とはしゃいだ様子で声をかけてきた。そして彼も同じように床に伏せると、軽やかな跳躍を交えて着地した。その一連の動作を客観的に見ることで、僕はもれ出る言葉さえ失った。それは以前の僕なら、いや普通の人間なら不可能ではないかと思われる動作を、軽々とこなしていたからであった。

「君たちもまた、これから悩むことになるかもしれない。高い身体能力を隠しながら生活するのだからな。外だと目立つから、君たちが住んでいる部屋で、可能であれば難易度の高い運動を続けたほうがいいだろう。そうでなければ、有り余る体力を持て余して息苦しくなる」

 ユリウスは真面目な表情で僕たちを見て言った。それは彼の経験からでもあろう。彼は階下に人が住んでいるのであれば、マットなどを敷いて配慮してから思う存分体を動かしたほうがいいと付け加えた。イェンスと僕は彼の助言を真剣に受け止めると、アパートでも今後続けていくことを誓い合った。

 身体の変化から、さらに能力の変化へと話題が移っていく。その流れでイェンスがユリウスに魔力について遠慮がちに尋ねたのだが、ユリウスは穏やかな表情で答えた。

「以前より強くなったような気はしているのだが、確信は持てない。今進めている法令の改正手続きを終わらせ、幾つかの会議に出席し、その他に他の閣僚との会合や大統領と行われる諮問会議にも出席してとなると、普段の業務もあるがゆえに長期休暇を取るのも至難の業だ。だが、なんとしても休暇を取って父に確認しないことには」

「本当に忙しいのですね」

 僕は思わずしかめ面でつぶやいたのだが、彼は意に介さず微笑みながら言った。

「それでも私が望んで就いた地位だ。時には多くの仕事が一度に来て大変な思いをすることもあるが、やりがいがある。いずれにせよ、人間として暮らす人生より、異種族の地で半人間として暮らす人生のほうが圧倒的に長い。だから、今は人間としての役目を全うするつもりなのだ。時々大臣として、大元帥としての権限をずる賢く行使するがね」

「そうでした、あなたは大臣であり、大元帥でした。外で会うことは無いでしょうけど、万一思いがけず人前で会うことになったら、あなたとは距離を置き、赤の他人のように振る舞って敬意を払った言動をするよう注意しないと」

 僕が力を込めて言うと、そばで聞いていたイェンスが急に笑い出した。それにつられたのかユリウスまでもがなぜか笑い出したので、一様にどうかしたのかと尋ねる。すると、彼らは笑顔のままで、「君は本当に他人の権力やお金に興味が無いのだね」と口をそろえて答えた。

「それってどういう意味?」

 僕には意味が全くわからなかったため、つい怪訝な表情で彼らに聞き返す。

「クラウス、君は最高だな」

 イェンスはそう言うと僕の肩を軽く抱き寄せた。彼の言葉にますます戸惑いを覚えた僕は、思っていたことを正直に口に出すことにした。

「だってそうじゃないか。いくら金持ちや大臣と友だちでも、すごいのは彼らであって僕じゃない。誰かに自分を認めてもらうのであれば、僕自身の力だけでそれを示さないと。だから、ユリウスの力を嵩に懸かるのは友情じゃない。あなたに恩を着せたり、好意を押し付けることもしたくない。自己満足のために、うわべだけの人間関係を惰性で続けたくないんだ。そんな薄っぺらい友情は僕には向いていない。きっとすぐに息が詰まる。僕が持てる最良のものを押し付けがましくない程度に差し出せて、それでいて相手が幸せなら僕はそれでいいんだ」

 次の瞬間、僕はイェンスに強く抱きよせられた。突然の出来事に驚いていると、彼は一旦僕から離れ、あふれんばかりの笑顔で僕を見つめた。

「君が、美しい君が僕の親友だなんて、本当に夢のようだ」

 言い終わるや否や、イェンスは僕を再び抱きしめた。僕は彼の言葉に照れて、ただじっと彼を抱き返したのだが、やはり彼がそこまで言う理由がわからないでいた。僕には至極当然の考えであり、それを無骨な言葉で伝えただけなのだ。

「それでは、私にも君を抱擁できる光栄な気分と喜びとを味あわせてほしい」

 今度はユリウスが僕を抱きしめた。彼は僕のほほにキスをすると、美しい眼差しを僕に向けながら言った。

「クラウス、君の言葉は本当に私の胸を美しく打った。君との友情に心から感謝している。それにしても、君という存在は実に不思議だ。私はイェンス、君の存在に長らく気付けないでいた。イェンス、君もそうだろう。私のことを知ってはいても、同じような境遇を持っているという直感はずっと無かったのではないか?」

 ユリウスの問いに、イェンスは静かにうなずいて返した。ユリウスはさらに続けて言った。

「君たちの話を聞くたびに、前から実に不思議だと考えていた。君たちが徐々に親しくなるにつれ、いろいろな巡り合わせが起こっている。イェンス、君がクラウスに出会って彼の美しさに揺り動かされて心を開き、本来の自分を取り戻していったことによって、それまでの君なら選択しなかった行動を取るようになり、君たちが同時にヘルマンと出会うことにつながったのだろう。そしてそのことがきっかけとなり、私に直感を起こさせるまで、君たちに異種族の能力の変化が訪れた。君たちは本当に相性が良いのだな」

 ユリウスが僕に向けた言葉は嬉しくもあり、光栄でもあった。しかし、分相応でないという理性までもが起動したので、僕は咄嗟に反論した。

「ありがとうございます。でも、あまり褒めないでください。こんな僕が図に乗って、自己の力量もわきまえずに横暴な態度を取るようになるかもしれない」

 それを聞いた途端、イェンスとユリウスがまたしても笑い出した。またしてもその笑いの意図がつかめず、困惑から彼らをじっと見つめる。

「君が失礼な態度を取るようになったら、それはそれで受け止めるさ」

 イェンスの言葉にユリウスが微笑みながら追従して言った。

「君なら、仮に自分自身を見失ったとしても、自力でまた本来の自己を見つけ出す。君はそういう人だ」

「僕もそうだと考えている。ねえ、クラウス。僕は君と親しくなるにつれ、あの時勇気を出して良かったと本当に感じているんだ」

 イェンスの言葉にユリウスが興味深そうな表情を見せた。

「君と初めて出会った時、君は心を開いていなかった。それは僕についても言えることだけどね。君はずっと僕に遠慮していて、僕に優しい態度と丁寧な言葉をかけてくれているにもかかわらず、僕が話しかけるとどこかぎこちなかった。今なら君のその優しい性格が、僕を気遣っていたのだと理解できるけど、当時の僕はかえってそのことで非常に君に興味を持つきっかけとなったんだ。あの頃、僕はギオルギ、オールにローネといったごく少数の人を除いて、話しかけてくる人のほとんどに下心を感じていた。僕に興味を持たない人もいたけど、僕もその人に興味を持てなかった。生意気だろう? そんな時に君と知り合ったのだけど、君は僕を一人の個人として扱いながらも、僕を特別扱いすることもなく、君自身のことでも控えめだった。その君が独自の世界を持っていて、そこにその美しい精神を置いていることが初めて会った時にわかると、僕は君と親しくなりたいと思ったんだ。だけど、どうしたらいいかわからなかった。誰かと親しくなりたい、と強く思ったのは初めてのことだったからね。もし、僕が君の領域に無遠慮に踏み込んで君に失礼な奴だと思われたら、僕たちはそこで終わる。一方的に親しくされることで不快な気分になることは僕自身がよく知っていたから、君が戸惑った態度を見せたあとで再び君に話しかけることに、かなり不安を感じていたんだ」

