第19話

 ユリウスのスマートフォンが鳴り響いた。ふと時刻を確認すると午後五時まであと十分ほどであり、シモからのその電話は時間どおりに玄関前に到着するという報告であった。

 「二人とも、ゆっくり楽しんできたらいい。何も気にするな。シモとホレーショなら、きっとお前たちにいい経験をもたらすだろう」

 「ありがとうございます」

 ユリウスの優しい笑顔にイェンスも僕も心から感謝の言葉を返してソファに座り直す。シモとホレーショと一緒に外出することもまた、非常に楽しみにしていることの一つであった。そのことを考えるだけで顔がにやける。それを見ていたイェンスがおどけた表情で、「クラウス、僕もすごく楽しみなんだ」と言って僕に寄りかかった。

 今宵に胸をふくらませながら窓の外を見る。夕闇が濃くなった世界では、雪が軽やかに舞い落ちていた。その世界にこれからイェンスと飛び出すのだ。

 遠くから車の走行音が聞こえてきた。ユリウスが「玄関前まで送ろう」と言って立ち上がったため、イェンスも僕もユリウスの後に続いて玄関へと向かう。ひんやりとした空気が強まるにつれ、僕の中で熱い期待が高まっていく。ユリウスがそっとドアを開けると、シモとホレーショはすでに堂々と立ち並んで待機していた。

 同じく立派なジャケットに身を包んだシモとホレーショが、僕たちを見るなり驚いた表情を浮かべる。しかし、すぐに冷静さを取り戻したかと思うと、いつになく丁寧な物腰でユリウスに話しかけた。

 「ユリウス将軍、それでは彼らをお預かりします」

 シモもホレーショもユリウスに対し、深々と頭を下げた。それを受けてユリウスは二人の肩に両手を優しく置くなり、穏やかな口調で彼らに話しかけた。

 「よしてくれ、君たちと彼らはすでに親しい仲になりつつある。今夜はその友情をさらに深めるだけだ。私のことは気にかけるな。彼らとめいっぱい楽しんできてほしい。彼らも非常に楽しみにしているんだ」

 ユリウスは続けて僕たちのほうを振り返って言った。

 「君たちも私に遠慮するな。いいか、これは命令だ。思いっきり楽しんで来い」

 僕たちは大きくうなずいて返すと、シモとホレーショの側に急いだ。ホレーショが「車に乗っていろ」と言うので、その言葉どおりに早速乗り込む。しかし、彼らがなかなか来なかったので車内から彼らの様子を伺うと、彼らはユリウスと何か話し込んでいるらしかった。

 彼らは必死に首を横に振っていたのだが、少しするとユリウスに対して深々と頭を下げたようである。ユリウスは相変わらず優しい眼差しでシモとホレーショを見ており、彼らが車に乗り込む時もその眼差しが絶やされることはなかった。

 ホレーショが車のライトを点ける。ユリウスは僕たちに軽く手を挙げると、雪まみれになる前に家の中へと戻って行った。

 「よし、行くぞ。お前たちには申し訳ないが、今日は俺たちに付き合ってもらう」

 シモが後ろを振り返って明るい口調で言った。しかし、彼の目の淵にはかすかに光るものがあった。僕はその正体に気付いたのだが、その理由がわからないでいた。ホレーショは無言のままであり、ゲートを出ると僕たちがいつも来る方角とは反対のほうへとハンドルを切った。

 車内はおしなべて静かであった。僕はその理由がシモの目の淵にあったもの――それが涙だと勘付いていたのだが、あえてその理由を彼に尋ねようとは思わなかった。シモを感涙させたものが何であったのか。そのことが気にはなったものの、僕たちを取り巻く静けさの中にやわらかい雰囲気を感じていたため、それをわざわざ壊す気にはなれなかったのである。

 「そう言えば、お前たち見違えたぞ。さすが端正な顔の持ち主は違うな」

 窓の外を眺めていると突然シモが話しかけてきた。彼の目の淵の涙は消えており、いつもどおりであった。

 「ありがとう、ユリウス将軍が用意して下さったんだ」

 「貸衣装つきか、そりゃ良かった。元の格好じゃ、落第点だったからな」

 ホレーショが前方で意地悪い口調で言ったのだが、雰囲気は優しさに満ちていた。

 「服装を気にかけるようなところに行くんだね?」

 イェンスが弾むような口調で尋ねると、シモが笑いながら「着けばわかる」とだけ答えて姿勢を元に戻した。

 イェンスはアウリンコ内の地理にも明るいため、標識や進んでいる方角から目的地がどの辺りなのかをある程度憶測できているようである。しかし、僕は相変わらずアウリンコに疎く、今いる場所ですらおぼつかないほどであった。いったい僕たちはどこに向かっているのか。

 車が走り出して十五分ほど経つと、古く大きな建物が立ち並ぶ場所へとやって来た。僕は知識からそこが旧市街の中心地区であることはわかったものの、なぜここにやって来たのかがやはり全くわからないでいた。

 車が地下にある駐車場へと入って行く。それと同時にシモとホレーショが駐車場所を探し始める。僕がその様子を受け、とことん普通の外出なのだと思わず喜ぶと、前方にしか注意を払っていなかったはずのホレーショが、怪訝な口調で話しかけてきた。

 「クラウス、お前、駐車場の空きが見つからないでいるのにずいぶん嬉しそうだな?」

 それを聞いたイェンスが隣で忍び笑いを始め、それにつられてシモも笑い出す。

 「ご、誤解だよ。その、空いている場所なら……ああ、あそこが空いている!」

 僕は柱の陰に一台分が空いているのを見つけ、その場所を指し示した。するとホレーショが目視で確認するや否や「良くやった」と喜び、あっという間に車を駐車させる。しかし、彼にはまだ言い残しがあったらしく、エンジンを切るとわざわざ僕のほうを大きく振り返って怪訝そうな表情で尋ねてきた。

 「お前、さっきはなんで嬉しそうだったんだ?」

 彼の言葉からようやく場違いな態度を取っていたことに気が付いた僕は、気恥ずかしさから小声で返した。

 「駐車場を探すということは、特別な権限を行使していないということだよね? 本当に普通の友人としての外出だとわかったから、嬉しかったんだ」

 次の瞬間、ホレーショが驚いた表情を浮かべた。その意味がわからずに困惑したものの、薄明るい駐車場の明かりに照らされた彼の瞳に優しい光が放たれたのを見つけ、悪い意味でないことだけは理解する。

 ホレーショは僕の言葉に特に反応を示さず、「降りろ」とだけ言って先に車から降りていった。そこで助言を得ようとイェンスを見たのだが、彼は僕の視線に気が付くと微笑んだきりで、やはり何も言わすに颯爽と車を降りていった。

 僕は少しの戸惑いを抱えながら、最後に車から降りた。するとすぐにホレーショがやって来て、僕の隣に静かに並んだ。何事かと思ってホレーショのほうを見たその時、彼はいきなり僕を無言のまま抱きしめた。

 ホレーショの思いがけない行動に驚きつつも、彼のあたたかさを全身で受け止める。しかし、彼の厚い胸板とたくましい腕に押し潰されたのは束の間で、彼は僕をやおら離すと「行くぞ、お前ら」とだけ言って歩き始めた。

 シモが笑いながら振り返って僕を見る。その様子を受け、どうやらホレーショが僕の言葉を快く受け取めたからこそ、僕を抱擁したらしいことが理解できた。

「ホレーショは君を相当気に入っているな」

 隣に並んで歩き始めたイェンスが微笑みながら言った。その言葉が真実かどうかはともかく、僕はホレーショが見せた親愛の表現を心から受け止めていた。

「イェンス、お前何か言ったか?」

 ホレーショが急に立ち止まってイェンスに凄んだ。一見、気を緩めているようで要人警護を務めるだけの鋭さを発揮した彼に感嘆していると、隣でイェンスが澄ました表情を浮かべて「何でもない」と肩をすくめた。

「ホント、お前は子供みたいだな」

 シモがホレーショの肩に手を置いてからかう。ホレーショは舌打ちして「俺は充分大人だ」と言い返したのだが、彼らのやり取りはどこまでも陽気であった。

 風が唸り、肌に突き刺さるかのように吹き付ける雪の中を歩く。街灯に照らされた古い街並みはアウリンコ設立当時の面影を残しており、雪をまといながらも威風堂々と立ち並んでいた。いくつかの歴史的・国家的建造物を通り過ぎ、何本もの巨大な柱に立派な彫刻を施した古く大きな建物が目の前にやって来ると、ようやくシモとホレーショが立ち止まった。

「あれが国立美術館だ。今日は夜遅くまで開館しているから観て来るがいい。入り口までは案内してやる。ただし時間制限がある。夜七時までにあそこに見える、大きな柱の入り口から右に数えて三本目あたりのところにいろ」

 ホレーショが僕たちのほうを振り返りながら、ややぶっきらぼうに伝えた。

 イェンスと僕はその言葉に歓喜し、お礼の言葉を返したのだが、彼らが一緒に鑑賞しないのだということに気が付くと一気に残念な気分になり、拗ねた口調で話しかけた。

 「一緒に観ようよ」

 「俺たちは何度か観ているし、人数が多いとゆっくり鑑賞できず落ち着かないだろう。二人で気兼ねなく回って来たららいい」

 ホレーショの言葉に、僕はふてくされた様子を思いっきり顔に出した。

 「せっかく一緒に外出する機会ができたのに、君たちはそれじゃあどこにいるのさ?」

 するとシモがまた笑いだし、その一方でホレーショがひどく顔をしかめさせた。

「わかった、わかった! それなら中まで一緒に行ってやる。言っとくがな、俺は絵画にはうるさいんだ。俺が好む絵の前をさっさと通り過ぎたら、ひどい目に遭わせてやるからな!」

 ホレーショが僕の肩を抱きながら、またも威圧的に凄んだ。僕たちの背後からシモとイェンスの笑い声が前方へと響きわたる。ホレーショはやおら僕を離すと、「ほら、行くぞ」と顎で僕を引っ張るかのように先に歩き始めた。

 入り口でチケットを買い求めようとすると、シモがまとめて会計を済ませるため、近くで待機するよう指示してきた。そこで彼がチケットを買い求めている間、女性たちの視線を感じながらも立て替えてもらっている料金を確認しようとしたのだが、ホレーショがイェンスと僕を抱えて料金表から遠ざけ、いかつい表情で僕たちを遮った。