 彼が当時そのような状況であったことを露にも思っていなかった僕は、ただただ驚くしかなかった。

「クラウス、僕たちが初めて出会った時、ローネと一緒に昼食をカフェで取っただろう? 僕は両親から、誰にでも社交的に振る舞うよう言われて育ってきたから、初対面の人でもある程度会話を続けることはできる。でも、実を言うとこのエルフの特徴もあって、初対面の人と積極的に話すことは昔から好きではなかったんだ。君と話して僕が社交的でいる必要が無いことを感じると、僕はますます君と親しくなりたいと思った。その君は、どことなく不思議な雰囲気を漂わせていたけど、さっきも話したとおり、ずっと控えめでおとなしかった。僕は君に失礼なことをしたんじゃないかと思い悩みながらも、ローネの言葉に甘えて君と一緒に先にカフェを出ることにした。ふと空を見上げると、澄んだ美しい青空に一筋の雲がたなびいていて、心が洗われるようだった。その時、君の様子が気になって君を見ると、君も同じようにその雲を見上げていた。空を一心に見つめる君の横顔と遠くを眺める眼差しに、僕は美しさを感じた。それで思ったんだ。『彼は僕と同じタイミングで同じ空を見上げ、同じ雲を見つめていた。お互い感性が似ている。きっと僕たちは仲良くなれる』。僕はそれから勇気を出して、君を食事に一人で誘った。知ってのとおり、顔見知りになって何度か挨拶を交わすようにはなったけど、最初に会ってから一か月以上も経っていたし、果たして僕が一方的に君を誘っているのではないかと不安に思っていたんだ。でも、君ははにかんだ笑顔で快諾してくれた。食事中も、君は控えめでも僕が以前話したことをちゃんと覚えていて、それに関する情報をどこかでたまたま拾ったのかはわからないけど、いずれにせよ僕にとって好ましい情報を僕に伝えてくれたりした。その後も君は僕を見つけると、決まって僕が一人の時を見計らって遠慮がちに声をかけてくれた。僕は最初、なぜ君がそうしているのかで悩んだのだけど、君が優しく成熟した性格で、僕とその相手の邪魔をしたくないという意図を僕に向けていたことに気が付くのに、時間はさほどかからなかった。それに気付いてから、僕は君に避けられていないどころか、丁寧に対応してもらっていることも理解できて、本当に嬉しかったんだ」

 僕は終始、彼の告白に驚いたままであった。当時の彼に、そのような素振りは一切見受けられなかった。彼の指摘のいくつかは確実に当たっており、そのことが却って僕の未熟さを如実に物語っているように思えたので、僕は自分の不甲斐なさに落胆しながらイェンスに言葉を返すことにした。

「ごめん、僕は君の様子に全く気付けなかった。最初に会った時、正直に言うと、地味な僕が君みたいな華やかな人に会うことが信じられず、本当に不思議な感じがしたんだ。君と話してすぐに、君が誠実で澄んだ心を持っていることには気付いたのだけど、そうなるとますます僕に話しかけてくるのが信じられなかった。僕は君ほど誠実でも無かったし、澄んだ心も持っていなかったからね。だから、君が本当の僕を知ってがっかりしないよう、僕も努めてそうあろうとしたんだ。それに僕はずっと君に感嘆してきた。君と親しくなって君を知るにつれ、君が全てにおいてあまりにも美しく、素晴らしい才能を発揮するものだから、『こんなにも完璧な人が存在するのか!』とね。一緒にいて学ぶことが多いし、そうでなければただただ心からすごいな、と思ってきたんだ」

 僕の頼りない告白に、イェンスは対照的にあたたかい笑顔を浮かべ、「君は特別な存在だ」と言って僕を優しく抱きしめた。彼はそのまま僕の頭にキスを贈ると僕の頭を優しく撫でおろしたので、僕は贈られた彼の友情につい感涙してしまった。

「やはり、君たちの相性は非常に良かったのだな。クラウス、君には本当に感謝している。君は変化を続けながらもそのままでいい。言葉にすると陳腐だが、君のおかげで私たちが巡り合ったと思えるのだ。きっとこの先も、君の存在が重要な役割を果たしていくのだろう」

 ユリウスはそう言うと僕たちに近付いて抱き寄せ、イェンスと同じようにそれぞれの頭に優しくキスをしていった。

「お茶でも淹れよう」

 ユリウスの言葉に、イェンスが彼のほほにキスを贈りながら言った。

「ユリウス、ありがとう」

 その行動が自然で美しかったので、僕もぎこちなく真似してユリウスのほほにキスを贈り、感謝の言葉を伝えた。ユリウスはにっこり笑うと「君たちから受けるキスは光栄だ」と言ったのだが、すぐに「他人には見せられないな」とおどけた口調で付け加えた。

 僕はシモとホレーショにも同じようなことができると考えていた。しかし、それ以外の人に対して同じような親愛の行為を見せることは、到底考えられなかった。

 抱擁とキスを贈る行為は、相手への感謝と喜び、そして親愛と尊敬とが非常に美しく織り成して僕を満たしているからこそ、不格好ながらも行動に移せていた。地方国ではそれが挨拶として行われているところも多々あるのだが、ドーオニツでもここアウリンコでも、様々な文化や習慣を持った人たちを元に構成されているため、新年を祝うイベント以外で誰かと抱擁することは男女を問わず稀であり、家族以外では年配の世代でたまに見かける程度であった。

 親愛をこのような行動で示す行為は、そのことを相手が心から受け止めてくれるとわかっているからこそ、初めてその意味が成立するに違いない。相手と僕との間に温度差があったら、こうも僕の心をあたたかく満たしてはくれないことであろう。そのことはイェンスとユリウスが僕と同じ気持ちでいることを意味しており、彼らの表情と雰囲気からでも容易に推察できていた。

 ユリウスの美しい紫色の瞳を見てから、イェンスの輝く緑色の瞳を見る。そこには確かに清らかな光が放たれていたので、僕はしばしその美しさに見入った。光は僕にとって、ルトサオツィのかつての説明どおり、その人の本来の美しさを表す明確な指針となっていた。その光を放っている瞬間の、その人が持っている刹那の美しさは、自然や星空が持つ美しさにおよそ匹敵するほどの輝きを放っていなかったか。