「そういう意味じゃない。お前らは黙ってその薄い財布をしまっていろ」

 その言葉に困惑して彼を見たのだが、彼はお構いなしに会話の内容を変え、女性たちの視線について話し出した。

 「それにしてもお前ら、目立ってすごいな。服装のせいもあるかもしれないが、お前らの警護が必要なくらいだ」

 ホレーショはそう言うとおどけてみせた。どうやら美術鑑賞は彼らから僕たちへのプレゼントらしかった。彼の気遣いにまたしても感激し、じっとその優しい眼差しを見つめ返す。僕はなるべく心を込めて感謝の言葉を伝えることにした。

「ありがとう、ホレーショ。その、すごく嬉しいよ」

 「お前、じっと見る相手が違うぞ。たまには美しい女性でも見ろ」

 ホレーショは呆れた表情で僕に言うと、遠巻きに僕たちを見ている女性たちのほうに顎を振ってみせたのだが、僕にはその動作を含めたすべてが面白くて仕方が無かった。ついこらえ切れずに笑ってしまった僕につられ、イェンスも隣で軽快な笑い声を上げる。

 「駄目だ、こいつら。美しい女性より俺の顔を見やがる」

 彼は諦めた表情で、チケットを購入して戻って来たシモに話しかけた。

「それはまたずいぶん結構なことじゃないか。女性たちの視線を浴びる美男子の視線を独占できるのだからな」

 シモはおどけた表情でチケットを僕たちに手渡した。

 「ありがとう、シモ。僕たちのためにあ……」

 「そこまでだ。そんな時間は無いんだ。行くぞ。……まず最初の部屋に行く前にあの階段を昇るのだが、あの像がこの美術館を象徴している有名な勝利の女神像だ。古代の地方国スラトモサの……」

 イェンスの言葉を途中で手を挙げて制したシモが、驚くほど豊かな知識を持って僕たちを案内していく。もっとも、彼の案内役は最初だけであったのだが、一緒に歩き回りながら館内の美術品を観ている中で疑問に思ったことを尋ねると、彼は知っている範囲内で丁寧に教えてくれた。

 そのシモの横顔をそっと覗き見る。すると彼がこの美術館に展示されているどの美術品とも遜色がないほど尊く、美しい表情を見せていることに気が付いた。隣で無言のまま立っているホレーショもまた、同様であった。彼らが持っている美しさをここまで引き出させた美術館にいるのだと思うと、さらに感動までもが湧き上がる。やはり、何度考えても幸運な出来事に僕は遭遇していた。

 何部屋か進む。すると、イェンスが立ち止まり、かなり昔の絵画を興味深そうに眺め始めた。そこには古代の神話をモチーフにした裸の女神が海の上で豊かな胸を片方だけ露わにし、艶めかしくもどこか憂いを帯びた表情で佇んでいた。

 「この絵画、以前地方国を訪れた時に観たことがあったのだけど、今はここに展示されているのか」

 「この絵画は有名な絵画だね、一度実物を見てみたいと思っていたんだ」

 僕が実物を目の前にイェンスと一緒に感動していると、ホレーショが小声で話しかけてきた。

「お前ら幸運だな。この絵画はたまたま地方国から貸し出されて展示されているんだ」

 その言葉に改めて女神の表情を注意深く観察する。はるか遠くを眺める彼女の瞳に何が映っているのかと思うだけで、まだ見ぬ広い世界が僕を待ち受けているかのような気持ちになった。

 さらに部屋を進むと、とある一室に人だかりができており、その人だかりの奥に着衣の女性の上半身を描いた非常に有名な絵画が小さく展示されているのが見えた。僕が思わず声を上げたからか、シモが笑いながら「気合入れて前まで進んでじっくり観て来い」と伝える。そこで僕はイェンスと一緒に人と人の間を縫うように前に進み、その有名な絵画を一番前で眺めることにした。

 有名な絵画には人を惹きつける魅力があるのであろう。微笑みながら見つめている先がどこであるのかを一瞬考えたものの、それすらも脇に置いて鑑賞する。しかし、長居はせずにイェンスと一緒に脇へと抜け出し、後ろで待っていたシモとホレーショのところへと合流した。

 館内はとても広く、短時間のうちに鑑賞して回るには慌ただしすぎた。そこで断念せざるを得ない場所を話し合いで決め、早々に次の部屋へと向かった。

 部屋に入った途端、僕は目の前に現れた美しい絵画の数々に一瞬にして心を奪われた。それらは優しい色遣いと大胆な筆致で、地方国のやや古い時代の田舎の風景を描いたものであったのだが、僕は激しく湧き上がる感激を静かにまといながら、やわらかい自然の光と風とを捉えた絵画を一心に眺めた。

 空と水と空気が澄みきり、風が運んでくる様々な情報を今まさしくほほで感じ取っている感覚が僕を捉え、美しい喜びが内側からあふれ出していく。その感覚の中でみずみずしい光を捉えた絵画を離れた場所から鑑賞すると、一見して写真のようにも見えた。

 室内の絵画は以前訪れた際にも印象に残ったもので、いくつか見覚えがあった。ある絵画は母子のあたたかい触れあいであり、別の絵画は田舎の風景であったのだが、僕があまりにも心を奪われていたものだから、隣にイェンスが並んで立っていたことに気が付かないほどであった。

「君もこういった絵画を好むんだね」

 イェンスが僕の耳元でささやいた。

「そうみたいだ、なんて美しい絵画の数々なんだろう! ああ、あの空の青さと雲の白さときたら……。それに光と影の描写も素晴らしい。僕はそよぐ風や空気の熱っぽさまで感じたんだ。作品の幾つかは本で知ってはいたし、以前訪れた時に見た記憶があるけど、こうやって本物が見られるのはやはりすごくいいね」

「それは良かった。このあたりの作品は、俺たちもずいぶん気に入っているんだ」

 背後でやり取りを見守っていたホレーショが、やはり声をひそめながら嬉しそうに言った。

「隣の部屋にも続いているから、ゆっくり観るがいい」

 シモが優しく言葉を続けたのを受け、イェンスとともに室内を見回しながら隣の部屋へと向かう。次の部屋には、水面に浮かんだたくさんの花の絵が描かれている大きな絵画が壁一面に飾られていた。すみれ色がかった水面が鏡面のように光っており、空を映しこんでいる。僕はその卓越した描写に呼吸を忘れるほど見入ってしまった。

「君は以前も観たことがあるんだろう?」

 イェンスに視線を向けることなくそっと話しかける。

「ああ、観たことがある。ここでも、地方国でもだ。でも、今ほど感動を覚えなかった」

 彼はそう言うと僕の肩に手を回した。彼の頭が僕の頭に軽くぶつかる。どうやら彼は首をかしげて絵画に見入っているようであった。

「君みたいに感性が豊かな人が、当時感動を覚えなかっただなんて意外だな」

「そりゃ、当時はいろいろとあったからね。クラウス、僕は今、喜びを感じているんだ。この美しい絵を君と一緒に観て、しかも感動まで共有できているのだから。僕は恵まれている」

 僕はイェンスの言葉に驚き、彼を間近で見つめた。すると彼は瞳を煌めかせながら、至福の表情で僕を見つめていた。当時の彼が経験したことは、彼の言葉を推測するに、またしても孤独と悲哀とに満ちていたのであろう。超一流のものを家督を継ぐイェンスに与えようとしてきた彼の両親の期待は、鈍重な僕でも容易に理解できた。しかし、親子とはいえ見えている世界が異なりすぎたため、結局は幸福な結果に結びつかなかったのである。

 イェンスが再び顔を絵画に向ける。僕も彼の視線を追うかのように視線を絵画に戻した。静かな水面に浮かんだ可憐な花にみずみずしい生命力を感じているうちに複雑な思考が遠のき、絵画の持つ魅力だけが強調されていく。

「この絵は俺も好きなんだ。お前たちが感動してくれて嬉しいよ」

 シモが僕たちの背後でささやいたのが聞こえたので振り向くと、シモもホレーショも優しい表情を浮かべて絵画を眺めていた。

「ありがとう、シモ。君と……ホレーショ、君もこの絵が好きなんだね? 君たちとこの絵の美しさを共有できて僕も嬉しい」

 僕の言葉に、彼らは美しい眼差しで微笑んで応えた。

「そろそろ行こうか。急がせてすまないが、ここは広いから戻るのも一苦労する」

 一転してシモがすまなそうに言った。それを受けてイェンスも僕も明るく「気にするな」と返す。お腹も空いてきたこともあり、僕たちは残りの行程を急ぎ足で回った。

 急いで観た絵画の中にも、胸を打つ素晴らしい絵画は豊富にあった。中には劇的瞬間を切り取ったかのような、躍動感あふれる構図を絶妙な光を照らして描いたもの、その人物の内面までありありと読み取れるような堂々とした肖像画もあり、僕はその度に注意を払って心に留めた。時代を超えて訴えかける画家の想いを、大雑把でも受け止めることで、その時代に生きた人々の人生の証と歴史を身近な存在へとならしめるのではないのか

 ようやく入り口近くの勝利の女神像の場所まで戻る。シモとホレーショが意味ありげに目配せしたため、イェンスも僕も名残惜しさもそこそこに美術館を後にした。

「次の移動場所まではすぐそこだから歩いて行くぞ。車を用意させずに悪いな」

 ホレーショが僕たちを振り返りながら言った。僕たちは朗らかに「気にしていないよ」と返したのだが、ホレーショはいつになく真顔になって言葉を続けた。

「少し俺たちに付き合ってくれ」

 イェンスと僕は妙に緊張した様子の彼らを不思議に思ったのだが、あえてそのことは指摘せずにうなずいて返した。すると途端に彼らの歩調が速まったので、僕はイェンスと顔を見合わせながら急いで彼らを追いかけた。

 雪がちらつく中、肩で風を切るかのように歩く彼らの後について行くと、大通りに面したレストランの前で彼らが立ち止まった。そこは厳しいドレスコードが求められるほどの雰囲気には見えなかったのだが、きっとここで夕食をともにするのであろう。そうイェンスと話したものの、どうにも彼らの様子がおかしい。先ほどの真顔と打って変わり、今までにない柔和な表情を見せている。何か特別な事情があるのだと察したその時、シモがゆっくりと口を開けた。

「この辺りで待っていてほしい。俺たちは店内に向かうが、用事を済ませたらすぐに戻る」

「寒い思いをさせて悪いな」

 ホレーショもそう言うと白い息を残して颯爽と店内に入っていった。

 イェンスと僕は雪が舞う様を見つめながら、行き交う人の流れに染まることなく彼らを待った。じっと立っていると身を切るような寒さなのだが、今日体験している全ての出来事とこれから経験する未来に胸を弾ませていたため、全く苦ではない。