 人の本質とは案外、素朴で美しいものなのかもしれない。それを意図的に、もしくは周囲の環境に合わせ、ありとあらゆる考えと複雑な感情とでできたもので覆ってしまったからこそ、隠され消されていくのであろう。そうこうしているうちに人々がその殻の重さに耐え切れずに苦しむようになると、ある者は怒りや悲しみを露わにしながら社会や他人に殻ごとぶつけ、ある者は耐え切れずにその場でつぶれ、またある者は意図的に覆いを外して本来の素朴で美しいものへと回帰していくのかもしれなかった。このことは以前、実家で考えたボロボロになった自己防衛の意志に似ているように思われた。そのことに気が付くと、以前の僕なら考え付きもしなかった思考が、変化とともに僕にもたらされたことを控えめに受け止めた。僕は僅かでも確実に前に進んでいるのだ。

 ダイニングキッチンでユリウスがお茶を淹れるのを手伝いながら時刻を確認すると、早くも正午になろうとしていた。その様子に気が付いたのか、イェンスがしんみりとした表情でつぶやいた。

「相対性理論のとおりだ。楽しい時間というのは実に経つのが早いな」

「本当にそうだね」

「シモとホレーショはそれぞれ自宅で待機している。彼らには午後三時頃に迎えに来るよう伝えてあるが、あっという間かもしれないな」

 ユリウスは話しながらお湯をティーポットに注ぎ、イェンスに向けて言った。

「イェンス、すまない。その棚からトレイを取ってくれないか」

 イェンスがトレイを取ってユリウスに手渡すと、彼はティーポットとティーカップとソーサーを乗せてリビングルームのテーブルの上に静かに置いた。

「君たちとこうしてお茶をするのが、すっかり定番になったな」

 ユリウスが優しく微笑みながらティーカップにお茶を注いでいく。白い湯気が揺らめきながら立ちのぼる中、琥珀色の澄んだ液体がティーカップの中で優雅に踊っているのが見えた。

「またこうやってお茶をしながら話す機会は、これからもたくさんあるでしょうか?」

 厚かましいと思いながらもユリウスに尋ねる。しかし、僕はどこかで彼の優しい表情に期待していた。そのユリウスは、僕たちにあたたかく微笑んでからはっきりとした口調で答えた。

「もちろんだ、君たちに会える時間を私は喜んで作ろう。私はこの半年ですっかり君たちの魅力に惹きつけられ、君たちとの対話を心待ちにするようになってしまった。次に会えるのはすぐではないだろうが、それでもそう遠くは無いはずだ。何より私たちには普通の人間より時間がたっぷりある。焦らずとも君たちと友情を深めていくことができる。それが何より心強いし、喜ばしい」

「ユリウス、もっと親しく話しかけても構いませんか?」

 イェンスがはにかんだ様子でユリウスに尋ねると、ユリウスは強い喜びを顔中にあふれさせながら力強く返した。

「もちろん、大歓迎だ。私の立場上、君たちが気を遣うのは仕方がないと思っていたが、君たちがもっと親しくしてくれるのは私としても本望だ」

「ありがとう、じゃあそうするよ」

 敬語を止めたイェンスに続けて、僕もくだけた口調で言った。

「ありがとう、ユリウス。それとこのお茶、とっても美味しいよ」

「そうか、美味しいか。良かった」

 ユリウスは輝く瞳で僕たちを見てから、ティーカップを優しく持ち上げて紅茶を口にした。その姿が非常に優雅かつ若く見えたので、正直にそのことをユリウスに伝えると、彼は紅潮したほほで弾むように言葉を返した。

「本当か? 若く見えるだけではなく、実際に若くなっているのかもしれないな。魔力を持っていると実感し始めてから、不思議な感覚が全身を巡るのだが、おそらく持て余し気味なのだろう。君たちと一緒にいることで、さらに良い影響を受けているのも一因だろう。さっき体を動かした時に、ずいぶんと体の動きに切れを感じたのだ。五感を開放したらさらにその変化は顕著かもしれないね。しかし、このままだと他の者たちに怪しまれるな。うまく年相応の動きを見せて隠さなくては」

 最後の言葉は決して他人事では無かった。僕も心に留めると、彼らとその後も変化の話などをしながら過ごした。そして三人で昼食を作って食べるといよいよ親密さが増し、ユリウスを実の兄のように慕うほど打ち解け合うようになっていた。

 イェンスと僕は家族のことでも仕事の話でも、ユリウスに気兼ねすることなく大胆なことまで話した。ユリウスは全てを興味深そうに聞き入り、僕たちがかつて体験したことを同じ空間で今共有しているかのように振る舞った。また、ユリウスのほうからも興味深い話をたくさん僕たちにしてくれた。それは彼の個人的な出来事であったり、政府の裏話や著名人の意外な一面であったのだが、彼はそれらの話をなるべく客観性を保ちながらも控えめな表現で話してくれた。その他にも、ユリウスの話の中で、彼が体験してきたことがイェンスの身に起こったことと非常に似ていることが多く、その度に僕は似通った運命を持つ彼らを慮った。ユリウスは一通り話すと、「君たちはすでに気付いているだろうが、今話したことは今後君たちが普通の人間として過ごす際の参考になるはずだ」と付け加えたので、僕も自己の変化に役立てるよう彼らの言葉を力強く胸に留めた。

 ユリウスのスマートフォンが着信を知らせる。別れの時間が間近に迫ってきているのだ。シモと電話しているユリウスを見ながら、彼と次に再会するまでの期間を前向きに捉えようと、どこか感傷的な自分をなだめて不確かな未来にそっと視線を向ける。

「時間どおりに迎えに行っていいかと尋ねているのだが、君たちも彼らと会えば積もる話もあるだろうから、予定どおりだと伝えていいかい?」

 ユリウスが優しく尋ねてきた。僕たちがうなずいて返すと、彼は予定どおりであることをシモに伝えた。そのやり取りを、僕は甘えるようにイェンスに寄りかかって見守った。

「ユリウスと別れるのは本当にさびしいけど、シモとホレーショに会えるのは確かに嬉しいんだ」

「実にそのとおりだ。そして言葉で表している以上に内心は複雑だ。ねえ、クラウス。僕は、僕たちがシモとホレーショと溝をまたがずとも笑い合い、尊敬し合いながら友情を深めることが可能なんじゃないかと思い始めている。だけど、その掛け橋は僕じゃない。おそらくユリウスでもない。君だ。君ならきっとそのことを可能にしてくれる」

 僕は彼の言葉に驚き、思わず離れて彼の顔を見た。彼はいつになく真剣な表情であったのだが、僕の肩を抱き寄せたかと思うとそっとささやいた。

「以前、僕がエルフの女性との恋愛に憧れていると言ったのを覚えている? 確かにその気持ちは今でもあるのだけど、君と出会って友情を深めてからはさほど重要じゃなくなってきた。僕は充分満たされている。君に愛を感じるし、君からの愛も感じている。愛というのは何も、恋愛や家族の間柄だけでは無いということがわかってきたんだ」