 ほどなく明るい表情とともに彼らが店内から出てきた。そして「もう少し待っていてほしい。紹介したいんだ」とだけ伝えると僕たちの傍らに立ち、店内を覗き込むように視線を向けた。

 僕は彼らが紹介したい人たちが誰なのか、さっぱり見当がつかないでいた。イェンスも戸惑った表情を見せていたのだが、突然目を輝かせたかと思うと、弾むような口調で僕にささやいた。

「ひょっとしたら彼らの家族じゃないだろうか?」

 その時、隣に立っていたシモが動いた。彼は体を店の入り口へと向けており、店内からは女性が娘と息子と思われる子供たちを引き連れ出てきたところであった。その後にさらに別の女性が幼児と赤ん坊を連れて続き、気が付くといつの間にかホレーショまでもが店の入口へと駆け寄っていた。

「ロヴィーサ」

 シモが声をかけたその女性は微笑んで応え、傍らにいた女の子がシモのところに駆け寄って来た。

「パパ!」

 その言葉と同時にシモが女の子を抱きしめ、次にロヴィーサと声をかけた女性に軽くキスをしてから男の子の肩に手を置く。

 ホレーショのほうは幼児を抱き上げるやいなやその女性にキスをし、赤ん坊のほほにもキスをしてから優しく微笑んだ。

「紹介しよう、俺の妻のロヴィーサに娘のアンゲラ、それに息子のエルッキだ」

 シモの瞳が優しさにあふれているのを見ながら、イェンスも僕もめいめいに自己紹介を済ませる。その時、アンゲラがあの眼差しで僕たちを見たのだが、すぐにシモのいかつい表情に気が付いてまだ幼さの残る顔を下に向けた。

「彼女が俺の妻のリーズ、こいつが息子のアーサー、そして娘のアニェスだ」

 ホレーショの傍らでリーズが僕たちに微笑み、ホレーショによく似たアーサーが僕たちに手を差し伸べてきたので、その小さな手と恭しく握手を交わす。アニェスは僕たちを笑顔で見つめていた。

「それにしても、ユリウス将軍にどんな感謝の言葉を捧げればいいのかしら。くれぐれも私たちの感謝と敬愛の気持ちを将軍に伝えてくださいね」

 ロヴィーサの言葉にリーズが深くうなずいて返した。

「本当だわ。将軍が個室を予約して下さったから、周囲に気兼ねすることなく夕食を楽しめたんですもの。もっとも、アンゲラとエルッキがこの子たちの面倒をよく看てくれたから、この子たちもずいぶんいい子でいられたのもあるけど。二人ともどうもありがとう」

 彼女はそう言うと、アンゲラとエルッキを微笑んで見つめた。アンゲラが嬉しそうに返礼し、エルッキが恥ずかしそうにシモの後ろに隠れたのだが、イェンスも僕も正反対の二人の反応を微笑ましく見ていた。

「タクシーが来たようだな。では、お前たちは気をつけて帰れ」

 シモの思いがけない言葉に驚いて彼らを見る。イェンスも僕も、これから彼らの家族と一緒に行動するものとばかり考えていた。それと同時にアンゲラが拗ねた表情でシモを見上げながら言った。

「ねえ、たまには遅い時間まで外出してもいいでしょう?」

 その途端、シモの表情がやや険しくなった。

「駄目だ、我が家の門限のルールは?」

 言葉とは裏腹にシモの口調はどこまでも優しかった。

「十二歳までは親が同伴して夜八時まで、十五歳までは一人でいられるけど夜八時まで、十八歳の成人を迎えるまでは夜の九時まで、でしょう? わかっているわ」

 アンゲラがさらに拗ねた様子で答えたのだが、ロヴィーサは明るい口調で彼女を窘めた。

「そのとおり。十歳と七歳のあなたたちは当然、帰る時間よ」

 ロヴィーサは僕たちに視線を移すと、あたたかい笑顔を浮かべながら言った。

「お食事、楽しんできてくださいね」

 それを聞いて僕は慌てて言葉を返した。

「いつも大切なご家族をお借りして申し訳ございません」

「大切なご家族との団らんの時間を、僕たちが邪魔をしていなければいいのですが」

 イェンスもすまなそうに伝える。しかし、ロヴィーサもリーズも朗らかな笑顔を絶やすことなく僕たちを見て言った。

「あら、主人の言うとおり、本当に好感のもてる青年ね。ありがとう。でも、主人はあなたたちと今晩出掛けるのをとても楽しみにしていたのよ」

「私たちのことは気になさらないで。夫のこと、よろしくお願いするわね」

 僕たちは再び驚いてシモとホレーショを見た。しかし、彼らはばつが悪そうに視線を逸らし、そのまま彼らの家族に向かって話しかけた。

「さあ、気をつけて帰るんだ」

 ホレーショがリーズを抱きよせてキスをし、アーサーをおろす。そしてシモがロヴィーサにキスをし、アンゲラとエルッキのほほにもキスをすると、エルッキに力強く言った。

「エルッキ、母さんと姉さんを頼んだぞ」

 すると、あどけない顔で笑っていたエルッキがたちまちのうちにたくましい顔付きになり、大声で「うん、パパ。僕が守るよ。だからパパは安心してお友だちといっぱい楽しんできてね」と言ったので、シモの表情が途端にやわらかくなった。

「ばいばい」

 アーサーが僕たちに手を振り、アニェスが純真な瞳を曇らすことなく僕たちに笑顔を向けたので、僕たちも心を込めて挨拶をし、笑顔で見送る。リーズによく似たアニェスの金髪の巻き毛にホレーショがキスをすると、「愛している」とリーズにささやき、彼女たちをすぐそばに待機していたタクシーまで送り始めた。シモも彼らの家族をタクシーまで送り、そうこうしているうちに、エルッキとアンゲラが車の窓越しに僕たちにはにかんだ笑顔を見せて去って行く。続いてリーズがやはり窓越しに僕たちを見て微笑み、その奥でアーサーが小さな手を懸命に僕たちに向かって振っているうちに彼らも行ってしまった。

「……俺たちの家族はユリウス将軍から夕食をプレゼントされていたんだ。妻は俺の仕事も受け入れたうえで結婚してくれたのだが、休日に家族と過ごす時間を奪ってすまない、という将軍のご好意でぜひにとお願いされていたのだ。ちょうど頃合い良くお前たちに俺たちの家族を紹介できて良かった」

 シモは落ち着いた表情であり、その瞳には優しさと愛情とがはっきりと宿っていた。ホレーショもまた、同じであった。

「先に言っておくが、お前たちは変な気を遣うなよ。俺たちの家族を紹介したが、それはたまたま近くにいたからだ。今度はお前たちの家族を紹介しろとか、何かしろとは言わん。さあ、行こう。今度は俺たちが食欲を満たす番だ」

 そう言うと彼らはそれ以上その話題はせず、前を向いて歩き始めた。僕が彼らの気遣いに感激して言葉をかけるより先に、イェンスが彼らの名前を呼んだ。

「シモ、ホレーショ」

 すると前を歩いていた彼らが歩みを止め、僕たちのほうを何事かと振り返った。

「ありがとう。君たちの家族を紹介してもらって実に光栄な気分だ。そのうえ、僕たちに気遣ってあたたかい言葉までかけてくれて、本当に嬉しい。ぜひ、この感謝の気持ちを君たちに確実に伝えるためにも、僕……僕たちからお礼をさせてほしいんだ」

 彼の言葉が衷心からきていることがわかったので、僕も声を揃えて彼らにお願いする。しかし、彼らは一転して呆れた表情を見せたかと思うと、口の端をゆがませた。

「お前たち、俺の話を聞いていなかったのか? 気を遣うなと言っただろ! ほら、早く行くぞ。俺は腹が減っているんだ、時間を取らせるな」

 ホレーショはつっけんどんにそう言うやいなや、再び前を向いて歩き始めた。シモにいたっては僕たちをどこかあたたかみのある眼差しで一瞥したきりで、関係のない話題をホレーショにしながら前方へと進んでいく。僕は彼らに遅れを取らないようにしながらも、じっとその後ろ姿を見つめた。時折見える横顔が優しさに満ちているのは、僕の気持ちがそこに反映されているからではなかった。

「彼らは実に素敵な人たちだな」

 隣でイェンスが静かに言った。その彼の瞳にはあの美しい光が放たれていた。

「僕もそう思う。だから、彼らが幸せだということを垣間見ることができて、本当に良かったよ。彼らが家族を見つめていた時の、あの表情は本当に美しかったんだもの」

「そうだな。家族からあんな親愛の表情で見つめられたら、そりゃ喜びも幸せもひとしおだろう。彼らが安らぎと幸せの中にずっといられるよう、願うことは実に心地良い。僕の能力が彼らの幸せに役立てるのであれば、喜んでそうしたいくらいだ」

 僕はイェンスの言葉に感ずるものがあって、思わず彼を見つめた。彼は僕の心配を勘付いたのか、微笑んでからささやいて返した。

「クラウス、君は僕のことを今心配しかけたのだろう? 僕なら大丈夫だ。たしかに家族と決別したけど、今でも彼らの幸せを祈っていることに変わりはないんだ」

 彼がそう言ったその時、前を歩いていたシモとホレーショが大きな建物の前で歩みを止めた。白い外壁が美しいその大きな建物の入り口は地面から階段を数段ほど上ったところにあり、扉の両脇をホレーショのような屈強な体格の警備の男性たちが凄むように立っていた。

 僕はこの建物が何であるかがさっぱりわからず、ただ興味深く見上げていたのだが、シモが「着いたぞ」と声をかけた途端、隣にいたイェンスが驚いた表情で僕を見た。

「驚いた、ここはアウリンコでも有数の高級レストランだ。アウリンコ設立当時から会員制で、中に入れるのは結構な年会費を支払える人たちだけだ。また、ずいぶんな場所を選んだな」

「そんなにすごいレストランなの? 君は以前来たことがある?」

 僕は白い息を大きく吐き出して仰天してしまった。シモとホレーショが警備の男性とやり取りしている。どうやら身分照会を受けているらしかった。

「いや、このレストランが年齢制限を設けているのと、なるべくこういう場所に来ることを避けていたから来たことは無い。弟がもしかしたら成人を迎えてから来たかもしれないけど、まだだったとしてもこれから間違いなく関わることだろう。祖父母や両親が何度か利用したことがあるのは知っているが、それでも頻繁に来られる場所じゃないはずだ」