 僕は彼の言葉に感激し、あふれる感情をこらえることなく彼に寄りかかった。瞳がまたも感涙するのを許すと、いっそうあたたかい喜びで心が満ちていく。彼の言葉はまたしても、僕の中で形にならずに存在していた思いに力を与えていた。

「そのとおりだ。私はウィスカのことを今でも想っているが、それとは違う愛を君たちに感じている。そしてそこから得られる感情が、実に心地良いのだ」

 ユリウスの眼差しもまた穏やかで、慈愛に満ちていた。二人からの思いがけない告白に全身が感謝と誇りで満たされる。僕は二つの美しい心に触れた感激が冷めやらぬよう、なるべく心を込めて今の気持ちを彼らに伝えることにした。

「イェンス、ユリウス。ありがとう。僕もずっと同じことを感じていた。きっと僕たちは、愛の本質の近いところにいるんじゃないかって思っている。その、普段なら照れくさくて言えないし、他の誰でも無い君たちだから話せるのだけど、いや、こういった会話も抱擁もキスも、君たちだからこそできるのであって、やはり他の人にはできない。できないというよりしたくないんだけど」

 しかし、途中である思いに気が付き、すぐさま付け加えて言った。

「いや、シモとホレーショになら同じようにできるな。けど、きっと彼らは僕からの抱擁とキスを嫌がるだろうね」

 するとそれまで静かで穏やかな表情を見せていたユリウスとイェンスが、突然堰を切ったように笑い出した。

「君、試してみればいいじゃないか」

「きっと表面上は嫌がるだろうが、彼らならきちんと受け止めるだろう」

 イェンスが朗らかに言った言葉に、ユリウスもまた朗らかな笑顔で追従して言った。彼らの笑い声につられ、僕も結局は笑い出してしまったのだが、先ほどまで流れていたしっとりした美しい世界があっという間に互いの心の中へとしまわれ、軽快な現実に戻っていたことは何よりも愉快であった。

 それでも、僕の不用意な発言を笑いをこらえながら謝ることにした。しかし、二人とも屈託のない笑顔で「気にするな、君らしくていいじゃないか」とあっさり返したため、それ以上言及することはしなかった。僕の見当違いの発言も、良いほうに作用することもあるのだ。

 ユリウスのスマートフォンが再び鳴り響く。電話の相手はシモからであり、玄関前に到着したという連絡であった。僕たちは帰り支度を急いで整え、颯爽と玄関先へと向かった。

 ユリウスが扉を開けると、シモとホレーショが並んで待機しているのが見えた。そこで三人とも軽快な足取りで彼らの元へと向かったのだが、僕たちの明るい表情と裏腹に、彼らは少し戸惑っているようであった。

「シモ、ホレーショ。迎えに来てくれてありがとう」

 僕が笑顔で話しかけたことで、ますます彼らは困惑したらしかった。ユリウスがそれに気が付き、どうかしたのかと彼らに尋ねる。すると、シモが控えめな口調で言葉を返した。

「いえ、名残惜しんだ様子でやって来るだろうと考えておりましたから、彼らの明るさを意外に感じていたのです」

「彼らとは近いうちにまた会うつもりでいるから、名残惜しさも薄まったのだろう。それにクラウスもイェンスも、君たちに会うのを楽しみにしていた。一緒に過ごしてわかったのだが、彼らにとっても君たちは特別な存在だ。私のことは気にせず、四人で楽しく過ごしながら帰ったらいい」

 ユリウスの言葉にシモとホレーショが表情を一瞬緩める。しかし、彼らはすぐさま真摯な眼差しで「お心遣いに感謝いたします」と言葉を返した。

「お前たちは全く馬鹿だな。ユリウス将軍は非常にお忙しいお方だ。その将軍と一緒に過ごす時間を優先させれば良かっただろうに」

 シモの言葉にホレーショも追従するかのようにうなずいたのだが、二人の眼差しにはやはり優しさがあふれていた。

「ユリウスと一緒にいる時間も大切だけど、君たちと過ごす時間も僕たちには大切なんだ」

 僕はあえて、彼らの前で敬称を付けずに『ユリウス』と呼び捨てにしたのだが、彼らは僕が呼び捨てしたことに驚きもしなかった。その高い順応性に感嘆しながら、なるべく心を落ち着けて彼らに話しかけた。

「ねえ、シモ、ホレーショ。君たちには心から感謝をしている。その感謝の気持ちとして僕から抱擁とキスを贈りたいのだけど、受け取ってもらえるだろうか?」

 それを聞いた途端、彼らは困惑とも驚愕ともとれる表情で僕を凝視したので、近くで聞いていたイェンスとユリウスがまたしても軽快に笑い出した。

「クラウス、君は本当にいい奴だな」

 ユリウスの言葉に照れながらもシモとホレーショを見る。彼らは瞳に優しさを残したまま、わざと無愛想な表情で言った。

「お前は本当に変わっている。俺たちと今ここで抱擁しあう時間があるんなら、将軍と話す時間にあてればいいだろう。だが、お前の申し出をあえて受け取ろう。ただし、念のために言っておくが、キスは口以外にだ。妻以外にこの口は渡せないのだ」

 シモはそうは言いながらも、両手を広げて僕の抱擁を受け取った。僕が少し背伸びをして彼のほほにキスをすると、彼もまた同じように返した。

 続けてホレーショの前に立つと、彼はわざと「けっ、お前と抱擁とキスをかわすなんてどうかしているぜ」と腕を組みながら悪態付いたのだが、僕が言葉を返すより前に彼は両手を広げた。そもそもホレーショのほうから昨日駐車場で僕を抱擁してきたはずなのだが、それをおくびにも出さない彼を優しく抱擁した途端、ものすごい圧力とともに抱き締められる。彼はやおら僕を離したかと思うと、わざと凄んだ口調で「口にキスをしたらぶっ殺す」と脅してきたのだが、彼が身をかがめてくれたこともあって彼のおでこにそっとキスを贈ることができた。

 それからシモとホレーショは、イェンスとユリウスからも同じように抱擁とキスを受け取った。特にユリウスが彼らを抱擁し、彼らのほほにキスをすると彼らはその瞳にあの光を放ち、感激した面持ちでユリウスを見つめ返した。

「では、シモ、ホレーショ。彼らを頼んだぞ」

 ユリウスの力強い声に、彼らが凛々しい顔付きで返礼する。僕はイェンスとともにその様子をじっと見守っていた。

「車に乗れ」

 ホレーショの号令で車に乗った。車が動き出すにつれ、ユリウスの姿が徐々に小さくなっていく。その様子を寂寥とも感謝とも何とも言えない気持ちで見守っている中、ユリウスがそっとドアの向こうへと消えていった。

 車がユリウス邸宅のゲートを通過する際、イェンスと僕は警備の男性たちに車内から一礼をした。昨日の若い男性はとっくに勤務時間を過ぎたのかいなくなっていたのだが、それでも彼らに対する僕たちの敬意は変わらなかった。

 ゲートを過ぎるや否や、イェンスが真ん中に寄って僕にもたれかかってきた。僕も同じように彼に寄りかかると、シモがすかさず「お前たちは本当に仲がいいな」と声をかけて笑った。

 帰りの車内はおしなべて笑い声が絶えなかった。しかし、シモが娘のアンゲラから僕たちのことをそれとなく尋ねられた話題になった途端、様子は一変した。彼は明るい口調で「相手が誰であろうと、娘に関わる男に対して俺は絶対審査を厳しくするようにしている」と言ったのだが、少しだけ捉えることができた横顔には鋭さがあった。ホレーショが隣で「当然だ。俺の娘にちょっかい出す男が現れたら、ぶっとばしてやる」と息巻いたので、父親という側面を持つ者同士で会話が盛り上がる。僕は昨晩のあどけないアニェスの笑顔を思い返すと、その日がずいぶんとまた遠い未来にあるように思えたのだが、いつか彼らの愛娘であるアンゲラとアニェスとの交際を願う男性が現れた際、彼女たちの父親の厳しい審査を無事くぐり抜けて幸せを得ることをそっと願わずにはいられなかった

 車がドーオニツに入る。僕はふと案を思いついてイェンスにささやいた。

「ねえ、彼らをゲーゼのレストランに連れて行ってはどうだろう? 夕食の時間には少し早いけど、あのレストランは確かカフェメニューもあったよね」

 それを聞いたイェンスが、目を輝かせながら小声で返した。

「それは妙案だ。家族と一緒に夕食を取るために彼らから断られるかもしれないけど、提案するだけしてみよう」

 そこでイェンスは、何か考え事をしているのかぼんやりと前方を眺めているシモと、普段どおり冷静に運転しているホレーショに落ち着いた口調で話しかけた。

「君たち、もしよかったらドーオニツのレストランでお茶をご馳走させてくれないか? 君たちが家族と少しでも長く過ごしたいのであれば、もちろん遠慮なく断っていい」

 それを聞いたシモとホレーショが前方で耳打ちし合った。僕たちが後部座席でその様子を見守っていると、信号で停まった時にホレーショが振り返って言葉を返した。

「わかった。お前たちの誘いに乗ろう。ただし、お前たちは気を遣うな」

 しかし、イェンスと僕は首をやんわりと横に振り、彼らを真っ直ぐに見つめながら力強く言葉を返した。

「気を遣っているんじゃない。これは僕たちなりの、君たちに対する感謝と親愛の気持ちだ。もちろん、君たちに奢るからといって何かを期待しているわけでもない。僕たちは君たちと長く友情を続けていきたいと願っている。君たちなら僕たちの気持ちを汲んでくれるはずだ」

 その言葉を聞いた途端、ホレーショの瞳が微かに潤い、無言になった。その隣でシモもまた、押し黙る。しかし、僕はこの沈黙に嫌な雰囲気を全く感じていなかった。

「わかった」

 ホレーショがようやく言葉を発したその時、後ろの車からクラクションが鳴らされた。すでに信号は青へと変わっており、ホレーショがすぐさま前を向いて急いで車を走らせる。車内はまたしても静かになった。

 ドーオニツの空が夕焼け色に染まり始める頃、僕たちはあの公園近くまで戻って来ていた。レストランの近くにある駐車場を思い出したので、ホレーショにその場所を伝える。すると運よく駐車場が空いていたので、僕たちはそこに車を停めてレストランまで歩いて向かうことにした。

 体格のいいシモとホレーショとともに歩いているとますます人目を引いたのだが、イェンスと僕は一緒にいることが嬉しくて一向に気にならなかった。レストランに到着した時、彼らはしげしげと外観を眺めてから店内へと入った。店員に窓際の席を案内されたので、彼らに窓際を譲る。イェンスと相対して座った時、彼はいつものように気品ある微笑みを僕に向けて「いい席で良かった」とささやいた。

 メニューを開くなり、隣に座っているホレーショがため息交じりにつぶやいた。

「昨日も今日も甘い誘惑に負けそうだ」

 彼はケーキの写真を眺めながら真剣に悩んでいるらしかった。僕がその様子を微笑ましく見ていると、シモも唸り始めた。

「甘いものは控えているのだが、これはまた食欲をそそるな。タルトかケーキか……」

 彼らは少し悩んでからそれぞれ好きな甘味を選び、紅茶も合わせて決めたようである。僕たちが給仕の男性に目配せして注文を済ませると、シモが改めて感慨深げに店内を見回したので、イェンスがそっと彼に話しかけた。

「ひょっとして、このレストランを知っていたの?」

「そうだ。ここはゲーゼゆかりのレストランだろう? 以前に警護仲間からこのレストランの話を聞いたことがあったんだ。やはり、ここだったか」

 彼はそう言うと外の風景に目をやった。雪が止み、雲が晴れて茜色に染まる寒空の下を人々が行き交うのを眺めているうち、僕はふと気になったことがあったので小声で彼らに尋ねることにした。

「前も、このレストランの近くまで来たことがあるんじゃないのか?」

 僕の言葉に真っ先に反応を示したのはホレーショであった。彼は僕のほうに体を傾けると、ようやく聞き取れるほどのかなりの小声で答えた。

「お前の言いたいことはわかった。さっきまでお前たちが会っていた、『あの方』のことだろう? 職務違反だが、お前たちには話そう。去年の秋、あの方はドーオニツにあるレストランに行くとおっしゃった。俺たちが警護を担当するようになってからそれまで、ドーオニツに私用で行く話は一度も無かった。不思議に思ったのだが、シモと事前に下調べをし、段取りをつけてからあの方をお連れすると、このレストランの近くに着くなり『申し訳ないが一人で食事を取りたい。お前たちはしばらく自由に散策してくれ』と指示を出された。もちろん散策もせず、付近でしばらく待機していると、あの方からその後、『ここから移動するが警護は不要だ。私の姿を確認することを控えて、そのまま車内で待機していてほしい。これは私のわがままだ』と連絡が入った。俺たちはそれでもこのレストランを一人で出たあの方の姿を確認したのだが、いつにない強い口調が気になり、その後は指示どおりに車の中で待機していた。だが、その後も一向に連絡が来ない。もしやと不安に駆られていると、ようやくあの方から連絡があった。『公園の近くまで迎えに来てほしいのだが、私が公園からある程度離れたところまで歩いていく。すまないが、私が一人でも駆け寄ることなく、なるべく目立たないようにその場で待機してほしい。合図をしたらいつもどおりにお願いする』という内容だった。あの時は初めての事例ということもあり、警護の都合上、どうしても車を複数台手配する必要があった。そのため、ある程度目立つのは避けられなかったのだが、それでも何か特別な事情があってわざわざドーオニツまで向かわれたあの方のご意向を察して、なるべく一般車両の通行の妨げにならないように公園へと向かい、少し離れた場所に車を停めて待機することにしたのだ。連絡が入ったことでひとまず安堵しているうちに、あの方が男性二人と一緒に公園から出てくるのが見えた。そして一人でこちらに歩いて来られ、俺たちを見るなり軽く手を挙げたのを確認してからシモと急いで駆け寄った。思い返せば、あの方はお戻りになった際、明らかに表情が今までにない喜びで満ちあふれていた。おそらくだが、あの方がお前たちと初めて出会ったのだろう。なぜ、あの方がご多忙でありながらも、日程の合間を縫ってまでこのレストランに出向かれたのかはわからないが、どうだ? 概ねそうなんだろう?」