 イェンスは言い終えると押し黙り、緑色の瞳を入り口に向けた。シモが目配せしたので近くに寄ると、入り口の重い扉がゆっくりと開かれて眼鏡をかけた初老の男性が現れた。

「お待ちしておりました。どうぞ、中へお入りください」

 男性はそう言うと僕たちににっこりと笑いかけた。しかし、眼鏡の奥の眼差しは鋭く、何かを射るようである。警備の男性たちが僕たちを見て少し驚いた表情をしたようにも見えたのだが、すぐさま元の威圧的な表情に戻る。ホレーショが先に中に入り、シモが続くとイェンスと僕も続けて中へと入った。

 その高級レストランのホールはかなり広く、高い天井一面には豪華な装飾画と彫刻が施されており、着飾った男女の何組かがそこかしこで談笑していた。まるでスーツのような給仕服を着用した数名の男性従業員が一礼しながら出迎える中、床に敷かれたやわらかい赤い絨毯の上を初老の男性の案内で進んでいく。

「いらっしゃいませ、ようこそおいでくださいました」

 颯爽と挨拶をする従業員の男性に、気後れからくる震え声で「ありがとうございます」と返す。ふと隣にいるイェンスに視線を向けると彼は非常に落ち着きを払っており、余裕ある表情で前方を見ていた。

 やはり彼とは育ってきた環境が根本的に違うのだ。このような場所でも物怖じすることなく、堂々と振る舞えるのだから。僕はイェンスに頼もしさと敬愛の念、そしていくばくかの劣等感を抱きながら階段に足をかけた。

「君がいて良かった。初めてのことだらけで少し気後れするよ」

 そのイェンスが耳元でささやいた。僕は意外な彼の言葉にたいそう驚き、小声ながらも怪訝な表情で言葉を返した。

「まさか、君が気後れするだなんて。僕より堂々としているし、落ち着いているようにしか見えないよ。それに、子供の頃からこういう場所に馴染みがあったんだろう? 僕なんてこんな世界があることすら知らなかったんだ」

「馴染みはあったかもしれないけど、ずっと苦手だったんだよ。いろんな思惑が裏で交錯するからね。僕が落ち着いて見えるのは君がいるからさ。このレストランは確か、音楽の生演奏や歌を聴きながら食事を楽しむところだったはず。それなら、意図さえしなければ他の人たちと交流する機会はぐっと減る」

 終始はにかんだ様子で答えたイェンスの言葉は、どこまでも彼らしさに満ちていた。こういった場所を得意としていたら、彼はそもそも家督相続を放棄しなかったのであろう。そして、彼の言葉にはさらに興味深い情報が盛り込まれていた。音楽の生演奏を聴きながら食事を取るなど、今まで体験したことが無かったではないか。そのことでますます胸を躍らせると、ようやく全身から余分な力が抜けていくようであった。

 踊り場で階段が両手に分かれているのを、案内役の初老の男性が右手に進んでさらに上っていく。壁の模様や階段の装飾などから、僕はこの場所がいかに特別で、歴史的な価値をも有していることをありありと感じ取っていた。目の前では、シモとホレーショが広い背中を揺らしながら歩いている。その時、彼らがずいぶんと無口であることに気が付いた。彼らもひょっとしたら初めてのことで緊張しているのではないのか。

 僕はユリウスの家を出る時に見た光景を思い返した。あの時、ユリウスがシモとホレーショに何かを話しかけた際、二人ともユリウスに深々と頭を下げていた。もしかしたらこのレストランでの食事は、先ほどと同様にユリウスが予約したものなのであろうか?

 三階に到着した。警備員が立っている暗証番号式の扉の前で初老の男性が数字を入力し、ロックが解除された重々しい扉を警備員の男性が静かに開ける。中に入るなり、僕は感嘆のため息を小さくもらした。そこは宮殿を思わせるような豪華な内装で、半個室の開いた空間が何室も横に並んでおり、年配の夫婦らしき人たちや身なりが整った男女がいくつかの半個室で食事を楽しんでいた。照明は足元と半個室を区切る壁に控えめな明かりが点いているほかは天井の明かりも薄暗く、実のところ他の客の顔もはっきりと見えなかった。

 再び緊張が舞い戻り、足取りが重くなる。しかし、少しして非常に重厚感ある円卓のテーブルとイスが設えた個室に案内されたので、途端に安堵して笑顔がこぼれた。

 ホレーショが「せっかくだからお前たちが奥の席に行け」と言うので、イェンスと僕が分かれて向かい合うように座る。転落防止のためにガラス張りされた柵から下の階を見ると、広い床の上に散りばめられている円卓を囲みながら様々な人々が食事を楽しんでいた。さらにはステージを真正面に見下ろせる位置であり、やや規模の小さい室内オーケストラが座って待機しているのも見えた。

 僕がその光景に感激してイェンスを見ると、彼も非常に目を輝かせた様子で僕を見つめ返した。それと同時に、僕の隣に座ったホレーショが低い声で説明を始めた。

「このレストランでの食事はお前たちも勘付いているかもしれないが、ユリウス将軍のご好意によるプレゼントだ。俺たちは警護で中に入ったことはあっても、もちろん食事をしたことはない。ユリウス将軍はそれも知っていて、お前たちとここで楽しむよう手配をして下さったのだ。仕事以外で俺たちはここに全く縁が無い。だから、ここで体験することはお互いに初めてのはずだ」

 ホレーショはまだ緊張が残っているのか、表情が少し硬かった。

「ただ、警護で何度か訪れているから、ある程度事情はわかっているつもりだ。ユリウス将軍から事前にご教示も頂いている。だから、お前たちは気にせずにゆっくり楽しんでほしい」

 イェンスの隣でシモが落ち着いた声で付け加えた。彼の余裕ある表情から推察するに、おそらく過去に警護で何度か訪れた経験が生かされているのであろう。シモはにやりと笑うと、あっさりとした口調でさらに続けた。

「美しい女性が相手じゃなくて悪かったな。だが、お前たちはむさ苦しい男と一緒のほうが楽しめそうだから、俺たちも遠慮せず楽しむぞ」

「全くだ。男四人が向かい合って座るなんて、かなり奇妙な光景だろうぜ」

 ホレーショがおどけた口調で言う。どうやら、シモの言葉で彼の緊張がすっかりほどけたらしかった。それは僕も同じであった。

「ありがとう、シモ、ホレーショ。僕はむしろ君たちが一緒で嬉しい。ねえ、イェンス」

「もちろんさ。この面子なら楽しいに決まっている。なんて素晴らしいんだろう。僕からも君たちにお礼を伝えたい」

「お前たち、礼を言うなら将軍に対してだ。俺たちは連れて来ただけだからな。それにしても全くお前たちには思いやられる。俺たちと一緒で喜ぶんだから、本当に変わってるぜ」

 シモの口調は優しさに満ちていた。その時、給仕の男性が一声かけてからスパークリングワインを次々と僕たちのグラスに注いでいった。

「今日は俺たちも飲む。だから、悪いが帰りはタクシーで将軍の邸宅近くまで行き、歩いて帰るぞ。お前たちを将軍に引き渡したら、俺たちはまた歩いて通りまで出てタクシーを呼んで帰るつもりだ。車はあのままあそこに置いておいて、明日取りに行く」

 ホレーショはそう言うと、気泡を上げながら琥珀色の液体がグラスに注がれていくのをじっと見つめた。

「それは良かった。君たちが飲まないのであれば、僕たちだって飲まないつもりでいたからますます嬉しいな」

 僕の本心から出た言葉に、ホレーショがわざと声を荒げて反応した。

「だから、とことん覚悟しておけ。潰すほど飲ませてやる」

 彼が注がれたグラスを手に取って掲げたので、僕たちも追従してグラスを掲げた。そうは言いながらも、シモとホレーショがイェンスと僕を潰すほど飲ませないことを僕はとっくに理解していた。このレストランがそういった場所でないこともあったのだが、彼の言葉が本意でないことを彼の瞳を見なくとも感じ取っていたのである。

 イェンスの明るい笑顔を見てからシモに視線を移す。シモは一呼吸置くと、やや真面目な表情で口を開いた。

「では、俺たちの友情に」

 シモがその言葉を選んでくれたことは本当に嬉しかった。

「僕たちの友情に」

 イェンスが噛みしめるように言ったのに続けて、ホレーショが静かに言った。

「乾杯」

「乾杯」

 僕たちがお互い示し合わせたかのように一気に飲み干すと、ちょうど階下で拍手が起こり、演奏が始まった。

「いい夜だ」

 シモがしみじみとつぶやいた言葉が、オーケストラの演奏に消え入ることなく耳に飛び込む。僕たちはしばらく無言のまま、階下から響きわたるやわらかく美しい旋律に耳を澄ませた。ほどなく料理が運ばれてくると、会話を楽しみながら舌鼓を打つ。その料理が伝統あるレストランだけあって本当に美味しく、厳選された食材を料理人が芸術作品までに仕上げたことがわかると、普段は体験できない華やかな世界にこの僕がいることに驚きながらもその味を堪能した。

 会話が進むにつれ、僕はシモとホレーショが実に好ましい人たちであることを改めて認識した。彼らの話は知的で、どことなく素朴であり、あたたかみがあった。そうかと思えば、荒々しい内容の話でさえも品位を保ち、不快感与えることなく僕たちに伝えた。そのような中で演奏にも耳を傾け、居心地の良い沈黙さえをも楽しむ。イェンスが静かに感想を語り始めるとシモが隣で静かに同意を示し、ホレーショがさらに独自の感想をやわらかく伝えるのものだから、僕がちぐはぐな言葉で対応しても全てが見事なまでに素晴らしかった。

 一方、僕はユリウスがシモとホレーショの家族にまであたたかい眼差しを向けていたことにも感激していた。それでいてこの素晴らしい経験を僕たちに贈ってくれたのだから、感謝の念が絶えずして湧き上がる。このような気遣いができるからこそ、ユリウスは長く人々の敬愛を受けてきたのであろう。

 ステージから女性の滑らかで伸びのある声が耳に届く。僕はその歌が古い映画で歌われていたものであることを思い出し、なんともなしにイェンスを見た。すると、美しい表情をした彼と目が合い、お互いに微笑み合う。このいつもどおりの仕草もまた、極上の体験のように思えてならなかった。

 デザートが運ばれてきた。今までに見たことの無い造形をしたその小さな芸術作品に、とりわけホレーショが心を打たれたようであった。

「こんな凝ったデザートを口にする日が来るとは、ありがたいもんだ」

 彼は金色のスプーンで非常に小さくすくうと、ゆっくりと口の中に入れた。次の瞬間、彼の表情が純粋な喜びで弾け、輝く笑顔が顔中にあふれだす。その様子を見て、僕も同じようにスプーンで小さくすくって口の中に入れる。するとそのあまりの美味しさに、すぐに飲み込んでしまわずに舌の上に留めてしまった。

「これは美味しい」

 イェンスもまた感嘆した様子で感想をもらす。ホレーショは未だ至福の表情を崩すことなく余韻に浸っているようで、シモがそんな彼を見て「可愛い顔しやがって」と茶化したのだが、そのシモもまた純粋な喜びを顔中に表していた。

 紅茶を飲んでくつろいでいると、先ほどの初老の男性がシモのところにやって来て耳元で何かをささやいた。シモがホレーショに目配せしてから、初老の男性に二言三言返すのを見守る。そのやり取りは長く続かず、初老の男性は恭しく一礼してから部屋を出ていった。その様子が気になってシモに尋ねようとする前に、彼は落ち着いた口調で切り出した。

「今回の食事も席料も、すでに将軍の名前で会計済みである報告だ。それとレストランのほうで俺たちを送迎する提案があったのだが、そうすると少し目立つからな。丁重に断った」

 またしても届けられたユリウスの心遣いに僕が感謝と感激を覚えていると、すかさずホレーショが小声で付け加えた。

「俺たちはあのユリウス将軍が自らご予約まで入れるほどの、親しい間柄だと捉えられているはずだ。だが、将軍はやはり心遣いが素晴らしいお方で、レストランには俺たちに控えめな応対で出迎えるよう伝えてあるとおっしゃっていたのだ。おかげで気兼ねなく素晴らしい時間を楽しむことができたのだが、どうやらこのまま目立たずレストランを出ることもできそうだ」

 僕はその言葉を聞いて思い当たる節があった。そっと視線をイェンスに移す。すると、彼は満たされた表情を浮かべながらも、どことなくはにかんで僕たちを見ていた。その様子から、ユリウスの気遣いがとりわけイェンスに向けられたのだと推測した。おそらくは彼の家族と万が一でも鉢合わせることの無いよう、充分に配慮したのであろう。ユリウスの優しさがとことん細部にまで行き届いていることを理解すると、いよいよ今晩の経験がかけがえのないものであるように思われた。

 帰路に就くべく、シモが給仕の男性に目配せする。例の初老の男性が戻って来ると、やや壁寄りに歩きながら僕たちを先導していった。

 出入り口付近で、胸元が開いたドレスを着た若い女性が男性にエスコートされながら半個室へと進んでいく。

「アマリア、足元に気を付けて」

 その言葉に敏感に反応し、緊張と不安からそっとイェンスの様子を伺う。しかし、彼は落ち着いており、僕の視線に気が付くと「人違いだ」と答えて微笑んだ。それを聞いてほっと胸を撫で下ろすと、複数の従業員に見送られながらこの特別な空間を後にした。

 通路に出て玄関ホールを見下ろす。ホールはたくさんの人であふれかえっていた。そこに世界的に有名である芸能人のカップルが複数やって来たらしく、大勢の人たちから一斉に歓声が上がる。どうやらこのレストランが盛り上がるのは、これからが本番であるらしかった。

 果たしてこの人だかりの中を無事に抜けて外へと出られるのか。思いがけずよぎった不安を見透かしていたのか、玄関ホールの様子を伺っていた初老の男性が僕たちに話しかけてきた。

「ご覧のとおり、エントランスホールが大変混雑しております。ユリウス将軍から、あなた様方を目立たせないようご案内することを申しつけられておりますが、このままではあなた様方を目立つところにご案内してしまうことになりかねません。あの将軍たってのご要望でなくとも、最後まで喜んでいただけるよう努めるのが私どもの役目と考えております。どうでしょう、お客様であるあなた様方には申し訳ないのですが、従業員用の通路がこの先にあります。そこから裏口に出れば、そのまま目立つことなく裏通りをお進み頂けると思うのですが」

 彼は非常に丁寧な態度で僕たちに接していたのだが、その眼差しにはやはりどことなく鋭さがあった。シモが僕たちを見たので、イェンスも僕もうなずいて応える。それを受けてホレーショが「では、案内してもらおう」と落ち着いた口調で男性に返したので、彼は「かしこまりました」と言って通路を引き返し、壁のつきあたり近くまで進んでいった。

 カーテンで仕切られ、そこからさらに奥まった場所にある簡素な作りの扉の脇に設置されている認証機器に、初老の男性がジャケットの内側から取り出したカードをかざす。すると鍵が解除された音が鳴り、ゆっくりと扉が開かれていった。その扉の向こうは無機質な階段と壁とで構成されており、今までとは打って変わって殺風景である。ふと背後に気配を感じたので振り返ると二名の男性従業員が僕たちをかばうように立っており、隙間から覗かれることのないよう、注意を払ってカーテンを手で押さえていた。

 初老の男性に再び先導される形で、冷たい足音が響く階段を降りて裏口へと向かう。その途中、その初老の男性がおもむろに僕たちに話しかけてきた。

「あなた様方はずいぶん、鍛えた体と鋭い眼力をお持ちですな。なるほど、ユリウス将軍の警護の方ともなれば当然でしょうが、いささか不思議な雰囲気もお持ちだ」

 どうやらユリウスは、僕たち全員を彼の警護担当者として話してあるらしかった。男性はそのまま話を続けた。

「とくにあなた様は目立つ髪色だ。それは地毛ですかな?」

 男性はイェンスを見ていた。

「いえ、わざとこの髪色に染めました」

 イェンスが咄嗟に嘘をついた。

「そうでしたか。いや、特徴ある髪色ですから、もしやエルフに縁があるお方かと思ったのですが、私の勘違いでした」

 彼はそう言いながら裏口の扉を開けた。

「またお目にかかれるのを楽しみにしております。ユリウス将軍にはくれぐれもよろしくお伝えくださいませ。それでは」

 彼が一礼して顔を上げるのと同時に、建物の奥で女性従業員がその男性に向かって「総支配人」と話しかける。僕たちは彼に会釈してからその場を立ち去ったのだが、何かを察したのか、シモとホレーショがどんどん足早に通りを進んでいったため、ものの十数秒で僕たちはあっという間にレストランから離れてしまった。

 僕の心臓はずっと高鳴っていた。『エルフ』という単語がこの状況で出た――。イェンスは一言も発することなく歩いていた。いったい彼がどういった心境でいるのかが気になり、そっと彼の様子を伺おうとする。それと同時に、前を歩いていたシモとホレーショが急に立ち止まり、振り返って僕たちを見つめた。その表情は優しさと力強さとが入り混じっており、強い意志を宿しているように思われた。

「いい夜だったな。お前たちと一緒にいて、あんなに楽しいとは思わなかったぜ」

「本当にいい夜だ。お前たちに感謝する。さて、タクシーを呼ぶか」

 ホレーショが明るく言ったのに続けてシモも明るい笑顔を見せ、ちらつく雪を見上げてからスマートフォンを取り出す。まるで何事も無かったかのように振る舞う彼らにどう返答すべきか思案していたその時、ずっと無言であったイェンスが控えめな口調で彼らを呼び止めた。

「正直に答えてほしい。君たちは彼の、さっきの僕の髪色に対する言葉を聞いてどう思ったんだい?」

 イェンスは真剣な眼差しで彼らを見ていた。その表情から何かを汲んだのか、いつになくまじめな表情でホレーショがイェンスの質問に答えた。

「別にない。彼が言ったことは単なる感想だ」

「髪色が奇抜な奴はいくらでもいる」

 シモが補うかのように続けたのだが、思いがけずイェンスが粘った。

「ひょっとして僕に気を遣っているのか?」

「言ったはずだ、追及しないとな。お前たちが何らかの事情を抱えていることはわかっている。イェンス、特にお前がドーオニツの小さな会社で働いているのは不思議なほどだ。お前たちは頭がいいから、これだけで充分伝わるだろう」

 ホレーショの瞳にあの光が浮かぶ。雪で見え隠れしながらも、その光ははっきりと捉えることができた。それはシモも同じであった。シモはイェンスの肩を優しく抱くと、声をひそめながら言った。

「お前にはいい友だちがいる。クラウスだ。こいつがお前のそばにいるということが、どんなにお前にとって心強いか、見ていればわかる。お前の事情が何であれ、お前にはかけがえのない友人がいて、そいつには心を許し、素直に甘え、馬鹿な面も見せることができる。それはクラウス、お前にとってもイェンスが同じ役割のはずだ。俺たちはそんなお前たちのやり取りを見ているだけで充分嬉しいんだ。もっとも、お前たちは変わっているから、俺たちをも慕ってくれているがな」

 イェンスの瞳に美しい光があふれていくのを僕はじっと見ていた。

「気付いていたんだね」

 イェンスはやっと聞き取れるほどの声量でつぶやいた。それを間近で拾ったシモが穏やかな表情で答えた。

「気付いていないさ、何もな」

 シモは美しい微笑みをイェンスに優しく向けていた。イェンスはその微笑みを戸惑った表情で受け取ると、うつむいてシモに寄りかかった。

「お前もクラウスも驚くほどいい奴だ。俺は仕事柄いろんな人を見てきたが、お前たちが持つ輝きには驚かされる。中にはお前たちが放っている輝きが眩しくて受け止められない奴らもいるだろうが、俺は……俺たちは素直に美しいと感じている」

 シモはそう言うと僕を見て続けた。

「クラウス、イェンスの肩を抱いてやれ。お前のほうがこいつをより力強く支えられる」

 その言葉にイェンスが反応して顔を上げる。彼はどうやらシモに微笑みかけているらしかった。

「シモ、ありがとう。君の優しさに僕は充分癒されたんだ」

 それを聞いたシモが非常に優しい笑顔をイェンスに向けた。

「僕なら大丈夫だ。さあ、戻ろう」

「さすがだな、じゃあタクシーを呼ぶぞ」

 イェンスの言葉にシモは改めてスマートフォンを取り出し、タクシーの手配を始めたらしかった。その向こうから、高笑いをしながら若者三人組がやって来るのが見える。ホレーショはその間、イェンスと僕を両手に抱えて「これはいい休憩台だ」と言って体重を乗せてきた。僕たちはそれを受けて笑い声を上げると、そのたくましい腕を掴んで「重いよ」と悪態をついた。

「けっ、重いわけがないだろう。お前らが軟弱じゃないことぐらい、こっちは見抜いてんだ」

 ホレーショの言葉を甲高い笑い声が切り刻んだ。

「うえ、男同士で抱きあってらあ、気持ち悪ぃ!」

「まさか痴話喧嘩じゃねえだろうな」

「ちげーよ、冬でもこれから外でおっぱじめるんだろ! おえっ、アウリンコってきめえ奴しかいねえのな」

 件の若者たちが僕たちに絡んできたのであった。言動からして、最近アウリンコに在住するようになったのであろう。しかし、僕は突然の出来事にただただ困惑するばかりで、情けないことに反論する言葉さえ思いつかないでいた。