 そこまで言うとホレーショは突然押し黙った。近くには給仕の男性が注文した甘味と紅茶を持ってこちらに向かっていた。おそらくは会話が聞かれるのを警戒して口をつぐんだのであろうが、それまでどこか険しかったホレーショの表情に、明らかに少年のようなあどけない笑顔が付け加えられていく。それはチョコレートケーキに生クリームが添えられたものが、ホレーショの目の前に丁寧に置かれたからであろう。僕はその繊細な表情を見守りながら、給仕の男性が充分離れたのを確認してから小声で言葉を返した。

「やっぱりそうだったんだ。実はあの時、このレストランで偶然彼と出会ったんだ。でも、きっと僕たちは何かに導かれていたのだと思う。そうでなければ、君たちとも出会えなかったし、こんなふうに友情を築くこともできなかった。あの晩には感謝しかないな。さあ、食べて。君の心がすでにそのケーキに向いていることぐらい、わかっているさ」

 僕が微笑みながら勧めると彼は僕の肩をやおら掴み、勢いよく僕を彼のほうへと近寄せたのだが、急に驚いた顔を見せたかと思うと慌てて手を離して小声でぼやいた。

「危なかった、もう少しでお前のほほにキスをするところだった。くそ、俺はいったいどうしちまったんだ?」

 それを聞いたシモが笑い出し、イェンスも声を押し殺しながら笑った。

「お前もすっかり感化されたんだ。早く食べろ、ホレーショ。お前の分も食っちまうぞ」

 シモがそう言うと、ホレーショは「言われるまでもない」と言い返し、ケーキを小さくすくった。そしてゆっくりと口の中に入れたかと思うと、じっくりと味わうように食べ始めた。

 彼のその姿があまりにもいじらしく見えたので、僕は微笑ましい気持ちで眺めていた。それに気が付いた彼が鋭く僕を睨みつけると、「じろじろ見てるとお前の分、取り上げて食うぞ」と凄んだので、笑いながらも「ごめん」と謝った。

 甘いものが苦手であった僕も、紅茶と合わせるとすんなり食べられるようになっていたのだが、生粋の甘党であるホレーショには感服するしかなかった。結構な甘さでも彼は一貫して美味しく味わっており、その表情が至福そのものであったからである。彼はこのレストランを非常に気に入ったらしく、「今度来たら違うのを食べよう」と早くも次の甘味に思いを馳せるまでになっていた。

 談笑してくつろいでから、僕たちは約束どおり彼らにご馳走してレストランを出た。彼らは短くお礼の言葉を言うと控えめに握手をしてきたのだが、その表情はやわらかく、眼差しには優しさと喜びとが見てとれた。彼らから僕たちが住むアパートまでそれぞれ送り届ける提案が出されると、その心意気と彼らと少しでも長くいられることが嬉しかったイェンスと僕は、遠慮することなく感謝の気持ちで受け取ることにした。

 駐車場の料金を僕が清算する。日がずいぶんと沈んで夕闇が濃くなり、そこに冷たい風が吹き付けたため、帰路に就くのを急かされているようである。しかしその時、シモとホレーショがいつにないほど真剣な表情で「話がある」と僕たちに話しかけてきた。

 レストランで見せた打ちとけた表情と打って変わり、どことなく重苦しさを漂わせている彼らの雰囲気から、僕は彼らの話が何であるのかを予想できていた。イェンスが僕に目配せする。おそらく彼も勘付いたのであろう。そこで僕たちは彼らの話を車内で聞くことにし、停めてあった車へと乗り込んだ。車は駐車場を出ると、少し走ってから路地裏の道路脇に再び停まった。

 少しの沈黙が流れ、シモとホレーショが真剣な面持ちで僕たちを見つめる。シモがホレーショに目配せしたのを皮切りに、シモが重々しく口を開いた。

「お前たちに謝らねばならないことがある」

「いや、君たちが謝ることは何一つ無い」

 イェンスの口調は優しかった。

「お前たちは心が広く優しいから、そう言うだろうと思っていた。俺たちもお前たちと今後も友情を深めていきたいと願っている。しかし、それを願うのであれば、俺たちがお前たちを裏切ってやった行為を告白せねばなるまい。そのことでお前たちがどう感じるかは自由だ。怒りを感じるのであれば、それはもっともだし、判断はお前たちに委ねる」

 シモは言い終わると、伏し目がちに深呼吸した。僕たちをじっと見つめていたホレーショが緊張した表情でおもむろに口を開いたのだが、それでも僕は驚くほど冷静であった。

「お前たちの正体について国立図書館で史料を読み、気付いたんだ。いや、ユリウス将軍とお前たちと言ったほうが正しいな。言わないつもりでいたのだが、心苦しくなって耐え切れなくなった。ユリウス将軍にも話すつもりだ」

 ホレーショの瞳は哀しく憂い、どことなく悔いているようでもあった。

「知っていたよ。ユリウスから聞いたし、彼はそのことで君たちに圧力をかけてしまわないよう、あれこれ思案を巡らせていた」

 僕がそう言うと二人とも非常に驚いたのか、言葉を失ったようであった。そこにイェンスがまたしても優しい口調で、さらに言葉をつけ足した。

「はっきり言おう。僕はエルフと血縁関係にある。高祖母がエルフだった。何の因果かはわからないが、僕にだけ突然エルフの特徴と能力が現れたんだ。クラウスは血縁関係がないうえ、僕たちも経緯はわからないのだが、確実にドラゴンの能力を引き継いでいる。そして君たちが知っているとおり、ユリウスは彼の父親がドラゴンだ。異種族の能力を受け継いだ者同士、というのが僕たちを結んでいる接点だ。君たちにこのことを知らせるべきかどうか非常に悩んでいたのだけど、君たちが調べて辿り着いたと知った時、実は安堵したんだ。君たちなら知り得た答えで、僕たちの今まで取ってきた行動全てにおいて納得してくれるだろうと思ったからね。ユリウスは君たちが僕たちの秘密を暴いてしまったと捉え、自責の念に駆られているのではないかとまで心配していた」

 シモとホレーショはじっとイェンスの説明に耳を傾けたまま、何も言わないでいた。しかし、その瞳は徐々に潤い、とうとう一筋の涙となってそれぞれの眼から清らかに流れ落ちた。

「苦しい思いをさせてすまかった。君たちが疑問を感じるのは、もっともなことだったんだ」

 イェンスの言葉にシモとホレーショは首を横に振り、途切れ途切れに言葉を返した。

「すまない、本当にすまなかった。俺たちは追及しないと言いながらも、結局お前たちを調べ上げ、お前たちが抱える苦悩を目の当たりにするまで疑問を捨て切れずにいた。なぜ、お前たちが言えなかったのか、俺たちにはわかる。史料には、異種族の能力を引き継いだ男性の悲惨な末路しか記されていなかった。俺たちに話せば秘密がもれるかもしれないし、お前たちがますます気を遣うことなど、容易に想像がついたはずなのだ……!」

「お願い、どうかそのことで自分を責めないで。僕たちには君たちの友情が必要なんだ。君たちと一緒にいて本当に楽しいし、君たちはユリウスを警護する立場の人たちから友人へと、僕たちの中でとっくに関係が変わっている。僕たちにとって非常に大切な関係なんだ」

 僕はそう言うと沈痛な面持ちで彼らを見つめた。ようやく築いた友情があっさりと壊れ、ぎくしゃくしてしまうというのか。

「クラウスの言うとおりだ。シモ、君は昨晩『何も知らない』と言って、優しい微笑みを僕にくれた。あの時、君の瞳には光があふれていた。ホレーショ、君もだ。君たちには見えないかもしれないが、僕たちは瞳にその光を放つ人を信じている。なぜなら、その光は清らかな美しさに満ちているからだ。そして今も、その光が君たちの瞳にある。そんな美しい光を放つ君たちと友人でいられることを、僕たちがどんなに喜んでいるか――」

 イェンスが切々と言ったことに、シモとホレーショがとうとう男泣きした。イェンスも僕もそのような彼らの姿を見ていたたまれなくなり、手を伸ばして座席越しに彼らの手を取る。すると彼らは僕たちの手を握り返し、うつむいたままで嗚咽をもらした。僕は感情表現も厳しく統制する訓練を受けてきた彼らを、ここまで激しく揺さぶった原因が僕たちであることを複雑な気持ちで受け止めていた。

 彼らが事実を話せないでいたことを責める気には全くなれなかった。それは僕たちも同じであったからである。そして彼らと僕たちの間にある溝を、僕たちの勝手な判断で一方的に埋めることもまた、適切ではないであろう。異種族の力を受け継いだ人間を受け入れるのは、僕が思っている以上に容易な決断ではないのかもしれない。普通の人間より飛びぬけて五感と筋力が発達しているだけでも、その能力に価値を見出す人間はほんの一握りで、ほとんどが恐怖と不安を感じるからこそ人間社会で拒絶されてきたのだ。シモもホレーショも、最初は僕たちの突出した能力に疑念を抱いていた。それが契機だったのであれば、僕たちは初対面時からずいぶんと異様さを醸し出していたのであろう。やはり普通の人間には本来の自分を隠して接したほうが、よっぽど健全な在り方なのかもしれない。そう、イェンスやユリウスがずっとそうしてきたように。

 しかし、シモもホレーショも、僕たちが言い出せない理由を自ずと理解していた。決して歴史の表舞台に堂々と出てくることの無かった、異種族の力を受け継いだ者の悲しみを彼らの力だけで窺い知ったのである。そのことにかすかな望みを抱くことは、僕が傲慢だからなのか。僕はホレーショの手から伝わる温もりに、人間同士としての絆を見出そうとしていた。

 少しすると落ち着いたのか、彼らは握っていた手を離し、取り出したハンカチで目と鼻を拭い始めた。そして「もう少し時間をくれ」と言うと、静かに前方を向いた。イェンスに寄りかかりながら彼らを見守っているうちに、だんだんと心が落ち着いていくのを感じる。そのイェンスが僕の肩を抱いた。彼を見ると、彼は目が合うなり静かに微笑んだ。僕はその穏やかな表情を受け、ふと直感が湧き上がった。

「きっと彼らも僕たちも大丈夫だ」

 不意に耳元でイェンスがささやいた。「僕もそう思った」と彼に小声で返す。優しい気持ちにつつまれると、前方を向いたままのシモとホレーショに再び視線を向けた。

 彼らと笑い合いながら、一緒に楽しい時間を過ごす場面が鮮明に脳裏に浮かび上がる。その場にはきっと、全ての事情を知ったユリウスもいるに違いないのだ。

 その時、シモが前方を向いたままで僕たちに話しかけてきた。

「イェンス、クラウス。お前たちに心から感謝している」

 その言葉に反応したのか、まだ目を赤くはらしたままのホレーショが振り返って僕たちと目を合わせた。

「俺もお前たちに感謝している」

 彼はそれからややためらいがち付け加えた。

「やっぱりお前たちは変わっている。俺たちと絶交していいはずのことを俺たちはしたのに、お前たちは俺たちとの友情を選んでくれた。くそ、わかっていたんだ。俺がお前たちをどんなに気に入っているか、親愛の気持ちを感じているか。友人としてお前たちと接しているとどんなに楽しいか、喜びがあふれるか」

 僕は彼の言葉を聞いて、笑顔をこぼさずにはいられなかった。

「ほら、まただ。お前らは優しい笑顔を俺たちには簡単に見せるんだ。わかっているさ、お前たちがそう簡単に心を開く性格じゃないってことぐらい」

 ホレーショは目に涙をためながらも、喜びを顔中に表しながら言った。するとシモが振り返って僕たちを真っ赤な目で見つめ、噛みしめるように言った。

「俺たちは出会った時から、こいつらの持つ魅力に引き込まれたんだ。こいつらは見た目以上に美しい内面で俺たちの心を優しく揺らしたうえ、飾り気のない純粋な友情までも贈ってくれた。確かにお前たちと俺とでは年齢が離れているが、気にしたのは最初だけだ。お前たちは賢いうえ、精神的に深く成熟している。時折、少年のようなあどけなさを見せることもあるが、それもお前たちの魅力だろう。……言葉で伝えるのは、陳腐で軽々しいのかもしれないが」

 シモが口の端をぎゅっと結んだ。そしておもむろに口を開くと、今度は力強い眼差して僕たちを見つめた。

「ユリウス将軍含め、お前たちの秘密は生涯家族にも口外しない。本当は態度でそれを見せるべきなのはわかっている。だが、言わずにはいられなかった。そしてお前たちとの友情を俺は……俺たちは選ぶ」

 彼はそう言うとホレーショを押しのけながら身を乗り出し、手を差し出してきた。イェンスと僕がその手を交互に力強く握ると、彼は泣きはらした顔で微笑みながら「ありがとう」と返した。

「シモ、お前だけずるいぞ」

 ホレーショがやはり振り返って身を乗り出し、手を差し伸べる。イェンスと僕が同じく彼の手を力強く握って返すと、ホレーショは僕たちの手にそれぞれ優しくキスをしていった。

「くそ、男の手にキスをするとは! 俺もついに引き戻れないところまで来ちまったな」

 彼はわざとらしく悪態をついたのだが、全てが晴れ晴れとしたのか、どこまでも澄んだ笑顔であった。シモがそれを美しい眼差しで見届けると、「お前は昔からそうだったと言っただろう」と茶化したので、イェンスと僕は後部座席で笑い合った。