 その時、ホレーショがすっと前に出た。その間中、若者たちから酒の匂いがかすかに飛んでくるのだが、僕よりさらに若く見えるのがどうにも気にかかった。

「どうした?」

 離れた場所にいたシモが凄んだ声を出して駆け戻る。するとそれまで笑っていた三人が突如としてひきつった表情を見せて後ずさりしたので、どうやらシモとホレーショが凄まじい迫力で彼らを睨みつけているらしかった。しかし、それでも彼らは「下級の豚がいきがんなよ」と僕たちを小声で馬鹿にしていた。

「俺たちに何の用だ?」

 ホレーショが重く凄みを利かせた声で、さらに畳みかけるように彼らにじりじりと近寄る。若者たちはそこで一気に青ざめたように見えたのだが、声を裏返らせながら叫ぶように言い放った。

「お、お前ら、いい気になるなよ。俺たちの父親は全員名前が知れた政府関係者だ。注意したほうがいいぜ」

「くそが! アウリンコ人が何だっていうんだ。むかつくから刑務所送りにしてやる」

「外殻政府高官の家族にたてつくのは重罪じゃなかったっけ? こいつら終わったな」

 それを聞いた途端、シモが腕を組みながら彼らをきつく睨みつけて言った。

「ほう、そうか。奇遇だな、俺たちも政府関係者だ。警察関連のな。お前らの父親の名前、今すぐ言ってみろ。本庁に問い合わせてやる。そもそもお前たち、まだ未成年じゃないのか? 酒飲んでやがったら強制送還するぞ」

 僕はシモとホレーショの本職の仕事ぶりを、今まさに間近で見ていることに感動し、その頼もしい後ろ姿に敬愛の念さえ抱いていた。そもそも治安と素行の良いアウリンコにおいて、こういった場面に出くわすことなどそうそうないはずなのだが、この珍しい体験を全体が把握できるところで見物したくなり、能天気にもイェンスに目配せしてから彼らの表情が何とか伺える位置にこっそりと移動した。

 シモは素早くスマートフォンを操作していた。

「もしもし、俺だ。巡回中にAA‐3地区にて不審な男性三名発見。アウリンコ規定違反の疑いあり……」

「こんなんで通報するとか、馬鹿か!」

「うぜー、バーカ! 俺たち全員18歳だよ、文句あんのか」

「くそが!」

 シモの言葉を遮るかのように、三者三様に捨て台詞を吐いて一目散に逃げ去っていく。その後ろ姿は控えめに見ても弱々しく、不格好であった。

 シモとホレーショは三人組の姿が見えなくなるまでずっと腕を組んで睨んでいた。だが、イェンスと僕は不謹慎ながらもいろいろな出来事が滑稽すぎて忍び笑いが止まらなくなっていた。それにつられたのか、だんだんと彼らの肩が小刻みに震え、口の端が崩れていく。そしてとうとう僕たちのほうを見るなり、堰を切ったかのように大きな笑い声を上げた。

「あいつら、どうしようもねえな。俺たちは身分証すら提示してないんだぜ! この程度でびびるぐらいなら、最初から関わるなっていうんだ」

 ホレーショはシモのスマートフォンを見て笑っていた。シモは待ち受け画面のままで電話をかける振りをしただけであり、実際に不審者と対面した場合はもっと異なる対応を取るであろうことは僕たちも見抜いていた。

「念のため、あいつらの情報を本庁に送っておくか」

 シモが素早く端末を操作する。イェンスと僕が彼らに賞賛を送ろうとハイタッチを求めると、シモとホレーショがそれぞれ力強く叩き返してきたので、威勢の良い音が連続して冬の夜に鳴り響いた。

「やっぱりすごいな。君たちみたいな格好いい人と友だちだなんて光栄だし、誇りに思う」

 僕が愉快な気分を堪えながらも心を込めて伝えると、思いがけず二人とも照れた表情を見せた。

「おい、クラウス。あんまり言うな。お前はそういうのも素直に言うから照れるだろう」

 彼らは僕の頭を交互にくしゃくしゃに撫でるとそれ以上その話題に触れることはなく、雪が舞う道路に視線を向けた。少ししてシモが「タクシーが来たぞ」と声をかけると、あっという間に先ほどのささやかな事件は痕跡すら見えなくなり、よくある冬景色だけが辺りに漂った。

 シモは大型のタクシーを手配していた。イェンスと僕が三列目に通され、シモとホレーショが二列目に座る。シモが行き先を告げると、タクシー運転手は礼儀正しく挨拶をしてから車を走らせた。

 タクシーの中でもイェンスと僕は含み笑いが止まらなかった。イェンスは僕の肩に寄りかかりながら「愉快な夜だ」と言って前方を見た。その視線の先のシモとホレーショが振り返って「お前たちは笑い上戸だな」と笑いながら言ったので、僕たちが声を揃えて「君たちだって」とおどけた口調で返す。会話こそ少なかったものの、何もかもが楽しかった。

 タクシーはあっという間にシモが指示した場所に到着した。ホレーショが支払い用の端末にIDパスワードを入力し、手際よく支払いを済ませる。タクシー代だけでもせめて僕たちが支払おうと彼らに願い出たのだが、ホレーショが「あんな安い料金でお前らに恩を着せられるか」と言ったきりで、やはりそれ以上その話題について取り合うことはしなかった。

「今度こそ高いレストランでこいつらにおごらせよう。アウリンコには今日行ったレストランより、もっと高い席料と値段の張る超高級レストランがあるから、そこに今度予約を入れよう」

 シモがいたずらっぽく笑いながら言った。

「あそこなら今日行ったレストラン以上にドレスコードが厳しいから、ついでにタキシードもこいつらに買わせよう」

 ホレーショも軽快な笑い声を上げて僕たちを見る。雪がずっと降っている割には積もらず、足元はかなり歩きやすかったのだが、身を切るような風が吹くと僕たちは一様に肩をすぼめた。シモが「この寒さの中、俺たちもよく歩いているもんだ」とつぶやいたのを、ホレーショが「じいさんにはつらいだろう?」と茶化して返す。しかし、そのホレーショも寒さから背中を丸めていた。そのせいか、四人とも自然と足取りが早くなっていった。

 五分ほど歩いてユリウス邸宅前のゲートに到着する。歩いて戻って来た僕たちを見るなり、警備にあたっていた男性たちが驚いた表情を見せて話しかけてきた。

「あなたたちは、ひょっとして飲んできたのですか?」

 寒い日でも気を張って警備の仕事をしている彼らを敬意の眼差しで見ていると、ホレーショが澄ました様子で答えた。

「そうだ、ユリウス将軍はお戻りか?」

「はい、将軍なら三十分ほど前にお戻りになりました」

 その若い男性は少し笑顔を見せたのだが、すぐに落ち着いた表情でシモとホレーショにID確認を求めた。シモが「全くいい仕事ぶりだ」と言いながらも専用の機器にフルネームを吹き込み、IDパスワードを入力して認証確認を受ける。ホレーショも続けてIDパスワードを機器に入力し、無事認証を済ませていく。

「このガキどもはいらないだろ?」

 ホレーショが機器を返す際、僕たちを一瞥しながら警備の男性に尋ねた。

「はい、あなた方のIDパスワードで充分です。あなた方の厚い信頼を彼らが受けていることは、見ればわかりますからね」

 もう一人の警備の男性がゲートを開け、僕たちに中に入るよう促す。しかし、僕はどこか特別扱いされていることに申し訳なさを感じていたので、警備の男性に身分照会を受ける用意ができている旨をおずおずと伝えた。

「あの、もしかしたらご遠慮なさっているのではありませんか。僕の身分照会も本当は必要なのであれば、もちろんお受けします」

「あなたの申し出に感謝しますが、そうすることはしたくないのです。シモ・カルフとホレーショ・ウィリアム・ターナーといえば、管轄の異なる私たち警備担当者の間でもその名が轟くほどの、超有名な政府の要人警護担当者です。その彼らと酒を酌み交わしたあなた方を、私たちが必要以上に疑っては彼らに対して失礼にあたります。あなた方にはわからないかもしれませんが、彼らは警護や警備を担当する私たちにとって目標であり、憧れのような存在なのです。もちろん、不審者を侵入させないという使命を果たすためにここにいるのですが、あなた方がそもそもユリウス将軍と親しい間柄であり、厚い信頼を受けていることも私たちは充分承知しております。どうぞ、気にせずにそのまま中までお進みください」

 警備の男性は真摯な表情で僕たちを見ていた。その時、シモとホレーショが彼らに一糸乱れぬ敬礼をした。それを受けて、その若い警備担当者ともう一人の警備担当者も勇ましい表情で敬礼を返す。僕は彼らのあたたかい言葉に心を打たれ、心を込めて「ありがとうございます」とお礼を伝えるのが精一杯であった。同じように感じていたのであろう、イェンスも感謝の言葉を丁寧に伝える。それを受けて彼らは口の端でやや微笑んだのだが、すぐに道路のほうに体勢を整え、ゲートを閉めた。

 僕は前方を颯爽と歩くシモとホレーショの後ろ姿に、頼もしさと優雅さとを見出していた。イェンスが「思ったとおり、彼らは超一流の警護担当者なのだな」とささやいたので、「本当だね」と大きくうなずいて返す。そしてつぶやくように一言付け加えた。

「すごく素敵な人たちだ」

 シモが姿勢よく歩きながらユリウスに連絡を入れる。ホレーショもまた、いつになく背筋をぴんと伸ばして歩いているようであった。その彼らに白い雪が静かに寄り添う。僕はあくまでも喜びを厳かに押しとどめ、その後ろ姿に誇りと気高さを表した彼らを美しく感じていた。

 大都会の喧騒を背景に、静寂が僕たちを包み込む。しかし、僕はこの沈黙に力強い友情を感じていた。今は言葉を発せずとも、静謐さの中に身を委ねることによって完璧な調和が保たれているに違いないのだ。

 玄関前まで来ると気配を察したのか、ユリウスが扉を開けて僕たちを出迎えてくれた。彼はシモとホレーショにも声をかけると、寒いだろうから一緒に中に入って少し休んでいくよう彼らを誘った。僕は彼らがその提案を当然のごとく喜んで受け取るであろうと思っていたのだが、彼らは思いがけない言葉を控えめな口調でユリウスに返した。