 ホレーショは落ち着きを取り戻したらしく、「遅くなって悪かったな。帰るぞ」と言って車を動かし始めた。シモが「車だとあっという間だな」と、何事もなかったかのようにつぶやいたのを「そうだね」と軽く返す。

 その移動は本当に束の間であった。僕が住むアパートの前までやって来た時、イェンスが一緒に降りて歩いて帰ると提案したのだが、シモもホレーショも「気にするな」と返したため、結局イェンスも彼の住むアパート前までそのまま送られることとなった。

 車内でお別れの挨拶をしてから車を降りる。彼らはウィンドウを下ろし、あたたかい笑顔で「またな」と言って僕を見つめた。その瞬間、僕の中で寂寥感が吹きすさび、彼らとの別れに名残惜しさが一気に募る。そこで僕はアパートの部屋から、彼らが再びこの道路を走行して帰っていくのを見届けると伝えた。すると、シモが「それならお前を見つけてやろう」と朗らかに返し、ホレーショがゆっくりと車を走らせ始めた。

 僕は急いで階段を駆け上り、暖房器具のスイッチも入れずに窓を開けて眼下を見下ろした。すると、イェンスの住むアパートの方角から、あの大きな黒い車が徐々に近付いてくるのが見えた。僕が先ほどまで乗っていたその車を感慨深げに視線で追うと、車はアパートの前で停まり、シモとホレーショが車から降りてきた。彼らはすぐに僕を見つけて笑顔を見せたので、僕もありったけの笑顔で手を大きく振り返す。彼らは長居することはなく、再び車を走らせて去っていったのだが、僕は姿が見えなくなってもしばしその痕跡を見つめていた。

 すでに東の空遠くにいくつか星が瞬いており、夜の帳がとっくに下りたことを告げている。その星々をぼんやりと眺めているうちに、美しい思い出が優しい温もりとともに僕の中で軽やかに舞っているのを感じた。ユリウスのことを思うだけで、あたたかい気持ちが感謝とともに内側からあふれ出す。そしてシモとホレーショが見せた美しい光が僕の心を安らかに照らすと、イェンスの輝いた笑顔が思い浮かんだ。

 僕は、僕の大切な美しい友人たちに、いったいどれほどの幸せを捧げることができるのであろう。押し付けでも、欺瞞でもない喜びを彼らとともに味わえたら、どんなにか素晴らしいに違いない。いや、少なくとも昨日の朝からほんのつい先ほどまで、僕は僕の大切な友人たちとともに幸福の中にいたではないか。僕の心は、ずっと大きな喜びに満たされ続けていたのだ。

 その思考は僕の呼吸の一つ一つに力強さを与え、体の内側にみずみずしい生命力を与えていった。

『この広大な宇宙に、刹那でも必要だから存在している』

 そのことを思い返すと、存在する喜びに心が満たされ、感謝の気持ちまでもが芽生える。僕はその美しい感情に心ゆくまで浸った。豪華さも派手さもない、ただただ素朴な時間だけで僕には充分幸せであった。

 静かな喜びを胸に掲げたまま、暗く冷えた部屋に戻って暖房器具のスイッチを入れる。それから窓を閉めてカーテンを引こうとした時、ひときわ美しく輝く青白い星が目に飛び込んできた。その気品漂う光をまぶたに焼き付けるように見つめてから背を向けると、安らかな気持ちで休息を取った。


《第五章》

 いつもどおりの日々が過ぎていく。新規案件も増え、事務所は堅調に業績を伸ばしているようである。それに伴って忙しく過ごすようになると、遅い時間まで残業することも珍しくなくなっていた。

 普段滅多なことで愚痴を言わないローネが、ある時、不満げな表情で「疲れも取れないし、家族と一緒にいる時間が足りないわ」と言ってふさぎ込んだ。しかし、彼女が心情を吐露したのはそれきりで、いつものように慌ただしく退社する以外はきびきびと働き、以前と変わらぬ笑顔を見せていた。とはいえ、イェンスも僕も彼女が家族を深く愛していることを知っていたため、彼女が無理をしているのではないかと心配していた矢先に、偶然彼女がさびし気にスマートフォンを覗き込んでいるところを目撃したのである。ローネはスマートフォンの待ち受け画面のみならず、画像フォルダも家族の写真で埋め尽くしていた。そこでイェンスと僕は少しでもローネの負担が減るようにと、彼女の仕事を進んで引き受けることにしたのであった。

 最初は遠慮がちに断っていたローネも、僕たちの度重なる申し出から徐々に仕事を譲るようになると、いよいよ僕たちは働きづめとなった。残業も気が付くと夜の九時を過ぎることが多くなり、アパートに戻るのがかなり遅い時間になることも度々起こった。

 三月も半ばを過ぎるころには多忙を極め、ティモやトニオ、ケンまでもが遅くまで残業するようになっていた。夜遅い時間まで残業しないと捌けない業務量を把握すべく、ギオルギとムラトが聞き取り調査を開始する。ローネが許容量を超えた業務量に全員が疲弊していると切々に訴えると、それを神妙な表情で聞いていたギオルギが、「もはや一時の繁忙ではない。やはり人材を増やさないと間に合わないな」と言い残し、早速ムラトと新しい人材を確保すべく打ち合わせを始めた。それでもすぐに新しい人員が配置されることはなく、僕たちはいつか見えるであろう出口を願って仕事をこなすしかなかった。

 そのような中でもイェンスと僕は相変わらずお互いの部屋を行き来し、休日もほとんど一緒に過ごした。ユリウスから教えてもらったトリッキングで心地良い汗をかいては達成感を味わい、あるいは自然や宇宙の美しさに触れ、内なる静かな喜びを二人で分かち合って変化をともに体感することが新たな日常となっていた。

 ユリウスとはあれ以来、結局は会えずにいたのだが、イェンスも僕も彼に深く強い絆を感じていたため、ほとんど気にかけていなかった。それは僕たちがユリウスについて話すたびにあたたかい気持ちになるからなのだが、そうでなくとも激務をこなすユリウスが僕たちに会うべく画策していることは充分理解していた。それゆえ、彼から必ず連絡が来ると安心して待ち受けていた。

 シモとホレーショからも連絡は来ず、僕たちのほうから他愛もないことで連絡を入れることもしなかった。しかしながら、僕たちは彼らにも力強い友情を感じていた。今頃厳しい訓練の最中なのか、はたまたユリウスを警護している最中なのか。そのことを推測してイェンスと話し合うだけで笑顔が絶えなかった。お互いに遠くに離れていると関心が薄くなり、親密度も下がっていくことは一般的に言えることである。しかし、僕たちに限っては、物理的距離と心理的距離が必ずしも比例しているとは言い難かった。この一見淡白な関係の中でも、イェンスも僕も相手に対して感謝と信頼の気持ちを強く抱き続けていた。

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