「度重なる将軍のお心遣いに、心から感謝申し上げます。それは非常に身に余る光栄であり、私を一瞬で喜びに導く寛大なるお言葉です。ですが――」

 シモはためらいがちに続けた。

「あなた様もそして彼らもきっとお疲れのはずです。どうぞ私たちにお気遣いせず、少しでも早くお休みください。それに私たちは非常に楽しいひと時を過ごしました。私の胸は今も喜びと感謝に満ちあふれております。実を申し上げますと、この気持ちを一刻も早く、愛する妻に伝えたい気持ちが強いのです」

 彼の瞳に美しい光が微かに輝いたのが見えると、隣に並んで立っていたホレーショの瞳にもその光があることに気が付いた。

「そうか、二人とも同じ気持ちのようだな」

 ユリウスは優しく微笑むと彼らの手を取り、あたたかい眼差しで彼らをじっと見つめた。

「この二人に君たちがしてくれた全てのことに感謝する。彼らの表情を見れば、君たちとどんなにか素晴らしい時間を過ごしたか、聞かずともわかる。ありがとう、遅い時間まで本当にありがとう。ぜひとも気をつけて帰ってほしい。明日またお願いをするのは本当に心苦しいのだが、私には君たちしか頼れる人がいないのだ。君たちの家族にもくれぐれも私の感謝の気持ちを伝えてほしい」

 それを聞くなりシモとホレーショが感激した様子でユリウスを見つめた。

「とんでもないことでございます。妻も将軍からのご厚意を非常に喜び、くれぐれも感謝と敬愛の気持ちを伝え忘れることのないよう、重ねて申しておりました。……その、あなた様からのご厚意よりも身内に会うことを優先させたいのは、彼らと過ごした時間があまりに素晴らしく、思い出深いものであったからです。彼らにも私の家族を紹介しましたが、人見知りをする娘が泣き出すことなく彼らに笑顔を向けた時、私は彼らの本質を感じ取りました。そして彼らと心あたたまる時間を過ごせば過ごすほど、私はあなた様と彼らが持つ美しい内面に感激していたのです。それを受けて自己の内面を振り返った時、私は愛する家族を思い出さずにはいられませんでした。特に常日頃から妻には感謝しておりましたが、今は一刻でも早く、私が感じている愛情と感謝の気持ちを妻に伝えたい気持ちでいっぱいなのです」

 ホレーショが控えめながらも美しい表情でユリウスに伝えているのを、イェンスも僕もじっと見守っていた。シモが続けて感謝の言葉を述べ、ユリウスに一礼をする。シモの言葉もまた、おおむねホレーショが話した内容と同じであり、彼の美しい内面をそのまま表しているかのような、心に響く素晴らしいものであった。

「お前たち、今日はありがとう。ゆっくり休んでほしい。明日また会おう」

 シモもホレーショも、家族に見せたような微笑みを僕たちに見せながら言った。そして彼らはその表情を崩すことなくユリウスを見つめると、改めて深々と頭を下げた。そこでイェンスと僕とで「今日は本当にありがとう。君たちもゆっくり休んで、また明日会おう」と声をかけたのだが、彼らが顔を上げることはなかった。

 ユリウスが玄関のドアを開け、中に入るよう僕たちを促す。しかし、イェンスと僕はどうしても彼らが気になり、もう一度振り返って様子を伺った。すると彼らは顔を上げて僕たちを見守っており、目が合うと笑顔で手を挙げて応えた。彼らの姿がドアの向こうに遠のくにつれ、何とも言えない寂寥感と今日体験した出来事に対する高揚感とが押し寄せる。僕は込み上がる感情を胸に、無言でユリウスの後をついて歩いた。

 リビングルームに入るなりユリウスがあたたかい飲み物を差し出し、今晩のことについて尋ねてきた。イェンスと僕は彼が差し出した飲み物で一息つけると、どちらからともなく体験したことを訥々と話し始めた。しかし、ユリウスの優しい眼差しを受けるにつれ僕たちの話す勢いは徐々に増していき、美術館で観た絵画やシモとホレーショの家族に対面した時のことを伝える頃には止まらなくなっていた。レストランで食べた食事や聴いた音楽、さらにはイェンスの髪色をレストランの総支配人が尋ねたことや、それに対するシモとホレーショが見せた優しさのことまでイェンスと交互に話す。そして最後に若い酔っ払いたちが絡んできた時、いかにシモとホレーショが格好よく素晴らしい対応を見せたのかを僕なりに雄弁に語ると、イェンスがそれを補足するようにゲートで警備を担当している男性の話を引用してユリウスに伝えた。

 ユリウスは全てにおいて興味深い表情で静かに耳を傾けており、時には笑い、時には驚いた表情を見せたりもした。僕たちは美術館とレストランのお礼も最大級の感謝の言葉に表して伝えたのだが、ユリウスは微笑んで首を横に振り、「たいしたことじゃない、気にするな」と言ったきりでやはりそれ以上取り合うことはなかった。

「わざと染めた、は良かったな」

 ユリウスがくつろいでいるイェンスに微笑みながら言った。

「まさか総支配人が僕たちを案内しているとは思わなかったし、彼が僕の髪色を見てあんなことを言うとは思わなかったんだ」

 イェンスは穏やかな表情で答えると、つぶやくように付け加えた。

「おかげで、シモとホレーショが僕たちのことをどこまで把握しているかがわかったから、結果として良かったんだけどね」

「実は、君たちに話しておこうと思っていたことがあってな。ちょうどいい。――クラウス、君はまだ行ったことがないかもしれないが、アウリンコ国立中央図書館にはありとあらゆる蔵書が保管されており、国家機密にあたるような最重要文書以外は、届け出さえすれば誰でも自由に閲覧することができるようになっている。その中央図書館に、非常に興味深い古い史料が保存されていたのだ。イェンス、君は異種族との間に産まれた子供を追跡調査した、非常に珍しく貴重な数百年前の史料の存在を知っていたかね?」

 イェンスは非常に驚いた表情で「いいえ、そんな史料があったのですか?」と答えると、前のめりになってユリウスを見つめた。

「その史料の存在自体が忘れ去られているからな」

 ユリウスはそう言うと静かに微笑み、言葉を続けた。

「実は私もその史料の存在を知らなかったのだが、ルトサオツィが前回の訪問の帰り間際に、数百年前にその本が当時の学術者によってまとめられて保存されたことを思い出し、教えてくれたのだよ。なかなか時間が取れず、なんとか今年に入ってから立場を利用して仕事の合間に閲覧してきたのだが、率直に言うと衝撃的な内容だった。イェンス、君は以前高祖母の話をしてくれただろう? その娘が早くにして亡くなった話も君はしてくれたね。古い史料のため、君の曾祖母のことは記載されていなかったがね」

 気がつくと僕も前のめりになっており、真剣に彼の言葉に耳をそばだてていた。

「何百ページにも及ぶその史料は、数少ない異種族との間に産まれた子供を男女別に分けて丹念に調べて研究してあった。要約すると女性は生殖能力を持ち、ほぼ人間に近いのだが比較的短命であったこと、男性は異種族の能力を受け継いで活躍することもあったのだが、中途半端に特徴を併せ持っていたために普通の人間から受け入れられることは少なく、最終的には自ら命を絶つ者が非常に多かったらしい。そして全般的に言及されていたのが、男女ともに普通の人間からの嫉妬や嫌悪、好奇や奇異の視線があまりに多いため、疲れ切った家族から疎まれ、捨てられるという内容だった」

 それを聞いてイェンスが物憂げな表情を浮かべた。

「だから、現在の異種族は人間となるべく関わらないようにしているのですね。異種族から存在は認められても、魔力が無いため彼らの世界では暮らしにくい。そうなると行き場の無い不幸な存在が、孤独のままでずっと漂流することになる……」

「そんな古い時代でも彼らに関する資料をこと細かくまとめていたということは、やはり人々の関心を長く引きつけていたという証拠でもあるんですね」

 僕の率直な感想に、ユリウスは大きくうなずいて返した。

「そのとおりだ、クラウス。数少ない事例であるにもかかわらず、詳しい調査内容が書き記され、複数の史料が残されている。そのことだけで、彼らがいったいどんな数奇な運命を辿ったのかを物語っているようなものだ」

 それを聞いてイェンスと僕は押し黙るしかなかった。やはり純粋な人間には話せないことなのだ。

「実はその史料を読んでいる時に、私はどうしてもシモとホレーショのことが脳裏から離れなかった。それが一度ならず何度もあったので、私は権限を行使し、私以外の誰かがこの史料を閲覧しなかったか、図書館の担当者に尋ねることにした」

 僕は感ずるところがあって、思わずユリウスを凝視した。

「君たちの反応はもっともだ。そのとおりだ。彼らも閲覧していたのだよ。私が最初に閲覧してからずっと後だがね。彼らは直接のやり取りこそ無いが、私を警護する際にルトサオツィを見かけているから、おそらくはそこから断片的にヒントを得たのだろう。念のために申し添えるが、ルトサオツィは人間社会にいる間、能力だけではなく特徴のある髪色や耳もなるべく隠している。目立たぬようにかなり配慮をしているのだ。それゆえ、政府関係者でもよっぽどの地位で無ければ、イェンス、君を全く知らない者が君を見た時にエルフと関連付けることは稀だ。私の役職から判断して、私に関りのある君がエルフとも関りがあることを嗅ぎつける可能性はあるかもしれないがね。件のレストランの総支配人も、私以外の人から接待を受けているルトサオツィをたまたま見かけたのかもしれない。もともとシモとホレーショも職務柄、知識や情報を得るために図書館で資料や文献を調べることもするはずだから、そうなると辿り着くのは容易だったはずだ。私は念のため、図書館の担当者に彼らが他にも何か閲覧していないかを確認すると、彼らは異種族の文化を数少ない交流事例から推察した、これまた非常に貴重な書籍をも閲覧していた。担当者が訝しがってはいけないと思い、私の立場上、警護を担当する彼らもその知識を得る必要があるのだと伝えると、担当者はすぐに納得して他の関連した資料や文献を探してくれたがね。彼らが閲覧した史料には、異種族との間に産まれた子供の外見的特徴も詳しく記されていた。つまり……」

「僕の髪色も瞳の色も、彼らはその理由を知っているし、あなたの瞳の色で彼らがあなたの正体に気付いている、ということですね」

 イェンスは静かに言い放ったのだが、僕は動揺していた。イェンスはユリウスを見つめると、またしても落ち着いた口調で続けた。

「彼らは僕たちに深く追求しないと言ってきたけど、結局湧き上がる疑問に抗えずに秘密裏に調べることにしたのでしょう。そして、辿り着いた答えが想像以上であったため、おそらく衝撃を受けて当惑したはずです。現在では異種族の存在がそもそも遠すぎて現実味が薄いため、関係があるといっても真実味が無い。僕の実家だってそうです。リカヒは公式の記録や肖像画、そして当時出回り始めていた写真に残ることを頑なに拒んだとされています。そのため、娘である曾祖母が存命のうちから徐々に信憑性を疑われ、曾祖母が亡くなる頃には僕の高祖父が売名行為からエルフとの婚姻話を捏造したのだと嘲笑されていたのです。今となっては実家でもリカヒの話題を頻繁にすることは避けています。だからこそ、僕の特徴が外部にもれずに済んだのだけど、エルフと直接関りがあったとしても、その扱いなのです。現在でも異種族と関りがあるというのは全くのおとぎ話か、それこそ売名行為で荒唐無稽だと考えられています。証明しづらいですからね。しかし、シモもホレーショも、現実に異種族と血縁関係がある者が存在することを知ってしまった。それがどういうことを意味するのか、そして、異種族との間に産まれた子供たちが辿った悲しい末路が、なぜ起こってしまったのかまでをも理解したのでしょう。だから、僕の髪色についてエルフという単語が出た時でも事実を確かめることはせず、ただ胸の内に秘めるべく、追求しないと答えたのだと考えています」

「おそらくそうだろう。そしてそのことは、彼らに後ろめたさをももたらした。だからこそ、君たちに家族を紹介するという行為をしたのだと考えている。それにしても、イェンス、やはり君の実家も異種族と関りがあったことで苦労してきたのだな。異種族と関りがあることを肯定されても否定されても、結局は私たちが孤独で、面倒を起こし続けることには変わりがないのだが」

 ユリウスはそう言うとイェンスを見つめた。イェンスは「実にそのとおりなのです」とさびし気に微笑んで返すと、何かの思考に囚われてしまったのか、すっと黙り込んだ。

 僕もまた、イェンスとユリウスの一連の会話に困惑していた。異種族と関りがあるだけで、人間社会から腫れもの扱いされるのだ。長い歴史の中でその悲劇を繰り返したからこそ、異種族は人間と関わることをやめたのである。そうであれば、僕はなぜドラゴンの力に反応したのか。外見的な特徴が現れていない僕のことを、シモとホレーショはいったいどのように捉えているのであろう?

 彼らが僕にも事情があると思っているのは確かであった。だが、僕の瞳の色はユリウスのように紫色では無かった。ひょっとしたら他の異種族との間に産まれた子だと思っているのではないのか。

 イェンスは以前、彼の家族が非常に骨を折って彼の秘密を保持してきたことを教えてくれていた。そこには僕が思い描けなかっただけで、深刻かつ複雑な問題としてグルンドヴィ家の歴史と裏事情に絡まりつき、一族を長年苦悩に追い込んできたのである。そうなるとイェンスの特徴は彼の父親にとって、苦難と屈辱の過去を思い起こさせるものであったのかもしれなかった。だが、一方でイェンスの父親はエルフの特徴を持った息子に、野望実現のための糸筋を見出していた。イェンスの父親だけではない。エルフの特徴を知らされていない彼の祖父に伯父・伯母も、そしてエルフの特徴を隠覆する側にいたゲアトルーヅでさえも、イェンスに有益な価値を見出していた。その複雑に絡まった意図が、様々な人たちの思惑と駆け引きとの間で彼らの願望実現を阻む邪魔な壁を壊し、自らにとって都合の良い展望となるよう画策し続けてきたのではなかったか。

 とりわけイェンスの父親は真の上流社会に身を置くことを切に望んでいた。頭が良く、物事を総合的に判断することに長け、見た目も美しい長男にかける父親の期待とはいかほどのものであったのか。しかし、そのイェンスは、リカヒがグルンドヴィ家に関わった時点では全く予想だにできなかった不可解な運命を、その身一人に背負ってしまっていた。

 いったいそのことがどんなにかイェンスを孤独の底無し沼に沈め、悲しみと苦しみをももたらしてきたのか。僕は彼の孤独と苦悩を何度も目の当たりにしてきた。そしてその孤独と苦悩は、ユリウスにも同じように訪れていた。僕はそのことを思うと何とも言えない気持ちになり、僕の友人たちをただ慮った。

 その時、ユリウスが僕たちを意味ありげに見つめた。

「実を言うと、異種族に関連する史料の閲覧を制限できるよう、関連省庁の担当者と法手続きを進めているところなのだ」

 ユリウスは穏やかな表情で話し始めた。

「現状として、異種族との接触が原則的に認められていないため、閲覧を申請する際は国家安全省大臣の許可を要するよう、関連法規の改正を進めている。表向きは特定の思想を持つ者が閲覧した情報を悪用し、不穏な行動を起こさないようにすることが目的だが、真の理由は私たちの存在保護にある。シモとホレーショはこの法改正の具体的な内容をもちろん知らされてはいないが、私のほうからそういう提案をして動いているということは、私の警護をしている時にある程度把握しているだろう。実を言うと、彼らの眼差しがある時を境に、急に変わったのだ。彼らは普段どおり沈着冷静な振る舞いを見せていたのだが、その日初めて私と目が合った時、どことなく不安と覚悟とをその瞳に表した。それに気が付いたからこそ、図書館で閲覧していた時に直感が湧き上がったのかもしれないがね。おそらく彼らは、陰で私の秘密を探るような行為をしたと考えているだろう。そのことを私は責めるつもりは全く無いのだが、法改正の手続きを率先して進めているとなれば、結局は同じような意味を持つ。彼らにしてみれば、私の秘密に近付いたがために閲覧に制限がかかるように手続きが進められ、その陰で私が憤懣を感じていると思っているのかもしれない」

 僕はユリウスの瞳が憂いがかったのを見た。それはシモとホレーショと彼との間に存在する溝を、彼が物悲しく受け止めていることの表れのように思われた。しかしその時、僕の脳裏に今晩のユリウスに対する、彼らの敬愛に満ちた眼差しが思い浮かんだ。そこには清らかな光しか発せられていなかったように思えると、僕は確信をもって内側から湧き上がった言葉を口にした。

「果たしてそうでしょうか。シモとホレーショがあなたを見る眼差しに、憂いも恐怖の色も全く見受けられなかったように思います。僕が前向きなだけかもしれませんが、彼らはその背景も全て推察しているのではないかと思っています。あなたがその法改正を進めるにあたって、苦しい胸の内を簡単にさらけ出すことができないことは、誰よりも彼らが間近で感じ取っているのではないでしょうか? 僕には彼らのあなたに対する態度から、敬愛と尊敬の念しか読み取れませんでした」

 すると、ユリウスの顔がたちまちのうちに喜びに満ちあふれ、瞳にはあの美しい光が煌めいていった。それを見ていたイェンスが僕の手を取るなり、「君は本当に美しいのだな」と言って微笑んだので、照れながらも感謝の言葉を返した。

 僕たちのありのままの能力は、すでに一般的な人間の限界を超えるものとなりつつあった。ありのままの能力を普通の人間の前にさらけ出し、いかんなく発揮して人間社会に貢献ができたなら、それはどんなにか素晴らしいことであろう。

 しかし、歴史が、史料がその実現がいかに厳しく、耐え難い孤独と悲壮な最期をもたらすかを如実に物語っていた。おそらく、シモとホレーショのような反応を示す人のほうが稀で、たいがいは周囲からの嫌悪と拒絶の中で生涯を終えるのだ。

「全て上手くいくよ」

 僕はつぶやくように言った。未来が恐怖で埋もれてしまうことの無いよう、蜘蛛の糸の細さほどの気休めに希望を込めたつもりであった。

「そうだな」

 イェンスが僕に寄りかかりながらささやく。ユリウスは優しく微笑んでうなずくと、やわらかい口調で言った。

「ありがとう、クラウス。君の言葉に大いに勇気づけられた」

 ユリウスの思いがけない言葉が嬉しく、またしても照れながらも心を込めて感謝の言葉を返す。ユリウスは優しく微笑んで受け取ったのだが、何気なしに時計に目をやると驚いた表情を浮かべて言った。

「おや、もうこんな時間か。私は睡眠時間を長く取りたい方でね。まだまだ話し足りないが、やはりそろそろ失礼して休もうと思う。君たちはどうする? もし、まだ起きているようだったら、ここもダイニングキッチンも自由に使っていい」

 その言葉を受けて時刻を確認すると、あと十分ほどで午前零時になろうかという時刻であった。イェンスを見ると、彼のまぶたにも心地良い疲れが訪れていた。

「いえ、僕も……僕たちも休みます」

 僕がそう伝えると、ユリウスは「ではこの部屋を片付けておくから、君たちは先に休みなさい」と朗らかに笑って返した。

「ありがとうございます。それではお言葉に甘えておやすみなさい」

 イェンスと僕が改めて挨拶をすると、彼は優しい眼差しで僕たちを見て言った。

「おやすみ、いい夢を」

 僕たちはリビングルームを出ると、真っ直ぐに宿泊する部屋へと向かった。クローゼットに用意してあった部屋着に着替え、スーツをハンガーにかけてから真新しい歯ブラシを持ってバスルームへと向かう。少しすると、イェンスが眠そうな顔でバスルームに現れ、お互いに無言のまま横に並んで歯を磨いた。僕たちがバスルームを出ようとしたその時、ユリウスが入れ替わりでやって来た。僕たちが改めて挨拶をすると、彼はあたたかい笑顔を添えながら「ゆっくり休むがいい」と言って歯を磨き始めた。

 それぞれの部屋に入る前に、イェンスと僕とで「おやすみ」と言葉を交わす。その時、彼が眠気を我慢してまで微笑んでくれたのがわかったので、僕はあたたかい気持ちで彼を抱きしめた。彼は僕をしっかりと抱きしめ返すと、あの美しい眼差しで「ありがとう」とささやき、小さくあくびをしながら部屋の中へと消えて行った。

 僕も部屋に入るなり、ふわふわのベッドに包まれるように全身を置いた。シーツの肌さわりも枕の寝心地も、何もかもが極上で心地良かった。明かりを消して耳を澄ませると、ユリウスの足音とドアが閉まる音がかすかに聞こえ、その後は部屋全体を覆う静寂だけが取り残される。

 ――僕はあのユリウスの家に泊まっているのだ。

 改めてそのことを考えると興奮しそうで、慌てて気持ちを落ち着ける。それでも隣の部屋にイェンスが、そして近くの部屋にはユリウスがいることに変わりがなかった。そのことに言いようもない力強さと安心を感じ、連帯感と幸福感とに満たされていく。僕は至福の世界に身を置いたまま、やがて深い眠りの世界へと落ちていった。

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